「失望と侮り」の司法から脱却するために
本日(3月20日)の朝日「耕論」に、宮川光治さんの聞き書きが掲載されている。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11659534.html
一票の格差問題についての、昨日(3月19日)の東京高裁合憲判決を素材とするもの。元最高裁裁判官のものの考え方の枠組みを示すものとして興味深く読んだ。
宮川さんは、こう言っている。
「わが最高裁は、先進国の最高裁判所や憲法裁判所と比べて、国会や内閣に対し最も敬譲を示してきたと思います。ある米国の学者は、『世界で最も保守的な憲法裁判所であるとみなされている』と言っていますが、少なくとも近年まではそのような評価を受けても仕方がありませんでした。」
なるほど、ものは言いようだ。「わが最高裁は、国会や内閣に対して弱腰」とか、「過度に遠慮がある」とか、あるいは「違憲判断に臆病」などとは言わない。「敬意を表し謙譲の姿勢を示している」というわけだ。さすがに、品のよい物言い。
これに続く一文が、いかにも宮川さんらしい。
「『緩い打ちやすいボールを投げれば、的確に打ち返してくれるだろう』という信頼を最高裁が政治の側に持ち続けたからだと、私は考えています。」
わが最高裁の国会や内閣に対する礼節を尽くした接し方は、相手に対する信頼があってのことというわけだ。あからさまに違憲判決を出して立法や行政を批判せずとも、穏当なものの言い方で、最高裁の意のあるところを忖度して呉れるだろう。その上で適切な対応がなされるに違いない。そう思って違憲判断を控えてきた。
このことが「剛速球ではなく、緩い打ちやすいボールを投げてきた」、と表現されている。違憲判決という剛速球で国会や内閣をねじ伏せることは好ましくない。むしろ、結論は違憲判決になってはいなくても、その判決理由に柔らかく問題を指摘しておけば、立法も行政も司法の意を汲んで、的確な反応をしてくれるはず。これが、「最高裁の投げたボールを的確に打ち返してくれるだろう」という表現になっている。
にわかに全面的賛意を表明しがたいが、なるほど上手な説明の仕方だと思う。もちろん、説明がこれで終わっては何の意味もない。宮川さんの真骨頂は、これに続く次の言葉。
「しかし、そのボールが見送られたり、弥縫策というファウルを打たれたりすることが長く続く中で、司法への失望や侮りが生まれました。」
最高裁は、国会や内閣が打ち返しやすいような、バッティングピッチャー役を務めていたというわけだ。きちんと打ち返してもらうように期待を込めて投げた打ち返しやすい球を、打者である立法や行政は打とうともせずに見送ったり、見当違いの方向に打ち返したり、最高裁の期待に外れた対応が長く続いた。まったくそのとおりだろう。その結果、何が起こったか。
何よりも、国民の司法への「失望」である。「最高裁は憲法と人権の守り手」であるはずが、「最高裁は権力の番犬」と揶揄される事態になっている。国民は、「どうせ裁判所へ行っても、政権の言うとおりの腰の引けた判決しか期待できない」と、司法に失望しているのだ。これは裁判所が本質的な意味で国民に見捨てられたことを意味する。この事態は、人権の危機であり、民主主義の危機でもある。
そして、国会や内閣の司法に対する「侮り」である。何をやっても、最高裁が違憲判断をすることはない。立法裁量、行政裁量に歯止めなどないのだ。という、侮りである。これも人権と民主主義の危機である。
宮川さんは、以上のことを意識して、最高裁自身が変わろうとしているという。
「国民の主体意識が高まり、権利のための闘争が広がる。そして、グローバル社会の進展は、普遍的価値を基準とする社会の構築を司法に求める。そうした時代の大きな変化を背景として、明らかに最高裁は様々な課題について積極的に憲法判断をする方向にかじを切りつつあります。『一票の価値』についても、司法の役割を積極的に果たそうという方向性が揺らぐことはないと思います。」
是非、そうであって欲しい。期待したい。
フランス人権宣言第16条が、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」と定式化して以来、人権を守るための三権分立が、自由主義憲法統治機構の基本構造となった。しかし、三権相互の関係の在り方は、各国それぞれである。我が国の最高裁が、ゆるいボールを投げ続けている間に、立法と行政の侮りとそのことによる司法の劣位が定着してしまったのではないか。ゆるいボールは、はたして的確に打ち返すことを期待してのものであったかにも疑問が残る。
悪名高い「10・23通達」にもとづいて教員に対する「日の丸・君が代」の強制が許されるか。この問題について最高裁は、確かに「緩いボール」を投げる判決を言い渡した。東京都の教育行政に敬譲を示して違憲判断は回避した。しかし、間接的には思想良心の侵害になることまでは認め、戒告を超える懲戒処分は懲戒権の濫用として違法とした。ここには、教育の場に相応しからざる都教委の強圧的姿勢に対する批判を読み取ることができる。多数の補足意見において、その批判はさらに明確である。宮川さんは、これを「的確に打ち返してくれるだろう」との信頼を前提とした判決だというのだろう。10・23通達体制派は、最高裁によって違憲判断はかろうじてまぬがれたが、褒められてはいない。見直しを求められている。
ところが、都教委はこの期待にまったく応えるところはない。そもそも信頼に足りる相手ではない。品格とかディーセントとはまったく無縁の存在。「緩いボール」を投げたところで、投手の意図を忖度できない愚かな打者には意味がない。こんな輩に対しては、剛速球でねじ伏せるしかない。それ以外に都教委のごとき行政の無頼を矯正する手段はないというべきだろう。
次のイニングには都教委にストライク・アウトの宣告をしなければならない。それこそが、国民の司法への信頼を取り戻し、行政の侮りをなくする唯一の道である。
(2015年3月20日)