「大飯原発差止」「厚木基地飛行差止」両判決非難の読売社説に反論する
昨日(5月22日)の読売社説が、大飯原発再稼動差し止めを命じた福井地裁判決を論難している。タイトルが「大飯再稼働訴訟 不合理な推論が導く否定判決」というもの。「不合理な推論」とは何を指しているのかが不明。「否定判決」は、さらに意味不明。「読売において否定すべき内容の判決」との意味らしい。判決に不快感を表明していることだけはよく分かるが、その根拠や理由の記載は極めて乏しい。「大飯再稼働訴訟判決批判 不合理な推論が導く否定社説」となっている。出来の悪い社説の典型というほかはない。
冒頭の一文が、「『ゼロリスク』に囚われた、あまりに不合理な判決である」という断定調。しかし、判決の論理のどこがどのように不合理なのかの指摘に欠ける。タイトルと冒頭の一文に期待して、読み進むと中身がすかすかで、肩すかしに終わる。「『再稼動ありき』に囚われた、あまりに不合理な社説」なのだ。
同社説は、判決の「不合理な推論」については指摘するところがない。判決の判断を論難する根拠として挙げるところは、「昨年7月に施行された原発の新たな規制基準を無視し、科学的知見にも乏しい」と、「福井地裁判決が最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである」の2点のみである。さて、この論難は当を得ているだろうか。
同社説は、「規制委の安全審査が続いていることを考慮すれば、その結論の前に裁判所が差し止めの必要性を認めるのは相当ではない」との趣旨を述べている。しかし、行政基準の妥当性を判断することは裁判所の主たる任務のひとつである。規制委の審査基準を尊重することがあってもよいが、それは納得しうる安全基準として十分な内容をもっていればこそのことであって、規制委の審査基準であるが故に裁判所を拘束するものではありえない。原爆症認定訴訟においても、水俣病認定訴訟においても、行政が決めた審査基準そのものの当否が争われた。裁判所は行政の審査基準の妥当性を否定して被爆者や患者を救済してきたではないか。公害でも、薬害でも、労働災害でも同様である。「規制基準にとらわれず、原告らの人格権侵害を予防した」判決は褒むべきではあっても、読売のいう論難の根拠にはならない。
また、「科学的知見にも乏しい」の内容に具体的指摘がなく、「科学的な新たな規制基準を無視していること」をもっての非難のごとくであるが、実は「社説子の論理的知見に乏しい」だけのことと言わざるをえない。
また、同社説は、「最高裁は1992年の伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、『極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている』との見解を示している」「原発の審査に関し、司法の役割は抑制的であるべきだ、とした妥当な判決だった」という。これは、読者を誤導するものだ。けっしてそうではない。
伊方原発訴訟(1号炉訴訟)は、わが国初の原発訴訟として注目された。最高裁判決第1号(1992年10月29日・第一小法廷)としても注目され、その判決はそれなりの重みをもっている。しかし、この判決は、「原子炉設置許可処分の取消を求める行政訴訟」におけるものである。今回の「人格権にもとづく差し止めを求める民事訴訟」とは、訴訟形態が大きく異なる。しかも、20年余も以前のもの。その間に科学的知見や原子炉の安全性に関する知見の積み重ねがあり、福島第1原発の事故もあった。伊方原発最判を引用するなら、もっと丁寧な論拠を示さねばならない。
読売社説の指摘部分は、最高裁はこう言っている。
「原子炉施設の安全性に関する被告行政庁の判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟における裁判所の審理、判断は、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門技術的な調査審議及び判断を基にしてされた被告行政庁の判断に不合理な点があるか否かという観点から行われるべきであつて、現在の科学技術水準に照らし、右調査審議において用いられた具体的審査基準に不合理な点があり、あるいは当該原子炉施設が右の具体的審査基準に適合するとした原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の調査審議及び判断の過程に看過し難い過誤、欠落があり、被告行政庁の判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、被告行政庁の右判断に不合理な点があるものとして、右判断に基づく原子炉設置許可処分は違法と解すべきである。」
要するに、「判決時の科学技術水準に照らし、審査基準に不合理な点があれば、原子炉設置許可処分は違法」というのが最高裁の立場かのだ。到底、大飯原発差し止め判例を批判する論拠たりえない。
しかも、伊方判決は、次のような判断をつけ加えて、挙証責任の転換をはかっている。
「原子炉施設の安全性に関する被告行政庁の判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟においては、右判断に不合理な点があることの主張、立証責任は、本来、原告が負うべきものであるが、被告行政庁の側において、まず、…審査基準…に不合理な点のないことを主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証を尽くさない場合には、被告行政庁がした判断に不合理な点があることが事実上推認される」
行政訴訟と民事訴訟、被告が国であるか電力会社であるか。判決時期の20年余のへだたり。慎重に違いを見極め、また共通する論理も見極めなければならない。読売社説は、性急に自説の結論を導こうとするあまり、牽強付会に最高裁判決をつまみ食い援用をするものとして説得力を欠く。社説として出来が悪いと言う所以である。
また、読売は、本日(5月23日)の社説に、厚木基地騒音訴訟で自衛隊機の夜間飛行差し止めを認めた横浜地裁判決にもブーイング。「厚木騒音訴訟 飛行差し止めの影響が心配だ」というタイトルで、「自衛隊の活動への悪影響が懸念される」と論じている。
「こうした判断は、嘉手納、普天間、小松、岩国、横田の5基地に関して係争中の騒音訴訟にも影響する可能性がある。基地の運用に支障が生じないとも限らない」とまで、国の立場にたってのご心配。
生活の快適を求める国民の声を抑えて、権力への迎合を優先する姿勢はジャーナリズムとはいいがたい。御用新聞というにふさわしい。拠って立つイデオロギーは、国家主義、軍国主義、国防最優先主義といわざるを得ない。国家あっての国民、国防あっての人権、軍隊なくして平和も国民の平穏な生活もないという考え方。だから、国民生活の不便は我慢させて、自衛隊の訓練を優先させるべきというのだ。ひと昔以前のスローガンの蒸し返しに等しい。連日の、恐るべき両社説。
(2014年5月23日)