澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「I MARYMOND YOU」 「DO YOU MARYMOND ME?」

マリーモンド(MARYMOND)をご存知ですか?

ええ、実は最近知りました。これまでは、そんな言葉もそんなブランドがあることもまったく知りませんでした。でも、急に有名になりましたね。

私も詳しくは知らなかったのです。あらためてネットで検索してみたら、ステキなサイトが開けました。
https://www.marymond.jp/

なかに、こんなページがあります。

Donation
社会貢献するソーシャルビジネス

マリーモンドは韓国の若者たちが立ち上げた
ライフスタイルブランドです。
社会貢献するソーシャルビジネスとして
今、世界中の若者たちに愛されています。
売り上げの一部は、「慰安婦」被害者女性たちや
虐待被害児童への支援に寄付されています。
マリーモンドジャパンでご購入されると
売り上げは経費をのぞく全てが
性暴力問題解決のためのプロジェクトに使用されます。

そんな素敵なベンチャーなら、応援したくもなりますね。
私も、こんな言葉を見つけました。

負けずに堂々と 宋神道さん
花ハルモニ
「花ハルモニ」は、日本軍「慰安婦」被害者であるハルモニたちに、一人一人の特徴に合った花をマッチングさせることで、ハルモニの尊さを浮かび上がらせる、
マリーモンドのヒューマン・ブランディング・プロジェクトです。

昔の絵の中にしばしば登場し、長い間、私たちの
近くにいたセキチクは、1年中負けずに花を咲かせます。
固いものを柔らかくしてしまうセキチクの種と、
岩にも花を咲かせる姿は、負けない強い気持ちを持ち続けた
宋神道さんを思い出させま

ハルモニは韓国語で親しみを込めた「おばあさん」の意味ですね。日本軍「慰安婦」被害者だった在日の宋神道(ソン・シンド)さんのことをセキチクにたとえて、「花おばあさん」と言っているのですね。

このブランドの商品は、携帯電話のケースや布製のバッグ、それに文房具や小物類。何かを買って応援したい気持になりますよね。

このブランド、これまでも、話題にはなっていたようです。でも、突然有名になったのは、「チェジュ航空の日本協力企業が韓国人職員に対し、勤務地では日本軍慰安婦被害者を後援するブランド『マリモンド(MARYMOND)』のカバンを持たないよう指示していたことが分かった。」というニュースがあって以来のこと。

少し調べてみたのですが、このニュースは、1月28日にソウル新聞が初めて掲載し、この記事をもとに29日の韓国有力紙・中央日報が大きな記事にし、それを30日に共同通信が日本の各メディアに配信したという経緯のようですね。

31日の夕方に、「韓国人空港スタッフへの『慰安婦支援ブランド禁止』令。企業はどこまで縛れるのか」という、Business Insider Japanの行き届いたネット記事が掲載されています。これで、問題点が過不足なく理解できます。
https://www.businessinsider.jp/post-184309

中央日報の見出しが、「チェジュ航空の日本協力企業 『慰安婦後援ブランドのカバン持つな』」というものでした。共同通信記事の見出しは、「成田の航空業務企業 勤務中の慰安婦支援製品所持禁止」。穏やかではありませんね。

この日本協力企業というのは、成田空港でチェジュ航空のアウトソーシングを請け負っているFMGという会社。そして、「マリーモンドブランドのカバンを持つな」と言われたのが、この会社で働く韓国人の地上職スタッフの女性。日本企業と韓国人労働者が慰安婦問題をめぐって対立、という構図となったわけです。日韓関係の微妙な時期に、もう一つの火種となったのが残念です。

中央日報記事のリードの日本語訳が、(FMGは)「日本の空港に勤務するチェジュ航空担当のグランドスタッフ(地上職)に『マリモンドのカバンを持つな』と禁止令を下した。」という、ややトゲトゲしい表現ですね。さらに、「『会社は政治的・宗教的意味を込めた物を許可していない』と公示した。」というのですから、韓国の人々の、日本の企業はそこまでやるのか、という気分が伝わってきますね。

日本側の反応ですが、共同通信がこの件を報じるとTwitter上には「思想警察、一歩手前」「『トラブルを避けたい』だけの過剰反応」などFMGの判断を疑問視する投稿が多く見られたということです。中には「ディオール製品を見かけたら『フェミニズム支援のブランドではないか』と苦情を入れるのか。苦情が入ったらディオールの所持を禁止するのか」などの意見もあったとか。会社が、慰安婦問題だから、神経を尖らしたと受けとめられています。

ニュースで指摘されているとおり、そのカバンには政治的なスローガンや元慰安婦の女性たちを支援していると分かるような具体的なメッセージが記されていたわけではありません。それでも会社が禁止したのはどうしてなんでしょうかね。

問題の発端は、「スタッフがマリーモンドのバッグを持っているのを見た社外の人物から『慰安婦支援のブランドではないか』などの指摘があった」ことだそうです。「社外の人物」が何者かは明らかにされていません。会社の過剰反応だった印象ですね。「社外の人物」からの指摘を恐れる雰囲気が問題ですね。何の対応もしないことで、大きな非難を受けることになると考えたのでしょう。

問題は、それだけでなく、スタッフの労働環境にもあったようですよ。ソウル新聞とのインタビューで、この労働者は「慰安婦おばあさんを後援する会社のカバンだから持つなというのは不合理ではないかと思った。だが、入社1年内に退社するとひと月分の月給より多い違約金を支払うことになっている雇用契約のため、異議を提起できなかった」「日本人上司が持続的に『まだカバンを変えていないのか』と指摘し、結局カバンをショッピングバッグに入れて持ち歩いた」とのことです。

これはひどい話。「入社1年内に退社するとひと月分の月給より多い違約金」というのは、労働基準法第16条「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない」に違反します。もちろん、民事的には無効ですし、罰則もあります。労基法第119条で、「6か月以下の懲役又は30万円以下の罰金」に処せられます。成田の中にある労働組合と連絡をとって、労基法違反を確認のうえ、労働基準監督署に申告すべきでしょうね。

FMG問題はそのくらいにして、マリーモンドのことを。「I MARYMOND YOU」という言葉をつくっているそうです。「あなたは今日も尊く美しい」という意味として。

慰安婦問題を支援するにふさわしい、品格と美しさを感じます。

Business Insider Japanの記事の最後が、「今の私たちは隣人にとって尊敬される存在だろうか。」という問いかけで締めくくられています。記者は、マリーモンドの品格に較べて日本社会の対応の品格のなさを嘆いています。

「隣人にとって尊敬される存在」になることは難しいでしょうね。尊敬されずとも、対等に仲良くしたいものです。せめて、粗暴だと恐れられたり、非情で冷酷などと思われぬようでありたいと思いますよ。

それにしても、FMGへの通報者と、FMGの頑なな対応のおかげで、私もマリーモンドの存在を知りましたし、マリーモンド応援の気持になりました。きっと多くの人が、マリーモンドファンになってくれると思います。
(2019年2月4日)

皇太子は、今もなお、「いとけなき 吾子の笑まひに」いやされているだろうか。

最近、散歩コース新開拓の意欲はない。昨日も今日も、不忍池をゆっくりとまわった。はや春の萌し。風はなく、雲一つない青空。幼い子どもたちが、はしゃぎながら駆け回っている。外国人観光客のいくつもの言語が耳に心地よい。

梅が咲き始めた。福寿草も咲いている。マンサクも満開。雪割草が美しい。水鳥も草木ものんびりとしている。平和な風景。

走っている人がいる。達者にバラライカを爪弾く人がいる。句作に没頭している人がいる。そして、野鳥の会が水鳥の説明をしている。

あれがアオサギです。ちょっと見えにくいですが、鶴くらいの大きさ。ここでは、ダイサギ・チュウサギ・コサギも見ることができますよ。

アオサギ。きれいですね。最近は、増えているんですか。減っているんですか。

実は、郊外の鷺山が開発でつぶされたのですが、結構都心で増えているようなんです。昔は、鳥は食糧としてねらわれましたが、今の時代、野鳥を食べようという人もいませんからね。平和が何より。

ホントにそのとおりですね。安倍改憲に反対して、平和憲法を守らなくては。

そうです。そうです。

噴水広場には、なにかのイベントで人が集まっている。鬼に扮した人が、風船芸をやっていた。器用に、金棒や鬼の面やらを風船でつくっている。そういえば、今日は節分。子どもたちか、「鬼は外」とやっていた。

本日は盛大に、アベは外」とまいりたい。安倍辞めろ」「アベ退陣」「アベ出てけ。安倍がいなくなれば、当面「福は内」「国は平和」なのだ。

ところで、五條神社境内の掲示板に、月替わりで、「生命の言葉」が掲げられている。「神社は心のふるさと 未来に受け継ごう 「美(うるわ)しい国ぶり」」とある。神社が「美しい国ぶり」などという言葉をいつころから使い出したのだろうか。

この毎月の「生命の言葉」は、東京都神社庁が作成して配布し、傘下の各神社が掲示しているもの。 今月の「言葉」は、皇太子(徳仁)の歌。

皇太子 徳仁親王殿下

 いとけなき 吾子の笑まひに
 いやされつ 子らの安けき
 世をねがふなり

13年前、2006年の歌会始に、「笑み」の題で詠んだ歌とのこと。
文意明瞭となるよう、二行に書き分ければ、
 いとけなき 吾子の笑まひに いやされつ
 子らの安けき 世をねがふなり

1行目の「吾子」は自分の実の子で、二行目の「子ら」は子ども一般を指すのだろう。「自分の子どもの愛らしい微笑みに親として心癒されながら、自分の子だけでなく日本中の子らが、あるいは世界中の子らが、安心して暮らせる平和な世の中であって欲しい」という至極分かり易く、真っ当な内容。「世をねがふなり」は、少しエラそうな感じもするが、全体として好ましい印象を受ける。「吾子」が幼児であったこの頃には、この家族にとっての心落ちつく環境があったのだろう。

その皇太子(徳仁)は、もうすぐ天皇に就位する。そのことを意識して、東京都神社庁は今月の「言葉」に、この人の歌を取りあげたのだろう。さて、改めて思うのだ。この人、天皇となること、あるいは天皇にならざるを得ないことを、本心ではどのように思っているのだろうか。

私の尊敬する友人が、ごく最近、ある団体の通信にこんな文章を寄稿している。

私たちの憲法が、天皇を「国の象徴」「国民統合の象徴」で、「皇位は世襲」などと定めているために、私たち国民は、天皇をはじめ皇室の人たちの人権を、無茶苦茶に無視して、この70年を過ごしてきた…。…およそ、人間を「象徴」にしてしまうような憲法は、「象徴」にさせられた人間の基本的人権を蹂躙せずにはすまない。

皇太子は、13年前には「吾子の笑まひに いやされつ」と詠んだ。しかし、今そのような余裕ある心境ではなさそうだ。敬語を使いながらも意地の悪い、そして遠慮のない報道によれば、妻も、子も、そして自分自身も、押し潰されんばかりの重圧の下にあるという。しかし、今のところ、その境遇から逃れる術はない。非人間的な制度のために。
(2019年2月3日)

1890年第1回総選挙での、有権者達の知恵と熱意

「総選挙はこのようにして始まった 第一回衆議院議員選挙の真実(稲田雅洋著・有志舎、2018年10月刊)が滅法面白い。知らないことばかりが満載。いや、これまで関心を持たなかったが、なるほどと思わせられる記事で満ちている。

権力の抑制を担保するための三権分立。法の支配を前提に、立法権・行政権・司法権と分かれるが、これは立法⇒行政⇒司法という統治行為のサイクルの各部分でもある。そのサイクル始動の位置に選挙がある。民主主義的政治過程は、選挙から始まるのだ。選挙制度も運用も、それにふさわしいものでなくてはならない。

権力の正当性の根拠は人民の意思にある。神のご意思だのご託宣ではなく、選挙によって立法府の議席に結晶した人民の意思だけが権力行使を正当化する。だから、我が国の選挙の在り方に関心を持たざるを得ないが、これまで多く語られてきたのは、1925年「男子普通選挙」実施以後の選挙の歴史。

このときに、治安維持法と抱き合わせで「普選法」と通称される「衆議院議員選挙法改正」が成立し、これが日本の選挙制度戦後の骨格を形作って、戦後の公職選挙法につながっている。25年改正法で、初めて立候補の制度ができ、供託金の制度ができ、世界に冠たる「べからず選挙」の選挙運動規制法制ができあがった。

それ以前の選挙制度については語られることは少ない。ほとんど何も知らなかった。漠然と思い込んでいたのは、選挙権・被選挙権とも、直接国税15円以上の納入者に限られていた制限選挙。当時の税制は地租が中心だったのだから、地主階級が議席の大半を占めていたのだろう。そもそも、自由民権運動の敗北が天皇主権の大日本帝国憲法制定と制限選挙での帝国議会開設となったのだから、第1回総選挙も議会も熱い政治運動の舞台とはならなかったろう。

ところが違うのだ。どんな制度でも、良質な人々は、知恵を出しあい、汗も金も出しあって、制度を使いこなそうとするものだ、という見本のような話が発掘されている。人々の知恵の働かせ方が、滅法面白いのだ。

出版社の惹句は以下のとおりだ。
1890(明治23)年の第一回総選挙で当選して衆議院議員になった者の中には、実際には15円以上の国税納入資格を満たしていなかった者がかなりいた。彼らは、支持者たちの作った「財産」によって、資格を得たのである。中江兆民・植木枝盛・河野広中・尾崎行雄・島田三郎など、自由民権運動の著名な活動家をはじめとして、数十人は、そのような者であったといえる。本書は「初期議会=地主議会」という通説のもとで解明されずにきた「財産」作りの実態や選挙戦の有り様を、長年にわたる膨大な史料の博捜により解明、貴重な史実を明らかにする。

「財産作り」とは、著者の造語。名望ある者に被選挙者としての資格を得させるために、名義上の財産(多くは耕地)を集めて15円以上の納税者とし、議会に送り出したのだ。こうして、自由民権運動の著名な活動家の多くが議員となった。これは脱法得行為のごとくでもあり、そうでもないようにも見える。まさしく、知恵と工夫の賜物。

最初に、中江兆民の具体例が出てくる。保安条例で東京を追われて、大阪で「東雲新聞」の主筆を務めていたが、収入はわずか。その彼に、支持者が議員となることを勧める。「財産」作りは自分たちがするから、是非出馬を。固辞していた彼も、支持者たちの熱意に動かされて、「新平民の代表者としてなら出よう」ということになる。
こうして彼は、大阪4区(小選挙区)から出馬する。自ら本籍を大阪の被差別部落に移し、被差別部落民らの「財産作り」で資格を得て、当選する。支持者にも、兆民にも頭が下がる。このような手法を、著者は「勝手連型」の「財産」作と呼んでいる。

また、高知県の例では、植木枝盛等民権活動家の議会出馬の意欲を支持者らが支え、用意周到に「財産」を作って全県の定員4名の自由派系候補者を擁立し、全員が当選している。著者はこれをwin-win 型」の「財産」作りと読んでいる。

自由民権運動のなかで培われた支持者たちの信頼という「人格的財産」が、全国至るところで「勝手連型」や「win-win」型の「財産」作りとして結実した。それが、次第に議会を天皇制政府の協賛機関に納まらない力量を付けることになる、というのが著者の見方。また、このような「財産」作りには、選挙権を持たない多くの市民が参加したともいう。

制度の改善は常に必要な課題だが、現行制度の中でできるだけの知恵を出しているか、と問われる思いがする。司法のあり方には、大いに不満がある。しかし、制度の責任にして実は個別事件の中で知恵を出し切っていないのではないか、と。

(2019年2月2日)

嗚呼、都教委の思い込み ― 「日の丸・君が代」強制は正しいか

本日(2月1日)、久しぶりの最高裁庁舎。何度行っても、重苦しい雰囲気。訪ねて楽しいところではない。この雰囲気に慣れることはできそうにない。それでも出かけたのは、東京「君が代」裁判・4次訴訟が係属しているからだ。

東京「君が代」裁判は、都内公立校教職員が「日の丸・君が代」強制による懲戒処分を争う集団訴訟である。都教委は「日の丸・君が代」強制が大好きなのだ。タチの悪いことに、それが正しいことだと思い込んでいること。戦前の特高や思想検事も、「陛下に刃向かう」非国民や不逞鮮人を懲らしめることは正しいことだと本気で思い込んで職務に精励したのだ。

いま、都教委が正しいと思い込んでいることは、生徒・児童の全員が「日の丸」に向かって直立し不動の姿勢で口を揃えて「君が代」を唱うこと。卒業式・入学式は、このように厳粛な式典でなくてはならないという思い込み。教師は、そのように児童生徒をしつけなければならない、という思い込み。

全員が一糸乱れぬ行動をすることが素晴らしいことだという思い込みを、全体主義という。日本人である以上は日の丸・君が代に敬意を表する心性を持たなくてはならないという思い込みを国家主義という。そして、お上が決めたことには逆らずしたがうべきだという思い込みが権威主義である。これが、右翼の心象における原風景。その全体主義・国家主義・権威主義が、国民多くのものになったとき、いよいよ軍国主義の出番となる。

この「日の丸・君が代」強制を始めたのは、石原慎太郎という極右・レイシストの政治家。民主主義や人権にとっての不幸は、このような人物を東京都知事にしたことにある。

2003年10月23日、都教委は悪名高き「10・23通達」を発して、都内公立校の全校長に命じた。管轄下の全教職員に対して、卒業式・入学式に際しては、「日の丸・君が代」に起立・斉唱するよう職務命令を出せ、というのだ。以来、都内の全校でこの信じがたい職務命令が実行され続けてきている。

世は、多様性の時代ではないか。「日の丸・君が代」大好き人間がいてもよい。しかし、すべての人に強要することはできない。それが、憲法に書き込まれた「思想・良心の自由の保障」である。問われているのは、思想・良心の自由と、秩序との衡量。「日の丸・君が代」大好きとは、秩序大切の思い込みなのだ。

「10・23通達」は、当然に多くの教職員からの反発を招き、現場の混乱は今なお続いている。以来、多くの処分がなされ、多くの訴訟が重ねれてきた。この訴訟もその一つ。

地方公務員法上の懲戒処分は、重い方から、《解雇》《停職》《減給》《戒告》の4種がある。14名の原告(教員)が、19件の処分の取消を求めて争った。処分の内訳は以下のとおり。
《停職6月》       1名  1件
《減給10分の1・6月》 2名  2件
《減給10分の1・1月》 3名  4件
《戒告処分》       9名 12件
計           14名 19件

1審の係属部は民事第11部(佐々木宗啓裁判長)。2017年9月15日の判決は、減給以上の全処分(6名についての7件)を取り消した。しかし、一方同判決は戒告処分(9名についての12件)については、いずれも違憲違法との主張を否定して処分を取り消さなかった。

裁判所の判断は、「君が代斉唱時に不起立を貫いた者が戒告を受けるのはやむを得ない。しかし、減給以上の懲戒処分はいくらなんでも重すぎる、懲戒権の逸脱濫用として取り消す」とした。

都教委は、敗訴の判決で取り消された処分7件のうち、5件については控訴をあきらめた。そして、残る2件についてだけ控訴した。このけん、2件ともQ教員である。

Qさんが取消を求めた懲戒処分は、以下のとおり5件ある。
1回目不起立 戒告
?2回目不起立 戒告
?3回目不起立 戒告
?4回目不起立 減給10分1・1月
?5回目不起立 減給10分1・1月

都教委は、「不起立と処分を3回も重ねのだ。4回目以後は減給にしてよいだろう」という考え。これが正しい教育の在り方だと思い込んでいるのだ。しかし、2018年4月18日の控訴審判決も、都教委の控訴を退けた。それでも、都教委はあきらめない。飽くまで争う姿勢を見せることが大切だとの思い込みがあるのだろう。もしかしたら、最高裁への同志的親近感を懐いているのも知れない。最高裁に上告受理申立をしたのだ。最高裁なら分かってくれるはず。きっと何とかしてくれるという思い込み。

4次訴訟関連で、当方(教員側)は、憲法論で上告申立をし、判例違反と法令解釈の誤りとで上告受理申立をしているが、都教委もQさんに対する減給処分にこだわって上告受理申立をした。だから、今、4次訴訟関連では3件の事件が最高裁に係属中。

そのQさんの件に関する都教委の上告受理申立には、当方は2018年9月11日付で、答弁書を提出している。本日、弁護団の弁護士3名が最高裁を訪れ、担当書記官と面会して、本日付答弁書補充書を提出した。

郵送でも良し、ともかく窓口にポンと提出でもよいのだが、「内容をかいつまんで口頭説明したい。できれば、担当調査官(判事)に面会したい」と申し込んでの、答弁書持参の訪問。

応対の書記官は、たいへん丁寧な態度で、「ご説明を受けたことは調査官にお伝えいたします」「重ねて、調査官面会の希望があったこともお伝えします」とのことだった。すくなも、当方の熱意は伝わったのではないか。

当方の説明は、「補充書」の目次を示してのもの。

 本件の相手方(Qさん)は、「自らの思想・良心の命じるところに従って不当な制裁を甘受するか」、あるいは「処分を免れるために心ならずも思想・良心を曲げてこの強制に服して起立・斉唱するか」の、どちらにしても苛酷な選択を強いられることになった。本来は違憲の判断であるべきだが、せめて公権力行使の裁量権逸脱・濫用論の活用をもって妥当な解決をはからねばならない。思想・良心にもとづく真摯な不起立に対しては、そもそも懲戒権行使の効果を認めるべきではないが、少なくとも、実害を伴う処分を科すべきではない。このことが、「2012年判決」(2012年1月16日第1小法廷判決)が示した、裁量権逸脱・濫用論の実質的理由であり、同判決の神髄をなす判断である。
 以上の裁量権逸脱・濫用論は、不起立の回数や、過去の処分歴の回数によって、処分量定の変化はあり得ないということになる。
 相手方教員の思想・良心は一つである。この一つ思想・良心を何度叩いても、同じ結果とならざるをえない。思想・良心の内容を変えることはできない。むしろ、不起立の回数で、処分量定を加重するやり口は、思想や良心を鞭打って、転向を迫ることにほかならない。最高裁判例はこのような転向強要を戒めているものである。
 都教委の上告受理申立は、すみやかに不受理とすべきである。
(2019年2月1日)

中国の人権状況を憂うる

「中国 人権派弁護士に4年6カ月の実刑判決」のニュースには、暗澹とせざるを得ない。中国よ、革命の理想はどこに追いやったのか。人権も民主主義も法の支配も捨て去ったというのか。野蛮の烙印を甘受しようというのか。

弱者の権利を擁護するために法があり、適正な法の執行のために司法制度がある。脆弱な国民の人権を擁護するために、司法の場で法を活用するのが本来の弁護士の役割である。「人権派」弁護士こそが、本物の弁護士である。

権力に屈せず、カネで転ばぬ「人権派」弁護士は、権力にとっても、体制内で甘い汁を吸っている経済的強者にとっても目障りな存在である。しかし、文明社会の約束事として、法の支配も人権派を含めた弁護士の存在も受け入れざるを得ない。

この文明社会の約束事を放擲して弁護士を弾圧すれば、野蛮の烙印を甘受しなければならない。野蛮極まる天皇制政府は、それをした。治安維持法違反で起訴された共産党員を弁護した良心的弁護士を、治安維持法違反(目的遂行寄与罪)で集団として逮捕し起訴して有罪とした。有罪となった弁護士は資格を剥奪されたが、残念なことに、時の弁護士会はこれに抗議をしなかった。

今、中国でリアルタイムに同じことが起こっている。人権保障のための最低限に必要な、法廷の公開や弁護権の保障もなされていない。

BBCの下記の記事が、怒りをもって事態をよく伝えている。

中国、人権派弁護士に4年6カ月の実刑判決? 国家政権転覆罪で
https://www.bbc.com/japanese/47025148

中国・天津の裁判所は28日、人権派弁護士の王全璋氏(42)に国家政権転覆罪で4年6カ月の実刑判決を言い渡した。王氏は政治活動家や土地接収の被害者、政府が禁止している気功集団「法輪功」の信者を弁護していた。
2015年に中国政府が何百人もの弁護士や活動家を弾圧した際に逮捕されたが、昨年12月まで裁判が行われていなかった。
中国はここ数年、人権派弁護士の取り締まりを加速させている。
裁判所は王氏を国家政権転覆罪で有罪とし、「4年6カ月の禁錮刑のほか、5年間の政治的権利のはく奪」を言い渡した。
裁判は非公開で行われ、ジャーナリストや外国の外交官なども裁判所への立ち入りを禁止された。

「国連の恣意的勾留に関する作業部会では、王氏の勾留を恣意的なものと認定した。つまり国際法上では、王氏はまず起訴されるべきではなく、よってどんな判決も受けてはならないことになる」
また、人権団体アムネスティ・インターナショナルはこの裁判を「いかさま」と呼び、判決は「非常に不公正なものだ」と批判した。
アムネスティの中国研究員ドリアン・ラウ氏は「王全璋氏中国で、人権のために平和的に立ち上がったことで罰せられるのは許しがたい」と述べている。
2015年7月9日に起きたことから「709事件」と呼ばれている中国政府による弁護士弾圧は、習近平国家主席の政権下で反体制に対する不寛容が広がってきた兆候だと活動家たちは見ている。709事件では200人以上が拘束され、多くが懲役刑や執行猶予、禁錮刑などを科せられている。」

その記事の最後を締め括る、次の指摘には、背筋が寒くなる。

北京で取材するBBCのジョン・サドワース記者は、弁護士が今回有罪になったのは、共産党が支配する司法制度に中国の法律そのものを使って対抗しようとしたからだと指摘する。
「共産党は近年、態度を明示してきた。立憲主義や司法の独立といった概念は、危険な西洋式理想なのだという立場だ」、今回の判決も「ぞっとするようなその主張を補強するためのものだ」と解説している。

この解説は恐い。世界の経済大国であり軍事大国でもある中国が、文明とは隔絶した恐怖国家となるかも知れないというのだ。既に中国では、人権や、人権擁護のための立憲主義や権力分立、司法の独立などを無視した、むき出しの権力が暴走している。中国国内での批判が困難であれば、国際世論が批判しなければならない。我々も、できるだけのことをしなければならない。
(2019年1月31日)

赤池誠章さん、お間違いの訂正を。そして、「日々勉強!」を。

赤池誠章という参議院議員がいる。自民党の文部科学部会長。文部科学省の陰に隠れて前川喜平攻撃をしたことで、人に知られるようになった。極右の教育を行う日本航空総合専門学校長を務めていたことでも、私のブログに取りあげたことがある。

前川さん 負けるな 民意はここにあり
https://article9.jp/wordpress/?p=10101

またまた極右教育機関に、「ただ同然の国有地払い下げ」
https://article9.jp/wordpress/?p=9740
「『日々勉強!結果に責任!』を信条とする赤池まさあきです。国家国民のために全身全霊を尽くす覚悟をもって取組んでおります。」というのがこの人のキャッチフレーズ。「国家国民」という言葉使いに、国家主義者であることがあらわれている。だからであろう、「日の丸・君が代」への執着が強い。下記のブログの一節を、原文のママ引用させていただく。
https://blogos.com/blogger/akaike_masaaki/article/

日の丸は、聖徳大使の「日出ずる国」という国名の謂れ通り、太陽を象ったもので、簡素で明確に我が国柄を表しています。既に戦国時代の武将の旗印などにも用いられ、江戸時代には将軍家の船印として使用されて定着していました。長い歴史の中で、慣習法として定着してきた国家「日の丸」や国歌「君が代」は、戦後になって軍国主義の象徴として一部で批判されてきました。平成元年に、学習指導要領に明記されて、学校の入学式や卒業式には義務付けられ、平成11年には明文法化されました。

短い文章の中に間違いが盛り沢山。さすが、自民党文科部会長。今後は是非とも、「日々勉強!結果に責任!」を。以下、勉強のお手伝い。

「聖徳大使」は、聖徳太子の間違いなんでしょうね。大使役は小野妹子でしたから。こんな間違い、聖徳太子に失礼ではありませんか。

「日出ずる」は、民族派ならきちんと「日出づる」と書かなくちゃ。また、「日出づる国」という国名は隋書東夷傳には出てきません。「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)ですから、「日出づる処」でしかありません。なお、念のためですが、「云々」は、ウンヌンと読みます。くれぐれも、デンデンとはお読みにならぬよう。

戦国時代の武将の旗印に使われていたことが、国旗として定着していた根拠というんですか? 将軍家の船印として使用されていたから慣習法的に国旗? はて、面妖な。

国家「日の丸」は、国旗「日の丸」の間違いですね。「国家」も「国旗」も「日の丸」も、あまり大切には思っていらっしゃらないから、こんな間違いになるのでは。少し心配ですね。

戦後になって軍国主義の象徴として一部で批判されてきました。という記載だけはそのとおりですね。もっとも、「一部で」を、「多くの良識ある人々から」「戦争の辛酸を2度と繰り返してはならないと決意した主権者から」などとすれば、より正確ですね。

「平成元年に、学習指導要領に明記されて、学校の入学式や卒業式には義務付けられ、」「平成11年には明文法化されました。」には驚きました。まるで、法が、全国民に国旗・国歌(日の丸・君が代)の義務付けを認めているかのごとき書きっぷり。大まちがいです。改定学習指導要領も、国旗国歌法も、「日の丸・君が代」の義務付けなんてしていません。法が義務付けしてはいないのに、職務命令で教員に義務付けできるのか、それが裁判で激しく争われているのです。

赤池さん。多様性の時代ではありませんか。人種も、民族も、宗教も、LGBTも、そして何よりも思想や良心のありかたについても、多様な立場が共存しなければならないことを、認めていただけませんか。

あなたのように、「日の丸・君が代」大好き人間がいてもよい。でも、人の思想はいろいろなのです。どうして国民すべてに、「日の丸・君が代」を「義務付けたい」とおっしゃるのでしょうかね。

赤池さん、あなたの立論には憲法が出てこない。「日の丸・君が代」の強制を憲法に照らしてどうお考えですか。思想・良心の自由の保障や、信仰の自由の保障、あるいは教育の自由の保障とどう関わっているのか、関心がおありではないのでしょうか。それとも、都合が悪いから言及は避けている、ということでしようか。

赤池さん。一つ、提案があります。国会議員はお辞めになって、本気で「日々勉強!」に励んでみてはいかがでしょうか。国語も、歴史も、憲法も。そして、教育とは何であるかについても。きっと、前川喜平さんが親切に基本から手ほどきしてくれますよ。そして、次に立候補するなら、教育の神髄や日本国憲法の理念を学んだ後にしてはどうでしょうか。もっとも、そのときには、自民党からの立候補はあり得ないと思いますがね。
(2019年1月30日)

いまこそことある時なるぞ  死ぬるが臣下のほまれなり をゝしき大和心もて かたみに人の血を流し 獸の道に死ねよかし 

和歌のジャンルといえば、まずは相聞。そして挽歌。他には叙情・叙景歌。その他は傍流、釣りでいう外道の類。

紀貫之も、古今和歌集の序でこう言っている。

やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。…生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。

「猛き武士の心をも慰むるは歌なり」に同意する。これこそが、やまとうたの本流であり本領ではないか。ところがその正反対もあるのだ。戦意昂揚歌というトンデモ・ジャンル。今、国会でそれが問題となっている。

敷島の 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける

これは日露戦争の際に、ときの天皇(睦仁)が詠んだ歌とのこと。「ことある時」とは、大国ロシアとの戦争。臣なる民の命をかけた戦闘を、安全なところから、「大和心のをゝしさ」と、上から目線で督戦している歌である。

この戦意昂揚歌と対をなすのが、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」の厭戦詩である。晶子は、旅順の弟の命を案じて、天皇にプロテストしている。

「すめらみことは、戰ひにおほみづからは出でまさね、かたみに人の血を流し、獸の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、大みこゝろの深ければ もとよりいかで思されむ。」

晶子の怨嗟の詩のとおり、天皇は宮中で「大和心のをゝしさ」を嘉していた。いうまでもなく、「大和心のをゝしさ」とは、多くの兵士の死を意味する。

安倍晋三が、この歌を施政方針演説で引用した真意はどこにあるのだろうか。天皇・戦争・国家主義・帝国主義・国民統合のイメージは、普通なら避けたいところだ。しかし、彼が敢えてこんな歌を引用したのは、自分のコアな支持者への共感を意識してのことなのだろう。それは、不安と危機感を掻きたて、かつての「強い日本」への郷愁をアピールすることと重なる。

日露戦争は、朝鮮の覇権を争った帝国主義戦争だった。これに勝った日本は朝鮮の併合に至る。現在の日韓問題は日本が朝鮮を植民地化したことに起因する。創氏改名も、日本軍「慰安婦」問題も、徴用工問題も、在日差別も…、すべてが日露戦争から始まると言ってまちがいではない。

敢えて今、その日露戦争についての天皇の督戦歌。当然に韓国の民衆の感情を逆撫でするだろうし、日本の平和勢力をも刺激する。しかし、これであればこそ、右翼は大歓迎なのだ。たとえば産経。

「天皇陛下のもと、苦難乗り越えた日本人の強さ強調 平成最後の施政方針演説で首相」という見出しの記事。

「首相は、明治天皇の御製を引用した。大和魂は平時には見えにくくても、有事にはおのずと立ち現れる。大日本帝国憲法下の明治天皇と、現行憲法における象徴天皇で制度は異なるが、首相は近代以降、日本人が天皇陛下の下で結束し、幾多の試練を乗り越えてきた歴史を強調した。」

戦後の日本の言論空間は、少なくとも矜持のある新聞には、こんな論調を許して来なかったのではないか。恐るべし産経。恐るべし安倍晋三というしかない。

こんな人物に、憲法を取り扱わせてはならない。一日も早く安倍退陣の実現を。第198通常国会冒頭の改めての決意である。
(2019年1月29日)

宗教弾圧の手段とされた不敬罪 ― 天皇の神聖性を擁護するために

あれからもう40年以上も経っている。私が弁護士になって4年目か5年目ころのこと。どう呼び出されたか記憶にないが、東京弁護士会の談話室で、大阪の弁護士Iさんと面談した。

彼は、「実は、おしえおやが…」と切り出した。「おしえおや」とは、二人の間では説明不要だった。ある教団の教主が、刑事再審を請求したいと考えている。ついては受任の気持はないか、という打診だった。飽くまで打診で、依頼ということではなかったが。

I弁護士も私も、その教団が経営する私立高校の卒業生だった。彼の方が、一学年上だったが親しい間柄。彼は、文芸部の部長で私が部員という関係でもあった。大学時代には交流がなかったが、思いがけなくこの人と同じ23期司法修習生となって再会した。彼は、青年法律家協会の活動や、任官拒否を許さぬ修習生運動の良き理解者だった。修習終了後私は東京で弁護士登録し、彼は大阪弁護士会に所属して教団の法律事務を担当していたようだった。

その教団は、戦前天皇制政府から苛酷な大弾圧を受けて解散に追い込まれた歴史をもつ。相当数の幹部が治安維持法で検挙されたが、初代教祖とその長男の二代目教祖は、治安維持法違反ではなく、いずれも不敬罪で起訴された。初代は、判決以前に衰弱して亡くなり、二代目は有罪判決を受けて確定し下獄した。その後間もなく終戦を迎えGHQの指示によって解放された。このあたりの教団史のあらましは、高校の「宗教の時間」で教えられていた。特高警察や思想検事の取り調べの酷さなども、直接体験した教団幹部から聞かされていた。

戦後二代目は教団を再興し、当時相当の教勢となっていた。「教主(おしえおや)」となっていたこの人の「ご親講」は、高校生時代に何度となく拝聴した。さすがに、人を惹きつける魅力を持った人物だという印象。

I弁護士の話では、その教主が、「他の罪ならともかく、不敬の罪名を背負ったままでは、日本人として死ぬに死ねない」という思いを抱えているという。そこで「再審によって不敬の汚名を晴らしたい」との意向だというのだ。

I弁護士は、天皇制と闘うのだから、澤藤なら引き受けると考えていた様子だった。私は、考え込んだ。直ぐには返答できなかった。

一面、やってみようかと気持は動いた。事件としては面白い。弁護士としてやりがいがあるとは思った。法的な道筋は見えていなかったが、取り組むに値するし、歴史の発掘になるかも知れないとも思った。

しかし、ある程度のことを知っていただけに、躊躇の気持も強かった。この教団は、天皇制に抵抗して弾圧されたのではなく、天皇制に従順であったにもかかわらず、弾圧されたのだ。だから、教主の主張にいつわりのないことはそのとおりなのだが、そのことが引っかかった。

不敬罪は天皇や皇族に対して「不敬の行為」あったことが構成要件とされている。この教団の場合は、布教した教義の内容が「不敬」とされた。天皇制政府は、天皇を神聖なる存在として維持するために、天皇を天皇たらしめている神話と抵触する宗教教義の一切を認めず、弾圧した。その弾圧の手段の一つが不敬罪だった。にもかかわらず、弾圧された当人の希望は、「自分は天皇や皇室への不敬の気持はまったくなかった。むしろ、自分の皇室崇敬の気持ちの篤いことを訴えて、不敬罪の汚名を雪ぎたい」というのだ。天皇に弾圧された者が天皇への崇敬の念を強調しているこの奇妙。天皇制というものの異様な本質を見た思いだった。私には、皇室崇敬の気持など毛頭ない。はたして信頼関係を形成できるだろうか。私が適任と言えるだろうか。また、何より私が時間と情熱をかけて取り組む事件なのだろうか。

そして、当時30代初めの私には、あの宗教団体のリーダーを相手に、自分のペースを守りながらことを処理できる自信は到底なかった。

考えた末に、お断りした。そのときI弁護士には、「不敬罪は、今の世では汚名ではなく、むしろ勲章みたいなものじゃない。不名誉と思うことも、勲章返上の必要もないと思うよ」と、半分冗談、半分本音を言っている。

なお、私の父は、戦前からのその宗教の信仰者だった。戦後のあるとき、回心あって安定した職を捨ててこの教団の職員となった。このとき、母がよく同意したものと思う。当時4歳(か5歳になったばかり)だった私の意見は聞かれなかった。私も、Iさんも、このような教団職員の子弟として育っち、教団が経営する私立高校に入学したのだ。

Iさんは、弁護士となって教団の法律事務を担当することで、親孝行をしたはず。私は、高校卒業後、教団と無縁となっただけでなく、再審の打診も断って親不孝を重ねた。

天皇の代替わりが近づいて、天皇制とは何だろうかと考えることが多い。そのとき、真っ先に思い出すのがこの件。不敬罪というものの存在を、身近に感じた機会は他になかった。今にして思えば、I弁護士と一緒に、貴重な再審事件をやっておけばよかったと思っている。その結果がどうであったにせよ…。

再審請求がなされたとは聞かないうちに、あのときの「教主」は亡くなった。私の父も世を去り、I弁護士も早逝して今は世にない。往時茫々だが、象徴天皇制はいまだに健在で、あの当時から2回目となる天皇の代替わりを迎えようとしている。
(2019年1月28日)

元号を論じる「松尾貴史のちょっと違和感」に、ちょっと違和感。

毎日新聞日曜版に連載の「松尾貴史のちょっと違和感」。毎回楽しみに目を通している。「ちょっと違和感」とは、政権やこの社会の多数派の俗論へのプロテスト。「断固反対!」ではない「ちょっと違和感」というところがセンスのよさ。論旨明快で文章のリズムもイラストも立派なものだ。

しかし、いつも感心というわけは行かない。本日の「『平成』誕生の公文書公開延期 勝手に起点変えるインチキ」の記事には、「ちょっと違和感」を禁じ得ない。タイトルとなっている「公文書公開要件期間の起点を勝手に変えるインチキ」の指摘には同感で何の違和感もない。問題は元号というものに対する彼の感覚への「ちょっと違和感」である。

元号というものは、「不便・不合理・非効率」なものである。これは誰もが認めざるを得ないところ。時間的にも空間的にも通有性を欠く。グローバルの時代に普遍性がない。西暦との換算の必要は明らかに不要なコストである。元号の本家・中国はこんなものの使用を止めた。同じ分家スジの韓国・朝鮮も止めた。日本でも、かつて元号が廃れそうな時代があった。元号の自然消滅は間もなくかと思われたその時代に、危機感を募らせた右翼の運動が元号法の制定に成功して、この絶滅危惧種を永遠の消滅から救った。ひとえに、天皇制と元号との結び付きがあるからである。

かくも、「不便・不合理・非効率」な元号の使用が法的制度となり、事実上その使用が強制される理由は、天皇制の維持強化に関わっているからにほかならない。だから、国民主権や国民の主権者意識を大切に思う立場からは、元号とは天皇制維持の小道具として有害なものというほかない。松尾貴史氏には、この「有害性」の感覚がない。むしろ、新元号積極的受容の印象さえ受ける。そこが、「ちょっと違和感」なのだ。そもそも、「新元号の制定こそが、時間の起点を勝手に変えるインチキ」ではないか。天皇の都合での改元に大いに違和感あり、ではないか。

まず、書き出しの「巷(ちまた)では、『新元号は何になるのか』と持ちきりである。いや、誰かが情報を持っているわけではないので、持ちきりというほどでもないかもしれないが、とにかく多くの人が気になっているようだ。」は、本当だろうか。少なくとも私の周りでは、「この際、元号廃止になれば良い」「すっぱり元号使用を止める絶好のチャンス」「あらためて元号使用の強制はまっぴら」という声が強い。あるいは、「元号の変更、不便極まりない」「もったいぶるほどの改元か」という冷めた意見。

同氏の「昭和天皇が崩御し、次の元号が『平成』であると当時の小渕恵三官房長官が額装された新元号の書を示して発表した時の厳粛というか、改まったような感覚は訪れるのだろうか。そういう意味での小渕氏の雰囲気というのはなかなかに適任だったのではないか。」という書きぶりのセンスにも驚く。

いうまでもなく、新元号は新天皇の即位と結びついている。時の海部首相は、現天皇(明仁)の就任式(即位礼正殿の儀)で、高御座の天皇を仰ぎ見て、「テンノーヘイカ・バンザイ」とやった。天皇と臣下との関係を可視化して、国民に見せたのだ。もちろん、そうすることが、この国の国民を統御するに有効だとの思惑あっての喜劇である。これをも、同氏のセンスでは「厳粛というか、改まったような感覚」というのだろうか。きっと、安倍と菅もこの「テンノーヘイカ・バンザイ」をやる。海部だったから喜劇だが、安倍と菅だと救いようのない悲劇になる。

同氏の今日のコラムでは、新元号の予想に紙幅が費やされている。これは、安倍政権や官房長官の思惑へのお付き合い。安倍と菅を「不誠実の権化」と考えるセンスの持ち主であれば、新元号など関心をもたずに無視すべきなのだ。

実は、最近になって、みずほ銀行の通帳の表記が、いつの間にか西暦に変わっていることに気が付いた。こちらの方のセンスが良い。

同銀行のホームページを閲覧したところ、次の記事に出会った。

通帳の「お取引内容欄」を見やすくするため、新システム移行時に印字文言を一部変更しています。主な変更点は以下の通りです。
■お取引日付
通帳の取引年月日の表記を和暦から西暦へ変更しています。
なお、西暦は下2桁を表示しています。
(例えば、2018年11月30日の場合、18-11-30と表記)

みずほ銀行の藤原弘治頭取は、いま全銀協の会長である。
昨年5月17日その会長記者会見で、全銀協として改元にどう対応するかという質問に、彼はこう答えている。

全銀協の会長として銀行界の対応について申しあげれば、今、言われたような和暦を使用するような帳票、申込書、契約書、店頭のポスターやパンフレット、これらの差替えの事務やシステムを中心とした対応が出てくるが、これは元号が国民生活に広く浸透していることの表れだと思う。
 全銀協としても、旧元号が記載された手形や小切手の、改元以降の取扱いをどうしていくかなど、業界全体で決めることが望ましいルールについてもこれから検討していく。
 また、システム面でも、改元の対応に加えて、仮に即位の日である来年5月1日が祝日となった場合、前後を含めて10連休ということになり、その準備も必要になると思っている。全銀システムなど、業界インフラの対応をしっかり行い、会員各行への注意喚起を行うなど万全の対応をして参りたいと思う。

そつのない回答だが、「和暦・西暦の併用は面倒極まるがやむを得ない」と言っているように聞こえる。全銀協会長としては、そうは言いつつも、みずほ銀行では、西暦統一に踏み切ったわけだ。

これまでは、労金や城南信用金庫が西暦派として知られてきた。みずほの西暦派移行は、天皇の生前退位がもたらした、この社会の元号離れを象徴する出来事だろう。警察庁も運転免許証の有効期限表示について、原則を西暦表記とし、元号をかっこ書きとすると発表している。これは今年の3月以後、システム改修を終えた都道府県から順次実施されるという。

また、ある経済ニュースのサイトで、こんな記事を見つけた。「2019年4月30日を越えると、平成を使った和暦の表現が困難になる」ことから、5月期決算企業で財務諸表の日付を和暦から西暦使用に変更した上場企業があるという。

企業社会の合理性は、明らかに西暦使用を必要としている。これに、保守政権や国民の一定部分に根を下ろした権威主義が抵抗している構図だ。政権の思惑や天皇制への郷愁に無批判な議論には「ちょっと違和感」あって、どうしても一言せざるを得ない。
(2019年1月27日)

沖縄全県での県民投票実施見通しを歓迎する。

辺野古新基地建設に伴う大浦湾埋め立ての是非を問う2月24日沖縄県民投票。ようやく、県内の全市町村で実施される見通しとなった。まずは、安堵の思い。「県民投票」の具体的内容については、県の公報が丁寧に解説している。末尾にこれを引用するので、ご参考にされたい。

ここまで来る道は平坦ではなかった。県民世論の所在を明確にするための「埋め立ての賛否を問う」投票に、これだけの抵抗と妨害があるのだ。県民世論が明確になることを快く思わぬ勢力が根強いことをもの語っている。もちろん、その勢力の裏側には、中央政権の存在がある。

県民投票を求める運動が具体的に動き出したのは、前翁長雄志知事生前の昨年(2018年)5月。「『辺野古』県民投票の会」(代表・元山仁士郎)が県民投票条例制定の直接請求署名運動を開始し、9月までに必要数(有権者の50分の1・2万3千筆)の約4倍にあたる92,848筆の署名を集めて県議会に提出した。

これを受けて、県政与党(オール沖縄派)は回答の選択肢を「賛成」「反対」の2択とした県民投票の条例案を作成して上程。これに対し、県政野党である沖縄・自民党と、中立派の公明党は「賛成」「反対」に、「やむを得ない」「どちらとも言えない」を加えた4択とする案を提出。結局、野党案(4択案)は否決され、与党案(2択案)が賛成多数で可決成立して、県民投票条例は10月31日公布となり、その後投開票実施日は2019年2月24日とされた。ここまでは、順調だった。

ところが、投票事務の実施をすることとされた、県内市町村の首長や議会は、必ずしも県政与党派と同じ立場ではない。選挙事務執行のための補正予算が市町村議会に上程されたが、うるま市・沖縄市・宜野湾市・糸満市・宮古島市・本部町・金武町・与那国町の8市町で補正予算案を否決。最終的に宮古島・宜野湾・沖縄・石垣・うるま5市の市長が県民投票不参加を表明した。これによって、全有権者の31%に当たる約36万7千人が投票の機会を失う事態となった。

この事態を打開したのは県民の運動だった。県内全域で、とりわけ県民投票不参加を表明した5市で、「投票権奪うな」の声が巻きおこった。このことは、記憶に留めておかねばならない。

県は各市長に、事務を行うべき「法的義務」があるとして助言や勧告を行った。玉城知事や謝花副知事は、足を運んで各市長へ協力の要請を重ねた。また、行政法や地方自治の専門家からは、参政権を奪うことの違憲・違法を指摘する意見も相次いだ。

そして、県民投票の会元山代表のハンガーストライキが事態を動かした。
琉球新報は、「県民の熱意が政治を動かした 元山さんのハンストで事態急展開 辺野古県民投票」との記事で、「事態が急展開したのは、県民投票条例を直接請求した「辺野古」県民投票の会の代表で、大学院生の元山仁士郎さんが15日に始めた宜野湾市役所前での24時間のハンガーストライキだった。投票を実施しない市長への抗議の意思を示す元山さんのストライキは19日まで続き、同時に集めた全県実施を求める請願には5千人が署名した。」「一連の出来事は、政治の流れを決めるのは、政治家でも行政でもなく、主権者である市民なのだということを改めて示した。」としている。

結局は、県議会与野党の再議で、回答の選択肢を「賛成」「反対」の2択から、「賛成」「反対」「どちらでもない」の3択に修正することでの合意が成立した。

しかしこれもけっしてすんなり決まったわけではない。自民党は、「普天間飛行場移設のための辺野古移設はやむをえない」「反対」「どちらともいえない」とする3択案を主張した。これを与党である“オール沖縄”側が拒否して、与党も妥協した「賛成」「反対」「どちらでもない」の3択案で全会派一致となった。これが、一昨日のこと。正式には、1月29日の県議会で、条例改正案が可決成立となる予定という。

県自民党が折れたのは、このままでは、県民世論の風圧に耐えられなくなるとの判断によるものだろう。5市を抜きにした県民投票が実施され、しかも、圧倒的に「埋立反対」の結果が出た場合、投票を妨害した責任を問われることになる。ボルテージの高い民意を敵にまわして、到底支えきれないと読んだのだろう。これが、沖縄県民の運動の成果である。

とはいえ、本来は投票の選択肢は2択であるべきだったろう。いま、恒久的な新基地建設のために、辺野古の海が埋め立てられつつある。埋立を止めさせるのか、続けさせるのか。とるべき政策は一つでしかない。投票回答は、埋立に「反対」か、「賛成」かのどちらかでなければ意味をなさない。「どちらでもない」とは、いったい何のことだ。どうしようというのか、さっぱり分からない。この回答は、主権者として無責任ではないか。

考えられるのは、「反対」の意見をもつ人に、「賛成」票を投じるよう説得は難しい。「せめて、『どちらでもない』に投票していただきたい」という切り崩しに役に立つ、という思惑なのだろう。

雨降って地固まる、というではないか。この間の県民の全県での投票を求める運動の昂揚は、辺野古新基地建設反対に弾みをつけたのではないだろうか。2月24日には、圧倒的な県民世論の「反対」の声を聞きたい。

それにしても、この件についての本土における関心の低さが気になってならない。自分の問題としてとらえられていないのだ。ことあるごとに、訴えなければならないと思う。
(2019年1月26日)
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沖縄県広報

平成31年2月24日(日曜日)は県民投票です。

この県民投票は、辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う
県民投票条例(平成30年沖縄県条例第62号)に基づき、
「普天間飛行場代替施設建設のための辺野古埋立てについて」
の賛否を問うものです。

通常の選挙とは異なり、特定の候補者に投票するものではなく、
投票用紙の賛成欄又は反対欄に〇の記号を記載する方法で投票を行います。
この投票により、県民の皆様の意思を明確に示すことができます。

?県民投票の意義

?この県民投票は「米軍基地建設のための名護市辺野古の埋め立て」 に対し、県民の皆さまの賛否を明確に示すことを目的としています。
日本政府は、普天間飛行場の代替施設となる米軍基地建設のため、名護市辺野古の埋立てを計画しています。
県経済や子育て施策などさまざまな課題について政策を訴える候補者に票を投じる選挙とは異なり、今回の県民投票で問うのは、名護市辺野古の埋め立てに「賛成」か「反対」かの賛否のみです。県民一人一人が改めて、辺野古の基地建設のための埋め立てについて考え、意思を明確に示すことができます。
投票の結果、「賛成」「反対」どちらか多い方が一定数に達した場合、日本の総理大臣、アメリカ大統領にも通知します。

県民投票条例制定について

この県民投票は、県民の9万2848筆の署名の提出を伴った住民投票条例制定の直接請求※1を受け、沖縄県が条例案を県議会に提案、県議会の審議・可決制定を経て、実施が決定しました。
沖縄県は条例案の可決を受け、平成30年10月31日に「辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票条例」を公布し、投票運動や投票できる資格者、投票に必要な事項を次のように定めています。
投票資格者(第5条) 平成31年2月13日時点で以下に当てはまる人。
日本国籍のある満18歳以上(2月14日生まれも含む)で、沖縄県内の市町村に3カ月以上住所があり、その後も沖縄県内に住所がある人で、投票資格者名簿に登録されている人。

投票数(第6条)1人1票投票の秘密保持(第8条)投票した人が、投票した内容を明かす義務はありません。県民投票の情報提供(第11条) 沖縄県は、県民の皆様が賛否を判断するため必要な広報活動、情報の提供を客観的、中立的に行うものとする。
※1 住民の直接請求は地方自治法によって定められています。

投票の結果について

1 辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票条例 第10条
知事は、県民投票の結果が判明したときは、速やかにこれを告示しなければならない。
2 県民投票において、本件埋立てに対する賛成の投票の数又は反対の投票の数のいずれか多い数が投票資格者の総数の4分の1に達したときは、知事はその結果を尊重しなければならない。
3 前項に規定する場合において、知事は、内閣総理大臣及びアメリカ合衆国大統領に対し、速やかに県民投票の結果を通知するものとする。

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