信仰者への君が代斉唱は、心と体を壊す「踏み絵」だ。
本日(11月11日)、東京都(教育委員会)を被告とする「東京『君が代』裁判」4次訴訟の原告本人尋問。前回10月14日と同様に、午前9時55分から午後4時30分まで。起立斉唱命令に違反として懲戒処分を受け、その取消を求める教員6名が胸を張ってその思いの丈を語った。
前回の7人に続いて、本日で合計13人の原告尋問が終了した。閉廷後の報告集会で、原告団の世話人のお一人は、これを「13人がタスキをつないで、最後のアンカーまで走り抜いた」と駅伝にたとえた。私はオーケストラにたとえたい。それぞれが、個性的な演奏をしながら、全体が美しいハーモニーを響かせた。素晴らしい法廷だった。
「国旗・国歌」、あるいは「日の丸・君が代」に敬意の表明を強制されて受け入れがたいとするそれぞれの教員の理由は各々異なって多彩である。本日法廷に立った原告6名は、それぞれの教育実践を語り、生徒に寄り添ったよりよい教師であろうとすれば、何よりも生徒を中心とした教育の場を作らねばならならず、「国旗国歌」あるいは「日の丸・君が代」を主人公とするごとき儀式を受け容れることが出来ないことを語った。
また、自らの歴史観、倫理観を語り、公権力が国家主義的価値観を全生徒と教職員に強制して、多様な価値観の共存を容認しない思想統制の不当を訴えた。
6人のうち、2人が信仰をもつ者(いずれもキリスト教徒)で、信仰者であることを公表し、信仰ゆえに国歌斉唱時に起立できないとした。
ひとりの原告はこう語っている。
自分は、35年の教員生活で、君が代斉唱時に起立したことは一度もない。自分の信仰が許さないからだ。自分には、「日の丸」はアマテラスという国家神道のシンボルみえるし、「君が代」は神なる天皇の永遠性を願う祝祭歌と思える。
ところが、やむにやまれぬ理由から、卒業式の予行の際に一度だけ、起立してしまったことがある。それが9年前のことだが、「いまだに心の傷となって癒えていない」「このことを思い出すと、いまも涙が出て平静ではいられない」という。
「神に背いてしまったという心の痛み」「自分の精神生活の土台となっている信仰を自ら裏切ったという自責の念」は、自分でも予想しなかったほど、苦しいものだったという。そして、「私はどうしても「日の丸」に向かって「君が代」を斉唱するための起立はできません。体を壊すほどの苦痛となることを実感した」と述べた。
その上で、裁判所にこう訴えた。
「人の心と身体は一体のものです。信仰者にとって、踏み絵を踏むことは、心が張り裂けることです。心と切り離して体だけが聖像を踏んでいるなどと割り切ることはできません。身体から心を切り離そうとしても、できないのです。身体が聖像を踏めば、心が血を流し、心が病気になってしまうのです。
「君が代」を唱うために、「日の丸」に向かって起立することも、踏み絵と同じことなのです。キリスト者にとっては、これは自分の信仰とは異なる宗教的儀礼の所作を強制されることなのです。踏み絵と同様に、どうしてもできないということをご理解いただきたいと思います。」
また、次のような質問と回答があった。
問 最高裁判決は、「卒業式等における起立斉唱等の行為は、一般的、客観的に見て、儀式的行事における儀礼的所作であるから、これを強制しても直ちに思想や良心を侵害することにはならない」と言っています。キリスト者として、あなたはこの最高裁の考え方をどう思いますか。
答 儀式的行事における儀礼的所作だから、宗教とも思想良心とも無関係というのは、間違っていると思います。宗教は儀式や儀礼的所作と大いに関係します。先ほど申しあげたとおり、「日の丸」に向かって起立し、「君が代」を斉唱する行為は、宗教的な意味を持つ儀式での儀礼的所作だと思います。
これは、示唆に富むところが大きく深い。宗教と儀式・儀礼は切り離せないものではないか。「儀礼的所作だから宗教性がない」などと言えないことは自明ではないか。キリスト者である原告から見れば、「日の丸」も「君が代」も国家神道のシンボルであって、その強制は、都教委の思惑如何にかかわらず、キリスト者である原告の信仰や宗教的信念を圧迫し侵害している。
宗教は、何ゆえに儀式や儀礼と結びついたのか。身体的な所作が、精神の内面に及ぼす影響あればこそである。それぞれの宗教に、それぞれ特有の礼拝の方式があり、特有の身体的な所作による宗教行事がある。宗教結社ができてからは、特有の宗教的なシンボルとしてのハタやウタが作られ、集団的な儀式や儀礼を共同することによって、共通の信仰を確認し合うことになった。
このことは、実は宗教に限らない。政治結社や思想団体にも、あるいは軍隊や国家の統治にも通底するものである。ナチスは、ヒトラーへの個人崇拝や第三帝国に対する忠誠心を涵養する手段として、非宗教的な儀式的行事を繰り返した。マスゲームや合唱や聖火行列や制服着用や独特のポーズ等々の身体的な所作を共通にすることが、集団的一体感や忠誠心を高揚させる手段として意識的に使われた。
日の丸・君が代、また然りであって、その役割は戦前戦後を通じて基本的に変わらない。とりわけ、集団的な式典において、「日の丸」を掲揚して全員でこれに正対し、「君が代」を合唱する行為は、信仰を持つ者にとっては明らかな宗教的儀式における宗教的儀礼としての集団的な所作である。その宗教性を捨象しても、「起立・斉唱」という身体的な所作を集団的に強制することによって、日の丸・君が代が象徴するものへの帰依や忠誠の心情を強制することにほかならない。
また、宗教者に対する「日の丸・君が代」強制は、神戸高専剣道受講強制事件の構造と酷似している。
この事件では、学校側は「生徒に剣道の授業を受けさせることが、特定の宗教性を持つ行為の強制とは考えられない」と主張した。しかし、「自分の信仰は人と争う技を身につける授業の受講を許さない」という生徒との関係においては、剣道の受講を強制してはならないと最高裁が認めたのだ。
「「君が代」を唱うために、「日の丸」に向かって起立することも、踏み絵と同じことなのです。キリスト者にとっては、これは自分の信仰とは異なる宗教的儀礼の所作を強制されることなのです。踏み絵と同様に、どうしてもできないということをご理解いただきたいと思います。」という原告の心の叫びに、最高裁はもう一度耳を傾けなければならない。
なお、同じ原告はこうも言っている。
「卒業式は最後の授業です。そして、門出です。生徒を主人公として、さまざまな工夫の積み重ねがされてきました。それを「10・23通達」が破壊しました。通達後、学校の主人公は、一人ひとりの生徒ではなく、日の丸・君が代になってしまいました。つまりは国家が主人公ということです。」
「そのことを象徴する、こんな事例がありますか。ある養護学校で、筋ジストロフィー症の生徒の呼吸器に不具合が生じて、「君が代」斉唱時に緊急を知らせる「ピーピー」というアラームが鳴ったという事件がありました。看護師が走り寄ってかがみこんで処置をしている最中に、副校長がそばに来て『起立しなさい』と命じたのです。『大丈夫ですか』と生徒を気遣うのではなく、『起立しなさい』なのです。「10・23通達」以前には、まったく考えられなかったことです。生徒の命よりも、君が代を大事にするという恐ろしいことになったと思いました。」
分かり易い。これが今の都教委の姿勢だ。「10・23通達」の精神の表れなのだ。
(2016年11月11日)