五輪は聖域か? 国立競技場は聖地なのか?
本日の各紙社説が、新国立競技場の建設計画白紙撤回問題を取り上げている。表題は以下のとおり。なお、日経は別のテーマ2本となっている。
朝日 新国立競技場問題―強行政治の行き詰まりだ
毎日 「新国立」白紙に 混乱招いた決断の遅れ
東京 新国立競技場 やっと常識が通ったか
読売 新国立競技場 計画の白紙撤回を評価したい
産経 「新国立」白紙に 祝福される聖地を目指せ
表題が各社説の姿勢をよく表している。一見政治性の希薄なこのテーマが、鮮やかに各紙の政権とのスタンスのとりかたをあぶり出している。朝日・毎日・東京が、それぞれの個性を出しつつ安倍政権批判を明確にし、他の重要課題と通底する問題の根を指摘した上で、この問題での厳しい責任追及の必要を説いている。3紙ともさすがに立派な社説だが、とりわけ朝日の問題意識の鮮明さと熱気に敬意を表したい。
これに比較して、読売・産経の問題意識の低さは目を覆わんばかり。「首相の判断は遅きに失したとはいえ、適切である」という以上の内容はない。文章の格調もまことにお粗末、そもそも読者に訴えるものが皆無なのである。こんなレベルの記事を読まされる読者は気の毒、一瞬そう思って考え直した。
メディアが読者を感化する側面だけでなく、読者がメディアを育てる側面もあるのだ。国民は自分たちのレベルに見合った政府しか持ちえない、あるいは、「この国民にして、この政府」ともいう。政府だけでなく、メディアも同じだ。安倍政権も、読売・産経も、今の国民意識が育てているのだ。政権とチョウチン・メディアの持ちつ持たれつ。読売・産経水準のメディアが、大手として存在していること自体が、この国の状況を物語っているというべきだろう。
先の自民党安倍応援若手議員の言論弾圧勉強会で、沖縄2紙が「潰せ」とやり玉に挙げられた。これに反論した沖縄タイムス・琉球新報2紙が、「県民意識に支えられ、県民世論に育てられた」と胸を張ったことが思い出される。読売・産経も、安倍政権支持派の右翼や保守に支えられ、育てられたのだ。読売・産経が、「メディアが権力と対峙する気概をもたず、提灯持ちでどうする」などという批判が通じる相手ではないことは明らかだが、その読者層も基本的に同類なのだ。読売・産経の購読者は、安倍政権御用達メディアの維持育成を通じて安倍政権提灯持ちに参画しているといわざるを得ない。
朝日・毎日・東京とも、競技場問題と戦争法案との関連について明確に触れている。同法案の取扱いが内閣の支持率を低下させる中で、国民の支持をつなぎ止める必要こそが新国立競技場建設計画の見直しの動機だという指摘である。この常識的な見方について、読売・産経はみごとなまでに一言も触れない。
朝日の問題意識とは、こういうことだ。
「問題の核心はむしろ、なぜ、この土壇場まで決断ができなかったのか、である。誰の目にも明らかな問題案件であり続けたにもかかわらず、なぜ止められずにここまできたのか。そこには、日本の病んだ統治システムの姿が浮かび上がる。すなわち、責任の所在のあいまいさである。」
この無責任体制が、結局は安倍政権の民意軽視の常態化をもたらしている。
「競技場問題が迷走した過程で一貫していたのは、異論を遠ざける姿勢だった。政策決定の責任者たちが、国民の声に耳をふさぐことが常態化している問題は深刻だ。」
したがって、問題はひろがりをもっている。
「民意を顧みず、説明責任を避け、根拠薄弱なまま将来にわたる国策の決定を強行する――。それは競技場問題に限った話ではない。国民が重大な関心を寄せる安保関連法案や、原発関連行政にも通底する特徴だ。」
「そのいずれでも国民の多数がはっきりと強い懸念を示している。国民の命と安全に直結する問題だというのに、首相は国会での数の力で押し通し、異論に敬意を払おうとしない。」「(安倍政権は、)安保も原発も、あらゆる政治課題でも、主役は国民一人ひとりであることを悟るべきだ。」と厳しい。
毎日も基本的に同旨で、
「安倍首相は記者団に対し『国民の声に耳を傾け』、方針転換を決断したと強調した。そうであれば、安保政策、沖縄の普天間移設問題、原発政策についても国民の声に謙虚に耳を傾ける姿勢を示してほしい。」と指摘している。
東京は、次のような論調。
「(首相の見直しが)国民の反対の声に真摯に向き合った結果だと、だれが素直に信じられようか」「今度こそ忘れてならないのは国民への情報公開と丁寧な説明、合意づくりの手続きである。神宮外苑の歴史や文化、水と緑の環境との調和を求める声は根強い。」
なお一点。産経の論調にひっかかるものがある。そのタイトルにある「祝福される聖地を目指せ」ということについてである。本文中には、「新たな計画には、五輪招致時に掲げた「アスリートファースト(選手第一)」の理念に立ち返ることが望まれる。」「五輪や競技場の主役は選手なのだ」と言っていることについて。
私は、オリンピックが国民的祝祭であるとも、そうであって欲しいとも思わない。国立競技場を国民的な聖地にすることなどはマッピラゴメンだ。税金を使ってアスリート主役の祭典を行うことには強い違和感を持ち続けている。アスリートなる人種に対しては、「人様の税金を使う身でいったい何様のつもりだ」という気分を拭えない。もっと優先順位の高い切実な税金の使途があるだろうと考えるからだ。
昔から、パンとサーカスが人民をたぶらかす為政者の常套手口だった。いまも、為政者がスポーツを国威発揚やナショナリズム昂揚やらの手口としている。コマーシャリズムがこれに便乗して儲けている。カネにまみれて薄汚いのがFIFAだけてあるはずはなく、オリンピックだって同じに違いない。そんな権力と資本に、税金を提供して舞台をしつらえるということが、バカバカしくも情けない。
財政に関わる主権者意識からは、冷ややかに五輪を見る醒めた目が必要だ。費用を縮小して当初案の1300億円が適正な規模だと考える根拠はない。飽くままで、ゼロベースからの出発であるべきだ。青空の下、原っぱにパイプイスをならべての開会式なんて、最高にエコでスマートでしゃれているではないか。ムシロを敷いて、世界中の人々が車座に座り込んでもよいではないか。
安倍も菅も下村も森も遠藤も、そしてJSCの河野一郎も、有識者会議の竹田恒和・小倉純二・安藤忠雄・佐藤禎一なども、人のカネ(税金)だと思って無責任に浮かれたのだ。立派な施設が必要だというのなら、まずそれぞれが1億円くらいの身銭を切ってはいかがだろうか。えっ? 公選法違反になる? いやそんなはずはない。仮にその恐れがあったところで、そこは皆さま脱法行為はお手のものではないか。
オリンピックが真に平和の祭典だとすれば、戦争法案をゴリ押ししている安倍政権がオリンピックを組織すること自体を自己矛盾というべきではないか。憲法9条を大切にする日本であってこそ、オリンピック開催の資格があろう。月桂冠を掲げつつ、後ろ手に銃を隠し持つ安倍の姿は、オリンピックに似つかわしくない。
(2015年7月18日)