平和・民主主義・人権という憲法価値の実現を求める市民は、現状の司法消極主義を批判して司法積極主義を求めてきた。しかし、司法積極主義は両刃の剣だ。政権の解釈改憲にお墨付きを与える積極主義の合憲判決なら、憲法判断を回避する消極主義判決がまだマシだ。安倍内閣の解釈改憲を追認した12月5日安保違憲訴訟仙台高裁・小林久起判決は罪が深い。
(2023年12月6日)
安倍晋三の亡霊が各地を徘徊している。関係団体の資金を妻昭恵に集約したかと思えば、大阪夢洲の税金食い潰しに精を出し、昨今は永田町での裏金作りパーティ問題や、岸田文雄の統一教会との関わりにも一役買って、世の耳目を惹いている。あらためて、安倍晋三という人物の負の遺産の大きさと多面性を再認識せざるを得ない。この亡霊が、昨日(12月5日)は仙台高等裁判所に出た。
長く一貫して政府自身が違憲(憲法9条違反)としてきた集団的自衛権の行使。その解釈を変更したのが2014年7月の閣議決定、そして翌年強行採決で成立の「安全保障関連法」、別名「戦争法」である。政治を私物化し、歴史を改ざんし、公文書の改竄・隠蔽を繰り返し、国会では虚偽答弁を連発し、あらゆる部門の人事に手を突っ込み、国民生活に格差と貧困を招じて、日本に経済停滞をもたらし…、罪状数限りない安倍晋三だが、その最大の悪業は、集団的自衛権の行使を容認して日本を戦争の危険に曝したことである。
安保法制を憲法違反だとして、各地に集団訴訟が起こされた。全国22地裁・支部(計25件)に提起された訴訟で、これまで地裁と高裁で39件の判決が出ていた(「安保法制違憲訴訟の会」)。多くは違憲国賠訴訟だが、そもそも原告に具体的な権利ないし法的利益の侵害が認められないとして、憲法判断に踏み込んだ判決は一件もなかった。
そのような事態で、40件目となる昨日の仙台高裁判決を迎えた。事件は、福島県内の戦争経験者や家族ら170人が1人あたり1万円の国家賠償を求めた「ふくしま平和訴訟」の控訴審判決。実は、もしかしたら…、と期待と注目度の高かった判決。
もしかしたら…、の理由の一つは、裁判長が評判の良い小林久起裁判官だったからであり、もう一つの理由は、審理の過程で原告側から申請のあった証人長谷部恭男教授(憲法)を採用して裁判長自身が異例の長時間の尋問をしたからでもある。
しかし、現実は甘くなかった。「もしかしたら…」は実現せず、「ああ、やっぱり…」という控訴棄却の判決となった。
報道では、判決理由中の幾つかのリップサービスを好意的に紹介しているものもある。「憲法の基本理念である平和主義に重大な影響を及ぼす可能性のある憲法解釈の変更だ」「武力行使の限界を超えると解する余地もある」「解釈運用に、不確実性が生ずること自体は免れない」などの指摘についてである。しかし、結論は「このような限定的な場合に限り政府が一貫して許されないと解釈されてきた集団的自衛権の行使が、安全保障関連法によって憲法上容認されるとなったとしても憲法9条の規定や平和主義の理念に明白に違反し、違憲性が明白であると断定することまではできない」というものであった。
違憲と判断できないのであれば、行政・立法を追認しただけのこと。すべては、「安保国会」で政権側が説明したことを、期待の判決も容認したということなのだ。
判決後の記者会見で、原告側は「期待に反しての全面敗訴となった。安保法制を肯定し、政府の一機関になったといっても過言ではないような内容で、不当判決と言わざるを得ない」「政治が暴走したときに、ブレーキをかけるのが裁判所といわれているが、きょうの判決の内容は情けなかった。平和を求めるわれわれの戦いは子孫のためにも責任がある」と述べ、防衛省は「国の主張が認められたものと受け止めています」とコメントしたという。どちらも、そのとおりと言えよう。
問題は、この判決が憲法判断を回避せずに初めて踏み込んで、「安保法制は違憲とは言えない」と判断したことである。これを評価する向きもあるようだが、とうてい納得し得ない。
我々は、裁判官を励ましてきた。「勇気をもって憲法判断に向かい合え」「憲法判断から逃げてはいけない」と。憲法判断は、当然に保守政権の違憲政治を撃つことになるはずとの思いからである。ところが、小林久起判決は、逃げずに憲法判断を行って、あろうことか、安保法制に違憲とは言えないというお墨付きを与えた。
非戦のために戦力不保持を謳った憲法9条は、旧来の政府解釈では「憲法は国家の自衛権までは否定していない」「自衛のための実力部隊は禁じられた戦力に当たらない」とされて、自衛隊の存在と増強が容認されてきた。安倍政権はさらに一歩を進めて、集団的自衛権の行使を容認したが、小林久起判決はこれを追認した。
司法とは何のための存在かが問われている。我が国の三権分立は崩壊しつつあるのではないか。これも、あの妖怪安倍の亡霊の仕業であろうか。