喫煙権2分説ー「吸煙権」擁護と「吐煙権」規制
WHOは5月31日を「世界禁煙デー」としている。日本では、同日から6月6日までが禁煙週間とされている。厚労省のホームページによれば、世界禁煙デーのテーマが「Raise taxes on tobacco」とのこと。日本では「オールジャパンで、たばこの煙のない社会を」という、両者ともなんともひねりも工夫もない平板な標語。標語の出来はともかく、このようなキャンペーンはけっこうなことである。
私は20代の一時期喫煙していたことを悔やんでいる。タバコが自らにだけではなく家族への害あることを知って止めた。もう40年ほどはまったく吸っていない。それでも、肺がんを患って手術した。担当医師の「受動喫煙の環境にあったからでしょうね」とのつぶやきが忘れられない。幸いなことに手術(右上葉切除)で予後は良好、転移も再発もないが、以来タバコは仇同然である。
個人的に、世の中の嫌いなものをならべれば、まずは戦争、そして核兵器と原発、賭博に暴力団に天皇制、その次くらいにタバコがくる。私のカバンには、「日の丸・君が代」強制反対とならんで、禁煙マークのステッカーが貼り付けてある。
大嫌いなタバコだが、私はけっして権力的タバコ規制に積極派というわけではない。最近は肩身の狭い愛煙家の、「喫煙という嗜好の享受は、幸福追求の権利の一端として保障されなければならない」という、あまり力のはいらない主張にも、耳を傾けている。強権的な喫煙禁止立法に、賛成すべきか反対か悩ましい。憲法上の問題は生じないのだろうか。
私は、ずいぶん以前から愛煙家に言ってきた。「誰にだってタバコを吸う権利はある。喫煙は人権だ。私はあなた方の『吸う権利』を断固擁護する」。しかし、「『吐く権利』となれば話は別だ。煙を吐くことは必ずしも断固守られるべき権利ではない」「対抗人権を考慮して制約あってしかるべき」「端的に言えば、吸ってもよいが、吐いてはいけないということだ」。
煙を吸う権利を「吸煙権」と名付け、吐き出す権利を「吐煙権」としよう。この両者を区別して、前者を絶対的権利とし、後者を場合次第で規制可能な権利と考える。
論理の遊びだが、案外これが憲法論の本質を衝いた議論なのだ。発がん物質を含むタバコの煙。これを多少の害あるものと知りつつ我が身に吸い込むことは、自己決定権の行使として、他からとやかく言われる筋合いではない。権力的規制をなし得るところではない。
しかし、発がん物質を含んだ煙を吐き出すことは、他人の人権との関わりを生じることになる。他の人の「健康に生きる権利」、「健康被害のリスクを回避する権利」、「不愉快な臭いから自由である権利」等々と衝突する恐れがある。人権が衝突する局面での調整原理が必要となり、これが規制を合理化する根拠となる。
発がん物質は、社会的には確実に一定数の発症者をつくり出すが、個人だけをとってみれば自分が発症する確率はけっして高くはない。これをどう扱うべきか、微妙な問題が残ることになる。また、受忍限度論という考え方もある。社会生活を送る上では、一定の限度を超えない限りの不愉快さは受忍(我慢)しなければならない、というもの。受動喫煙者側に「社会生活を送る上で喫煙くらいに目くじら立てるなよ」と受忍限度を超えていないと説得すべきか。それとも、愛煙家の側に受忍を説いて「自分の家を一歩出たら喫煙くらい我慢しろよ」というべきか。
感性レベルでは、「タバコよ、タバコ。この世からなくなってしまえ」と思いつつ、理性のレベルではこの思いにブレーキをかけている。法的制裁をもって強権的にタバコを撲滅しようという、キレイすぎる社会の不気味さに反感を禁じ得ないのだ。
タバコの害は認めつつも性急な権力的規制には慎重であるべきが、成熟した社会の在り方ではないか。まずは分煙。そして規制についての社会的合意の形成を見極めるべきだろう。
愛煙家側は、「一服しながらよく考えてみよう」というところ。私の方は、煙に巻かれぬよう用心しつつ、性急な権力的規制を避けながらもタバコのない社会を目指したい。
(2015年6月1日)