一国の国民は、栄光と屈辱、歓喜と無念、慶事と凶事を共有する。それであればこその国民国家であり、国民である。もちろん、これはタテマエであって現実ではない。しかし、統治をする側がこのタテマエを壊しては、国民国家はなり立たない。本日、4月28日は、厳粛にそのことを噛みしめるべき日である。しかも、天皇代替わりを目前にしての、国民統合に天皇利用が目に余るこの時期の4月28日。国家と天皇と国民の関係を考えさせる素材提供の日である。
本日の琉球新報に、「きょう『4・28』 沖縄『屈辱の日』を知ってますか?」という解説記事。同紙の本日の社説は、「4・28『屈辱の日』 沖縄の切り捨て許されぬ」というタイトル。さらに、「皇室に県民思い複雑 4・28万歳と拳 『屈辱の日』67年」という、沖縄への天皇の関わりに触れた署名記事も掲載している。また、沖縄タイムスの社説も、「きょう『4・28』今も続く『構造的差別』」である。
1952年の今日・4月28日に、サンフランシスコ講和条約が発効して、敗戦後連合国軍の占領下にあった日本は「独立」した。しかし同時に、沖縄や奄美は日本から切り離されて、米軍の施政権下におかれた。沖縄の本土復帰には、さらに20年という年月を要した。この間、沖縄に日本国憲法の適用はなく、米軍基地が集中し、過重な基地負担の既成事実が積み上げられた。だから、この日は沖縄県民にとって「屈辱の日」と記憶される日なのだ。しかも、このアメリカへの沖縄売り渡しを主導したのが、既に主権者ではなくなっていた、天皇(裕仁)である。
2013年4月28日には、安倍政権がこの日を「主権回復の日」として、政府主催の式典を挙行した。当然のこととして、沖縄からは強い反発の声が上がった。この間の事情を、本日の琉球新報「皇室に県民思い複雑 4・28万歳と拳 ― 『屈辱の日』67年」の記事から抜粋する。
沖縄にとって4月28日は「屈辱の日」として深く刻まれている。
2013年4月28日には、安倍政権が主催し「主権回復の日」式典が開かれた。式典には首相、衆参両議長、最高裁長官の三権の長とともに天皇皇后両陛下も臨席された。
サンフランシスコ講和条約を巡り、昭和天皇が米軍による沖縄の長期占領を望むと米側に伝えた47年の「天皇メッセージ」が沖縄の米統治につながるきっかけになったとも言われる。
昭和天皇の「戦争責任」と講和条約による「戦後責任」を感じている県民の間には、皇室に対して複雑な感情もある。「4月28日を巡る式典は、沖縄と皇室の在り方をあらためて問い掛ける出来事となった。
◇ ◇ ◇
「天皇陛下、バンザーイ」「バンザーイ」
? 2013年4月28日、東京都の憲政記念館で開かれた政府主催の「主権回復の日」式典。天皇皇后両陛下が退席される中、会場前方から突然、掛け声が上がった。つられるように、万歳三唱は会場中にこだまし、広がった。
? だが、講和条約締結を巡っては昭和天皇による「天皇メッセージ」が沖縄の米統治に大きな影響を与えたといわれる。沖縄戦で悲惨な戦禍を受け、その後も日本から切り離された沖縄にとって、皇室への複雑な感情は今もくすぶっている。
こうした中で開かれた式典に、県内の反発は激しかった。一部の与党国会議員からも異論の声が上がった。「主権回復の日」式典と同日・同時刻に政府式典に抗議する「『屈辱の日』沖縄大会」が宜野湾市内で開かれ、県民は結集し怒りの拳を上げた。「万歳」と「拳」。本土と沖縄の温度差が際だっていた。
琉球新報の社説は、あらためて沖縄地上戦の凄惨な犠牲を思い起こし、平和な沖縄を願うものとなっている。
<社説>4・28「屈辱の日」 沖縄の切り捨て許されぬ
この「屈辱の日」を決して忘れてはならない。沖縄は去る大戦で本土防衛の時間稼ぎに利用され、日本で唯一、おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられた。戦いは凄惨を極め、日米合わせて20万人余が犠牲になった。このうち9万4千人が一般人で、現地召集などを含めると12万2千人余の県出身者が亡くなった。民間人の死者が際だって多いことが沖縄戦の特徴である。
激戦のさなか、日本軍はしばしば住民を避難壕から追い出したり、食糧を奪ったりした。スパイの嫌疑をかけられて殺された人もいる。戦後は米統治下に置かれ、大切な土地が強制的に接収された。米国は、講和条約の下で、軍事基地を自由に使用することができた。
72年に日本に復帰したものの、多くの県民の願いを踏みにじる形で米軍基地は存在し続けた。沖縄戦で「捨て石」にされたうえ、日本から切り離された沖縄は、今に至るまで本土の安寧、本土の利益を守るために利用されてきたと言っていい。
そのことを象徴するのが、名護市辺野古の海を埋め立てて進められている新基地の建設だ。2月24日の県民投票で「反対」票が有効投票の72・15%に達したが、政府は民意を黙殺した。
1879年の琉球併合(琉球処分)から140年になる。沖縄はいまだに従属の対象としか見なされていない。基地から派生する凶悪事件、米軍機の墜落といった重大事故が繰り返され、軍用機がまき散らす騒音は我慢の限度を超える。有事の際に攻撃目標になるのが基地だ。この上、新たな米軍基地を造るなど到底、受け入れ難い。そう考えるのは当然ではないか。
これまで繰り返し指摘してきた通り、県民が切望するのは平和な沖縄だ。政府はいいかげん、「切り捨て」の発想から脱却してほしい。
そして、沖縄タイムス社説
講和条約第3条が、基地の沖縄集中を可能にしたのである。「構造的差別」の源流は、ここにあると言っていい。「4・28」は、決して過ぎ去った過去の話ではない。
安倍政権は講和条約が発効した4月28日を「主権回復の日」と定め、2013年、沖縄側の強い反対を押し切って、政府主催の記念式典を開いた。
ここに安倍政権の沖縄に対する向き合い方が象徴的に示されていると言っていい。講和・安保によって形成されたのは「沖縄基地の固定化」と「本土・沖縄の分断」である。それが今も沖縄の人びとの上に重くのしかかっている。
安倍政権は、沖縄を切り捨てた日を、式典で祝ったのだ。たいへんな神経である。そこには、三権の長だけでなく天皇も参加させ、「テンノーヘイカ、バンザーイ」となったのだ。一方の沖縄では、同日・同時刻に政府式典に抗議する「『屈辱の日』沖縄大会」が宜野湾市内で開かれ、県民は結集し怒りの拳を上げた。東京では、「テンノーヘイカ、バンザーイ」であり、沖縄はこれに抗議の「拳」を挙げた。
琉球新報の「皇室に県民思い複雑」は、ずいぶんと遠慮した物言いではないか。アメリカへの沖縄売り渡しを提案した裕仁の「天皇メッセージ」は、明白な違憲行為であり、天皇という存在の危険性を如実に露呈するものである。これこそが、現在の県民の重荷の元兇なのだから。
そして、沖縄屈辱の日の政府式典において、現天皇への「テンノーヘイカ、バンザーイ」は、別の意味での天皇の危険性をよく表している。天皇は式典出席で、安倍政権の沖縄切り捨て策に利用され加担したのだ。もとより、天皇は憲法の許す範囲で政権の手駒として、政権の指示のとおりに行動するしかない。けっして、ひとり歩きは許されない。沖縄切り捨てを含意する祝賀の式典での「テンノーヘイカ、バンザーイ」は、政権に対する、県民・国民の批判を天皇の式典出席が回避する役割をはたしたことを物語っている。
民主主義にとって天皇はないに越したことはない。直ちに、憲法改正が困難であれば、その役割を可能な限り縮小すべきである。そのためには、天皇や、政権の天皇利用に、批判の声を挙げ続けなければならない。
(2019年4月28日)
本日(4月27日)、「元号さよなら声明」への賛同署名運動を開始しました。
署名は、下記のURLから。
http://chng.it/7DNFn7sCfz
目標は10000人。是非とも、拡散のご協力をお願いいたします。
**************************************************************************
「元号さよなら声明」
もう使わない、使わされない!
元号の強制、元号への誘導、押し付けはごめんです。
また元号が変えられます。私たちは、一生の間にいったいいくつの元号を使わされるのでしょうか?
いま多くの人が元号はもう使いたくないと感じています。グローバル化が進んだ今日、日本国内にしか通用せず、また国内でも複数の年の間の年数をかぞえるにも元号は実に不便です。
日本の手帳には年齢早見表がついています。いくつもの元号にまたがって年数を数えるのは厄介だからです。グローバル化の時代に日本でしか通用しない元号は不便です。
それだけではありません。公的機関が元号だけを使っているため、改元の度に必要となる情報システムの改修には莫大な費用がかかり、IT社会は絶えずこのシステムの不安定性に振り回されます。
元号を使うことは義務ではありません。しかし現実には、それが当然であるかのように元号を使うことを求められたりします。
元号を使いたくない人、元号を知らない人に元号を使うよう「協力を求め」たり、無理強いをしないでください。また、誰もが使ったり見たりする公的な文書や手続き書類は、元号を使いたくない人でも困らない、元号を知らない人でも分かるものにして下さい。
私たちは元号を使いたい人が元号を使うことを妨げようとしているのではありません。ただ私たちは、次の三つのことを求めたいのです。
1.届出や申し込みの用紙、Web上のページなどにおける年の記載は、利用者が元号を用いなくても済むものとし、また利用者に元号への書き直しを求めないこと。
2.公の機関が発する一切の公文書、公示における年の記載は、元号を知らない者・使わない者にも理解できる表示とすること。
3.不特定多数を対象とする商品における年の記載は、元号を知らない者・使わない者にも理解できる表示とすること。
* 上記の1・2は、衆参両院議長、内閣府、最高裁判所事務総局、地方自治体に要請します。また同じく3は、元号表示しかしていない金融機関や企業などに対して、各地の賛同者の皆さんと共に要請します。
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下記URLの拡散をよろしくお願いします。
http://chng.it/7DNFn7sCfz
また、下記のURLもご利用ください。
https://sayonaragengou.blogspot.com/p/httpssayonaragengou.html
https://www.facebook.com/gen5no/?modal=admin_todo_tour
よろしくお願いします!
(2019年4月27日)
仲間内の雑談で、元号が話題となった。私の親しい友人たちは、元号拒否派が圧倒的だ。裁判所に提出の書類でも西暦を使用しているという。
私の場合、最初から西暦使用に徹していたわけではない。はじめは無自覚に元号を使用していたが、弁護士経験10年目のあたりで西暦使用に切り替えた。以来35年以上にわたって、訴状も、答弁書も、準備書面も、弁論要旨も、すべて西暦表記で一貫している。
元号表記一色の世界でのこと、はじめは目立った。たった一度だけの経験だが、担当の裁判官から、クレームを付けられたことがある。「自分は、昭和になじんでいる。西暦だと前後関係が分かりにくい。昭和を使っていただけないか」というのだ。
「私は西暦に深くなじんで、昭和だと前後関係が分からなくなる。また、信条として元号拒否にこだわってもいる。このまま、西暦使用を通させていただきたい」と言ったところ、裁判官は実に面白くなさそうではあったが、それ以上は何も言わなかった。
仲間の一人は、事務員さんが持参した西暦表記の書面を、裁判所から「和暦に直してください」と突き返されたことがあるという。抗議をして受領させ、以来トラブルはないそうだが、はて。法的な強制力はないことが明瞭なのに、どうして事実上の押しつけがまかり通っているのか、ひとしきりの議論となった。役所や銀行の窓口では、元号使用の強制を拒否して西暦貫徹を実践しようと盛り上がった。
元号使用に、法的拘束力のないことは明らかである。法が国民に元号使用を強制するには、国会における立法が必要であるところ、そのような法律はない。
元号法という法律はあるが、国民に元号使用の義務を課するものではない。
「元号法」 (1979年法律第43号)
1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
附 則
1 この法律は、公布の日から施行する。
2 昭和の元号は、本則第1項の規定に基づき定められたものとする。
以上が全文。国民の義務とも権利の制約とも、まったく無縁の法律。国民は、法によって元号使用を強制される立場にはない。国民に対する元号使用の強制は一切ないという触れこみがあっての元号法の法案上程であり、成立であった。いささかでも、元号使用強制の色彩が見えたら、元号法が国会を通ったはずはない。
元号・西暦のどちらを使ってもよいとなれば、圧倒的に便利なのは西暦であって、元号はどうしても分が悪い。何しろ、地域限定・通用期間限定の欠陥紀年法だからである。ところが、不便な元号が、廃れることなくいまだに生き残っている。官公署がこの不便な代物を使うからだ。そして国民に使わせるからだ。
問題は、官公署が当然のごとく、公文書を元号表記で書き、国民が官公署に提出する書類にも元号表記を要求していることである。このことに関して、以下のとおりの興味深い第108回通常国会参議院でのやり取りの記録が残されている。
「公的機関における元号の使用に関する質問主意書」の提出者は、日本社会党の野田哲議員。これへの1987年4月10日付けの答弁書は、中曽根康弘首相時代の政府によるもの。
広島県の県立学校54校で西暦表記の卒業証書授与があった。これを咎められた校長が県教委から戒告の処分を受けたという。野田議員の質問は、この件に関連して、一般論としての「公的機関における元号使用の義務の有無と強制力について」にまで及んでいる。
ハイライトとなる部分について抜粋して、質問と回答を紹介してみたい。
野田議員質問
本年3月30日、広島県教育委員会は、卒業証書の発行年月日を西暦で表記して交付した県内54校の県立高等学校及び養護・ろう学校の学校長に対し処分を行つたという。この問題は、憲法上及び法令上の重大な内容を含んでいると考えられるので、以下のとおり質問する。
質問一 広島県教育委員会が行つた処分の具体的内容等について以下の事項(略)を調査し、その結果を明示されたい。
政府答弁「一について」
広島県教育委員会からの説明によれば、次のとおりである。
広島県教育委員会においては、昭和三十七年から広島県教育委員会の公用文に関する規程で元号表示による書式を一般的に定め、事務処理を行つてきたところであるが、元号の使用は同和教育の推進を阻害するという理由から県立学校の卒業証書における年の表示について西暦を使用するよう教職員が校長に迫るという動きがあり、他方、教育委員会規則等で定められた個々の公用文の様式においては、必ずしもすべての公用文の年の表示方法が明確にはされていなかつたため、昭和六十二年一月、教育職員免許状に関する規則、広島県立高等学校学則施行細則など教育委員会規則等の一部改正を行い、個々の公用文の年の表示方法を元号表示とすることを明確にし、関係機関に対し周知を図るとともに、同年二月、県立学校長に対し、卒業証書における年の表示について前記規則等に基づく様式を遵守するよう指示文書を発した。
しかしながら、同年三月の県立学校の卒業式において、五十四校で前記規則等に定められた様式に反する卒業証書が交付された。
このため、広島県教育委員会は同年三月三十日付けで右五十四校の校長に対し、今後は法令等にのつとつた適正な職務の遂行に努めるよう文書訓告を行うとともに、監督責任者である教育長に対し戒告、教育部長及び高校教育課長に対し文書訓告を行つた。
質問三 公的機関における元号使用の義務の有無と強制力について
1 一般に、国・地方公共団体またはその他の公的機関が元号を使用すべき憲法上の義務は存在せず、また元号使用を強制する法令は存在しないと考えるが、政府の見解を伺いたい。
2 政府は、元号法案の国会審議に際して、「公的な機関の手続なりあるいは届け出等に対しましては、行政の統一的な事務処理上ひとつ元号でお届けを願いたいという協力方はお願いをいたします。しかし、たつて自分は西暦でいきたいという方につきましては、今日までと同様に、併用で、自由な立場で届け出を願つてもこれを受理すると、そういう考えでおるわけでございます。」(一九七九年四月二七日、参議院本会議における三原朝雄国務大臣の答弁)、また、「従来、戸籍などの諸届けの用紙に、不動文字で「昭和」と、こういうことを刷り込んでおることは事実でございます。これは申請者に便宜を与える、便宜を図るというだけの趣旨のものでございまして、強制するとか拘束するとかという趣旨ではございません。……この辺につきましては誤解が起こらぬように、強制する、拘束するものではないという趣旨を十分徹底して、行き違いがないようにいたしたいと思つております。」(同、古井喜實国務大臣の答弁)、また、「現在の住民基本台帳、それから印鑑登録のそれらの様式は、いずれもこれは市町村が自主的な判断で定めておるわけでございますが、一般に元号が使用されておりますけれども、これはもう御承知のように従来からの慣行によつて行われ、協力を求めておる、強制するというものでないことは言うまでもございません。」(同、澁谷直藏国務大臣の答弁)、さらに「教科書検定における元号の取り扱いについても、従来から、年代の表示については、教科の目標、内容等に照らし、適切な方法がとられるよう指導している……。」(同、内藤誉三郎国務大臣の答弁)など、公的機関における元号の使用は、あくまで「便宜的」「慣行的」なものであり、したがつて「協力を求める」ことはあつても「強制するとか拘束する」ものではないと、繰り返し答弁している。今日もその立場、見解は不動であると解するが政府の見解を示されたい。
3 右の政府見解によつたとしても、卒業証書は卒業生本人に手渡されるものであつて、公的機関内に保存される一般の公的文書に比べ、年号表示の特定の様式が便宜上求められる度合いは極めて小さいはずである。また、卒業証書が西暦で記載されたとしても、教育上特別に、混乱や問題を惹起するとは考えられない。したがつて、卒業証書に元号の使用を義務づけあるいは強制する合理的理由、法的根拠は存在しないと考えるが、政府の見解を示されたい。
4 卒業証書の年号表示の様式について、たまたま学校長、教師、父母、生徒などの意見、思想、信条等が、教育委員会の期待するところと異なり、西暦が使用されたからといつて、それを強権の発動たる行政処分でもつて処罰するがごときは妥当でなく、元号に関する政府見解の趣旨にも反し、かえつて教育的効果を損なう措置であると考える。したがつて、年号表示について、かかる処分発令を許容するがごとき規則や指導は不適切であり、改廃されるべきだと考えるが、政府の見解を示されたい。
答弁「三について」
1 国・地方公共団体等の公的機関が元号を使用すべき憲法上の義務はない。
また、現在、国・地方公共団体等の公的機関の内部において事務の統一的な処理のため元号の使用を義務づけるような規則等は別として、国民又は国・地方公共団体等の公的機関に対し、一般に元号の使用を強制する法令は存在しないと考える。
2 国・地方公共団体等の公的機関の事務については、従来から年の表示には原則として元号を使用することを慣行としてきている。したがつて、一般国民から公的機関への届出等においては、公務の統一的な処理のために、書類の年の表示には元号を用いるよう一般国民の協力を求めてきているが、このような考え方は今日においても変わりがない。
3及び4 公立学校の卒業証書は、当該学校の全課程を修了したことを公に証明する公文書であるが、教育委員会がその所管に属する公立学校の卒業証書に関し、年の表示方法を含めその様式を定めることについては、当該教育委員会の権限の範囲に属するものと考える。
また、教育委員会の規則等にその所管する学校の教職員が従うべきことは当然である。
以上のとおり、国・地方公共団体等の公的機関が元号を使用すべき憲法上の義務はなく、法律上の義務もない。また、「官公署は、書類の年の表示には元号を用いるよう一般国民の協力を求めてきている」に過ぎず、国民がこれに従うべき義務はない。
この代替わりに伴う、元号切り替えがチャンスだ。不便な元号の使用を拒否しよう。すっぱりと元号使用をやめよう。官公署からの元号使用協力も拒否しよう。
(2019年4月26日)
天皇の代替わりをテーマに、何度か小さな学習会の講師をお引き受けした。その都度、自分なりにレジメを作り直している。4月29日に予定されている学習会のレジメの一部をご紹介する。これを骨格に報告することになるが、ほぼ趣旨はご理解いただけるだろう。
※日本の民主主義思想と実践は、天皇制と対峙して生まれ天皇制と拮抗して育った。
今なお、その事情は基本的に変わらない。
奴隷主を敬愛するに至った奴隷こそが、真の奴隷である。
天皇制に囚われ、天皇に恐れ入った精神が、
主権者としてあるまじき臣民根性にほかならない。
今なお国民に根強く存在する臣民根性の残滓を払拭し、
天皇制マインドコントロールをはねのけるために、
「誰にも恐れ入らない反権威の精神」を身につけよう。
近代天皇制とは、《権力》と《権威》をもって構成された。
日本国憲法によって天皇の「権力」は剥奪されたが、
天皇の「権威」は、事実上象徴天皇として残された。
ひとえに、政権利用の便宜な道具としてである。
天皇代替わりの今、その道具の有用性が明らかとなり、
新たな権威付さえ、試みられている。
今、日本の民主主義の成熟度が試されている。
自立した主権者としての矜持をもって、
天皇や天皇制に対する毅然とした姿勢を堅持しよう。
※天皇交替劇における主権者意識の検証
☆これから何が起きるのか。
4月1日 新元号発表(「令和」)
4月末日 天皇(明仁)退位??? 退位礼正殿の儀
5月1日 新天皇(徳仁)即位
剣爾等承継の儀(剣爾渡御の儀)
その後、一連の即位行事と宗教儀式
10月22日 即位礼正殿の儀
11月13日?14日 大嘗祭
20年4月19日 立皇嗣の礼
10月22日安倍晋三が発声する「テンノーヘイカ・バンザイ」の笑止千万
しかし、これは喜劇ではなく、民主主義にとっての深刻な悲劇である。
11月13日?14日 大嘗祭のおぞましさ
国民主権原理違反と、政教分離原則違反と。
☆狙われているものは、
象徴天皇の権威付けであり、主権者意識の鈍麻であり、
偏狭なナショナリズムの喚起であり、
社会の矛盾から目を背ける方向での国民統合であって、
総じて、保守政権による天皇利用である。
(天皇の全存在そのものが、権力の政治利用のためのものである)
☆この交代劇のありようは、本来憲法の許さざるところ。
※憲法における天皇とはロボットである。
☆天皇とは、国民主権を脅かす「唯一の国民のライバル」である。
☆天皇とは、日本国憲法上の公務員の一職種であって、それ以上のものではない。
☆象徴とは、なんの権限も権能も持たないことを意味するだけのもので、
象徴であることから、何の積極的法律効果も生じない。
☆本来、「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為(のみ)を行ふ」だけのもので、国事行為の外に「象徴としての行為」や「天皇の公的行為」を認めてはならない。
☆憲法は、内閣の助言と承認を離れた天皇のひとり歩きを厳禁している。天皇は、自らの意思をもって行動することを禁じられた「めくら判を押すだけのロボット」(宮沢俊義説)である。
☆天皇の地位は、「主権の存する日本国民の総意に基づく」ものであって、主権者である国民の意思によって天皇の地位を廃絶しうることは、もとより可能である。
☆皇位継承法である皇室典範は一法律に過ぎず、国会が改廃しうることに疑問の余地がない。
☆現行憲法においては、「天皇は神聖にして侵すべからざる」存在ではない。
天皇に対する批判の自粛が「菊タブー」をつくる。
※日本国憲法体系の中で、天皇の存在は他の憲法価値と整合しない夾雑物である。
☆憲法体系のかたち
★「人権カタログ」+「統治機構」
人権を抑圧せず、人権を輝かせる統治機構(権力分立)
★3本の柱(国民主権・平和・人権尊重)
☆いずれの憲法体系理解においても、天皇は体系の中に位置づけられない。
体系の外にあって、憲法理念貫徹を邪魔せぬように釘を刺されている存在。
☆憲法の理念に地番を振れば、
1丁目には人権の尊重がある。
1番地には個人の尊厳、以下、精神的自由・人身の自由・経済的自由…
2丁目には、代議制民主主義。3丁目には、恒久平和…。
天皇は、番外地にある。
憲法体系の外にある。憲法が核としているものの例外である。
☆憲法に明記されている以上、天皇の存在は違憲ではない。しかし、憲法が中核としている価値や体系とは矛盾する。したがって、天皇の行為を厳格に制限して、存在を稀薄化する解釈と運用が望ましい。
☆言うまでもなく、人は平等である。貴も賎もない。天皇を尊貴な存在とすれば、その対極に卑賤を想定せざるを得ない。血統に対する信仰は、近代社会では、バカげた妄想でしかない。天皇の血統をありがたがってはならない。
「生きとし生けるもの、万世一系ならざるはなし」
「王侯将相寧んぞ種有らんや」
☆憲法自身がその99条で憲法尊重擁護義務を負う公務員の筆頭に天皇を挙げている。憲法解釈においては、人権・国民主権・平和等の憲法上の諸価値を損なわぬよう、天皇や天皇制をできるだけ消極的な存在とすることに意を尽くさなければならない。
(2019年4月25日)
天皇の交代が近くなると、いろんなことが起きてくる。とりわけ、今回は天皇の生前退位である。象徴天皇制となってから、はじめてのことだ。政権の祝意ムード強調の意図が透けて見える。そのことから、象徴天皇制の政権にとっての利用価値が見えてくる。
一世一元を発明した明治政府は、天皇の生前退位を想定していなかった。おそらくは、生前退位を認めれば、政治の力学によって天皇への退位強制があり得ると考えられたからであろう。旧皇室典範第10条は、下記のとおり規定していた。
第十條 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ踐祚シ祖宗ノ?器ヲ承ク
「践祚」(次の天皇への地位の承継)は、「天皇が崩ずるとき」に限られ、譲位は想定されていなかった。つまり、新天皇の即位は、常に前天皇の死去とセットになっていたから、皇位の承継は弔意と祝意とが、合い交じるものとされた。ところが、今回はその弔意の必要がない。あっけらかんとした、新天皇即位の祝賀だけとなった。
ついでに、旧皇室典範第2章(踐祚即位)3か条の条文を挙げておこう。
第二章 踐祚即位
第十條 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ踐祚シ祖宗ノ?器ヲ承ク
第十一條 即位ノ禮及大嘗祭ハ京?ニ於テ之ヲ行フ
第十二條 踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ
これが、「天皇は神聖にして侵すべからず」(大日本帝国憲法第3条)とされた時代の皇位承継法だった。旧天皇が死ぬと、新天皇が直ちに即位して、皇位の正統性を証する「三種の神器」を受け継ぐ。その上で、「即位の礼」と「大嘗祭」が挙行される。そして、「元号を制定して一代の間に元号の変更はしない」というのだ。
ここに出てくる天皇位承継の小道具は、「三種の神器」「即位の礼」「大嘗祭」、そして「元号」である。天皇が神だった時代の、この小道具やらクサイ演出やらが、今の今、真面目くさってそのとおりに行われつつあることが、たいへんに不気味であり、恐いと言わざるを得ない。
この不気味と恐さの由来は、政権が躍起になって天皇フィーバーを盛り上げようしている異様さにある。こんなバカバカしいことを、よい齢をした大人たちが大真面目でやっていることだ。魂胆があるに違いなと思うのが、あたりまえの健全な感覚。
旧天皇制を支える、大道具小道具は無数にあった。その最大のものは、皇軍であり、旧憲法であり、伊勢神宮以下の神社であり、これとは系統を異にする靖国神社であり、教育制度であり、大逆罪であり、不敬罪であり、治安維持法であり、特高警察であり、憲兵であり、思想検事等々であった。
いま、象徴天皇制を支える小道具は、元号・祝日・「日の丸・君が代」・叙位叙勲・恩赦・賜杯・天皇賞・恩賜公園……等々である。
天皇交代フィーバーを盛り上げるために、象徴天皇制を支える小道具も総動員されている。まずは、4月1日以来の新元号フィーバーである。バカバカしくも、このナショナリズムの空気が恐ろしい。
次いで、祝日である。新天皇即位当日の5月1日を休日とすることによる「10連休」が、祝意のムードを盛り上げる。さらに、即位礼正殿の儀の10月22日まで休日となる。その趣旨を内閣府は、こう述べている。
「天皇の即位に際し、国民こぞって祝意を表するため、天皇の即位の日及び即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律が平成30年12月14日に公布され、即位の日及び即位礼正殿の儀が行われる日が休日(祝日の扱い)となりました。」
そして、国旗・国歌(日の丸・君が代)である。本年4月2日に、下記の閣議決定が行われた。
御即位当日における祝意奉表について
御即位当日(5月1日)、祝意を表するため、各府省においては、下記の措置をとるものとする。
記
1 国旗を掲揚すること。
2 地方公共団体に対しても、国旗を掲揚するよう協力方を要望すること。
3 地方公共団体以外の公署、学校、会社、その他一般においても、国旗を掲揚するよう協力方を要望すること。
「御即位当日における祝意奉表」という言葉使いがまことに怪しからん。国民への奉仕者である公務員には、「御即位」と尊敬語を使い、主権者国民の行為に「祝意奉表」と謙譲語を使っている。これは、主客転倒であり、倒錯ではないか。
「地方公共団体以外の公署、学校、会社、その他一般においても、国旗を掲揚するよう協力方を要望すること」は、出過ぎた行為だ。公権力が、主権者国民に天皇への祝意の要請などしてはならない。国旗掲揚の要請など、もってのほかだ。
ことは、国民主権の揺らぎをもたらしかねない。惑わされることなく、主権者意識をしっかりともたねばならない。国民こぞっての祝意のムードに乗せられているうちに、天皇批判がタブーになりかねない。天皇交代への祝意の要請は断固拒否する。祝意の強制など、絶対にあってはならない。はっきり言おう。今回の天皇の交代は税金むだ遣い。なんの目出度いことがあろうか。
(2019年4月24日)
拝島に法律事務所を構え、基地問題をライフワークとしている盛岡暉道さんは、私と同期の弁護士である。出身は、盛岡ではなく福知山だと聞いている。司法修習の時代から活動を共にした仲だが、同輩という感じではない。先輩として、一目置き続けてきた。現天皇(明仁)より2歳年下という生まれの盛岡さんは、子どもの頃の戦争の記憶を人生の原体験としている世代なのだ。
普段はもの静かな盛岡さんだが、最近仲間内の通信に、天皇制についての考えを寄稿している。きっかけは、ある弁護士のこんな寄稿である。
「安倍晋三内閣総理大臣はじめ国務大臣や国会議員がこの義務(憲法尊重擁護義務)に公然と反する行動をとっている現実を目にするにつけ、象徴天皇制こそ日本国憲法に埋め込まれた『護憲装置』だったと痛感する。」
私も仰天したが、反論は書かなかった。盛岡さんが、旬刊の次号にこれをたしなめる一文を認めている。「『護憲装置としての象徴天皇』におもう」として、「そんなに天皇を持ち上げたり、恐れいったりするなよ」という論調。「護憲装置としての象徴天皇制」などという寄稿には、どうしても黙ってはおられないのだ。
その盛岡さんが、その通信の最近号に、「『象徴天皇』は、必ず悪用される」というタイトルで寄稿している。天皇について、しっかりと言うべきことを言っておかなければならない、という気持が伝わってくる。
占領軍のマッカーサーに強いられて、天皇を主権者から無権能の象徴に格下げするのだから、まあいいんじゃないかと納得していたら、やっぱり、人間を、しかも内外の人権蹂躙の頭に祭り上げられてきた人物本人やその子孫を、象徴の座に据えてしまったのは、取り返しのつかない間違いだった。
間もなく、天皇の代替わりを利用して、時代離れのした、国民の主権者意識を希薄にしてしまう行事が繰り広げられるが、それらがいかに憲法の精神に反したものであるかについて、多くの人々の間で、辛抱強く論議していくことが必要であろう。
この盛岡さんの寄稿で注目したのは、1966年の中央教育審議会(中教審)の答申「期待される人間像」を引用していることである。当時ごうごうたる非難に曝された、「期待される人間像」は、「後期中等教育の拡充整備について」という、答申の「別表」に付されたもの。私は、もっぱらこれについて、ものを言いたい。
「期待される人間像」の章立ては以下のとおりである。
第1部? 当面する日本人の課題
第2部? 日本人にとくに期待されるもの
第1章? 個人として
第2章? 家庭人として
第3章? 社会人として
第4章? 国民として
各章のすべてが問題だらけだが、象徴天皇制との問題は、「第4章? 国民として」にあり、
1 正しい愛国心をもつこと
2? 象徴に敬愛の念をもつこと
3? すぐれた国民性を伸ばすこと
の各項が立てられている。
第4章の、1?2項の全文を引用しておこう。
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第4章? 国民として
1? 正しい愛国心をもつこと
今日世界において,国家を構成せず国家に所属しないいかなる個人もなく,民族もない。国家は世界において最も有機的であり,強力な集団である。個人の幸福も安全も国家によるところがきわめて大きい。世界人類の発展に寄与する道も国家を通じて開かれているのが普通である。国家を正しく愛することが国家に対する忠誠である。正しい愛国心は人類愛に通ずる。
真の愛国心とは,自国の価値をいっそう高めようとする心がけであり,その努力である。自国の存在に無関心であり,その価値の向上に努めず,ましてその価値を無視しようとすることは,自国を憎むことともなろう。われわれは正しい愛国心をもたなければならない。
2? 象徴に敬愛の念をもつこと
日本の歴史をふりかえるならば,天皇は日本国および日本国民統合の象徴として,ゆるがぬものをもっていたことが知られる。日本国憲法はそのことを,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」という表現で明確に規定したのである。もともと象徴とは象徴されるものが実体としてあってはじめて象徴としての意味をもつ。そしてこの際,象徴としての天皇の実体をなすものは,日本国および日本国民の統合ということである。しかも象徴するものは象徴されるものを表現する。もしそうであるならば,日本国を愛するものが,日本国の象徴を愛するということは,論理上当然である。
天皇への敬愛の念をつきつめていけば,それは日本国への敬愛の念に通ずる。けだし日本国の象徴たる天皇を敬愛することは,その実体たる日本国を敬愛することに通ずるからである。このような天皇を日本の象徴として自国の上にいただいてきたところに,日本国の独自な姿がある。
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なんとまあ、偏頗なイデオロギーに満ちていることだろうか。「正しい愛国心」論もさることながら、「象徴に敬愛の念をもつこと」がヒドイ。逐語的にコメントしておきたい。
日本の歴史をふりかえるならば,天皇は日本国および日本国民統合の象徴として,ゆるがぬものをもっていたことが知られる。
そりゃウソだ。日本の歴史をふりかえるならば,古代の天皇とは覇権を争った武力闘争の偶々の勝者であったに過ぎない。武力による勝者は、その統治を強固なものとするために統治の正統性を権威付ける。どの権力者もやったことを天皇と名乗った者もした。宗教や説話や学問や芸術や詩歌や、つまりは文化と法制度を総動員して作りあげられたのが天皇の権威というものである。天皇の権力も権威も、支配者の支配者による支配のためのもので、「日本国および日本国民統合の象徴として,ゆるがぬものをもっていた」などとは、支配層のたわ言である。のみならず、天皇を象徴とする用語も概念も、歴史的に存在してはいない。
日本国憲法はそのことを,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」という表現で明確に規定したのである。
日本国憲法第1条の文言はそのとおりである。しかし、その文言が「日本の歴史における天皇の地位を確認した」というのは大間違い。むしろ、この象徴規定は、天皇のすべての権力を剥ぎ取ったことの宣言として意味をもつ。言うまでもなく、憲法の構造上剥ぎ取ったのは主権者国民である。
主権者国民は、天皇という存在から権力を剥ぎ取ったが、天皇の地位までは剥ぎ取らずに残した。権力を剥ぎ取って残された天皇の地位を、日本国憲法は「象徴」という言葉で表現した。象徴とは、存在はするもののなんの法律効果も生じない地位を表現したものである。
大事なことは、「国民の総意に基づいて、象徴としての天皇の地位が確認された」ということである。論理の必然として、天皇の地位は国民の総意によって廃止することができる。そのとき、抑制された天皇の人権も復活することになる。
もともと象徴とは象徴されるものが実体としてあってはじめて象徴としての意味をもつ。そしてこの際,象徴としての天皇の実体をなすものは,日本国および日本国民の統合ということである。しかも象徴するものは象徴されるものを表現する。もしそうであるならば,日本国を愛するものが,日本国の象徴を愛するということは,論理上当然である。
そりゃごまかしだ。このごまかしのレトリックが白眉である。ウソとごまかしは、今や安倍政権の専売特許だが、天皇制を支える「理屈」は、昔からウソとごまかしで塗り固められたものなのだ。
象徴という言葉をマジックワードとして、まずは「日本国=天皇」と結びつける。ならば、「日本を愛する」の『日本』に、『天皇』を代入することが論理上当然という。バカげた論理学。
日本も、日本国も、日本国民も、多様で多義である。無限の多面体と言ってよい。それぞれが多様なイメージで語るものなのだ。ところが、この「期待される人間像」のレトリックでは、天皇を措いての日本はなく、天皇を愛することのない愛国心はない、というのだ。恐るべきは、「象徴」というマジックワードの働きか。はたまた、高坂正顕・天野貞祐らの牽強付会ぶりか。
天皇への敬愛の念をつきつめていけば,それは日本国への敬愛の念に通ずる。けだし日本国の象徴たる天皇を敬愛することは,その実体たる日本国を敬愛することに通ずるからである。このような天皇を日本の象徴として自国の上にいただいてきたところに,日本国の独自な姿がある。
「天皇への敬愛の念をつきつめていけば,それは日本国への敬愛の念に通ずる」とは、論理でも実証でも、法解釈でもない。良く言えば、天皇教信者の信仰告白である。「戦後20年を経て、われわれは、いまだに戦前の教育で刷り込まれた、天皇への敬愛を捨てきれません」「誰がなんと言おうとも、天皇あっての日本で、天皇なければ日本ではない」という、マインドコントロールから脱し得ない心情の告白である。
悪く言えば、愚民観に基づく天皇の再利用(リユース)である。明治維新時に天皇制を作りあげた藩閥政権の領袖のごとく、天皇を「玉」として手中にし、天皇の権威を最大限に利用し尽くした、あの再現である。戦後の支配層の立場において、象徴天皇制をどう再利用できるか、その試みであったろう。
保守政権にとって、資本にとって、そして旧体制の残滓全体にとって、象徴天皇制はどのように使えるかが追求された。その暫定結論が、「天皇を自国の上にいただいてきた」という「象徴天皇版國體論」である。その完成形を目指し、これを国民に刷り込もうという、うごめきは今なお、続いている。
盛岡さんの言うとおり、「間もなく、天皇の代替わりを利用して、時代離れのした、国民の主権者意識を希薄にしてしまう行事が繰り広げられる」ことになる。「それらがいかに憲法の精神に反したものであるか」について、私も多くの人々とともに、辛抱強く論議していくこととしよう。
(2019年4月23日)
ご存知「望月衣塑子劇場」が大きな人気を呼んでいる。舞台は官邸記者会見場である。主役は、いかにも正義の味方の、滑舌流暢なヒロイン。これに配する仇役が、いかにも悪玉の菅義偉官房長官とその手下の上村秀紀内閣官房総理大臣官邸報道室長の二人。もちろんこの二人の背後に、大黒幕のアベシンゾーが控えている。
ヒロインは、アベ・スガ一家の悪事を暴こうと果敢に菅に切り込む。これを、上村秀紀が必至になって妨害する。「質問は簡潔に?!」というのが、悪役どもの武器。妨害にめげずにヒロインが奮闘する姿を観衆が一体となって応援している。その拍手が、この舞台のロングランを支えている。
但し、このヒロインも、所詮は宮仕えの身。お抱えの社が配役交替を指示すれば舞台を下りざるを得ない。その会社は、黒幕の動きと観客の反応をともに見ている。ロングラン実現のためには、観客の応援の継続が必要なのだ。国民の多数がヒロインを応援しているぞ、と可視化して見せなければならない。そのための手段の一つとして、法律家6団体が、集会を開いた。望月衣塑子記者個人の問題を超えて、国民の知る権利や民主主義に関わる重大事であることを確認するためでもある。
それが、今夕(4月22日)、衆院第1議員会館での「安倍政権と取材の自由」シンポジウム。「?官邸による取材の自由と国民の知る権利の侵害を跳ね飛ばす院内集会」という副題が付いている。会館の大会議室を満席にした盛会であり、副題のとおりの「跳ね飛ばす」元気の出る集会となった。
集会の趣旨は、「安倍政権による取材の自由侵害を許すな」「特定の記者の質問を封じてはならない」というもの。このことは、民主主義の根幹に関わることとして、看過できない。
民主主義は、報道の自由に支えられて成立する。メディアの取材と報道の自由があってはじめて、国民は知る権利を獲得することができる。国民が国政に関する重要情報を知らずに、主権を適切に行使することはできない。
官邸の記者クラブにおける官房長官記者会見の様子がおかしい。当然に、権力中枢に対する取材では、記者と権力との間に厳しい緊張関係があってしかるべきである。記者とは、政権に不都合な事実を聞き出すことが本来の任務である。政権に迎合するような質問しかしない忖度記者は、似非記者でしかない。あるいは失格記者。権力に迎合する記者は、国民の目からは用なし記者なのだ。
政権側は、記者から不都合な取材あることを覚悟しなければならない。記者会見での不都合な質問にも、誠実に答えなければならない。記者への回答は国民への開示ということ。開示した事実に対する評価は、国民の判断に委ねなければならない。政権が記者会見で、「政権に不都合な質問は控えろ」「そんな記者には、質問させるな」などというのは、もってのほかなのだ。
ところが、安倍政権の姿勢はこのような民主主義の常識とはかけ離れたものとなっている。昨年(2018年)暮れ、菅官房長官会見の司会を担当する官邸側の上村秀紀(内閣官房総理大臣官邸報道室長)は、東京新聞望月衣塑子記者の質問にクレームを付けた。同記者の「辺野古基地工事における投入土砂として、許可条件違反の赤土が使用されているのではないか」という質問に事実上回答を拒否して、内閣記者会に「事実誤認がある」とした文書を示し、「問題意識の共有」を求めるなどとした。これは、安倍政権の傲慢さを示すものというだけてなく、国民の知る権利をないがしろにする重大問題ではないか。
政権が、記者の質問を「事実誤認がある」「問題意識の共有を求める」として、封殺しようとしているのである。こんなことが横行すれば、世は忖度記者ばかり、アユヘツライ記者ばかりになって、国民は知る権利を失い、真実から疎外される。民主主義は、地に落ちる。これは、「跳ね飛ば」さねばならない事態ではないか。
集会第1部の望月衣塑子講演が、「民主主義とは何か?安倍政権とメディア」と表題したもの。詳細な経過報告とともに、政権の理不尽にけっして負けない、という元気を感じさせる頼もしいものだった。
第2部がパネル・ディスカッション。「安倍政権によるメディア攻撃をどう考えるか、どう立ち向かうか」
梓澤和幸(弁護士)、永田浩三(元NHKディレクター)、望月記者の各パネラーの持ち味を引き出すよう、清水雅彦さん(日体大)が上手なコーディネーターを務めた。
そして、6人の現役記者やジャーナリストの連帯・激励の挨拶があった。これがいずれも興味深く、印象に残るものだった。下記に掲載のアピールを採択して、日民協代表の右崎正博さんが、閉会の挨拶をされた。
繰り返されたのが、「この事件を、望月記者対官房長官問題と矮小化してはならない。」「政権の傲慢が国民の知る権利侵害の危機を招いていと認識しなければならない」「元凶は政権の理不尽にある。しかし、それをはねのけるだけのメディアの力量がないことが歯がゆい」「跳ね返すメディアの力は、国民の後押しなくしては生まれない」ということだった。
安倍政権の酷さ醜さが、ここにも露呈している。ここでも、国民の力を結集して闘わなければならない。「望月衣塑子劇場」のヒロインには、まだまだ活躍願わねばならない。
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4.22「安倍政権と取材の自由」集会アピール
1 2018年12月28日、上村秀紀内閣官房総理大臣官邸報道室長は、内閣記者会宛てに、記者会見における菅義偉官房長官に対する東京新聞望月衣塑子記者の質問(沖縄県辺野古基地工事における赤土問題)について「事実誤認がある」とした文書(以下「内閣記者会宛て文書」という。)を示し、「問題意識の共有」を求めるとしました。
政府の一方的な認識を前提として、質問者から寄せられた事実認識を「事実誤認」と断定し説明や回答を免れることは、何が事実であるかを時の権力者が決め、そして政府の意に沿わない記者を排除することにつながるものであって、決して許されません。
こうした行為が見過ごされるのであれば、記者による取材は大きな制約を受け、国民の知る権利(憲法21条)はないがしろにされ、また、自由な言論によって政治的意思決定に参加する権利も奪われてしまいます。
2 もっとも、本件は唐突になされたものではありません。これまでも、2001年1月NHKのドキュメンタリー番組「戦争をどう裁くか 問われる戦時性暴力」の内容に対し安倍晋三内閣官房副長官(当時)らが介入した事件をはじめとして、2015年5月の自民党によるNHKとテレビ朝日経営幹部への聴取問題、同年6月の沖縄2紙への自民党議員らによる暴言、2016年2月の高市早苗総務大臣(当時)による電波停止発言、2018年9月自民党総裁選に関する「公平・公正報道」要求、2018年通常国会における安倍首相による朝日新聞への執拗な攻撃など、与党・政府によるメディアへの直接間接の介入攻撃事例は後を絶ちません。
3 本日の集会では、本件の直接の当事者である望月氏による講演が行われ、また望月氏とジャーナリストで元NHKプロデューサーの永田浩三氏、弁護士で報道の自由に詳しい梓澤和幸氏の3名によるパネルディスカッションが行われました。さらには、多くのメディア有志による応援スピーチも行なわれました。
それぞれの発言を通じて、与党・政府によるメディアへの介入・攻撃がいかに組織的でかつ巧妙であるかを知るとともに、これら一連の報道の自由の危機は、憲法違反の秘密保護法や安保法制の制定、自民党などのもくろむ明文改憲の動き、「戦争する国づくり」と連動していることも知ることができました。
そして、こうした権力の腐敗や濫用を監視し、暴走を食い止めることこそがジャーナリズムの本来の使命であること、権力からの介入・攻撃に対して、すべてのメディアが連帯してこれを「跳ね飛ばす」ことの重要性を学ぶことができました。
また、この問題を単に望月記者一人への攻撃として捉えるのではなく、メディア全体、ひいては市民への攻撃として理解し、メディアと市民とが共同して反対の声を挙げる運動が重要であるということも学ぶことができました。
与党・政府によるメディアへの介入・攻撃に対して、市民が共同して、「政権によるメディアへの介入攻撃は許さない」、「国民の知る権利と報道、取材の自由を守れ」の声を大きく広げていくことが、今、緊急に求められています。
4 安倍首相がもくろむ明文改憲が争点となる参議院選挙を3か月後に控え、与党・政府によるメディアへの介入とメディア側の一層の「自己規制」「萎縮」「忖度」がとりわけ懸念されます。
こうした事態に対抗すべく、私たちは、今後とも、権力を監視し権力の暴走をくいとめるメディアを応援し、メディアに携わる人々と連帯して憲法の保障する取材の自由を守り抜き、与党・政府からの介入・攻撃を「跳ね飛ばす」ことを誓います。
そして、私たちは、政府に対して、内閣記者会宛て文書を撤回するよう求めるとともに、今後、取材の自由を最大限尊重し、メディアに対する不当な圧力を加えないことを強く求めます。
以上
2019年4月22日
「4.22安倍政権と取材の自由集会」参加者一同
主催団体 改憲問題対策法律家6団体連絡会
構成団体
社会文化法律センター ?? 代表理事 宮里 邦雄
自 由 法 曹 団 団 長 舩尾 徹
青年法律家協会弁護士学者合同部会 議 長 北村 栄
日本国際法律家協会? 会 長 大熊 政一
日本反核法律家協会 会 長 佐々木猛也
日本民主法律家協会 理? 事 ?長 右崎 正博
(2019年4月22日)
日本民主法律家協会の機関誌・「法と民主主義」4月号【通算537号】は、来週中に発刊となる。特集の総合タイトルが、「日韓関係をめぐる諸問題を検証する」というもの。発刊に先だって、そのリードをご紹介する。
時あたかも「3・1独立運動」から100周年といういま、日韓関係が過去最悪の事態と言われる。保守層の一部では、あろうことか、「日韓断交」の言葉さえ飛びかっているという。
2018年10月30日、韓国大法院は新日鉄住金の上告を棄却して、元徴用工の賠償請求を認容した原判決を確定させた。この大法院判決は、韓国における三権分立が正常に作用していることを示すものである。しかし、それ以来の急激な日韓関係の軋みである。
同年11月21日には、日韓「慰安婦」合意(2015年12月28日)によって設立された「和解・癒し財団」の解散が発表されて、同合意は事実上崩壊した。同月29日には、三菱重工に対しても、新日鉄住金と同内容の徴用工事件判決の言い渡しがあった。さらに、同年12月20日には、韓国海軍の広開土国王艦から自衛隊機に対する「レーダー照射」問題が生じ、これが外交問題となって日韓関係の悪化に拍車がかかった。
その上、今年の2月7日には、韓国議会(一審制)の文喜相議長が、天皇に対する元慰安婦への謝罪要求発言があったとして物議を醸すに至っている。
保守の朴槿恵大統領時代には、比較的「円満・良好」だった安倍政権との関係が、市民の「キャンドル革命」によって樹立された文在寅政権とは基本的に反りが合わないというべきか、軋轢が噴出している。
その軋轢が、日本国民のナショナリズムの古層を刺激し、韓国に対する排外・差別感情を醸成している点で、看過しがたい。冷静に、問題を歴史の根本から見つめなければならない。
問題の根源は、旧天皇制日本による朝鮮植民地化の歴史にある。そして、韓国の軍事独裁政権と日本の保守政権とで合意された、日韓の戦後処理の杜撰さにも大きな問題がある。また、現在進行しつつある、南北関係や米朝関係の大きな変化の反映という側面も見なければならない。
現在の日本国内の事態は、政府に煽られた形で、メディアや世論が韓国批判の論調一色に染められていると言って過言でない。対韓世論悪化の元凶は、明らかに日本政府である。
本特集は、法律家の任務として、かつて日本の植民地支配時代に侵害され蹂躙された朝鮮・韓国の人権回復の法理を再確認するとともに、これまでの日中・日韓の各戦後補償訴訟の到達点を踏まえて、政権のデマゴギーを許さない運動に役立てようとするものである。
本特集の構成は以下のとおりである。
◆巻頭論文として、和田春樹氏の「日・韓・朝 関係の戦後史」(仮題)を掲載する。植民地支配を脱した韓国朝鮮が、東西対立の最前線として、朝鮮戦争を余儀なくされたところからの現代史を通覧して、軋んだ現状の原因となった日韓、日朝の戦後補償問題の経過と、米国を含む現状の国際関係までを把握するためである。
◆次に、植民支配の残滓を清算すべきでありながら不十分に終わった、「日韓の戦後処理の全体像と問題点」を、この点に精通している山本晴太弁護士の寄稿が明らかにする。
◆日韓の請求権問題は、中国の戦後補償訴訟との共通点をもつ。その訴訟実務を担当した森田大三弁護士が、「中国人強制連行・強制労働事件の解決事例」を踏まえて、韓国徴用工問題解決への展望を語っている。
◆また、「韓国徴用工裁判の経緯、判決の概要と今後の取り組みについて」は、専門実務家の立場から、川上詩朗弁護士が全体像を明確にしている。
◆梓澤和幸弁護士の「徴用工判決と金景錫事件」は、訴訟において和解による被害救済を実現した、貴重な実例の報告である。
◆大森典子弁護士「日韓合意の破綻──『慰安婦』問題と日韓関係」は、日本の朝鮮植民地支配時代の人権侵害を象徴する「慰安婦」問題における、2015年合意の脆弱な弱点を指摘するものである。
◆最後に、韓国側の事情を中心に、「文政権と南北宥和 ― その対日政策への影響」について、東京都市大学・李洪千准教授に解説をお願いした。
以上のとおり、求めるところは人権尊重の原理が国境を越えた普遍性を有していることの再確認であり、日韓市民間の友誼と連帯を通じての北東アジアの平和の構築である。本特集が、その理解と運動に寄与することを強く願う。
(担当編集委員 弁護士 澤藤統一郎)
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「法と民主主義」は、毎月編集委員会を開き、全て会員の手で作っています。憲法、原発、司法、天皇制など、情勢に即応したテーマで、法理論と法律家運動の実践を結合した内容を発信し、法律家だけでなく、広くジャーナリストや市民の方々からもご好評をいただいています。定期購読も、1冊からのご購入も可能です(1冊1000円)。
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(2019年4月21日)
本日(4月20日)の東京新聞「こちら特報部」に、「進んだ愛国心強制」「日の丸・君が代 問われた平成」というタイトルの記事。都教委の「日の丸・君が代」強制と、それへの抵抗の運動と訴訟の記事がメインとなっている。もう一つのテーマが、ILOによる日本政府への国旗国歌強制改善勧告の件。
リードは、以下のとおり。
「日の丸」の掲揚と「君が代」の斉唱が学校教育で規定された1989年の学習指導要領改定から30年。平成の時代は教師らにとって、思想良心の自由に「踏み絵」を迫られた時間でもあった。卒業式などで起立せず、君が代を歌わなかったのは職務命令に反するとして、処分を受けた教師らがその違憲性を訴えた裁判は今春、終結。国際労働機関(ILO)は日本政府に改善を促した。国旗国歌の強制問題は今、どこにあるのか。
「平成の時代は教師らにとって、思想良心の自由に「踏み絵」を迫られた時間でもあった。」という、「平成『踏み絵』時代論」、あるいは「思想良心受難時代論」である。「平成」という期間の区切り方にはなんの必然性もないが、なるほど、符合している。学習指導要領の国旗国歌条項の改定が1989年だった。それまで学校行事での国旗掲揚・国歌斉唱は「望ましい」とされていたに過ぎなかったものが、「国旗を掲揚し国歌を斉唱するよう指導するものとする」と、義務条項に読める文言となった。あれから、ちょうど30年。平成と言われる時代は、愛国心教育が子どもたちに吹き込まれた時代と重なった。
おそらくは、愛国心教育というマインドコントロールの効果に染まった子どもたちが、大量のネトウヨ族に育ち、嫌韓反中本や「日本国紀」などの読者となっているのだろう。自分自身の自立した主体性をもたず、自分の頭でものを考えることなく、国家や民族に強いアイデンティティを感じて、自国・自民族の歴史を美化し、民族差別を当然のこととするその心根。それが、愛国心教育の赫々たる成果だ。
これに抵抗する教員が少数派となり、抑圧の対象となり、権力的な制裁を受けてきたのが、なるほど「平成」という元号に重なる30年の時代だった。日の丸・君が代問題は、時代の空気の象徴である。こと、思想・良心の自由、あるいは教育の自由にとって、受難の時代として振り返るしかない。しかし、単なる受難一方の時代ではない。精一杯の抵抗の時代でもあった。
特報部記事の取材先は、5回の不起立で裁判を闘った田中聡史さん、やはり訴訟の原告だった、渡辺厚子さん。そして、弁護団の私、名古屋大学の愛敬浩二さん、東大の高橋哲哉さんなど。
良心的なメディアに、真面目な姿勢で取りあげていただいたことが、まことにありがたい。
ところで、東京新聞は、3月30日に、「ILO、政府に是正勧告」の記事を出している。これについては、同日に私のブログで紹介しているのでご覧いただきたい。
「ILOが日本政府に、「日の丸・君が代」強制の是正勧告」
https://article9.jp/wordpress/?p=12331
この東京新聞記事を検索すると、この記事に対する賛否の意見を読むことかできる。これが、興味深い。まことに真っ当なILO勧告への賛成意見(「日の丸・君が代」強制反対)と、まことに乱暴で真っ当ならざる反対意見(「日の丸・君が代」強制賛成)との対比が、絵に描いたごとくに明瞭なのだ。
いくつかの典型例をピックアップしてみよう。
侵略戦争のシンボルに拒否感を抱く人の思想・良心の自由は保障されるべきであり、学校という公的な場でこそ尊重が求められる。政府も国旗国歌法の審議で「強制しない」としていた。懲戒処分を背景に強制などもってのほか。(山添拓)
学校現場での「日の丸掲揚・君が代斉唱」の強制(従わない教職員らへの懲戒処分)を巡り、ILOが初めて是正を求める勧告を出したとのこと。侵略戦争・植民地支配のアンセムとして機能した「君が代」の斉唱の強制は、内心の自由の侵害です。歌わない自由を認めるべきです。(明日の自由を守る若手弁護士の会)
「君が代」「日の丸」はただの物ではなく、天皇主権とその下での侵略戦争の歴史を背負っている。だから良心的な教員であるほど、それらに敬意を表することはできないのだ。とにかく国旗掲揚や国歌斉唱を強制する職務命令は、国際的には無効であることが示されたわけだ
これ本当は独立の近代国家である(少なくともそう自称している)我が国の裁判所が言わなきゃいかんことなのよ。ところが我が国の裁判所は正反対のことを言いそういった我が国の現状に対してまたしても海外から至極真っ当な苦言を呈されるという。いつまで続けるのこんなこと。
また、「ILOは反日」と言い出す輩が現れるのだろう。国連も反日、ASEANも反日、世界中反日だらけ。自分の方がおかしいとか思わないのかね。
強制賛成派は、こんな調子だ。
は?日本人じゃないんですか?
国家(ママ)歌いたくないとか、国旗掲揚したくないとか、どこのダダっ子…(笑)
嫌なら教員辞めれば良いだけw
就業規則に従わない社員みないなものですよねw
ふざけるな!教師は国旗掲揚、国歌斉唱は義務です。それが仕事だからです。いやなら、辞めればいいだけです。
↑なに大喜びで報道してんだよ
サヨクミニコミ誌か?
ホントどこの国の新聞なんだ?
「内心の自由」が無定量に認められると面白い世の中になる。「気に入らない客」も「気に入らない上司」も皆、憲法で認められた「内心の自由」で沈黙=無視しておけばオケw いんじゃない?
えぇ……(困惑)
教員は国家と契約して国民の血税で食ってるやんな、国家に対して従うと宣誓してるワケ
なら、その国家の歌を儀式的な場で歌うというのは、至極当然のことじゃないか?
少し誤解があるようだから、一言。訴訟での教員側の主張は、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制は受け入れがたいとしているだけ。けっして、思想・良心の自由の外部的な表出行為について、無制限な自由を主張しているわけではない。教員の職務との関係で、思想・良心にもとづく行動にも当然に限界がある。
たとえば、仮に教員が天地創造説を信じていたとしても、教室では科学的な定説として進化論を教えなければならない。記紀神話の信仰者も、神話を史実として教えてはならない。その場面では、教員の思想・良心の自由という憲法価値が、子どもの真理を学ぶべき権利に席を譲るからだ。
しかし、国家と個人の関係に関わる問題についてはそうではない。優れて価値観に関わる問題として、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に対する態度には、科学や学問とは異なり、何が正しいかを決めることはできない。この局面では、教員は自らの思想・良心にしたがった行動をとればよく、子どもたちの教育のためとして、思想・良心を枉げる必要はない。
進化論を否定する子どもや、アマテラスの存在を史実だと信じる子どもを育ててはならない。国旗・国歌の強制を認める子どもを育てるべきか、国旗・国歌の強制を認めない子どもとなるよう教育すべきかは、一律に教育も教育行政も決することはできない。その分野では、教員は自分の信念に従ってよいのだ。
(2019年4月20日)
法廷を満席にした傍聴参加の皆様、弁護団の皆様、大いに勇気づけられました。ありがとうございました。
私(澤藤)とDHC・吉田嘉明との間の「DHCスラップ・反撃訴訟」の山場となった本日の証拠調べ期日が終わった。吉田嘉明は、裁判所からの呼出を受けながら、出廷しなかった。私の反訴原告本人としての尋問があり、吉田に代る立場でということで、DHCの総務部長内海拓郎が証言した。
裁判所は、「もし、吉田嘉明が自ら出廷して尋問を受けるという申し出があれば、あらためての証拠調べ期日設定もありうる」と留保を付しつつも、次回を7月4日(木)午前10時30分と指定し、そこでの弁論終結予定とした。最終準備書面提出期限は、6月27日(木)。
私の尋問は、澤藤大河弁護士が担当した。内容は、ご紹介した「反訴原告本人陳述書」の要約である。裁判官に分かってもらいたかったのは、次のようなことだ。
「誰にでも民事訴訟を提起する権利があるのだから、被告となる者は応訴負担を甘受せざるを得ない」「裁判は判決に至らぬ内は勝ち負けが分からないのだから、提訴不当とは言いがたい」などと、そこで判断停止してもらっては困るのだ。
スラップとは、提訴だけで被告に大迷惑をかける行為なのだ。被告とされた者は、裁判に勝ってもなお、迷惑が残ることになる。スラッブを掛ける方は、裁判に負けても、なお提訴の目的を達することができる。提訴の目的とは、提訴の威嚇によって自分に対する批判の言論を封じることなのだから。
普通は、十分な勝訴の見込みがなければ提訴はしない。敗訴ともなれば、手間暇かけたうえに費用倒れになってしまうのだから。しかし、スラップでは事情が大きく異なる。提訴を起こそうという者が、勝訴の見込みの有無に関心が薄い。とにもかくにも、提訴だけで被告となる者に大きな負担をかけようという狙いがあるからだ。
提訴だけで言論を封じる効果を求めるとなれば、高額請求の訴訟が必然となる。高額訴訟は、心理的な圧力にもなり、応訴の負担が高額にもなるからだ。
私は、本件DHCスラップ訴訟について、勝訴の見込みは当初よりなかったものと考えている。名誉毀損とされた私の言論は、純粋に政治的な言論である。極めて公共性・公益性が高い。それだけではなく、私の言論が踏まえている事実は、吉田嘉明自身が週刊新潮誌上で自ら公表した事実を超えるものではない。これで、名誉毀損が成立するはずがない。
しかも、私の事例では、2000万円の賠償請求金額を、提訴批判のブログを理由に、6000万円への請求の拡張を行っている。黙れと言っても、黙らないからの請求金額3倍増である。明らかに、追加の請求原因が4000万円増に見合うようなものではあり得ない。
内海証人に対する裁判長の質問が、心証の一端を伺わせるものとして、興味深いものだった。
裁判長は、同証人に吉田嘉明の新潮手記を示して、その内容が吉田自身のものであることを確認の上、私の印象に残る限りで2点の疑問を表明した。正確には、速記録ができてから再度お伝えするが、以下は私の印象。
その一つは、「証人は、この手記を批判する言論について、(吉田の渡辺への金銭提供の)動機に関して『事実無根』というが、証人自身が『事実無根』と言うことはできないのではないか」。
そして、もう一つが、「この手記に対する批判の言論があることは、十分に予想されるところではなかったか」「そのような批判の言論に対しては、提訴は控えた方がよいというアドバイスは、証人からはしなかったか。顧問弁護士からはなかったのか」というもの。
以上の2点、いずれも示唆的である。さて、次回結審の予定で、最終準備書面の作成に取りかかろう。
(2019年4月19日)