弁護士の澤藤です。東京「君が代」裁判・4次訴訟について、最高裁の決定が出ましたので、お知らせの記者会見を行います。
ご承知のとおり、「10・23通達」が発出された2003年10月23日以来、都内公立校の卒業式・入学式における国歌斉唱時の起立斉唱強制は今日まで続いており、この強制に従わない者に対しては、容赦のない懲戒処分が科せられています。その懲戒処分の取り消しを求めるのが東京「君が代」裁判。4次訴訟は、一審原告14名、上告人13名(現職教員8名)が、処分の取り消しを求めている訴訟です。
東京地裁(2017年9月)・高裁(2018年4月)の各判決で、減給・停職処分計6名・7件が取り消され、一部勝訴しました。これに対して、都教委は1名・2件についてだけ上告受理申立を行いました。この教員に対する2件(不起立4回目、5回目)の減給処分取り消しを不服としたものです。また、一審原告教員らはすべての処分について、取り消し、損害賠償を求めて上告及び上告受理申立をし、事件は最高裁第1小法廷に係属して、双方が正面対決する構図になっていました。
以上のとおり、東京「君が代」裁判4次訴訟は、3件に分かれて最高裁に係属してまいりました。原告教員側からの上告事件・上告受理申立事件、そして一審被告都教委の側からの上告受理申立事件です。
これに対して、教員の側からの上告を棄却する決定と、当事者双方の上告受理申立をいずれも不受理とする旨の決定が3月28日付でなされ、その通知が同月30日に弁護団事務局に送達されました。4月1日付の原告団・弁護団声明を作成し、本日記者会見をする次第です。
懲戒処分を受けた教員が上告理由としているのは、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の憲法違反です。何ゆえに憲法違反か。上告理由書は260ページに及ぶ詳細なものですが、煎じ詰めれば、思想・良心・信仰の自由という憲法に明記されている基本的人権というもの価値が、他の諸価値に優越しているということです。
教員の一人ひとりに、それぞれの思想・良心・信仰の自由が保障されています。各々の思想や良心やあるいは信仰が、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を許さないのです。公権力が、敢えてその強制を行うことで、一人ひとりの精神的自由の基底にある、個人の尊厳を傷つけているのです。傷ついた個人の尊厳という憲法価値を救うために、裁判所は国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制は違憲だと宣言し、懲戒処分を取り消さなければなりません。
原告教員の側は、個人の尊厳という憲法価値を前面に立て、これを侵害する懲戒処分を取り消すよう主張を重ねてきました。一方、都教委側が主張する憲法的価値はと言えば、それは国家です。あるいは国家の尊厳、国家の秩序。国旗・国歌(日の丸・君が代)は国家象徴ですから、すべての人に「国旗国歌に敬意を表明せよ」と強制するには、国家に、個人の尊厳を凌駕する憲法価値を認めなければできないこと。個人の尊厳と、国家と。この両者を比較検討してどちらを優越する価値と見るすべきでしょうか。
多くを語る必要はありません。個人の尊厳こそが根源的価値です。国家は便宜国民が作ったものに過ぎません。個人の尊厳が傷つけられる場合、公権力が個人に国家への敬意を強制することはできないはずです。
いま、最高裁判例は、「国旗・国歌への敬意表明の強制は、間接的に強制された人の思想・良心の自由を制約する」ことまでは認めています。しかし、その制約は「間接的」でしかないことから、強制に緩やかな必要性・合理性さえあれば制約を認めうる、と言うのです。私たちは到底納得できません。判例か変更されるまで、工夫を重ねて何度でも違憲判断を求める訴訟を繰り返します。
一審原告の上告受理申立理由の中心は、本件不起立行為を対象とする戒告処分も処分権者の裁量権を逸脱濫用した違法のものであって取り消されねばならない、というものです。仮に、本件各懲戒処分が違憲で無効とまでは言えなくても、わずか40秒間静かに坐っていただけのことが懲戒処分に値するほどのことではありえない。実際、式の進行になんの支障も生じてはいないのです。懲戒処分はやり過ぎで、懲戒権の逸脱濫用に当たる、と言うものです。現に、2011年3月10日東京高裁判決は、処分は違憲との主張こそ退けましたが、懲戒権の逸脱濫用として全戒告処分を取り消しています。
この高裁判決を受けての最高裁判決か2012年1月16日第一小法廷判決です。戒告処分違法の判断を逆転させて、「戒告は裁量権の逸脱濫用には当たらない」としたのです。しかし、さすがの最高裁も、戒告を超えた減給以上の懲戒処分は苛酷に過ぎて裁量権の逸脱濫用に当たり違法、としたのです。
つまり、不起立に対する懲戒処分は違憲とまでは言えない。しかし、懲戒処分が許されるのは戒告処分止まりで、それ以上の重い減給や停職などの懲戒処分は裁量権の逸脱濫用として違法。これが現時点での最高裁判例の立場です。
私たちは、多様性尊重のこの時代に、全校生徒と全教職員に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意表明を強制することはあってはならないことだと考えます。思想や良心、あるいは信仰を曲げても、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明せよという強制は違憲。少なくとも、起立できなかった教員に対する懲戒処分はすべて処分権の逸脱濫用として取消しとなるべきことを主張してきました。
問題は、都教委が教員の一人を相手方にして上告受理申立をした事件。相手方となった教員が過去3回の不起立・戒告処分があるから、4回目は減給でよいだろう。そして5回目も減給、というのです。都教委側の理屈は、「処分対象の非違行為を重ねることは本人の遵法精神欠如の表れであって、その矯正のためにより重い処分をなし得る」ということになります。
しかし、この教員の思想も良心も一つです。何度起立を命じられようとも、思想・良心が変わらぬ限り、結果は同じこと。処分回数の増加を根拠に、思想や良心に対する制約強化が許されるはずはないのです。思想を変えるまで処分を重くし続ける、などという企みは転向を強要するものとして、明らかに違法と言わざるを得ません。
実は憲法論と同じように法的価値の衡量が行われています。衡量されている一方の価値は、思想・良心・信仰の自由。その基底に、個人の尊厳があります。衡量されているもう一方の価値は、「学校の規律や秩序の保持等の必要性」であり、違憲論の局面で論じられた価値衡量の問題が、本質を同じくしながら公権力の行使の限界を画する懲戒処分の裁量権逸脱濫用の有無という局面で論じられているのです。
今回、最高裁(第一小法廷)が都教委の上告受理申立を不受理としたのは、最都教委の請求を認めず、特別支援学校現役教員の4回目・5回目の卒入学式での不起立に対する減給処分(減給10分の1・1月)の取り消しが確定したことになります。都教委の敗訴です。これは、不起立の回数(今回は4回目・5回目)の増加だけを理由に減給処分という累積過重処分を行った都教委の暴走に歯止めをかけたものと評価できます。これにより、東京「君が代」裁判四次訴訟は、原告らの「一部勝訴」で終結することになりました。
なお、4がつ1日付の東京「君が代」裁判4次訴訟原告団・弁護団声明は下記のとおりです。
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声 明
1 2019年3月28日,最高裁判所第一小法廷(池上政幸裁判長)は,都立学校の教職員13名(以下,「原告ら教職員」という)が「日の丸・君が代」強制にかかわる懲戒処分(戒告処分10件)の取消しと損害賠償を求めていた上告事件及び上告受理申立事件について,それぞれ上告棄却,上告申立不受理の決定をした。
あわせて,一審原告1名に対する原審における減給10分の1・1月の処分の取消を維持して東京都の上告受理申し立てを受理しない旨の決定をし,減給処分を取り消した東京高裁判決が確定した。
今回の最高裁の上告棄却及び上告不受理決定では,戒告処分の取消しが認められなかったものの,最高裁が,2012年1月16日判決及び2013年9月6日判決に沿って,減給以上の処分による国歌の起立斉唱の強制を続けてきた都教委の暴走に一定の歯止めをかけるものと評価できるものである。
2 本件は,東京都教育委員会(都教委)が,2003年10月23日に「入学式,卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」との通達(10・23通達)を発令し,全ての都立学校の校長に対し,教職員に「国旗に向かって起立し国歌を斉唱すること」を命じる職務命令を出すことを強制し,さらに,国歌の起立斉唱命令に違反した教職員に対して懲戒処分を科すことで,教職員らに対して国歌の起立斉唱の義務付けを押し進める中で起きた事件である。
一審原告らは,自己の歴史観・人生観・宗教観等や長年の教育経験などから,国歌の起立斉唱は,国家に対して敬意を表する態度を示すことであり,教育の場で画一的に国家への敬意を表す態度を強制されることは,教育の本質に反し,許されないという思いから,校長の職務命令に従って国歌を起立斉唱することが出来なかったものである。このような教職員に対し,都教委は,起立斉唱命令に従わなかったことだけを理由として戒告・減給等の懲戒処分を科してきた。
なお,このような懲戒処分は,毎年,卒業式・入学式のたびに繰り返され,10・23通達以降,本日まで,職務命令違反として懲戒処分が科された教職員は,のべ480名余にのぼる。この国歌の起立斉唱の強制のための懲戒処分について,2012年1月16日,最高裁判所第一小法廷は,懲戒処分のうち「戒告」は裁量権の逸脱・濫用とまではいえないものの,「減給」以上の処分は相当性がなく社会観念上著しく妥当を欠き,裁量権の範囲を逸脱・濫用しており違法であるとの判断を示していた。
3 上記最高裁判決以降,都教委は3回目の不起立までを戒告とし4回目以降の不起立に対して減給処分とする取り扱いをしてきた。本判決は,4回目・5回目の不起立に対する減給処分を「減給以上の処分の相当性を基礎づける具体的な事情は認められない」として取り消した原判決に対する東京都の上告受理申立てを受理しなかったものである。
今回の上告不受理決定は,不起立の回数が減給処分の相当性を基礎づける具体的な事情には当たらないとの判断を示した東京高裁判決を維持して,不起立の回数のみを理由とした処分の加重を否定したものである。
これまでの最高裁判決そして原判決に引き続き,都教委の過重な処分体制を許さなかったことは,都教委による起立斉唱の強制に一定の歯止めをかける判断として評価できる。
4 しかしながら,一審原告らは,真正面から10・23通達発出の必要性を支える立法事実がないことを明らかにし,思想良心の自由と緊張関係に立つ職務命令の違憲性を主張して上告してきたところであり,さらに,これまでの最高裁判決が判断を示してこなかった,10・23通達,職務命令,懲戒処分が,憲法19条,20条,23条,26条が保障する教師の教育の自由を侵害,また,教育基本法16条が禁じる「不当な支配」に該当するものであって違憲違法であることを主張して上告してきたところである。
すなわち,一審原告らは,これまでの最高裁判決を含む各判決に憲法解釈の誤りがあることを理由として上告したのに対して,「本件上告の理由は,違憲をいうが,その実質は事実誤認若しくは単なる法令違反をいうもの」であるとして一審原告らの上告を棄却した本件上告棄却決定自体,最高裁は正面から憲法判断をしなければならなかったにもかかわらず,必要な憲法判断を回避したものであって到底容認できるものではない。
このような,最高裁の判断自体は,従前の最高裁判決に漫然と従って本決定に至ったものであり,十分な審理を尽くさず,事案の本質を見誤ったまま上告を棄却したものであって,憲法の番人たる責務を自ら放棄したとの批判を免れることはできない。
5 都教委は,この司法判断を踏まえて回数だけを理由として処分を加重する「国旗・国歌強制システム」を見直し,教職員に下した全ての懲戒処分を撤回するとともに,将来にわたって一切の「国旗・国歌」に関する職務命令による懲戒処分及びそれを理由とした服務事故再発防止研修を直ちにやめるべきである。
特に,都教委は,都教委がした違法な懲戒処分が取り消された事実を重く受け止め,今回の上告不受理決定によって減給処分の取り消しが確定する一審原告に対して,同一の職務命令違反の事実について重ねての懲戒処分はやめるべきである。
わたしたちは,本判決を機会に,都教委による「国旗・国歌」強制を撤廃させ,児童・生徒のために真に自由闊達で自主的な教育を取り戻すための闘いにまい進する決意であることを改めてここに宣言する。
この判決を機会に,教育現場での「国旗・国歌」の強制に反対するわたしたちの訴えに対し,皆様のご支援をぜひともいただきたく,広く呼びかける次第である。
2019年4月1日
東京「君が代」裁判4次訴訟原告団・弁護団
(2019年4月2日)
本日(4月1日)、内閣が天皇の交替に伴う新元号(予定)を「令和」と公表した。私はこの内閣の公表に対抗して「令和不使用宣言」を公表する。主権者の一人として、厳粛にこの元号を徹底して無視し、使用しないことの決意を明確にする。
本日は、天皇制と元号の結び付きを国民に可視化する、大仰でもったいぶったパフォーマンスの一日だった。官邸とメディアによるバカ騒ぎ協奏曲。いや、変奏曲。何という空疎で愚かな儀式。何という浅薄な愚民観に基づいての天皇制宣伝。
「平成」発表の際にも、ばかばかしさは感じたがそれだけのことだった。今回の「令和」には、強い嫌悪感を禁じえない。どうせ、アベ政治のやることだからというだけではない、「いやーな感じ」を拭えないのだ。
「令和」は、『万葉集』巻の五・梅花の歌32首序の次の一節から、採ったものだという。
初春の令月にして
気淑く風和らぎ
梅は鏡前の粉を披き
蘭は珮後の香を薫らす
安倍は、万葉集を「我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。」と、ナショナリズムを強調して見せたが、この序は漢詩風というほかはない。むしろ、率直に「我が国の豊かな国民文化の源流が中国の文物から発し、長い伝統といえどその影響から抜けきることができないことを象徴する国書であります。」というべきだろう。
また安倍は、「令和には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められている」などとする談話を発表したが、これも牽強付会。
通常の言語感覚からは、「令」といえば、命令・法令・勅令・訓令の令だろう。説文解字では、ひざまづく人の象形と、人が集まるの意の要素からなる会意文字だという。原義は、「人がひざまづいて神意を聴く様から、言いつけるの意を表す」(大漢語林)とのこと。要するに、拳拳服膺を一文字にするとこうなる。権力者から民衆に、上から下への命令と、これをひざまずいて受け容れる民衆の様を表すイヤーな漢字。
この字の熟語にろくなものはない。威令・禁令・軍令・指令・家令・号令…。
もっとも、「令」には、令名・令嬢のごとき意味もある。今日、字典を引いて、「令月」という言葉を初めて知った。陰暦2月の別名、あるいは縁起のよい月を表すという。
令室・令息・令夫人などは誰でも知っているが、「令月」などはよほどの人でなければ知らない。だから、元号に「令」とはいれば、勅令・軍令・号令・法令の連想がまず来るのだ。これがイヤーな漢字という所以。
さらに「和」だ。この文字がら連想されるイメージは、本来なら、平和・親和・調和・柔和の和として悪かろうはずはない。ところが、天皇やら政権やら自民党やらが、この字のイメージをいたく傷つけている。
当ブログの下記記事をご覧いただきたい。
「憲法に、『和をもって貴しと為す』と書き込んではならない」
https://article9.jp/wordpress/?p=3765
(2014年10月26日)
一部を抜粋しておく。
この「和」については、自民党の改正草案「Q&A」において、こう解説されている。
?「(改正草案前文)第三段落では、国民は国と郷土を自ら守り、家族や社会が助け合って国家を形成する自助、共助の精神をうたいました。その中で、基本的人権を尊重することを求めました。党内議論の中で『和の精神は、聖徳太子以来の我が国の徳性である。』という意見があり、ここに『和を尊び』という文言を入れました。」という。舌足らずの文章だが、言いたいことはおよそ分かる。
自民党の解説では、「自助、共助」だけに言及して、ことさらに「公助」が除外されている。「和」とは「自助、共助」の精神のこと。「和」の理念によって形成された国家には、「自助、共助」のみがあって「公助」がないようなのだ。どうやら、「和」とは福祉国家の理念と対立する理念のごとくである。
そのこともさることながら、問題はもっと大きい。憲法草案に「聖徳太子以来の我が国の徳性である『和の精神』」を持ち込むことの基本問題について語りたい。
「十七条の憲法」は日本書紀に出て来る。もちろん漢文である。その第一条はやや長い。冒頭は以下のとおり。
?「以和爲貴、無忤爲宗」
?一般には、「和を以て貴しと為し、忤(さから)うこと無きを宗とせよ」と読み下すようだ。「忤」という字は難しくて読めない。藤堂明保の「漢字源」によると、漢音ではゴ、呉音でグ。訓では、「さからう(さからふ)」「もとる」と読むという。「逆」の類字とも説明されている。順逆の「逆」と類似の意味なのだ。従順の「順」ではなく、反逆の「逆」である。続く文章の中に、「上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」とある。
要するに、ここでの「和」とは、「上(かみ)と下(しも)」の間の調和を意味している。「下(しも)は、上(かみ)に逆らってはならない」「下は、上に従順に機嫌をとるべし」と、上から目線で説教を垂れているのである。これは、近代憲法の国民主権原理とは無縁。むしろ、近代立憲主義に「反忤」(反逆)ないしは「違忤」(違逆)するものとして違和感を禁じ得ない。
なお、些事ではあるが、「和爲貴」は論語の第一「学而」編に出て来る。「禮之用和爲貴」(礼の用は和を貴しとなす)という形で。論語から引用の成句を「我が国固有の徳性」というのも奇妙な話。また、聖徳太子の時代に十七条の憲法が存在したかについては江戸時代以来の論争があるそうだ。今や聖徳太子実在否定説さえ有力となっている。記紀の記述をありがたがる必要などないのだ。
自民党改憲草案前文の「和」が、新元号の一文字として埋め込まれた。「令和」とは、「『下々は、権力や権威に従順であれ』との命令」の意と解することができる。いや、真っ当な言語感覚を持つ者には、そのように解せざるを得ないのだ。
元号自体がまっぴらご免だが、こんな上から目線の奇なる元号には虫酸が走る。今後けっしてこの新元号を使用しないことを宣誓する。
(2019年4月1日)
イジメはいけません。誰にも尊重されるべき人格がありプライドもあります。その人格やプライドを踏みにじるようなことを言ってはなりません。してはいけません。一人の人を標的に、仲間はずれにしたり、みんなで悪口を言ったり。自分がされたらイヤなこと、悲しいことは、誰にもしてはいけません。勇気を出して、みんなで、イジメはやめましょう。
でも、もしかして、自分がイジメに加わっていないと、次には自分がいじめられる。だから、イジメを止めることができない。イジメのグループから抜けるのが難しい。本当は、いじめられている人と仲良くしたいのだけれど、ほかの人たちの目が恐くてそれができない。そんな人はいませんか。たしかに、イジメを止めること、止めさせることは、勇気がいることでしょう。
クラスでも、部活でも、学校でも、職場でも、あるいは地域でも、必ず人と人との集まりとして形成された「集団」は、集団のなかの一人ひとりの考えや行動に、強い圧力となる影響力をもっています。集団はそのメンバーに、みんなが同じような考えを持ち、同じような行動をするよう集団としての圧力となります。たとえば、「みんなして、A君はいやな奴だと考えよう」「みんなでA君とは口をきかないことにしよう」「これに反対する人は仲間ではない」という具合に。
イジメを止めたくても、止められない。イジメられている人を助けたいけど、恐くてできない。これが、「集団圧力」の働きです。一人ひとりの個人が自由であるとは、自分を取り巻くいくつもの集団の圧力に縛られないということなのですが、人が集団の圧力に負けずに自由であることは、実はなかなかに難しいことと言わねばなりません。
社会全体と個人の関係も、まったく同じことが当てはまります。集団が大きくなると、「集団圧力」はもっと大きくなります。極端な場合、社会がある一つの考え方に個人の同調を求めて、それ以外の考え方を許さないということさえおこります。社会が個人の考え方や行動をがんじがらめに縛りつけて、それ以外の考え方を許さない窮屈な社会。その考え方に従わない人々を徹底していじめ抜く社会。場合によっては、虐殺さえする社会。戦前の日本がまさしくそのような、社会的同調圧力極大化の社会でした。
戦前の社会が、国民のすべてに押し付けようとした考え方というのは、「天皇は神の子孫であって、天皇自身も神である」「神である天皇が治める日本は神国である」「神である天皇の命令に間違いはない」ということでした。もちろん、大ウソです。神とされた天皇こそ、国民を統治に従わせようとする側の人々にとって、この上ない便利な道具でした。そのような便利な道具として作りあげられたのが天皇制でした。
天皇が神であるというウソを国民に押し付けるために、天皇制政府はもったいぶった、神がかりの儀式や演出を、天皇やその家族にさせました。昔の服を着せて、カネを鳴らしたり笛を吹いたり。祝詞を上げたり。本物とはずいぶんちがった立派な容貌の天皇の肖像画を描かせてこれを写真にとり、全国の学校に配って、子どもたちに拝ませたりもしました。
さて、どれだけの人が天皇が神というウソを信じたでしょうか。おそらく、多くの人は天皇は神だと信じた振りをしていたのでしょう。そのように振る舞うように、強力な社会的圧力が働いていたからです。
日本の敗戦によって、こんなウソを信じる振りをする必要はなくなりました。天皇に、恐れ入る必要のない時代になったのです。子どもたちが、のびのびと、「天皇って、昔は神さまとされていたんだって」「へー、そんな時代があったんだ」と会話のできる時代になったのです。
ところが、このところ少し風向きがおかしいように思うのです。気になるのは、メディアの天皇への過剰な敬語や、皇族への過剰な遠慮。なんとなく恐れ入った態度の蔓延です。
もうすぐ天皇が交替します。現天皇からその長男へ。天皇が誰であろうと、私たちの暮らしに何の関わりもありません。あってはならないのです。この、騒ぐこともない、どうでもよいはずのことを、なんだかたいへんなことのように、大騒ぎする人々がいます。天皇の交替で、時代が変わるもののごとくに。
実際は何も変わりません。天皇の交替など、国民にとって、どうでもよいことなのです。明日(4月1日)、天皇の交替に伴う新しい元号が発表されます。元号という時の区切り方の本家は中国です。こちらが、「皇帝が時を支配する」という大ウソの本家本元。中国の周りの国のミニ皇帝たちが、これを真似しました。ウソの分家です。日本もその一つ。本家の中国では、今は元号を使っていません。煩わしくて、ビジネスにも政治や経済にも日常生活にも、学問や科学技術にも、そして何よりも国際交流に、不便なことが明らかだからです。年代の表記はグローバルスタンダードである西暦一本とすることが最もシンプルで便利。いまや、元号というローカルなツールに固執しているのは、日本のみ。こんなもの後生大事に抱えていて、日本はホントに大丈夫でしょうか。
最も気になることは、天皇は神であるというウソを国民に信じさせるための、もったいぶった神がかりの昔の儀式や演出がまたぞろ、大がかりに復活しそうな気配のあることです。
政府は、既に新元号を決めているはずです。でも、けっして官房長官が公表する前に漏洩があってはならない、という固い姿勢です。いったい何をもったいぶっているのでしょうか。官房長官も首相も、新元号を発表する自分たちに、国民の耳目を向けさせようという魂胆であることがありありです。何のことはない。政権のための代替わり。
国民の天皇への関心は、政権や、保守論壇や、メディアや、財界によってつくられたものです。再び天皇制に利用価値ありとの思いから。国民意識の統合に、戦前とは違った形で天皇制の利用が進展しているものと警戒しなければなりません。
これを機会に、天皇制と結びついた、不便な元号など使わないことが、主権者としての国民に最もふさわしいありかただと思います。ところが、そうすると往々にして、社会的同調圧力が働きます。「あなたは日本人でありながら、日本に固有の元号を使わないの?」「もしかして、あなたは非国民では?」という圧力。イジメの構造と変わるところがありません。この圧力に負けてしまうと、国民主権の実質が失なわれかねません。天皇制を便利な道具としようという、政権運営の思惑を許してしまうことになってしまいます。
役所や、銀行や、郵便局や、宅配業者などの窓口で、元号での年月日記入を求められることがあったら、必ず西暦で記入しましよう。それを咎められたら、「元号使用を強制するとおっしゃるのですか」「私は西暦使用にこだわります」とがんばってみてください。
小さな抵抗の積み重ねが大切だと思います。勇気をもってのイジメからの離脱が、イジメをなくすることにつながるように、小さな元号使用拒否の動きが、再び天皇制の政治利用を許さない、民主主義社会の形成につながるものと思うのです。
(2019年3月31日)
本日(3月30日)の東京新聞社会面に下記の記事。ILO(国際労働機関)が、日本政府に「教員に対して『日の丸・君が代』を強制せぬよう是正勧告を出した、という内容。いささかの感慨をもって読んだ。
「ILO、政府に是正勧告」というメインの見出し。これに、「『日の丸・君が代』教員らに強制」がやや小さい活字で、その前に並んでいる。ILOが日本政府に是正を勧告した内容が、「『日の丸・君が代』を教員らに強制していること」と読み取れる。
学校現場での「日の丸掲揚、君が代斉唱」に従わない教職員らに対する懲戒処分を巡り、国際労働機関(ILO)が初めて是正を求める勧告を出したことが分かった。日本への通知は4月にも行われる見通し。勧告に強制力はないものの、掲揚斉唱に従わない教職員らを処分する教育行政への歯止めが期待される。
ILO理事会は、独立系教職員組合「アイム89東京教育労働者組合」が行った申し立てを審査した、ILO・ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会(セアート)の決定を認め、日本政府に対する勧告を採択。今月20日の承認を経て、文書が公表された。
勧告は「愛国的な式典に関する規則に関して、教員団体と対話する機会を設ける。規則は国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるものとする」「消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒の仕組みについて教員団体と対話する機会を設ける」「懲戒審査機関に教員の立場にある者をかかわらせる」ことなどと求めた。
1989年の学習指導要領の改定で、入学式や卒業式での日の丸掲揚と君が代斉唱が義務付けられて以来、学校現場では混乱が続いていた。アイム89メンバーの元特別支援学校教諭渡辺厚子さんは「教員の思想良心の自由と教育の自由は保障されることを示した。国旗掲揚や国歌斉唱を強制する職務命令も否定された」と勧告を評価している。
これまで教育方針や歴史教科書の扱いなどを巡る勧告の例はあったが、ILO駐日事務所の広報担当者は「『日の丸・君が代』のように内心の自由にかかわる勧告は初めてだ」と話している。
実は、昨日(3月29日)、東京新聞記事に出て来る渡辺厚子さんから、下記の「個人声明」をいただいていた。
ILO/ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会(CEART) 勧告
国際労働機関(ILO)と国連教育科学文化機関(ユネスコ)の合同機関であるILO /ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会(CEART)から、「日の丸・君が代」問題申し立てに対する報告・勧告が出され、2019 年3 月20 日付で公表されました。初めての勧告です。
2014 年にアイム89東京教育労働者組合は、CEART に対し、10・23通達による卒業式および入学式における「日の丸・君が代」起立斉唱職務命令と教職員処分、そして卒業式・入学式の従来の実施内容変更と実施指針強制等の施策は、日本政府が1966年の教員の地位に関する勧告に違反しており、教員の地位勧告を遵守するようとの申し立てを行いました。
この申し立ては2015年第12回セッションにおいて検討が開始され、CEART は、日本政府からの情報提供・回答を検討した結果、2018 年10 月1 日から5 日に開かれた第13回セッションにおいて報告・勧告を採択しました。そして3 月20 日、第335回ILO 理事会において、この報告書に留意し、報告書を公表することが承認されました。同時に本年6月に開かれるILO総会の基準適用委員会に討議資料として報告書を提出することが決定されました。
勧告内容は、6項目に及びます。
? 式典における教職員の義務規則に関して、教員団体と対話し合意すること。規則は、国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教職員にも対応できるものとすること。
? 懲戒の仕組みについて教員団体と対話する機会を持つこと。
? 懲戒審査機関に教員の立場にあるものを関わらせるよう検討すること。
? 現職教員研修(再発防止研修)を懲戒や懲罰の道具として利用しないよう見直し改めること。(カッコ内は主催者注)
? 障害を持った生徒や教員、障害生徒と関わるもののニーズに照らし、愛国的式典に関する要件を見直すこと。
? 上記勧告に関する諸努力について、その都度セアートに報告すること。
東京都では、10・23通達発出以後、「日の丸・君が代」起立斉唱職務命令に従わなかったとしてのべ483名が戒告、減給、停職処分されています。裁判所によって処分が取り消されても現職教員は同一案件で戒告再処分されています。
沈黙をしいられ、服従させられる子どもや教職員たちにとって、「日の丸・君が代」問題に関して初めて出されたセアート勧告は、大きな希望となります。
学習指導要領で縛り、教職員には市民的自由の保障はないとする政府・裁判所に対して、いかなる場合においても個人としての思想・良心の自由の権利は守られる、と明確に勧告した意義の大きさはあまりあります。また、ブラックボックスであった懲戒処分に関しても審査機関に当事者である教職員の意見が反映される手立てをとるよう勧告しました。加えて「日の丸・君が代」処分後に、必ず懲罰的に行われる再発防止研修についても明確に否定しました。
10・23通達以来、障がい児学校において、例外なく高いステージ使用が義務付けられ、それまでバリアーフリーのフロアーで自力で動いていた子ども達が、高い壇に阻まれて動けなくさせられてきた現実など、障害のある子ども達の実情をしっかり把握し、子どものニーズにあった卒業式・入学式をするよう勧告されたことは本当に意義深いことです。
日本の教職員・教育にとって希望を沸き立たせるこの勧告は、日本にとどまらず、世界のあちこちで苦悩し呻吟する教職員達にも、権利擁護と教育の質の向上にむけ、大きな勇気を与えるものです。
子ども達自身のためにあるべき教育が、安倍政権によって、戦前教育へと引き戻されつつある今、今回勝ち取った勧告は、大きな意味があります。この勧告を生かしていく努力を重ね、どの子ものびのびと息をしていける教育、多文化共生の学校を作っていくために、共に闘っていきましょう。
2019 年3 月29 日
アイム89東京教育労働者組合元組合員
元特別支援学校教員
「良心・表現の自由を!」声をあげる市民の会
渡 辺 厚 子
これで、事情はよくお分かりいただけたことだろう。日本の最高裁が容認した日本独自のローカルルールが、グローバルスタンダードに照らして批判を受け、是正を勧告されているのだ。
但し、当面直接に批判されているのは、国ではなく自治体である。とりわけ、東京と大阪が突出している。東京都・大阪府の教育委員諸君には、虚心に考え直していただきたい。あなた方が主導している、教員への国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制は、国連の機関から反省を迫られているのだ。
ところで、ILO(国際労働機関)は国連の専門機関ではあるが、その前身は「1919年に、ベルサイユ条約によって国際連盟と共に誕生しました」というから国連よりもはるかに古い。今年が創設100周年である。1944年、「フィラデルフィア宣言」と呼ばれる憲章を作成し、これが今もILOの憲章として生きている。その「国際労働機関憲章」前文の中に、次の文章を読みとることができる。
「世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができる」「いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となる」「締約国は、正義及び人道の感情と世界の恒久平和を確保する希望とに促されて、且つ、この前文に掲げた目的を達成するために、次の国際労働機関憲章に同意する。」
我が国が、野蛮極まる國体を護持するために絶望的な兵員の生命を消耗する戦闘を続けていた1944年当時に、文明世界は、かくも格調高い理念を掲げていたわけだ。今の課題に引きつけて翻訳してみたらこうであろうか。
「日本という国が、教員に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明という非人道的な労働条件を押し付けていることは、他の国の人道的な労働条件の改善の障害となる」「この労働条件改善の障害が蔓延すれば、大きな社会不安を起こす不正、困苦及び窮乏を多数の人民にもたらす」「そのことは、とりもなおさず世界の平和及び国際協調が危くされることにほかならない」
(2019年3月30日)
本日(3月29日)大阪第一検察審査会の事務局から連絡があった。森友事件関連の刑事告発に関連する審査申立に対して、議決が出た。3月15日付の議決で、文書の作成が3月28日のことのようだ。
周知のとおり、森友事件とは、政治の頂点にいる安倍晋三とその妻昭恵に関わる疑惑である。だからその解明は容易ではない。政治や行政の場での自浄作用は期待しがたい。メディアも野党もよく追求はしたが最後の決め手を欠いた。世論も憤ったが持続せず、この薄汚れた内閣の存続を許してしまった。結局のところ、最後の手段として刑事司法に期待が寄せられたのは当然の成り行きで、刑事告発が相次いだ。
大阪地検特捜部に集約された告発は、被告発者(被疑者)数38名、6罪の告発罪名についてのものだった。被告発者38名の内訳は、財務省本庁関係者23名、近畿財務局関係者10名、国土交通省大阪航空局関係者4名、森友学園関係者1名。告発罪名は、背任、公用文書毀棄、虚偽有印公文書作成・同行使、有印公文書変造・同行使、証拠隠滅、公務員職権濫用である。
2018年5月1日大阪地検特捜部は、その全告発を不起訴処分とした。「検察よ、お前もか」である。国民の検察に対する信頼を大きく裏切ったものと言うほかはない。とりわけ、特捜の信用は地に落ちた。その結果、舞台は大阪検察審査会に移った。週刊金曜日の報道では、検審には6団体・個人が、9件の検察審査申立をしているという。そのすべてが、大阪第1検審に係属している。
私が代理人として関わっているのは、醍醐聡さんら「幕引きを許さない市民の会」の会員が告発し審査申立をした下記の2事件。いずれも、2018年6月5日受理となったもの。なお、いずれも地検不起訴処分の処分理由は「嫌疑なし」ではなく、「嫌疑不十分」というものだった。
平成30年第13号
被疑者池田靖(近畿財務局統括国有財産監査官)に対する背任 及び
被疑者佐川宣壽(財務省理財局長)に対する証拠隠滅
平成30年第14号
被疑者美並義人(近畿財務局長)に対する背任
本日報告のあった結論は、以下のとおりである。
第13号事件について
被疑者 池田 靖(背任) 不起訴不当
同 佐川宣壽(証拠隠滅) 不起訴相当
第14号事件について
被疑者 美並義人(背任) 不起訴相当
「起訴相当」の議決ではなかったものの、統括国有財産監査官が国有地を極端な廉価で売却したことを背任とする被疑事実については、検察の不起訴処分は「不当」として、再度捜査を徹底せよと指摘されている。首相夫妻が絡んでの、不当廉売である。徹底して捜査し、公開の法廷で黒白をつけるべきが真っ当な国のありかたである。それこそが、首相夫妻関与の疑惑解明への第一歩である。
なお、佐川宣壽は「証拠隠滅」での告発については、「不起訴相当」となったが、別のグループの「公用文書毀棄」での告発を不起訴不当とした。
また、被疑者美並義人(近畿財務局長)に対する背任が不起訴相当となったのは、局長として形式的には問題の国有地売買の責任者だが、前任局長の時代に手続は進行しており実質においては関与していないからだという。
なお、本件に関して、醍醐さんと私との連名で下記のコメントを発表した。
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平成30年大阪第一検察審査会審査事件(申立)第13号
審査申立人 代表 醍醐 聰
代理人弁護士 澤藤統一郎
1.私どもが審査申立をした池田靖氏に対する背任の嫌疑について、相当に踏み込んだ理由を添えて「不起訴不当」を議決された大阪第一検察審査会(以下、「第一検審」と略す)の審査員各位の見識に敬意を表したい。
2.「起訴相当」の議決に至らなかったのは残念ではあるが、池田靖氏の背任罪をめぐる判断において、第一検審が、「前記業者の見積内容ほどの工事が必要か否かの検証がなされていない」と指摘し、大阪地検に対して「さらに調査を尽くすべき」とした点は、私たち申立人が、判例等を添えて、言われるところの本件地中埋設物は工事の支障になる瑕疵には全く当たらないと指摘したことにも通じると考えられる。
この点について、大阪地検が第一検審の指摘を重く受け止め、ゼロから捜査を尽くすよう、強く要求する。
3.さらに第一検審は池田靖氏の背任の背景に政治家らからの働きかけの影響についてもさらに捜査を尽くすよう大阪地検に求めたことは重要な意味を持つ。
私たち申立人も池田氏個人の背任を問うことで事件の真相が解明されたとは考えておらず、全容解明の端緒という位置づけで池田氏の背任罪を告発したものである。
したがって、この点についても、私たちは大阪地検が第一検審の指摘を重く受け止め、徹底した捜査を尽くすよう、強く要求する。
以上
(2019年3月29日)
「DHCスラップ・反撃訴訟」の一審が大詰めである。
☆次回の法廷は、4月19日(金)午後1時30分?
東京地裁415号法廷。
☆証拠調べの順序
最初に反訴原告本人(澤藤)の尋問
主尋問30分 反対尋問30分。
次に、証人のUさん(DHC総務部長)。
主尋問20分 反対尋問30分。
その次に、反訴被告本人(吉田嘉明)
主尋問30分 反対尋問30分。
但し、吉田嘉明は裁判所から出廷の呼出を受けながら、出たくないと言っている。
裁判所は、審理に必要だからとして出廷を命じているのだ。拒否すべき正当な理由のない限り、出廷して尋問を受けることは吉田嘉明の義務である。そして今、吉田嘉明は出廷しない理由を示し得ていない。吉田嘉明も、代理人弁護士もまったく真摯さに欠ける訴訟追行の態度と指摘せざるを得ない。
ところで、尋問を受ける者は陳述書を提出する慣行が定着している。限りある尋問時間では述べ切れない言い分も言える。反対尋問者に不意打ちをさせないという配慮もある。私も、近々陳述書を提出の予定でドラフトを起案している。提出版としては未確定だが、目次と前書きの部分だけをアップしてお目に掛けておきたい。ぜひ、当日法廷傍聴をお願いする。
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平成29年(ワ)第38149号損害賠償請求反訴事件
反訴原告 澤藤統一郎
反訴被告 吉田嘉明,株式会社ディーエイチシー
????????????????????????????????????????????????????? 2019年4月某日
?反 訴 原 告 本 人 陳 述 書
東京地方裁判所民事第1部合議係御中
??????????????????????????????????????????? 反訴原告本人 澤 藤 統一郎
目 次
はじめにー本陳述書作成の目的と概要
1 私の経歴
2 ブログ「憲法日記」について
3 「本件各ブログ記事」執筆の動機
4 言論の自由についての私の基本的な理解と本件各ブログ
5 「本件ブログ記事」の内容その1ー政治とカネの関わりの視点
6 「本件ブログ記事」の内容その2ー規制緩和と消費者問題の視点
7 「本件ブログ記事」の内容その3ースラップ訴訟批判の視点
8 DHC・吉田嘉明の「前訴提起」の目的とその違法
9 前訴における請求拡張の経緯とその異常
10 DHC・吉田の関連スラップ訴訟10件
11 本件スラップ提訴は「裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く」
12 本件反訴提起の動機と意味
13 損害について
14 反訴被告の応訴姿勢について
おわりにー本件判決が持つであろう意味
はじめにー本陳述書作成の目的と概要
本年4月19日予定の証拠調べ期日における本人尋問に先だって、反訴原告本人としての言い分を本陳述書にまとめて提出いたします。
2014年5月、私は突然に東京地裁から訴状の特別送達を受け、民事訴訟の被告とされたことを知りました。否応なく、応訴を余儀なくされる立場となったのです。
私を訴えた原告は、吉田嘉明と、同人がオーナーとなっている株式会社ディーエイチシー(以下、DHCと言います)の両名です。両名の主張は、「私(澤藤)のインターネット上の3件のブログ記事がDHCと吉田嘉明の名誉を毀損しているので、そのブログ記事の抹消と謝罪文掲載を求める。また、慰謝料2000万円を支払え」というものでした。
なお、この2000万円の賠償請求額は、わずか3か月後の同年8月に請求拡張されて6000万円に増額されています。
当然のことながら、6000万円もの巨額請求民事訴訟の被告とされた私は、心穏やかではいられませんでした。私が被告の立場にあったのは、2014年4月提訴から2016年10月最高裁の上告受理申立不受理決定で請求棄却が確定するまでの約2年半のことです。心穏やかならざる状態はこの間ずっと続きました。DHC・吉田嘉明の提訴を不当なもので請求棄却は確信しつつも、いやむしろ不当な提訴と確信するからこそ、この上なく不愉快で心穏やかでない気持を払拭できなかったのです。毎日、起床から就寝まで、常に自分が6000万円を請求されている被告の身であることを忘れることができない日常生活でした。
どんな提訴に対しても、応訴には時間も労力も費用もかかるものです。不当な提訴が、被告とされる者にいかに大きな有形無形の負担を強いるものであるか、心理的な打撃を与えるものであるかを、身に沁みて実感しました。
民事訴訟の提起が、かくも人を威嚇するに十分な効果をもつものであることを体験的に知りました。訴状はもっともらしく弁護士が訴訟代理人となって作成されます。その訴状が、裁判所から発送されるのです。被告とされた立場で、訴状を受け取る人に、大きな衝撃となることは、考えてれば当然なことです。
また私は弁護士としてこれまで名誉毀損訴訟の被告事件を相当数受任してきた経験がありますから、日本の訴訟実務が、被告の側に違法性阻却のための過重な負担を押しつけるものであると認識しています。被告にされることは、たいへんに面倒なことなのです。
このような不当提訴で、被告とされた私に多大な迷惑を掛けておいて、敗訴が確定した今も、DHCも吉田嘉明も代理人である今村憲弁護士も、私に何の謝罪の表明もありません。
理不尽極まる民事訴訟に2年半も付き合わされた私は、この不条理な事態をもたらした人物たちに寛容な態度で接することは到底できません。半ばは私憤で、そして半ばは公憤として、DHCにも吉田嘉明にも、そして代理人となった弁護士にも、真摯な反省と、同様の非違行為を再発することのないよう防止のための適切な制裁措置が必要だと考えています。この反訴請求事件は、その意味での適切な制裁にほかなりません。
どう考えても、私に違法と判断される行為があったはずはありません。私は、憲法上の基本権として保障されている「言論の自由」を行使したに過ぎないのです。いや、権利を行使したというよりは、むしろ民主主義社会の主権者のひとりとして、社会に有益で有用な言論を発信したのだと確信しています。提訴され被告とされて、有形無形の負担を強いられる筋合いはありません。私の言論ではなく、正当な私の言論を妨害する動機をもってなされたDHC・吉田嘉明の提訴こそが、違法なのです。
DHC・吉田嘉明は、結果的に敗訴したというものではありません。普通の感覚をもって考えれば、けっして勝訴できるはずもない提訴であり、普通の弁護士に相談すれば勝ち目のないことは分かりきった訴訟なのです。それでも、敗訴を覚悟で敢えて提訴したのは、勝訴による権利回復を目的とした訴訟ではなく、高額請求訴訟の提起自体が持つ威嚇力によって、私(澤藤)の言論を封殺することを意図してのこととし考えられません。
その訴訟(DHC・吉田嘉明が私を訴えた訴訟、以下「前訴」といいます)で問題とされた私の言論は、吉田嘉明が政治家に8億円もの裏金を提供したことに関連して、政治とカネにまつわる民主主義政治過程攪乱への批判であり、消費者利益が危うくなっていることに関しての社会への警鐘の言論です。そして、請求拡張の請求原因においては、前訴をスラップ訴訟として訴権の濫用をもってする言論封殺行為への批判でした。「民主主義の政治過程をカネの力で攪乱してはならない」「行政は消費者利益を擁護しなければならない」「表現の自由は最大限の尊重を要する」という自明の大原則に照らして、厳しく批判されるべきは、反訴被告吉田嘉明やその代理人弁護士の不当な行為であって、私の言論はこれに対する適切な批判と警告の言論にほかなりません。
この点についての私の確信の根拠を裁判官の皆さまに、十分にご理解をいただきたく、以下のとおり意見を申し述べます。
なお、もう一点お願いしておきたいことがあります。
DHCと吉田嘉明が名誉毀損となるとした、6000万円の損害賠償の根拠とされた私のブログは5件に及びます。訴訟提起以前のブログが3件、訴訟提起後にこの訴訟を違法なスラップだと論評したものが2件です。
裁判官の皆様には、ご面倒でもこの5件のブログ全体をお読みいただきたいのです。前訴の訴状では、ずたずたに細切れにされたものとなっていますが、くれぐれも、DHC・吉田嘉明が恣にした細切れのバラバラな文章の印象で、前訴提起の違法の有無を判断することのないようにお願いしたいのです。
まずはDHC・吉田嘉明が違法と非難する5本の各ブログの文章全体を、私が書いたとおりの文章としてよくお読みいただくようにお願いいたします。文章全体をお読みいただくことで、常識的な理性と感性からは、各記事が、いずれも非難すべきところのない政治的言論であることをご理解いただけるものと確信しています。(以下略)
(2019年3月28日)
春。暖かい風が心地よい。しかも、この上ない好天。早朝、不忍池をめぐる。万物が蘇生している。花は紅柳は緑だ。上野の桜は五分咲きというところか。
1963年ちょうど今頃の春の盛りに、私は目黒区駒場にある学生寮の住人となった。北寮と名付けられた棟の3階の壁のペンキの匂いを今も覚えている。完全自治制のその寮の6人定員の各部屋は、部活動の単位で割り当てられていた。私が所属したのは中国研究会。略して「中研」だった。東西対立の厳しい時代、西側陣営には英国以外に新中国を承認する国のなかった当時のことだが、社会主義革命をなし遂げた中国に関心もあり、ここに明るい未来があるように見てもいた。
私は熱心な会のメンバーではなかったが、一通りは中国の近代史を学んだ。そのなかで興味をそそられたのは、国共合作である。誰かがこう言った。「抗争の相手と手を結んで間違わない、中国共産党の戦略と判断力はすごい」「いや、誰が考えても当時はそうするしか選択の余地がなかっんだろう」。さて、どうなんだろうか。
また、誰かが言った。「敵の敵は味方なんだ。そう考えなければ、味方はやせ細るばかり。国民党だって味方と考えなければ、大きな力にはなれない」。うん、そうかも知れない。「いや、敵の敵は味方なんて言っていると、敵と味方の境界が分からなくなる。何のために闘っているのかぼやけてしまわないか」。なるほど、そうなのかも知れない。
私には戦略・戦術の是非はよく分からなかったが、第2次国共合作においては、日本という侵略者が主たる敵であることが明らかで、国民党も共産党もこの主敵と闘うためには協力せざるを得ない歴史的状況があった。その少し前にはフランスで、反ファシズム、反帝国主義、反戦を統一スローガンとして掲げる人民戦線政府が誕生している。
「敵の敵は味方」というテーゼの一般化は難しい。先日、本郷三丁目で「NHKから国民を守る党」を名乗る人物が旗を立てビラを配っていた。この政党は、明らかに「NHK」を敵としている。私も、NHKを敵とみる立場。では、「NHKから国民を守る党」は、敵の敵として私の味方か。どうもそうではなさそうだ。この政党とお友達とみられたくはない。
このワンイシュー政党、どう見ても胡散くさい。この党の党首は、立花孝志という人物。この人のホームページを見ると、「私はNHKから被害を受けている視聴者・国民を全力で、命がけで、お守り致します」と威勢がよい。その具体的に被害の内容は3類型あるというが、なかなか理解が難しい。
?経済的被害者【受信料支払い者 約50%】
支払い者【不払い者の分まで支払わされている】
?精神的被害者【受信料不払い者 約50%】
24時間体制でやって来るNHK集金人【反社会勢力関係者も多数在籍】からの脅迫行為や裁判の被告になってしまうかも?という不安による精神的被害
たった一つよく分かるののは、「?情報的被害者」なる類型の中の、「反日的な報道をされている」という一項目。立花らの立ち位置から見ると、NHKの報道姿勢は「反日」であり、「左に偏向している」ことで、国民に被害を与えている。このNHKの反日・偏向報道被害から国民を全力で守るというのだ。これには驚ろかざるを得ない。
NHKの報道姿勢は、その総体的傾向において政権ベッタリ、対米追随、皇室礼賛というほかはない。その権力批判を忘れさったNHKを、「反日」「偏向」というのがこの政党。「敵の敵」ではあるか、こんな政党を味方と見るわけにはいかない。
また、大阪府・大阪市を牛耳っている大阪維新。私は、維新を民主主義に危険な敵と見続けてきた。ところが今、維新を敵とする主たる勢力は自民である。いうまでもなく、自民党も、私にとっての敵である。改憲を目論む勢力として敵リストの筆頭に位置する。
「敵の敵は味方」という公式は、「維新と敵対している自民は味方」とも、「自民と敵対している維新は味方」とも言いうる。さて、今行われているクロス選挙戦どう対応すべきか。
「敵の敵は味方」という一般論は、実は何の指針にもならない。そのときどきで、何が主要なテーマであるかを考え、各勢力の力関係に鑑みて、方針を決するしかない。大阪では、知事・市長を押さえて、大阪都構想を打ち出している維新が主敵。自民大阪と組んでも、維新を倒さねばならない。この判断においては、一般論的公式はなんの役にも立たない。
思えば戦国の昔、七雄は合従連衡を繰り返した。各国の目的は、自国の安泰・他国の併呑という単純さだったが、誰が味方かは、情勢次第で複雑に変化した。
今、改憲阻止が最大の政治課題であり獲得目標である。明文改憲阻止は、現実的に可能な課題であり、万が一にも明文改憲を許すと、取り返しのつかないことになる。そのためには、アベ改憲推進勢力の敵はすべて味方とするしかない。
9条改憲を推し進めようとする者が敵、これを阻止する者が味方。改憲を阻止するためには、味方を増やして敵を孤立させるしか方法はない。ここでは、「敵の敵はすべて味方」だ。国共合作もよし、統一戦線でも人民戦線でもまたよし。肝要なのは、「安倍政権下での改憲阻止」の一点で結集した味方を増やすことに専念するすることだ。
こうして、改憲勢力を孤立させ、7月参院選で改憲勢力から議席を奪うことができれば、しずかな心で、来年の桜を観ることができるだろう。
(2019年3月27日)
あの噂って、ホントかな?
いったい、何の話?
オリンピックの五輪のマーク。あの5色を、東京五輪が終わるまでは、全部金色にするんだって。
なるほど、金まみれオリンピックの開き直りってことか。
それだけでなくてね、金メダルと言わずに、カネメダルということにするんだって。
さだめし、銀メダルは銀貨メダル、銅メダルは銅貨メダルってことか。
それから、新東京五輪音頭って知ってる? こんなのらしいよ。
ハァ?
コントロールとブロックと
2億のワイロでせしめた五輪
おかげで みやこは 建設ラッシュ
ほとぼり冷めたら また儲けましょと
固い思いは 夢じゃない
ヨイショコリャ 夢じゃない
オリンピックは カネまみれ
ソレトトント トトント カネとカネ
そいつはいいや。ピッタリじゃん。東京五輪は儲けのタネだものね。
アベ政権って、たまたまの景気でもっているよね。オリンピックの公共事業のおかげもあるんじゃない。
アベさんは、「2020年オリンピックの年を改正憲法施行の年に」なんて、改憲の道具にも使っているよ。
ほら、愚民には「パンとサーカス」って言うでしょう。いまなら、株とオリンピックというところね。
政府が操作した株価と、カネにまみれたオリンピック。今の日本にふさわしいのかもね。
成熟した都市は、どこもオリンピック招致には反対だというね。
リオと東京が、ワイロまで出して招致したわけだ。
JOC会長の竹田恒和って人、フランスの司法当局から取り調べを受けてるんだって。被疑者なの?
贈賄の疑いで予審判事の調査を受けているという報道だけど、制度が違うんで分かりにくいね。
何のカネかはともかく、竹田会長の責任で2億2000万円をシンガポールの怪しげな会社に支払ったことは間違いないのね。
そのカネは、IOCの委員の息子に渡ったようだ。その父親の委員が当時、開催地の決定に影響力を行使できる立場にあったんだって。だから、そのカネの支払いは賄賂にあたると見られているようだね。
2億2000万円。ワイロかコンサル料かはともかく、そんなのは、はした金なんだ。
東京五輪の総費用、当初は7000億といわれていたけど、今や3兆円を超すというものね。2億2000万円なんて、こまかいはなし。
放射線も予算も偽装での招致ってことね。築地も夏場の暑さも欺された感でいっぱい。ブラックボランティアの問題もあるし、問題ばかりね。
欺しといえば、「復興五輪」のスローガン。三陸の津波被害の現地では、土木作業者をオリンピックにとられて、「復興妨害五輪」と言ってるよ。
それよりも、オリンピックを国威発揚に利用したり、ナショナリズムを煽る舞台とするのが、気持ち悪い。
オリンピック憲章には結構よいこと書いてあるけど、現実には、金まみれ、政権の思惑まみれ。
今から、東京五輪返上ってわけには行かないかしらね。
オリンピック返上の
固い思いは 夢じゃない
ヨイショコリャ 夢じゃない
オリンピックは もうよそう
ソレトトント トトント さようなら
(2019年3月26日)
日本国憲法は1947年5月3日に施行された。その年の8月、文部省は新憲法の解説書をつくっている。よく知られた「あたらしい憲法のはなし」である。新制中学校1年生用社会科の教科書として発行されたもの。1947年8月2日文部省検査済とされている。
ときに革新の側から礼賛の対象とされてきた「あたらしい憲法のはなし」だが、今読み直して、その内容は時代の制約を受けたものと言わざるを得ない。とりわけ、天皇に関する解説は、萎縮して何を言っているのか分からない。こんなものを戦後民主主義の申し子のごとく、褒めそやしてはならない。
15章からなるもので、これまでいくつかの章を論評してきた。今回は、「新しい憲法の話 第7章 基本的人権」を読む。この章はやや長い。そして、「天皇」の章のような問題は少なく、もちろん、評価すべき点も多々ある。しかし、人権の擁護、あるいは個人の人格の尊厳こそが憲法の至高の価値であって、その価値の体現のために憲法が編まれているという基本視点が希薄で、迫力に欠けるところが惜しまれる。
くうしゅうでやけたところへ行ってごらんなさい。やけたゞれた土から、もう草が青々とはえています。みんな生き/?としげっています。草でさえも、力強く生きてゆくのです。ましてやみなさんは人間です。生きてゆく力があるはずです。天からさずかったしぜんの力があるのです。この力によって、人間が世の中に生きてゆくことを、だれもさまたげてはなりません。しかし人間は、草木とちがって、たゞ生きてゆくというだけではなく、人間らしい生活をしてゆかなければなりません。この人間らしい生活には、必要なものが二つあります。それは「自由」ということと、「平等」ということです。
人権解説の導入が、空襲被害の跡地から始められていることが示唆的である。期せずして、「新憲法」制定の時代背景を物語っている。あらためて思う。憲法は悲惨な国民の戦争体験から、焼け跡に生まれたのだ。
焼け跡の草の生命力は、天賦人権論を意識してのことなのだろう。ここから説き起こして、「人間の生存をだれもさまたげてはなりません。」とした上、自由と平等を説いている。その語り口に特に異論はない。
人間がこの世に生きてゆくからには、じぶんのすきな所に住み、じぶんのすきな所に行き、じぶんの思うことをいい、じぶんのすきな教えにしたがってゆけることなどが必要です。これらのことが人間の自由であって、この自由は、けっして奪われてはなりません。また、國の力でこの自由を取りあげ、やたらに刑罰を加えたりしてはなりません。そこで憲法は、この自由は、けっして侵すことのできないものであることをきめているのです。
自由の説明なのだが、やや物足りない。憲法が、個人の自由と国家権力との対抗関係を基軸として構成されていることの認識が、筆者に希薄なようである。そこが叙述に迫力を欠く根源となっている。
またわれわれは、人間である以上はみな同じです。人間の上に、もっとえらい人間があるはずはなく、人間の下に、もっといやしい人間があるわけはありません。男が女よりもすぐれ、女が男よりもおとっているということもありません。みな同じ人間であるならば、この世に生きてゆくのに、差別を受ける理由はないのです。差別のないことを「平等」といいます。そこで憲法は、自由といっしょに、この平等ということをきめているのです。
平等という理念の解説である。「人間である以上はみな同じ」「人間の上に、もっとえらい人間があるはずはなく」「男が女よりもすぐれているということもありません。」と言う。中学1年生の読み手なら、これを読んで「天皇はどうなの?」と疑問をもつに違いない。
「天皇は戦争前は神さまだったけど、戦争に負けた後人間宣言をしたはずでしょう」「天皇だって人間だから、人間の上のもっとえらい人間であるはずはないよね」「でもどうして、天皇は国民と平等でないの?」と思うのが当たり前。この教科書は、その当然の疑問にまったく答えようとしていない。
國の規則の上で、何かはっきりとできることがみとめられていることを、「権利」といいます。自由と平等とがはっきりみとめられ、これを侵されないとするならば、この自由と平等とは、みなさんの権利です。これを「自由権」というのです。しかもこれは人間のいちばん大事な権利です。このいちばん大事な人間の権利のことを「基本的人権」といいます。あたらしい憲法は、この基本的人権を、侵すことのできない永久に與えられた権利として記しているのです。これを基本的人権を「保障する」というのです。
この叙述のわかりにくさ物足りなさは、人権が国家に対する権利であることが明記されていないところにある。人権を「保障する」とは、主権者国民の宣言として、国家に人権侵害をしてはならないと命令しているのである。国家性悪説からの立論をカムフラージュしようとする筆致が、ことがらの本質をぼやかしている。
しかし基本的人権は、こゝにいった自由権だけではありません。まだほかに二つあります。自由権だけで、人間の國の中での生活がすむものではありません。たとえばみなさんは、勉強をしてよい國民にならなければなりません。國はみなさんに勉強をさせるようにしなければなりません。そこでみなさんは、教育を受ける権利を憲法で與えられているのです。この場合はみなさんのほうから、國にたいして、教育をしてもらうことを請求できるのです。これも大事な基本的人権ですが、これを「請求権」というのです。爭いごとのおこったとき、國の裁判所で、公平にさばいてもらうのも、裁判を請求する権利といって、基本的人権ですが、これも請求権であります。
それからまた、國民が、國を治めることにいろ/?関係できるのも、大事な基本的人権ですが、これを「参政権」といいます。國会の議員や知事や市町村長などを選挙したり、じぶんがそういうものになったり、國や地方の大事なことについて投票したりすることは、みな参政権です。
人権の分類を「自由権」「請求権」「参政権」と三分しているようだが、その分類の当否は問題ではない。しかし、なぜきちんと社会権の具体的内容にまで言及しないのだろうか。25条の生存権、28条の団結権などは、新しい世代の主権者に特に知ってもらう必要があるだろう。文部省は、労働者の団結権や争議権、経済弱者の生存権などは教えたくなかったのだろうか。
みなさん、いままで申しました基本的人権は大事なことですから、もういちど復習いたしましょう。みなさんは、憲法で基本的人権というりっぱな強い権利を與えられました。この権利は、三つに分かれます。第一は自由権です。第二は請求権です。第三は参政権です。
「みなさんは、憲法で基本的人権というりっぱな強い権利を與えられました。」という表現が引っかかる。人権は、あるいは個人の尊厳は、けっして憲法が創設したものではない。この教科書の著者は、「みなさんにりっぱな強い権利を与えた」のは誰だと考えているのだろう。まさか、「国家」ではあるまい。もしかしたら、前主権者である「天皇」からか? いくらなんでもそれはない。また、「憲法」でもないだろう。結局は、憲法を制定した「主権者国民」とならざるえない。しかし、国民が国民から「基本的人権というりっぱな強い権利を與えられました」という言い回しは不自然ではないか。人権は、前憲法的な自然権的存在として想定されなければならない。
こんなりっぱな権利を與えられましたからには、みなさんは、じぶんでしっかりとこれを守って、失わないようにしてゆかなければなりません。しかしまた、むやみにこれをふりまわして、ほかの人に迷惑をかけてはいけません。ほかの人も、みなさんと同じ権利をもっていることを、わすれてはなりません。國ぜんたいの幸福になるよう、この大事な基本的人権を守ってゆく責任があると、憲法に書いてあります。
この説教口調がいただけない。おそらくこの著者には、人権なるものが、憲法制定と同時に、どこかから国民に与えられた、という意識があるのだと思われる。これが時代の制約であり、当時の教科書としてやむを得ない内容だったのだろう。
中江兆民の「三酔人経綸問答」に、「恢復の民権」と「恩賜の民権」という言葉が出て来る。「勝ち取った人権」と「与えられた人権」と、翻訳して大きな間違いはないものと思う。
この文部省の教科書の著者にとっては、目の眩むがごとき「新憲法」の人権保障条項は、「勝ち取った人権」との認識ではなかったのだろう。「与えられた人権」としての遠慮がその叙述にあらわれている。
いま、主権者である国民が人権を語ることには、誰にも何の遠慮も要らない。とりわけ、国家権力やそれを担う者にも、そしていうまでもなく、天皇や皇室にも。
(2019年3月24日)
歴史の証人である被爆船第五福竜丸は、東京都江東区夢の島公園の展示館で、多くのことを語り続けている。展示館の老朽化に伴う改修工事が順調に進展して、4月2日(火)に展示を一新してリニューアルオープンの運びとなる。ぜひ、また夢の島まで足を運んで、ボランティアガイドの説明にも、船体自身のつぶやきにも耳を傾けていただきたい。
この展示館には、木造のマグロ漁船「第五福竜丸」およびその付属品や関係資料を展示しています。「第五福竜丸」は、1954年3月1日に太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被害を受けました。木造漁船での近海漁業は現在も行われていますが、当時はこのような木造船で遠くの海まで魚を求めて行ったのです。
「第五福竜丸」は、1947年に和歌山県で建造され、初めはカツオ漁船として活躍し、後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業に出ていました。水爆実験での被爆後は、練習船に改造されて東京水産大学で使われていましたが、1967年に廃船になったものです。
東京都は、遠洋漁業に出ていた木造漁船を実物によって知っていただくとともに、原水爆による惨事がふたたび起こらないようにという願いをこめて、この展示館を建設しました。 <東京都 1976年6月10日開館>
長期にわたる展示館建物改修工事は無事、予定通り終了し、4月2日よりリニューアルオープンを迎える見込みです。
(4月1日は月曜日で休館ですので、お間違えの無いようご注意ください。)
http://www.d5f.org/news/90.html
また、第五福竜丸展示館のある夢の島公園は2020年に開催予定のオリンピック・パラリンピックのため、各所で工事が行われています。ご来館時の工事個所等については展示館までお問い合わせください。
団体見学についてのご案内
http://d5f.org/dantai.html
第五福竜丸展示館では団体見学を受け付けております。
サークル、ゼミなどの団体見学や小、中、高など学校の修学旅行なども多く受け 入れております。周囲は芝生が茂るキレイな公園で、アクセスも良好で大型バス 駐車場などもご用意しております。
ご来館の際には、当館のボランティアスタッフ、学芸員によるガイド(簡単なご 説明、展示紹介、質疑応答など)も行っております。
団体見学概要
ボランティアガイド、学芸員により展示解説20~30分・展示物の見学30分 あわせて凡そ50~60分程度が通常見学時間です。
※場合、混雑により時間調整を行います。必ず事前でのご連絡が必要です。
ご希望の方はTELまたはFAXにてご連絡を下さい。
東京都立第五福竜丸展示館
東京都江東区夢の島2丁目1-1 夢の島公園内
TEL:03-3521-8494 FAX:03-3521-2900
当館の新しいパンフレット(PDF版)のダウンロードはこちら
http://d5f.org/pamphlet.pdf
なお、ありがたいことに、第五福竜丸展示館4月2日リニューアルオープンは、メディアでも話題となっている。
東京新聞3月18日 夕刊
福竜丸展示館 来月新装オープン 船内の3D映像視聴可に
米国によるビキニ環礁水爆実験で一九五四年に被ばくしたマグロ漁船「第五福竜丸」を保存する東京都立第五福竜丸展示館(江東区)で、四月の新装オープンに向けた準備が大詰めを迎えている。建物の老朽部分を改修し、船内の3D映像を視聴できるスペースなどを新たに設置。高齢で亡くなる元乗組員も多い中で、被ばくの影響や証言の継承に取り組む。
「屋根の雨漏りがなくなった。これで船も傷まない」。三月上旬、全長約三十メートルの福竜丸で甲板に職員らが上り、手すりや操舵(そうだ)室にたまったほこりを丁寧に拭き取った。
七十年以上前に建造された船体はペンキがはげ、傾きもある。安全や保存の観点から普段は船内に立ち入ることはできない。展示館は今年で開館四十三年。地盤沈下で床はへこみ、天井からは雨水が漏れ出していた。昨年七月から休館し、断熱材の張り替えや照明の改良も含め改修を進めた。
3D映像は、機関室や魚の保存倉庫などをさまざまな角度から撮影して製作。約八分間で、船内を歩いている感覚を味わえるような構成にした。他に元乗組員の証言映像も公開。外国人客への対応として、英語の説明パネルも設置した。
第五福竜丸は五四年三月、太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験に巻き込まれ乗組員二十三人が被ばく。廃船後に東京・夢の島の海岸に放置されたが市民の要望を受け都が保存を決めた。重さが約百四十トンあったため周囲を埋め立てて陸揚げし、少しずつ移動させ館内に搬入した。
元乗組員は、今年二月に見崎(みさき)進さんが九十二歳で亡くなり生存者は四人になった。展示館の新装オープンは四月二日で、学芸員の蓮沼佑助さん(28)は「水爆の被害や乗組員の苦労を知ってほしい」と話している。
赤旗3月24日「きょうの潮流」
2020年の東京オリンピック施設整備で突貫工事が続く夢の島公園。同公園内にある都立・第五福竜丸展示館も4月2日のリニューアルオープンに向けて、大規模改修中です▼第五福竜丸はアメリカが1954年水爆実験を強行した太平洋ビキニ環礁まで航海し、被ばくした木造マグロ船の一つです。原水爆禁止を願う運動で保存され、1976年に開館。築43年、激しくなった屋根からの雨漏りを防ぐ工事などを済ませました。ビキニ被ばく65年の節目に第五福竜丸を守る“シェルター”として生まれ変わります▼傷みが目立つ第五福竜丸本体の改修も急がれます。戦争直後の1947年建造。1985年に大改修しました。当時、「木造の大型船が残されていること自体が貴重。文化財保護の理念での改修を」との専門家の助言を受け、同じ材質で、同じ工法で、1年3カ月かけました▼今回新たに「立体画像(3D映像)で歩く船内」や元乗組員・大石又七さんの証言映像、英文案内も加わります▼学芸員の安田和也さんは「展示館は、産業文化遺産と同時に平和遺産です。核兵器の廃絶を願い、第五福竜丸を知らない世代にむけて核の問題を発信し続けたい」と▼2020年は、核実験した核保有大国と核兵器禁止条約に賛成する諸国政府が議論を交わす場になる、NPT(核不拡散条約)再検討会議が国連本部で開かれる年でもあります。展示館は原爆ドームとともに、日本を訪れる世界の人たちに一度は見学してほしい平和の拠点です。
(2019年3月24日)