『バナナの逆襲』から見えてくるスラップの萎縮効果 ?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第76弾
一昨日(2月29日)の毎日新聞夕刊。特集ワイドが、「『バナナの逆襲』フレドリック・ゲルテン監督に聞く」を掲載した。全面に近いスペースを割いた、文字どおりの「ワイドな特集」。
http://mainichi.jp/articles/20160229/dde/012/200/005000c
「農民VS米大企業、映画にしたら訴えられた」「衰える『表現の自由』」というストレートな大きな見出しが小気味よい。 記者の力量もあって、表現の自由への圧力とジャーナリズムのあり方についての問題提起として、読み応え十分である。ただ、残念ながら、「スラップ訴訟」という言葉が出て来ない。
この特集での映画の紹介は以下のとおり。
「ニカラグアのバナナ農園で働く労働者12人が、米国では使用禁止の農薬の影響で不妊症になった可能性があるとして、米国の食品大手ドール・フード・カンパニーを相手取り損害賠償を求める裁判を起こす。ゲルテンさん(スウェーデン人)は、その裁判を追ったドキュメンタリー映画を製作。これが第2話(2009年、87分)だ。」
「映画は09年、ロサンゼルス映画祭に出品される予定だったが、ドール社は主催者に上映中止を要求。ゲルテンさんを名誉毀損(きそん)で訴える。監督自身が上映に向け孤軍奮闘する姿を描いたのが第1話(11年、87分)だ。」
私が注目したのは、以下の点だ。
米メディアの多くはゲルテンさんに厳しく、非難の矢面に立たされる。「メディアの大半はドール社やそのPR会社に取材し、『貧しいキューバ人移民の悪徳弁護士がバナナ農民を原告に立て、米企業を脅迫している』『世間知らずのスウェーデン人が弁護士を英雄に仕立て上げた』といった物語として報じました。作品を見てもらえず、うそつき呼ばわりされ、かなりのストレスを感じました」
「米国の報道陣には、大多数とは違う視点で物事を報じるエネルギーや好奇心が薄いという印象を受けました」とも。
ゲルテンは、アフリカや中米で記者活動の経験をもつ。その経験から、ジャーナリストの一般的な習性を「事件でも問題でも一つの現象を描く場合、人と、特に大多数とは違う角度から描くことに熱意と努力を発揮する」と見ているという。それだけに、企業に配慮したかのような米メディアの報道姿勢を意外に感じたというのだ。この指摘は、示唆に富むものではないか。
その理由について、ゲルテンの語るところはこうだ。
「米国は一種の『恐怖社会』じゃないかなという印象を持ちました。例えばスウェーデン人の私は、失職しても子供の教育費も家族の医療費も無料ですから、すぐには困らない。でも民間頼りの米国では、そうはいかないんです」
さらに、こうも言う。
「米国企業の場合、自社の信用を落とすような報道に対しては、イメージ戦略として、とりあえず訴えを起こす傾向がありますが、記者たちはそれを恐れているように思います。大企業に訴えられた新聞社が、末端の記者を解雇して訴訟を免れる例が過去に何例もあるのです。少人数の調査で、ようやく貴重な事実を発掘しても、十分な訴訟費用のないメディアだと記者たちを最後まで守りきろうとしないこともあります」
彼は、「映画は裁判を描いただけなのに、それが上映されないのはおかしいと私は言い続けた。つまり当たり前のことをしたわけです」という。ところが、「私の知る少なからぬ米国人には、一人で抵抗することがよほどすごいことのように思えたようです。それだけ当局や大企業からの圧力が浸透しているということではないでしょうか」
ゲルテンは「ジャーナリストが年々弱くなってきている」と慨嘆し、こう締めくくっている。
「ネットの浸透、紙メディアの衰退で、ジャーナリストは常に失職を恐れています。でも不安や恐れにばかりとらわれていては、良い仕事はできません。独立した、自由に物を書けるジャーナリストのいない社会に本当の意味での民主主義は育ちません。政府にも政党にも企業にも批判されない無難な話だけが流されることになってしまいます。本当の話には必ず批判があります。後に賞を受けたような報道は必ず、その渦中では反論を浴び、圧力や批判を受ける。だからこそ、ひるんではならないのです」
すばらしい言ではないか。本当にそのとおりだ。「自由に物を書けるジャーナリストのいない社会に本当の意味での民主主義は育たない」のだ。だが、ジャーナリストといえども、衣食足りてこそ自由に物を書けるのだ。失職の恐れ、社会保障のない社会に放り出されることの恐れが、結局はジャーナリズムを「政府にも政党にも企業にも批判されない無難な話だけが流される」ことにしてしまう。ジャーリスト個人の資質だけの問題ではなく、社会のあり方がジャーナリズムの質を規定しているのだ。
ゲルテンは、スウェーデンと米国を比較して、明らかに米国のジャーナリズムはおかしくなっていることに警告を発している。では、日本はどうだ。「社会のあり方がジャーナリズムの質を規定している」とすれば、米日は大同小異。しかも、伝統浅い日本のジャーナリズムは、米国よりもはるかに権力や企業の圧力に弱い。
権力の意向を忖度し、萎縮して「無難な話だけが流される」状態は既に定着している。それであればこそ、停波処分をチラつかせた権力の威嚇効果はてきめんなのだ。さすれば、DHCや吉田嘉明相手程度でも、恐れることなく私が批判を続けることの意義はあろうというもの。けっして「ひるんではならない」し、「ひるむ必要」もないのだから。
『バナナの逆襲』は、東京・渋谷のユーロスペース(配給・きろくびと)で上映中。3月18日までの予定。問い合わせはユーロスペース(03・3461・0211)へ。
3/05(土)15:00回後に、小林和夫さん(オルター・トレード・ジャパン) 、石井正子さん(立教大学異文化コミュニケーション学部教授)らのトークを予定。
渋谷・ユーロスペースでの上映時間は下記URLで。
http://kiroku-bito.com/2bananas/index.html
3月19日(土)からは、横浜シネマリンで公開。
http://cinemarine.co.jp/counterattack-of-bananas/
さらに、続いて下記劇場でも公開決定とのこと。
名古屋シネマテーク/大阪・第七藝術劇場/神戸アートビレッジセンター/広島・横川シネマ
(2016年3月2日)