「日の丸・君が代」は国民統合の理念をもっていない
東京「君が代」裁判(4次訴訟)の準備書面を起案中である。今回は、被告の積極主張への反論。その一部を紹介したい。弁護団会議の議論を経ての起案だが、最終稿ではない。
被告(都教委)は「日の丸・君が代」が国旗国歌として法制化されたことを、「日の丸・君が代」強制の根拠の一つに挙げている。そもそも、国旗国歌法は「日の丸・君が代」にどのような法的効果を付与したのだろうか。その問題意識からの論稿の一部である。
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政治学的あるいは社会学的に、あらゆる集団の象徴(シンボル)には、対外的な識別機能と対内的な統合機能とがある。日本国の象徴である国旗国歌にも、国際場裡において日本を特定するための対外的な識別機能と、国内的な国民統合機能とがある。
国旗国歌法は、識別機能にだけ着目して、統合機能を有することを意識的に避けた立法であるというほかはない。
統合機能は、当該の集団が共有する理念と結びついてのものである。著名な例としては、フランスの三色旗(トリコロール)において、その成立の過程はともかく、各色が自由・平等・博愛(友愛)という理念を象徴するものと理解されて、そのような理念における国民統合の機能を担ってきた。
翻って、「日の丸・君が代」の場合はどうであろうか。天皇の御代の永遠を言祝ぐ歌と、天皇の祖先とされる太陽神を形象した旗である。戦前には、天皇制国家の国旗国歌として、みごとな統合的機能を発揮した。旧時代の旧体制に、あまりにふさわしい国旗国歌であっただけに、1945年国家の原理が根源的に転換した以後、日本国憲法をもつ国家にふさわしくないとする見解には、耳を傾けるべき合理性を否定し得ない。「ふさわしくない」とは、「日の丸・君が代」が分かちがたく結びついている統合機能上の理念についてのことである。
かつての、「日の丸・君が代」が有した国民統合機能の理念が現行憲法に照らしてふさわしくないことには疑問の余地がない。それでもなお、「日の丸・君が代」は、過去の国民総体の記憶と切り離して、新しい何らかの理念と結びついて国民統合の機能をもちうるだろうか。被告の立場はこれを肯定するもののごとくである。
しかし、国民の記憶に、「日の丸・君が代」と天皇制や侵略戦争との結びつきは払拭しがたい。その結果、国旗国歌法が「日の丸・君が代」に対して、現行憲法に適合的な新たな理念を象徴するものとして、何らかの統合的機能を付与したと理解することには無理があるというほかはない。
国旗国歌法の提案と審議の過程では、およそ「日の丸・君が代」の統合的機能の内実や理念について語られることはなかった。むしろ、慎重に避けられたといってよい。そのようにして、「日の丸・君が代」を国旗国歌とする法が成立している。このことは、国旗国歌の対外的識別機能は認められても、対内的な国民統合の機能は認めがたいといわざるを得ない。
したがって、「日の丸・君が代」が国旗国歌として法制化されたことが、国民への「日の丸・君が代」ないしは国旗国歌強制に何らの意味をもつものではないというべきなのである。
以上のとおり、「日の丸・君が代」についての被告の主張も、原告主張への反論も失当という以外にない。
(2014年8月19日)