澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

ソウル特別市、熱い市政報告に驚いた。

韓国の旅の報告をしなければならない。もちろん、わずか5日間の旅では群盲象を撫でたに過ぎない。それでも、私が撫でた部分では、韓国の市民運動の強さ、民主主義の根深さに手応えがあった。学ぶべきところ多大との印象だった。中でも、革新ソウル市のあり方に驚いた。もちろん、東京都と比較してのことである。

2月19日(火)、韓国ピースツアー2日目の早朝は寒かった。しかも、相当に激しい雪だった。宿泊先のコリアナホテル22階から間近に見えるはずのソウル市庁舎が、雪に煙ってまったく見えない。寒さに震えて訪ねたソウル市庁舎で、温かい歓迎を受けた。

ソウル特別市の人口は約1000万人。24行政区を抱えて、東京都に相当する。革新市政だと聞いてはいたが、これほど緻密に理念を尊重しながら行政を行っていることは知らなかった。

市長は、朴元淳(パク・ウォンスン)。文在寅と同期の弁護士である。市長選では、野党統一候補として与党候補を破っての当選で、現在3期目。文在寅大統領の後継者だと、あちこちで聞かされた。

至るところにあったソウル市のロゴマークが、「I・SEOUL・U」。よく見ると、文字列の中央にある「O」の字の上に、小さいヒゲがついている。これが、何か意味あるものなのか、単なる視覚的デザインなのかは分からない。2015年以来のものだとのこと。「SEOUL」を動詞として読むのであれば、使う人のイメージ次第でどうとでも解することができる。市政が優しく暖かいイメージを持ってもらおうとしての、このロゴの採用なのだろう。市庁舎全体が暖かく、「どなたもおいでなさい」「どんなご意見にも耳を傾けます」という雰囲気だった。

ツアーの主催者からは事前に格別の要望はしていなかったようだが、市側は、我がツアー参加者35名のはいる部屋を用意してくれた。3名の職員が、行き届いた資料を準備して、2時間余りの時間を割いて、市政の一端をレクチャーしてくれた。市が用意したテーマは二つ。「ソウル特別市における非正規職の正規職化」と、「訪問する住民センター ?公共と住民がともに作る革新?」というもの。それぞれ、担当者が日本語パワポを駆使しての説明。これがおざなりなものではない。そして、みごとな日本語通訳。正直のところ驚いた。その生真面目さと、その熱意に、である。

最初のレクチャーは、「労働民生政策官室」の担当者によるものだった。ソウルは、自らを『労働尊重特別市』と宣言して、まず自らが勤労者の利益を守る実例を示すことで、市内の企業を「模範的な使用者に導く」方針を持っているという。このことを「公共部門が模範例となり、民間部門に拡散させる」とスローガン化している。

こうして、「自治体として初めて、市政全般において労働問題を政策化した」と胸を張る。その成果として、最も顕著なものが、「非正規職の正規職化」であるという。

正規職化の取り組みは、2012年から始まった。その理念は、「社会的・経済的二極化の是正、持続可能な発展に向け、非正規職問題に市が他に先駆けて取り組む」というものだった。

市は、緻密なプロセスを策定し、業務委託の「間接雇用労働者」を、直接雇用の「期間制・準公務員」に切り替え、さらに正規職の公務員労働者に切り替えたという。2019年2月までの正規職化が実現した人数は、10,209人に上るという。

この間、平均賃金は年間180万円上昇し、休日、有給休暇、福利厚生も拡大した。今、取り組みの中心は、「所属感や自尊感情の低下など、不合理な処遇における差別」の払拭だという。

何より感心させられたのは、労働条件と福利の向上だけを問題にするのではなく、「労働尊重文化の政策化」だという。この取り組みの成果は、中央政府新政権の非正規職解決のモデルにもなり、光州市など他の自治体にも波及しているという。

資本の要請をどこまでも追認して非正規化容認の日本の労働行政とは、まさしく正反対の方向。自治体が先頭を切って正規職化し、これを民間に拡げていこうという政策に、度肝を抜かれた思い。

報告が終わるや、矢継ぎ早に質問の手が上がった。予算はどれだけ増えたのか。その財源は。労働組合はどんな役割を果たしたのか。議会の意見はどうだったか。何よりも、ソウル市の住民は納得しているのか。予算を切り詰めよ、そのために、職員の給与を抑えよ、という声をどう説得したのか…。とても、時間か足りない。

「訪問する洞住民センター ?公共と住民がともに作る革新?」は、市の「訪問する洞住民センター」推進支援団長のレクチャーだった。「洞」とは、最小単位の行政機関として、洞ごとにある「住民センター」が、住民と密着しながら福祉行政を進めている。「訪問する洞住民センター」とは、待ちの姿勢ではなく、自ら福祉を必要とする現場に出向く姿勢を強調したネーミング。

しかも、住民福祉を公務員だけが担うというのではなく、「公共」と「市民」との緊密な連携のもとに、民間の力を引き出して、住民自治を基本に総合的な政策を行うという。

ここでも驚くべきは、貧困・疾病・社会的孤立などを解決するために、福祉の人手が不足として、2015年から2018年までに、福祉関係職員を2,802人増員したという。

こうして、福祉国家的理念からは「人間としての尊厳を維持するに足りる生活を権利として享受できる制度的な保障」を、市民社会的観点からは「自分の暮らしと社会環境に対する自己決定権の獲得と実行」を、目指すものだという。

この報告の最後に、パク市長の記者会見の言葉が引用されている。「『訪問する洞住民センター』の人々は、行政の効率より人間を最優先する『人権公務員』になります」というのだ。

熱く語る担当者に気圧された感があった。「どうして、そんなに熱心になれるの?」という質問に、こんな答が印象的だった。
「自分の場合は、セウォル号事件の影響が大きい。あのときの国民の問いかけが、『これが国家なの?』というものでした。この問いかけは、地方公務員である私にも向けられたものだと思いました。セウォル号事件を批判する大きな国民の声と行動に私も真剣に応えなければならない。その思いが、自分を変えたはずです」

私たちには野田市の児童虐待死事件が生々しい記憶としてあった。児童相談所の消極的な姿勢を歯がゆく思う気持ちが強く、「積極的に福祉に必要なところに訪問する人権公務員」には、大きな拍手を惜しまなかった。

この日ソウルは寒い雪の空だったが、市庁舎の中での報告には熱気がこもっていたた。今、韓国はどこも熱い。そう思わせるソウル市庁舎訪問。それにしても、嗚呼、彼我の差かくも大なる小池百合子都政を何とかしなくては。
(2019年3月6日)

靖国創建150年に再論 ― 「天皇と国家に子の命を奪われ、靖国に死後の子の魂まで奪われた『九段の母』の二重の悲劇」。

私は、産経は読まない。が、産経人士が何を言っているかには関心がある。もちろん、批判の対象としてのことである。都合の良いことに、右翼言論を丹念に拾って配信してださる奇特な方が、何人かいらっしゃる。まことにありがたい。そのルートで、産経の[正論]欄(2月28日)に、「靖国150年に聴く鎮魂の曲」という記事があることを知った。「文芸批評家、都留文科大学教授」の肩書をもつ新保祐司の記事である。これを抜粋して引用させていただく。

「今年は、靖国神社創立150年である。改めて英霊に深く思いを致す機会とすべきである。その思いをさらに深いものにする一助として、英霊に関係した名曲を2つ紹介したいと思う。これを聴くことによって靖国の英霊に対する感謝と崇敬の念は極まるであろう。」

「靖国の英霊に対する感謝と崇敬の念」は右翼や安倍晋三の常套句であるが、大きな違和感を禁じえない。「愚かな為政者の愚策によって貴重な命を失った戦没者と遺族の無念さへの共感」なら分かるが、「感謝と崇敬」はまったく分からない。しかし、戦没者遺族には「靖国の英霊に対する感謝と崇敬の念」と言われることが、少しでも心安まることになろう。これが、靖国の仕掛けである。

「こういう音楽が貴重なのは、戦争を経験した人間が少なくなっていく中で、真正の芸術によって表現されたものの裡(うち)に英霊の記憶は受け継がれていくからである。今後、日本人はこのような音楽を聴くことによって、民族の歴史としての戦争を回想することができるであろう。2曲とも「海ゆかば」と交声曲「海道東征」を作曲した信時潔の作品だが、これも何か宿命的なものを感じさせる。」

「民族の歴史としての戦争」「真正の芸術によって表現されたもの」「英霊の記憶は受け継がれていく」などの表現には、被侵略国の民衆の被害は眼中にない。靖国神社は戦争と戦没者を意識的に美化する装置である。産経の記事などは、靖国を美化することによって、無反省に戦争と戦没者を美化するものである。

「1つ目は、「やすくにの」という昭和18年9月に作られた曲である。作歌は大江一二三である。
 靖国の宮に御霊は鎮まるも をりをり帰れ母の夢路に
この歌は、若くして戦死を遂げた孝心あつい立山英夫中尉の英霊に捧(ささ)げられたもので、当時の部隊長だった大江一二三少佐が、中尉の郷里で町葬が行われる日に電報に託して届けたものである。これを紹介した津下正章著『童心記』がJOAKより朗読放送され、これをたまたま聴いた信時が、感激して直ちに曲をつけたものである。
 当時、東京音楽学校の教師であった信時は、政府をはじめとしてさまざまなところからの依頼で作曲することが普通であったが、この「やすくにの」は自発的に作曲した稀(まれ)な例で、信時の「感激」がいかに深かったかが分かる。
 『童心記』には、「この歌こそは、中尉に捧げられたものであるが、同時に靖国の神とまつられた全将兵に捧げられたものであり、またその全母性に寄せられた涙の感謝である。しかも一部隊長大江少佐の美しい温情であり熱祷(ねっとう)であると共に、全将校全部隊長が寄せる亡き部下とその母への『武人の真情』なのである」と書かれているが、信時は、この「武人の真情」に深く感動したに違いない

この大江一二三の歌については、かつて私のブログで2回にわたって取りあげたことがある。そのときの見出しは、「国家に子の命を奪われ、靖国に子の魂を奪われー『九段の母』の二重の悲劇」というものである。これこそが、母の心情であったに違いない。

https://article9.jp/wordpress/?p=7419
(2016年9月4日)
https://article9.jp/wordpress/?m=201608
(2016年8月31日)
これを、以下に抜粋して再掲したい。新保祐司の記事と併せ読んでいただきたい。

靖國神社には、月毎の「社頭掲示」というものがある。2008年8月の靖國神社社頭掲示は以下のものであった。

           遺 書

陸軍歩兵中尉 立山英夫命? 熊本県菊池郡隈府町出身
昭和十二年八月二十二日歩兵第四七聯隊支那河北省辛荘附近にて戦死

若し子の遠く行くあらば 帰りてその面見る迄は
出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず
己生あるその中は 子の身に代わらんこと思い
己死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ
あゝ有難き母の恩 子は如何にして酬ゆべき
あはれ地上に数知らぬ 衆生の中に唯一人
母とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝む
母死に給うそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きておろがむ手のあらば
生きませるとき肩にあて 誠心こめてもみまつれ

お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん

これは、「覚悟の遺書」ではない。母にも他人にも読まれることを想定して書いたものではない。斥候として偵察に出た初陣で戦死した若い見習い士官のポケットから出てきた母の写真の裏に書き付けられたメモである。

メモ前半の長歌は、当時よく知られていた「感恩の歌」の一部をとって、独自の創作を付け加えたもの。そして、24回繰り返された「お母さん、お母さん、お母さん……」。母を思う子の心情が溢れて胸を打つ。ここには、「大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ」などというタテマエや虚飾が一切ない。

私は、このメモを読むたびに、不覚の涙を禁じ得ない。我が子の死の報せを聞かされた母の嘆きはいかばかりのものであったろう。

靖國神社には二面性がある。その一面は、上から見おろした、国家が拵え上げ国民に押しつけた側面。戦没将兵を顕彰することで、戦争を美化し国民を鼓舞して、君のため国のための戦争に国民精神を総動員する装置としての側面。飽くまでこちらがA面である。

だがそれだけではない。国家によって拵え上げられた擬似的「宗教」装置ではあっても、夥しい戦没者の遺族にとっては、故人の死を意味づけ、これを偲ぶ場でありえている。確実に民衆が下から支える側面がある。こちらがB面。B面あればこそのA面という関係ができあがっている。

「お母さん、お母さん…」のメモは、B面に徹した遺品。A面だけではなく、B面も靖國にとっては、なくてはならない存在なのだ。

私は、B面に涙する。同時に、この涙する心情をA面に掠めとらせ利用させてはならないとの痛切の思いを新たにする。A面は擬似的にもせよ宗教的に構成されているのだから、政教分離とはA面の国家利用を絶対に許さないとする法原則と理解しなければならない。

戦争の犠牲者は自国民だけではない、軍人軍属だけでもない。戦没者の追悼のあり方は、祭神として靖國の社頭に祀ることだけではない。「お母さん…」と書き付けて亡くなった子と母の痛切な心情を、国家や靖國に囲い込ませてはならない。

戦死者を顕彰したり戦争を美化するのではなく、再びの戦争犠牲者を絶対につくらないと決意すること。いかなる理由によっても、いかなる戦争も拒否すること。国際協調と平和主義を貫徹する誓約をすること。これこそが真に戦死者を悼み、戦死者と遺族の心情を慰めることになるのだ。(以上、2016年8月31日)

国家に子の命を奪われ、靖国に子の魂を奪われー「九段の母」の二重の悲劇
8月31日の当ブログで紹介した、2008(平成20)年8月靖國神社社頭掲示の立山英夫「遺書」には後日談がある。

陸軍歩兵見習士官立山英夫は、日中戦争開始直後の1937年8月、初陣での斥候任務の途中で戦死した。その血まみれの軍服のポケットから出てきた母の写真の裏に書き付けられたメモには、天皇陛下も万歳も、「大君の辺にこそ死なめ」もなく、ひたすら「母恋し」の心情に溢れた歌が書き込まれ、そのあとに「お母さん お母さん お母さん…」と24回書き付けてあった。撃たれてから書いたのではなく、書き付けたものをポケットに忍ばせていたのだ。我が子の戦死の報せを聞かされた母の嘆きはいかばかりのものであったろう。

死んだ兵の上官は、大江一二三(後に大佐)。この「遺書」に心を揺さぶられた大江は、立山の葬儀に弔電を送る。この弔電が、
「ヤスクニノミヤニミタマハシヅマルモヲリヲリカヘレハハノユメヂニ」
(靖国の宮にみ霊は鎮まるも をりをりかへれ 母の夢路に)
という歌になっていた。これに、当時の著名な作曲家である信時潔が曲をつけて国民歌謡となり、全国で歌われた。

この歌の意味は、当時の国民にはよく分かったのだろうが、今では解説なくしては理解しえない。野暮は承知で解釈してみれば、
「故人の魂は神となって靖国の宮に鎮座してはいるが、ときどきは恋しい母のもとに帰って、その夢にあらわれたまえ」
というところであろうか。

靖国の祭神となった子の魂は母の許にはない。国家が魂を独占し管理しているのだ、母の夢路に「をりをり帰れ」と言うのが精一杯なのだ。

わたしはこの話を、大江一二三の長男である大江志乃夫さんから聞いた。岩手靖国訴訟で、大江さんに学者証人として盛岡地裁の法廷に立っていただいた1983年夏のこと。このことは、法廷に提出された陳述書をもとに上梓された大江志乃夫『靖国神社』岩波新書(1984年3月)の終章にまとめられている。抜粋して引用しておきたい。

この歌は、太平洋戦争中の日本放送協会(NHK)国民歌謡のひとつである。国民歌謡は1936(昭和11)年6月から放送がはじめられ、翌年10月からさらに国民唱歌の放送がはじめられた。
太平洋戦争の記憶とわかちがたく結びついている「海行かば」は、万葉集にある大伴家持の歌に信時潔が作曲したもので、国民唱歌第一号であった。
「靖国の」は信時潔の作曲である。作詞は大江一二三となっている。大江一二三つまり私の亡父である。私の父は陸軍の職業軍人であった。1937年日中戦争がはじまった当時、九州の第六師団に属しており、戦争が開始された直後の7月27日に動員が下命され、ただちに出動した。おなじ部隊に若い見習士官立山英夫がいた。出征わずか三週間後の8月20日、将校斥候として偵察に出た初陣で戦死した。母親思いの立山の血まみれの軍服のポケットには彼の母親の写真があり、裏に「お母さんお母さんお母さん……」と二四回もくりかえし書かれていた。
立山の遺骨が郷里に帰り、葬儀がおこなわれたとき、私の父は転勤して宮崎県の都城市にいた。父の打った弔電の文面が冒頭に紹介した短歌である。電報の配達局の消印は「12・11・17」の日付となっている。…
作曲家の信時潔は1963年11月に文化功労者となった。そのときのNHK「朝の訪問」の番組で「今まででいちばん印象に残る作曲は?」と質問したインタビューアーにたいして?彼は当然「海行かば」という答を予期していたようであるが、?信時は「大江さんという軍人さんの歌ですが」と言い、自分でピアノに向かって「靖国の」を歌ったという。

父が歌にこめた思いもおなじであろうが、私がいだいた素朴な疑問は、一身を天皇に捧げた戦死者の魂だけでもなぜ遺族のもとにかえしてやれないものか、なぜ死者の魂までも天皇の国家が独占しなければならないのか、ということであった。
あれほど母親思いの青年の魂だけでも「をりをり」ではなく、永遠に母親の許に帰ることをなぜ国家は認めようとしないのであろうか。父の友人でもあったある歌人はこの歌を「全国民の唱和に供した悲歌」と評したが、そのとおりであると思う。父のこの歌の存在が私に靖国神社への関心を呼び起こした。

「をりをりかへれ」としか言わせない靖国神社の存在とはいったい何なのか、国家は戦死者の魂を靖国神社の「神」として独占することによって、その「神」たちへの信仰をつうじて何を実現してきたのか、あるいは実現することを期待したのか。

「戦死者の魂を国家が独占する」ことについては、敗戦まで靖国神社の宮司であった鈴木孝雄(陸軍大将)がこう言っている。(「偕行社記事 特別号」)

「人霊をそこへお招きする。此の時は人の霊であります。いったんそこで合祀の奉告祭を行います。そうして正殿にお祀りになると、そこで始めて神霊になるのであります。…遺族の方は、其のことを考えませんと何時までも自分の息子という考えがあっては不可ない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのです」「遺族の心理状態を考えますというと、どうも自分の一族が神になっている。…一方に親しみという方の点が加わるものですから、なんとなく神様の前の拝礼あたりも敬神というような点に欠けていることがまま見られるのであります。…それは確かに、自分の一族の方が神になっておられるんだという頭があるからだと思います。そうではなく、一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないかと思います。」

これが靖国を通じて、国家が戦死者の魂を独占し管理するということなのだ。大江一二三は「せめて、をりをりは母の許に」と言ったが、靖国の宮司はこれをも、「何時までも自分の息子という考えがあってはいけない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのです」「一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないか」と叱責の対象にしかねない。

「九段の母」とは、子の命を天皇と国家に奪われ、さらには死後の魂までも国家に奪われた「二重の悲劇」の母なのだ。(以上、2016年9月4日から)
(2019年3月5日)

吉田嘉明よ、何ゆえにかくも頑なに出廷を拒否するのか ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第149弾

私(澤藤)が、当事者になっているDHCスラップ訴訟。第1ラウンドは、DHC・吉田嘉明が私を被告として、6000万円の損害賠償請求訴訟を提起した。私の言論がDHC・吉田嘉明の名誉を傷つけたというのだ。言論の自由を弁えぬ輩による典型的なスラップ訴訟である。

1審東京地裁・2審東京高裁とも、私(澤藤)が勝訴した。これを不服としたDHCと吉田嘉明は、まったく成算のない上告受理申立までしたが、結局不受理となって確定し、第1ラウンドは終了した。

第2ラウンドも、DHC・吉田嘉明からの仕掛けで始まった。債務不存在確認請求事件として、再び私を提訴したのだ。事件は、東京地裁民事第1部に係属し、私が反訴を提起した。私が反訴原告となって、DHC・吉田嘉明に対する損害賠償請求額は、ささやかな660万円である。

双方主張の応酬がなされるのが普通だが、本件では、気合いのはいった澤藤側書面と、やる気のないDHC・吉田嘉明側の言い訳めいた書面のやり取りの後に、次回4月19日の期日にはいよいよ証拠調べが行われる。反訴原告本人の私(澤藤)と、同被告本人の吉田嘉明、そしてDHCの社員(総務部長のUさん)の3名の尋問が決定されている。

ところが、吉田嘉明は、被告本人尋問に逃げ腰なのだ。第1ラウンドも、第2ラウンドも自分から仕掛けた訴訟でありながら、自らの尋問を申請しない。そこで、澤藤側から反訴被告本人(吉田嘉明)の尋問を申請し、尋問が必要な理由を詳細に主張した。その結果、裁判所が吉田嘉明の尋問を採用決定し、裁判所から吉田嘉明に呼出状が発送された。

ところがどうだ。裁判所から呼出を受けてなお、吉田嘉明は法廷に出て来ないというのだ。部下を盾にして、その後ろに隠れようというこの姿勢は、怖じ気づいたと見られてもやむを得ないではないか。あるいは、普通の社会感覚からは卑怯な振る舞いというしかないではないか。訴えられた方の私(澤藤)は出廷する、訴えた吉田嘉明よ、あなたも出廷してはどうだ。

出廷を拒否する連絡は、訴訟代理人今村憲弁護士名の以下の「意見書」のとおりである。

 

平成29年(ワ)第38149号損害賠償請求反訴事件
反訴原告 澤藤統一郎
反訴被告 吉田嘉明,株式会社ディーエイチシー

意 見 書

                        平成31年2月28日

東京地方裁判所民事第1部合議係 御中

                 反訴被告ら訴訟代理人弁護士 今 村  憲

 平成31年2月8日付当事者尋問呼出状について、次のとおり、意見を述べる。

 尋問事項については、すべて反訴被告本人ではなく、採用済みの証人が主位的に決定しているため、同人が回答するのが最適かつ十分であり、反訴被告本人の出頭の必要性はないので、同日には出頭しない。

わずか4行。念ために申しあげるが、これで全文である。何という投げやりな、何と白々しい、そして何とぶざまな書面ではないか。出廷拒否の理由をまったく語っていないに等しい。前回2月7日(木)11時30分?、501号(ラウンドテーブル法廷)での進行協議の模様を再度報告しておきたい。
☆冒頭、裁判長から以下の発言。
前回の法廷で、Uさん(DHC総務部長)と、澤藤さん、吉田さんの尋問採用を決定しましたが、本日の進行協議は、反訴被告側に、吉田さん本人尋問の申請をするか否かをお考えいただき、それ次第で、尋問の順序や時間配分をどうするかを決めたいという趣旨のものです。
反訴被告代理人。吉田さん本人尋問の申請はされますか。

☆反訴被告代理人弁護士 今村憲
 「当方から吉田の尋問を申請はしません。」
 「今のところ、出頭しない方向です。」

☆反訴原告代理人
 「当人が出頭するかしないかはともかく、裁判所から呼出状を出していただくことが重要で、至急お願いします。」

☆裁判長
 「呼出状は本日発送します。」
 「反訴被告は、出廷できるかできないか。理由を付して今月末までに返事をおねがいします。」

☆その後の協議の結果次回法廷スケジュールが次のように決まった。
 最初に反訴原告(澤藤)の尋問 主尋問30分 反対尋問30分。
 次に、証人のUさん。 主尋問20分 反対尋問30分。
 最後に、反訴被告(吉田嘉明)。主尋問30分 反対尋問30分。

☆次回の法廷は、4月19日(金)午後1時30分?
 東京地裁415号法廷。

ところで、相争う相手は、けっして軽蔑の対象ではない。場合によっては、争いつつも、争い方のフェアプレイに尊敬の念を懐かざるを得ないこともある。その反対に、大物を相手に争訟をしていたつもりが、つまらぬ小物が相手だったか、と思わされることもある。

私の趣味ではないが、いかにも右翼が好みそうな「抜刀隊」という歌を紹介しよう。官軍の軍歌ではあるが、作詞は外山正一という贅沢な軍歌。この歌詞は、一興をそそる。

我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大將たる者は 古今無雙の英雄で
之に從ふ兵(つはもの)は 共に慓悍决死の士
鬼神に恥ぬ勇あるも 天の許さぬ叛逆を
起しゝ者は昔より 榮えし例あらざるぞ
敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に
玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし

この歌は、敵將を「古今無雙の英雄」と讃え、敵兵を「共に慓悍决死の士」と褒めそやしている。英雄たる敵と闘うことを誇りとして、自軍の勇を鼓舞しているのだ。

ところがどうだ。私(澤藤)の闘う相手は「古今無雙の英雄」の片鱗もなく、部下を戦場において自分は逃亡の体という、卑怯な小物なのではないか。これは、私(澤藤)たちの戦意を殺ごうという高等作戦なのだろうか。

敢えて、何度でも言おう。吉田嘉明よ、逃げてはならない。逃げれば、永久に、卑怯・未練・怯懦・臆病と言われるばかりだ。それでよいのか。吉田嘉明よ。逃げずに法廷に出て来たまえ。同じ日、同じ法廷で、私も語る。キミも、思うところを存分に述べたらどうだ。

そもそも、闘いを仕掛けたのはキミの方だ。突然に私を訴えた。2000万円を支払えという損害賠償請求訴訟。私は逃げずにキミからの仕掛けを受けて闘った。もちろん、キミの提訴は言論の萎縮をねらった露骨なスラップだと反撃を開始した。私が「DHCスラップ訴訟を許さない」、という当ブログのシリーズを書き始めたら、何と2000万円の請求が6000万円に跳ね上がった。キミの言論抑圧の意図はそれだけで明瞭ではないか。

こんなメチャクチャなスラップ訴訟を、キミは同時期に10件も提訴している。とうてい勝算などあり得ない訴訟を、それでも提訴した意図や思惑を語れ。一体幾らのカネをかけてこんな訴訟をやったのか。もしや、顧問弁護士から、勝訴の見込みがあるとでも吹き込まれたというのか。その経緯を、宣誓して法廷で語れ。

私は、キミにお願いしたい。逃げずに、誰かの後ろに隠れずに、堂々と裁判所に出てきてしゃべってほしい。私もキミに直接の質問をしたい。キミから私に、質問もしてもらいたい。

もう一度言おう。私は、キミを批判の対象としている。しかし、これまでのところ、けっしてキミを軽蔑してはいない。しかし、キミが、裁判所の呼出から逃げて、卑怯未練・怯懦の振る舞いをすることとなれば、軽蔑せざるを得ない。

「本物、偽物、似非もの」と並べる記事を書いたキミではないか。キミ自身が、「偽物」でも「似非もの」でなく、「本物」だと言うのであれば、堂々と法廷で語れ。そうすれば、私はキミを全力で追及するが、軽蔑の対象として見ることはない。
(2019年3月4日)

第五福竜丸の受難を描いた新ドキュメンタリー映画 ― 「西から昇った太陽」

1954年3月1日、アメリカは太平洋ビキニ環礁で史上最大規模の水爆実験を行った。「ブラボー」と名付けられた広島型原爆の1000倍の破壊力を持つ水爆は、爆心から160キロ離れたマグロ漁船「第五福竜丸」(静岡県焼津市)に死の灰を降り注いだ。その被爆の日が「3・1ビキニデー」。あれから65年が経過した。まだ人類は、この悪魔の兵器を廃絶し得ていない。東京・夢の島に展示されている第五福竜丸は、世界から核をなくする使命を、なし終えていない。

今年(2019年)の第五福竜丸平和協会「3・1 記念行事」は、映画上映会となった。豊島区のシネマハウス大塚を会場に、昨日(3月2日)下記のプログラムで行われた。

◆上映映画◆
?10:30? 「西から昇った太陽」(監督舞台挨拶)
?13:30? 「死の灰」/「荒海に生きる」(トークを予定)
?15:30? 「わたしの、終わらない旅」(監督舞台挨拶予定)
?18:00? 「西から昇った太陽」(監督舞台挨拶)
各回ともチケット完売で、【満員御礼】となった。

目玉は、完成したばかりのビキニ事件を題材としたドキュメンタリー西から昇った太陽」(2018年75分)。アメリカ人の若い監督が作ったことに格別の意義がある。

以下は、同映画の宣伝。

1954年3月1日、第五福竜丸の乗組員たちは太平洋上で巨大な水爆実験を目撃した。「西から太陽が昇ったぞ・・・!!」
映画「西から昇った太陽」は、水爆実験に遭遇するという怖ろしい出来事が漁師たちにもたらした苦悩と人生の困難を、当時を体験した乗組員3名のインタビューと1000枚を超えるイラストによるストップモーションアニメで再現しました。
米・ピッツバーグに拠点を置く製作チームは2014年から度重ねて来日し、3人の第五福竜丸元乗組員を取材。過去の資料や映像、写真だけに頼らない、体験者の生の声を映像化することを目指しました。
イラストとCGの独特な味わいと、静かな語りから悲しみが立ち昇る、アメリカの若手作家たちによる新しい第五福竜丸の物語です。

監督・プロデューサー:キース・レイミンク
製作:ダリボルカフィルム
演出デザイン・イラストレーション:Josh Lopata
アニメーション:Jsutin Nixon
音楽:Troy Reimink
現地インタビュー:Peter Bigelow

2月28日、「3・1ビキニデー」行事のひとつとして、静岡で特別試写会が先行している。この映画「西から昇った太陽」は、元乗組員の見崎進さん、池田正穂さん(86)=焼津市=、大石又七さん(85)=東京都=による証言映像と、日本の紙芝居に着想を得たアニメーションで構成するドキュメンタリー。元乗組員が船上で目撃した爆発の光景や放射能の影響だけでなく、漁師の暮らしや帰国後の治療の経過、家族との絆など、一人一人の歩みを丹念に追った。

以下は、NHK(静岡放送局)報道の抜粋。
アメリカ人の監督が制作した映画「西から昇った太陽」は、1954年3月1日、南太平洋で操業中だった「第五福竜丸」が、アメリカの水爆実験で放射性物質を含んだ「死の灰」を浴び、乗組員23人が被ばくで苦しみ1人が亡くなった状況や、周囲の偏見を乗り越えて生きていく姿などを、3人の元乗組員のインタビューやアニメーションで描いた1時間15分の作品です。
映画では、4日前に92歳で亡くなった元乗組員の見崎進さんが「夜明け前に一面に光って、西から太陽が出るわけがないと大騒ぎになった。最年長の乗組員が亡くなり今度は自分の番だと悪いことばかり考えた」と証言していました。
キース・レイミンク監督は「核兵器の問題はアメリカではあまり論じられていないが、日本人とアメリカ人が協力して事実を共有することが重要だ」と話していました。
?映画を鑑賞した静岡市の40代の女性は、「この事件を知らないアメリカの若者にも広まってほしい。核の廃絶を訴えていきたい」と話していました。

静岡新聞はこう報じている。
 第五福竜丸元乗組員の見崎進さん(92)=島田市=が(2月)25日、亡くなった。晩年はビキニ事件の記憶を語り継ごうと取材や聞き取り調査に応じてきた。米国人映像作家が見崎さんら元乗組員の人生を描いた映画が、28日のビキニデー集会に合わせて日本で初めて披露される直前の訃報だった。被ばくから65年。事件の実情を伝える数少ない証人がまた一人この世を去った。
 見崎さんが出演したのは、米国人映像作家のキース・レイミンク監督による映画「西から昇った太陽」。元乗組員らの証言を基に約4年間の制作期間を経て完成した映画を、見崎さんは昨年、自宅で視聴し「ええっけよ。よくできているよ」と喜んだという。
 レイミンク監督の取材をサポートしたのは同市の粕谷たか子さん(69)。2013年に地元の中高生が行った聞き取り調査をきっかけに見崎さんとの交流を続けてきた。「本当にたくましく、明るく前向きな方」と人柄をしのび、「被害に遭った人にしか分からない痛みや苦しみを、若者たちへ真剣に伝えてくれた」と惜しんだ。
 3・1ビキニデー県実行委員会運営委員会代表の成瀬実さん(82)=焼津市=は「事件の後、家族のためにじっと耐えてきた。生きざまがそのまま歴史になっている」と振り返る。記憶を語り続けた見崎さんの思いを「仲間が亡くなる中で『伝えなければ』という危機感があったのでは」と推し量った。同実行委員会事務局長の大牧正孝さん(69)=静岡市葵区=は「事件を風化させないために、われわれが伝えていかなければならない」と言葉に力を込めた。

試写会後、監督を務めた米国在住の映像作家キース・レイミンクさんは「言葉の壁や金銭的な問題もあり完成に時間がかかったが、事実を正確に記録した良い映画ができた」とあいさつした。

第五福竜丸の乗員23名は、全員が被爆して、東京の国立第一病院に1年2か月余入院する。その間に最年長の久保山愛吉さんが亡くなり、生存者も不安の日々を過ごすことになる。病室のテレビに映った地元焼津の未婚女性が、「被爆者との結婚は考えられない」という言葉にショックを受ける。退院後も、「放射能がうつる」との差別がつきまとい、再就職も困難となり、婚約を破棄された人もある。被爆の事実や、被爆の被害を伏せざるを得ない。

この映画のインタビューに応じた3人の内の一人が亡くなって、第五福竜丸乗組員の生存者は4人となったという。平和協会の安田和也事務局長が言うとおり、「半世紀もの時間が流れたことで、明かされた証言もある。若い人にこそ、映画を通じて今日まで続く核被害の歴史に触れてほしい」ものと思う。

なお、第五福竜丸展示館は、1976年の開館から42年となる。現在、大規模改修工事中で全面休館となっている。あと1か月の準備の後、本年4月2日にリニューアルオープンする。新しい第五福竜丸展示館に、ご期待とご支援を。
(2019年3月3日)

朝鮮人を殺そうとした日本人と、身を呈して救った日本人と

昨日(3月1日)、石川逸子さんをご自宅に訪ねた。石川さんは知られた詩人であるが、花鳥風月や雪月花を詠む人ではない。被爆者・戦争犠牲者・日本軍「慰安婦」・徴用工など、常に虐げられた人・苦しい境遇の人、そしてひっそりと忘れられた人々に思いを寄せての詩作をされる。3月1日にお目にかかるに、まことにふさわしい方。そのインタビュー記事は、間もなく「法と民主主義」に掲載となる。

石川さんから、「最近はこんなとをしています」と、小冊子をいただいた。「風のたより」と題する不定期刊行物で第16号とある。32頁の縦書きパンフだが、帰宅後に目を通してその内容の充実ぶりに驚いた。

南京事件の証言、台湾人「慰安婦」の証言、中国人強制連行事件、朝鮮人強制連行犠牲者への追悼。戦場の父からの手紙、翁長知事への追悼・日米地位協定、三井三池炭坑炭塵爆発事故、フクシマの事故、核兵器禁止条約…。書き下ろしと、詩と証言と手紙と運動体の通信からの転載など、いずれも読むに値するものばかり。石川さんのところに、読むに値するものが集まってくるのだ。

なかで、興味を引く一文を紹介させていただく。関東大震災後の朝鮮人虐殺事例は数多く報告されているが、このようなかたちで虐殺から救った日本人がいたことは知らなかった。特筆に値する事例だと思う。

**************************************************************************
大きな愛
関東大震災時朝鮮人虐殺に抗して

 京都在住の詩人、片桐ユズル氏から、お手紙をいただいた。
 お手紙によると、日中戦争がはじまる前は、大人が集まると話題は関東大震災のことだったという。そのとき、幼いユズル少年がチラと耳にはさんだのは、白分のひいばあちゃん、片桐けいが、朝鮮人を肋けて警視庁から表彰されたとのこと。それ以上、知らないままでいたところ、当時18歳だった父、片桐大一氏が、そのことをのちに英文で記していたのである。
 そして、大一氏(享年90)の葬儀のとき、ユズル氏の弟、中尾ハジメ氏が日本語訳し、コピーして会葬者に配ったのだという。
 以下、その文章を載せさせていただく。

 25万5000の家屋を倒壊させ、さらに44万7000棟を焼失させた関東大震災で、首都東京は平地と化してしまった。一週間ほどで私たちは、めちゃめちゃにひっくり返ってしまったものをもう一度たてなおそうと、気を取りなおし始めていた。私たちのつぶれかけた家は、引きたおし、建てなおさねばならなかった。その日の午後、荻窪駅の近くで建築業者と材木商との打ちあわせを終えて、私は家へ帰るところだった。
 未曾有の破壊は東京周辺のいくつかの地域でどうにも手のつけがたい無秩序をもたらしていた。大異変が人びとの理性の平衡を失わせたのだ。最も野蛮な不法行為まで起こっていた。
 もっともらしく歪められ拡大された恐ろしい噂が、またたくまに、広く走り、朝鮮人たちが反乱を企んでいる、あちこちの井戸に毒を役げこんだ、そして何人かはその場で捕えられ殺されたというのだ。家にむかいつつあった私は、近所の大地主の一人飯田さんの畑で一人を斬首刑にすると、通りがかりの人たちが話しているのを耳にした。好奇心で私はその私刑の場へと急いだ。
 数分で私はそこにいた。たくさんの人が集まっている。異常に張りつめた空気を感じとることができる。たぶん何も悪いことをしていない一人の朝鮮人に行われようとしている非法な斬首刑をはっきり見ようと、私は厚い人垣をかきわけて、最前列にまで無理やり進んだ。この男が捕らわれたのは、ただ彼が朝鮮人だったからだ。
 この白昼、これほど多くの目撃者のまえで一人の人間が殺されるのを見る。なんという衝撃か。どうして、これほど多くの者がこの光景を傍観できるのか。法治社会でこんな刑罰が許されるのか。
 犠牲者は地面にはだしで坐らされている。若く見える。が、私には、その背中しか見えない。彼は動かず、じっと静かにしている。逃げることは不可能だ。逃げようとはしていない。運命をあきらめているのか。取りかこんで立つ男たちの手にする、にぶく光る刀が触れる瞬間、血がほとばしるのを知っているのか。やがて永遠の瞬間がきて、刀がひらめき、無抵抗の肉と骨に落ちていくのを知っているのか。私の心臓は、のどにまで上がり、息がつまる。周りのだれも動かなかった。この逃れがたい死の場面はいつ終わるのか。何という瞬間だ!
 反対がわに立っている群集のなかにざわめきがあがった。何だろう。厚い人垣をかきかけて一人の女が出てきて、自警団の輪のまんなかに身を投げだした。大地に自分をたたきつけるようにして、その朝鮮人のまぢかに、その背中によりかからんばかりに坐った。
 何と! なぜ! どうして! この新た闖入者は私白身の祖母に他ならなかった。私のおばあちゃん、年老いてひ弱な。おばあちゃんは、何をしようというのか。
「さあ、まず私を殺しなさい。先にこの老いぼれた私を殺しなさい。この罪もない若者を殺すまえに、私を殺しなさい。」わめいたのではなかったがその声はみんなに聞こえた。だれもしゃべらず、だれも動かなかった。おばあちゃんは同じ言葉を数回くりかえし、くりかえすごとに、ますます毅然と決意が見えてきた。あの威厳はどこからくるのか。
 ほっとしたことに、この危機的な瞬間は長くはつづかなかった。引き抜かれた刀は、血を流すことなく元の鞘に収められた。死刑執行者たちは、この二人の坐ったままの老人と若者に背をむけると、一人また一人と去っていった。何という変わりようだ、ほんのわずかの間にこんなに従順でおとなしくなってしまうとは。ほっとした様子を見せたものさえいたし、負け犬のように立ち去ったものもいた。
 群集は去り、私はおばあちゃんを連れて家に帰った、というか、おばあちゃんが帰ろうといったのだろうか? 彼女は、もはや決意も威厳も見えず、普通の年寄りになっていて、私のわきをとぼとぼと歩くのだった。
 その若い朝鮮人は、後で大工だということがわかった。私たちの近所を回り修理仕事をしていたのだ。彼の名はダル・ホヨンで、日本名をサカイといった。
 何日も何週間もたち、私たちはあの事件には何も触れずにいた。というのも、あの恐ろしい私刑の場面を思い出すのが怖かったからだ。何か月かたって、おばあちゃんは警視庁に出頭せよといわれた。彼女はそこで人命救助により「警視総監賞」を受けた。

 友のために自分の命をあたえるばど人きな愛はない。…それにしても、なんと大きな勇気をもち、断固として、非道な行為に、武器をかざした一団に立ち向かわれたことであろうか。(以下略)

(2019年3月2日)

「3・1独立運動」 100周年記念式典の文在寅演説紹介

本日、韓国は「三一節」。「3・1独立運動」を記念する日として祝日になっている。100年前の今日、1919年3月1日ソウルのパゴダ公園(現タプコル公園)で、独立宣言文が読み上げられ、「独立万歳」を叫ぶ大きなデモ隊がここから出発した。これを端緒に「独立万歳」の声が、全国にとどろいて日本の支配を揺るがせた。1910年の日韓併合から9年目の大事件であった。

日本の総督府は、苛酷な武力の行使をもってこれを弾圧した。この運動に参加し、官憲に殺害された人の数は、7500名余に及ぶとされている。

一週間前の金曜日(2月22日)、私たち韓国ピースツアーの一行は、タプコル公園を訪れた。おそらく3月1日には、ここでも記念式典が予定されているのだろう。公園はよく清掃されていた。1762文字でつづられた独立宣言全文を彫った大きな銘板が足場を組んで、拭われていた。独立宣言文の署名者は、33名の「朝鮮民族代表」とされているが、その筆頭が天道教(元・東学)のソン・ビョンヒ。その立像が建立されている。

そして、朝鮮全土に展開された「3・1独立運動」の模様を描いた銅板のレリーフが多数並んでいた。その中の1枚が、「韓国のジャンヌダルク」といわれる柳寛順(ユ・グァンスン)の姿を描いたもの。さながら、群衆を率いる「自由の女神」のごときポーズ。官憲に恐れず立ち向かう彼女が手にしているのは太極旗なのだろう。

柳寛順は17歳の学生で、デモを組織し指揮し、両親は日本憲兵の発砲で殺され、自身は逮捕される。デモでの受傷と拷問で獄死するが、死の直前まで「独立万歳」と叫び続けたという。このレリーフと彼女の写真が、学び舎の中学歴史教科書「ともに学ぶ人間の歴史」212頁に掲載されている。

それから100年目の3月1日。光化門広場(東京なら、さしずめ皇居前広場に当たる)に、1万人余の参加者を得ての政府主催の記念式典が行われた。文在寅(ムン・ジェイン)大統領の格調高い演説は、最後に柳寛順(ユ・グァンスン)に触れた。その長文の演説(全文ではない)を引用しておきたい。3・1独立運動が今日に持つ意義をみごとに描いている。

**************************************************************************

尊敬する国民の皆さん、海外同胞の皆さん。100年前のきょう、われわれはひとつでした。3月1日正午、学生たちは独立宣言書を配布しました。午後2時、民族代表たちは泰和館で独立宣言式を行い、タプコル公園では約5000人が一緒に独立宣言書を朗読しました。

たばこをやめて貯蓄し、かんざしと指輪を差し出し、さらには切った髪を売って国債報償運動に加わっていた労働者や農民、婦女子、軍人、車夫、妓生、と畜業者、作男、零細商人、学生、僧侶など平凡な人々が三・一独立運動の主役でした。

その日、われわれは王朝と植民地の百姓から、共和国の国民へと生まれ変わりました。独立と(植民地支配からの)解放を超え、民主共和国のための偉大な旅路を歩み始めました。

100年前のきょう、南も北もありませんでした。ソウルと平壌、鎮南浦と安州、宣川と義州、元山まで、同じ日に万歳の声がわき上がり、全国あちこちに野火のように広がっていきました。

3月1日から2カ月間、南北韓を分かたず全国220の市・郡のうち211の市・郡で万歳デモが起こりました。万歳の声は5月まで続きました。当時、朝鮮半島の人口の10%にもなる約202万人が万歳デモに参加しました。約7500人の朝鮮人が殺害され、約1万6000人が負傷しました。逮捕・拘禁された人は実に4万6000人ほどに達しました。

最大の惨劇は平安南道の孟山で起きました。3月10日、逮捕・拘禁された教師の釈放を要求しに行った住民54人を日帝は憲兵分遣所内で虐殺しました。

京畿道・華城の提岩里でも教会に住民を閉じ込めて火を放ち、幼い子どもも含めて29人を虐殺するという蛮行が起きました。

しかし、それとは対照的に朝鮮人の攻撃で死亡した日本の民間人はただの一人もいませんでした。

民族の一員として誰でもデモを組織し、参加しました。われわれはともに独立を熱望し、国民主権を夢見ていました。三・一独立運動の声を胸に収めた人々は、自分と同じ平凡な人々が独立運動の主体であり、国の主人だという事実に気付き始めました。そのことが、より多くの人の参加を呼び込み、毎日のように万歳を叫ぶ力になりました。

歴史を正しくすることこそが、子孫が堂々とできる道です。親日残滓の清算も、外交も未来志向的に行われなければなりません。「親日残滓の清算」とは、親日は反省すべき、独立運動は礼遇を受けるべきという最も単純な価値を立て直すことです。この単純な真実が正義であり、正義がまっすぐあることが公正な国の始まりです。

日帝は独立軍を「匪賊」、独立運動家を「思想犯」と見なして弾圧しました。このときに「アカ」という言葉もできました。思想犯とアカは本当の共産主義者だけに使われたのではありません。民族主義者からアナーキストまで、全ての独立運動家にレッテルを張る言葉でした。左右の敵対、理念の烙印(らくいん)は日帝が民族を引き裂くために用いた手段でした。解放後も親日清算を阻む道具になりました。

良民虐殺、スパイでっち上げ、学生たちの民主化運動にも、国民を敵と追い込む烙印として使用されました。解放された祖国で日帝警察の出身者が独立運動家をアカとして追及し、拷問することもありました。多くの人々が「アカ」と規定されて犠牲になり、家族と遺族は社会的烙印の中で不幸な人生を送らねばなりませんでした。

今もわれわれの社会で政治的な闘争勢力をそしり、攻撃する道具としてアカという言葉が使われており、変形した「イデオロギー論」が猛威をふるっています。われわれが一日も早く清算すべき代表的な親日残滓です。

われわれの心に引かれた「38度線」は、われわれを引き裂いた理念の敵対をなくすとき、一緒に消えるでしょう。互いに対する嫌悪と憎悪を捨てるとき、われわれ内面の光復(植民地支配からの解放)は完成するでしょう。新たな100年はその時になって初めて本当に始まります。

尊敬する国民の皆さん、過去100年、われわれは公正で正義のある国、人類全ての平和と自由を夢見る国に向けて歩んできました。植民地と戦争、貧しさと独裁を乗り越え、奇跡のような経済成長を遂げました。

四・一九革命と釜馬民主抗争、五・一八民主化運動、六・一〇民主抗争、そしてろうそく革命を通じ、平凡な人々が各自の力と方法でわれわれ皆の民主共和国を築いてきました。三・一独立運動の精神が民主主義の危機のたびによみがえりました。

新たな100年は真の国民の国を完成させる100年です。過去の理念に引きずられることなく、新たな思いと気持ちで統合していく100年です。われわれは平和の朝鮮半島という勇気ある挑戦に乗り出しました。変化を恐れず、新たな道に踏み込みました。

2017年7月、ドイツ・ベルリンで「朝鮮半島平和構想」を発表した時、平和はとても遠くにあり、手に入れることができないように思えました。しかし私たちはチャンスが訪れた時に飛び出し、平和をつかみました。

平昌の寒さの中、ついに平和の春は訪れました。昨年、金正恩委員長と板門店で初めて会い、8000万の民族の心を一つに、朝鮮半島に平和の時代が開かれたことを世界の前で宣言しました。9月には綾羅島競技場で15万の平壌市民の前に立ちました。大韓民国の大統領として平壌市民に朝鮮半島の完全な非核化と平和、繁栄を約束しました。

朝鮮半島の空と地、海から銃声が消えました。非武装地帯で13柱の遺骨と共に、和解の心も発掘しました。南北の鉄道と道路、民族の血脈がつながっています。黄海5島の漁場が広がり、漁民たちの満船の夢が膨らみました。

虹のように思われた構想が、われわれの目の前で一つ一つ実現しつつあります。もうすぐ非武装地帯は国民のものになるでしょう。世界で最もよく保存された自然がわれわれへの祝福となります。

朝鮮半島の恒久的な平和は、多くの峠を越えることで確固たるものとなります。ベトナム・ハノイでの2回目朝米(米朝)首脳会談も、長時間の対話を交わし相互理解と信頼を高めただけでも意味ある進展でした。とりわけ両首脳の間で連絡事務所の設置まで議論がなされたことは、両国関係の正常化に向けた重要な成果でした。トランプ大統領が示した持続的な対話の意志と楽観的な展望を高く評価します。より高い合意へ進む過程だと考えます。

 ここで、われわれの役割が重要になってきました。わが政府は米国、北と緊密に意思疎通しながら協力し、両国間の対話の完全な妥結を必ず実現させてみせます。

 これからの新たな100年は、過去とは質的に異なる100年になるでしょう。「新朝鮮半島体制」へと大胆に転換し、統一を準備していきます。「新朝鮮半島体制」はわれわれが主導する100年の秩序です。国民と共に、南北が共に、新たな平和協力の秩序を生み出していくのです。

朝鮮半島の「平和経済」時代を開いてまいります。
金剛山観光と開城工業団地の再開案も米国と協議します。南北は昨年、軍事的な敵対行為の終息を宣言し、「軍事共同委員会」の運営に合意しました。非核化が進展すれば、南北間で「経済共同委員会」を構成し、南北双方が恩恵を享受する経済的な成果を生み出すことができるでしょう。

南北関係の発展が朝米関係の正常化と朝日(日朝)関係の正常化につながり、北東アジアの新たな平和安保秩序も拡張されます。三・一独立運動の精神と国民統合を礎に、「新朝鮮半島体制」を築いていきます。どうか全国民が力を合わせてください。

朝鮮半島の平和は南と北を超え、北東アジアと東南アジア、ユーラシアを包括する新たな経済成長の原動力となるでしょう。100年前、植民地になったか植民地転落の危機に直面したアジアの民族と国々は、三・一独立運動を積極的に支持してくれました。

 当時、北京大学の教授として新文化運動を導いた陳独秀は「朝鮮の独立運動は偉大で悲壮であると同時に明瞭で、民意をもってしながらも武力を用いなかったことで世界の革命史に新紀元を開いた」と語りました。

 朝鮮半島の縦断鉄道が完成すれば、昨年の光復節(日本による植民地支配からの解放記念日)に提案した「東アジア鉄道共同体」の実現が早まるでしょう。それはエネルギー共同体と経済共同体に発展し、米国を含め多国間平和安保体制を固めることになります。

 朝鮮半島平和のために日本との協力も強化します。「己未(三・一)独立宣言書」は三・一独立運動が排他的感情ではなく全人類の共存共生のためのものであり、東洋平和と世界平和に向かう道であることを明確に宣言しました。

 過去は変えられませんが、未来は変えることができます。

 歴史を鑑として韓国と日本が固く手を握る時、平和の時代がわれわれに近付くでしょう。力を合わせて被害者の苦痛を実質的に癒やす時、韓国と日本は心が通じ合う真の友人になるでしょう。

尊敬する国民の皆さん、海外同胞の皆さん、過去の100年、われわれが共に大韓民国を耕してきたように、新しい100年、われわれは共に豊かに暮らさなければなりません。

 世界は今、両極化と経済不平等、差別と排除、国家間の格差と気候変動という地球レベルの問題解決のために新たな道を模索しています。われわれは変化を恐れず、むしろ能動的に利用する国民です。
 われわれは最も平和で文化的な方法で世界民主主義の歴史に美しい花を咲かせます。

 われわれの新たな100年は平和が包容の力につながり、包容が共に豊かに暮らす国を作り出す100年になるでしょう。包容国家としての変化をわれわれが先導することができ、われわれが成し遂げた包容国家が世界包容国家のモデルになり得ると信じています。

 三・一独立運動は今もわれわれを未来に向かって進ませてくれています。われわれが今日(三・一運動の象徴である独立運動家)柳寛順(ユ・グァンスン)烈士の功績を見直し、独立有功者の勲格を高めて新たに褒賞するのも、三・一独立運動が現在進行形だからです。

柳寛順烈士は(忠清南道・天安の)アウネ市場で万歳デモを主導しました。
(ソウルの)西大門刑務所に閉じ込められても死を恐れず、三・一独立運動1周年万歳運動を行いました。しかし、何より大きな功績は「柳寛順」という名前だけで三・一独立運動を忘れられないようにしたことです。

 過去100年の歴史はわれわれが向かい合う現実がどれだけ困難でも、希望を諦めなければ変化と革新を成し遂げることができると証明しました。今後の100年は、国民の成長がすなわち国家の成長になるでしょう。

 国内では理念の対立を越えて統合を成し遂げ、国外では平和と繁栄を成し遂げる時、独立は真に完成されるでしょう。

 ありがとうございました。

(2019年3月1日)

バーネット判決から75年。それでも、フロリダではいまだに「忠誠の誓い」の強制。

友人から、下記の記事を教えられた。CNNの日本語版サイトに注目すべき記事。
CNN.co.jpメルマガ? 2019.02.19 Tue posted at 12:27 JST
https://www.cnn.co.jp/usa/35132945.html
「忠誠の誓い」拒否した中学生を拘束、人権団体から批判 米

(CNN) 米フロリダ州の中学校で11歳の黒人男子生徒が日課の「忠誠の誓い」を拒否した後、校内の規律を乱したなどとして拘束されたことに対し、人権団体などから批判の声が上がっている。

地元の学校区や警察によると、少年は今月4日、教室内で忠誠の誓いを拒否。担当の代理教員によれば、この時「国旗は人種差別的」「国歌は黒人を侮辱している」と主張した。代理教員は少年とのやり取りの後、学校の事務室に連絡した。校内に常駐する警官も駆け付けた。

警官が少年に退室を求めると、少年はいったん拒否した。その後教室を出て事務室へ連れて行かれる間、さらに騒いで脅しをかけたという。警察によれば、少年は学校の業務を妨害し警官に抵抗したとして拘束され、鑑別所へ送られた。

少年の母親は地元のCNN系列局に対し、「息子がこんな目に遭ったのは初めて」「処分を受けるとしたら学校のほうだ」と怒りをあらわにした。母親によれば、少年は優秀な生徒を集めた選抜クラスに入っている。かつていじめの対象になったことがあるという。

少年が拘束されたとの報道を受け、憲法で保障された言論の自由の侵害だとする批判が巻き起こった。人権団体「米市民自由連合(ACLU)」のフロリダ支部は、「黒人の生徒に対する行き過ぎた取り締まりの一例だ」とツイートした。

学校区は18日、生徒の言論の自由を尊重するとの声明を発表。代理教員の行動は容認できないとの立場を示した。代理教員は学校からの退去を命じられ、学校区内での職場復帰を禁じられたという。

隔靴掻痒で、詳しいことが分からないのがもどかしい。
ACLUは、通常「アメリカ自由人権協会」と訳される。大規模組織であり、影響力も大きい。「代理教員は学校からの退去を命じられ、学校区内での職場復帰を禁じられたという。」は、いかにも拙い日本語。問題の教員が解雇されたというのか、停職処分となったというのか。その理由は。「学校区内での職場復帰を禁じられた」とはいったい何のこと。何よりも、肝心の11歳の少年がどうなったのか、書いていない。鑑別所に入れられっぱなしなのか釈放されたのか。続報は目につかない。

「忠誠の誓い」(Pledge of Allegiance)というものが、アメリカ合衆国にはある。その一訳例が以下のとおり。
「私はアメリカ合衆国の国旗と,それが表象する共和国に,すなわち神のもとに不可分一体で自由と正義がすべての人のためにある国に,忠誠を誓います」

1923年には、現行の文言に定式化されて、国旗に対する敬礼が公立学校で一般化した。世界各地からの移民で構成された多民族国家である。言語も宗教も歴史もそれぞれ異なる国民を統合するシンボルとして国旗を通しての国家への忠誠が必要とされたのだ。合衆国は、自由と正義を理念とする存在とされ、国旗はその理念のシンボルともされた。しかし、すべての国民に忠誠の誓いを強制することは、自由であるはずの国家理念に矛盾することになる。とりわけ、自らが信じる神以外の一切の対象物に忠誠を誓ってはならないとする信仰者には、深刻な問題が生じることになる。

こうして、公立学校での国旗への敬礼による「忠誠の誓い」拒否が、信仰の自由と国家の要求する秩序との衝突として、大問題となる。社会問題ともなり、教育問題ともなり、最も著名な連邦最高裁判決を引き出した憲法問題ともなった。

この問題での最初の連邦最高裁判決が、1940年のゴビティス事件判決である。国旗への敬礼を偶像崇拝と見なすエホバの証人の子弟であっても、公立学校の生徒は国旗に敬礼しての「忠誠の誓い」を拒否すれば制裁を免れない、というもの。個人の精神生活の自由よりも国家の秩序を優先させた野蛮な判決であった。この判決のあと、エホバの証人に対する集団暴行や脅迫事件が多発したという。野蛮な判決は、野蛮な社会の反映であったろう。

しかし、この判決は3年で劇的な判例変更となる。1943年(第2次大戦中である)のウェストバージニア州教育委員会対バーネット事件判決で、この強制を合衆国憲法修正第1条(精神的自由の保障規定)に照らして違憲であるとの判断を下し、その後70余年この判例に揺るぎはない。にもかかわらず、今頃なぜ、フロリダ州の中学校でこんな強制事件が起こるのだろうか。

それにしても、「国旗は人種差別的」「国歌は黒人を侮辱している」と堂々と主張した11歳に敬意を表したい。その感性と行動力は立派なものだ。何よりも大切なのは、一人ひとりの尊厳であり矜持なのだ。人種差別のない、誰をも侮辱することのない社会を作ることが大切なのだ。「旗」や「歌」が、人間よりも大切なはずはない。「国旗」や「国歌」に敬意を表明することが、もっと大事な何かを傷つけるとすれば強制される筋合いはない。「人種差別的」で「侮辱的な」旗や歌の強制を拒否する権利は誰にもあるのだ。
(2019年2月28日)

菅官房長官発言「あなたに答える必要はありません」の「あなた」とは、主権者国民のことだ。

昨日(2月26日)午後の記者会見で、菅官房長官は東京新聞望月衣塑子記者に対して、「あなたに答える必要はない。」と言い放った。何という傲慢な態度。「あなた」とは、耳に痛い質問をする国民すべてのことだ。望月記者は多くの国民を代弁して権力に切り込んでいる。その質疑によって、国民は国政の真実を知りうるのだ。首相や官房長官の耳に心地よい質問だけでは、国民が真に知りたいことは聞けないではないか。

この官邸の望月記者排除問題は看過し得ない。ここが権力対ジャーナリズム対立の最前線になっている。ここでの攻防が、国民の知る権利に影響を及ぼす。多くの声明文が指摘しているように、日本のメディアが結束して事に当たらないと、大本営発表ジャーナリズムに堕しかねない。

まず経過を簡略に振り返っておこう。
昨年(18年)12月26日官房長官記者会見がことの発端である。問題は、辺野古埋立の赤土問題だった。

望月記者:沖縄辺野古についてお聞きします。民間業者の仕様書には「沖縄産の黒石岩ズリ」とあるのに、埋め立ての現場では赤土が広がっております。琉球セメントは県の調査を拒否していまして、沖縄防衛局は「実態把握ができていない」としております。埋め立てが適法に進んでいるのか確認ができておりません。これ、政府としてどう対処するおつもりなのでしょうか。

菅官房長官:法的に基づいてしっかりやっております。

望月記者:「適法がどうかの確認をしていない」ということを聞いているのです。粘土分を含む赤土の可能性が指摘されているにもかかわらず、発注者の国が事実確認をしないのは行政の不作為に当たるのではないでしょうか。

菅官房長官:そんなことはありません。

望月記者:それであれば、政府として防衛局にしっかりと確認をさせ、仮に赤土の割合が高いのなら改めさせる必要があるのではないでしょうか。

菅官房長官:今答えた通りです。

誰がどう見ても、望月記者の質問に責められるべき点はない。国民の知る権利を代弁する立派な姿勢と言って良い。これに対する官房長官答弁のいい加減さ、お粗末さが際立つ問答ではないか。「今答えた通りです。」って、そりゃなかろう。何も答えていないではないか。

官房長官側のみっともなさに苛立った首相官邸は、望月記者の牽制を図ろうと姑息な手を使った。暮れの内に、内閣記者クラブに、望月記者を牽制するための「申し入れ」を行ったのだ。このことが、年が明けてから明らかになった。

こう報じられている。「東京新聞・望月記者を牽制  記者クラブに異様な『申し入れ書』」(選択)
首相官邸からの申し入れ書が話題になっている。昨年末、内閣記者会の加盟社に上村秀紀・総理大臣官邸報道室長の名前で届いた文書は、官房長官会見での特定の記者の言動をクラブとして規制しろといわんばかりの内容だった。
文書では「東京新聞の特定の記者」による質問内容が事実誤認であると指摘。そして会見がネット配信されているため、「正確でない質問に起因するやりとり」は「内外の幅広い層の視聴者に誤った事実認識を拡散」させ、「記者会見の意義が損なわれる」と訴える。
仮に事実誤認なのであれば、そう回答すればいいようなものだが、この「特定の記者」が望月衣塑子氏であることは明白。要は望月氏の質問を減らせとクラブに申し入れているようなものなのだ。
同文書は最後に、「本件申し入れは、記者の質問の権利に何らかの条件や制限を設けること等を意図していない」という言い訳で終わる。よもや、圧力に屈するメディアなどいないとは思うが……。

この件は、国会でも問題となった。

東京新聞自身がこう報じている。
「野党、衆院予算委で批判」
沖縄県名護市辺野古(へのこ)の米軍新基地建設に関する本紙記者の質問を巡り、首相官邸が「事実誤認」「度重なる問題行為」と内閣記者会に文書で伝えた問題で、国民民主党の奥野総一郎衆院議員が12日の衆院予算委員会で、「記者会という多くの新聞社が集う場に申し入れるのは、報道の萎縮を招くのではないか。取材の自由への干渉だ」と批判した。
本紙記者は昨年12月の菅義偉官房長官の記者会見で、「埋め立て現場では今、赤土が広がっており、沖縄防衛局が実態を把握できていない」と質問した。
奥野氏は質疑で、埋め立て用土砂の写真パネルを示しながら「これを見ると赤い。県は調査したいと言ってるが、防衛省は赤土の成分検査を認めていない。それを事実誤認だと言えるのか」と問いただした。
官房長官は「(質問には)今回もこれまでも事実と異なる発言があり、新聞社には抗議をしている。記者会見の主催は内閣記者会であり、何回となく続いたので記者会にも申し上げた」と回答した。
奥野氏は「事実に反することを記者会見で聞くなというのは民主主義国家にあってはならない」と安倍晋三首相の見解を求めた。
首相は「知る権利は大切なもので尊重しなければならない。内閣の要の人物が一日2回(記者会見を)やっているのは他の国に例がないだろう。こちらも最大限の努力をしていると理解してほしい」と答えた。

2月20日には東京新聞が「検証と見解」とする1ページの特集を掲載した。
その中で、この記者の質問をめぐり、2017年8月から今年1月までの間に、官邸から9回の申し入れを受けたとし、その内容と回答の一部を明らかにした。

以上の経過を経て、昨日(2月26日)の記者会見に至る。

時事通信によれば、菅義偉官房長官と東京新聞記者による記者会見でのやりとりは次の通りである。

【午前】
記者 上村(秀紀首相官邸報道)室長の質問妨害について聞く。1月の(自身の)質疑で1分半の間に7回妨害があった。極めて不平等だ。妨害が毎回、ネットで拡散されることが政府にとってマイナスだと思っていないのか。

長官 妨害していることはあり得ない。記者の質問の権利を制限することを意図したものでは全くない。会見は政府の公式見解を(記者の)皆さんに質問いただく中で国民に伝えることが基本だ。だから経緯(の説明)ではなく、質問にしっかり移ってほしいということだ。

記者 妨害ではないというのは事実誤認ではないか。非常に違和感がある。政府が主張する事実と取材する側の事実認識が違うことはあって当然だ。今後も政府の言う事実こそが事実だという認識で、抗議文をわが社だけでなく他のメディアにも送るつもりか。

長官 事実と違う発言をした社のみだ。

【午後】
記者 午前中は「抗議は事実と違う発言をした社のみ」とのことだったが、(東京新聞に首相官邸が出した)抗議文には表現の自由(にかかわる内容)に及ぶものが多数あった。わが社以外にもこのような要請をしたことがあるのか。今後も抗議文を出し続けるつもりか。

長官 この場所は質問を受ける場であり、意見を申し入れる場所ではない。明確に断っておく。「会見の場で長官に意見を述べるのは当社の方針でない」。東京新聞からそのような回答がある。

記者 会見は政府のためでもメディアのためでもなく、国民の知る権利に応えるためにある。長官は一体何のための場だと思っているのか。

長官 あなたに答える必要はない。

あるジャーナリストが、ネットに、以下のとおりの「東京新聞記者、質問全文書き起こし」(午後の会見につて)を掲載している。

東京新聞記者 「官邸の東京新聞への抗議文の関係です。長官、午前(の記者会見で)『抗議は事実と違う発言をした社のみ』とのことでしたけども、この抗議文には、主観にもとづく客観性、中立性を欠く個人的見解など、質問や表現の自由におよぶものが多数ありました。我が社以外のメディアにもこのような要請をしたことがあるのか? また、今後もこのような抗議文を出し続けるおつもりなのか? お聞かせください」

菅官房長官 「まずですね、この場所は記者会見の質問を受ける場であり、意見を申し入れる場所ではありません。ここは明確に行っておきます。『会見の場で長官に意見を申し入れるのは当社の方針でない』。東京新聞から、そのような回答があります」

東京新聞記者 「今の関連ですけども、抗議文のなかには森友疑惑での省庁間の協議録に関し、『メモあるかどうか確認して頂きたい』と述べたことに、『会見は長官に要望できる場か』と抗議が寄せられましたが、会見は政府のためでも、メディアのためでもなく、やはり国民の知る権利に答えるためにあるものと思いますが、長官はですね、今のご発言をふまえても、この会見は一体何のための場だと思ってらっしゃるんでしょうか?」

菅官房長官 「あなたに答える必要はありません」

官房長官の答弁は、「その件についてはお答えできない」ではない。「あなたに答える必要はありません」だ。答える必要がないという理由は示されていない。安倍首相の「こんな人たち」発言が連想される。耳に痛いことを言う市民、聞かれたくないことを聞き出そうとするジャーナリストには、きちんと向かい合おうとはしないのだ。

いうまでもなく、行政には説明責任がある。ことは、辺野古の埋立問題。国民の関心事ではないか。埋め立ての現場では赤土疑惑を否定する官邸の側にこそ「事実誤認」がある、いやウソとゴカマシがある、という思いは国民の中に根強い。これを質すのがジャーナリズムの役割であり、官房長官は逃げてはならない。

立憲民主党の辻元清美国会対策委員長は27日、「記者に圧力をかける。誠実に答えない。官房長官として失格だ」と批判。国民民主党の玉木雄一郎代表は「説明責任を果たす人間は、どんなときでも丁寧に、その先に多くの多くの国民がいるとの思いで答えるのが大事だ」と指摘した(朝日)。と報じられている。まったくそのとおりではないか。
日本ジャーナリスト会議の抗議声明を付しておきたい。
**************************************************************************

◎ウソとごまかしの政権に抗議し「報道の自由」の保障を求める

 日本ジャーナリスト会議は、官邸記者クラブ攻撃をはじめとする安倍政権の「報道の自由」「取材の自由」への干渉、攻撃と、あらゆる問題でみられる説明拒否・ウソとごまかしの姿勢に抗議し、国民の「知る権利」を代表して活動するメディアと記者に心からの激励を送ります。
 首相官邸は昨年12月28日、東京新聞の記者の質問について、「事実誤認」「度重なる問題行為」と断定し、「問題意識の共有」を求める申し入れをおこないました。
 この行為は、森友・加計学園問題、自衛隊の日報問題から、決裁文書の偽造・変造、労働統計の偽造まで、国政の重要問題でウソとごまかしに終始してきた官邸が、記者を狙い撃ちして報道規制を図ろうとしたもので、およそ民主主義社会では許されないことです。
 主権在民の民主主義社会では、政権担当者は、常に国民の意見を聞き、民意に沿った政治が進められていかなければなりません。そのためには、社会状況がどうなっているか、政権がどう判断しているかを含め、あらゆる情報が開示され、国民の判断に役立つ状態にあることが必要です。
 国民の「知る権利」とはまさにそのことであり、為政者には国民に対する 「知らせる義務」 があり、メディアは、その状況を逐一報道する責任を負っています。
 内閣記者会と首相官邸の間には、政治家・官僚とメディア・記者の間で積み上げられた古くからの約束や慣行がありました。しかし安倍内閣は、第2次政権以降、勝手にこれを破り、自分たちに都合がいい形に作り替えようとしています。
 首相がメディアを選別する新聞インタビューやテレビ出演、特定のテーマで一方的にPRするためのぶら下がり取材を続けることと並んで、菅官房長官の記者会見では特定の社の記者の質問中に、官邸報道室長が数秒おきに「簡潔にお願いします」と妨害し、質問の内容が「事実誤認」と誹謗・中傷するような申し入れをするなど個人攻撃と思われる行為をしています。
 これは単に当該の社や記者に対するものではなく、「報道の自由」「取材の自由」と国民の「知る権利」に対する攻撃です。
 既に国会では、森友、加計学園問題での首相や政府側答弁のウソとごまかしが大きな問題になっています。同様に、官邸の記者会見では、重要な指摘に対し、「そんなことありません」「いま答えた通りです」などとまともに答えず、国民に対して問題を解明し、説明しようという真摯な姿勢は全く見られない状況が続いています。
 記者の質問が当たっていないのなら、なおのこと、ひとつひとつ時間を掛けて説明し理解を求めるのが、本来のあり方であり、説明もしないで、「誤り」と決めつけ、取材行為を制限し、妨害する行為は、ジャーナリズムと国民の「知る権利」に対する卑劣な攻撃です。
 日本のジャーナリズムは、かつて、「真実」を報道させない報道規制と、言い換えやごまかしから、やがて全くの偽りに至った「大本営発表」によって、国民の判断を誤らせ、泥沼の戦争に率いられていった痛恨の歴史を持っています。
 私たち、日本ジャーナリスト会議は、安倍政権が憲法の諸原則や立憲主義の基本を捨て、かつての戦争への道をたどりかねない状況にあることを恐れ、「報道の自由」「取材の自由」と「知る権利」への攻撃に改めて抗議し、官邸の猛省を促すとともに、広く国民のみなさまが、現状を理解し、私たちとともに声を上げていただくよう訴えます。
2019年2月8日

                     日本ジャーナリスト会議(JCJ)

(2019年2月27日)

皆様、けっしてDHCの製品を購入することのないよう、お気をつけください。 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第148弾

韓国ピースツアーにご参加の35名の皆様に、この場をお借りして三つのお願いを申しあげます。
 一つ目が、DHCという会社の商品をけっして買わないこと。
 二つ目が、DHCという会社の商品をけっして買うことのないよう、お知り合いに広めていただくこと。
 そして三つ目が、DHCという会社の不当・違法をことあるごとに話題にしていただくこと。

DHCという企業をご存知でしょうか。そう、MXテレビに「ニュース女子」という番組を提供して俄然有名になった、天下に悪名とどろくあのDHC。あれ以来、「デマ(D)とヘイト(H)のカンパニー(C)」として、全国に知られるようになりました。

デマとヘイトとは、沖縄の平和運動と韓国民に対するウソと差別感情にまみれた不当な攻撃を意味します。しかも、DHCのやっていることは、デマとヘイトだけではなく、スラップの常習犯であることを付け加えなければなりません。デマとヘイトとスラップ。DHCはこの三拍子を揃えた反社会的な体質をもった企業なのです。

スラップとは、言論抑圧を意図しての高額損害賠償訴訟のことです。DHCという企業のオーナーが、今どき珍しいヘイトの言動を露わにして恥じない吉田嘉明(敬称は略します)という人物。この人は、狭量極まりなく、自分を批判する言論を極端に嫌うのです。そして、自分を批判する言論に対して、高額の損害賠償請求訴訟を提起する。「オレを批判すると面倒なことになるぞ。」「だから黙れ」という民事訴訟の提訴。これがスラップです。

この吉田嘉明が、渡辺喜美という政治家に8億円もの金を渡しました。政治家に裏金8億円です。普通、こんなことはなかなか明るみに出ることではありません。内部通報やメディアの調査で暴かれて、渋々認めざるを得なくなるというのが常識的なパターン。ところが、この人は、週刊新潮に自らの手記として掲載したのです。

当然に批判が噴出しました。とりわけ、当時は有力政治家の一人に数えられていた、「みんなの党」党首の渡辺喜美には世間の眼は厳しかった。巨額の裏金の受領は、政治家のモラルに欠けるものとして許されないというのが、一致したメディアの論調。私は、主として吉田嘉明を批判しました。裏金を握らせた方と、受け取った方を較べれば、カネで政治を動かそうとした「裏金を握らせた方」が悪い、という常識的な論法です。私は、「憲法日記」と名付けているブログで3度、同様の趣旨を書きました。

そうしたら、突然に東京地裁から訴状が届いたのです。DHC・吉田嘉明が原告になって、私に2000万円の慰謝料を支払えというのです。要するに、「オレに対する批判は許さない」「黙れ」という提訴です。自分で裏金つかませの事実を公表しておいて、それへの批判は許さないというわけ。世の中は広い。こんな提訴をする吉田のような人物がおり、そして、こんな訴訟を引き受ける弁護士もいるのです。

私は、「黙れ」と言われると、けっして黙ってはおられない性分です。同じブログで、「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズの連載を始めました。すると、2000万円の請求が一挙に6000万円に跳ね上がったのです。これには笑ってしまいました。事実上言論抑圧の提訴の意図を認めたに等しいではありませんか。

この6000万円訴訟は最高裁まで争って、優秀な私の弁護団のお陰で勝訴確定となりました。しかし、吉田嘉明が意図した、「オレを批判すると面倒なことになるぞ」という社会に対する威嚇の効果はなくなっていません。そこで、今は私が原告になって、DHCと吉田嘉明を被告とする「反撃訴訟」が進行中です。

4月19日(金)午後1時半から、東京地裁415号法廷で、私と吉田嘉明が当事者本人として法廷で対決することになっています。彼は、法廷に出たくはないようですが、裁判所から呼出状が届いています。大言壮語する彼のこと、まさか臆病風に吹かれて、出廷を拒否することはないのだろうと思っています。皆様、ぜひ傍聴にお越しください。

なお、裁判とは別に、吉田嘉明とDHCには、反省を促すために、社会正義の立場からの制裁を加えたいと思います。それがDHC製品の不買運動です。労働争議の戦術として行われる、「ボイコット」と同じことです。

あなたがなんとなくDHC製品を買えば、デマとヘイトとスラップに加担して、社会悪を蔓延させることになります。うっかりとDHCの製品を購入することがないよう、お気をつけください。
あなたの貴重なお金の一部が、DHCに回れば、この社会における在日差別の感情を煽り、沖縄の基地反対闘争を貶めることになります。このことは、安倍改憲の旗振りに寄与することでもあります。さらに、言論の自由を抑圧するスラップ訴訟を引き受ける、あるまじき弁護士の報酬にまわることにもなるのです。

わたしは、DHC製品不買の運動は、ささやかながらも「消費者主権」にもとづく行動として積極的な意義のあるものと考えています。意識的にDHC製品を購入しないだけで、この社会からデマとヘイトとスラップをなくすることに貢献できるのです。ぜひ、主権者としての自覚のもと、「DHC製品 私は買わない」「あなたも買っちゃダメ」「DHCも吉田嘉明もこんなにおかしい」と多くの人に呼びかけ、語り合っていただきたいのです。

国民が主権者であることは、投票日だけのことではありません。日々の消費生活を通じても、自覚的な主権者の一人としての行動が可能なのです。

最後にもう一度、三つのお願いを繰り返します。

 一つ目、DHCという会社の商品をけっして買わないでください。
 二つ目、DHCという会社の商品をけっして買わないように、お知り合いに広めてください。
 そして三つ目、DHCという会社の不当・違法を、ことあるごとに話題にしてください。
吉田嘉明とDHCが、デマとヘイトとスラップを心から反省し謝罪して再びの悪行を行わないと誓約する、その日まで。
(2019年2月26日)

日本は果たして民主主義国家か。 ― 「辺野古新基地建設NO!」の沖縄県民投票結果が問うもの。

日本は民主主義政体の国家である(はずである)。民主主義とは、民意に基づいて国家を運営することである(はずである)。特定のテーマで、圧倒的な民意が明確に示された場合には、政策の選択においてこれに従うべきが民主主義の常道でなくてはならない(はずである)。さて、日本は本当に民主主義国家なのであろうか。民意が尊重される国であるのだろうか。そのことが、今試されようとしている。

沖縄県民が、安倍政権に鋭い問を突きつけている。「中央政府は、民主主義の何たるかを理解しているのか」「ここまで明確になった沖縄の民意を無視できるのか」。43万余の積み上げられた辺野古新基地建設反対の投票数と、この得票によって明確となった県民の民意の存在はこの上なく重い。

注目の、辺野古新基地建設の可否を問う沖縄県民投票。昨日(2月24日)投開票が行われ、25日0時30分に開票が終了。ほぼ予想されたとおりの開票結果となった。

投票率は52・48%。辺野古沿岸部の埋め立てに「反対」が43万4273票、有効投票の72・2%となった。なお、「賛成」は19・1%、「どちらでもない」が8・8%であった。

県民投票条例に基づいて、玉城デニー知事は近く安倍晋三首相とトランプ米大統領に開票結果を通知することになる。当然に、辺野古新基地建設を断念するよう要請することになるが、果たして日米両政府はこの要請にどのように対応するであろうか。とりわけ、日本の政府の対応が注目される。沖縄県民が示した民意を真摯に尊重して大浦湾埋立を断念して、日本が民主主義国家であることを証明できるだろうか。それとも、明確に示された民意を歯牙にもかけずに蹂躙することになるのだろうか。安倍政権の民主主義に対する体質が根底から問われている。

本日(2月25日)の各紙の社説が興味深い。朝日・毎日・東京が「県民投票の結果を尊重せよ」との論陣。極めて常識的な見解と言えよう。産経だけが、「国は移設を粘り強く説け」という苦汁のレトリック。読売・日経は、社説を掲載していない。戦線離脱である。

タイトルだけで、各紙の立場はほぼ理解できる。

 沖縄県民投票 結果に真摯に向きあえ (朝日)

 「辺野古」反対が多数 もはや埋め立てはやめよ(毎日)

 辺野古反対 沖縄の思い受け止めよ (東京)

朝日社説は言う。「沖縄県民は「辺野古ノー」の強い意思を改めて表明した。この事態を受けてなお、安倍政権は破綻が明らかな計画を推し進めるつもりだろうか。」
毎日社説は言う。「もはや普天間の辺野古移設は政治的にも技術的にも極めて困難になった。政府にいま必要なのはこの現実を冷静に受け入れる判断力だ。」
そして東京社は言う。「民主主義国家としていま、政府がとるべきは、工事を棚上げし一票一票に託された県民の声に耳を傾けることだ」。いずれも、当然の理を述べている。

 沖縄県民投票 国は移設を粘り強く説け(産経)

産経は、「投票結果は極めて残念である。政府はていねいに移設の必要性を説き、速やかに移設を進める必要がある。」「県民投票に法的拘束力はない。辺野古移設に代わるアイデアもない。日米両政府に伝えても、現実的な検討対象にはなるまい。」という。

さて、産経は「埋立反対の県民投票の結果に法的拘束力はない」という。では、強引に大浦湾を埋め立てている政府の側には、何らかの「法的拘束力があるのか」といえば、やはり「埋立をしなければならない法的拘束力はない」のだ。

すべての法にとって、その「拘束力」の源泉は主権者の意思、すなわち民意にほかならない。「埋立反対」の側に民意のあることが明瞭であって、「埋立賛成」の側に民意はない。

以下に、運動の主体となった「『辺野古』県民投票の会」の声明を引用しておきたい。文中の「安全保障政策を支える基盤は、基地の所在する地域の民意である。安全保障問題が国の専権事項であることを理由に沖縄の民意を踏みつぶすことがあってはならない。」が、十分に産経論説への反論となっている。

***************************************************************************

? 声  明

 本日実施の県民投票の結果が明らかになった。
投票率52.48%、米軍基地建設のための「辺野古」埋立てについて「反対」票43万4273票(72.2%)、「賛成」票11万4933票(19.1%)、「どちらでもない」票5万2682票(8.8%)となった。
 有権者の過半数を超える県民が投票所に足を運び、各人の意思を表明されたことにまず感謝を申し上げたい。
 投票者の72.2%にあたる43万4273名という多くの県民(全有権者の37.6%)が、埋立て反対票を投じ、明確な反対の民意を示したことの意味は大変重い。
 私たちは、今回の県民投票は、一つの争点につき明確な県民の意思を表明した点で、この国の民主政治の歴史に新たな意義ある一歩を刻んだと確信している。
 私たちは改めて、県民投票の実現に尽力された多くの県民に敬意を表するとともに、御礼を申し上げ、県民の皆様とともに県民投票の成功を喜びたい。

 今回の県民投票は、目前で強行されている「辺野古」埋立ての賛否を問い、審判を下すものであった。その本質は、辺野古への代替施設建設が普天間飛行場の危険性除去(基地返還)のための「唯一の選択肢」だと判断した国策の是非を問うものであった。
 それに対し、沖縄県民は県民投票により明確に反対の意思を示した。政府はこの民意を重く受け止め、民主主義の基本に立ち返り、直ちに「辺野古」埋立て工事を中止・断念すべきである。

 安全保障政策を支える基盤は、基地の所在する地域の民意である。安全保障問題が国の専権事項であることを理由に沖縄の民意を踏みつぶすことがあってはならない。
辺野古米軍基地建設のための埋立てに対し明確な反対の民意が示された今、これから問われるのは本土の人たち一人ひとりが沖縄の民意を踏まえて当事者意識を持ち、この国の安全保障及び普天間飛行場の県外・国外移転についての国民的議論を行うことである。
そして政府は、普天間飛行場の危険性除去(基地閉鎖・返還)を最優先に米国政府との交渉をやり直し、沖縄県内移設ではない方策を一刻も早く検討すべきである。

 県民投票は、当面する「辺野古」問題への沖縄県民の明確な民意を示すだけでなく、国策決定(辺野古米軍基地建設のための埋立て)における民主主義のあり方を問う実践の場でもあった。
私たちは、この国にはいまだ民主主義政治が健在であると信じたい。
今回の県民投票は、この国に住む全ての人たちに民主主義のあり方を改めて問うものでもある。国民一人ひとりが、この問題を真剣に考えるべきである。
そして、政府は、直ちに「辺野古」埋立て工事を中止・断念し、沖縄県内移設によらない普天間飛行場の危険性除去(基地閉鎖・返還)に向けた英断を行うことを強く期待する。

最後に、玉城デニー知事に対しては、「反対」票が全有権者の4分の1を超えたので、辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票条例第10条3項に基づき、速やかに、内閣総理大臣及びアメリカ合衆国大統領に対し、結果を通知するとともに、沖縄県民の民意に沿った諸行動をとることを切望する。

       2019年2月24日
             「辺野古」県民投票の会

(2019年2月25日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2019. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.