怒りの15人、とある街角の宣伝行動
本日正午から、文京区の本郷3丁目交差点で、集団的自衛権行使を容認に反対する街頭宣伝行動を行った。昨日の夜になってからの呼び掛けに、「本郷湯島9条の会」を中心に、地元から15名が参加した。なかなかの規模ではないか。
初めて参加したという人が、「皆さんお知り合いなんですか」と聞く。改めて見渡すと、私が知らない顔も少なくない。私と妻は、急遽つくった手製のプラカードを持参した。出来合いのビラや、今日の新聞切り抜きを自分でコピーして多数枚持参した人もいる。それぞれが持ち寄りの「にわか手作り行動」。昨日の安保法制懇の報告書や安倍首相の改憲に、怒り心頭の人々が駆けつけたのだ。おそらくは、今日はこのような小さな規模の活動が、日本中の街々で行われたものと思う。
通行人のビラの受け取りはよい。マイクでの訴えに聞き入る人の手応えも十分だ。時代のキナ臭い空気に人々が不安を感じていることが伝わってくる。しかし、反対の立場から文句を言いたげな人もちらほら。印象に残った人が2人。
1人は、初老のサラリーマン風。「ひとつだけ聞きたい。中国が沖縄を侵略したときには、どうするんだ」とおっしゃる。これには驚いた。「今、問題にしているのは、個別的自衛権ではなくて、集団的自衛権の問題なんです。沖縄に武力攻撃があった場合というのは、明らかに個別的自衛権の問題ですから…、専守防衛の範囲で…」と説明が終わらぬうちに、「なんといわれても納得できない」と逃げるように行ってしまった。ひと言で、なんと説明すればよかったのだろう。「今問題になっているのは、『日本の領土が攻撃を受けたら』ではなく、たとえば『アラスカに武力攻撃があった場合にも、日本がアメリカと一緒に戦争してもよいのか』という問題なんです」というべきだったか。
もう1人。私の話をしばらく聞いていた若者が、「戦争に賛成、という意見があってもいいじゃないですか」と言った。これにも少々驚いた。戦争を肯定する意見というものを聞いてみたいと思って、「ちょっと待っててくれないか」と言ったが、立ち去ってしまった。せめぎ合いのボルテージが高くなりつつあることを実感する。
そのような雰囲気の中で、私の前にマイクを握った女性がこう訴えた。みんな、一人一人が、自分の言葉で語っている。
「集団的自衛権という言葉自体がごまかしです。自衛というのは、自分が攻撃されたときだけにあてはまる言葉。自国に攻撃がなく、他の国が攻撃されたときに一緒に戦うことを自衛戦争とはいいません。自分の国に武力行使がないのに他国に武力を行使することは、侵略ではありませんか。安倍政権が行使しようとしているのは、集団的自衛権ではなく、正確には集団的侵略権というべきです。わたしは、この集団的侵略権に断固反対します」
私は、マイクの話者が途切れれば、間をつなぐ役割。いくつかのスピーチをした。
☆昨日は、もしかしたら歴史の転換点として記憶されることになるかも知れません。安保法制懇が、安倍首相に「集団的自衛権行使の憲法解釈は可能」という報告書を提出し、これを受けた安倍首相が、集団的自衛権の行使を容認する解釈改憲に踏み出すことを宣言したのです。憲法にとっても、平和にとっても、民主主義にとっても、極めて危うい事態と言わざるを得ません。
☆安保法制懇とはいったい何でしょうか。何の法的根拠にも基づかない、私的な懇談会でしかありません。その人選は、安倍首相自身がしたもの。自分の言うとおりの報告書を書いてくれる人を14人探し出して任命しただけのこと。初めから結論は、分かりきっていました。いわば、自作自演にすぎないのです。
この報告を受けたかたちで、安倍首相が容認しようという集団的自衛権とはなんでしょうか。自分の国が攻撃されたときにやむを得ず反撃するのが自衛権ですが、集団的自衛権はまったく違います。自分の国が攻撃されてはいないのに、親密な国が攻撃されたら、攻撃された国と一緒になって、攻撃国との戦争に参加する権利というのです。アメリカが攻撃されたら、アメリカと一緒になってアメリカの敵対国と戦争することを意味します。これはたいへんなことです。個別的自衛権と違って、日本の外で、世界中のどこででも戦争ができるということにならざるを得ません。こうなれば、憲法9条が完全に死んでしまいます。
☆これまで、集団的自衛権はどう使われてきたか。集団的自衛権を行使してきたのは大国です。とりわけアメリカ。ベトナム戦争も、カンボジア出兵も、パナマ侵攻も、グラナダ侵略も、湾岸戦争も、アフガン戦争も、すべてが「同盟国が攻撃された。攻撃された同盟国から派兵の依頼があった」として、集団的自衛権の行使として行われました。世界中で戦争をすることの口実が集団的自衛権の行使なのです。日本には憲法9条があって、その効果として、集団的自衛権の行使はできないとされてきた。だから、朝鮮戦争にも、ベトナム戦争にも、日本は派兵しないで済んだ。イラクには自衛隊を派遣はしたが、武力行使は一切しなかった。9条が歯止めになったからです。
☆憲法とは、大切なものです。権力という危険なものを縛るためにある、歯止めのため、タガを嵌めるため、ブレーキをかけるためだと言ってもよい。とりわけ、安倍政権のような危険な権力者を縛るためにある。その政権を縛る縄は、われわれ国民がつくったもの。これが邪魔だとして、かってにこの縄を外してはならない。
☆憲法という権力を縛る縄は、変更は可能です。その手続きは、憲法96条に明記されているとおりです。両院の3分の2以上の賛成で発議し、国民投票で過半数の承認が必要。もし、政権が集団的自衛権行使が本当に必要だと思えば、正々堂々と国会と国民に訴えるのが筋。しかし、いま、どのような世論調査も、集団的自衛権行使を容認する意見は少数派でしかありません。筋を回避して、国会にも、国民にも諮らず、安倍内閣限りで解釈を変えてしまおう。そうすることによって実質的に憲法を変えてしまえるではないか。これが安倍政権のやり口。これが「解釈改憲」と言われるもの。姑息、裏口入学、禁じ手と評判が悪いのは当然です。
☆憲法9条は、けっして死文化していません。これまでの自民党政権が築いてきた解釈のしかたで9条は生きています。ひと言で言えば、9条の命じるところを「専守防衛に徹せよ」と理解する解釈。憲法9条は自衛権を否定するものではない。自衛のための最小限の実力は9条に禁止された「戦力」ではなく、自衛のために必要な最小限度の実力行使も9条の禁止するところではない。最小限度とは、現実に我が国が攻撃されたときに、国民を守るために必要な最小限のこと。つまりは専守防衛に徹する限りの実力をもつことと、行使することは可能ということ。裏返せば、専守防衛をはずれたら違憲ということでもあります。集団的自衛権は、当然のこととして専守防衛からはずれる行為、自衛のために必要な最小限度の実力行使とはいえません。したがって、集団的自衛権の行使が合憲として容認される余地はないのです。
☆今の安倍政権は、かつての幅広い自民党とはまったく違います。極右政党といって差し支えありません。しばらく、国政選挙がない。小選挙区制のマジックで掠めとった大量の議席を奇貨として、今が好機、できることは何でもやってしまえというのが、危険な安倍自民です。
☆集団的自衛権の論議は、これから本格化します。平和を守るため、子や孫の将来のため、戦争を招き寄せる安倍政権に批判の世論を大きく盛り上げていこうではありませんか。
(2014年5月16日)