ここにもある一揆の史跡ー一揆指導者への民衆の追慕
昨日から今日(10月29日)は久しぶりの金沢。学生時代の友人の案内で、金沢の歴史を堪能した。加賀はかつて100年にわたって、「百姓の持ちたる国」であった。その一向一揆の門徒が建てた金沢御堂の寺内町が、加賀100万石の藩都金沢のルーツである。城下町文化とはまったく異質の、歴史の基層をもっているのだ。
その友人が、ぜひここを見せたいと、観光スポットからやや離れた場所に案内してくれた。そこが、「七稲地蔵」(なないねじぞう)という、幕末の一揆にまつわる史跡。
地蔵は6体並んでの「六地蔵」が普通だが、一揆の先導者7人が刑死したことの供養での建立で「七地蔵」となった。この刑死者を象徴する7体の各地蔵が、稲束を抱えている。稲の奉納もある。この稲が「稲地蔵」命名の由来である。
刑死者7名の名を刻印する石碑と、下記を書き込んだ金沢市教育委員会名の立て札が立てられている。
「七稲地蔵 安政5年、米価高騰の際、7月11、12日の夜、宇辰山に登り生活難を絶叫した罪により刑死した7名の冥福を祈り建立された地蔵石像…」
どの藩でも農民に対する過酷な収奪は常のことであったが、幕末の時期には藩財政の逼迫から苛斂誅求は甚だしいものとなった。100万石の加賀藩も、例外ではなかった。ペリーが浦賀に来航して天下大騒動となった5年後の1858(安政5)年に、加賀藩に未曾有の大一揆が起こる。これが「安政の泣き一揆」と言われるもの。「泣き一揆」とは、一揆参加者一同が泣いて窮状を訴えたからだという。何とも悲惨な印象。
その前年、冷夏や長雨などの自然災害によって、藩内の米は凶作となった。しかし、天災だけでは農民がこぞって泣かねばならぬほどの窮状には至らない。当時既に資本主義流通経済が一定の発展段階にあった。藩政と結託して米の流通を支配した政商は、資本主義的合理性を遺憾なく発揮した。凶作に付け込んで米の買占めや売り惜しみに徹したのだ。そのため米の価格が高騰し町方の庶民生活は困窮した。農民は米を収奪された挙げ句に自らの食にも困窮する事態となった。
この年の7月11日夜2000人の一揆参加者が金沢城に近い卯辰山に登り、城に向かって米の開放を求めて声を上げた。最も効果的なシュプレヒコールと彼らが考案したフレーズが、「泣き一揆」の異名をとるものとなった。卯辰山から金沢城まで直線距離でおよそ1.7Km。泣くが如く叫ぶがごとき彼らのコールは、風に乗って城内にも重臣たちの屋敷にも届いたとされている。
藩主らの耳にも直接届いたというそのコールは、「ひだるいわいや?っ」「ひもじいわいやぁ?」「米くれまいやぁ?」などと伝えられている。
この泣き一揆の効果はてきめんだった。直ちに藩の御蔵米500俵が放出され、投機でつり上げられていた米の値段を下げる命令も出された。藩当局は一揆の要求を一部なりとも容認せざるを得ないと判断するとともに、一揆の拡大を恐れての迅速な対抗策を打ち出したのだ。こうして、一揆は一定の成功を収めて終息する。
その後、藩権力は藩の法制に従って、7月26日一揆首謀者7名を捕縛。その内2名が獄死し、残る5名を打ち首とした。多くの人の窮状を救うために、まず自ら立ち上がり、人を励まし、策を練り、先頭に立って実行した7人が、定法に従って覚悟の死を遂げたのだ。
この7人の霊を祀るため、明治期に卯辰山の山道に七稲地蔵が建立され、1908(明治41)年に浄土宗寿経寺に寄進されて山門前に安置され、今に至るも民衆の尊崇を受けている。
今隆盛を極める金沢観光の目玉ではない。しかし、華やかなりし加賀百万石が遺したものは、工芸・芸能・食文化だけではない。民衆の苦難もあり、民衆の抵抗もあり、そして権力の弾圧もあった。その抵抗の事蹟を忘れまいとする民衆の心根を表す、「七稲地蔵」。まことに、今学ぶべきものではないか。
日の当たらない裏面史にも、相応の関心を向けたいものである。各土地の至るところに、民衆の血と涙と抵抗の足跡は残されている。
(2015年10月29日・連続942回)