橋下徹の政界からの撤退を歓迎する
橋下徹の大阪都構想が頓挫した。市長の補完勢力となっていた公明党が維新大阪を見限ったことによって、大阪市議会で橋下が完全に孤立したからだ。これまでも、維新の落ち目は明らかだったが、これで決定的な挫折が明らかとなった。橋下は、事態の打開を目指して辞職し、新たな市長戦に打って出る意向とのこと。この出直し市長選で敗れた場合には、「橋下徹・松井一郎の2人とも政界を去る」と明言をした。是非とも、潔く完全に政界を去っていただきたい。それが、日本の民主主義のためなのだから。
この間、私は民主主義とは何かを考え続けてきた。民主主義に代わる政治形態はあり得ないが、民主主義が万能であるわけはない。国民の政治意識の成熟なくして、民主主義は容易にポピュリズムに転化する。民主主義が独裁をすら生みだしかねない。その危うさを橋下維新に見てきた。橋下の台頭は民主主義への警鐘であり、橋下の挫折は民主主義の辛勝を意味する。
民主主義とは権力形成の手続である。集団の成員が特定者に対して、権限・権能・権威を委託する手続と言ってもよい。その手続において、集団全体の意思をできるだけ正確に反映する権力を形成することが想定されている。それが、成員全体の利益になるはずという予定調和が想定されている。
しかし、そうして形成された権力が成員全体の利益を実現するとは限らない。むしろ、権力が成立した瞬間から個々の成員との対立矛盾が生じることになる。予定調和は幻想に過ぎないのだ。多くの現実例によって、多数派形成の権力が少数者の人権を侵害するものであることを明らかにしている。
とりわけ橋下である。彼は、ことあるごとに「民意は我にあり」と強調してきた。民意は選挙に表れている、選挙に勝つことこそ万能の権力の源泉、と振る舞ってきた。しかも、彼の民意獲得の手法は、意識的に選挙民を煽って「民意の敵」をつくり出すというもの。「敵」とされるものは、大企業でも高額所得者でもない。公務員であり、教員であり、労働組合なのである。鬱屈している民衆の身近にいる羨望の対象。これを「敵」と規定し、容赦ない攻撃によるカタルシスを選挙民にもたらす。こうした非理性的な集票手段によって成立する権力が、教育委員会制度を破壊し、極端な「日の丸・君が代」強制を実行し、職員の思想調査や、不当労働行為を頻発している。
大阪都構想は、本質的には、財界が新自由主義的な社会保障切り捨て策として待望している道州制へのステップである。しかし、選挙民の感性レベルでは、東京に対抗意識の強い大阪人のプライドをくすぐる策でもある。民主主義的理性に訴えるのではなく、民衆の感性と憎悪の感情に訴えることによって保たれる権力は、暴走の危険を孕むものである。橋下維新の危うさは、今や革新と保守とを問わず、大阪市議会で維新以外の全政党政派の共通認識になった。そのことが維新の決定的な孤立をもたらしている。
願わくは、来るべき大阪市長選挙おける反橋下統一候補の擁立である。都知事選の轍を踏むことなく、候補者選定の過程をオープンにし、各会派の共闘に知恵を集めていただきたい。民主主義の大義のために。
(2014年2月1日)