いつの時代の、どこでのことかは定かでない。こんな会話が聞こえてきた…ような気がする。
ボクの主人は人でなしさ。朝から晩まで人をこき使ってさ。人の汗で、肥え太って、いばりくさっている。
私のご主人様は、ちょっと格が違う。高貴なお生まれなんだ。私だって鼻が高い。私のことにまで目をかけて、優しい言葉をかけてくれるんだ。
ボクは、生涯をかけて仕返しをしてやる。あいつにも、この世の中にも。
あら、私は恩返しをしなくてはと思っているの。あの方にも、この国にも。
バッカじゃないの。何をありがたがってんだ。主人が高貴な生まれだからって、使用人は使用人。身分の差が縮まる分けないだろう。
でもね。高貴な方って、近くにいるだけでステキなの。なんてったって高貴なお方だもの。
下賎なわれわれがいるから、一握りの人が高貴になるんだろう。誰かが、都合よく高貴と下賎を分けたんだ。
そうじゃないと思う。高貴なお生まれは、神さまがお決めになったんだと思うけど。
そんな差別を作るヒドイ神さまがいるものか。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」だ。
そうかな。ご主人様は神さまのご子孫なの。だから、オオミココロで、私たちを自分の子どものように可愛がってくださる。ありかたくて、涙がこぼれるわ。
キミって、欺され易いタイプなんだね。ちょっと心配だな。
それにね。ご主人様は、「万世一系」なんですってよ。すごいでしょ。なんてったって「万世一系」なんですもの。
なあに、オケラだってミミズだって、生きとし生けるものは、みんな「万世一系」だよ。キミだって、先祖からつながって今のキミがいるから「万世一系」。
ちょっと違うようにも思うけど。そういわれればそうかもね。
高貴なお方にお仕えすると、待遇はいいのかな?
いえ、別に。ただ、ありがたい「おことば」をときどきいただけるの。それが、とてもステキなの。なにがどうステキか説明には困るけど。みんながそう言うの。
お宅のご主人、もうすぐ代替わりっていうじゃない。代替わりってなにするの?
やっぱり神さまだから、儀式が必要なんですって。みんなのお金を集めて、うんとお金を使って、うんと人を集めて、ハデハデにやるみたいね。
ボクの主人は、鉱山掘ったり、工場経営したりしてるけど、キミのところのご主人様って何をしている人なの?
昔は、国を運営していたみたい。でも今は、そういう権限はなくなって、言われたとおりに、原稿を読みあげたり判を押したりすることがお仕事みたい。それと、手を振ったり、お祈りしたりするんですって。
ふうん。それで、暮らしに困ることはないんだ。
だって、万世一系で神さまですもの。神さまが暮らしに困るなんて、ちょっとおかしいでしょう。
神さまだって、万世一系だって、役に立たなきゃ暮らしていけないのが今の時代だろう。はて、どんな役に立っているのかな。
そこが、問題ね。ご主人様も考え込んで悩んでいるみたい。
人間は皆平等のはずじゃないか。高貴も下賎もあるものか。ボクの主人がボクに威張り散らすのも我慢ができない。何とかならないものかね。いや、何とかしなけりゃね。
(2019年3月16日)
大阪地裁が、昨日(3月14日)「森友文書 国の不開示違法の判決」を言い渡したと、話題になっている。森友事件はまだ終わっていないのだ。
この訴訟は、「国有地低額譲渡の真相解明を求める弁護士・研究者の会」(略称「真相解明の会」)の活動の一端としてのもの。周知のとおり、近畿財務局が学校法人森友学園に、鑑定価格9億5600万円の国有地をわずか1億3400万円で売却した。ごみ撤去費用8億1900万円を控除するという名目での値引きであるが、これを信用する者はない。その真相とは、安倍晋三・昭恵夫妻の関与があればこその違法な値引き以外には考えがたい。地道にこれを究明しようという目的で設立されたのが、「真相解明の会」。
この会の設立に関する事情は、下記URLを参照いただきたい。
http://kokuyuuti-sinsoukaimei.com/purpose/
私も、その呼びかけ人の一人となっている。2017年4月21日付の当ブログ「『森友への国有地低額売買をうやむやにしてはならない』ー そのための具体的提案」も、併せてご覧いただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=8476
「真相解明の会」が、昨日の判決について、以下の報告をアップしている。これを引用しておきたい。判決文の全文も、問題の公開請求対象文書も引用されている。「森友問題でやっと国民の常識が通用した判決がでました。」というタイトル。
http://kokuyuuti-sinsoukaimei.com/7695/2019年3月14日
原告・弁護団一同
本日(3月14日)大阪地裁で判決があり、原告は勝訴しました(資料1判決)森友問題では官邸、政府与党、財務省官僚達、検察庁まで安倍総理に忖度し、国民の大多数がおかしいという批判にまともに対応せず、うやむやに終わらせようとしていました。やっと今回、国民の大多数がおかしいという常識が通用した判決がでました。
本件事件の概要です
原告は2017年5月に森友問題の発端となった「小学校設置趣意書」の情報公開請求を近畿財務局にしたら、同年7月に近畿財務局長が真っ黒な文書を開示してきました(資料2)。不開示の理由は森友学園の経営上のノウハウが記載されているからという理由でした。そこで原告はマスキングした内容の情報公開請求裁判を提訴したところ国は敗訴確実と思い、真実の文書(資料3)を開示してきました。4ヶ月も真実の文書を隠蔽した近畿財務局の責任を追及した訴訟です。裁判所は、本件文書にはおよそ「経営上のノウハウ」の記載がないのに、漫然と不開示にしたということで国家賠償上も違法であり、国に損害賠償を認容しました。認容金額の多い、少ないことは論点ではなく近畿財務局の違法行為の確認が目的であったので、森友問題でやっと国民の常識が通用した判決に満足しています。
現在、私達は森友問題で検察庁が不起訴にした財務省の官僚達の背任、公文書変造、毀棄罪について大阪の検察審査会に審査申立をしているところです。近いうちに議決が出ると思われます。これらの刑事事件も裁判所という公開の法廷で審理するならば、今回のように公正な判断がなされることは確実です。
検察審査会の各委員は森友問題をうやむやにした検察官の不起訴処分を許さず、「起訴相当議決」の英断をしてくれるものと期待しています。
以上のとおり、この訴訟はやや特異な経過で、提訴されている。
まずは、上脇博之さん()の近畿財務局に対する情報公開請求から始まっている。上脇さんご自身の報告を中心にまとめると、以下のとおりである。
(1)森友学園小学校設置趣意書の情報公開請求(2017年3月14日)
(2)一部開示(事実上ほぼ全部非開示)(同年7月10日)
(3)非開示処分の取消を求めて大阪地裁に提訴(同年10月2日)
(4)近畿財務局長、「開成小学校設置趣意書」を全部開示(同年11月24日)
(5)国家賠償請求の訴訟を大阪地裁に提起(同年11月30日)
(6)大阪地裁認容判決(認容額55000円)(2019年3月14日)
以上のとおり、まず国は公開請求の文書(小学校の設立趣意書)を事実上不開示とした。不開示の理由は「設置趣意書に小学校名や教育理念などの『経営上のノウハウ』があるから、というのである。納得できない、上脇さんは「不開示処分取消」の行政訴訟を提起した。
ところが提訴間もなく、観念した国は、当該文書を全面公開した。その公開文書の内容は、不開示の理由とされた『経営上のノウハウ』などとはまったくの無関係なものだった。
普通、ここで追及はやめることになる。公開請求した文書が出てきたのだから、これで満足となる…はず。ところが、上脇さんと、阪口徳雄君を団長とする弁護団は、追及の手を緩めなかった。「なぜ、素直に文書の公開をしなかったのか」「なぜ、ウソをついてまで文書公開を拒否したのか」を問題にして、慰謝料の国家賠償請求訴訟を提起した。ここらが、真似のできないところ。そして、昨日の勝訴判決である。森友事件は未解決だ、と大きく世論アピールすることにもなり、情報公開制度の重要性再認識の機会ともなった。
裁判長は判決理由の要旨を読み上げ、設置趣意書に小学校名や教育理念などの「経営上のノウハウ」があるとして不開示にした財務省近畿財務局の判断について、「(趣意書の)教育理念は概括的かつ抽象的で、実質的に公になっている。同じ校名を使用した学校は他にも存在し、独自性はない。近畿財務局長はなんら合理的根拠がないのに誤った判断をした」と、述べた旨報じられている。
結局は安倍夫妻の関与あればこその不開示決定としか考えられないところ。この一連の情報公開手続で、森友問題の真相解明はまた半歩前進した。
いま、森友事件解明の鍵は、大阪検察審査会の手中にある。11人の審査委員のうち8人が「起訴相当議決」に賛意を表明すれば、強制起訴の道が開ける。
今回の判決は、検察審査委員を励ますものとなったと思いたい。
(2019年3月15日)
産経の記事を引用しなければならない。昨日(3月13日)の、「判事が『反天皇制』活動 集会参加、裁判所法抵触も」との見出しの報道。ある裁判官の行為が「積極的政治活動に当たる可能性がある」とする内容である。
名古屋家裁の男性判事(55)が昨年、「反天皇制」をうたう団体の集会に複数回参加し、譲位や皇室行事に批判的な言動を繰り返していたことが12日、関係者への取材で分かった。少なくとも10年前から反戦団体でも活動。一部メンバーには裁判官の身分を明かしていたとみられ、裁判所法が禁じる「裁判官の積極的政治運動」に抵触する可能性がある。昨年10月にはツイッターに不適切な投稿をしたとして東京高裁判事が懲戒処分を受けたばかり。裁判官の表現の自由をめぐって議論を呼びそうだ。
関係者によると、判事は昨年7月、東京都内で行われた「反天皇制運動連絡会」(反天連、東京)などの「なぜ元号はいらないのか?」と題した集会に参加。今年6月に愛知県尾張旭市で開催され、新天皇、皇后両陛下が臨席される予定の全国植樹祭について「代替わり後、地方での初めての大きな天皇イベントになる」とし、「批判的に考察していきたい」と語った。
昨年9月には反戦団体「不戦へのネットワーク」(不戦ネット、名古屋市)の会合で「12月23日の天皇誕生日に討論集会を開催し、植樹祭を批判的に論じ、反対していきたい」と発言。さらに「リオ五輪の際、現地の活動家は道を封鎖したり、ビルの上から油をまいたりしたようだ。日本でそのようなことは現実的ではないが、東京五輪に対する反対運動を考えていきたい」とも語っていた。
判事は昨年2月と5月、不戦ネットの会報に「夏祭起太郎」のペンネームで寄稿し、「天皇制要りません、迷惑です、いい加減にしてくださいという意思表示の一つ一つが天皇制を掘り崩し、葬り去ることにつながる」「世襲の君主がいろいろな動きをする制度は、やっぱり理不尽、不合理、弱い立場のものを圧迫する」と記していた。
判事は集会などで実名でスピーチしていたほか、団体の一部メンバーには「裁判所に勤務している」と話していたという。
判事は平成5年に任官。名古屋家裁によると、現在は家事調停や審判事件を担当している。判事は産経新聞の複数回にわたる取材に対し、何も答えなかった。
いささか眩暈を禁じえない。いったい、いまは21世紀だろうか。日本国憲法が施行されている時代なのだろうか。時代が狂ってしまったのか。それとも、私の時代感覚の方がおかしいのか。
1945年までは、治安維持法があった。「國体ヲ變革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入」することが犯罪とされた。「國体」とは天皇制のことである。当該の結社に加入していない者についても、その結社の目的遂行に寄与する行為が際限なく犯罪とされた。これと並んで、不敬罪もあった。天皇や皇室の神聖性を侵すことは許されなかった。国体や天皇への批判の言論を取締り監視するために特高警察が置かれた。いま、その特高警察の役割を、産経が買って出ている。
産経が引用するこの判事の言論は、「天皇制要りません、迷惑です、いい加減にしてくださいという意思表示の一つ一つが天皇制を掘り崩し、葬り去ることにつながる」「世襲の君主がいろいろな動きをする制度は、やっぱり理不尽、不合理、弱い立場のものを圧迫する」というもの。日本国憲法を判断の基準として、至極真っ当な言論ではないか。
日本国憲法は個人主義・自由主義を基本とする近代憲法の体系を備えている。この憲法体系からはみ出たところに、天皇という体系とは馴染まない存在がある。
近代憲法としての日本国憲法体系の純化を徹底してゆけば、天皇制否定に行き着くことは理の当然である。ただ、現在のところは、憲法に「権限も権能もない天皇」の存在が明記されている。だから、天皇の存在自体を違憲とも違法とも言うことはできないが、「世襲の君主がいろいろな動きをする制度は、やっぱり理不尽、不合理、弱い立場のものを圧迫する」というのは、法を学んだ者のごく常識的な見解といってよい。健全な憲法感覚といっても、主権者意識と言ってもよい。
その上で、「天皇制要りません、迷惑です、いい加減にしてくださいという意思表示の一つ一つが天皇制を掘り崩し、葬り去ることにつながる」とは、憲法改正論議の方向として、まことに正しい。一つひとつの言論行為によって、主権者国民の天皇制廃絶の世論を形成し、その世論の内容での憲法改正をなし遂げようというのがこの判事の見解。傾聴に値する意見であり、非難するには当たらない。
問題は、同判事の表現行為が裁判官としての制約に服する結果として違法にならないか、という一点にある。もちろん、産経報道を前提としてのこと。当事者の言い分を確認せずに、事実関係についての速断は慎まなければならない。
すべての国民に基本的人権が保障されている。もちろん、公務員にも公務を離れれば私生活があり、私生活においては表現の自由が保障されなければならない。この点についての古典的判例は猿払事件大法廷判決だが、いま堀越事件判決がこの判例を修正し揺さぶっている。
一般職公務員ではなく、裁判官についてはどうだろうか。憲法には、「良心」という言葉が2個所に出て来る。「思想・良心の自由」(19条)と、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(76条3項)という、「裁判官の良心」である。
原理主義的クリスチャンである教員も、教室では聖書のとおりに天地創造説を史実として教えることは許されない。信仰とは別次元の「教員としての客観的良心」に基づいて、確認された自然科学的真理とされている進化論を教えなければならない。職業人としての、「主観としての信仰」と「教育者としての客観的良心」の分離は、原理主義的宗教者も教員としての適格性を損なわないという根拠でもある。
憲法76条の「裁判官の良心」も客観的な良心である。主観的な信念とは別に、憲法を頂点とする法体系に従った「客観的な良心」の保持が、裁判官としての任務を全うすることになる。
裁判所法第52条は、「裁判官は、在任中、左の行為をすることができない。」として、その一号の後文に「積極的に政治運動をすること」を挙げる。「一般的に政治運動をすること」が禁じられているのではなく、「積極的に政治運動をすること」が禁じられている。
最高裁判所事務総局総務局編『裁判所法逐条解説 中巻』(法曹会、1969年)には、裁判所法52条のこの点について、「国民の一員として当然果たすべき義務としての政治的行動(たとえば、各種の選挙において選挙権を行使したり、公務員の解職請求の署名をしたりする行為)は、もとより積極的に政治運動をすることにあたらないし、単に特定の政党に加入して政党員になつたり、一般国民としての立場において政府や政党の政策を批判することも、これに含まれないと解すべきである。」と解説されている。裁判官が政党に入党することも良し、政府や政党の政策を批判しても良し、というのだ。
むしろ、市民的な表現の自由を奪われ萎縮を余儀なくされた裁判官に、表現の自由の現実化を求める訴訟での適切な判断を望むことができるだろうか。一般の市民と同様に、市民としての権利や自由を行使できる裁判官にこそ、基本的人権擁護の判断が可能ではないか。
私には、産経の報じる裁判官が、裁判所法52条に違反した行為をしているとは考えがたい。この判事の考えや言論は、憲法のコアな部分に忠実ではないか。この人が、自分の思想と裁判官としての良心の葛藤に苦しむことはなさそうである。
裁判官とて、当然にその思想は多様である。その多様性は貴重でもある。法廷においては、憲法と法と「客観的な良心」に従えば良い。むしろ、最高裁がその人事権をもって全裁判官を統制する弊害をこそ避けなければならない。
(2019年3月14日)
ほう、DHC・吉田嘉明に関する取材。ご苦労様。私は、産経・読売は大嫌いだが、お宅の紙面には親近感を持っている。報道も社説の姿勢もまことに真っ当。もちろん、取材大歓迎。協力いたしますよ。どこからお話ししましょうか。まずは、スラップ訴訟の効果から。
DHC・吉田嘉明の狙いは、自分を批判する者には、スラップを掛けて自分を批判する言論を封殺することにある。つまり、自分の権利救済のためというよりは、高額請求の民事訴訟を提起して批判者の言論を威嚇する。訴訟に負けようと、威嚇の効果は残ることになる。DHC・吉田嘉明を批判すると訴訟に巻き込まれて、たいへん面倒なことになる。面倒なことは避けておいた方が無難だ。だから、DHC・吉田嘉明を批判するのは止した方が賢明だ。こういう空気が、この社会にできてしまう。これが恐い。
私は、このようなDHC・吉田嘉明の不当な意図とは、徹底的に闘う覚悟を決めた。それが、弁護士としての私の倫理でもあり、使命でもあると思っている。
そのような立場で、いまDHC・吉田嘉明に対する反撃訴訟を闘っているし、ことあるごとに、私は次のように口にしている。筆でも書いている。
皆様に、この場をお借りして三つのお願いを申しあげる。
一つ、DHCという会社の商品をけっして買わないこと。
二つ、DHCという会社の商品をけっして買うことのないよう、お知り合いに広めていただくこと。
そして三つ目が、DHCという会社の不当・違法をことあるごとに話題にしていただくこと。
ときに、「それって営業妨害になりませんか」と、おそるおそる聞く人がいる。そのとおり。私は、「みんなで、DHC・吉田嘉明の営業を妨害しましょう」と、呼びかけている。ぜひ皆様、DHC・吉田嘉明が、「デマやヘイトやスラップは、社会から反撃を受けることになって、商売上まずい」「やっぱり、真っ当な商売に徹しないと売り上げに響く」と反省するまで、できることなら、心を入れ替えるまで、その営業を徹底して妨害しようではありませんか。
サプリにせよ、化粧品にせよ、DHCの製品を買うか買わないかは、消費者の選択の自由に任されている。DHCの商品を買わなければ困ることなんてない。外の会社の製品で、間に合わない物などあり得ない。消費者の市場での購買行動は、通常は商品の性能と価格、そしてブランドイメージなどで、決まることになる。
しかし、これだけを動機とする消費行動は、賢い消費者のものとは言えない。さらに、民主主義社会の主権者としての消費者行動でもない。消費生活に、社会的な公正の視点を保持していただきたいのだ。
たとえば、価格は低廉であっても、環境問題を無視した製法による商品、少年労働によって作られた製品などは買ってはならない。同じく、パワハラやセクハラが横行している企業、政治資金規制法の脱法をしている企業の製品を購入することは、そのような体質の企業を応援することになり、社会の公正を損なうことになる。
私は、この経済社会の消費者が、同時に政治構造の主権者でもあることの自覚が大切だと思う。企業の側の自覚を呼びかけるときには、企業倫理や、企業の社会的責任が論じられるが、それは消費者の自覚なければ実現できない。それが国連の提唱するSDGsの精神でもある。
消費者としての行動の積み重ねによって、反社会的な企業を駆逐することができる。必ずしも駆逐する必要はないが、企業の反社会的な行為に反省を迫り、やめさせることができる。それが、特定企業に対する商品ボイコットである。不買運動と言った方が分かり易いかも知れない。
不買運動のその本質は、まさしく「営業妨害」である。しかし、実力(威力)やデマ(偽計)を用いる営業妨害ではない。堂々と言論を行使して、多くの消費者の理性に訴えて、行動を呼びかけようというものである。その合法性に一点の疑念もない。
DHCという企業は、MXテレビに「ニュース女子」という番組を提供して俄然有名になった、天下に悪名とどろくあのDHC。あれ以来、「デマ(D)とヘイト(H)のカンパニー(C)」として、全国に知られるようになっ。
DHCのデマとヘイトとは、沖縄の平和運動と在日に対するもの。韓国民に対するウソと差別感情にまみれた不当な攻撃を意味する。DHCのブランドイメージは、いまや、「デマ(D)とヘイト(H)のカンパニー(C)」だが、DHCのやっていることは、デマとヘイトだけではない。スラップの常習犯であることを付け加えなければならない。デマとヘイトとスラップ。DHCはこの三拍子を揃えた、三位一体の反社会的な体質をもった企業なのだ。
消費者の一人が、なんとなく無意識のうちにDHC製品を買えば、デマとヘイトとスラップの三拍子に加担して、社会悪を蔓延させることになる。うっかりとDHCの製品を購入することがないよう訴えたい。貴重なお金の一部が、DHCに回れば、この社会における在日差別の感情を煽り、沖縄の基地反対闘争を貶めることになる。このことは、安倍改憲の旗振りに寄与することでもある。さらに、言論の自由を抑圧するスラップ訴訟の資金となり、こんな訴訟を引き受ける弁護士の報酬にまわることにもなる。
DHCという企業のオーナーが、今どき珍しいヘイトの言動を露わにして恥じない吉田嘉明という人物。この人は、狭量極まりなく、自分を批判する言論を極端に嫌う。そして、自分を批判する言論に対して、高額の損害賠償請求訴訟を提起する。「オレを批判すると面倒なことになるぞ。」「だから黙れ」という民事訴訟の提訴。これがスラップ。
この吉田嘉明が、渡辺喜美という政治家に裏金8億円を渡していたことが明らかになった。メディアが取材してスクープしたのではない。自分で、週刊新潮に手記を書いたのだ。自分で暴露されたことを批判されたら、吉田嘉明はスラップを提起した。少なくとも10件。そのうちの1件が私に対するもの。
以下の経過は、今日まで150回にわたって書き続けている私のブログの以下のURLをご覧いただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?cat=12
DHC・吉田嘉明の私に対する6000万円請求のスラップ訴訟は最高裁まで争って彼らの敗訴が確定した。しかし、吉田嘉明が意図した、「オレを批判すると面倒なことになるぞ」という社会に対する威嚇の効果はなくなっていない。そこで、今は私が原告になって、DHCと吉田嘉明を被告とする「反撃訴訟」が進行中。
その訴訟では、4月19日(金)午後1時半から、東京地裁415号法廷で、私と吉田嘉明が当事者本人として法廷で対決することになっている。ところが、吉田嘉明は、本人としての尋問採用が決定し、裁判所から呼出しがなされているのに、出廷したくないと言っている。
裁判所が必要あって、尋問のために出頭せよと命じているのに出てこなければ、これは証明妨害として、敗訴を覚悟しなければならない。それでも吉田嘉明は出たくないというのか。
DHC・吉田嘉明の記事を書くからには、当然吉田嘉明に取材を申し込まれることでしょうね。なぜ彼が、韓国民に対する差別感情を持っているのか。企業イメージを傷つけてまで、敢えてヘイト感情を露わにしているのか、切り込んでいただきたい。私も、本当にその理由を知りたいのですから。
(2019年3月13日)
われわれは、教育長を筆頭とする都の教育委員に面会を申し入れているが実現しない。テーマによっては、教育庁の人事部長や指導部長との直接交渉もしたいのだが、教育情報課長段階でブロックされる。やむなく、情報課長の背後にある、教育委員や知事に意見を申し上げる。
「10・23通達」発出以来16回目の春、卒業式・入学式の季節である。国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制はもう止めて、学校現場を生き生きとした本来の教育現場を取り戻していただきたい。このことに関して、個別の課題はいくつもあり、「『日の丸・君が代』不当処分撤回を求める被処分者の会」や、「五者卒業式・入学式対策本部」から質問や要請は多岐に渡っているが、私からは総論的な意見を2点だけ申しあげたい。
われわれは日本国憲法のもとで、日本国憲法に守られて生活している。言うまでもなく権力機構には憲法遵守の義務がある。もちろん、都教委にも。まずは、このことを肝に銘じていただきたい。
日本国憲法は、文明が構築した近代憲法の典型として、「人権宣言」部分と人権を擁護すべく設計された「統治機構」の二部門から成り立っている。憲法は個人の尊厳の確立を究極的な目的価値として、いくつもの人権のカタログをならべるている。その中の精神的自由といわれるものが、思想・良心の自由であり、信仰の自由であり、表現の自由であり、学問の自由等々である。人が人であるための、そして自分が自分であるための自由であり権利が保障されている。
近代憲法は、人権を損なうことがないように統治機構を設計し、運用を命じている。国家に人権を損なうような行為は許されない。ここには、個人の人権と、国家が持つ公権力との緊張関係が想定されていて、その価値序列において、個人の人権が国家に優越する。
国家とは主権者である国民が創設したものである。まず個人があり、その集合体としての国民が形成され、国民が国家に権力を与える。慎重に、憲法が授権する範囲においてのことである。個人・国民の利益に奉仕するために国家が存在するのであって、その反対ではない。
この個人と国家との緊張関係において、国旗・国歌(日の丸・君が代)は、その関係を象徴する存在となる。国旗国歌は、国家と等値と考えられるシンボルなのだから、国旗国歌への敬意表明とは国家に対する敬意表明にほかなならない。公権力が国民に対して、国旗国歌への敬意表明を強制することは、国家が主権者である国民に対して「オレを尊敬しろ」と強制していることにほかならない。
主権者国民によって作られた国家が国民に向かって「オレを尊敬しろ」と強制することなどできるはずがない。それは、憲法の論理の理解において背理であり倒錯以外のなにものでもない。
本来、公権力が国民に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制はなしえないというほかはない。とりわけ、教育部門が国民の育成に国家主義を鼓吹するようなことかあってはならない。
二つ目。これまでの国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に関する最高裁判決の理解について、都教委の立場は牽強付会と言わざるを得ない。詳細は措くとしても、けっして最高裁は都教委のこの野蛮を褒めてはいない。我が国の裁判所は、三権分立の理解において、司法の行政府の行為に対する役割を極めて謙抑的に理解する、司法消極主義の立場をとっている。よくよくのことのない限り、司法が行政の行為を違憲として断罪することはない。
都教委の国旗・国歌(日の丸・君が代)強制は、その行政に甘い司法からも、批判を受けていることを自覚しなければならない。地裁レベルでは明確な違憲判決もある。高裁段階では戒告まで含んですべての処分を懲戒権の濫用とする判決もある。最高裁レベルでも、反対意見もあり、多数の補足意見もある。最高裁裁判官総体からは、不正常な教育現場となっていることについての批判を受けていることを自覚しなければならない。
一つでも、そのような都教委に対する全面批判の判決のあることを恥だと思わなければならない。違憲、あるいは違法と紙一重のぎりぎりのところでの無理な教育行政を行っていることは、苟も教育に携わるものとしての見識を疑われていることとして、反省あってしかるべきである。
2003年秋に「10・23通達」が発出されたとき、極右の知事石原慎太郎のトンデモ通達だととらえた。いずれトンデモ知事さえ交代すれば、こんなバカげた教育行政は元に戻る、そう思い込んでいた。
しかし、石原退任後も石原教育行政は続いて今日に至っている。この問題が、教育右傾化の象徴となっている。今年こそ、方向転換の年となるよう願ってやまない。
(2019年3月12日)
「2011年3月11日」から本日で8年になる。岩手を故郷とする私にとって、あのときの衝撃は生涯忘れることができない。例年、「3・1・1」という数字の連なりに特別の感傷が湧いて、 胸が痛む。例年、震災・津波・原発に関して何かを書かねばならないと思いつつ、筆が重い。
8年前の災害の直後に、石原慎太郎の「震災は天罰」という発言に接して、私は怒りに震えた。「天罰はオマエにこそふさわしい」と慎太郎に怒るとともに、この社会の慎太郎的なメンタリティに怒り、石原慎太郎ごときを都知事に選任している東京都民にも怒った。筆を抑えつつも、その怒りのほとばしりを、「石原慎太郎天罰発言・糾弾」の記事として書き連ねた。
そして、8年後の日刊ゲンダイが報じているのは、原発推進のための処理費用偽装である。当時は、「震災は天罰」とする天譴論をタチの悪い政治家の発言と怒ったが、今また、さらにタチの悪い原発偽装に怒らねばならない。
当時の私の「天譴論批判」記事から、2編だけを引用しておきたい。
「天は誰を咎めているのか」(2011年3月28日)
地震・津波・原発と続く災害のさなかに、「天譴」 という言葉を知った。辞書を引くと、漢籍では宋書(5世紀)に用例があり、和書では九条兼実の「玉葉」 (12世紀)に見えるという。 譴とは、譴責の熟語から推察されるとおり、咎めるということ。「天帝による咎め」は、為政者が過ったときに凶事としてあらわれる。ここには、権力批判のニュアンスが濃い。つまり、天の譴責は時の権力者に向けられる。
関東大震災後後にも、多くの人が 「天譴」 を論じた。このときの天譴論の多くは、時の権力を譴責するのではなく、国民や人類を批判するものだったという。
例えば、内村鑑三。「時々斯かる審判的大荒廃が降るにあらざれば,人類の堕落は底止する所を知らないであろう」。 あるいは山室軍平。「此度の震災は、物慾に耽溺していた我国民に大なる反省を与える機会であった。堕落の底に沈淪せる国民に対して大鉄槌を下した」。 あるいは北原白秋。「世を挙り 心傲ると歳久し 天地の譴怒いただきにけり」(以上、仲田誠 「災害と日本人」)など。
さらに警戒すべきは、自然の力に萎縮する人々の心理に付け込んで、強力に人心を誘導しようという、権力側からの天譴論である。都立高の歴史の先生から、陸軍のトップエリートであった宇垣一成が綴った日記の一節を教えられた。「物質文化を憧憬し思想壊頽に対する懲戒として下されし天譴としか思えぬ様な感じが、今次の震火災に就いて起りたり。 然り、かくのごとく考えて今後各方面に対する革新粛清を図ることが緊要である」
? 権力による人心の支配への災害利用の意図を読み取ることができよう。 かくて、「関東大震災を機に大正デモクラシーが終焉して、ファシズムの時代に向かう」 との図式を描くことが可能となる。
? 首都の都知事が言った 「震災は天罰」 は、その亜流である。しかも、国民による権力批判という本来の天譴論とは正反対の、権力による国民批判である。 これを新たな全体主義への第一歩としてはならない。
災害を「天罰」とするオカルティズムの危険(2011年03月19日)
未開の時代、人は災害を畏れ、これを天の啓示とした。個人の被災は個人への啓示、大災害は国家や民族が天命に反したゆえの天罰とされた。
董仲舒の災異説によれば、天は善政あれば瑞祥を下すが、非道あれば世に災異をもたらす。地震や洪水は天の罰としての災異であるという。洋の東西を問わず古くは存在したこのような考え方は、人間の合理的思考の発達とともに克服されてきた。
天罰思想とは、実は何の根拠もない独断にすぎない。天命や神慮の何たるかを誰も論証することはできない。だから、歴史的には易姓革命思想として利用され、政権簒奪者のデマゴギーとして重用された。
このたびの石原発言の中に、「残念ながら無能な内閣ができるとこういうことが起きる。村山内閣もそうだった」との言葉があったのに驚いた。政権簒奪をねらうデマゴギーか、さもなくば合理的思考能力欠如の証明である。このように、自然災害の発生を「無能な内閣」の存在と結びつける、非合理的な人物が首都の知事である現実に、肌が泡立つ。
また、天罰思想は災害克服に無効である。天の罰との理解においては、最重要事は災害への具体的対応ではなく、天命や神慮の内容を忖度することに終始せざるをえない。また、災害は天命のなすところと甘受することにもならざるをえない。
本来、災害や事故に対しては、まず現状を把握して緊急に救命・救助の手を差し伸べ、復旧の方策を講じなければならない。さらに、事象の因果を正確に把握し、原因を分析し、再発防止の対策を構築しなければならない。このことは科学的思考などという大袈裟なものではなく、常識的な合理的思考の姿勢というだけのことである。この常識的思考過程に、非合理的な天罰思想がはいりこむ余地はない。
アナクロのオカルト人物が、今、何を間違ってか首都の知事の座に居ることが明白となった。このままでは、都民の命が危ない。
都民は、愚かな知事をいだいていることの「天罰」甘受を拒絶しなければならない。都民の命と安全のために、知事には、即刻その座を退いていただきたい。
あれから8年。我が故郷岩手の復興は、まずまずというべきだろうか。問題はあらためて福島の原発事故の重さとその復旧の困難である。
本日付、日刊ゲンダイの報ずるところを抜粋する。
またデタラメ数値だ―。民間のシンクタンク「日本経済研究センター」は7日、廃炉や賠償などの処理費用が、総額35兆?81兆円になるとの試算を発表した。経産省が16年に公表した試算額は22兆円。経産省は思いっきり過少試算して、原発をゴリ押ししてきたのだ。
核燃料デブリを取り出して廃炉にした場合は81兆円、デブリを取り出さずコンクリートで閉じ込め、廃炉を見送った場合は35兆円とされている。35兆円には廃炉見送りで生じる住民への賠償や管理費は含まれていない。
?「原発を推進したい経産省は、変動要因をすべて楽観的に見て試算しています。『日本経済研究センター』は、反原発でも推進でもなく、試算は客観的にはじかれています。81兆円は経産省の22兆円よりも、圧倒的に信頼性がある数値といえます」「世耕経産相は22兆円を前提に『いろいろな費用を全部含めても、原発が一番安い』と繰り返しています。しかし、その22兆円が“真の数値”から懸け離れていた。つまり、国民はミスリードされていたのです。賃金やGDPをカサ上げしてアベノミクスの“成果”を見せかけた構図と同じ。原発推進も偽装の上に進められていたわけです」(横田一氏)
地震・津波は自然災害だが、原発事故は人災である。天譴論は愚かで底が浅いが、原発偽装は客観性を装ってる点の罪が深い。この期に及んでなお、原発推進政策を合理化しようとするものなのだ。慎太郎のオカルトよりも、ウソとごまかしのアベ政権恐るべし、なのだ。
(2019年3月11日)
3月10日。胸が痛む日。74年前の今日、東京大空襲で一夜のうちに10万人の命が失われた。その一人ひとりに、個人史があり、思い出があり、夢があり、親しい人愛する人がいた。自然災害による被災ではない。B-29の大編隊が、東京下町の人口密集遅滞に焼夷弾の雨を降らせてのことだ。東京は火の海となって焼失し、都市住民が焼き殺された。
広島・長崎に投下された原爆も、沖縄地上戦も、この世の地獄に喩えられる惨状であったが、日本各地での都市空襲被害も同様であった。その中の最大規模の被害が東京大空襲である。
1945年3月10日早暁、325機のB-29爆撃機が超低空を飛行して東京を襲った。各機が6トンのM69ナパーム焼夷弾を積んでいたという。米軍が計算したとおり、折からの春の強風が火を煽って、人と町とを焼きつくした。逃げれば助かった多くの人が、防空法と隣組制度で消火を強制されたために逃げ遅れて、命を失った。
この空襲被害は避けることができなかったものだろうか。1941年に始まった対米戦争の終戦が早ければ貴重な人命を失うことはなかったのだ。当時既に、情報を把握している当局者には、日本の敗戦は必至の事態であった。
前年(44年)7月9日にはサイパンが陥ちている。続いて、8月1日にはテニアン、8月10日にグアム。こうして、B-29爆撃機の攻撃圏内に日本本土のほぼ全域が入ることになった。これらの諸島を基地としたB-29の本土襲来があることは当然に予想されており、東条内閣はサイパン陥落の責任をとる形で7月18日に総辞職している。
東条内閣の成立は、太平洋戦争に突入の直前。その前に首相の座にあったのが近衞文麿である。この人が、45年2月14日、東京大空襲の1か月ほど以前に、天皇(裕仁)に面会して、近衛上奏文と言われる文書を提出している。「敗戦は必至だ。早急に戦争終結の手を打つ必要がある」という内容。
やや長文のうえ候文の文体が読みにくいが、要所を摘記してみる。
敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候。
敗戦は我が国体の瑕瑾(かきん?傷)たるべきも、英米の與論は今日までの所国体の変革(天皇制の廃絶のこと)とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来如何に変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体の護持の建前より最も憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座候。
つらつら思うに我が国内外の情勢は今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術即ち二段階革命戦術の採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存候。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座候。
戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし、軍部内の彼の一味の存在なりと存候。彼等はすでに戦争遂行の自信を失い居るも、今までの面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。
此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存奉候。以上
「勝利の見込みなき戦争をこれ以上継続することは、全く共産党の手に乗るものと考えます。従って国体護持(天皇制維持)の立場よりすれば、一日も早く戦争終結の方法を実行するべきものと確信しています」というのが、近衛の情勢観。
開戦も終戦も、権限のすべてを握るものが天皇であった。「元首相」の立場では、精一杯のことだったろう。終戦のためには軍の実権を握る勢力(近衛は「此の一味」と言っている)を一掃しなければならず、それはなかなかに困難ではあったろうが、それができるのは天皇だけなのだ。
この日、天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」と言い、近衛は「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」と述べたとされている。
その後の経過において、天皇が言った「もう一度、戦果を挙げてから」のという機会は一度もなかった。すべては、近衛が「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか」と危惧したとおりとなった。
このあと1か月ほどで、3月10日を迎える。首都が壊滅状態となり、10万の人命が失われても本土決戦の絶望的作戦は変更にならない。4月1日には、本土への捨て石としての沖縄地上戦が始まり6月23日に惨憺たる結果で沖縄守備隊の抵抗はやむ。ここで日本側だけで19万人の死者が出ているが、まだ戦争は終わらない。全国の主要都市は、軒並み空襲を受け続ける。そして、ポツダム宣言の受諾が勧告されてなお、天皇は国体の護持にこだわり、広島・長崎の悲劇を迎え、ソ連の対日参戦という事態を迎えてようやく降伏に至る。
すべての戦争犠牲者が、天皇制の犠牲者ではあろうが、敗戦必至になってからの絶望的な戦闘での犠牲者の無念は計り知れない。とりわけ、空襲の犠牲者は、同胞から英霊と呼ばれることもなく、顕彰をされることもない。その被害が賠償されることも補償されることすらもない。
広島・長崎の原爆、沖縄の地上戦、そして東京大空襲‥。このような戦争の惨禍を繰り返してはならないという、国民の悲しみと怒りと、鎮魂の祈りと反省とが、平和国家日本を再生する原点となった。もちろん、近隣諸国への加害の責任の自覚もである。2度と戦争の被害者にも加害者にもなるまい。その思いが憲法9条と平和的生存権の思想に結実して今日に至っている。
3月10日、今日は10万の死者に代わって、平和の尊さを再確認し、平和憲法擁護の決意を新たにすべき日にしなければならない。
(2019年3月10日)
天皇代替わりの直前の時期に、改憲問題との関わりでお話しをさせていただきます。
憲法上、天皇は何の権限も権能も持ってはいません。内閣の助言と承認のもと、言われたとおりの国事行為をすることだけが職務。けっしてひとり歩きをしてはならないのです。それが、大日本帝国憲法とは異なる、日本国憲法上の天皇という存在です。
旧憲法では、天皇は主権者でした。しかし、日本国憲法では、主権者は国民です。その主権者が、天皇という公務員職は置いたけれども、権限も権能もないものとしました。ですから、天皇という公務員職に誰が就任するかで、国民生活に何の影響もあろうはずはありません。あってはならないのです。
通常、公務員は、その職にふさわしい能力を備えた人を選考して採用することになります。しかし、天皇という公務員職には格別の能力は求められません。その意味で選考は不要なのです。天皇に就任する資格は、血統と性別だけ。天皇家の直系として生まれたこと、そして男子であることだけが要件となります。
ですから、天皇の交替は本来重要事ではなく、騒ぐほどのことではありません。歴史は誰が天皇であるかとは無関係に進みます。時代を特定の天皇と結びつけることには、何の必然性もありません。
かつて、日本人は一君と万民からなっていました。一人の天皇以外は、すべて臣民とされていたのです。奴隷が奴隷主の温情に感謝したその精神の在り方を「奴隷根性」といいます。臣民には、「臣民根性」が求められました。臣民は、天皇の赤子として、天皇の温情に報い尽くすべきことを教えこまれました。遂には、臣民は自ら臣民根性の涵養に務めるようにさえなりました。こうして、一億総マインドコントロール体制が完成したのです。
もちろん、旧天皇制は暴力で強制されました。大逆罪・不敬罪・治安維持法があり、思想検事と特高警察が天皇に対する不敬の言動を徹底して取り締まりました。天皇に楯突く不逞の輩の多くが天皇制警察の手で虐殺もされました。しかし、天皇制を支えたのは、暴力装置だけではなかったのです。教育とメディアが作りあげた、臣民根性が大きな役割を果たしたのです。
暴力と精神支配とを車の両輪とする旧天皇制は維新期に意図的に作り上げられ、次第に肥大して、軍国主義・侵略主義の主柱となり、植民地支配と戦争とで、内外にこの上ない惨禍をもたらして、この国を滅ぼしました。その反省から、日本国憲法が成立しました。そして、天皇ではなく、国民こそが主権者だと高らかに宣言しました。
本来なら、このとき天皇制は廃絶されるべきはずでした。しかし、戦勝国が占領政策を効率的に遂行するために、あるいは戦後世界の対立構図における戦略上の思惑などから、天皇制は廃絶されず、象徴天皇制として残されました。
暴力的な押し付けを欠いた象徴天皇制が発足以来、70余年。日本国民の主権者としての自覚は十分に育っているでしょうか。臣民根性は克服されているでしょうか。
維新期、明治政府を構想した者は、徹底して天皇を利用することを考えました。士族階級には水戸学流の名分論から天皇統治の正当性が説かれ、それ以外の階級には、天皇は神の子孫であり現人神でもあると教えられました。20世紀中葉まで、こんなことが全国の学校で大真面目に教えられたのです。なぜか。御しやすい、支配しやすい、抵抗心のない、権力に従順な被支配民をつくり出すためにです。支配の道具として、天皇はこの上なく使い勝手のよい便利な存在だったのです。
天皇を利用したマインドコントロールから、日本国民は十分に覚醒しているでしょうか。私たちに今必要なことは、主権者としての自立した精神です。旧天皇にご苦労様でしたと持ち上げてみたり、無邪気に新天皇に旗を振るという、無自覚さこそが罪と言わねばなりません。
天皇代替わりを好機として、「新時代に、新憲法を」などというスローガンに乗せられてはなりません。天皇代替わりの今こそ、自覚的に臣民根性を払拭して、主権者意識を涵養しなければならないと思います。
権威とは、多くの人があると思うからあるだけの幻影に過ぎません。天皇の権威も同じです。そんなものは認めないとみんなが思えば、存在しないのです。舌を噛むような最大限敬語を使う滑稽は主権者の態度ではありません。「天皇に恐れ入らない精神」こそが、いまわれわれに求められています。
以下は、レジメの一部を抜粋しておきます。
※日本国憲法の基本性格と改憲問題の構図
☆日本国憲法は不磨の大典ではない。もちろん、理想の憲法でもない。
☆歴史的な所産として、
「人類の叡智の結実」の側面を主としてはいるが、
「旧制度の野蛮な残滓」を併せもっている。
☆すべての憲法条文は普遍性をもつとともに、特異な歴史性に彩られてもいる。
憲法のすべての条文は、歴史認識を抜きにして語ることができない。
☆戦後の進歩勢力は、憲法をあるべき方向に変える「改正」の力量を持たない。
さりとて、「改悪」を許さないだけの力量は身につけてきた。
「護憲」「改憲(憲法改正)阻止」という革新側スローガンの由来。
☆政治的なせめぎ合いは、いずれも革新の側が守勢に立たされている。
改憲(憲法改悪) ⇔ 改憲阻止
壊憲(解釈壊憲)? ⇔ 改憲阻止
※本日の学習会テーマに即して
☆「安倍改憲発議の企て」⇒「9条改憲」など4項目明文改憲提案
「天皇代替わり」(2016・8・8⇒2019・5・1)⇒改憲ではなく「壊憲」問題
その両者の基底に、自主憲法制定を党是とする自民党の基本方針がある。
「自民党改憲草案」(12・4・27)が、改憲・壊憲の本音を語っている。
☆保守政権(即ち国民の多数派)は、改憲と壊憲を望んでいる。
しかし、そのホンネは小出しにせざるを得ない。
明文改憲の小出しが、「改憲4項目・条文素案」であり、
壊憲の小出しが、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」である。
※自民党「改憲4項目・条文たたき台素案」(2019・3・25)
内容 【9条改正】【緊急事態条項】【参院選「合区」解消】【教育の充実】
スケジュール 「2010年を改正憲法施行の年に」⇒絶望的情勢
※改憲発議問題経過と手続
☆2017年5月3日 右翼改憲集会へのビデオ・メッセージと読売紙面
「アベ9条改憲」提案 9条1項2項は残して、自衛隊を憲法に明記。
☆その種本は、日本会議の伊藤哲夫「明日への選択」論文。
「力関係の現実」を踏まえての現実的提案というだけでなく、
「護憲派の分断」を狙う戦略的立場を明言している。
(「自衛隊違憲論派」と「自衛隊合憲(専守防衛)派」の共闘に楔を。)
☆3月25日 自民党大会 これまでに党内一本化
その後、改憲諸政党(公・維)と摺り合わせ→『改正原案』作成の予定
現在まで進展なし
☆議会の発議手続
衆院に『改正原案』発議→本会議→衆院・憲法審査会(過半数で可決)
→本会議(3分の2で可決)→参院送付→同じ手続で可決
『改正案』を国民投票に発議することになる。
60?180日の国民投票運動期間を経て、国民投票に。
国民投票運動は原則自由。テレビコマーシャルも自由。
有効投票の過半数で可決。
☆勝負は今。改正原案を作らせないこと。
3000万署名の成否が鍵。今夏の参院選が山場。
☆2019年の政治日程 元号・退位・即位の礼・大嘗祭・参院選・消費増税
☆「安倍のいるうち、両院で3分の2の議席あるうち」が、改憲派の
千載一遇のチャンス⇒安倍を下ろすか、各院で3分の2以下にすれば良い
☆安倍9条改憲は、どのような法的効果をもたらすか。
・9条1項2項の死文化。しかも、戦争法を合憲化し海外派兵も可能に。
・「ないはずの軍事力」が明文化される効果。
隊員募集協力への強制・土地収用法・
☆緊急事態条項の危険性
制憲国会での金森徳次郎答弁。
「緊急事態条項は権力には調法だが、民主主義と人権には危険」
※天皇代替わりにおける憲法理念の粗略化
☆いったい何が起きるのか。
4月1日 元号発表
4月末日 天皇(明仁)退位
5月1日 新天皇(徳仁)即位 剣爾等承継の儀(剣爾渡御の儀)
その後、一連の即位行事と宗教儀式
10月22日?????? 即位礼正殿の儀
11月13日?14日 大嘗祭
10月22日安倍晋三が発声する「テンノーヘイカ・バンザイ」の笑止千万
11月13日?14日 大嘗祭のおぞましさ
国民主権原理違反と、政教分離原則違反と。
☆ 憲法における天皇の地位
天皇とは、日本国憲法上の公務員の一職種であって、それ以上のものではない。象徴とは、なんの権限も権能も持たないことを意味するだけのもので、象徴から、何の法律効果も生じない。
本来、天皇は「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ」だけのもので、国事行為の外に「象徴としての行為」や「天皇の公的行為」を認めてはならない。
☆ 天皇の地位は、「主権の存する日本国民の総意に基づく」ものであって、主権者である国民の意思によって天皇の地位を廃絶しうることは、もとより可能である。憲法改正の限界に関しては諸説あるものの、天皇・天皇制を廃止しうることは通説である。また、皇位継承法である皇室典範は一法律に過ぎず、国会が改廃しうることに疑問の余地がない。現行憲法においては、「天皇は神聖にして侵すべからざる」存在ではない。
☆ なお、日本国憲法の体系の中で、天皇の存在は他の憲法価値と整合しない夾雑物である。憲法自身がその99条で憲法尊重擁護義務を負う公務員の筆頭に天皇を挙げているところではあって、憲法解釈においても、人権・国民主権・平和等の憲法上の諸価値を損なわぬよう、天皇や天皇制をできるだけ消極的な存在とすることに意を尽くさなければならない。
☆ 天皇の生前退位発言
旧憲法下の天皇は、統治権の総覧者としての権力的契機と、「神聖にして侵すべからず」とされる権威的契機とからなっていた。日本国憲法は天皇の権力的契機を剥奪して「日本国と日本国民統合の象徴」とした。その「初代象徴天皇」の地位には、人間宣言を経た旧憲法時代の天皇(裕仁)が引き続き就位し、これを襲った現天皇(明仁)は「二代目象徴天皇」である。
その二代目が、高齢を理由とする生前退位の意向を表明した。2016年8月8日、NHKテレビにビデオメッセージを放映するという異例の手段によってである。1945年8月15日の「玉音放送」を彷彿とさせる。
そこで天皇は、「既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。」と語っている。天皇自らが、「象徴の努め」の内容を定義することは明らかに越権である。しかも、国事行為ではなく「象徴の努め」こそが、天皇の存在意義であるかのごとき発言には、忌憚のない批判が必要だ。憲法学は、「象徴としての公的行為」の範疇を可及的に狭小とすべく腐心してきた経緯がある。さらに、法改正を必要とする天皇の要望が、内閣の助言と承認のないまま発せられていることに驚かざるを得ない。
☆ ところが世の反応の大方は、憲法的視点からの天皇発言批判とはなっていない。「陛下おいたわしや」「天皇の意向に沿うべし」の類の言論が跋扈している。リベラルと思しき言論人までが、天皇への親近感や敬愛の念を表白している現実がある。天皇に論及するときの過剰な敬語の氾濫さえもみられる。
この世論の現状は、あらためて憲法的視点からの象徴天皇制の内実やその危険性を露わにしている。
☆ なお、憲法では「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」(第二条)とされ、「皇位世襲」以外のことは、「皇室典範」と名付けられた法律によって決めうるとされている。だから、生前退位を認めるか否かと、憲法改正の必要性との結びつきはまったくない。意図的に、生前退位の議論を「お試し改憲」の議論と結びつけようという議論が見られたが、この種の立論には警戒を要する。
☆ 生前退位要望への可否のは些事に過ぎない。結論はどちらでも、大事ではない。問題は、この件を取り扱う国民の姿勢ないし態度にある。「畏れおおくも、天皇の地位に関わる法の改正に着手させていただく」などという臣民のごとき卑屈な態度であってはならない。飽くまでも、主権者の立場で問題を考えなければならない。急ぐも急がないも、国民次第。
☆ 確認しておくべきは、天皇が象徴であることは、天皇に何らかの能力を要求するものではないということである。身体的能力も知的な能力もである。天皇は生存するだけで天皇なのだ。象徴とは存在するだけのもの。象徴であることから、なんらの法的効果が導かれることはない。ハタもウタも象徴である。ハタもウタも存在するだけで象徴としての機能を果たす。天皇も同様なのだ。
高齢の天皇が、現行の国事行為に関する執務の作業量が膨大でこなしきれないというのなら、作業量を最小限にしぼればよい。象徴が象徴であるがゆえに何らかの義務負担を強制されることはなく、象徴だからこれだけの執務をこなさなければならないという義務が生じるわけでもない。象徴としての天皇は、本来どこに出向く必要もなく身体的動作も必要ない。国会の開会式出席などは不要だし、皇室外交も象徴と結びつくものではない。ほとんどのことは辞めてもよいのだ。
☆ 天皇の国事行為は、書面に署名をする能力で足りる。「外国の大使・公使の接受」くらいが高齢で差し支えることになるだろうか。その場合は摂政を置けば足りる。あるいは、国事行為の臨時代行者選任という制度もある。それでなんの不都合もない。
☆ 近代天皇制とは、国民統治の道具として明治政府が拵えあげたものである。旧憲法時代の支配者は、神話にもとづく神権的権威に支えられた天皇を、この上なく調法なものとして綿密に使いこなし、大真面目に演出して、国民精神を天皇が唱導する聖戦に動員した。
そこでの政治の演出に要求された天皇像とは、神の子孫であり現人神でもある、徹底して権威主義的な威厳あふれる天皇像だった。「ご真影」(油絵の肖像を写真に撮ったものでホンモノとは似ていない)や、白馬の大元帥のイメージが臣民に刷り込まれた。
☆ 敗戦を経て日本国憲法に生き残った象徴天皇制も、国民統治の道具としての政治的機能を担っている。しかし、初代象徴天皇は、国民の戦争被害の報告に、責任をとろうとはしなかった。戦争責任を糊塗し、原爆被害も「やむを得ない」とする無責任人物としての天皇像。それが、代替わり後次第にリベラルで護憲的な天皇像にイメージを変遷してきた。
現在、国民を統合する作用に適合した天皇とは、国民に親密で国民に敬愛される天皇でなくてはならない。一夫一婦制を守り、戦没者を慰霊し、被災者と目線を同じくする、「非権威主義的な権威」をもつ象徴天皇であって、はじめてそれが可能となる。憲法を守る、リベラルな天皇像こそは、実は象徴天皇の政治的機能を最大限に発揮する有用性の高い天皇像なのだ。これを「リベラル型象徴天皇像」と名付けておこう。
国民が天皇に肯定的な関心をもち、天皇を敬愛するなどの感情移入がされればされるほどに、象徴天皇は国民意識を統合する有用性を増し、それ故の国民主権を形骸化する危険を増大することになる。天皇への敬愛の情を示すことは、そのような危険に加担することにほかならない。
※天皇代替わりにおける政教分離違反問題
☆政教分離とは、象徴天皇を現人神に戻さないための歯止めの装置である。
「国家神道(=天皇教)の国民マインドコントロール機能」の利用を許さないとする、国家に対する命令規定である。
・従って、憲法20条の眼目は、「政」(国家・自治体)と「教」(国家神道)との「厳格分離」を定めたもの
・「天皇・閣僚」の「伊勢・靖國」との一切の関わりを禁止している。
・判例は、政教分離を制度的保障規定とし、人権条項とはみない。
このことから、政教分離違反の違憲訴訟の提起は制約されている。
・住民訴訟、あるいは宗教的人格権侵害国家賠償請求訴訟の形をとる。
☆運動としての岩手靖国訴訟(公式参拝決議の違憲・県費の玉串料支出の違憲)
靖国公式参拝促進決議は 県議会37 市町村1548
これを訴訟で争おうというアイデアは岩手だけだった
県費からの玉串料支出は7県 提訴は3件(岩手・愛媛・栃木)同日提訴
☆訴訟を支えた力と訴訟が作りだした力
戦後民主主義の力量と訴訟支援がつくり出した力量
神を信ずるものも信じない者も 社・共・市民 教育関係者
☆政教分離訴訟の系譜
津地鎮祭違憲訴訟(合憲10対5)
箕面忠魂碑違憲訴訟・自衛隊員合祀拒否訴訟
愛媛玉串料玉串訴訟(違憲13対2)
中曽根靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟
滋賀献穀祭訴訟・大嘗祭即位の儀違憲訴訟
小泉靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟
安倍首相靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟(東京・大阪で現在進行中)
☆岩手靖国控訴審判決の意義と影響
・天皇と内閣総理大臣の靖国神社公式参拝を明確に違憲と断じたもの
・県費からの玉串料支出の明確な違憲判断は愛媛とならぶもの
・目的効果基準の厳格分離説的適用
目的「世俗的目的の存在は、宗教的目的・意義を排除しない」
効果「現実的効果だけでなく、将来の潜在的波及的効果も考慮すべき」
「特定の宗教団体への関心を呼び起こし、宗教的活動を援助するもの」
☆ 今、天皇が演出しようとしている「リベラル型象徴天皇像」と、自民党流の復古調「権威主義型象徴天皇像」とがせめぎ合っているように見える。
中道保守派が「リベラル型象徴天皇像」支持派として生前退位を認め、札付きの右翼たちが「権威主義型象徴天皇像」支持派として生前退位に反対の構図となっている。
しかしどちらも、タイプこそ違え、天皇の「権威」を通じての国民統合機能を認めるものとして五十歩百歩と言わざるを得ない。いま、「権威主義型象徴天皇像」では国民を味方に付けることはできまい。むしろ、強調すべきは「リベラル型象徴天皇像」の危険性である。
「安倍より数段マシだから、天皇の発言を支持する」などと言ってはならない。天皇制という制度の怖さを噛みしめなければならない。
(2019年3月9日)
石川逸子さんのお宅を訪問したのが、朝鮮の「独立運動」記念日に当たる3月1日。先週の金曜日のことだった。そのとき、石川さんの夫君(パートナーというべきか)関谷興仁さんともお目にかかった。石川さんへのインタビューの後、関谷さんの運転で小岩駅まで送っていただいた。
そのとき、益子に朝露館という陶芸展示館があり、関谷さんがその主宰者であることを教えられた。ものを知らないということは恐ろしい。私は、朝露館について、まったく無知だった。関谷興仁という陶芸家についても。
お土産に、「悼 ?集成?」と題する立派な写真集をいただいた。奥付を見ると、発行人関谷興仁、発行所朝露館とされている。一葉社から、2016年11月に発売されたもの。朝露館展示の陶芸作品とそれにまつわる詩が中心だが、並みの陶芸作品記録ではない。
「悼」とは、戦争で、植民地支配で、原爆で、弾圧で…。非業の死をやむなくされた無数の人々への鎮魂の意である。この本の惹句に、「もの言えぬ死者の声を聞き取りながら負の歴史に向かい合った作品を作り続ける関谷興仁の第4弾にして決定版の陶板作品写真集!」とある。『悼ー集成ー』の以前に、『悼』『悼II』『悼III』の出版があって、その集大成の写真集として、『集成』に至ったとのこと。
目次が下記のとおりだ。
ハルラ山
千鳥ヶ淵
SHOAH
チェルノブイリ
フクシマ
中国人強制連行
ヒロシマ
詩歌
オブジェ
「ハルラ山」は、韓国・チェジュ島の中央に位置する高山。ここは「済州島四・三事件」の舞台。権力に抵抗して蜂起した人々に対する虐殺の場。「千鳥ヶ淵」は、靖国と対置される、無名の太平洋戦争犠牲者の墓苑。「SHOAH」は、ユダヤ人に対するジェノサイドのこと。「チェルノブイリ」「フクシマ」は、多くの人の平和な故郷を奪った文明の陥穽。「中国人強制連行」は天皇制日本の蛮行の象徴。関谷さんは、「当時これを実施したのは現政権中枢の祖父たち。この子孫がいまだ政権に蟠踞している」とメモしている。もちろん、岸信介と安倍晋三を念頭においてのこと。「ヒロシマ」は、あのヒロシマ。ここでは石川逸子さんの詩が、多く陶板に書き込まれている。「詩歌」の最初は、金芝河。そして伊東柱。坂口弘なども。「オブジェ」の冒頭作品は、「石のインティファーダへの『呼びかけ』」と評題されたもの。これでほぼ、「朝露館」と「悼」の骨格がお分かりいただけるだろう。
「朝露」は、はかない「あさつゆ」かと思ったのは間違いで、韓国では誰もが知っている抵抗の歌からの命名だという。1970年朴正煕政権下において、22歳のジョンテイル(全泰壱)青年が抗議の焼身自殺をした。これを悼む歌として、作られたのが、キムミンギ(金敏基)作詞・作曲の「アッチミスル」、即ち「朝露」である。
次のような訳詞が紹介されている。勇ましくはない。政権や体制への直接の批判の言葉もない。
長い夜を暮らし草葉に宿る
真珠より美しい朝露のように
心に悲しみがみのるとき
朝の丘に立ち微笑を学ぶ
太陽は墓地の上に赤く昇り
真昼の暑さは私の試練か
私は行く、荒れ果てた荒野に
悲しみ振り捨て私は行く
それでも、この歌は、民衆の抵抗歌として歌われ、軍事政権によって74年に「禁止歌謡」に指定されたという。もちろん、禁止されれば、なおのこと人は唱うものだ。民主化運動のうねりの昂揚のたびに、この歌は脈々と唱い継がれてきた。この抵抗のスタイルが、関谷さんの気持ちにピッタリだったのだろう。
安倍や、菅や、麻生や、河野太郎のような、「差別根性を丸出しにした」「政権中枢に蟠踞している輩」だけが日本人ではない。同胞の中に、関谷興仁さんや、石川逸子さん等がいることを誇りに思う。強者の不当な仕打ちに心から怒り、弱者の側に立って寄り添おうという人だけが、民族間の架け橋にもなり、平和を築く土台を作りうる。
益子に行ったら、朝露館を訪ねてみよう。
〒321-4217栃木県芳賀郡益子町益子4117-3
電話番号 0285-72-3899
但し、開館時期は限られている。
春期(4月?6月) 秋期(9月?11月)
開館日:金曜・土曜・日曜
開館時間:12:00?16:00まで
※開館時期以外のお問い合わせはこちら
TEL:03-3694-4369(9:00?16:00)
なお、ホームページが充実している。
http://chorogan.org/
http://chorogan.org/access.html
案内のユーチューブもある。
https://www.youtube.com/watch?v=_n2xAHwSpEY
朝露館では、夥しい無辜の理不尽な死に想いを致そう。
これ以上の過ちは繰り返させないという決意を新たにしつつ。
(2019年3月8日)
「変装」とは、「変な装い」という意味ではない。他人の目から自分だと覚られぬように、別人を装うことである。昨日(3月6日)保釈されたゴーンが、マスクと作業服姿に身をやつした変装の意味が分からない。この奇妙な変装がもたらしたものは、この人案外にプライドのない人という印象のみ。
誰の進言なのかはどうでもよいことで、ゴーンが断れなかったはずはない。「私は私」「変装などあり得ない」と、なぜ言わなかったのだろう。堂々と、不当な長期勾留を受けた自分の素顔を曝すことで、検察権力と闘う闘志を見せればよかったのに。こそこそと身を隠した印象を残念に思う。
ゴーンはこの格差社会で、不当な利益を得ている階層を代表する人物である。多くの人からの搾取と収奪で財をなしている経済人の典型。しかもその性は傲岸不遜。社会的には指弾されて当然だが、権力に対峙すればやはり弱者でしかない。はからずも、長期の勾留を許す制度と闘う立場に立ったからには、姑息な策を弄せず、堂々としてもらいたい。
同じ日、大阪地裁の刑事法廷で、籠池泰典・諄子夫妻が、第1回公判の補助金詐欺事件の被告人席に着いた。この人の右翼的な思想や言動には辟易するが、臆するところなく堂々と権力に対峙しているところは評価せざるを得ない。報道では、紺色のスーツと金色のネクタイ姿だったという。作業服にマスクのゴーンとは雲泥の差。
この日、籠池は冒頭に自ら意見を述べている。「豊中の国有地が森友学園の学校敷地として大幅に値引きした価格で売却されたのは、官邸からの意向と忖度があったからだ」「補助金不正事件で自らが逮捕・起訴されたことは、国民の目をそらせるための別件逮捕」「口封じのための長期勾留だった」という批判。「安倍首相は自らの保身に舵を切った」とも指摘したという。一々もっともではないか。
この人、この日の入廷前に、メディアにサービスの一句を披露している。
「世直しの 息吹たちぬる 弥生かな」
句になっているかはともかく、この裁判を世直しの一歩にしようという心意気はよく表れている。もちろん、安倍が支配する今の世は歪んでいるという含意がある。自分の裁判を通じて、安倍政権の歪みを、真っ直ぐに糺そうというわけだ。
そして、長い意見陳述の最後を、また一句で締めくくった。
「りんと咲く 日の本一の 夫婦花」
句作のできばえではなく、安倍晋三・昭恵の夫妻に対する当てつけの心情をこそ読むべきである。かつては、右翼的信条をともにする仲間として、神風を吹かせてくれたのが安倍晋三と昭恵の夫妻。それが、いったん形勢利あらずと見るや、保身のために手のひらを返して仲間のはずの籠池夫妻を切り捨てたのだ。そのために、籠池夫妻は300日を越える勾留の憂き目を見ることになった。おそらくは、ハラワタが煮えくりかえる思いであろう。その思いを抑えてのサービスの一句なのだ。
籠池夫妻は、安倍晋三らの冷酷な仕打ちに負けることなく、300日を乗り切ったというプライドを堅持している。それを「りんと咲く」「日の本一」と表現した。夫婦の絆は、安倍夫妻とは比較にならずに強いと言いたいのだ。なるほど、そのとおりと頷かざるを得ない。
この日の安倍晋三のコメントは、報道に見あたらない。朝日によると、「菅義偉官房長官は首相官邸で開かれた午後4時過ぎの記者会見で、籠池氏の初公判について問われ、『個別の事件についてコメントは控えたい。ただ、あらゆる行政プロセスが公平、そして適切に行われるのは当然のことであり、今後ともこうした点に対して国民のみなさんの信頼が揺るぐことがないように取り組んでまいりたい』と語った。」という。
えっ? ホントはこうだろう。
「あらゆる行政プロセスが公平、そして適切に行われねばならないのは当然のことでありますが、安倍晋三の周囲では、不公平、不適切が際だっていることは否定しようもありません。しかしこれまで、こうした点に対して国民のみなさんには、極めて寛容にお目こぼしいただいてまいりました。国有地売却の値引き額が8億円なんて、些細な問題ではないか。総理大臣のオトモダチにそのくらいことは騒ぐほどのことはない。こうお考えいただいた結果、今日の安倍政権の安泰があるのです。今後とも、少々のことには目をつぶっていただくようお願いすることで、国民の皆様の安倍政権に対する盲目的信頼が揺らぐことがないように取り組んでまいりたいと思います」
森友問題の核心は、籠池夫妻の補助金詐欺疑惑にあるのではない。彼らが、「自分たちの起訴や長期勾留は、国民の目を暗ますための国策」と言うのは、まことにもっともなことなのだ。問題の核心は、国有地値引きの経過と動機と背景とにある。安倍晋三夫妻の口利き、少なくとも政権への官僚の忖度が、只同然の国有地払い下げになったのだ。これをどこまで暴くことができるか。それこそが、日本が真っ当な国家であるかの試金石である。
近畿財務局長をはじめとする担当者に対する背任罪告発が、事件の核心を暴き、政権を真正面から撃つものになる。告発案件は大阪検察審査会に係属している。その行方が、国民の最大関心事だ。検察審査会審査委員諸氏の勇気と見識に期待したい。
(2019年3月7日)