澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

18歳諸君、ワタクシ安倍晋三の歴史認識と憲法論を聞け

昨日(6月17日)改正公職選挙法が成立した。これで、18歳のキミたちにも選挙権が与えられる。国政選挙・地方選挙で投票ができるだけではない。憲法改正国民投票の権利が君たちのものとなる。憲法を変えて新しい国の形を作ることが、君たち若者の役割だ。そのための18歳選挙権だということを肝に銘じていただきたい。憲法改正を期待されている君たちに私のホンネを語るから、心して聞きたまえ。

君たちにとっては古い歴史でしかないかも知れないが、70年前までの我が国は、皇紀輝く強国だった。富国強兵をスローガンとした一億一心の国柄で、台湾を植民地とし、朝鮮を国土に組み入れ、満州の建国を助けた。しかも、皇国の対外政策は、西欧列強に虐げられた東亜の民族の解放であり、五族共和の王道楽土建設という崇高な理想を目指すものであった。

ところが、我が国の精強と東亜の解放を快く思わぬ勢力に対して、我が国の生命線である満蒙の権益を守るために、自存自衛の戦争を余儀なくされた。我が軍と国民は一体となり、ナチズム・ドイツやファシズム・イタリアを盟友とし、世界を敵にまわしてよく闘った。

時に利あらずして善戦もむなしく我が軍は敗れた。しかし、果敢な健闘は皇国臣民としての矜持に照らしていささかの恥じるところもない。遺憾とすべきは、経済的生産力において欧米に比肩し得なかったことのみだ。臥薪嘗胆して、再び敗戦の憂き目を見ることのない強国を作り直さねばならない。これが、「日本を取り戻す」と私が常々唱えている内容だ。

ところが、戦後は風向きが変わった。「富国」はともかく、「強兵」のスローガンが吹き飛んでしまっている。挙国一致に代わって、個人の尊重だの、憲法だの、平和だの、人権だの、そして自由だのというゴタクが幅を利かせている。これでは他国から侮られるばかりではないか。私が、「戦後レジームからの脱却」をいうのは、そこを嘆いてのことなのだ。

戦後謳われた理念のなかで「民主主義」だけが唯一素晴らしいものだ。私の理解では、民主主義とは、選挙に勝ったものにオールマイティの権限を与えるもの。このような民主主義観は、私とウマが合う橋下徹も認識はおなじだ。選挙という神聖な手続を通じて、国政を任された私だ。次の選挙で主権者の意思が私を否定するまでは、ぐずぐず言わずに私に任せておけばよいのだ。

それに対して、「権力も憲法の矩を超えられない」とか、「憲法は権力を縛るためにある」とか、立憲主義とは「民主的に構成された権力といえども手を付けてはならない原則を定めること」などと、七面倒な小理屈が聞こえてくる。そんなことを言ってる奴に、「黙れ、非国民」と言ってやりたいが、残念ながらいまはさすがにそうは言えない。せいぜいが、「ニッキョウソ」「はやく質問しろよ」とヤジる程度で隠忍自重せざるを得ない。

18歳のキミたちに聞きたい。どうだね、憲法がこんなものなら有害だとは思わないかね。私は、日本の国家と国民の安全を守るために、精一杯働こうとしている。憲法がその私の手を縛るとすれば、憲法こそ国家と国民の安全の敵ではないか。憲法を守ることと、国民の利益を守ること、この二つを較べてどちらをとるのか。私は躊躇なく国民の利益をとるね。それがなぜ叩かれるのか、いまだによくわからない。

やはり昨日(6月17日)の党首討論で、この点が浮き彫りになった。このことを伝えるNHKニュースWEB版の報道が私の問題意識をかなり正確に伝えている。さすがは、NHK。「政府が右といえば左とは言えない」の言葉を実践している。これを素材に憲法を語っておきたい。

安全保障関連法案を巡り、安倍総理大臣は党首討論で、憲法解釈の変更の正当性、合法性は完全に確信を持っていると述べました。

キミたちも参考に覚えておきたまえ。自信のないときこそ、断乎たる口調で結論だけを繰り返すのだ。根拠や理由までは言わなくてもよい。人柄のよい大方の国民は、それだけで納得してくれる。マスメディアも、産経と読売だけではなく大方は私の味方だ。私の味方をした方が得になることは皆心得ている。メディアも上手に私をフォローしてくれる。

憲法学者からは、国際情勢に応じて憲法解釈が変わっていくのは当然のことだという意見がある一方、なぜ法案が憲法違反ではないと言えるのか、明確な説明はなかったという指摘もあります。

さすがは、政府子飼いのNHKの報道。これだと、まるで憲法学者の意見が半々に分かれているような錯覚を与えるだろう。あとで、籾井勝人を褒めておかなくてはならない。

安全保障関連法案を巡り、菅官房長官が、違憲ではないと主張している憲法学者の1人として挙げた中央大学の長尾一紘名誉教授は、党首討論の内容について「環境の変化に応じて憲法解釈が変わっていくのは当然のことだ。どこまでが必要な自衛の措置に含まれるかは、国際情勢を見ながら判断していくべきだという安倍総理大臣の説明は、ポイントを押さえている」と指摘しました。

事情をよく分からぬ人が聞けば、長尾一紘が多くの憲法学者の意見を代表する立場にあると誤解してくれるだろう。そこが付け目だ。しかも、「環境の変化に応じて憲法解釈が変わっていくのは当然のことだ」と憲法学者にお墨付きをいただいたのだから、ありがたい。これこそ、立派な先生だ。

我が国を取り巻く安全保障環境が変わったのだから、これまでは集団的自衛権行使は違憲だと言っていたけれども、この度は合憲としたのだ。どのような軍事行動ができて、どのような軍事行動が禁止されるか。それは、「環境の変化」次第。環境の変化の有無は、私が責任をもって判断する。できることとできないことを総理が仕分けする。これこそが、「ポイントを押さえている」ということだ。

そのうえで、「法案が分かりにくいのは確かだが、安全保障に関することを、すべての国民が詳しく理解するのは難しく、基本原則を説明したうえで法案の成立を図るべきではないか」と述べました。

そのとおりだ。この先生はものがよく分かっている。「安全保障に関することを、すべての国民が詳しく理解するのは難し」いのは当然だ。だから、選挙で選ばれた私を信頼すればよいだけの話。信頼できなければ次の選挙で落とせばよい。それが民主主義というものだろう。

一方、衆議院憲法審査会の参考人質疑で法案は憲法違反だと指摘した早稲田大学の長谷部恭男教授は、「法案がなぜ憲法違反ではないと言えるのかについて、安倍総理大臣から明確な答弁、説明はなかった。相変わらず砂川事件の判決を集団的自衛権行使の根拠にしていたが、この判決からそうした論理は出てこない」と指摘しました。
そのうえで、「これまでの憲法解釈を1つの内閣の判断でひっくり返すことを認めれば、今は憲法違反とされている徴兵制も、その時々の内閣の判断で認められることになりかねない」と述べました。

こういう輩を曲学阿世の徒という。国家よりも、国民よりも、憲法の字面が大切という人種だ。あろうことか、徴兵制までもちだして、これで若者諸君を脅かしたつもりでいる。

ところで18歳の諸君、私だって憲法を守らないとは一言も言ったことはない。ただし、憲法のイメージがずいぶん違うようだ。キミたちは、憲法という枠組みの素材はどんなものとお考えかな。鋼鉄? 木材? ガラス? 陶器? それともコンクリートかな?

私は、憲法はゴムでできているのだと思う。あるいは粘土だ。伸縮自在で融通無碍なことが大切なのだ。所詮、憲法とは道具ではないか。使い勝手のよいものでなくては役に立たない。

それにしてもだ、ゴムの伸び縮みにも限度がある。もっともっと使いやすいものに取り替えたいというのが、私の望みなのだ。だから、18歳諸君。私に力を貸していただきたい。憲法改正に邁進し、再び他国からないがしろにされることのないよう、いざというときには戦争ができる国をつくろうではないか。そしてけっして戦争では負けないだけの精強な軍隊を作ろうではないか。キミたち若者が真っ先に兵士となって戦場に赴き、祖国と民族の歴史を守るために、血を流す覚悟をしてもらいたい。そのための、18歳選挙権であるということを肝に銘じて忘れないように。
(2015年6月18日)

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