澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

大阪地検は、森友学園事件を徹底して再捜査せよ

本日(3月29日)大阪第一検察審査会の事務局から連絡があった。森友事件関連の刑事告発に関連する審査申立に対して、議決が出た。3月15日付の議決で、文書の作成が3月28日のことのようだ。

周知のとおり、森友事件とは、政治の頂点にいる安倍晋三とその妻昭恵に関わる疑惑である。だからその解明は容易ではない。政治や行政の場での自浄作用は期待しがたい。メディアも野党もよく追求はしたが最後の決め手を欠いた。世論も憤ったが持続せず、この薄汚れた内閣の存続を許してしまった。結局のところ、最後の手段として刑事司法に期待が寄せられたのは当然の成り行きで、刑事告発が相次いだ。

大阪地検特捜部に集約された告発は、被告発者(被疑者)数38名、6罪の告発罪名についてのものだった。被告発者38名の内訳は、財務省本庁関係者23名、近畿財務局関係者10名、国土交通省大阪航空局関係者4名、森友学園関係者1名。告発罪名は、背任、公用文書毀棄、虚偽有印公文書作成・同行使、有印公文書変造・同行使、証拠隠滅、公務員職権濫用である。

2018年5月1日大阪地検特捜部は、その全告発を不起訴処分とした。「検察よ、お前もか」である。国民の検察に対する信頼を大きく裏切ったものと言うほかはない。とりわけ、特捜の信用は地に落ちた。その結果、舞台は大阪検察審査会に移った。週刊金曜日の報道では、検審には6団体・個人が、9件の検察審査申立をしているという。そのすべてが、大阪第1検審に係属している。

私が代理人として関わっているのは、醍醐聡さんら「幕引きを許さない市民の会」の会員が告発し審査申立をした下記の2事件。いずれも、2018年6月5日受理となったもの。なお、いずれも地検不起訴処分の処分理由は「嫌疑なし」ではなく、「嫌疑不十分」というものだった。

平成30年第13号
被疑者池田靖(近畿財務局統括国有財産監査官)に対する背任 及び
被疑者佐川宣壽(財務省理財局長)に対する証拠隠滅

平成30年第14号
被疑者美並義人(近畿財務局長)に対する背任

本日報告のあった結論は、以下のとおりである。
第13号事件について
 被疑者 池田 靖(背任)   不起訴不当
 同   佐川宣壽(証拠隠滅) 不起訴相当
第14号事件について
 被疑者 美並義人(背任)   不起訴相当

「起訴相当」の議決ではなかったものの、統括国有財産監査官が国有地を極端な廉価で売却したことを背任とする被疑事実については、検察の不起訴処分は「不当」として、再度捜査を徹底せよと指摘されている。首相夫妻が絡んでの、不当廉売である。徹底して捜査し、公開の法廷で黒白をつけるべきが真っ当な国のありかたである。それこそが、首相夫妻関与の疑惑解明への第一歩である。

なお、佐川宣壽は「証拠隠滅」での告発については、「不起訴相当」となったが、別のグループの「公用文書毀棄」での告発を不起訴不当とした。

また、被疑者美並義人(近畿財務局長)に対する背任が不起訴相当となったのは、局長として形式的には問題の国有地売買の責任者だが、前任局長の時代に手続は進行しており実質においては関与していないからだという。

なお、本件に関して、醍醐さんと私との連名で下記のコメントを発表した。

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平成30年大阪第一検察審査会審査事件(申立)第13号
審査申立人 代表  醍醐 聰
代理人弁護士    澤藤統一郎

1.私どもが審査申立をした池田靖氏に対する背任の嫌疑について、相当に踏み込んだ理由を添えて「不起訴不当」を議決された大阪第一検察審査会(以下、「第一検審」と略す)の審査員各位の見識に敬意を表したい。

2.「起訴相当」の議決に至らなかったのは残念ではあるが、池田靖氏の背任罪をめぐる判断において、第一検審が、「前記業者の見積内容ほどの工事が必要か否かの検証がなされていない」と指摘し、大阪地検に対して「さらに調査を尽くすべき」とした点は、私たち申立人が、判例等を添えて、言われるところの本件地中埋設物は工事の支障になる瑕疵には全く当たらないと指摘したことにも通じると考えられる。
この点について、大阪地検が第一検審の指摘を重く受け止め、ゼロから捜査を尽くすよう、強く要求する。

3.さらに第一検審は池田靖氏の背任の背景に政治家らからの働きかけの影響についてもさらに捜査を尽くすよう大阪地検に求めたことは重要な意味を持つ。
私たち申立人も池田氏個人の背任を問うことで事件の真相が解明されたとは考えておらず、全容解明の端緒という位置づけで池田氏の背任罪を告発したものである。
したがって、この点についても、私たちは大阪地検が第一検審の指摘を重く受け止め、徹底した捜査を尽くすよう、強く要求する。

以上

(2019年3月29日)

訴訟大詰めの反訴原告本人陳述書 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第151弾

「DHCスラップ・反撃訴訟」の一審が大詰めである。

☆次回の法廷は、4月19日(金)午後1時30分?
 東京地裁415号法廷。

☆証拠調べの順序
 最初に反訴原告本人(澤藤)の尋問
  主尋問30分 反対尋問30分。

 次に、証人のUさん(DHC総務部長)。
  主尋問20分 反対尋問30分。

 その次に、反訴被告本人(吉田嘉明)
  主尋問30分 反対尋問30分。

但し、吉田嘉明は裁判所から出廷の呼出を受けながら、出たくないと言っている。

裁判所は、審理に必要だからとして出廷を命じているのだ。拒否すべき正当な理由のない限り、出廷して尋問を受けることは吉田嘉明の義務である。そして今、吉田嘉明は出廷しない理由を示し得ていない。吉田嘉明も、代理人弁護士もまったく真摯さに欠ける訴訟追行の態度と指摘せざるを得ない。

ところで、尋問を受ける者は陳述書を提出する慣行が定着している。限りある尋問時間では述べ切れない言い分も言える。反対尋問者に不意打ちをさせないという配慮もある。私も、近々陳述書を提出の予定でドラフトを起案している。提出版としては未確定だが、目次と前書きの部分だけをアップしてお目に掛けておきたい。ぜひ、当日法廷傍聴をお願いする。

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平成29年(ワ)第38149号損害賠償請求反訴事件
反訴原告 澤藤統一郎
反訴被告 吉田嘉明,株式会社ディーエイチシー

????????????????????????????????????????????????????? 2019年4月某日

?反 訴 原 告 本 人 陳 述 書

東京地方裁判所民事第1部合議係御中

??????????????????????????????????????????? 反訴原告本人  澤 藤 統一郎

目   次

 はじめにー本陳述書作成の目的と概要
 1 私の経歴
 2 ブログ「憲法日記」について
 3 「本件各ブログ記事」執筆の動機
 4 言論の自由についての私の基本的な理解と本件各ブログ
 5 「本件ブログ記事」の内容その1ー政治とカネの関わりの視点
 6 「本件ブログ記事」の内容その2ー規制緩和と消費者問題の視点
 7 「本件ブログ記事」の内容その3ースラップ訴訟批判の視点
 8 DHC・吉田嘉明の「前訴提起」の目的とその違法
 9 前訴における請求拡張の経緯とその異常
 10 DHC・吉田の関連スラップ訴訟10件
 11 本件スラップ提訴は「裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く」
 12 本件反訴提起の動機と意味
 13 損害について
 14 反訴被告の応訴姿勢について
 おわりにー本件判決が持つであろう意味

はじめにー本陳述書作成の目的と概要
本年4月19日予定の証拠調べ期日における本人尋問に先だって、反訴原告本人としての言い分を本陳述書にまとめて提出いたします。
2014年5月、私は突然に東京地裁から訴状の特別送達を受け、民事訴訟の被告とされたことを知りました。否応なく、応訴を余儀なくされる立場となったのです。
私を訴えた原告は、吉田嘉明と、同人がオーナーとなっている株式会社ディーエイチシー(以下、DHCと言います)の両名です。両名の主張は、「私(澤藤)のインターネット上の3件のブログ記事がDHCと吉田嘉明の名誉を毀損しているので、そのブログ記事の抹消と謝罪文掲載を求める。また、慰謝料2000万円を支払え」というものでした。
なお、この2000万円の賠償請求額は、わずか3か月後の同年8月に請求拡張されて6000万円に増額されています。
当然のことながら、6000万円もの巨額請求民事訴訟の被告とされた私は、心穏やかではいられませんでした。私が被告の立場にあったのは、2014年4月提訴から2016年10月最高裁の上告受理申立不受理決定で請求棄却が確定するまでの約2年半のことです。心穏やかならざる状態はこの間ずっと続きました。DHC・吉田嘉明の提訴を不当なもので請求棄却は確信しつつも、いやむしろ不当な提訴と確信するからこそ、この上なく不愉快で心穏やかでない気持を払拭できなかったのです。毎日、起床から就寝まで、常に自分が6000万円を請求されている被告の身であることを忘れることができない日常生活でした。
どんな提訴に対しても、応訴には時間も労力も費用もかかるものです。不当な提訴が、被告とされる者にいかに大きな有形無形の負担を強いるものであるか、心理的な打撃を与えるものであるかを、身に沁みて実感しました。
民事訴訟の提起が、かくも人を威嚇するに十分な効果をもつものであることを体験的に知りました。訴状はもっともらしく弁護士が訴訟代理人となって作成されます。その訴状が、裁判所から発送されるのです。被告とされた立場で、訴状を受け取る人に、大きな衝撃となることは、考えてれば当然なことです。
また私は弁護士としてこれまで名誉毀損訴訟の被告事件を相当数受任してきた経験がありますから、日本の訴訟実務が、被告の側に違法性阻却のための過重な負担を押しつけるものであると認識しています。被告にされることは、たいへんに面倒なことなのです。
このような不当提訴で、被告とされた私に多大な迷惑を掛けておいて、敗訴が確定した今も、DHCも吉田嘉明も代理人である今村憲弁護士も、私に何の謝罪の表明もありません。
理不尽極まる民事訴訟に2年半も付き合わされた私は、この不条理な事態をもたらした人物たちに寛容な態度で接することは到底できません。半ばは私憤で、そして半ばは公憤として、DHCにも吉田嘉明にも、そして代理人となった弁護士にも、真摯な反省と、同様の非違行為を再発することのないよう防止のための適切な制裁措置が必要だと考えています。この反訴請求事件は、その意味での適切な制裁にほかなりません。
どう考えても、私に違法と判断される行為があったはずはありません。私は、憲法上の基本権として保障されている「言論の自由」を行使したに過ぎないのです。いや、権利を行使したというよりは、むしろ民主主義社会の主権者のひとりとして、社会に有益で有用な言論を発信したのだと確信しています。提訴され被告とされて、有形無形の負担を強いられる筋合いはありません。私の言論ではなく、正当な私の言論を妨害する動機をもってなされたDHC・吉田嘉明の提訴こそが、違法なのです。
DHC・吉田嘉明は、結果的に敗訴したというものではありません。普通の感覚をもって考えれば、けっして勝訴できるはずもない提訴であり、普通の弁護士に相談すれば勝ち目のないことは分かりきった訴訟なのです。それでも、敗訴を覚悟で敢えて提訴したのは、勝訴による権利回復を目的とした訴訟ではなく、高額請求訴訟の提起自体が持つ威嚇力によって、私(澤藤)の言論を封殺することを意図してのこととし考えられません。
その訴訟(DHC・吉田嘉明が私を訴えた訴訟、以下「前訴」といいます)で問題とされた私の言論は、吉田嘉明が政治家に8億円もの裏金を提供したことに関連して、政治とカネにまつわる民主主義政治過程攪乱への批判であり、消費者利益が危うくなっていることに関しての社会への警鐘の言論です。そして、請求拡張の請求原因においては、前訴をスラップ訴訟として訴権の濫用をもってする言論封殺行為への批判でした。「民主主義の政治過程をカネの力で攪乱してはならない」「行政は消費者利益を擁護しなければならない」「表現の自由は最大限の尊重を要する」という自明の大原則に照らして、厳しく批判されるべきは、反訴被告吉田嘉明やその代理人弁護士の不当な行為であって、私の言論はこれに対する適切な批判と警告の言論にほかなりません。
この点についての私の確信の根拠を裁判官の皆さまに、十分にご理解をいただきたく、以下のとおり意見を申し述べます。
なお、もう一点お願いしておきたいことがあります。
DHCと吉田嘉明が名誉毀損となるとした、6000万円の損害賠償の根拠とされた私のブログは5件に及びます。訴訟提起以前のブログが3件、訴訟提起後にこの訴訟を違法なスラップだと論評したものが2件です。
裁判官の皆様には、ご面倒でもこの5件のブログ全体をお読みいただきたいのです。前訴の訴状では、ずたずたに細切れにされたものとなっていますが、くれぐれも、DHC・吉田嘉明が恣にした細切れのバラバラな文章の印象で、前訴提起の違法の有無を判断することのないようにお願いしたいのです。
まずはDHC・吉田嘉明が違法と非難する5本の各ブログの文章全体を、私が書いたとおりの文章としてよくお読みいただくようにお願いいたします。文章全体をお読みいただくことで、常識的な理性と感性からは、各記事が、いずれも非難すべきところのない政治的言論であることをご理解いただけるものと確信しています。(以下略)

(2019年3月28日)

「敵の敵は味方」なのか、そうではないのか。

春。暖かい風が心地よい。しかも、この上ない好天。早朝、不忍池をめぐる。万物が蘇生している。花は紅柳は緑だ。上野の桜は五分咲きというところか。

1963年ちょうど今頃の春の盛りに、私は目黒区駒場にある学生寮の住人となった。北寮と名付けられた棟の3階の壁のペンキの匂いを今も覚えている。完全自治制のその寮の6人定員の各部屋は、部活動の単位で割り当てられていた。私が所属したのは中国研究会。略して「中研」だった。東西対立の厳しい時代、西側陣営には英国以外に新中国を承認する国のなかった当時のことだが、社会主義革命をなし遂げた中国に関心もあり、ここに明るい未来があるように見てもいた。

私は熱心な会のメンバーではなかったが、一通りは中国の近代史を学んだ。そのなかで興味をそそられたのは、国共合作である。誰かがこう言った。「抗争の相手と手を結んで間違わない、中国共産党の戦略と判断力はすごい」「いや、誰が考えても当時はそうするしか選択の余地がなかっんだろう」。さて、どうなんだろうか。

また、誰かが言った。「敵の敵は味方なんだ。そう考えなければ、味方はやせ細るばかり。国民党だって味方と考えなければ、大きな力にはなれない」。うん、そうかも知れない。「いや、敵の敵は味方なんて言っていると、敵と味方の境界が分からなくなる。何のために闘っているのかぼやけてしまわないか」。なるほど、そうなのかも知れない。

私には戦略・戦術の是非はよく分からなかったが、第2次国共合作においては、日本という侵略者が主たる敵であることが明らかで、国民党も共産党もこの主敵と闘うためには協力せざるを得ない歴史的状況があった。その少し前にはフランスで、反ファシズム、反帝国主義、反戦を統一スローガンとして掲げる人民戦線政府が誕生している。

敵の敵は味方というテーゼの一般化は難しい。先日、本郷三丁目で「NHKから国民を守る党」を名乗る人物が旗を立てビラを配っていた。この政党は、明らかに「NHK」を敵としている。私も、NHKを敵とみる立場。では、「NHKから国民を守る党」は、敵の敵として私の味方か。どうもそうではなさそうだ。この政党とお友達とみられたくはない。

このワンイシュー政党、どう見ても胡散くさい。この党の党首は、立花孝志という人物。この人のホームページを見ると、「私はNHKから被害を受けている視聴者・国民を全力で、命がけで、お守り致します」と威勢がよい。その具体的に被害の内容は3類型あるというが、なかなか理解が難しい。
?経済的被害者【受信料支払い者 約50%】
 支払い者【不払い者の分まで支払わされている】
?精神的被害者【受信料不払い者 約50%】
 24時間体制でやって来るNHK集金人【反社会勢力関係者も多数在籍】からの脅迫行為や裁判の被告になってしまうかも?という不安による精神的被害

たった一つよく分かるののは、「?情報的被害者」なる類型の中の、「反日的な報道をされている」という一項目。立花らの立ち位置から見ると、NHKの報道姿勢は「反日」であり、「左に偏向している」ことで、国民に被害を与えている。このNHKの反日・偏向報道被害から国民を全力で守るというのだ。これには驚ろかざるを得ない。

NHKの報道姿勢は、その総体的傾向において政権ベッタリ、対米追随、皇室礼賛というほかはない。その権力批判を忘れさったNHKを、「反日」「偏向」というのがこの政党。「敵の敵」ではあるか、こんな政党を味方と見るわけにはいかない。

また、大阪府・大阪市を牛耳っている大阪維新。私は、維新を民主主義に危険な敵と見続けてきた。ところが今、維新を敵とする主たる勢力は自民である。いうまでもなく、自民党も、私にとっての敵である。改憲を目論む勢力として敵リストの筆頭に位置する。

敵の敵は味方」という公式は、「維新と敵対している自民は味方」とも、「自民と敵対している維新は味方」とも言いうる。さて、今行われているクロス選挙戦どう対応すべきか。

「敵の敵は味方」という一般論は、実は何の指針にもならない。そのときどきで、何が主要なテーマであるかを考え、各勢力の力関係に鑑みて、方針を決するしかない。大阪では、知事・市長を押さえて、大阪都構想を打ち出している維新が主敵。自民大阪と組んでも、維新を倒さねばならない。この判断においては、一般論的公式はなんの役にも立たない。

思えば戦国の昔、七雄は合従連衡を繰り返した。各国の目的は、自国の安泰・他国の併呑という単純さだったが、誰が味方かは、情勢次第で複雑に変化した。

今、改憲阻止が最大の政治課題であり獲得目標である。明文改憲阻止は、現実的に可能な課題であり、万が一にも明文改憲を許すと、取り返しのつかないことになる。そのためには、アベ改憲推進勢力の敵はすべて味方とするしかない。

9条改憲を推し進めようとする者が敵、これを阻止する者が味方。改憲を阻止するためには、味方を増やして敵を孤立させるしか方法はない。ここでは、「敵の敵はすべて味方」だ。国共合作もよし、統一戦線でも人民戦線でもまたよし。肝要なのは、「安倍政権下での改憲阻止」の一点で結集した味方を増やすことに専念するすることだ。

こうして、改憲勢力を孤立させ、7月参院選で改憲勢力から議席を奪うことができれば、しずかな心で、来年の桜を観ることができるだろう。
(2019年3月27日)

新東京五輪返上音頭

あの噂って、ホントかな?
いったい、何の話?

オリンピックの五輪のマーク。あの5色を、東京五輪が終わるまでは、全部金色にするんだって。
なるほど、金まみれオリンピックの開き直りってことか。

それだけでなくてね、金メダルと言わずに、カネメダルということにするんだって。
さだめし、銀メダルは銀貨メダル、銅メダルは銅貨メダルってことか。

それから、新東京五輪音頭って知ってる? こんなのらしいよ。
  ハァ?
  コントロールとブロックと
  2億のワイロでせしめた五輪
  おかげで みやこは 建設ラッシュ
  ほとぼり冷めたら また儲けましょと
  固い思いは 夢じゃない
  ヨイショコリャ 夢じゃない
  オリンピックは カネまみれ
  ソレトトント トトント カネとカネ
そいつはいいや。ピッタリじゃん。東京五輪は儲けのタネだものね。

アベ政権って、たまたまの景気でもっているよね。オリンピックの公共事業のおかげもあるんじゃない。
アベさんは、「2020年オリンピックの年を改正憲法施行の年に」なんて、改憲の道具にも使っているよ。

ほら、愚民には「パンとサーカス」って言うでしょう。いまなら、株とオリンピックというところね。
政府が操作した株価と、カネにまみれたオリンピック。今の日本にふさわしいのかもね。

成熟した都市は、どこもオリンピック招致には反対だというね。
リオと東京が、ワイロまで出して招致したわけだ。

JOC会長の竹田恒和って人、フランスの司法当局から取り調べを受けてるんだって。被疑者なの?
贈賄の疑いで予審判事の調査を受けているという報道だけど、制度が違うんで分かりにくいね。

何のカネかはともかく、竹田会長の責任で2億2000万円をシンガポールの怪しげな会社に支払ったことは間違いないのね。
そのカネは、IOCの委員の息子に渡ったようだ。その父親の委員が当時、開催地の決定に影響力を行使できる立場にあったんだって。だから、そのカネの支払いは賄賂にあたると見られているようだね。

2億2000万円。ワイロかコンサル料かはともかく、そんなのは、はした金なんだ。
東京五輪の総費用、当初は7000億といわれていたけど、今や3兆円を超すというものね。2億2000万円なんて、こまかいはなし。

放射線も予算も偽装での招致ってことね。築地も夏場の暑さも欺された感でいっぱい。ブラックボランティアの問題もあるし、問題ばかりね。
欺しといえば、「復興五輪」のスローガン。三陸の津波被害の現地では、土木作業者をオリンピックにとられて、「復興妨害五輪」と言ってるよ。

それよりも、オリンピックを国威発揚に利用したり、ナショナリズムを煽る舞台とするのが、気持ち悪い。
オリンピック憲章には結構よいこと書いてあるけど、現実には、金まみれ、政権の思惑まみれ。

今から、東京五輪返上ってわけには行かないかしらね。
  オリンピック返上の
  固い思いは 夢じゃない
  ヨイショコリャ 夢じゃない
  オリンピックは もうよそう
  ソレトトント トトント さようなら
(2019年3月26日)

「あたらしい憲法のはなし 第7章 基本的人権」を読む。

日本国憲法は1947年5月3日に施行された。その年の8月、文部省は新憲法の解説書をつくっている。よく知られた「あたらしい憲法のはなし」である。新制中学校1年生用社会科の教科書として発行されたもの。1947年8月2日文部省検査済とされている。

ときに革新の側から礼賛の対象とされてきた「あたらしい憲法のはなし」だが、今読み直して、その内容は時代の制約を受けたものと言わざるを得ない。とりわけ、天皇に関する解説は、萎縮して何を言っているのか分からない。こんなものを戦後民主主義の申し子のごとく、褒めそやしてはならない。

15章からなるもので、これまでいくつかの章を論評してきた。今回は、「新しい憲法の話 第7章 基本的人権」を読む。この章はやや長い。そして、「天皇」の章のような問題は少なく、もちろん、評価すべき点も多々ある。しかし、人権の擁護、あるいは個人の人格の尊厳こそが憲法の至高の価値であって、その価値の体現のために憲法が編まれているという基本視点が希薄で、迫力に欠けるところが惜しまれる。

 くうしゅうでやけたところへ行ってごらんなさい。やけたゞれた土から、もう草が青々とはえています。みんな生き/?としげっています。草でさえも、力強く生きてゆくのです。ましてやみなさんは人間です。生きてゆく力があるはずです。天からさずかったしぜんの力があるのです。この力によって、人間が世の中に生きてゆくことを、だれもさまたげてはなりません。しかし人間は、草木とちがって、たゞ生きてゆくというだけではなく、人間らしい生活をしてゆかなければなりません。この人間らしい生活には、必要なものが二つあります。それは「自由」ということと、「平等」ということです。

人権解説の導入が、空襲被害の跡地から始められていることが示唆的である。期せずして、「新憲法」制定の時代背景を物語っている。あらためて思う。憲法は悲惨な国民の戦争体験から、焼け跡に生まれたのだ。

焼け跡の草の生命力は、天賦人権論を意識してのことなのだろう。ここから説き起こして、「人間の生存をだれもさまたげてはなりません。」とした上、自由と平等を説いている。その語り口に特に異論はない。

 人間がこの世に生きてゆくからには、じぶんのすきな所に住み、じぶんのすきな所に行き、じぶんの思うことをいい、じぶんのすきな教えにしたがってゆけることなどが必要です。これらのことが人間の自由であって、この自由は、けっして奪われてはなりません。また、國の力でこの自由を取りあげ、やたらに刑罰を加えたりしてはなりません。そこで憲法は、この自由は、けっして侵すことのできないものであることをきめているのです。

自由の説明なのだが、やや物足りない。憲法が、個人の自由と国家権力との対抗関係を基軸として構成されていることの認識が、筆者に希薄なようである。そこが叙述に迫力を欠く根源となっている。

 またわれわれは、人間である以上はみな同じです。人間の上に、もっとえらい人間があるはずはなく、人間の下に、もっといやしい人間があるわけはありません。男が女よりもすぐれ、女が男よりもおとっているということもありません。みな同じ人間であるならば、この世に生きてゆくのに、差別を受ける理由はないのです。差別のないことを「平等」といいます。そこで憲法は、自由といっしょに、この平等ということをきめているのです。

平等という理念の解説である。「人間である以上はみな同じ」「人間の上に、もっとえらい人間があるはずはなく」「男が女よりもすぐれているということもありません。」と言う。中学1年生の読み手なら、これを読んで「天皇はどうなの?」と疑問をもつに違いない。

「天皇は戦争前は神さまだったけど、戦争に負けた後人間宣言をしたはずでしょう」「天皇だって人間だから、人間の上のもっとえらい人間であるはずはないよね」「でもどうして、天皇は国民と平等でないの?」と思うのが当たり前。この教科書は、その当然の疑問にまったく答えようとしていない。

 國の規則の上で、何かはっきりとできることがみとめられていることを、「権利」といいます。自由と平等とがはっきりみとめられ、これを侵されないとするならば、この自由と平等とは、みなさんの権利です。これを「自由権」というのです。しかもこれは人間のいちばん大事な権利です。このいちばん大事な人間の権利のことを「基本的人権」といいます。あたらしい憲法は、この基本的人権を、侵すことのできない永久に與えられた権利として記しているのです。これを基本的人権を「保障する」というのです。

この叙述のわかりにくさ物足りなさは、人権が国家に対する権利であることが明記されていないところにある。人権を「保障する」とは、主権者国民の宣言として、国家に人権侵害をしてはならないと命令しているのである。国家性悪説からの立論をカムフラージュしようとする筆致が、ことがらの本質をぼやかしている。

 しかし基本的人権は、こゝにいった自由権だけではありません。まだほかに二つあります。自由権だけで、人間の國の中での生活がすむものではありません。たとえばみなさんは、勉強をしてよい國民にならなければなりません。國はみなさんに勉強をさせるようにしなければなりません。そこでみなさんは、教育を受ける権利を憲法で與えられているのです。この場合はみなさんのほうから、國にたいして、教育をしてもらうことを請求できるのです。これも大事な基本的人権ですが、これを「請求権」というのです。爭いごとのおこったとき、國の裁判所で、公平にさばいてもらうのも、裁判を請求する権利といって、基本的人権ですが、これも請求権であります。
 それからまた、國民が、國を治めることにいろ/?関係できるのも、大事な基本的人権ですが、これを「参政権」といいます。國会の議員や知事や市町村長などを選挙したり、じぶんがそういうものになったり、國や地方の大事なことについて投票したりすることは、みな参政権です。

人権の分類を「自由権」「請求権」「参政権」と三分しているようだが、その分類の当否は問題ではない。しかし、なぜきちんと社会権の具体的内容にまで言及しないのだろうか。25条の生存権、28条の団結権などは、新しい世代の主権者に特に知ってもらう必要があるだろう。文部省は、労働者の団結権や争議権、経済弱者の生存権などは教えたくなかったのだろうか。

 みなさん、いままで申しました基本的人権は大事なことですから、もういちど復習いたしましょう。みなさんは、憲法で基本的人権というりっぱな強い権利を與えられました。この権利は、三つに分かれます。第一は自由権です。第二は請求権です。第三は参政権です。

「みなさんは、憲法で基本的人権というりっぱな強い権利を與えられました。」という表現が引っかかる。人権は、あるいは個人の尊厳は、けっして憲法が創設したものではない。この教科書の著者は、「みなさんにりっぱな強い権利を与えた」のは誰だと考えているのだろう。まさか、「国家」ではあるまい。もしかしたら、前主権者である「天皇」からか? いくらなんでもそれはない。また、「憲法」でもないだろう。結局は、憲法を制定した「主権者国民」とならざるえない。しかし、国民が国民から「基本的人権というりっぱな強い権利を與えられました」という言い回しは不自然ではないか。人権は、前憲法的な自然権的存在として想定されなければならない。

 こんなりっぱな権利を與えられましたからには、みなさんは、じぶんでしっかりとこれを守って、失わないようにしてゆかなければなりません。しかしまた、むやみにこれをふりまわして、ほかの人に迷惑をかけてはいけません。ほかの人も、みなさんと同じ権利をもっていることを、わすれてはなりません。國ぜんたいの幸福になるよう、この大事な基本的人権を守ってゆく責任があると、憲法に書いてあります。

この説教口調がいただけない。おそらくこの著者には、人権なるものが、憲法制定と同時に、どこかから国民に与えられた、という意識があるのだと思われる。これが時代の制約であり、当時の教科書としてやむを得ない内容だったのだろう。

中江兆民の「三酔人経綸問答」に、「恢復の民権」と「恩賜の民権」という言葉が出て来る。「勝ち取った人権」と「与えられた人権」と、翻訳して大きな間違いはないものと思う。

この文部省の教科書の著者にとっては、目の眩むがごとき「新憲法」の人権保障条項は、「勝ち取った人権」との認識ではなかったのだろう。「与えられた人権」としての遠慮がその叙述にあらわれている。

いま、主権者である国民が人権を語ることには、誰にも何の遠慮も要らない。とりわけ、国家権力やそれを担う者にも、そしていうまでもなく、天皇や皇室にも。
(2019年3月24日)

第五福竜丸展示館4月2日リニューアルオープン

歴史の証人である被爆船第五福竜丸は、東京都江東区夢の島公園の展示館で、多くのことを語り続けている。展示館の老朽化に伴う改修工事が順調に進展して、4月2日(火)に展示を一新してリニューアルオープンの運びとなる。ぜひ、また夢の島まで足を運んで、ボランティアガイドの説明にも、船体自身のつぶやきにも耳を傾けていただきたい。

 この展示館には、木造のマグロ漁船「第五福竜丸」およびその付属品や関係資料を展示しています。「第五福竜丸」は、1954年3月1日に太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被害を受けました。木造漁船での近海漁業は現在も行われていますが、当時はこのような木造船で遠くの海まで魚を求めて行ったのです。
 「第五福竜丸」は、1947年に和歌山県で建造され、初めはカツオ漁船として活躍し、後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業に出ていました。水爆実験での被爆後は、練習船に改造されて東京水産大学で使われていましたが、1967年に廃船になったものです。
 東京都は、遠洋漁業に出ていた木造漁船を実物によって知っていただくとともに、原水爆による惨事がふたたび起こらないようにという願いをこめて、この展示館を建設しました。 <東京都 1976年6月10日開館>

長期にわたる展示館建物改修工事は無事、予定通り終了し、4月2日よりリニューアルオープンを迎える見込みです。
(4月1日は月曜日で休館ですので、お間違えの無いようご注意ください。)
http://www.d5f.org/news/90.html

また、第五福竜丸展示館のある夢の島公園は2020年に開催予定のオリンピック・パラリンピックのため、各所で工事が行われています。ご来館時の工事個所等については展示館までお問い合わせください。

団体見学についてのご案内
http://d5f.org/dantai.html
第五福竜丸展示館では団体見学を受け付けております。
サークル、ゼミなどの団体見学や小、中、高など学校の修学旅行なども多く受け 入れております。周囲は芝生が茂るキレイな公園で、アクセスも良好で大型バス 駐車場などもご用意しております。
ご来館の際には、当館のボランティアスタッフ、学芸員によるガイド(簡単なご 説明、展示紹介、質疑応答など)も行っております。

団体見学概要
ボランティアガイド、学芸員により展示解説20~30分・展示物の見学30分 あわせて凡そ50~60分程度が通常見学時間です。
※場合、混雑により時間調整を行います。必ず事前でのご連絡が必要です。

ご希望の方はTELまたはFAXにてご連絡を下さい。
東京都立第五福竜丸展示館
東京都江東区夢の島2丁目1-1 夢の島公園内
TEL:03-3521-8494 FAX:03-3521-2900

当館の新しいパンフレット(PDF版)のダウンロードはこちら
http://d5f.org/pamphlet.pdf

なお、ありがたいことに、第五福竜丸展示館4月2日リニューアルオープンは、メディアでも話題となっている。

東京新聞3月18日 夕刊
福竜丸展示館 来月新装オープン 船内の3D映像視聴可に

 米国によるビキニ環礁水爆実験で一九五四年に被ばくしたマグロ漁船「第五福竜丸」を保存する東京都立第五福竜丸展示館(江東区)で、四月の新装オープンに向けた準備が大詰めを迎えている。建物の老朽部分を改修し、船内の3D映像を視聴できるスペースなどを新たに設置。高齢で亡くなる元乗組員も多い中で、被ばくの影響や証言の継承に取り組む。
 「屋根の雨漏りがなくなった。これで船も傷まない」。三月上旬、全長約三十メートルの福竜丸で甲板に職員らが上り、手すりや操舵(そうだ)室にたまったほこりを丁寧に拭き取った。
 七十年以上前に建造された船体はペンキがはげ、傾きもある。安全や保存の観点から普段は船内に立ち入ることはできない。展示館は今年で開館四十三年。地盤沈下で床はへこみ、天井からは雨水が漏れ出していた。昨年七月から休館し、断熱材の張り替えや照明の改良も含め改修を進めた。
 3D映像は、機関室や魚の保存倉庫などをさまざまな角度から撮影して製作。約八分間で、船内を歩いている感覚を味わえるような構成にした。他に元乗組員の証言映像も公開。外国人客への対応として、英語の説明パネルも設置した。
 第五福竜丸は五四年三月、太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験に巻き込まれ乗組員二十三人が被ばく。廃船後に東京・夢の島の海岸に放置されたが市民の要望を受け都が保存を決めた。重さが約百四十トンあったため周囲を埋め立てて陸揚げし、少しずつ移動させ館内に搬入した。
 元乗組員は、今年二月に見崎(みさき)進さんが九十二歳で亡くなり生存者は四人になった。展示館の新装オープンは四月二日で、学芸員の蓮沼佑助さん(28)は「水爆の被害や乗組員の苦労を知ってほしい」と話している。

赤旗3月24日「きょうの潮流」

 2020年の東京オリンピック施設整備で突貫工事が続く夢の島公園。同公園内にある都立・第五福竜丸展示館も4月2日のリニューアルオープンに向けて、大規模改修中です▼第五福竜丸はアメリカが1954年水爆実験を強行した太平洋ビキニ環礁まで航海し、被ばくした木造マグロ船の一つです。原水爆禁止を願う運動で保存され、1976年に開館。築43年、激しくなった屋根からの雨漏りを防ぐ工事などを済ませました。ビキニ被ばく65年の節目に第五福竜丸を守る“シェルター”として生まれ変わります▼傷みが目立つ第五福竜丸本体の改修も急がれます。戦争直後の1947年建造。1985年に大改修しました。当時、「木造の大型船が残されていること自体が貴重。文化財保護の理念での改修を」との専門家の助言を受け、同じ材質で、同じ工法で、1年3カ月かけました▼今回新たに「立体画像(3D映像)で歩く船内」や元乗組員・大石又七さんの証言映像、英文案内も加わります▼学芸員の安田和也さんは「展示館は、産業文化遺産と同時に平和遺産です。核兵器の廃絶を願い、第五福竜丸を知らない世代にむけて核の問題を発信し続けたい」と▼2020年は、核実験した核保有大国と核兵器禁止条約に賛成する諸国政府が議論を交わす場になる、NPT(核不拡散条約)再検討会議が国連本部で開かれる年でもあります。展示館は原爆ドームとともに、日本を訪れる世界の人たちに一度は見学してほしい平和の拠点です。

(2019年3月24日)

「真摯に沖縄に寄り添う」と言いつつ県民の抗議を排除して大浦湾埋立を強行する、この政権を何と形容すべきだろうか。

日本語という言語世界の豊穣さを表すものに枕詞というものがある。もっとも、ギリシャ神話にも、すね当てよろしきアカイア人、全知全能のゼウスなど、よく似た形容詞・形容句がいくつも出てくるから、枕詞を日本語特有のものとするのは、井の中の蛙のたわ言なのかも知れない。

昔は、類型化してものを見ることを強いるつまらぬものと思っていたが、他者とのイメージ共有化の手段として、便利なものと考えを変えている。節度なく転向したのだ。

あかねさす日、あらたまの年、ちはやぶる神代、ぬばたまの闇、うつせみの命、たらちねの母、ひさかたの光、あしひきの山、くさまくら旅、あまざかる鄙…などの類が典型的なものだが、固有名詞にも枕詞はつく。圧倒的に多くは地名であるが、人名につく枕詞もあるそうだ。

そらみつ大和
八雲立つ出雲
飛ぶ鳥の明日香
玉藻よし讃岐
不知火筑紫
隠りくの泊瀬
神垣の三室
神風の伊勢
押し照る難波
青丹よし奈良
雨隠り三笠
秋津洲大和
百伝ふ磐余
まだすき畝傍
鶏鳴く吾妻
細波の志賀
などなど。

いずれも、「あの」「ほら、例の」という、話者と聴き手の共通のイメージを呼び起こす効果をもっている。語りかけるときの、この効果は貴重なものだ。

そして、日本語の豊穣は、悪態・罵倒語にもあらわれている。詩人川崎洋が「かがやく日本語の悪態」という好著を出している。 日本人は、悪態・罵倒語の豊穣にも恵まれている。

そこで、安倍政権に枕詞を奉ろうと思う。もちろん、悪態の枕詞。誰もが安倍政権を話題にする際に、話者と聴き手の共通のイメージを呼び起こす適切な形容詞としてのもの。歌に読み込もうというものではないから、5音ないし4音である必要はない。もっと長い形容詞句でも良い。

これまで、人口に膾炙するものとしての筆頭は、
ウソとごまかしの安倍政権」だろう。
あるいは、「偽造・捏造・隠蔽・改竄の安倍政権」
そのほかにも、
忖度跋扈の安倍政権」
トモダチ優遇アベ政権」
政治私物化の安倍政権」
説明しません安倍政権」
審議打ち切り安倍政権」
歴史歪曲の安倍政権」
反省無縁の安倍政権」
憲法嫌いなアベ政権」
改憲ゴリ押し安倍政権」
原発大好きアベ政権」
格差拡大安倍政権」
暴走止まらぬ安倍政権」
軍隊大好き安倍政権」
トランプ追随安倍政権」
ポチさながらの安倍政権」
統計偽造の安倍政権」
国民なめてる安倍政権」
森羅万象支配の安倍政権」
万事閣議決定の安倍政権」
立法府長のつもりの安倍晋三」

欺瞞とデタラメのオンパレード。東京五輪もこの手のウソで招致した。要するに汚いのだ。これでどうして政権が持っているのかが、現代の不思議。

しかし、今は、このレベルではおさまらない。
「沖縄県民に寄り添う」「真摯に県民世論に耳を傾ける」と口では神妙なフリをして、沖縄県知事との協議継続を拒否したアベ晋三。「断固として沖縄に敵対し、大浦湾の美ら海に赤土を投入して埋立を強行する」「週明け25日にも、新たな海域に土砂搬入する」と明言している。この安倍政権をどう形容すれば良いのだろうか。

「嘘つき内閣」「恥知らず内閣」「民意無視内閣」「県民敵視内閣」「性悪内閣」「破廉恥内閣」「悪辣内閣」いや、「極悪非道の安倍政権」と言ってしかるべきではないか。

  うそつきのしんぞうのしたはぬかれたり にまいさんまいこれでおしまい

  うそつきはあべのはじめといましめよ あべになるまいうそつくなゆめ 

(2019年3月23日)

「時はだれのものなのか」 ― 朝日「改元社説」を評価する

当ブログでは、元号・改元問題をたびたび取りあげてきた。既に20回を超えているだろう。いずれも、元号の存在自体を批判し、その使用強制をあってはならないとする内容のもの。元号を、天皇制による民衆の精神生活支配の小道具ととらえ、「元号は不要」「元号は有害」「改元というイベントに踊らされるな」「時代の区切りを天皇の在位と結びつけて考えてはならない」「こんな不便なものは廃絶せよ」「元号使用強制などとんでもない」と主張するものである。
最近の主なものは、下記のとおり。

この際、新元号の制定はやめよう。
https://article9.jp/wordpress/?p=8393
(2017年4月7日)

永年の読者の一人として「赤旗」に要望します。元号併記はおやめいただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=8367
(2017年4月2日)

真正保守・村上正邦が教える「元号存続の意味」。
https://article9.jp/wordpress/?p=9691
(2017年12月30日)

元号に関する朝日社説を駁する。
https://article9.jp/wordpress/?p=8992
(2017年8月8日)

領土・人民だけでなく、天皇が時まで支配する元号制
https://article9.jp/wordpress/?p=8028
(2017年1月25日)

元号 ― ああ、この不便・不合理にして有害なるもの
https://article9.jp/wordpress/?p=10295
(2018年5月1日)

私の元号に関する言説は、突飛なものでも奇矯なものでも、もちろん過激なものでもない。人権原理と民主制を根本原理とするオーソドックスな憲法体系の理解からは、憲法体系の天皇の存在を可及的に小さなものとして取り扱うことが当然であり、天皇制を支える元号否定は、ごく自然な帰結である。

天皇を不可侵の神聖な存在とする一部の右翼や、いまだに國體の存在にこだわるアナクロ派、そしてこれらの連中を使嗾することで権力を維持している現政権には不愉快なのだろうが、それは、人権原理や民主主義への理解の浅薄なことを表白するに過ぎない。かつては、学術会議も元号廃止を提唱していた。

学術会議の「元号廃止 西暦採用について(申入)」決議の紹介
https://article9.jp/wordpress/?p=9609
(2017年12月16日)

ところが、いまメディアがはっきりものを言わない。菊タブーは健在で、天皇制批判はご法度のごとくである。だから、私のブログ程度の穏健な天皇制批判が、目立つようになってしまっている。

メディアの皇室報道は、舌を噛みそうな敬語を並べたてて、まったく見苦しくもあり聞き苦しくもある。「陛下」も「今上」も死語だと思っていたが、いつからか息を吹き返して至るところに跋扈している。そして、「平成最後の」という枕詞のオンパレード。社説も同じ。「国民生活の利便のために新元号の公表を早く」というのが精一杯で、天皇制と結びついた元号そのものの批判をしない。

下記は、地方紙には珍しく右翼的な論調で知られる北國新聞の本年1月1日号社説である。

 社説 「改元の年に 新しい時代に大きな夢を」
 新しい年が明け、平成最後の正月を迎えた。いつもの年の初めと違う特別な空気感があるのは、4カ月後に新天皇の即位と改元という、歴史の大きな節目が待ち受けているからだろう。
 一つの時代が終わる寂しさと惜別の思い。平成30年間のさまざまな出来事が脳裏を駆け巡る。そこに私たち自身の人生が重なり、懐かしい日々と新しい時代への期待が交錯する。

「平成30年間のさまざまな出来事が脳裏を駆け巡る。そこに私たち自身の人生が重な(る)」というのが、まさしく、天皇制と結びついた元号制の狙いそのものである。国民一人ひとりの人生の推移を、天皇の在位で区切ろうというのが、元号制の本質。これを肯定する右派言論に、リベラル派メディアが切り込んでいないことをもどかしく思っていた。

ようやくにして、昨日(3月21日)の朝日社説が、この点に触れたものとなった。 社説のタイトルは、「『改元』を考える 時はだれのものなのか」というもの。「時はだれのものなのか」とは、「天皇のものではない、自分自身のものだ」という含意。天皇の都合で、勝手に「時」を区切らせてはならない、ということなのだが、さすがに朝日。物言いの品が良い。そのようにはっきりとは言わない。

その全文は下記でご覧いただくとして、要約は下記のとおりである。      https://www.asahi.com/articles/DA3S13942702.html?

 もうすぐ新たな元号が発表される。
 朝日新聞を含む多くのメディアは「平成最後」や「平成30年間」といった表現をよく使っている。一つの時代が終わり、新しい時代が始まる、と感じる人も少なくないだろう。
 でも、ちょっと立ち止まって考えてみたい。「平成」といった元号による時の区切りに、どんな意味があるのだろうか。そもそも時とはいったい何なのか。誰かが時代を決める、あるいは、ある歳月に呼び名が付けられることを、どう受け止めればいいのだろうか。
 歴史を振り返れば、多くの権力は、時を「統治の道具」として利用してきた。
 日本の元号も、「皇帝が時を支配する」とした中国の思想に倣ったものである。
 元号には独特なところがある。「改元」という区切りがあるからだ。日本では明治以降、一代の天皇に一つの元号という「一世一元」の仕組みも出来た。天皇が即位することで、起点はその都度、変わる。
 1979年に現在の元号法が成立した際、元海軍兵士の作家、渡辺清は日記に書いた。
?「天皇の死によって時間が区切られる。時間の流れ、つまり日常生活のこまごましたところまで、われわれは天皇の支配下におかれたということになる」(『私の天皇観』)
 時の流れをどう名付け、区切るかは、個々人の自由の営みであり、あるいは世相が生み出す歴史の共有意識でもあろう。
 人生の節目から国や世界の歩みまで、どんな時の刻みを思い描くかは、その時その時の自らの思考や視野の範囲を調整する営みなのかもしれない。
 もちろん元号という日本独自の時の呼び方があってもいい。ただ同時に、多種多様な時の流れを心得る、しなやかで複眼的な思考を大切にしたい。
 時を過ごし、刻む自由はいつも、自分だけのものだから。

 もちろん(というべきだろう)、元号否定ではなく、元号に対する意識の相対化を論じるレベルのものだ。しかし、明らかに半歩の前進である。この論調を評価し歓迎する。
(2019年3月22日)

衆議院沖縄3区補選 革新側候補統一に ー 瑞慶山茂君の出馬撤回を評価する

今年(2019年)は亥年、統一地方選と参院選が重なる「選挙の年」。7月参院選が憲法の命運を決める重大な選挙で、今年の統一地方選は地方選独自の課題だけでなく、参院選の前哨戦としての意味も大きい。その統一地方選の前半戦(4月7日)の告示日が今日となり、いよいよ選挙イヤー始動である。

ところで、同じ重要性をもつ衆議院議員の補選が二つ(大阪12区・沖縄3区)ある。なかでも、玉城デニーの沖縄県知事選挙出馬によって空位となっている衆院沖縄3区補選の成り行きが注目される。4月9日告示で、投開票が1カ月後の4月21日。

前回(17年10月22日)総選挙の開票結果は下記のとおり。
当 玉城デニー 58 無所属    前 95,517票(57.9%)
次 比嘉奈津美 59 自民(公推薦)前 66,527票(40.3%)

今回の補選では、「オール沖縄」がフリージャーナリスト(元・琉球新報記者)の屋良朝博を擁立し、自民党が島尻安伊子(元沖縄担当相)を公認して公明・維新がこれを支える。改憲推進派と護憲派、基地推進勢力と基地反対勢力との一騎打ちとなる見通し、と報道されてきた。

しかし、選挙の争点は、基地問題だけではない。中央政権がチラつかせる経済振興策というエサに対する対応も大きな争点とならざるを得ない。デニー後継の屋良圧勝とは単純にならない。それに、島尻の評判はともかく知名度の高さは大きな武器である。新人屋良の知名度はけっして高くはない。要するに、接戦は必至なのだ。

この情勢で、革新陣営にある弁護士・瑞慶山茂が立候補を表明した。彼は、沖縄戦の民間戦争被害国賠訴訟弁護団長、「南洋戦」被害国賠訴訟弁護団長として知られる。

彼は私と修習同期(23期)。同期というだけでなく、1年4か月の実務修習を、東京の同じ班でともにした。実務修習をともにしただけでなく、カリキュラム外の活動もともにして、お互い信条も心情も理解したと思っていた。彼が革新陣営の弁護士であることに疑問の余地はない。

その彼の突然の立候補表明には、戸惑わざるを得なかった。もちろん、立候補は権利である。彼の立候補が売名であるはずはない。しかし、革新が共同を求められているこの政治状況の中で、革新の票を割る、あるいは「オール沖縄」票を削ることになりはすまいか。という危惧である。やきもきしている内に、昨日(3月20日)午後、メーリングリストに彼の投稿があった。ホッとしている。

23期の皆様へ

衆院沖縄3区補選の件につきまして、本日、屋良朝博氏と政策協定を結びましたので、ご報告いたします。
協定書を添付いたしますので、ご確認下さい。
やむを得ずの出馬表明でしたが、その話はまた改めて。
今後とも宜しくお願いいたします。

その政策協定のなかに、瑞慶山茂は、支援者と自らの思いを屋良朝博に託すことにし、出馬を取りやめ、沖縄基地問題に正面から取り組み、戦争政策に反対し、今回の補欠選挙に出馬の準備を進めている屋良朝博を推して、本補欠選挙に臨み、屋良朝博の必勝に向けて支援する決意をした。」とある。潔さを印象づけた立派な下り方で、筋を通している。

政策協定全文は以下のとおりである。雨降って、地はより強固になったと理解している。
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衆議院沖縄3区補欠選挙に向けた
屋良朝博と瑞慶山茂の政策協定書

衆議院沖縄3区補欠選挙が4月9日告示、同21日投開票で実施される。弁護士・瑞慶山茂は、この間、先の大戦における沖縄戦の民間被害者および旧南洋群島・フィリピン群島などで戦禍に巻き込まれた県出身住民や遺族らに対する国の謝罪と損害賠償を求める国家賠償訴訟の弁護団長として取り組んできた。また、沖縄戦等被害者や全国の空襲被害者と遺族らの救済を国の責任において行う「空襲被害者等援護法案」及び「沖縄戦時行為等被害者等援護特別措置法案」(仮称)の制定をめざして立法活動を行ってきた。
そのため、「沖縄・平和の党」を設立し、今回の補欠選挙に出馬表明を行ったが、このたび、屋良朝博と直接会う機会があり、沖縄の困難な現状と輝かしい未来について虚心坦懐に話し合った。その結果、瑞慶山茂は、屋良朝博の人柄と深い見識に接し、支援者と自らの思いを屋良朝博に託すことにし、出馬を取りやめ、沖縄基地問題に正面から取り組み、戦争政策に反対し、今回の補欠選挙に出馬の準備を進めている屋良朝博を推して、本補欠選挙に臨み、屋良朝博の必勝に向けて支援する決意をした。
ついては、弁護士・瑞慶山茂とフリーランスライター・屋良朝博は、次のような認識を共有し、本補欠選挙に向けて、未補償のまま放置されている数多くの民間戦災者の救済措置等の実現に係る重点政策に合意するものである。

重点政策

先の大戦から74年になるが、旧軍人・軍属には総額60兆円の援護がなされている一方、多くの方々が戦災者として今なお、身体的精神的障害や後遺症に苦しみ、ご遺族への弔慰もない状況が続いている。そんな中、従来の空襲訴訟において司法は「立法を通じて解決すべきだ」との判断を下し、また、ドイツやフランスなど諸外国では民間人も軍人も分け隔てなく平等に補償していることを踏まえれば、日本政府は国の責任において民間の戦争被害者の救済措置を講じるべきであると考え、次の課題及び政策実現に共に取り組むものである。
1、国に対し、先の大戦における空襲や地上戦などの民間の被害者への謝罪とその救済および被害実態の徹底した調査を求めていく。
2、「空襲被害者等援護法を実現する議員連盟(超党派)の活動を通して、「空襲被害者等援護法案」および「沖縄戦時行為等被害者等援護特別措置法案」(仮称)の制定に全力をあげる。
3、戦争につながる米軍基地の早期撤去を求め、基地のない平和な世果報の沖縄を創り上げていく。
なお、具体的な選挙協力については、今後必要に応じて協議する。

2019年3月20日

フリーランスライター 屋良 朝博 印
弁護士        瑞慶山 茂 印

(2019年3月21日)

天皇への迎合は、日本国憲法体系の理念をないがしろにすることである。

昨日(3月19日)の毎日新聞。一面左肩に「象徴天皇としての役割『果たされている』87%」という世論調査記事。二面にも関連の解説記事。いったいなんだ、これは。

この世論調査、質問事項はわずか2項目のシンプルなもの。シンプルなだけでなく、頗る出来が悪い。これで、「象徴天皇制が国民に定着している」との世論誘導の根拠とされることには、大いに違和感がある。

主たる設問が、次の通りである。
◆憲法第1条では、「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」とされていますが、象徴として役割は十分果たされていると思いますか。

まず、一読して、こなれないヘンな文章ではないか。憲法条文の引用部分と、「と思いますか」という質問文を除いた判断対象は、「象徴として役割は十分果たされている」か否かということ。これはいったい何のことだろう。この文には主語がない。意味上の主語は「天皇(個人)」か、「天皇(職位)」か、あるいは「象徴」か、「役割」なのか。「果たされている」の「される」は、文法上の尊敬なのか受け身なのか、それとも自発なのか。

質問の意味を明瞭にしようと書き直せば、いくつも考えられる。
「現天皇(明仁)は、象徴としての役割を十分果たしていると思いますか。」
「天皇という職位は、現天皇(明仁)によって、象徴としての役割を十分果されていると思いますか。」
「天皇という職位の象徴としての役割は、十分果たされている状態と思いますか」
……
果たしてそのどれだろうか。こんな曖昧模糊とした設問への回答で、いったいなにが分かったことになるのだろうか。

仮に、「天皇(明仁)は、象徴としての憲法上の役割を十分に果たしていると思いますか。」という質問の趣旨であるとして、果たしてこれに正確に答えようがあるだろうか。

「象徴としての憲法上の役割」は、極めて曖昧で多義である。「象徴としての天皇の役割」という用語の選択が、既に誘導的な質問になっている。「象徴としての憲法上の役割」を特定せずしの質問に意味のある回答ができようとは思えない。

私は、憲法第1条の「象徴」を、なんの権限も権能もなく、なんの機能も作用もすべきではない、存在するだけの地位を表す用語と解している。「象徴」には積極的意味はない。だから、毎日が「天皇(明仁)は、象徴としての憲法上の役割を十分に果たしているか」という設問自体に大きな違和感があり、本来社会調査にあってはならないミスリードである。

また、天皇とは、内閣の助言と承認に従うのみの存在で、けっしてひとり歩きをしてはならない存在である。従って「象徴としての憲法上の役割を十分に果たしているか」を問うべきでも問われるべきでもない。定量的に、その役割を十分に果たしているとも、不十分であるとも、評価の対象となる立場にはない。

もう一つの設問が、次の通りである。
◆皇室との間に距離を感じますか、感じませんか。

これも、茫漠としてつかみ所のない質問。皇室との「距離を感じる」「感じない」って、いったい何のことだ。何らかの意味のある回答を引き出せるとは到底考えられない。距離も距離感も、何らかの規準や指標に照らしてのものでなくては意味がないからだ。

そんな質問の回答を集計して、毎日は二面の記事に、「『象徴』幅広い層で評価」「『皇室に距離感』5割」と見出しを打っている。記事の内容を拾えば、「(回答者の)計87%が、『象徴』の形を追求し続けてきた天皇陛下の取り組みを評価した形となった。」「一方、皇室との「距離」について「感じる」「ある程度感じる」と答えたのは合計で50%を占めた。」

あたかも、毎日はこう言いたいかのごとくである。国民は天皇(明仁)の象徴天皇のあり方追及を受容しており結構なことだ。しかし、まだまだ国民と皇室との距離感は大きい。これを縮めていくのが、今後の課題ではないか」

「天皇陛下は昨年12月の自身の誕生日に際しての記者会見で『私は即位以来、憲法の下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました』と述べ、『象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する』と語られていた。」

毎日は、余りに無邪気に余りに無批判に、この記事を書いている。象徴とは何か、象徴天皇とはなにか、象徴天皇制とはいかにあるべきか。それは、主権者国民が決めることであって、天皇が決めることではない。具体的には主権者の意思を反映して内閣が決め、内閣の天皇に対する「助言と承認」というかたちで、天皇に指示をする。天皇が、自ら「象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を求める」などは、明らかに越権行為である。

天皇とは、日本国憲法体系の夾雑物である。例外であり、撹乱要素でもある。日本国憲法本来の理念と体系を大切にしようとすれば、例外である天皇の存在を極小化するしか方法はない。象徴天皇とは内実をもたないものなのだから、その存在はいかようにも切り縮めることが可能である。

国家の運営において、憲法の夾雑物である象徴天皇という存在を極小化することこそが、個人の尊厳を根源的価値とし民主主義を徹底する立場の日本国憲法の理念に適合する所以である。天皇の存在の拡大化は、必然的に日本国憲法のコアな理念と体系を侵蝕することにほかならない。

意識してか否かは知らず。毎日新聞の世論調査と解説記事、まさしく、例外としての象徴天皇を持ち上げることで、日本国憲法の原則をないがしろにするものと批判せざるを得ない。
(2019年3月20日)

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