澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

司法の「メルトダウン」修復のために

同僚弁護士から勧められて、「原発と裁判官」という本を読んでいる。朝日新聞出版社の発行で、本年3月30日が発行の日付。副題が、「なぜ司法は『メルトダウン』を許したのか」というもの。司法自身の「メルトダウン」の分析でもある。

私がこの本を読む問題意識は、「司法は国策に切り込むことができるか」「どうしたら、裁判所から国策批判の判決を得ることができるか」ということ。

私にとって、この二つは弁護士志望以来の根源的なテーマである。私は、「裁判所とは所詮は国家機構の一端。だから司法が国策に切り込むことなどできるはずがない」と絶望してはいない。しかし、その困難さは、身に沁みている。困難であることを知りつつも、「どうしたら、裁判官を説得して、敢えて国策を批判した、憲法の理念に忠実な判決を勝ち取ることができるだろうか」と考えざるを得ない。原発訴訟からもそのヒントが欲しい。

新聞記者2名の執筆になる本書は、原発訴訟の判決を言い渡した裁判官6名への取材を骨格とする。住民側敗訴判決を言い渡した裁判官4名と、貴重な勝訴判決を言い渡した2名の裁判官。住民側敗訴判決を書いた裁判官の証言が問題を考える上でたいへん貴重で参考となる。そして、たった2件ではあるが、井戸謙一さん(志賀原発訴訟・一審裁判長)、川崎和夫さん(もんじゅ訴訟・控訴審裁判長)の勝訴判決は、司法の希望である。

著者は、住民側敗訴判決を書いた裁判官の取材報告全体の章の標題を「葛藤する裁判官たち」とし、4人の各裁判官ごとに、?「科学技術論争の壁」、?「証拠の壁」、?「経営判断の壁」、?「心理的重圧の壁」と、副題を付している。そのいずれの裁判官も、けっして権力盲従者ではなく、むしろ常識人である。3・11の事態に、一様に「驚いた」「ぞっとした」と言い、「自分の判決は甘すぎた」「法律家として一生背負っていく問題」とすら言う。しかし、結果として、このような常識人が、国策に追随し、国策を補完する役割を演じて、福島原発のメルトダウンに自らの責任を感じざるを得ない判決を書いている。

4人の中で、もっとも率直に裁判官一般の心情を語っているのが、今は新潟大学大学院教授の西野喜一さん。「今の訴訟法が国策を争うようにはできていない」と言い、加えて「国策の推進という方針に添った判決を書くのは、心理的に楽ですよ。反対に、たとえ国策ではない事件でも、行政を負かせる判決はある程度のプレッシャーになります」。昇進や任地の人事権を上級に握られている官僚機構の中では、暗黙のうちに国策批判はタブーとなる。人事権の行使について、「最高裁は常に、『適材適所だ』と説明するだけです。明らかに左遷であっても、行政訴訟で国側を負かせたことが理由だ、などとは絶対に認めませんから」。

暗黙のお約束だけではなく、テーマを設定した「裁判官会同」という、担当裁判官を集めての「勉強会」で判決内容を統制する手法もあり、判事と訟務検事の「判検(人事)交流」という手法もある。

先年、日本民主法律家協会で、「最高裁は変わったか」と判例分析のシンポジウムを開催した。その基調報告は浦部法穂さん。この10年のほぼすべての判決を分析しての結論は、次のような簡潔なものだった。
「天下の形勢に影響のないテーマについては、以前より最高裁の合理的な判断が期待できるようになっている。しかし、こと政治的な色彩を帯び、天下の形勢に影響する課題の事案においては旧態依然である」

「天下の形勢に影響する、政治的色彩を帯びた課題」とは、「国策」と言い換えても良い。司法は国策に切り込めてはいないということだ。まったく同感なのだが、同感のままでは問題の解決にならない。もしかしたら「3・11の衝撃は、司法が国策を批判するきっかけとなりうる」のではないだろうか。少なくとも、原発の安全性の問題に限れば‥。

そして、なによりも問題の根源にある司法の官僚制機構に切り込まなければならない。個別の訴訟での工夫だけでなく、司法官僚制そのものを変えて、司法の行政や政治からの独立だけでなく、第一線裁判官の上司や最高裁事務総局からの独立を実現しなければならない。年来のテーマであるが、日民協ではそのための「法曹一元」制を提案している。すべての裁判官を、弁護士経験者から任命するこの制度、この書の中でも話題になっているが、本格的に追求したい。憲法こそが国策を凌駕する司法の準則であることを当然とする司法の実現のために。

新装開店記念サービスエッセイ第5弾。

  『泰山を鳴動させた一匹のネズミのこと』
 「2年前の3月11日のあの日をもう一度思い出してくださいよ」と言って一匹の健気なネズミが感電死した。ボロボロでヨロヨロになって、放射能まみれになったネズミの死骸は福島第一原発の姿そのものだ。
 3月18日夕刻、福島原発の使用済みの燃料プールの冷却ができなくなって、その原因を突き止めるために右往左往して、事故の公表を遅らせて、原因がわかったので「ネズミ捕りを設置します。」ということになつた。この顛末を見れば、東電の本質は2年前と変わらず、2年前の事故はまた起こりうると考えられて当然だ。
 放射能除染、瓦礫の処理も進まず、使用済み燃料の中間処理場の引き受け手もいない。放射能汚染水はどんどんたまり続けている。当然ながら最終処理場のことなど話題にものぼらない。トイレはどんどん詰まって満杯だ。
 放射能被害の賠償問題の解決も遅々として進まない。故郷に帰れないで避難生活をしている方が31万5000人もいる。気の毒なことに、そのなかには永久に帰れない人も数万人の単位でいるに違いない。
 生産農家の必死の努力にかかわらず、福島の野菜の取引は落ち込み続け、値崩れは止まらない。酪農などほかの農産物も同じである。ノリ養殖など漁業も壊滅状態だ。
 東電は農地を汚染しただけでは足りなくて、今度は海まで汚そうとしている。汚染水は貯まりに貯まって36万5000立方メートル、25メートルプール480杯分になっているそうだ。今でも毎日毎日増え続けている。それで困りはてた東電は海洋放出を計画している。「アルプス」という清々しい名前の浄化装置を使って放射性物質を取り除いて、汚染水を海に放出しようと、3月30日に試運転を始めたという。ただし、放射性トリチウムは除去できない。当然のことながら、過去にこっそりと汚染水を放出した前科のある東電への不信感から、地元漁協は大反対だ。地元だけでなく海はどこまでも繋がっているのだから、関東、東北の漁業全体の問題だ。それだけじゃない。消費者の問題でもある。私も大反対だ。
 落ち着いて考えれば、使えば使うほど、手に負えない放射性汚染物質が貯まって、ネズミ一匹でもシャットダウンしてしまう信頼の置けない装置など絶対運転すべきではない。地震、津波、火山爆発を引き金にどんな甚大な被害が出るやも知れない。南海トラフ巨大地震への備えはできているのか。事を荒立てる外交しかできない我が国のこと、原発を標的としたテロやミサイル攻撃の不安も拭えない。
 安倍内閣は、原発による発電がなかったら産業が壊滅する、国益が損なわれると大合唱して、原発を再稼働しようとしている。
 しかし、どう考えてもおかしい。
 電力会社は除染や賠償の費用、動いてもいない日本原子力発電への支払い、はたまた怪しい原子力委員関係のNPOへの支出までひっくるめて、電気料金に転嫁できる。発電所周辺地域に交付されているお金・電源開発促進税も電気料金に上乗せされて徴収されている。これは我々消費者・納税者が否応なしに、気がつかないうちに支払わされているのだ。
 原発による電力は安い安いと宣伝されてきたが、大島堅一立命館大教授の試算によれば、今まで計算に入れられていない部分の費用を発電コストにいれれば、原子力10.68円、火力9.9円、水力7.26円となって、原子力で発電される電気が一番高いということになる。それで終わりではない。これから福島処理のためにいったいどれだけ費用の負担をすることになるか誰も正確な数字は出せない。いずれ廃炉になる全国の原発の処理費は天井知らずだ。この費用を賄う方が、国家的大損失ではないか。

 それでも原発続けますか。「私が責任を持ちます。」と言って大飯原発を再稼働させた野田さん、今はどこにいるのか影も見えません。原発政策は、よってたかって甘い汁を吸ったあげく、誰も責任を持たない悪徳会社の詐欺のような気がしてならない。これでは感電死した健気なネズミも浮かばれまい。

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Published in 土曜日, 4月 6th, 2013, at 20:16, and filed under 未分類.

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