法とは、チョウ(沖縄)を縛り、カブトムシ(国)には破られるものなのか。
法とは蜘蛛の巣のようなものだ。チョウはつかまり、カブトムシは突き破る。
うろ覚えだが、チェコの諺だと聞いた憶えがある。うまいことをいうものだ。どこの国でも、これが庶民の実感であったろう。もちろん真実を衝いている。
庶民の感覚ではこういうことだ。法は権力者がつくる。民衆を取り締まることによって支配の秩序を形づくるために。法は支配の道具なのだ。だから弱い立場の庶民は、法につかまり、法に裁かれて、法に恨みを遺すことになる。法は権力者がつくった蜘蛛の巣で、庶民をチョウとして絡め取るのだ。結局のところ、法は庶民の敵対物にほかならない。遵法精神とは、権力者に都合のよいだけのイデオロギーに過ぎないではないか。
これとは対照的に、法をつくる強者の側はカブトムシだ。法に絡め取られることはない。法を無視し、法をないがしろにして、法に縛られることがない。
近代立憲主義とは、この伝統的な庶民の法に対するイメージを逆転させるものとして成立した。法体系の元締めに位置する憲法とは、最強者である権力を縛るためにある。日本国憲法99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」に、この憲法を尊重し擁護する義務を負わせている。天皇と、国務大臣(行政)、国会議員(立法)、裁判官(司法)の三権の担い手を列挙して、これに対する命令をしているのだ。
この憲法の理念を単なるタテマエにしてしまっては近代立憲主義国家は崩壊しかねない。抜きがたい法に対する庶民のイメージを克服することなくして民主主義国家の健全な発展はありえない。カブトムシもチョウも等しく法に服さねばならない。いや、むしろカブトムシの側に法は厳格に適用されねばならないことが、実例として示されなければならない。
ところで、法律の多くも、憲法に基づいて国の権力行使の横暴から国民の権利を守るためにある。その典型の一つが、行政不服審査法である。
行政不服審査法第1条1項は、「この法律の趣旨」を定める。その骨格は、「国民に対して広く行政庁に対する不服申立てのみちを開くことによつて、簡易迅速な手続による国民の権利利益の救済を図る…ことを目的とする」というもの。
国民の権利利益をまっとうするためには、行政の横暴を許してはならない。そのための行政不服審査手続が法定されている。ここで想定されているのは、国民対行政の対峙の図式である。
国民はチョウではない。行政に絡めとられた場合には不服申立の権利が保障されている。沖縄県の水産行政に関する行為によって住民の権利ないし利益が侵害された場合には、住民が審査請求という形式で農水大臣宛に不服申立をおこなうことを法は想定している。たとえば、沖縄県知事が漁民に対して付与していた漁業の許可を取り消したとする。漁民がこれを違法として争う場合には、農林水産大臣宛に審査請求手続をすることになる。岩礁の破砕許可についても同様で、審査請求は国民が起こすものと想定されている。
ところが、この度の防衛局から農水大臣宛の審査請求は法が想定するものとは著しくことなっている。まず、沖縄県から防衛局に対する辺野古沖埋立工事の停止指示が出されて、これに対して、国(防衛局)が沖縄県の行為に不服ありとして、国(農水相)に審査請求をした。国民が行使することを想定される権利を国が主張しているから非常に問題がわかりにくいものとなっている。国民の権利を擁護するとは、行政の横暴を抑制することと表裏の関係にある。行政とは内閣が司るところであり究極的には、主体は国である。沖縄県よりも強い立場にある国が、国民と同じ立場で権利主張をし、農水大臣への審査請求を申し立てる構図。沖縄県の指示に不服として、審査請求の申請人が防衛局長であり、審査請求の申立先が農林水産大臣ということになっている。
防衛省から農水省に対してする審査請求なのだ。この2者のトップはいずれも閣議の一員という関係。同じ穴のムジナと言われてもやむを得ない。こうなれば、沖縄県はチョウに過ぎず、防衛局(=農水相)がカブトムシであることが見えてくる。国民の権利擁護の構造が消え失せて、「それ見ろ。やはり法はチョウだけをとらえて、カブトムシはつかまえない」「これが、法運用の実態なのさ」と言われかねない。
政権は、手続的な正義を大切にしなければならない。李下において冠を正してはならないのだ。沖縄県に敬意を表して、まずは工事を停止し、協議のテーブルに着くべきであろう。
沖縄県への敬意とは、沖縄県民の辺野古新基地建設ノーという選挙に表れた圧倒的民意への敬意でもある。民意の尊重は、民主々義の基本のキではないか。国は、沖縄の民意が前知事の時代とは大きく変わったことを受容しなければならない。みっともなく形式主義を貫ぬこうとすれば、国民から「やはり法とは蜘蛛の巣のようなものだ。チョウは縛っても、カブトムシには突き破られる」と見すかされるだけではないか。
(2015年4月2日)