澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

同性婚証明書発行拒否と、「日の丸・君が代」強制拒否と

A アメリカでは、連邦最高裁が今年の6月に同性婚を禁じた州法を違憲と断じて、今や全州が同性婚を認めているそうだね。
B けっこうなことではないか。同性婚の容認は、その社会の寛容度のバロメータだと思うね。個人の精神のあり方やライフスタイルの多様性を尊重するからこその同性婚だ。そんな社会は、個人を縛らない。だから誰にとっても生きやすいのだと思う。

A 何が、非寛容の原因だろうか。
B 一つは社会の多数派の倫理観だろう。これが強固な社会的同調圧力となる。もう一つは一部の宗教的信念だろうね。そのようなものが、政治と結びつくところがやっかいだ。

A 日本では、戦前までは結婚は子をなして家の存続や繁栄をはかるためのものとされた。しかし、現行憲法や戦後の民法は家制度を厳格に廃したじゃないか。いまだに、多数派の強固な倫理観が同性婚に非寛容かね。

B 家制度の残滓はこの社会の至る所にあるではないか。選択的別姓の制度すら、「醇風美俗に反する」という右派の攻撃を受けて実現しない。結婚式は、「ご両家」の主催で誰も怪しまない。女性には、良妻賢母が期待される‥。

A それはともかく、日本では宗教的な理由による強固な反対論は考えにくいが。
B 宗教一般が、同性婚反対というわけではない。しかし、宗教は結婚という制度に深く関わってきた。その宗教が、「神が愛し合うように男女を作り、結婚を祝福した」「同性の愛は神の意に沿わず、祝福の対象とはならない」と説くと、話は面倒になる。

A アメリカでは、法制度としての同性婚は認めても、宗教的信念から個人としては絶対に認めないという、反対派のボルテージも高いようだね。

B それを象徴する事件が起きた。一昨日(9月3日)、ケンタッキー州のある郡の行政担当者が、信仰上の信念から、同性婚に対する結婚証明書発行を拒否したという。連邦地裁からの命令も無視したとして、裁判所は法廷侮辱罪でこの郡の担当者を拘束して収監したとニュースになっている。

A この人、法廷で「神の道徳律と職務上の義務が一致しない。判決に従うことは良心が許さない」と述べたそうじゃないか。「自分の内心が命じる思想や良心」と、「職務上の義務」の不一致は、往々にしてあることではないか。外部からの強制を排して、内心の声に忠実になるというのは立派な行動とは言えないか。
B むずかしい問題を含んでいるが、公務員が明らかに合法で正当な目的をもち、かつ行政に真に必要な自分の職務を拒否することは原則として許されない。結論としては、そう考えざるを得ない。

A たとえば、敬虔なクリスチャン教師が、聖書に書いてあることは真実だという信念から、公立学校の歴史の教科において「天地と生物界は、神が7日かけて創造した」「進化論は間違いである」と教えることはどうなのだ。
B 教員は自己の信念にかかわりなく、文明が真実と確認している事項を生徒に教える義務を負っている。これを教えるべきことは、正当な教員本来の職務だ。それが、教育という営為だし、生徒の学ぶ権利に応えることでもある。たとえ、内心の信念と異なっていてもこれを教える義務を果たさねばならない。

A 要するに、内心の自由よりも、公務員や教員としての職責が優先するということなのか。
B いいや、必ずしもそうではない。上司の明らかに違法な命令には服する必要はない。第三帝国における「ヒトラーの命令だから」、帝国日本の「天皇の命令だから」ということでの残虐行為は免責されない。つまりは、従ってはならない、ということなのだ。

A ジェノサイドや捕虜の虐待の命令なら、内心の良心を優先してこれに従うべきだという話はわかりやすい。しかし、今、そんな極端な違法な命令は考えられない。具体的には、公立校教員の「日の丸・君が代」への起立斉唱命令の拒否について聞きたい。教員としては、公務員である以上は、上司の職務命令に従うべきではないのか。同性婚に結婚証明書発行を拒否することとどこが違うのだ。
B わかりやすい違いは、教員に「日の丸・君が代」を強制することは、教員本来の職務内容ではないということだ。教員は生徒に対して知識と教養を伝える立場にあるが、特定の価値観を注入することは職務内容ではない。「日の丸・君が代」強制とは、教員が率先垂範して生徒に対して国家に対する忠誠や敬意の表明のイデオロギーを注入せよということだ。そのような強制は意識的に排除しなければならない。「従う必要がない」だけでなく、「従ってはならない」と言ってしかるべきなのだ。

A 普通多くの人はそんな大げさなこととは考えずに、軽く立って軽く歌うか、歌うふりをしているんだと思う。日本人なら、当然「日の丸・君が代」を大切にすべきだという考えもあろうに、どうしてそんなに「日の丸・君が代」にこだわるんだろう。
B 同性婚問題と似ているところがある。社会の圧倒的な多数派は、異性間の愛情と結婚を求める。しかし、少数ながら異なる心理や性向をもつ人もいる。「日の丸・君が代」にこだわるグループも少数派だが、少数派の存在も尊重されなければならない。人権とはそういうものだろう。

A そもそも、「日の丸・君が代」とは何なんだ。
B 「日の丸・君が代」という歌と旗はシンボルだ。何を象徴しているかについて、二重の意味がある。一つは、国旗国歌として日本という国家を象徴している。もう一つは、戦前から使われていた大日本帝国の事実上の国旗国歌として、天皇制や軍国主義、侵略戦争や植民地支配という負の歴史を象徴している。

A それで、「日の丸に正対して起立し、君が代を斉唱する」ことをどうとらえるんだ。
B 二重の意味があることになる。一つは、日本国という存在に敬意を表し、尊重するという意味だ。もう一つは、日の丸と君が代が戦意を鼓舞し侵略の小道具となった、あの戦前の歴史を受容するという意味。

A 多くの人はそうまでは思っていないのではないか。
B 真剣にものを考え、熱意ある教育者ほど、この問題にこだわらざるを得ない。少数の考えだから無視してよいということにはならない。

A 職務命令で卒業式や入学式の「日の丸・君が代」が強制され、違反には懲戒処分が続いているそうだが。
B 「日の丸・君が代」の強制とは、国家への忠誠、少なくとも敬意を表明することの強制にほかならない。また、戦前の負の歴史を免罪することへの加担の強制でもある。
ドイツが、学校の生徒にハーケンクロイツへの敬意表明を強制したらどうなると思う? 世界が驚愕するに違いない。実は日本はそれをやっているのだ。国民主権国家になったのに、戦前と同じ「天皇の御代よ、永遠なれ」という「臣民歌」を歌いたくないという人の心情は理解できるだろう。教育の場で、これをすることは子どもたちに、特定のゆがんだ歴史的価値観を押しつけることになる。

A 自分の気持ちにそぐわないから従えないということではないのか。
B もちろん、教員個人の思想良心の核になるところで、受容できないという問題はある。これを受け容れてしまえば、自分が自分でなくなってしまうというぎりぎりのところなのだ。単なる好悪とか気分や好みの問題ではないということだ。
だが、今同性婚証明拒否事件との対比で論じたのは、個人の信条を離れた教員の職責としての問題だ。戦前の臣民教育による洗脳や刷り込みの教育を繰り返してはならないということは、主観的な教員の思いであるよりは客観的な憲法が想定する教員の職務の内容だ。
国家は往々にして間違うものだ。国家のいうことを絶対視してはならない。教育とは、国家に奉仕する人間を育成する場ではない。国家をどう作るかを決める能力のある主権者を育成する場なのだ。

A 理念としては理解できないでもないが、同性婚の証明書発行拒否も、「日の丸・君が代」強制拒否も、同じように自分の思想や信仰を絶対として、公務員としての任務を拒否している感がまだ拭えない。
B 教員が、自分の信念に反するとして進化論を教えることを拒否してはならない。生徒に進化論を教えることは教員の本来的職務に属することなのだから。同様に、同性婚の証明書発行も、その職員の本来的職務に属することなのだから宗教的信念に反するとの理由で拒否することはできない。
しかし、教員に対する「日の丸・君が代」の起立斉唱命令は、教員の本来的職務に属することではないこととして強制し得ない。この理は、憲法の体系と、教育の本質、戦前の教育のあり方に対する戦後教育改革の理念、それが結実した戦後教育法体系によって導かれる結論なのだ。

A 判例はそのことを認めているのかい。
B 最高裁は、今はその半分だけの理解しかない。しかし、やがてはそのことを理解することになるだろう。
(2015年9月5日)
 

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