ご存知「望月衣塑子劇場」が大きな人気を呼んでいる。舞台は官邸記者会見場である。主役は、いかにも正義の味方の、滑舌流暢なヒロイン。これに配する仇役が、いかにも悪玉の菅義偉官房長官とその手下の上村秀紀内閣官房総理大臣官邸報道室長の二人。もちろんこの二人の背後に、大黒幕のアベシンゾーが控えている。
ヒロインは、アベ・スガ一家の悪事を暴こうと果敢に菅に切り込む。これを、上村秀紀が必至になって妨害する。「質問は簡潔に?!」というのが、悪役どもの武器。妨害にめげずにヒロインが奮闘する姿を観衆が一体となって応援している。その拍手が、この舞台のロングランを支えている。
但し、このヒロインも、所詮は宮仕えの身。お抱えの社が配役交替を指示すれば舞台を下りざるを得ない。その会社は、黒幕の動きと観客の反応をともに見ている。ロングラン実現のためには、観客の応援の継続が必要なのだ。国民の多数がヒロインを応援しているぞ、と可視化して見せなければならない。そのための手段の一つとして、法律家6団体が、集会を開いた。望月衣塑子記者個人の問題を超えて、国民の知る権利や民主主義に関わる重大事であることを確認するためでもある。
それが、今夕(4月22日)、衆院第1議員会館での「安倍政権と取材の自由」シンポジウム。「?官邸による取材の自由と国民の知る権利の侵害を跳ね飛ばす院内集会」という副題が付いている。会館の大会議室を満席にした盛会であり、副題のとおりの「跳ね飛ばす」元気の出る集会となった。
集会の趣旨は、「安倍政権による取材の自由侵害を許すな」「特定の記者の質問を封じてはならない」というもの。このことは、民主主義の根幹に関わることとして、看過できない。
民主主義は、報道の自由に支えられて成立する。メディアの取材と報道の自由があってはじめて、国民は知る権利を獲得することができる。国民が国政に関する重要情報を知らずに、主権を適切に行使することはできない。
官邸の記者クラブにおける官房長官記者会見の様子がおかしい。当然に、権力中枢に対する取材では、記者と権力との間に厳しい緊張関係があってしかるべきである。記者とは、政権に不都合な事実を聞き出すことが本来の任務である。政権に迎合するような質問しかしない忖度記者は、似非記者でしかない。あるいは失格記者。権力に迎合する記者は、国民の目からは用なし記者なのだ。
政権側は、記者から不都合な取材あることを覚悟しなければならない。記者会見での不都合な質問にも、誠実に答えなければならない。記者への回答は国民への開示ということ。開示した事実に対する評価は、国民の判断に委ねなければならない。政権が記者会見で、「政権に不都合な質問は控えろ」「そんな記者には、質問させるな」などというのは、もってのほかなのだ。
ところが、安倍政権の姿勢はこのような民主主義の常識とはかけ離れたものとなっている。昨年(2018年)暮れ、菅官房長官会見の司会を担当する官邸側の上村秀紀(内閣官房総理大臣官邸報道室長)は、東京新聞望月衣塑子記者の質問にクレームを付けた。同記者の「辺野古基地工事における投入土砂として、許可条件違反の赤土が使用されているのではないか」という質問に事実上回答を拒否して、内閣記者会に「事実誤認がある」とした文書を示し、「問題意識の共有」を求めるなどとした。これは、安倍政権の傲慢さを示すものというだけてなく、国民の知る権利をないがしろにする重大問題ではないか。
政権が、記者の質問を「事実誤認がある」「問題意識の共有を求める」として、封殺しようとしているのである。こんなことが横行すれば、世は忖度記者ばかり、アユヘツライ記者ばかりになって、国民は知る権利を失い、真実から疎外される。民主主義は、地に落ちる。これは、「跳ね飛ば」さねばならない事態ではないか。
集会第1部の望月衣塑子講演が、「民主主義とは何か?安倍政権とメディア」と表題したもの。詳細な経過報告とともに、政権の理不尽にけっして負けない、という元気を感じさせる頼もしいものだった。
第2部がパネル・ディスカッション。「安倍政権によるメディア攻撃をどう考えるか、どう立ち向かうか」
梓澤和幸(弁護士)、永田浩三(元NHKディレクター)、望月記者の各パネラーの持ち味を引き出すよう、清水雅彦さん(日体大)が上手なコーディネーターを務めた。
そして、6人の現役記者やジャーナリストの連帯・激励の挨拶があった。これがいずれも興味深く、印象に残るものだった。下記に掲載のアピールを採択して、日民協代表の右崎正博さんが、閉会の挨拶をされた。
繰り返されたのが、「この事件を、望月記者対官房長官問題と矮小化してはならない。」「政権の傲慢が国民の知る権利侵害の危機を招いていと認識しなければならない」「元凶は政権の理不尽にある。しかし、それをはねのけるだけのメディアの力量がないことが歯がゆい」「跳ね返すメディアの力は、国民の後押しなくしては生まれない」ということだった。
安倍政権の酷さ醜さが、ここにも露呈している。ここでも、国民の力を結集して闘わなければならない。「望月衣塑子劇場」のヒロインには、まだまだ活躍願わねばならない。
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4.22「安倍政権と取材の自由」集会アピール
1 2018年12月28日、上村秀紀内閣官房総理大臣官邸報道室長は、内閣記者会宛てに、記者会見における菅義偉官房長官に対する東京新聞望月衣塑子記者の質問(沖縄県辺野古基地工事における赤土問題)について「事実誤認がある」とした文書(以下「内閣記者会宛て文書」という。)を示し、「問題意識の共有」を求めるとしました。
政府の一方的な認識を前提として、質問者から寄せられた事実認識を「事実誤認」と断定し説明や回答を免れることは、何が事実であるかを時の権力者が決め、そして政府の意に沿わない記者を排除することにつながるものであって、決して許されません。
こうした行為が見過ごされるのであれば、記者による取材は大きな制約を受け、国民の知る権利(憲法21条)はないがしろにされ、また、自由な言論によって政治的意思決定に参加する権利も奪われてしまいます。
2 もっとも、本件は唐突になされたものではありません。これまでも、2001年1月NHKのドキュメンタリー番組「戦争をどう裁くか 問われる戦時性暴力」の内容に対し安倍晋三内閣官房副長官(当時)らが介入した事件をはじめとして、2015年5月の自民党によるNHKとテレビ朝日経営幹部への聴取問題、同年6月の沖縄2紙への自民党議員らによる暴言、2016年2月の高市早苗総務大臣(当時)による電波停止発言、2018年9月自民党総裁選に関する「公平・公正報道」要求、2018年通常国会における安倍首相による朝日新聞への執拗な攻撃など、与党・政府によるメディアへの直接間接の介入攻撃事例は後を絶ちません。
3 本日の集会では、本件の直接の当事者である望月氏による講演が行われ、また望月氏とジャーナリストで元NHKプロデューサーの永田浩三氏、弁護士で報道の自由に詳しい梓澤和幸氏の3名によるパネルディスカッションが行われました。さらには、多くのメディア有志による応援スピーチも行なわれました。
それぞれの発言を通じて、与党・政府によるメディアへの介入・攻撃がいかに組織的でかつ巧妙であるかを知るとともに、これら一連の報道の自由の危機は、憲法違反の秘密保護法や安保法制の制定、自民党などのもくろむ明文改憲の動き、「戦争する国づくり」と連動していることも知ることができました。
そして、こうした権力の腐敗や濫用を監視し、暴走を食い止めることこそがジャーナリズムの本来の使命であること、権力からの介入・攻撃に対して、すべてのメディアが連帯してこれを「跳ね飛ばす」ことの重要性を学ぶことができました。
また、この問題を単に望月記者一人への攻撃として捉えるのではなく、メディア全体、ひいては市民への攻撃として理解し、メディアと市民とが共同して反対の声を挙げる運動が重要であるということも学ぶことができました。
与党・政府によるメディアへの介入・攻撃に対して、市民が共同して、「政権によるメディアへの介入攻撃は許さない」、「国民の知る権利と報道、取材の自由を守れ」の声を大きく広げていくことが、今、緊急に求められています。
4 安倍首相がもくろむ明文改憲が争点となる参議院選挙を3か月後に控え、与党・政府によるメディアへの介入とメディア側の一層の「自己規制」「萎縮」「忖度」がとりわけ懸念されます。
こうした事態に対抗すべく、私たちは、今後とも、権力を監視し権力の暴走をくいとめるメディアを応援し、メディアに携わる人々と連帯して憲法の保障する取材の自由を守り抜き、与党・政府からの介入・攻撃を「跳ね飛ばす」ことを誓います。
そして、私たちは、政府に対して、内閣記者会宛て文書を撤回するよう求めるとともに、今後、取材の自由を最大限尊重し、メディアに対する不当な圧力を加えないことを強く求めます。
以上
2019年4月22日
「4.22安倍政権と取材の自由集会」参加者一同
主催団体 改憲問題対策法律家6団体連絡会
構成団体
社会文化法律センター ?? 代表理事 宮里 邦雄
自 由 法 曹 団 団 長 舩尾 徹
青年法律家協会弁護士学者合同部会 議 長 北村 栄
日本国際法律家協会? 会 長 大熊 政一
日本反核法律家協会 会 長 佐々木猛也
日本民主法律家協会 理? 事 ?長 右崎 正博
(2019年4月22日)
日本民主法律家協会の機関誌・「法と民主主義」4月号【通算537号】は、来週中に発刊となる。特集の総合タイトルが、「日韓関係をめぐる諸問題を検証する」というもの。発刊に先だって、そのリードをご紹介する。
時あたかも「3・1独立運動」から100周年といういま、日韓関係が過去最悪の事態と言われる。保守層の一部では、あろうことか、「日韓断交」の言葉さえ飛びかっているという。
2018年10月30日、韓国大法院は新日鉄住金の上告を棄却して、元徴用工の賠償請求を認容した原判決を確定させた。この大法院判決は、韓国における三権分立が正常に作用していることを示すものである。しかし、それ以来の急激な日韓関係の軋みである。
同年11月21日には、日韓「慰安婦」合意(2015年12月28日)によって設立された「和解・癒し財団」の解散が発表されて、同合意は事実上崩壊した。同月29日には、三菱重工に対しても、新日鉄住金と同内容の徴用工事件判決の言い渡しがあった。さらに、同年12月20日には、韓国海軍の広開土国王艦から自衛隊機に対する「レーダー照射」問題が生じ、これが外交問題となって日韓関係の悪化に拍車がかかった。
その上、今年の2月7日には、韓国議会(一審制)の文喜相議長が、天皇に対する元慰安婦への謝罪要求発言があったとして物議を醸すに至っている。
保守の朴槿恵大統領時代には、比較的「円満・良好」だった安倍政権との関係が、市民の「キャンドル革命」によって樹立された文在寅政権とは基本的に反りが合わないというべきか、軋轢が噴出している。
その軋轢が、日本国民のナショナリズムの古層を刺激し、韓国に対する排外・差別感情を醸成している点で、看過しがたい。冷静に、問題を歴史の根本から見つめなければならない。
問題の根源は、旧天皇制日本による朝鮮植民地化の歴史にある。そして、韓国の軍事独裁政権と日本の保守政権とで合意された、日韓の戦後処理の杜撰さにも大きな問題がある。また、現在進行しつつある、南北関係や米朝関係の大きな変化の反映という側面も見なければならない。
現在の日本国内の事態は、政府に煽られた形で、メディアや世論が韓国批判の論調一色に染められていると言って過言でない。対韓世論悪化の元凶は、明らかに日本政府である。
本特集は、法律家の任務として、かつて日本の植民地支配時代に侵害され蹂躙された朝鮮・韓国の人権回復の法理を再確認するとともに、これまでの日中・日韓の各戦後補償訴訟の到達点を踏まえて、政権のデマゴギーを許さない運動に役立てようとするものである。
本特集の構成は以下のとおりである。
◆巻頭論文として、和田春樹氏の「日・韓・朝 関係の戦後史」(仮題)を掲載する。植民地支配を脱した韓国朝鮮が、東西対立の最前線として、朝鮮戦争を余儀なくされたところからの現代史を通覧して、軋んだ現状の原因となった日韓、日朝の戦後補償問題の経過と、米国を含む現状の国際関係までを把握するためである。
◆次に、植民支配の残滓を清算すべきでありながら不十分に終わった、「日韓の戦後処理の全体像と問題点」を、この点に精通している山本晴太弁護士の寄稿が明らかにする。
◆日韓の請求権問題は、中国の戦後補償訴訟との共通点をもつ。その訴訟実務を担当した森田大三弁護士が、「中国人強制連行・強制労働事件の解決事例」を踏まえて、韓国徴用工問題解決への展望を語っている。
◆また、「韓国徴用工裁判の経緯、判決の概要と今後の取り組みについて」は、専門実務家の立場から、川上詩朗弁護士が全体像を明確にしている。
◆梓澤和幸弁護士の「徴用工判決と金景錫事件」は、訴訟において和解による被害救済を実現した、貴重な実例の報告である。
◆大森典子弁護士「日韓合意の破綻──『慰安婦』問題と日韓関係」は、日本の朝鮮植民地支配時代の人権侵害を象徴する「慰安婦」問題における、2015年合意の脆弱な弱点を指摘するものである。
◆最後に、韓国側の事情を中心に、「文政権と南北宥和 ― その対日政策への影響」について、東京都市大学・李洪千准教授に解説をお願いした。
以上のとおり、求めるところは人権尊重の原理が国境を越えた普遍性を有していることの再確認であり、日韓市民間の友誼と連帯を通じての北東アジアの平和の構築である。本特集が、その理解と運動に寄与することを強く願う。
(担当編集委員 弁護士 澤藤統一郎)
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「法と民主主義」は、毎月編集委員会を開き、全て会員の手で作っています。憲法、原発、司法、天皇制など、情勢に即応したテーマで、法理論と法律家運動の実践を結合した内容を発信し、法律家だけでなく、広くジャーナリストや市民の方々からもご好評をいただいています。定期購読も、1冊からのご購入も可能です(1冊1000円)。
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(2019年4月21日)
本日(4月20日)の東京新聞「こちら特報部」に、「進んだ愛国心強制」「日の丸・君が代 問われた平成」というタイトルの記事。都教委の「日の丸・君が代」強制と、それへの抵抗の運動と訴訟の記事がメインとなっている。もう一つのテーマが、ILOによる日本政府への国旗国歌強制改善勧告の件。
リードは、以下のとおり。
「日の丸」の掲揚と「君が代」の斉唱が学校教育で規定された1989年の学習指導要領改定から30年。平成の時代は教師らにとって、思想良心の自由に「踏み絵」を迫られた時間でもあった。卒業式などで起立せず、君が代を歌わなかったのは職務命令に反するとして、処分を受けた教師らがその違憲性を訴えた裁判は今春、終結。国際労働機関(ILO)は日本政府に改善を促した。国旗国歌の強制問題は今、どこにあるのか。
「平成の時代は教師らにとって、思想良心の自由に「踏み絵」を迫られた時間でもあった。」という、「平成『踏み絵』時代論」、あるいは「思想良心受難時代論」である。「平成」という期間の区切り方にはなんの必然性もないが、なるほど、符合している。学習指導要領の国旗国歌条項の改定が1989年だった。それまで学校行事での国旗掲揚・国歌斉唱は「望ましい」とされていたに過ぎなかったものが、「国旗を掲揚し国歌を斉唱するよう指導するものとする」と、義務条項に読める文言となった。あれから、ちょうど30年。平成と言われる時代は、愛国心教育が子どもたちに吹き込まれた時代と重なった。
おそらくは、愛国心教育というマインドコントロールの効果に染まった子どもたちが、大量のネトウヨ族に育ち、嫌韓反中本や「日本国紀」などの読者となっているのだろう。自分自身の自立した主体性をもたず、自分の頭でものを考えることなく、国家や民族に強いアイデンティティを感じて、自国・自民族の歴史を美化し、民族差別を当然のこととするその心根。それが、愛国心教育の赫々たる成果だ。
これに抵抗する教員が少数派となり、抑圧の対象となり、権力的な制裁を受けてきたのが、なるほど「平成」という元号に重なる30年の時代だった。日の丸・君が代問題は、時代の空気の象徴である。こと、思想・良心の自由、あるいは教育の自由にとって、受難の時代として振り返るしかない。しかし、単なる受難一方の時代ではない。精一杯の抵抗の時代でもあった。
特報部記事の取材先は、5回の不起立で裁判を闘った田中聡史さん、やはり訴訟の原告だった、渡辺厚子さん。そして、弁護団の私、名古屋大学の愛敬浩二さん、東大の高橋哲哉さんなど。
良心的なメディアに、真面目な姿勢で取りあげていただいたことが、まことにありがたい。
ところで、東京新聞は、3月30日に、「ILO、政府に是正勧告」の記事を出している。これについては、同日に私のブログで紹介しているのでご覧いただきたい。
「ILOが日本政府に、「日の丸・君が代」強制の是正勧告」
https://article9.jp/wordpress/?p=12331
この東京新聞記事を検索すると、この記事に対する賛否の意見を読むことかできる。これが、興味深い。まことに真っ当なILO勧告への賛成意見(「日の丸・君が代」強制反対)と、まことに乱暴で真っ当ならざる反対意見(「日の丸・君が代」強制賛成)との対比が、絵に描いたごとくに明瞭なのだ。
いくつかの典型例をピックアップしてみよう。
侵略戦争のシンボルに拒否感を抱く人の思想・良心の自由は保障されるべきであり、学校という公的な場でこそ尊重が求められる。政府も国旗国歌法の審議で「強制しない」としていた。懲戒処分を背景に強制などもってのほか。(山添拓)
学校現場での「日の丸掲揚・君が代斉唱」の強制(従わない教職員らへの懲戒処分)を巡り、ILOが初めて是正を求める勧告を出したとのこと。侵略戦争・植民地支配のアンセムとして機能した「君が代」の斉唱の強制は、内心の自由の侵害です。歌わない自由を認めるべきです。(明日の自由を守る若手弁護士の会)
「君が代」「日の丸」はただの物ではなく、天皇主権とその下での侵略戦争の歴史を背負っている。だから良心的な教員であるほど、それらに敬意を表することはできないのだ。とにかく国旗掲揚や国歌斉唱を強制する職務命令は、国際的には無効であることが示されたわけだ
これ本当は独立の近代国家である(少なくともそう自称している)我が国の裁判所が言わなきゃいかんことなのよ。ところが我が国の裁判所は正反対のことを言いそういった我が国の現状に対してまたしても海外から至極真っ当な苦言を呈されるという。いつまで続けるのこんなこと。
また、「ILOは反日」と言い出す輩が現れるのだろう。国連も反日、ASEANも反日、世界中反日だらけ。自分の方がおかしいとか思わないのかね。
強制賛成派は、こんな調子だ。
は?日本人じゃないんですか?
国家(ママ)歌いたくないとか、国旗掲揚したくないとか、どこのダダっ子…(笑)
嫌なら教員辞めれば良いだけw
就業規則に従わない社員みないなものですよねw
ふざけるな!教師は国旗掲揚、国歌斉唱は義務です。それが仕事だからです。いやなら、辞めればいいだけです。
↑なに大喜びで報道してんだよ
サヨクミニコミ誌か?
ホントどこの国の新聞なんだ?
「内心の自由」が無定量に認められると面白い世の中になる。「気に入らない客」も「気に入らない上司」も皆、憲法で認められた「内心の自由」で沈黙=無視しておけばオケw いんじゃない?
えぇ……(困惑)
教員は国家と契約して国民の血税で食ってるやんな、国家に対して従うと宣誓してるワケ
なら、その国家の歌を儀式的な場で歌うというのは、至極当然のことじゃないか?
少し誤解があるようだから、一言。訴訟での教員側の主張は、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制は受け入れがたいとしているだけ。けっして、思想・良心の自由の外部的な表出行為について、無制限な自由を主張しているわけではない。教員の職務との関係で、思想・良心にもとづく行動にも当然に限界がある。
たとえば、仮に教員が天地創造説を信じていたとしても、教室では科学的な定説として進化論を教えなければならない。記紀神話の信仰者も、神話を史実として教えてはならない。その場面では、教員の思想・良心の自由という憲法価値が、子どもの真理を学ぶべき権利に席を譲るからだ。
しかし、国家と個人の関係に関わる問題についてはそうではない。優れて価値観に関わる問題として、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に対する態度には、科学や学問とは異なり、何が正しいかを決めることはできない。この局面では、教員は自らの思想・良心にしたがった行動をとればよく、子どもたちの教育のためとして、思想・良心を枉げる必要はない。
進化論を否定する子どもや、アマテラスの存在を史実だと信じる子どもを育ててはならない。国旗・国歌の強制を認める子どもを育てるべきか、国旗・国歌の強制を認めない子どもとなるよう教育すべきかは、一律に教育も教育行政も決することはできない。その分野では、教員は自分の信念に従ってよいのだ。
(2019年4月20日)
法廷を満席にした傍聴参加の皆様、弁護団の皆様、大いに勇気づけられました。ありがとうございました。
私(澤藤)とDHC・吉田嘉明との間の「DHCスラップ・反撃訴訟」の山場となった本日の証拠調べ期日が終わった。吉田嘉明は、裁判所からの呼出を受けながら、出廷しなかった。私の反訴原告本人としての尋問があり、吉田に代る立場でということで、DHCの総務部長内海拓郎が証言した。
裁判所は、「もし、吉田嘉明が自ら出廷して尋問を受けるという申し出があれば、あらためての証拠調べ期日設定もありうる」と留保を付しつつも、次回を7月4日(木)午前10時30分と指定し、そこでの弁論終結予定とした。最終準備書面提出期限は、6月27日(木)。
私の尋問は、澤藤大河弁護士が担当した。内容は、ご紹介した「反訴原告本人陳述書」の要約である。裁判官に分かってもらいたかったのは、次のようなことだ。
「誰にでも民事訴訟を提起する権利があるのだから、被告となる者は応訴負担を甘受せざるを得ない」「裁判は判決に至らぬ内は勝ち負けが分からないのだから、提訴不当とは言いがたい」などと、そこで判断停止してもらっては困るのだ。
スラップとは、提訴だけで被告に大迷惑をかける行為なのだ。被告とされた者は、裁判に勝ってもなお、迷惑が残ることになる。スラッブを掛ける方は、裁判に負けても、なお提訴の目的を達することができる。提訴の目的とは、提訴の威嚇によって自分に対する批判の言論を封じることなのだから。
普通は、十分な勝訴の見込みがなければ提訴はしない。敗訴ともなれば、手間暇かけたうえに費用倒れになってしまうのだから。しかし、スラップでは事情が大きく異なる。提訴を起こそうという者が、勝訴の見込みの有無に関心が薄い。とにもかくにも、提訴だけで被告となる者に大きな負担をかけようという狙いがあるからだ。
提訴だけで言論を封じる効果を求めるとなれば、高額請求の訴訟が必然となる。高額訴訟は、心理的な圧力にもなり、応訴の負担が高額にもなるからだ。
私は、本件DHCスラップ訴訟について、勝訴の見込みは当初よりなかったものと考えている。名誉毀損とされた私の言論は、純粋に政治的な言論である。極めて公共性・公益性が高い。それだけではなく、私の言論が踏まえている事実は、吉田嘉明自身が週刊新潮誌上で自ら公表した事実を超えるものではない。これで、名誉毀損が成立するはずがない。
しかも、私の事例では、2000万円の賠償請求金額を、提訴批判のブログを理由に、6000万円への請求の拡張を行っている。黙れと言っても、黙らないからの請求金額3倍増である。明らかに、追加の請求原因が4000万円増に見合うようなものではあり得ない。
内海証人に対する裁判長の質問が、心証の一端を伺わせるものとして、興味深いものだった。
裁判長は、同証人に吉田嘉明の新潮手記を示して、その内容が吉田自身のものであることを確認の上、私の印象に残る限りで2点の疑問を表明した。正確には、速記録ができてから再度お伝えするが、以下は私の印象。
その一つは、「証人は、この手記を批判する言論について、(吉田の渡辺への金銭提供の)動機に関して『事実無根』というが、証人自身が『事実無根』と言うことはできないのではないか」。
そして、もう一つが、「この手記に対する批判の言論があることは、十分に予想されるところではなかったか」「そのような批判の言論に対しては、提訴は控えた方がよいというアドバイスは、証人からはしなかったか。顧問弁護士からはなかったのか」というもの。
以上の2点、いずれも示唆的である。さて、次回結審の予定で、最終準備書面の作成に取りかかろう。
(2019年4月19日)
私(澤藤)とDHC・吉田嘉明との間の「DHCスラップ・反撃訴訟」の山場となる次回証拠調べ期日がいよいよ明日(4月19日)である。常識的には、双方が2か月ほど後に最終準備書面を提出して結審となる見通しだが、場合によっては明日の法廷での結審もありうる。ぜひ、法廷傍聴をお願いしたい。
明日の法廷の予定は下記のとおり。
☆日時 4月19日(金)午後1時30分?
法廷 東京地裁415号(4階)
☆証拠調べの順序は、
最初に反訴原告本人(澤藤)の尋問
主尋問30分 反対尋問30分。
次に、証人のUさん(DHC総務部長)。
主尋問20分 反対尋問30分。
その次に、反訴被告本人(吉田嘉明)。
主尋問30分 反対尋問30分の予定。
もっとも、以上は裁判所が決定した予定のスケジュールであって、必ずこのスケジュールのとおりに進行するかは予断を許さない。通常は九分九厘まで裁判所の決定のとおりに証拠調べは進行するのだが、吉田嘉明は証拠決定後に、出頭したくないと言い出した。裁判所は、「出頭しなさい」と吉田宛に呼出状を発送し、これが本人に送達されていることは確認されている。にもかかわらず、吉田嘉明は重ねて出廷したくないと言ってきた。これに、反訴原告(澤藤)側が怒りの意見書を提出して、吉田嘉明に出廷を求めている。この人、とうてい尋常な社会人の感覚を持ち合わせていない。
吉田嘉明の本人尋問申請は、反訴原告(澤藤)側からしたものである。吉田嘉明の私に対する提訴の動機や意図は、客観事情からの推測にとどまらず、吉田本人から直接に語ってもらう必要があるからだ。裁判所はその言い分を認め、審理に必要だとして吉田嘉明に出頭して尋問に応じるよう命じているのだ。裁判所かそれならやむを得ないと納得できる正当な理由のない限りは、出頭して尋問を受けることが吉田嘉明の日本国民としての義務である。そして今、吉田嘉明は出頭を拒否する正当な理由を示し得ていない。
結局、吉田嘉明とは、著しく遵法精神を欠く人物というほかはない。吉田も、吉田を説得しようとしない代理人弁護士(今村憲)もまったく真摯さに欠ける訴訟追行の姿勢と指摘せざるを得ない。
さて、一連のこの事件。最初に法的手段に訴えたのは、DHC・吉田嘉明の方だ。私のブログでの吉田嘉明批判を快しとせず、2000万円という高額請求訴訟の提起で恫喝して言論萎縮を狙た典型的なスラップ訴訟。ところが、そのスラップ提起が恫喝の効果薄いとみるや、何と6000万円に請求金額を増額したのだ。このバカげた訴訟は、最高裁まで引っ張られたが、私の勝訴で確定した。
第2ラウンドの訴訟も、DHC・吉田嘉明の側から仕掛けられた。DHC・吉田嘉明が、私を被告として債務不存在確認訴訟を提起したのだ。これに、反訴として、私が、スラップ提訴の違法を請求原因とする損害賠償の反訴を提起した。その本訴は取り下げられ、私が反訴原告でDHC・吉田嘉明が反訴被告の反訴事件だけが今なお続いている。
ところで、尋問を受ける者は陳述書を提出する慣行が定着している。限りある尋問時間では述べ切れない言い分も言える。反対尋問者に不意打ちをさせないという配慮もある。私も、4月2日付けの陳述書を作成して、翌3日に裁判所提出した。冒頭が下記のとおりである。
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平成29年(ワ)第38149号損害賠償請求反訴事件
反訴原告 澤藤統一郎
反訴被告 吉田嘉明,株式会社ディーエイチシー
2019年4月2日
反 訴 原 告 本 人 陳 述 書
東京地方裁判所民事第1部合議係御中
反訴原告本人 澤 藤 統一郎
目 次
はじめにー本陳述書作成の目的と概要
1 私の経歴
2 ブログ「憲法日記」について
3 「本件各ブログ記事」執筆の動機
4 言論の自由についての私の基本的な理解と本件各ブログ
5 「本件ブログ記事」の内容その1ー政治とカネの関わりの視点
6 「本件ブログ記事」の内容その2ー規制緩和と消費者問題問題の視点
7 「本件ブログ記事」の内容その3ースラップ訴訟批判の視点
8 DHC・吉田嘉明の「前訴提起」の目的とその違法
9 前訴における請求拡張の経緯とその異常
10 DHC・吉田の関連スラップ訴訟10件
11 本件スラップ提訴は「裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く」
12 本件反訴提起の動機と意味
13 損害について
14 反訴被告の応訴態度について
おわりにー本件判決が持つであろう意味
目次を見ていただいてもお分かりのとおり、やや長文であるが、これを分けて、掲載している。読むに値するものと思うし、読み易いとも思う。
「はじめにー本陳述書作成の目的と概要」
「訴訟大詰めの反訴原告本人陳述書 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第151弾」(2019年3 月28 日)
https://article9.jp/wordpress/?p=12321
「反訴原告本人(澤藤)陳述書《その2》 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第152弾」(2019年4月8日)
https://article9.jp/wordpress/?p=12389
「反訴原告本人(澤藤)陳述書《その3》 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第153弾」(2019年4月11日)
https://article9.jp/wordpress/?p=12409
「反訴原告本人(澤藤)陳述書《その3》 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第154弾」(2019年4月16日)
https://article9.jp/wordpress/?p=12409
そして本日、以下のとおり陳述書の下記部分を掲載する。
11 本件スラップ提訴は「裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く」
12 本件反訴提起の動機と意味
13 損害について
14 反訴被告の応訴態度について
おわりにー本件判決が持つであろう意味**************************************************************************
11 本件スラップ提訴は「裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く」
もとより民事訴訟の提起は、国民に等しく認められた権利です。これを、憲法32条は「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。」と人権カタログのひとつとして挙示しています。
法や裁判所がなければ、この世は実力だけがものを言う野蛮な社会となります。権力や社会的な強者の横暴に泣き寝入りすることなく、弱者が自分の権利救済の盾とも槍ともするものが法であり、その権利救済を実現する場として駆け込むところが裁判所です。
しかし、DHC・吉田嘉明が私を被告としたスラップ訴訟はそんな範疇とはまったく別物といわねばなりません。訴訟本来の目的から逸脱した提訴は、訴権の濫用として違法となり、提訴自体が不法行為として損害賠償請求の責任を生じることにならざるを得ません。裁判制度の利用まで、カネの力次第として濫用を許してはならないと思うのです。
今のところ、訴訟提起自体を違法とすることについての基準としては、1988(昭和63)年1月26日最高裁判決がリーディングケースとされています。同判決は、「訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められる場合に限られるものと解するのが相当である。」と判示しています。提訴して敗訴したというだけでは違法な提訴をしたことにはなりませんが、言論の封殺を目的とするDHC・吉田嘉明の私に対する提訴は異質なものといわねばなりません。
この点について、前記最高裁判決はこうも言っています。訴訟提起が違法になる場合として、「…当該訴訟において提訴者の主張した権利又は法律関係(以下「権利等」という。)が事実的、法律的に根拠を欠くものであるうえ、提訴者が、そのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知りえたといえるのにあえて訴えを提起した場合…」。DHC・吉田嘉明の、私に対するスラップ提訴は、「事実的、法律的に根拠を欠くもの」という客観要件を明らかに具備しています。しかも、吉田嘉明は、「訴えが事実的、法律的に根拠を欠き敗訴必至なことを知っていた」。少なくも、「通常人であれば容易にそのことを知りえたといえるのにあえて訴えを提起した」のです。いったい何のためにそのような訴訟を提起したのか。明らかに、自分への批判の言論を封殺するために、なのです。だから、認容されるはずもない、とんでもない高額請求の訴訟となっているのです。
DHC・吉田嘉明の私(澤藤)に対する提訴は、「訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められる」ものとして、その提訴自体が違法といわねばなりません。とりわけ、異様な請求拡張の違法は、明々白々というしかありません。
12 本件反訴提起の動機と意味
DHCと吉田嘉明が、私(澤藤)に6000万円を請求した前訴のスラップ訴訟。その提訴の動機は、明らかに民事訴訟提起による高額請求という手段で恫喝して、言論を封殺することにありました。では、誰の言論を封殺し、誰の言論を萎縮させようと狙ったか。別の言い方をすれば、被害者は誰だったのでしょうか。
被告とされた私自身が被害者であることは明らかです。吉田嘉明は、私を見くびって高額請求の訴訟提起で脅かせば、へたれて吉田嘉明批判を差し控えるだろうと思い込んだのです。もしかしたら、高額請求訴訟を提起すれば、訴訟の長期継続を避けるために、和解も可能と思ったのかも知れません。予想に反して、私が自前のブロクを武器に猛烈な反撃を始めるや、吉田嘉明は、当初の請求金額では脅しに不十分と見たのでしよう。3倍増しての請求までして恫喝しているのです。
私は、友人たちの支援を得て応訴して勝訴しました。しかし、応訴は最高裁まで付き合わされました。請求棄却、控訴棄却、上告受理申立不受理決定で、私(澤藤)の勝訴が確定したのでずか、どうしても釈然としません。
私は降りかかる火の粉を払いはしましたが、その限りでの現状です。降りかかる火の粉を払うための労力や時間のロスや金銭的負担については、何の填補もなされてはいません。これが、いささかなりとも原告の提訴ももっともだと思える通常の事件なら我慢もできますが、明らかないやがらせ目的訴訟でやられ損ということに到底納得できません。極めて不愉快な思いをさせられたことに対する精神的損害の慰謝料を含んで、相応の賠償請求が必要だと痛感しています。
また、このスラップ訴訟の被害者は、私一人ではないと思うのです。既述のとおり、DHC・吉田嘉明の8億円裏金事件に関する言論封殺訴訟は10件に及んでいますが、彼が意図したのは社会に対するアピールでした。社会は、「吉田嘉明を批判すると面倒なことになる」「面倒なことに巻き込まれるのはゴメンだ」「だから吉田嘉明を刺激せずに批判は差し控えた方が賢い」と受けとめています。
乙15に表れた、具体的な事例がその典型です。DHCの社員が、吉田嘉明批判のネット記事を抹消するよう請求し、請求された側は不当と思いつつも、スラップの提訴を恐れて萎縮し、抹消の請求に応じているのです。
社会のこの受け止め方は、現在払拭されていません。今はまだ、DHC・吉田嘉明が意図したスラップ提起による言論萎縮の効果は一定程度残っているものと考えざるを得ません。
そこで、私は、DHC・吉田嘉明を相手に、スラップ提訴は違法な行為であることをきちんと裁判所に認めていただくことが必要だと思うのです。DHC・吉田嘉明の提訴自体が不法行為として許されないという判決が、最も有効なスラップに対する抑止の効果を発揮して、表現の自由を擁護することになります。そのような思いから、この反訴を提起したことをご理解ください。
13 損害について
本件反訴において請求の損害額の根拠は、反訴状に記載のとおりです。
概要としては、前訴に応訴のための弁護士費用500万円、前訴の提起による慰謝料100万円と、それに反訴提起の弁護士費用60万円を加算したものになります。
まず、前訴の弁護士費用が相当因果関係のある損害となります。訴額6000万円の名誉毀損訴訟に応訴して勝訴したのです。しかも、一審、控訴審、最高裁(上告受理申立事件)までのフルコースでのこと。弁護士費用の適正額が、500万円を下回ることはありません。
訴訟実務では、弁護士費用は現実の負担額ではなく、事件の訴額や難易度にふさわしい類型化した金額になるものと認識しています。反訴被告らの違法な提訴に、私は弁護士を代理人として争うことを余儀なくされました。計110名の弁護士が私の代理人に就任してくれましたが、十分な報酬支払いはできていません。
(旧)日弁連報酬等基準規程によれば,経済的利益の額が6000万円の場合における弁護士費用の標準額は,着手金249万円,報酬金498万円とされています。この旧規定は今なお、適正な弁護士費用を算定するための基準として,現在も広く用いられています。少なくとも500万円が、私の弁護士報酬分の損害として認められるべきです。
また、前訴の提起自体によって、この上ない不快感や困惑を味合わされました。応訴による肉体的,時間的,精神的負担も余儀なくされました。その慰謝料額は100万円が相当だと考えます。
さらに、反訴提起のための弁護士費用として、請求金額の10%である、60万円が相当であるものと考えます。
自分がスラップの標的とされ、自分自身問題として、違法訴訟の被害を体験しました。経済力を持っているものが、思うがままに濫訴をしていることを不愉快と思わざるを得ません。DHC・吉田嘉明らのスラップ提訴への応訴の損害を請求額6000万円の10%である600万円を認めていただき、その損害についての賠償実現のための反訴提起費用の弁護士費用としてさらにその10%。合計660万円の損害賠償請求を認容していただけるものと期待しています。
14 反訴被告の応訴態度について
前訴の提起や、前訴係属中の異様な請求の拡張がどのような意図や動機に基づいてなされたかは、本件の核心的な争点の一つです。当然のことながら、この核心的な争点を明確にするためには、反訴被告吉田嘉明本人に法廷で語ってもらうことが不可欠です。
私は、外形的な事情だけから前訴の提起も、前訴における異様な請求の拡張も、吉田批判の言論封殺を目的とした濫訴であると確信していますが、裁判所の心証がどうであるかについてまでは確信に至っていません。
反訴原告側から、この争点に関する反訴被告吉田嘉明本人尋問の申請をして、裁判所もその必要を認めて採用を決定しました。しかし、彼は理由らしい理由を述べることを放棄して、ともかく出廷しないという態度を明らかにしています。
彼が一応の不出廷の理由として挙げていることは、内海拓郎証人の証言で足りるというものですが、彼自身がそう思っているはずはありません。会社の提訴意思決定の経過や動機についても、ワンマンとして知られている吉田の意向が重要ですが、吉田嘉明本人の提訴意思決定の経緯や意図・動機・目的については、内海拓郎証人が代わって語る資格も術もないことが明らかです。しかも、裁判所は内海証人と併せて吉田尋問の採用を決定したのですから、裁判所が内海証言だけでは足りず、吉田本人の尋問の必要あるとに心証に至っていることはよく分かっているはずなのです。
本人尋問採用の決定があった以上は、吉田嘉明には出廷すべき義務があります。しかし、彼は公然とその義務の履行を拒否しているのです。彼の、法に対する姿勢がよく表れていると思います。彼には、遵法の精神がないと言わざるを得ません。
そもそも、私とのここまでの関わりは、徹頭徹尾彼が主導してきました。まず、渡辺喜美に巨額の政治資金を拠出したのが発端。渡辺との関係が壊れると自らカネを渡していたことを週刊誌に手記として暴露して公表。そのことを批判されるとスラップ訴訟を提起し、スラップ批判をされると異様な請求の拡張。スラップ訴訟で敗訴が確定すると、自ら原告となって債務不存在確認請求訴訟の提起。そして、ようやくにして本件反訴損害賠償請求事件にたどり着いているのです。
私は、突然に訴えられて2000万円の請求で驚いているところに、6000万円に請求金額を跳ね上げられ、一審勝っても、高裁・最高裁まで付き合わされ、2度目の訴訟まで提起されて、応訴を余儀なくされた立場なのです。
私はどうしても納得ができません。吉田嘉明批判は、すべて新潮手記の範囲です。これを批判されたのは、身から出た錆というしかありません。なのに、他人が批判したら、それはけしからん許せんというスラップ訴訟の提起。ついで、「スラップ批判」に過剰反応した異様で異常な請求額6000万円への3倍増。さらに、控訴も上告受理申立も、債務不存在確認請求の本訴を仕掛けなど、積極的に動いてきた吉田嘉明が、どうして法廷に出て来ようとしないのか。自分のしてきたことに、よほど自信がないのだろうと忖度せざるを得ません。
吉田の不出頭は、明らかな証明妨害に当たるものと考えます。相応の制裁措置があってしかるべきだと思います。
おわりにー本件判決が持つであろう意味
この反訴は、言論の自由確立に大きな意義をもつものと考えられます。
仮にもし、これほどあからさまで悪質な違法訴訟に、何の法的制裁も行われないこととなれば、スラップ横行の事態が生じかねません。
DHC・吉田嘉明のごときスラップ常習者が、自分を批判する言論を嫌っての高額賠償請求訴訟を頻発させることになるでしょう。財力のある者にとっては、「敗訴してもともと」「相手に応訴の負担をかけてやっただけ儲けもの」「こうすれば、他の人々も、自分を批判することは差し控えるだろう」と思うようになります。
社会は、「DHC・吉田嘉明のごときスラップ常習者を批判することは差し控えた方が賢明」と言論を萎縮することになりかねません。
現実に、DHCの担当社員は、DHC・吉田嘉明に対するネット上の批判の言論を削除するよう要請して回り、要請された側が不本意ながらも「あそこ(DHC・吉田嘉明)は、本気になって訴訟を提起してくる」からと、批判の記事を削除している実例があり、これを乙号証で提出しています。
スラップにお咎めなしとなれば、濫訴が横行する事態を招くことになるでしょう。そのとき、市民とメデイアの言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされることなります。そのことは、権力と経済力が社会を恣に支配することを意味します。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。
既述のとおり、本件スラップ訴訟は、けっして私の言論だけを封殺の標的にしているのではありません。私に、あるいは関連スラップ訴訟被告の他の9人に対しスラップ訴訟を仕掛けることによって、同じような発言をしている、あるいはしようとしている無数の潜在的表現者を威嚇し萎縮させて、潜在的言論封殺効果を狙っているのです。だから私は、自分ひとりが勝訴しただけでは喜べない立場にあります。
本件不当訴訟を仕掛けたことに対して、DHC・吉田やこれを幇助したその取り巻きに対する相応のペナルティがなければ、スラップ訴訟は「やり得」に終わってしまいます。やり得を払拭し、再発の防止の効果を挙げるためには、スラップを違法として、相応の制裁がなければなりません。
以上のとおり、本件は優れて憲法21条の問題ではありますが、それだけではなく政治資金規正法の理念の問題でもあり、消費者問題と規制緩和の問題でもあり、民事訴訟を濫用しての言論萎縮効果の問題でもあります。これらの問題にも十分配慮され、公正かつ妥当な判決の言い渡しによって、貴裁判所がその職責を果たされるよう、強く期待申し上げる次第です。
以 上
(2019年4月18日)
私は、毎日新聞の長年の愛読者である。そのクォリティと読み易さの工夫に敬意を払いつつ、50年以上も付き合ってきた。その私が、昨今の皇室記事は、気恥ずかしくて読むに堪えない。記者諸君に問いたい。君たちはこんなおべんちゃら記事を書くために、ジャーナリストを志したのか。食うための身過ぎ世過ぎと割り切ってのことなのか。読者を莫迦にして、「読者とはこの程度のものを欲しているから、提供しているだけだ」というのだろうか。天皇の交替に伴う、政権側の演出はまだ始まったばかり。これから先が思いやられる。
なかでも、4月1日以来の新元号フィーバーには驚かざるを得ない。政権の演出を、メデイアが積極的に後押ししてのこの事態。権力とメディアとの “Ugly Harmony”そのものではないか。これは恐い。メディアが、当然に権力を批判するものとは限らない。それは承知だ。産経や読売が政権に擦り寄ることを経営方針としていることには驚かない。令和まんじゅうや令和せんべいにも、令和新撰組などというトンチンカンにも驚かない。クォリティ紙をもって任じる毎日までが…、というのが驚きであり恐しいのだ。
その毎日が、昨日(4月16日)の夕刊ワイドに、ようやく新元号フィーバーを冷めた目で見つめる記事を書いた。「『令和』礼賛一色に疑問」「新元号 礼賛一辺倒だが…」「令和『負』の面にも目を」というもの。もっともその中身は、よくぞ書いたと言うべきか、なんだこの程度かと言うべきか…。
リードは、「世の中が新しい元号『令和』ブームに沸いている。各種の世論調査で7割前後の人が『好感が持てる』と回答。出典となった万葉集にも注目が集まり、関連本の増刷も相次ぐ。だが、そんな『礼賛一辺倒』に疑問を投げ掛ける人もいる。」という、やや腰の引けたもの。
東大史料編纂所の本郷和人(中世史)、青学大の小松靖彦(国文学)による、それぞれの令和論だが、本郷和人の言は極めて常識的な内容。批判の論陣と言うほどのものではない。小松靖彦の言には、「歌集は格下、戦争利用の過去も」と見出しを付けられている。新元号が万葉集を出典としたことを冷静に見て、「海行かば」や「醜の御楯」などの万葉発の言葉が、戦争に利用された過去を忘れてはならないとする。万葉集研究者として、確かな姿勢である。中西進などよりも、数段立派だ。
この夕刊ワイドの結びの言葉がまた、及び腰。「おめでたいムードにケチをつける気は毛頭ない。だが、こうした『負』の部分もしっかり見つめて、新しい時代に踏み出したい」というのだ。こんなカビの生えた古くさい元号で表示される時代を、「おめでたい」「新しい時代」というのか。真っ当な批判が、「おめでたいムードにケチをつける」ことなのか。
そして、本日(4月17日)朝刊に、またまた歯の浮くような皇室記事。「クローズアップ」蘭に、第3面をほぼ全面使っての「両陛下、きょうから最後の訪問」「平成流、地方に寄り添い」という例のごとくの提灯記事。これに、「河西秀哉氏・名古屋大学大学院准教授の話」が、くっつけられている。権力とメディアだけでなく、研究者を加えた”Ugly Harmony”の三重奏。
河西のコメントは、「取り残された地域を重視」「「2人で」戦後定着」というタイトルで、やや長文。冒頭が、「天皇、皇后両陛下の地方訪問を振り返ると、平成に入って社会の格差・分断が進む中、東京に代表される都市部の発展から取り残されている地域を重視しているように映る。被災地や島々に代表される過疎化した地方、基地を押しつけられている沖縄などへの訪問はその傾向が強い。両陛下の訪問によって、こうした地域の人々に『自分たちは忘れられていない』というメッセージが伝わっている。訪問がなければ、結果的にもっと不満が高まっていたかも知れない」というもの。
河西は、こう続けるべきだった。「天皇夫妻は、このようなかたちで格差や分断という社会の矛盾を覆い隠し、底辺の人々の不満をなんの解決もせぬまま宥和する役割を果たしてきた。失政に対する国民の追及や政権に対する抗議の行動を起こさぬように封じ込める安全弁として機能してきたのだ」と。
しかし、河西はそうは言わない。「天皇陛下の考える象徴天皇の本質とは、ただそこにいるということではなく、国民と触れあい、声を聞き、苦楽をともにすること。」と何の批判もなく言ってのける。これが学者の言か、研究者のあり方か。これこそ、曲学阿世の徒と言うほかはない。毎日にして、こんなものを使うのか。嗚呼。
(2019年4月17日)
私(澤藤)とDHC・吉田嘉明との間の「DHCスラップ・反撃訴訟」の山場となる次回証拠調べ期日が目前である。当日の予定は下記のとおり。
常識的には、次々回に最終準備書面を提出して結審となる見通し。場合によっては次回の法廷での結審もありうる。ぜひ、法廷傍聴をお願いしたい。
☆日時 4月19日(金)午後1時30分?
法廷 東京地裁415号(4階)
☆証拠調べの順序は、
最初に反訴原告本人(澤藤)の尋問
主尋問30分 反対尋問30分。
次に、証人のUさん(DHC総務部長)。
主尋問20分 反対尋問30分。
その次に、反訴被告本人(吉田嘉明)。
主尋問30分 反対尋問30分の予定。
もっとも、以上は裁判所が証拠決定したスケジュールであって、必ずこのスケジュールのとおりに進行するかは予断を許さない。通常は九分九厘まで裁判所の決定のとおりに証拠調べは進行する。ところが、吉田嘉明は証拠決定後に、出頭したくないと言い出した。裁判所は、「出頭しなさい」と吉田宛に呼出状を発送し、これが本人に送達されていることは確認されている。にもかかわらず、吉田嘉明は重ねて出廷したくないと言ってきた。これに、反訴原告(澤藤)側が怒りの意見書を提出して、吉田嘉明に出廷を求めている。この人、とうてい尋常な社会人ではない。
吉田嘉明の本人尋問申請は、反訴原告(澤藤)側からしたものである。吉田嘉明の私に対する提訴の動機や意図は、客観事情からの推測にとどまらず、吉田本人から直接に語ってもらう必要があるからだ。裁判所はこれを認め、審理に必要だとして吉田嘉明に出頭して尋問に応じるよう命じているのだ。裁判所において、それならやむを得ないと納得できる正当な理由のない限りは、出頭して尋問を受けることが吉田嘉明の日本国民としての義務である。そして今、吉田嘉明は出頭を拒否する正当な理由を示し得ていない。
結局、吉田嘉明とは、著しく遵法精神を欠く人物というほかはない。吉田も、吉田を説得しようとしない代理人弁護士(今村憲)もまったく真摯さに欠ける訴訟追行の姿勢と指摘せざるを得ない。
さて、一連のこの事件。最初に法的手段に訴えたのは、DHC・吉田嘉明の方だ。私のブログでの吉田嘉明批判を快しとせず、2000万円という高額請求訴訟の提起で恫喝して言論萎縮を狙た典型的なスラップ訴訟。ところが、そのスラップ提起が恫喝の効果薄いとみるや、何と6000万円に請求金額を増額したのだ。このバカげた訴訟は、最高裁まで引っ張られたが、私の勝訴で確定した。
第2ラウンドの訴訟も、DHC・吉田嘉明の側から仕掛けられた。DHC・吉田嘉明が、私を被告として債務不存在確認訴訟を提起したのだ。これに、反訴として、私が、スラップ提訴の違法を請求原因とする損害賠償の反訴を提起した。その本訴は取り下げられ、私が反訴原告でDHC・吉田嘉明が反訴被告の反訴事件だけが今なお続いている。
ところで、尋問を受ける者は陳述書を提出する慣行が定着している。限りある尋問時間では述べ切れない言い分も言える。反対尋問者に不意打ちをさせないという配慮もある。私も、4月2日付けの陳述書を作成して、翌3日に裁判所提出した。冒頭が下記のとおりである。
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平成29年(ワ)第38149号損害賠償請求反訴事件
反訴原告 澤藤統一郎
反訴被告 吉田嘉明,株式会社ディーエイチシー
2019年4月2日
反 訴 原 告 本 人 陳 述 書
東京地方裁判所民事第1部合議係御中
反訴原告本人 澤 藤 統一郎
目 次
はじめにー本陳述書作成の目的と概要
1 私の経歴
2 ブログ「憲法日記」について
3 「本件各ブログ記事」執筆の動機
4 言論の自由についての私の基本的な理解と本件各ブログ
5 「本件ブログ記事」の内容その1ー政治とカネの関わりの視点
6 「本件ブログ記事」の内容その2ー規制緩和と消費者問題問題の視点
7 「本件ブログ記事」の内容その3ースラップ訴訟批判の視点
8 DHC・吉田嘉明の「前訴提起」の目的とその違法
9 前訴における請求拡張の経緯とその異常
10 DHC・吉田の関連スラップ訴訟10件
11 本件スラップ提訴は「裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く」
12 本件反訴提起の動機と意味
13 損害について
14 反訴被告の応訴態度について
おわりにー本件判決が持つであろう意味
目次を見ていただいてもお分かりのとおり、やや長文であるが、これを分けて、掲載している。読むに値するものと思うし、読み易いとも思う。
「はじめにー本陳述書作成の目的と概要」
「訴訟大詰めの反訴原告本人陳述書 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第151弾」(2019年3 月28 日)
https://article9.jp/wordpress/?p=12321
「反訴原告本人(澤藤)陳述書《その2》 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第152弾」(2019年4月8日)
https://article9.jp/wordpress/?p=12389
「反訴原告本人(澤藤)陳述書《その3》 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第153弾」(2019年4月11日)
https://article9.jp/wordpress/?p=12409
そして本日、以下のとおり陳述書の下記部分を掲載する。
8 DHC・吉田嘉明の「前訴提起」の目的とその違法
9 前訴における請求拡張の経緯とその異常
10 DHC・吉田の関連スラップ訴訟10件
11 本件スラップ提訴は「裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く」
私の最も強調したいところである。
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8 DHC・吉田嘉明の前訴提起の目的とその違法
経済的な強者が財力にものを言わせて、自分への批判の言論を行った者を標的に、その言論封殺を目的とする民事訴訟が「スラップ訴訟」です。
もちろん、厳密な定義がある用語ではありません。命名よりも事実が先行し、言論封殺の動機をもった一群の濫訴を「スラップ」と名付けたものです。この命名は、民事訴訟制度が本来的に想定している提訴とは異なる、不当・違法な訴訟類型の存在を意識化し明確化する役割を果たしました。「スラップ」であるという指摘が、社会にも法曹にも、的確なアピールとして作用します。そのことを通じて、表現の自由を擁護しようという訴訟実務に、役立てたいと思っています。
いうまでもなく、民事訴訟の提起には手数料を要します。よほど単純な訴えでない限り、訴訟代理人として弁護士を依頼しなければなりません。当然に弁護士報酬の負担が必要です。これらの費用負担は正当な提訴のハードルにもなるとして批判的に論じられますが、同時に濫訴防止に役だってもいます。
通常人が提訴するに際しては、相当に高額の費用負担を覚悟しなければならないのですから、提訴前には勝訴の見込みを真剣に考えざるを得ません。請求金額も負担すべき費用額に関連しますから、むやみに高額な請求もできないことになります。
ところが、スラップの場合はまったく話が違ってきます。批判の言論を封殺することが提訴の目的なのですから、まず、提訴ありきなのです。真剣に勝訴の見込みの有無の検討がなされる必要はないことになります。請求金額は恫喝の効果による言論萎縮を期待するに十分なものでなければなりません。当然に、相当の費用がかかることになりますが、カネを惜しまずに敢えて提訴するところに、スラップの本領があるのです。
通常は、可能な限り費用の嵩む訴訟を避けようとするインセンティブが働きます。事前の交渉で示談が可能か否かを打診するのが受任した弁護士のセオリーといって差し支えないのです。内容証明郵便での請求をし真摯な姿勢で交渉すれば、どこかでまとまることが多いのです。だれも、訴訟の負担は避けたいというのが本音なのですから。ところが、スラップでは事情が異なります。ともかく、提訴によって、自分を批判する者を恫喝し、言論を萎縮させようというのですから、事前の交渉などは無用なのです。
本件訴訟に乙13号証として、経済誌「エコノミスト」の2005年4月26日号の記事が提出されています。標題が、「武富士名誉毀損訴訟判決の波紋 『言論封じの訴訟乱用』に歯止め」というものです。「批判的言論を抑圧するために裁判を起こすのは許されない――。武富士が起こした名誉毀損訴訟で、東京地裁が出した判決は、報道の自由に大きな意味を持っている。」というリードが付いています。 当時、「スラップ訴訟」という用語は知られていませんでした。しかし、消費者金融の最大手である武富士が起こした消費者問題に携わる弁護士たちに対する名誉毀損訴訟は、まさしくスラップ訴訟でした。これに反撃した消費者弁護士や出版社の問題意識は、「高額損害賠償請求訴訟を武器とする、金ある者の言論萎縮のたくらみを許さない」というものでした。この記事の中に、「いきなり訴えるのは、『批判的言論の抑圧』」と小見出しがあります。本件の吉田嘉明のやり口に対する批判ともなっています。
さらに、興味深いことは、その記事の中にDHCの労働組合へのスラップが、不当な同種(スラップ)訴訟として取り上げられていることです。そして、下記の私(澤藤)のコメントも引用されています。
『武富士の闇を暴く』訴訟(被告側)弁護団長の澤藤統一郎弁護士は、「どんなに根拠のない訴えでも裁判に応じる負担はたいへんで、面倒に巻き込まれたくないという萎縮効果が働く。それを見越して、気に入らない出版や弁護士業務、労働運動の妨害のための高額訴訟が横行しているが、今回の判決はそれに対する歯止めとなるものだ」と”藤山判決”を高く評価する。
『武富士の闇を暴く』訴訟では、私(澤藤)が武富士の提起したスラップ訴訟の被告側(そして反訴原告側)弁護団の代表でした。まさか、10年後に、自分自身の問題となろうとは考えてもいなかったのです。武富士をDHCに、武富士のオーナーだった武井保雄を、吉田嘉明に置き換えると、よく似た構図が浮かびあがってきます。”藤山判決”は、反訴の損害賠償請求を認容し、高裁判決も積極的にこれを支持しました。本件でも、同様でなければなりません。
9 前訴における請求拡張の経緯とその異常
私が被告とされた前訴が典型的なスラップ訴訟です。私の口を封じようとしたのはDHC会長の吉田嘉明。彼が不愉快として封じようとした私の言論は、ブログ「憲法日記」に書いた3本の記事。政治とカネにまつわる政治的批判の言論。そして吉田嘉明の政治資金提供の動機を規制緩和を通じての営利追求にあるとした、消費者問題の視点からの指摘の言論です。これらが社会的に有用な言論であることは既述のとおりです。
吉田嘉明が私をだまらせようとして、2000万円の損害賠償請求訴訟を提起したことに疑問の余地はありません。私は、吉田嘉明から「黙れ」と恫喝されて、けっして黙ってはならないと決意しました。もっともっと大きな声で、何度も繰りかえし、吉田嘉明の不当を叫び続けなければならない。
言論萎縮効果を狙ったスラップに成功体験をさせてはならない、反撃意欲刺激効果によるスラップ失敗体験をさせなければならない。これが、私の決意でした。
幸いに友人たちが、大弁護団を結成して応訴の態勢を整えてくれました。私のできることは、同じブログでのDHC・吉田嘉明に対するスラップ批判です。そこで始めたのが、「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズの連載です。
現在このシリーズは150弾を越えています。読み直してみるとなかなかに充実した内容で、貴重な問題提起になり得ていると思います。
驚いたことに、吉田嘉明は、このうちの2本の記事が名誉毀損になるとして、請求原因を追加し、それまでの2000万円の請求を6000万円に拡張しました。この金額の積み上げ方それ自体が、本件提訴の目的が恫喝による言論妨害であって、提訴がスラップであることを自ら証明したに等しいと考えざるを得ません。
DHC・吉田嘉明の私に対するスラップ訴訟は、他の事件にはない幾つかの特徴をもっています。その特徴の筆頭が、この請求の拡張です。おそらくは、前例のないことなのだと思います。このこと一つだけでも、DHC・吉田嘉明の言論封殺の意図は明確なものと断じざるを得ません。
吉田嘉明は、まず私に「黙れ」と恫喝の民事訴訟を提起しました。しかし、私が黙らないとなると、2000万円の請求では恫喝効果に不十分であるとして、「今度こそ、黙れ」と6000万円の請求に増額したのです。この金額なら黙らせることができるだろうとの思惑での請求の拡張と推認されるのです。
推認の根拠の第一は、請求拡張の根拠として挙げられた、追加の請求原因に、およそ請求の拡張の根拠となるような請求原因事実を主張し得ていません。そのことは一見して明らかです。
やや長くなりますが、2000万円の請求が6000万円に拡張された日である2014年8月31日の、私のブログ「澤藤統一郎の憲法日記」を引用しておきます。当時の事情をよく分かっていただけると思います。
タイトルが、「これが、損害賠償額4000万円相当の根拠とされたブログの記事?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第20弾」というものです。
「本日、『DHCスラップ訴訟』で原告(DHCおよび吉田嘉明)からの「訴えの追加的変更申立書」に接した。私に対する損害賠償請求金額は、これまで2000万円だった。これを6000万円に拡張するという。4000万円の増額。一挙に3倍化達成である。
訴状においてDHC・吉田嘉明の名誉を毀損するとされた私のブログは、次の3本。再度ご覧いただけたらありがたい。いずれも、政治を金で買ってはならないという典型的な政治的批判の言論である。
https://article9.jp/wordpress/?p=2371 (2014年3月31日)
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
https://article9.jp/wordpress/?p=2386 (2014年4月2日)
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
https://article9.jp/wordpress/?p=2426 (2014年4月8日)
政治資金の動きはガラス張りでなければならない
これに追加して、新たに次の2本のブログもDHCおよび吉田嘉明の名誉を毀損するものだとされた。これまで、「DHCスラップ訴訟」を許さないシリーズは、第1弾?第19弾となっているが、そのうちの第1弾と第15弾の2本が取りあげられたのだ。
https://article9.jp/wordpress/?p=3036 (2014年7月13日)
いけません 口封じ目的の濫訴
?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第1弾
https://article9.jp/wordpress/?p=3267 (2014年8月8日)
「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務だ
?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第15弾
これまでは3本のブログ(その中の8か所の記載)で2000万円の請求。今度は、2本増やして合計5本のブログで6000万円。単純な差し引き計算では、「DHCスラップ訴訟」を許さない・シリーズの2本のブログが4000万円の請求増額の根拠。1本2000万円ということになる。
馬鹿げた話しだ。請求金額に何の根拠もないことを自ら語っているに等しい。要するに、「DHC・吉田批判を続けている限り、際限なく請求金額をつり上げるぞ」という、訴訟を武器にした恫喝にほかならない。
さて、4000万円増額の根拠となった2本のブログのどこが原告両名の名誉を毀損したものか。6か所あるという。以下のイタリック体の記載部分とされている。
「第1弾」5か所
?いけません 口封じ目的の濫訴
?私はこの訴訟を典型的なスラップ訴訟だと考えている。
スラップSLAPPとは、Strategic Lawsuit Against Public Participationの頭文字を綴った造語だという。たまたま、これが「平手でピシャリと叩く」という意味の単語と一致して広く使われるようになった。定着した訳語はまだないが、恫喝訴訟・威圧目的訴訟・イヤガラセ訴訟などと言ってよい。政治的・経済的な強者の立場にある者が、自己に対する批判の言論や行動を嫌悪して、言論の口封じや萎縮の効果を狙っての不当な提訴をいう。自分に対する批判に腹を立て、二度とこのような言論を許さないと、高額の損害賠償請求訴訟を提起するのが代表的なかたち。まさしく、本件がそのような訴訟である。
?DHCは、大手のサプリメント・化粧品等の販売事業会社。通信販売の手法で業績を拡大したとされる。2012年8月時点で通信販売会員数は1039万人だというから相当なもの。その代表者吉田嘉明が、みんなの党代表の渡辺喜美に8億円の金銭(裏金)を渡していたことが明るみに出て、話題となった。もう一度、思い出していただきたい。
?DHC側には、この批判が耳に痛かったようだ。この批判の言論を封じようとして高額損害賠償請求訴訟を提起した。訴状では、この3本の記事の中の8か所が、DHC・吉田嘉明の名誉を毀損すると主張されている。
?原告側の狙いが、批判の言論封殺にあることは目に見えている。わたしは「黙れ」と威嚇されているのだ。だから、黙るわけにはいかない。彼らの期待する言論の萎縮効果ではなく、言論意欲の刺激効果を示さねばならない。この訴訟の進展を当ブログで逐一公開して、スラップ訴訟のなんたるかを世に明らかにするとともに、スラップ訴訟への応訴のモデルを提示してみたいと思う。丁寧に分かりやすく、訴訟の進展を公開していきたい。
「第15弾」1か所
?私は、主権者の一人として「国民の不断の監視と批判を求めている」法の期待に応えたのだ。ある一人の大金持ちから、小なりとはいえ公党の党首にいろんな名目で累計10億円ものカネがわたった。そのうち、表の金は寄付が許される法の規正限度の上限額に張り付いている。にもかかわらず、その法規正の限度を超えた巨額のカネの授受が行われた。はじめ3億、2度目は5億円だった。これは「表のカネ」ではない。政治資金でありながら、届出のないことにおいて「裏金」なのだ。万が一にも、私がブログに掲載したこの程度の言論が違法ということになれば、憲法21条をもつこの国において、政治的表現の自由は窒息死してしまうことになる。これは、ひとり私の利害に関わる問題にとどまらない。この国の憲法原則にかかわる重大な問題と言わねばならない。
読者には是非熟読いただきたい。そして、それぞれの常識でご判断いただきたい。これが果たして「違法」なのか。このような言論が違法と烙印を押されてよいものだろうか。4000万円の損害賠償に値するなどということが、一体考えられることだろうか。」
以上のイタリック体の文章を繋げてみて、果たしてこれが名誉を毀損する違法な言論でしょうか。そんなことはあり得ません。ましてや、4000万円もの損害賠償請求の根拠となり得るものでしょうか。明らかに牽強付会。異様で異常というほかはありません。
吉田嘉明には、請求の拡張によって私を恫喝するという方針が先にあり、その既定方針のもとブログの中から違法になりそうな材料を探してみたが、結局は見つけ出せなく、この程度のものを請求原因として列挙せざるを得なかったというのが、常識的に推認されるところです。
10 DHC・吉田の関連スラップ訴訟10件
かつて、まだスラップという言葉が定着していない頃、明らかに武富士が突出したスラップ常習企業でした。突出したスラップ常習企業には、突出したスラップ常習弁護士が専属していました。いま、その武富士の地位をDHCが継いでいます。武富士よりも遙かに大きな規模で。
2014年3月、吉田嘉明の週刊新潮手記が発表されると、政治資金8億円を裏金として受けとっていた「みんなの党」渡辺喜美に対して、ごうごうたる非難が巻きおこりました。8億円の内、3億円については借用証が作成されたとのことですが、5億円については貸金であることを示す資料はありません。カネの動きも、貸金にしては極めて不自然。そのほかにも、渡辺側の不動産を吉田嘉明が渡辺の言い値で購入したことも明らかとなりました。このような巨額のカネが、政治資金規正法にもとづく届出のない裏金として動いていたのです。
この事件について、メディアはまずは政治家である渡辺を対象に非難しました。このことは健全な現象であったかも知れません。しかし、私はカネで政治を動かそうとした吉田嘉明への批判をおろそかにしてはならないと考え、その旨を3件のブログに認めました。
同様の思いの人は、私の外にも数多くいて、吉田嘉明批判の論評は数え切れないほどありました。吉田嘉明が公表した手記を契機に、同じような吉田批判が、主としてミニコミに噴出したのは、吉田批判の言論が多くの人に共通した、普遍性をもつものであったことを物語っています。
おそらくは、自分が週刊誌で発表した手記の反応に、吉田自身がうろたえたのだと思います。彼は、批判されることに慣れていない狭量な人物として、自分の批判を許せないものと考えたのでしょう。スラップの提訴を思い立ちました。このあたりの詳細な経緯や提訴の動機は、吉田本人でなくては語り得ません。ぜひとも、法廷での尋問に答えてもらいたいところです。
吉田嘉明は、数多い吉田批判の言論の中から10件を選び、ほぼ同時期に、事前折衝もないまま、闇雲に訴訟を提起しました。明らかに、高額請求訴訟の提起を武器に、自分への批判の言論を委縮させ、更なる批判言論を封じ込めようという効果を狙ってのもの。それが常識的な判断というものです。
10件もの同種提訴の存在自体が、明らかに濫訴であることを物語っています。また、東京地裁に提起された訴訟10件の賠償請求額は最低2000万円、最高2億円です。私は当初「最低ライン」の2000万円でしたが、その後ブログに「口封じのDHCスラップ訴訟を許さない」と書き続けて、請求額は6000万円に増額となっています。
その10件のうち、◎◎◎◎弁護士(横浜弁護士会)が被告になっている事件が2015年1月15日に第1号判決となり、次いで3月24日に被告◎◎◎氏(評論家)についての第2号判決が、そして私の事件がこれに続く第3号判決として同年9月2日判決となりました。いずれも証拠調べ期日の設定もないまま、「原告完敗・被告完勝」の結果となったものです。これらの事件は、いずれも控訴棄却、上告受理申立棄却となって確定しています。
その他の事件で、DHC・吉田嘉明側の一部勝訴事件がありますが、これは「8億円裏金提供問題」批判とは無縁の事案に関しての一部勝訴です。こと、「8億円裏金提供問題」批判の言論を違法とした判決は1件もありません。
そのほかに、関連する2件の仮処分申立事件があり、それぞれに申立の却下決定(東京地裁保全担当部)と抗告却下決定(東京高裁)があって、すべてDHC・吉田嘉明側の言い分が斥けられています。
被告◎◎◎氏(評論家)に対する2015年3月24日東京地裁民事第23部合議部(宮坂昌利裁判長)の請求棄却判決(甲10の2)が注目されます。私のブログの論調に比較すれば、はるかに手厳しいツイッターでの批判の発言について、なんの躊躇もなく、名誉毀損も侮辱も否定して、原告の請求を棄却しています。注目すべきはこの判決の中に次のような判示があることです。
「そもそも問題の週刊誌掲載手記は、吉田嘉明が自ら『世に問うてみたい』として掲載したもので、さまざまな立場からの意見が投げかけられるであろうことは、吉田が当然に予想していたはずである」「問題とされているツイッターの各記述は、この手記の公表をきっかけに行われたもので、その手記の内容を踏まえつつ、批判的な言論活動を展開するにとどまるもので、不法行為の成立を認めることはできない」
吉田嘉明が週刊新潮に手記を発表して、「吉田自身が、政治家(みんなの党渡辺喜美)にカネを提供したことを暴露した」先行事実は、吉田嘉明が自ら『世に問うてみたい』として掲載したものでもあり、吉田自らが「私人性を放棄」して「自ら積極的に公人性を獲得した」と判断されるべきことでもあって、このような事情がある以上、前訴に勝訴の見込みないことは当然の事理といわねばなりません。(以下続く)
(2019年4月16日)
弁護士の澤藤から、「君が代裁判4次訴訟」の弁護団を代表して、東京都教育委員会の情報課長に一言申し上げる。
「10・23通達」発出以来、私は毎年々々、この季節にはこの場にやってきて、歴代の情報課長にもの申してきた。いつも、情報課長の後にいる極右というべき知事や、無能な教育長やお飾りの教育委員に語りかけてきた。私は、陳情や要請をしてきたのではない。憲法を知らず人権を知らない都教委に、怒りの抗議をしてきたのだ。
私は、本件のような行儀のよい原告の事件ばかりを担当してきたわけではない。不当労働行為や争議介入をする乱暴な企業、解雇事件や、公害や、消費者被害や、労災職業病などの事件で、悪徳企業・悪徳商法と果敢に闘う事件の担当を経験してきた。いま、東京都がしていることは、悪徳企業・悪徳商法並みの反憲法的違法行為以外のなにものでもなく、嘆かわしいというほかはない。
本日の抗議と要請は、3月28日の最高裁決定を受けてのもの。都教委は、この席にいる田中教諭に「君が代」斉唱時の不起立を理由に懲戒処分を科した。一再ならず、5回にわたってのこと。処分の量定は、1回目から3回目までは戒告だった。ところが、4回目・5回目は減給(10分の1)1か月というものとなった。
戒告処分についても、その違憲違法不当について言いたいことはいくつもあるが、本日の抗議の趣旨は、田中教諭に対する減給処分についてのことだ。この件については、これまでの最高最判例を踏まえたかたちで、一審東京地裁は原告の言い分を全面的に認めて当該の処分は懲戒権の逸脱濫用にあたると判断し、違法な処分と認定して処分を取り消した。都教委は、この地裁判決を不服として東京高裁に控訴したがここでも敗訴した。都教委は、さらに最高裁に上告受理申立までして、これが不受理となって、敗訴確定に至ったのが、3月28日である。
公害や、職業病や、悪徳商法の被害回復運動の合い言葉を紹介したい。
「あやまれ つぐなえ なくせ」というのだ。今、原発事故被害回復の運動や訴訟でも、「あやまれ つぐなえ なくせ 原発」というふうに使われている。
「あやまれ つぐなえ なくせ 「君が代」処分」と言いたいところだが、本日は減給以上の処分に限って言う。まずは、「あやまれ」である。
本件4次訴訟の一審判決では、《停職6月》1名、《減給10分の1・6月》2名、《減給10分の1・1月》3名(4件)が、いずれも取り消された。これについて、都教委は、田中教諭の《減給10分の1・1月》(2件)だけを控訴して、他は確定させた。そして、このたび、6名7件についての一審判決の処分取消の全部が確定した。
ところが、東京都は、この6名7件の確定した処分取消に対して、謝罪をしていない。謝罪をしようともしていない。まずは、真摯にあやまっていただきたい。
まずは、当事者本人に。それだけではない。この教員たちに苛酷な処分をすることによって、他の多くの教員を威嚇し萎縮させたのだ。すべての教員にあやまっていただきたい。そのような見せしめで、子どもたちが一つのイデオロギーに染められてきたのだ。子どもたちにもあやまらねばならない。また、訴訟費用という無駄な税金の拠出をしたことを納税者である都民にもあやまれ。
苛酷な処分によって、当事者がどんなに苦しんだか。その身なって考えて見よ。処分は、ホームページに掲載されるのに、処分の取り消しはホームページに掲載しないというのは、まったくわけの分からぬ奇妙奇天烈。至急に名誉回復の措置をとるべきが当然ではないか。
次が「つぐなえ」だ。減給処分取消に伴う、バックペイだけでこと足りたとしてはならない。原告となった教員たちは、都教委の違法な処分を取り消させるために、人事委員会申立・提訴を余儀なくされた。訴訟にはカネがかかるのが、常識ではないか。都教委側は税金で訴訟を維持しているが、教員側は手弁当だ。訴訟にかかった費用くらいは、償うべきが当然ではないか。
最後に、「なくせ」だ。教育長以下のお飾り教育委員、そして教育庁幹部には、再発防止研修がどうしても必要だ。憲法とはなにか。権力の行使とはどんな意味をもつことなのか。教育と教育行政とはどう違うのか、教育の本質とは何か、教育行政は何をすべきで何をしてはならないのか。思想・良心・信仰の自由とは何か。「10・23通達」関連判例は、都教委に何を求めているのか…。しっかりと研修を受けさせ、その研修の成果としての理解の程度を確認しなければならない。
場所は研修センターで、研修の担当者は、教育学や教育法学、あるいは憲法学のしかるべき研究者や法曹から選任すべきだが、原告弁護団からも講義担当者を出してもよい。都教委幹部は、真摯に、自分がまちがっていることを自覚しなければならない。
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?請 願 書
2019年4月15日
「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会
東京「君が代」裁判原告団
共同代表 岩木 俊一 星野 直之
東京都教育委員会教育長 中井 敬三 殿
<請願の趣旨>
1.最高裁第一小法廷(池上政幸裁判長)は2019年3月28日、東京「君が代」裁判四次訴訟(一審原告14名。上告人13名)において、一審原告らの上告を棄却し、戒告処分取消・損害賠償を求める上告受理申立を不受理とする一方、減給処分取消を認めた東京高裁判決を不服とした都教委の上告受理申立についても不受理とする決定をした。これにより、1名・2件(特別支援学校教員)の卒入学式での4回目・5回目の不起立に対する減給処分(減給10分の1・1月)が取り消され、都教委の敗訴が確定した。これは、従来の最高裁判決(2012年1月16日及び2013年9月6日)に沿って、不起立の回数を理由により重い処分を科す都教委の累積加重処分を断罪し、その暴走に歯止めをかけたものである。
2.卒業式・入学式等で「日の丸・君が代」を強制する東京都教育委員会の10・23通達(2003年)とそれに基づく校長の職務命令により、これまでに懲戒処分を受けた教職員は延べ483名にのぼる。
3.これらの懲戒処分について、最高裁判決(2012年1月16日及び2013年9月6日)は、起立斉唱行為が、「思想及び良心の自由」の「間接的制約」であることを認めた上で、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要」「処分の選択が重きに失するものとして、社会観念上著しく妥当を欠き、…懲戒権者としての裁量権の範囲を超えるものとして違法」として減給処分・停職処分を取り消した。これらの最高裁判決には、都教委通達・職務命令を違憲として、戒告を含むすべての処分を取り消すべきとの反対意見(2012年1月宮川裁判官)を始め、都教委に対し「謙抑的な対応」を求めるなどの補足意見(2012年1月櫻井裁判官、2013年9月鬼丸裁判官)があり、教育行政による硬直的な処分に対して反省と改善を求めている。
4.最高裁判決とその後の確定した東京地裁・東京高裁判決及び今回の最高裁決定で、10・23通達関連裁判の処分取り消しの総数は合計76件・65名にのぼる。
5.ところが都教委は、裁判で敗訴したにもかかわらず、違法な処分を行ったことを原告らに謝罪しないばかりか、2013年12月、2015年3月?4月及び2018年2月、最高裁判決・東京地裁判決で減給処分が取り消された都立高校教員計18名に新たに戒告処分を科す(以下再処分という)という暴挙を行った。また、2012年4月より、被処分者に対する服務事故再発防止研修を質量共に強化して、「反省・転向」を強要している。更に、最高裁判決に反して、4回目以上の不起立に対して都立学校教員2名に減給処分を出した。今回の最高裁決定は、その内1人の減給処分が取り消されたことを意味する。残る1人の減給処分は東京都人事委員会において係争中である。これらは、最高裁判決の趣旨をねじ曲げないがしろにするもので断じて許すことはできない。
6.東京都教育委員会が、これまでの一連の10・23通達関連訴訟で司法に断罪され、「違法」とされた減給・停職処分を行ったこと、また今回も最高裁判決に反して4回目以上の不起立に対して行った減給処分が「違法」として取り消されたことは、教育行政として重大な責任が問われる行為である。今すぐ原告らに謝罪し、その責任の所在を明らかにし、再発防止策を講じるべきである。また、都民の貴重な税金を浪費して争った裁判で敗訴したことを都教委ホームページ等で公表し、都民に謝罪すべきである。
7.問題の解決のために、都教育庁の責任ある職員と被処分者の会・同弁護団との話し合いの場を早期に設定すべきである。
8.これまで私たちの請願・要請・申し入れなどについては教育委員会に報告・検討されず、教育庁総務部教育情報課長名で所管課の回答をまとめた文書が「回答」として送付されるだけだった。都民の請願権を踏みにじる対応を反省するとともに、10・23通達発出当時の教育委員がすべて退任した現在、あらためて同通達に係わる諸問題について教育委員会で真摯かつ慎重に議論し、これまでの教育行政及び10・23通達を抜本的に見直すことを強く求める。
以上の趣旨から、下記請願する。
<請願事項>
1.最高裁決定を真摯に受け止め、該当者に謝罪すること。
2.最高裁・東京高裁・東京地裁及び今回の最高裁決定等で「裁量権の逸脱・濫用で違法」とされた減給・停職処分を行ったことを反省し、原告らに謝罪し、再発防止策を講じること。
3.最高裁決定で減給処分取消が確定した教員に再処分(改めて戒告処分を発令すること)をしないこと。
4.最高裁・東京高裁・東京地裁判決及び今回の最高裁決定等で「思想及び良心の自由」を「制約する」とされた職務命令への違反を理由としていかなる懲戒処分も行わないこと。
5.職務命令違反を理由に最高裁・東京高裁・東京地裁判決及び今回の最高裁決定等で違法とされた減給・停職処分などの累積加重処分を行わないこと
6.今回減給処分取消が確定したことに鑑み、人事委員会で係争中のもう一人の減給処分を撤回すること。
7.10・23通達に基づく校長の職務命令への違反を理由とした過去の全ての懲戒処分を即時撤回すること。
8.10・23通達に基づく校長の職務命令を発出しないこと。
9.10・23通達を撤回すること。
10.10・23通達に係わって懲戒処分を受けた教職員を対象とした「服務事故再発防止研修」を行わないこと。
11.問題の解決のために都教育庁関係部署(人事部職員課、指導部指導企画課、指導部高等学校教育指導課、教職員研修センター研修部教育経営課など)の責任ある職員と被処分者の会・同弁護団との話し合いの場を早期に設定すること。
12.以上を検討するにあたり、本請願書を教育委員会で配付し、慎重に検討・議論し、回答すること。
(2019年4月15日)
元号不使用声明への参加を呼びかけます。
新元号に切り替わりの今をチャンスとして、どんな理由でも、この日常生活に不便で、民主主義に有害な元号の押しつけはごめんだという趣旨で、「元号にさよなら」の声明へ賛同をお願いいたします。
この呼びかけは、稲正樹さん、三輪隆さん、根森健さんの3人の憲法学者が発起人となり、世話人ともなって企画されたもので、私も声をかけられて、呼びかけ人に加わりました。下記の文章も、3人の方の起案になるものです。
いま、「声明」の呼びかけ文とと声明文章がほぼ固まったところで、以下に、呼びかけと声明、そして背景説明を記します。
なお、下記ブログもご参照ください。
https://gen5no.blogspot.com
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?<元号不使用声明への参加を呼びかけます>
新元号が話題になっています。しかし、いまが何年か問われたり、複数の年にまたがって年数を数えるとき元号はとても不便です。また、このグローバル化の時代に日本にしか通用しない元号を使わされるのは、時代錯誤としか言いようがありません。
元号が切り替えられようとしているいま、多くの人が「この際、使わないようにしたい」と思っています。代替わりに1ヶ月先行して新元号を発表し、辟易するような元号キャンペーンが繰り広げられたりしているのも、実はこれからは使わない人がふえるかもしれない事態への「危機管理」なのかもしれません。
もし私たちが元号は使わない、元号はいらないと考えているのなら、今こそチャンスです! 新元号は発表されましたが、まだ定着していません。このタイミングで私たちが、単に「わたしは使わない」と内心で決意するだけではなく、元号を使わないと不便であるような状況をなくし、これ以上続かないよう積極的に声をあげていくならば、社会的にも意味ある成果をあげることができるでしょう。
「元号は使わない」、この決心を友人・知人に伝えていくと共に、全国の多くの皆さんと共に知恵と力を合わせて、元号使用への誘導や、公的な文書や表示に元号しか用いないことへの異議申し立てをしていきましょう!
多くの方が以下の声明に賛同し、参加されることを訴えます。
呼びかけ人(4月13日現在)
飯島滋明(名古屋学院大学)、井口真(東京YMCA主事)、稲正樹(元国際基督教大学)、河上暁弘(広島市立大学)、岸亮夫(東久留米キリスト者九条の会共同代表)、小林武(沖縄大学)、斉藤小百合(恵泉女学園大学)、澤藤統一郎(弁護士)、柴田智悦(横浜上野町教会)、清水雅彦(日本体育大学)、須永勇(豊島区労協)、砂山洋一(東村山市民)、永山茂樹(東海大学)、長峯信彦(愛知大学)、根森健(東亜大学)、濱野秀樹(さいたま教育文化研究所)、星出卓也(西武柳沢教会)、横山英信(岩手大学)、三輪隆(元埼玉大学)、最上光宏(所沢みくに教会)、森英樹(元名古屋大学)、若尾典子(元佛教大学)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
?< 声 明 >
もう使わない、使わされない!
元号の強制、元号への誘導、押し付けはごめんです。
いま多くの人が元号はもう使いたくないと感じています。グローバル化が進んだ今日、日本国内にしか通用せず、また国内でも複数の年の間の年数をかぞえるにも元号は実に不便です。
元号を使うことは法的義務ではありません。象徴天皇の制度があるとしても元号が用いられなければならない憲法上の根拠は何もありません。
「公務の統一的処理のため協力を求める」などとして元号を用いるように仕向けることは、各人が元号を知っていることを前提とし、人によっては意に沿わない元号使用に応じさせれられるもので、これは憲法で保障される思想良心の自由に反する間接的な強制となります。
また、国会、行政官庁、裁判所、地方自治体などの公の機関が、公文書などで元号しか用いないことは、元号を知らない者・使わない者を疎外する行為であり、公の機関のあり方として決して許されないことです。
そして誰もが買い、使う商品に元号しか用いないことも、元号を知らない者・使わない者を疎外するものです。
私たちは、次のことを求めます。
1.届出や申し込みの用紙、Web上のページなどにおける年の記載は、利用者が元号を用いなくても済むものとし、また利用者に元号への書き直しを求めないこと。
2.公の機関が発する一切の公文書、公示における年の記載は、元号を知らない者・使わない者にも理解できる表示とすること。
3.不特定多数を対象とする商品における年の記載は、元号を知らない者・使わない者にも理解できる表示とすること。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この声明に賛同される方は、下記ののメールアドレスまでご連絡ください。
gen5no@yahoo.co.jp
(必須) 氏名・ふりがな
(任意) 職業または所属、お住いの地域(県名など)、専門・職位など(10文字以内)
(任意) メッセージ
* 公表を望まない場合はその旨を明記してください。
また、この呼びかけ人に加わって下さる方は、その旨を上記メアドまでお知らせください。
(2019年4月14日)
「世の中は三日見ぬまの桜かな」(寥太)という句がある。
作者の眼前には、満開の桜があるのだろうか。花はすっかり散った葉桜なのだろうか。三日見ぬ間に、花は咲いたのか、散ったのか。どちらとも解することが可能だ。
得意の人生を歩んできた者の眼前には満開の桜が見え、失意の人生を送った者には葉桜の句としか解せないのではなかろうか。句の解釈は、人それぞれである。また、人それぞれの立場やら人生経験が、解釈を決定することにもなろう。
さて、新元号「令和」である。私は、「令」も「和」も、いや?な漢字と繰り返し述べてきた。「令」は、命令・法令・勅令・訓令・威令・禁令・軍令・指令・家令・号令・布令…の令を連想させる。令とは、権力者から民衆に、お上から下々への命令と、これをひざまずいて受け容れる民衆の様を表すまことに嫌みな漢字なのだ。
ところが昨日(4月12日)、これを正反対に解する人物の言が話題となった。その人の名は中西進。大阪女子大の元学長という肩書。万葉集の講座を東京都内で開いた。令和の「令」は発音が美しいと評価し、「命令」の「令」との指摘は当たらないと説明した。そして、こう言ったと報じられている。「命令の令との指摘は、こじつけだ。令嬢や令夫人などと同様に、和を形容する意味に取るのが普通だ」と強調した。
この元学長は、「中西進という人が(「令和」という元号の)考案者と言われているが、ここにいるの(自分のこと)は違う人間だ」とも述べたという。私は、中西進著「万葉の秀歌 上・下」(講談社新書)の愛読者である。これまでは尊敬もしていたが、中西進という人が「令和」の考案者だとしたら、実につまらぬことをしたものと興醒めだ。さらに、「令和」への批判を快しとせず再批判を試みる態度は見苦しい。「裁判官は弁明せず」という法諺がある。その美学を見習うべきだろう。
「令嬢や令夫人などと同様に、和を形容する意味に取るのが普通だ」という言語感覚にはなじめない。それこそ、こじつけではなかろうか。大多数の国民は、「令嬢や令夫人や令室」などという言葉とは無縁の生活圏で暮らしている。「令」と出てきたら、「令嬢や令夫人」を連想しろというのが、どだい無理な話だ。
「令和」と2字をならべて、「令」を修飾語、「和」を被修飾語と解して、「令なる和」と読めというのはさらに無理な話。「令嬢・令夫人・令室」など、人や物に付く「令」はともかく、「和」に修飾語が付くとは、普通の言語感覚では思いもよらない。「令」を修飾語とする例で思いつくのは、「令状」の令であり「巧言令色」の令くらいのもの。
少なくとも、両様の解釈が可能なことを、一方だけが正しくて、他を「こじつけ」という尊大さが、元号というものにまつわる権威主義的な雰囲気をよく表している。
さらに、令和の「レイ」は発音が美しいとの自画自賛の評価となると噴飯物である。高村薫は、「「れい」という音も冷たい響きで、長く使いたくなるような明るい語感ではない」と言った。こちらが常識的な言語感覚だろう。
令和のレイからは、冷血、冷酷、怜悧…、確かに冷たい響きしか聞こえてこない。
また、報道では「令和の典拠である万葉集に先行する漢籍「文選」に類似の文章があるとの指摘には『並ぶべくもない。冷静に見ると、万葉集が出典というのはいいと思う』と解説した。」とある。「並ぶべくもない」の意味が不明である。文選が万葉集に並ぶべくもないのか、あるいはその反対なのか。
中西進「万葉の秀歌 上」131?133頁に「巻五・822」の旅人の梅花の歌の解説があり、その中で中西先生はこう書いておられる。「旅人は、32首に先だって、漢文で当日の模様を書いて序文としているが、その書き方も中国の王羲之の名篇「蘭亭序」を真似たものであり、華麗な四六文によるものである」と。
「蘭亭序」の文中には、「天朗氣清、惠風和暢」という文書があるそうだ。中西説では、令和のネタ元である梅花の歌32首序はこの「蘭亭序」の真似ということなのだ。
また、中西説では指摘がないが、つとに話題となっているとおり、「文選」中に漢の張衡による「帰田賦」があり、その一節に「於是仲春令月、時和氣清」と「令和」がしっかり出てくるという。「冷静に見ると、万葉集が出典というのはいいと思う」などとがんばっても仕方なかろう。「万葉のどこを採っても、結局は漢籍に行き着くね」と、余裕で破顔一笑してみせれば、中西先生の風格と尊敬は保たれたのに。
中西進といえば、大先生。その道の権威である。だから、自分の解釈が正しい、他はこじつけという姿勢を露わにしたことが不愉快なのだ。天皇制も権威である。天皇という権威が、学問上の権威と一緒になって、「令和批判は間違っている」と言うその姿勢こそ、まちがっている。天皇制に対してのものにせよ、元号に対するものにせよ、批判があって当然なのだ。天皇に関わることだから、斯界の権威が言うことだから、と批判を躊躇してはならない。誰もが語り、読み書きする言葉のことだ。何が正しいか、何がまちがっているか、天皇も大先生も決める権利はない。天皇にも大先生にも恐れ入ってはならない。
(2019年4月13日)