ICANのノーベル平和賞受章に官邸の不快感
ノーベル賞の季節である。例年ほとんど関心はないのだが、今年は別だ。平和賞に国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」の受賞が決まった。核兵器の非合法化と廃絶を目指す活動、とりわけ今年の核兵器禁止条約成立への貢献に対する顕彰だという。
朝日デジタルが、第五福竜丸平和協会をインタビューして、安田和也事務局長の「核廃絶への期待だ」「核兵器廃絶に向けた取り組みに対する期待へのあらわれだと思う」とのコメントを記事にし、「受賞を喜んだ」と報じている。私も、平和協会の活動に携わる者の一人として、そして核廃絶を強く願う立場の一人として、「核兵器禁止条約推進運動の受賞」を喜ぶべき立場にある。
しかし、こんなとき「本多勝一はどう言うのだろうか」と思う。彼こそは、私の尊敬するジャーナリスト。この人ほど、ブレのない筋を通す人も珍しい。その本多が、ノーベル賞について、「もともと『賞』というものはすべて基本的に愚劣なのだろう。その中でも特に愚劣なノーベル賞は、かくのごとく、言語的文化的には『人種差別賞』であり、平和に関しては逆に『侵略賞』である。こんなものに断じて幻想を抱いてはならない」(「ノーベル賞という名の侵略賞・人種差別賞」)と言っているのだ。
文中に、その具体例として次の一節がある。1973年11月の文章。
「さて、このたび、その合衆国のキッシンジャー氏、あのB52によるハノイ市絨毯爆撃・大虐殺に最も貢献したキッシンジャー氏に、こともあろうにノーベル『平和』賞が決定した。私は心底から『おめでとう』を言いたい。なぜなら、ノーベル賞というものがいかに愚劣きわまるものかを、大衆に理解されるためにこれは大変役立つからである。これほど明快に本質を見せつけてくれた例は、これまで少なかった。」
また、本多は1978年に、「笹川良一氏にノーベル賞を」という過激な一文をものしている。これが傑作だが、長くなるので引用を控える。さわりは、「笹川良一氏というバクチの胴元と、同氏が受章した勲一等」とを「犬の糞と馬の小便」の取り合わせにたとえるところ。「実にピッタリ、こんなによい受賞者は他に少ない」としたうえで、「笹川氏には、そろそろノーベル賞などいかがであろうか。私は心から推薦したい。それによってノーベル賞の『馬の小便』ぶりが一層みんなに理解される…」という。なお本多には、「天皇にこそノーベル賞を!」(1974年)というエッセイもある。核付き沖縄返還の佐藤栄作が受章したノーベル平和賞である。そのイメージがよかろうはずはない。
だから、「反核運動にノーベル平和賞」を素直に喜ぶことにやや躊躇を覚えるのだが、今回はわが国の政府のお陰で、この躊躇を払拭できそうなのだ。
これも、朝日デジタルの記事から。
「日本政府は、核兵器禁止条約の採択に貢献した核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のノーベル平和賞受賞の報を複雑な思いで受け止めている。核廃絶へ向けた意義を認める一方、核・ミサイルの脅威を高める北朝鮮に触れ「遠く離れた国と、現実の脅威と向き合っている我々とでは立場が違う」といら立ちを見せる外務省幹部も。首相官邸と同省は受賞を受けてのコメントを出さなかった。
核禁条約は9月に50カ国以上が署名し、早ければ来年中の発効が見込まれる。ICANの受賞は、核禁条約を政治的に後押しする可能性があるが、日本政府の不参加の立場は変わらない見通しだ。
ただ、日本政府内では受賞を契機に新たな懸念も出始めている。核兵器廃絶に向けて、欧州は2015年にイランが核開発を制限する見返りに経済制裁を解除する合意を米国などとともに結んだ。欧州にはイラン核合意と同様のアプローチが北朝鮮にも有効との主張もあり、今回の受賞で北朝鮮との「対話」を促す機運が高まれば、圧力強化を呼びかけてきた日本の方針がつまずきかねない。」
客観的にみて今年のICANへのノーベル平和賞は、核保有大国に政策転換を迫る力をもつものだ。トランプ政権にもアベ政権にも大きな打撃となり、一方国際的な反核運動のうねりにこの上ない励ましとなるだろう。
朝日はこうも伝えている。
「共産党の小池晃書記局長は6日、朝日新聞の取材に「核兵器禁止条約を主導したNGOの受賞は核兵器のない世界を目指す動きを励ますことになる。逆に日本政府の異常ぶりが際立つことになった」と述べた。」
今回のノーベル平和賞については、「侵略賞・人種差別賞」ではないことを確認しよう。そして、素直に大いに喜ぼうではないか。
(2017年10月6日)