池田眞規さんを悼む
池田眞規さんが亡くなられた。11月13日のこと。本日(11月16日)が通夜。明日告別式がある。享年88。つい最近まで、そんなお歳とは見えない壮健な活躍ぶりだった。そして常に明るく、周囲を励ます人でもあった。今は、ご冥福を祈るばかり。
以前、事務局長・会長を務めた日本反核法律家協会の機関誌、「反核法律家」に「人生こぼれ話」を連載しておられた。昨年秋号に、その第6話「忘れっぽい人間に原爆の記憶の継承は大丈夫でしょうか?」が掲載されている。
その冒頭の文章が次のとおり。
「個々の『人の死』は相続によって継承されます。しかし、『人類の死』には相続はありません。核兵器を造った少数の人間、戦争の開始を決定した少数の人間、戦争の開始を阻止しなかった多数の人間、これらの人間の仕業の総仕上げが核戦争です。
核戦争になると『人の種』は地球上から消えてなくなります。その結果に至るすべてが人間の仕業である以上、人間の判断で『核兵器も戦争もない世界』を実現することは可能なはずです。だがそれは容易ではありません。何故なら、原爆被害の忘却、核による巨大な利得、核大国米国の軍事基地など、大きな障害があるからです。」
この文章は、続いて親鸞と浄土真宗の歴史を教訓として、「闘い続けることによる原爆の記憶の承継」を論じている。本論はともかく、『個々の人の死』と『人類の死』とを対比して、前者の扱いが、あまりに淡泊な印象を受ける。この頃、眞規さんは既に「自分の死」を予期し、受容していたのだろうか。自分の死は受容しえても、『原水爆による人類の死』を受け容れがたいとする池田さんの思いを、私も相続し継承しなければらないと思う。
眞規さんとの最初の出会いは、私が司法修習生になったばかりのころ。同期で作る青年法律家協会の企画として、何人かの先輩弁護士を呼んで、弁護士の生きがいやあり方などを語ってもらった。その中の一人として、まだ弁護士になって日の浅い眞規さんがいた。
長沼や百里の経験を聞きたいとしてお呼びしたものだが、その点のお話しの印象はない。眞規さんは、あの独特の語り口で、冒頭にこう言った。「弁護士とは、資本という汚物にたかるギンバエである」。どぎつい言い方が印象的だが、弁護士の卵たちに対して、「弁護士としての理念をもて」「理念なき弁護士は、自ずと資本の手先になりさがる」「弁護士という存在は客観的にそういうものだ」「意識的に自分を律することなければ、流されてしまうぞ」という警告と受けとめた。その後、私も弁護士となって、眞規さんの後輩として「プライド捨てたギンバエ」にはならぬよう、気をつけながら歩み始めた。
私が弁護士になって20年目。1991年に湾岸戦争が起きた。日本政府(海部内閣)は、戦地に掃海部隊を派遣し、90億ドル(1兆2000億円)の戦費を支出しようとした。平和的生存権と納税者基本権を根拠に、これを差し止めようと「ピースナウ・市民平和訴訟」と名付けた集団訴訟が実現した。東京では1100人を超える人々が原告となり、80名ほどの弁護団が結成された。私が弁護団事務局長を務め、団長は正式に置かなかったが、明らかに眞規さんが「団長格」だった。
東京地裁に訴状提出後、担当裁判長(後に最高裁裁判官となった涌井紀夫判事)から 「訴状に貼付すべき印紙が不足しているのではないか。原告弁護団の手数料計算方法に疑義がある」という指摘を受けた。裁判所の考え方を文書で示していただきたいと要望したところ、ファクスが届いた。これがなんとも素敵なものだった。
本件の係争にかかる経済的利益を差し止め対象の支出金額である1兆2000億円とし、これを訴額として1人あたりの手数料を算出して、 原告の人数を乗ずるという算定をすべきだという。
驚くなかれ、この算定方法では訴状に貼付すべき印紙額は3兆4000億円(当時の司法総予算の15年分)になる。 最高額の印紙(10万円)で貼付して、東京ドームの天井にも貼りきれない。
私と眞規さんとで、手を叩いて喜んだ。さっそく記者会見を開き、これは当時格好の話題となった。それまで、この訴訟に目もくれなかったすべてのマスメディアが、俄然注目し社説を書いた。天声人語も、余録も取り上げた。
その時の眞規さんの思い出はそれだけではない。眞規さんは、自ら書証の整理担当をかって出た。第1回期日以前に、1000点を超える甲号証を整理して提出している。本来なら事務局長の私の仕事なのだが、眞規さんの仕事にのめり込む姿勢に驚いた記憶が鮮明である。
もう一つ。下記は「法と民主主義」2003年11月号に掲載された、佐藤むつみ編集長の「とっておきの一枚」という連続インタビュー、池田眞規さんの巻である。「楽しきコスモポリタン 憲法九条を連れて」と標題されている。
ご供養に、この記事を引用させていただく。
池田先生は弁護士になって四〇年。この一〇年が一番充実した楽しい仕事が出来たという。弁護士になるまで病気をしたり風早八十二先生の事務所を手伝っていたりちょっと寄り道をして、一八期、七五才になる。ここ二〇年、先生は全然年を取らず髪も真っ黒。アジア集団安全保障共同体構想を語る時、コスタリカのことを語る時、ほとばしる思いが凛々と伝わってくる。独特のテンポののんびりとした口調にだまされてはいけない。人を食ったような語り口は昔のNHKの子ども番組「チロリン村とクルミの木」の渋柿じいさんみたいだ。素朴な土のにおいが濃厚にする。
私の事務所は東京四谷、池田先生とは同じご町内。時々ばったりとお会いする。これがただじゃすまない。コスタリカに行く前の日に会った時など「コスタリカはすごいよ。あんたも行きなさい。あんな小さな国が戦争放棄してるんだ。俺たちも学ばなくちゃ。」と遠足に行く前の子どもみたいである。うれしいな、うれしいな。アジア集団安全保障構想の話しの時は悲劇だった。遅れた昼食を取っているとそこに現れた池田先生「ふっふっ」と私のテーブルにくる。「朝鮮半島と日本と中国が共同体を作る。みんな非核宣言をする。俺は昔からこう言ってたんだ。あんたはどう思う。」私はご飯が食べたいの。どう思うって言われたってね。いい加減に聞いていると「あんたもう俺の話を聞きたくなくなったな」とギロリと威嚇する。これで嫌われたかなと思っていたら本人はすっかり忘れている。
池田眞規先生は一九二八年に韓国の大邱で生まれ釜山で育った。兄一人姉三人の末の次男坊である。父佐忠は天草出身の事業家で釜山の港湾建設事業を取り仕切っていた。豪放磊落な自由人で目端の利く面白い人物だった。メキシコから石油を輸入しようとしたり、蔚山(ウルサン)と山口県の油谷町に港を作り新航路開発事業を計画したり、何とも闊達である。山本五十六連合艦隊司令官とお友達で、真珠湾攻撃の前日、旗艦長門から山本が書いた書を送ってもらたりしている。
マキちゃんは小さいとき引っ込み思案の少年で、たまにしか会わない父親に恥ずかしくてあいさつもできなかった。中学四年終戦間近の三月、マキちゃんは明治大学付属の専門学校造船科に進むために最後の関釜連絡船に乗って上京。東京は大空襲で焼け野原だった。八月玉音放送を聞く。何のことだかわからなかった。教授が泣くのをみて負けたんだと思った。翌日丸の内の交通公社で釜山行きの切符を手に入れマキちゃんはさっさと学校をやめ釜山に帰ってしまう。仙崎から出る船に予科練の制服借りて復員兵になりすまして乗船、無事帰宅。「まさちゃんが帰ってきた」みんなびっくりした。
マキちゃん一七才。コルト六連発を尻ポケットに突込んで毎日デモをみたり、引揚日本人の世話会長だった父親の仕事を手伝ったりしていた。一一月父親がCIAにつかまる。アメリカ軍にワイロを渡して日本人を守ってくれと接待した容疑。二四時間以内の追放命令、身の回りのものをリックにつめてすぐに引き揚げ船に乗った。油谷町の広大な土地でマキちゃんは農業でもしようと思っていた。ところが「バカでも入れる学校がある」と従兄弟から勧められ「まさ、行ってこい」の父の一声でマキ青年は熊本語学専門学校に入学。そこでマキ青年は東洋哲学の俊英玉城康四郎先生に出会い、哲学を学ぶ。一年結核で休み四年かかって専門学校を卒業、また従兄弟に勧められ九州大学に進学することとなる。
五〇年マキ青年は九州大学法学部に入学する。入学したらあまりに授業がつまらなくてやめようかと思ったが、法律学科から政治学科に移り何とか留まった。そしてマキ青年は左翼の洗礼を受け学生運動に邁進する。ところが結核が再発、中野の組合病院で手術を受けることになる。大学は取れていた単位で五三年に卒業した。父親も死亡し経済的にも大変な療養生活だったが、マキ青年はどんなときにも落ち込まない。今もそうである。ものにこだわらない楽天性は父親譲りである。
病院を退院した時、風早事務所で事務員を募集しているから行ってみたらと進められる。行ってみると風早先生は九州大学の恩師具島兼三郎先生の師であった。人生の巡り合わせは不思議なもの。池田青年に「君は弁護士になってわしの手伝いをしろ」と風早先生の命。風早事務所で弁護修習、六六年から弁護士となる。風早事務所の大番頭として約一五年間、勤める。
弁護士になると、何も知らずにうっかりと「地獄の百里弁護団」に入り、事務局を押しつけられ、これを二〇年勤める。訴訟活動はもちろん大衆的裁判闘争の運動を引っ張る要でもあった。池田先生は「生きた憲法九条の平和の思想」を百里の農民の地をはう戦いのなかで血肉とする。土の匂いはここから生まれたのかも知れない。
百里裁判と平行して、日本被団協に押しかけて、「被爆者の望むことは、何でもやります」と誓うそそっかしさ。原爆を裁く国民法廷運動も楽しくやり、一九八九年には国際反核法律家協会のハーグでの創立総会に参加。日本での反核法律家運動にも関わるようになる。九一年に国際反核法律家協会(IALANA)の呼びかけで始まった「世界法廷運動」が日本では国民的な大運動となり、九六年国際司法裁判所のすばらしい「勧告的意見」に結実。九九年ハーグ市民社会会議に参加し、その平和アピールでは公正な世界秩序のための第一原則として「各国議会は、日本国憲法第九条のような、政府が戦争を禁止する決議を採択すべき」とまで言わしめたのである。
しかし国内では憲法九条は改悪の危機。二〇〇〇年池田先生らは軍隊を捨てた国コスタリカに出かけるのである。名カメラマン池田先生が撮った軍隊廃止を宣言した亡フィゲーレス大統領夫人のカレン女史の写真がある。とてもいい。先生とカレン女史との関係がそこに出ている。日本にお客様を呼ぶとき池田先生は成田に迎えに行き日本にいる間中一緒に行動する。そして成田まで送る。この熱い心を「幸せはささやかなるを極上とする」妻ゆきさんがかたわらで支えているのである。
「ボクは人にいつも恵まれるの。すばらしい人が現れて運動を支えてくれる。すごいよ」
池田眞規
1928年 韓国大邱に生まれる
1953年 九州大学法学部卒業
1966年 弁護士登録・百里裁判・被爆者運動に没頭。
1990年 日本反核法律家協会初代事務局長。
2016年 逝去(惜しまれつつ)
(2016年11月16日)