反訴原告本人(澤藤)陳述書《その2》 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第152弾
私(澤藤)とDHC・吉田嘉明との間の「DHCスラップ・反撃訴訟」。もともとは、DHC・吉田嘉明が私を訴えた債務不存在確認訴訟。その本訴は取り下げられ、反訴反訴原告でDHC・吉田嘉明が反訴被告の反訴だけが続いている。その審理が大詰めで、次回の法廷は下記のとおり証拠調べ期日となっており、次々回に最終準備書面を提出して結審となる見通し。場合によっては次回結審ともありうる。ぜひ、次回法廷の傍聴をお願いしたい。
☆日時 4月19日(金)午後1時30分?
法廷 東京地裁415号(4階)
☆証拠調べの順序は、
最初に反訴原告本人(澤藤)の尋問
主尋問30分 反対尋問30分。
次に、証人のUさん(DHC総務部長)。
主尋問20分 反対尋問30分。
その次に、反訴被告本人(吉田嘉明)。
主尋問30分 反対尋問30分の予定。
そのように裁判所は決定し、吉田嘉明に呼出状を発送している。
ところが、吉田嘉明は裁判所から出廷の呼出を受けながら、「出廷したくない」「尋問に応じたくない」と言ってきた。これに、反訴原告(澤藤)側が怒りの意見書を提出して、吉田嘉明に出廷を求めている。
吉田嘉明の本人尋問申請は、反訴原告(澤藤)側からしたものである。吉田嘉明の私に対する提訴の動機や意図は、客観事情からの推測にとどまらず、吉田本人から直接に語ってもらう必要があるからだ。裁判所はこれを認め、審理に必要だとして吉田嘉明に出廷を命じているのだ。やむを得ないと納得せざるを得ない正当な理由のない限りは、出廷して尋問を受けることが吉田嘉明の義務である。そして今、吉田嘉明は出廷しない正当な理由を示し得ていない。
結局、吉田嘉明とは、著しく遵法精神を欠く人物というほかはない。吉田も、吉田を説得しようとしない代理人弁護士もまったく真摯さに欠ける訴訟追行の姿勢と指摘せざるを得ない。
この点について、メディアからの問合せがある。「吉田が出廷するなら、法廷に取材に行きたい」「実際のところ、吉田の出廷の見込みはどうなのか」というもの。私に分かるわけはない。「出廷予定の有無を、直接吉田に取材してみてください」と言うほかはない。
ところで、尋問を受ける者は陳述書を提出する慣行が定着している。限りある尋問時間では述べ切れない言い分も言える。反対尋問者に不意打ちをさせないという配慮もある。私も、4月2日付けの陳述書作成して、翌3日に裁判所提出した。冒頭が下記のとおりである。
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平成29年(ワ)第38149号損害賠償請求反訴事件
反訴原告 澤藤統一郎
反訴被告 吉田嘉明,株式会社ディーエイチシー
2019年4月2日
反 訴 原 告 本 人 陳 述 書
東京地方裁判所民事第1部合議係御中
反訴原告本人 澤 藤 統一郎
?目 次
はじめにー本陳述書作成の目的と概要
1 私の経歴
2 ブログ「憲法日記」について
3 「本件各ブログ記事」執筆の動機
4 言論の自由についての私の基本的な理解と本件各ブログ
5 「本件ブログ記事」の内容その1ー政治とカネの関わりの視点
6 「本件ブログ記事」の内容その2ー規制緩和と消費者問題問題の視点
7 「本件ブログ記事」の内容その3ースラップ訴訟批判の視点
8 DHC・吉田嘉明の「前訴提起」の目的とその違法
9 前訴における請求拡張の経緯とその異常
10 DHC・吉田の関連スラップ訴訟10件
11 本件スラップ提訴は「裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く」
12 本件反訴提起の動機と意味
13 損害について
14 反訴被告の応訴態度について
おわりにー本件判決が持つであろう意味
目次を見ていただいてもお分かりのとおり、やや長文である。これを分けて、掲載したい。読むに値するものと思うし、読み易いとも思う。
「はじめにー本陳述書作成の目的と概要」は、3月28日の当ブログに掲出した。
訴訟大詰めの反訴原告本人陳述書 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第151弾
https://article9.jp/wordpress/?p=12321
この151弾を、「陳述書」紹介の《その1》として、本日が《その2》である。
以下に、陳述書の下記部分を掲載する。
1 私の経歴
2 ブログ「憲法日記」について
3 「本件各ブログ記事」執筆の動機
4 言論の自由についての私の基本的な理解と本件各ブログ
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1 私の経歴
私は、戦後民主主義の空気の中で育った、23期司法修習の弁護士です。
学生時代に、松川事件被告人の救援運動や鹿地亘氏事件の支援運動に関わったことを直接のきっかけとして、弁護士を志しました。司法修習の時代に、青年法律家協会の活動に加わり、「法の本来的使命は、社会的弱者の権利擁護にある」「司法の本来的使命は、弱者の権利救済を実現するための手続にある」と確信するようになり、そのような「法や司法本来の理念を実現する立場の法曹になろう」と思い立ちました。
1971年4月に弁護士登録して、今年の春で48年になります。この間、憲法訴訟、行政訴訟、労働事件、消費者事件、医療・薬害訴訟、教育関係事件、性差別是正事件、政教分離事件、国旗国歌強制違憲訴訟、平和的生存権訴訟などに携わってまいりました。
常に社会的弱者の側、つまりは、労働者・消費者・患者・市民・国民の側に立って、公権力や大企業、カネや権威を持つ者と対峙する姿勢を崩さず、微力ながらも弁護士本来の任務を全うしてまいりました。これまで、初心を忘れることなく職業生活を送ってきたとのいささかの自負があります。
日本国憲法を携えて実務法律家として職業生活を送ることができたことを何よりの人生の好運と考え、平和・人権・民主主義の憲法理念の擁護のための姿勢を堅持してきたつもりです。
本件に関連していえば、政治資金規正法や公職選挙法問題については、刑事弁護実務において携わった経験から、またいくつかの選挙運動に関与したことから、関心をもち続けてきました。政治資金規正法の理念である政治資金収支の透明性確保の要求については、民主主義の基礎をなす制度として強く共感し、カネで政治を動かそうとすることへの強い嫌悪と警戒心を有しています。
また、市民が弱者として経済的強者と対峙する消費者問題にも強く関心をもち、広範な消費者事件の諸分野で訴訟実務を経験してきました。弁護士会内の消費者委員会活動にも積極的に参加し、東京弁護士会の消費者問題対策委員長を2期、日本弁護士連合会の消費者問題委員会委員長2期を勤め、消費者問題をテーマにした日弁連人権擁護大会シンポジウムの実行委員長も経験しています。
弁護士には、医師のような専門性標榜の制度がありませんが、以上の経歴から、私は消費者問題をライフワークとしてきた弁護士として任じています。それも、分野を特化することなく、消費者事件全般を原理的に追究する姿勢で、実務に携わってきました。そのような姿勢で消費者問題に取り組む中で、弱者保護を目的とする行政規制の有用性と必要性を認識し、規制緩和や規制撤廃の危険性を痛感してまいりました。実務を離れて、そのような立場からの社会的な発言もしてきたところです。
最近規制緩和論が大流行です。その多くは、「無用な官僚規制撤廃」あるいは「既得権益排除」などの名目を掲げて、実は事業者の利益拡大の観点から消費者保護の社会的規制を攻撃するものと言わざるを得ません。その結果消費者保護行政が後退していくことに危機感を募らせてきました。この規制緩和策への警戒感は、現実の消費者被害や被害者に直接に向き合う中で獲得した心構えとして、貴重なものと考えています。
2 ブログ「憲法日記」について
私は、インターネットに「澤藤統一郎の憲法日記」と標題するブログを書き続けています。これも、弁護士としての職業的な使命の一端であり、職業生活の一部との認識で書き続けているものです。とりわけ、弁護士としての行動の理念的な指針となるべき憲法を擁護する立場を鮮明にし、憲法や憲法の理念について、実務法律家の視点から、ときの話題をブログテーマに取り上げて書き続けているものです。
以前にも断続してブログを書いた経験がありますが、現在継続中のものは、第2次安倍政権の発足に危機感を持ち、その改憲路線に警鐘を鳴らすことを主たる目的として、2013年1月1日から書き始めたものです。当初は、以前私が事務局長を務めていた、日本民主法律家協会のホームページの片隅を借りていたのですが、同年4月1日に自前のブログを開設し毎日連続更新を宣言して連載を始めました。幅広く憲法関連問題を題材として、途切れることなく毎日記事を掲載しています。もちろん顕名で自分の身分を明示し、自分の言論の内容に責任をもっての記事です。
このブログを書き続けて、本年(2019年)3月末日で、連続更新記録はまる6年。2191日の連続更新となりました。この間一日の欠落もありません。私のブログは、公権力や社会的経済的な強者や権威に対する批判の姿勢で貫かれています。政権や大企業や天皇制などを批判することにおいて遠慮してはならないと自分に言い聞かせながら書き続けてきました。
そのような視点で世の中を見据えて、批判すべきを遠慮なく批判しなければならない。そのような私の視界に、「DHC8億円裏金提供事件」が飛び込んできたのです。
3 「本件各ブログ」執筆の動機
2014年3月に週刊新潮誌上での吉田嘉明手記が話題となる以前は、私はDHCという企業とは馴染みがなく、主としてサプリメントを製造販売する大手企業の一つとしか認識はありませんでした。もっとも、サプリメントに関しては、多くは効果が実証されていないのに、あたかも健康に寄与し、病気の予防や回復に有益であるかのごとき大量宣伝によって販売されていることを問題視すべきだとは思い続けていました。
業界に問題ありとは思っていましたが、DHCや吉田嘉明には個人的な関心はまったくなく、前訴の訴状で問題とされた3本のブログは、いずれも純粋に政治資金のあり方と規制緩和問題の両面からの問題提起として執筆したものです。公共的なテーマについて、公益目的でのブログ記事であることに、一点の疑いもありません。
4 言論の自由についての私の基本的な理解と本件各ブログ
本件の前訴では、前訴原告(DHCと吉田嘉明)両名が、前訴の被告である私の言論によって名誉を毀損されたと主張しました。しかし、自由な言論が権利として保障されているということは、その言論によって傷つけられる人の存在を想定してのものにほかなりません。傷つけられるものは、人の名誉であり信用であり、あるいは名誉感情でありプライバシーです。
そのような人格的な利益を傷つけられる人の存在を想定したうえでなお、言論が自由であり権利であると保障されているものと理解しています。誰をも傷つけることのない言論は、格別に「自由」だの「権利」だのと法的な保護を与える必要はありません。
視点を変えれば、本来自由を保障された言論によって傷つけられる「被害者」は、その被害を甘受せざるを得ないことになります。DHCと吉田嘉明の前訴原告両名は、まさしく私の権利行使としての言論による名誉や信用の毀損(社会的評価の低下)という「被害」を甘受しなければならない立場にあります。これは、憲法21条が表現の自由を保障していることの当然の帰結といわねばなりません。
もちろん、法が無制限に表現の自由を認めているわけではありません。「被害者」の人格的利益も守るべき価値として、「表現する側の自由」と「被害を受ける者の人格的利益」とを衡量しています。本件の場合には、この衡量の結果はあまりに明白で、DHCと吉田嘉明が「被害」を甘受しなければならないことは自明といってよいと考えられます。
その理由の第1は、前訴原告らの「公人性」が著しく高いことです。吉田嘉明は販売数で全国トップを争う程に広範な読者層を持つ著名な週刊誌に手記を発表することによって自らの意思で「私人性」を放棄し、強い「公人性」を獲得したことが強調されなければなりません。
もともと吉田嘉明は単なる「私人」ではありません。多数の人の健康に関わるサプリメントや化粧品の製造販売を業とする巨大企業のオーナーです。これだけで批判の言論を甘受すべき「公人」性は十分というべきでしょう。これに加えて、公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を密かに拠出し提供して政治に関与した人物なのです。しかも、そのことを、党首が変節し、裏切られたとして自ら暴露し、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立ったのです。週刊誌を利用して、自分の言いたいこと、都合のよいことだけは言いっ放しにして、その批判は許さない、などという身勝手な理屈が通用するはずはないのです。まずは、この点が強調されなければなりません。
その理由の第2点は、私のブログに掲載された、吉田嘉明らの名誉を侵害するとされている言論が、優れて公共の利害に関わることです。
具体的内容のない無色透明の抽象的な言論というものは存在しません。すべての言論は固有の具体的な内容をもっています。現実の訴訟実務においては、内容に関わらない表現の自由というものは考えられません。必ず言論の内容に則して当該の表現の自由の有無が判断されます。
私の言論は、深く政治に関わった吉田嘉明の行為に対する批判です。しかも、政治とカネというきわめて公共性の高いシビアなテーマにおいて、政治資金規正法の理念を逸脱した行為だという批判が、私の言論の具体的内容なのです。これは、吉田嘉明において甘受するしかないはずです。仮にもこの私の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となってしまいます。民主主義の政治過程がスムーズに進行するための基礎を失うことになってしまいます。
さらに、第3点は、私の批判の言論が根拠としている事実が、けっして妄想でもなければ、勝手な想像でもないことです。私が恣意的にあやふやな事実を摘示したことは一切なく、すべて吉田嘉明が自ら週刊誌に公表した事実に基づいて、常識的な推論を論述したに過ぎないのです。ブログでの論評ですから、法律知識の少ない多くの方にも分かり易く読んでいただくため、表現にレトリカルな工夫を凝らしたりしているところもありますが、弁護士としての品位を踏みはずすところはない節度を保った文章であることは一読して理解される筈です。公共に関する事実について、意見や論評を自由に公表し得ることこそが、表現の自由の真髄です。私の吉田嘉明に対する批判の論評が表現の自由を逸脱しているなどということは絶対にあり得ません。これを違法とすれば、それこそ言論の自由は窒息してしまいます。
仮に私が、世に知られていない吉田嘉明らの行状を暴露する事実を摘示したとすれば、その真実性や、真実であると信じたことについての相当性の立証が問題となります。しかし、私の言論は、すべて吉田自身が公表した手記を素材として、その言動を常識的に推論し論評したに過ぎないのですから、事実の立証も、相当性の立証も問題となる余地はなく、私の論評がどんなに手厳しいものであったとしても、その表現が、対象となる言動の論評として行き過ぎたものでない限り、吉田嘉明はこれを甘受せざるを得ないのです。
以上は、前訴の勝訴の見込みがまったくないことの論拠ですが、こんなことは、取り立てて法律知識のない一般人でも、いささかなりとも憲法感覚さえあれば、当然(常識的)に分かることです。私のブログが訴えられたことを知った多くの人々から意見が寄せられました。その反応は一様に驚き、かつ呆れたということです。
吉田嘉明は、これまでに名誉棄損訴訟を経験していますし、ましてや、この訴訟は、本人訴訟ではなく、弁護士が代理人となり、しかも、会社の総務部や法務部まで関与していたというのですから、訴訟提起の際にこんな無理筋の訴訟に勝訴の見込みのないことは、分かったはずなのです。
にもかかわらず、勝訴の見込みについての検討がなされた形跡はまったく見られないまま、同種の訴えが多数提起されたというのですから、DHCのオーナーとして絶対的な権限をもつ吉田嘉明個人の強い特別な意思が働いていたことは明らかというべきです。吉田嘉明は、「自分に対する批判の言論を許さない」という恫喝を目的として前訴を提起したものと考えざるをえません。?????? (以下、続く)
(2019年4月8日)