澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

内閣に靖国参拝を合憲と強弁させてはならない

百地章さんという憲法学者が、産経新聞に「中高生のための国民の憲法講座」という連続コラムを執筆しておられる。その第58講が8月9日掲載の「首相の靖国参拝をめぐる裁判」というタイトル。産経新聞のコラムだから、ご想像のとおりの内容。

産経を読ませられている中高生が哀れになる。「百地さんの説くところは、オーソドックスではないんだよ」「百地さんの言ってることを鵜呑みにするのは危険だよ」「少なくとも、反対意見があることを念頭に置いて、反対意見に耳を傾けるべきことを忘れないでね」と言ってあげたい。

ところで、このコラムの中に、明らかに私(澤藤)への反論が書かれている。

今年の4月6日、私は、当ブログに「百地先生、中学生や高校生に誤導はいけません」という記事を掲載した。産経の講座・第40講として「首相の靖国参拝と国家儀礼」と標題する百地章さんの論稿が掲載された翌日のことである。やや長文ではあるが、ぜひ次のURLをご覧になっていただきたい。5点にわたって、百地説を批判している。今回の百地コラムへの反論も、先回りして十分に書き込まれている。
  http://article9.jp/wordpress/?p=2403

読み返すと、かなりの辛口。再掲すればこんな調子だ。
「この方、学界で重きをなす存在ではないが、右翼の論調を『憲法学風に』解説する貴重な存在として右派メディアに重宝がられている。なにしろ、「本紙『正論』欄に『首相は英霊の加護信じて参拝を』と執筆した」と自らおっしゃる、歴とした靖国派で、神がかりの公式参拝推進論者。その論調のイデオロギー性はともかく、学説や判例の解説における不正確は指摘されねばならない。とりわけ、中学生や高校生に、間違えた知識を刷り込んではならない」

あるいは、
「この論稿を真面目に読もうとした中学生や高校生は、戸惑うに違いない。百地さんは、靖国公式参拝容認という自説の結論を述べるに急で、政教分離の本旨について語るところがないのだ。なぜ、日本国憲法に政教分離規定があるのか、なぜ公式参拝が論争の対象になっているのか、についてすら言及がない。通説的な見解や、自説への反対論については一顧だにされていない。このような、『中高生のための解説』は恐い。教科書問題とよく似た『刷り込み』構造ではないか。」

百地さんは、私のこのような辛口批判に対して感情的な反発をすることなく、反論を展開している。それが説得力あるものとして成功しているかはともかく、論争の姿勢には評価を惜しまない。私の批判を無視しなかったことにおいて、紙上で私の批判を紹介しつつ反論していることにおいて、私は見直している。

言論には言論をもって対抗すべきが当然である。私は表現の手段として当ブログをもっている。百地さんは産経新聞だ。産経・百地論説がまずあり、私がブログでこれを批判して、その批判にまた産経を舞台に百地さんが反論した。準備書面の交換という過程を通じて争点が煮詰まりやがて判決に結実するがごとく、言論の応酬は読み手に問題の所在を提示し深く考えさせ、成熟した判断に至らしめる。

産経に対抗しての当ブログ、現実にはその影響力の大きさは比較にならないが、社会に発信する手段を個人として有していることの意味は大きい。私も、個人として、このツールをもって「思想の自由市場」に参加の資格を得ているのだ。現に百地さんは私のブログに目を留めて、産経紙上で反論しているではないか。

私への反論というのは、2点についてである。

第1点は、判決文中の「傍論」の理解についてである。
「弁護士でありながらこのこと(傍論は判決(判例)とは言えません)をご存じないのか、それとも「中高生を誤導」するためなのか、『高裁レベルでは内閣総理大臣の靖国参拝を違憲と述べた判決は複数存在する』と強弁する人がいます。靖国訴訟や君が代訴訟などで原告側の代理人を務めてきた弁護士です。しかし、彼が挙げているのはすべて『傍論』です」

第2点は、愛媛玉串料訴訟大法廷判決の理解についてである。
「この弁護士はブログで、靖国参拝についての最高裁の判断はまだないが、近似の事件として公費による靖国神社への玉串料支出を違憲とした愛媛玉串料訴訟判決がある、ともいっています。」「この問題の判決を引き合いに出して、『首相の靖国参拝は違憲』との判決が期待できると主張しているわけです。本当でしょうか。

この弁護士は、私以外にはあり得ない。以上の2点についての再反論は、4月6日ブログで十分だと思う。

問題は次の点だ。
「最高裁判決が存在せず、しかも下級審でも違憲とされていない以上、第40講で述べたとおり、国の機関である首相が依(よ)るべきは『首相の靖国神社参拝は合憲』とする『政府見解』(昭和60年8月)と考えるのが自然です。これは旧社会党首班の村山富市内閣さえ踏襲し、現在の政府見解でもあるのですから。」

これは、安倍内閣の集団的自衛権行使容認論における言い分そのままである。「最高裁判決で違憲と判断されない限りは、私が憲法解釈の権限をもっている」というもの。この安倍政権の傲慢さに国民が警戒を始めた今、安倍政権に理性ある態度を求めるのではなく、さらなる暴走をけしかける役割を買って出ているといわざるを得ない。

しかも、愛媛玉串料訴訟大法廷判決は、靖国懇の答申のあとに出ているのだ。目的効果基準を適用してなお、13対2の圧倒的な評決で大法廷は違憲と判断した。これこそ判例としての解釈基準の設定である。傍論ではない。内閣は、憲法に縛られている立ち場にあることを重く受けとめねばならない。玉串料の奉納程度でも違憲とされた、と解しなければならない。国家と宗教との過度の関与として、この上ない首相の靖国参拝を合憲と、内閣自らが強弁するようなことがあってはならない。

下級審判決における違憲判断は傍論として斥け、大法廷判決は問題判決だから無視するという。これでは筋が通らない。結局は靖国参拝合憲と言いたいだけなのだ。安倍内閣も、百地教授も。
(2014年8月11日)

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