澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

沖縄県民投票での「埋め立て反対」圧勝を期待する

本日(2月14日)が沖縄県民投票の告示日。沖縄全県で24日に投開票が行われる。投票結果について、賛成または反対の多い方の票数が投票資格者の総数の4分の1に達したときは、知事はその結果を尊重しなければならない」(県民投票条例第10条第2項)と定められており、その結果を知事が内閣総理大臣(安倍晋三)及びアメリカ合衆国大統領(ドナルド・トランプ)に対し通知する」もの(同条第3項)とされている。

本日、玉城知事が以下のコメントを発表している。

投票日の告示について

本日、辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票条例第4条第2項の規定に基づき、県民投票の投票日を2月24日・日曜日とすることを告示いたしました。
 今回の県民投票は、普天間飛行場の代替施設として国が名護市辺野古に計画している米軍基地建設のための埋立てに対し、県民の意思を的確に反映させることを目的に実施いたします。
 投票は、投票用紙の「賛成」の欄、「反対」の欄、又は「どちらでもない」の欄のいずれか一つに「○」の記号を記入する方法で行います。
 また、期日前投票も、明日2月15日・金曜日から実施されます。
 私自身も、明日早速、期日前投票を行うこととしております。
 県民投票は、県民の皆様ご自身の意思を直接示すことができる大変重要な機会です。県民の皆様には、ぜひ、投票所に足を運んでいただき、貴重な一票を投じていただくようお願い申し上げます。

平成31年2月14日
沖縄県知事玉城デニー

そして、本日の地元紙沖縄タイムスの社説を引用(抜粋)しておこう。

[県民投票きょう告示]沖縄の将来像を語ろう

 「ようやく」という言葉がふさわしいのかもしれない。名護市辺野古の新基地建設を巡る県民投票が、24日の投開票に向け、14日、告示された。
 国が進めている埋め立ての賛否を問うもので、「賛成」「反対」「どちらでもない」の三つの選択肢の中から、いずれかに「○」を記入する。
 今さら法的拘束力もない県民投票を実施する必要がどこにあるのか?そんな声は今もある。だが、県民投票を実施する最大の理由は、まさにそこにある。
 「他に選択肢がない」という言い方は、政策決定によってもっとも影響を受ける者の声を押しつぶし、上から目線で「これに従え」と命じているのに等しい。実際、選挙で示された民意はずっと無視され続けてきた。
 県民投票は、戦後74年にわたる基地優先政策が招いたいびつな現実を問い直す試みでもある。
 軟弱地盤の改良工事のため、当初の予定を大幅に上回る工期と建設経費がかかることも明らかになってきた。状況が変わったのだ。
 米軍普天間飛行場の一日も早い危険性除去をどう実現すべきか。辺野古の自然環境は果たして保全されるのか。
 埋め立ての賛否を考える上で避けて通れないのは、この二つの論点である。
 県民投票に法的な拘束力はない。どのような結果になっても計画通り工事を進める、というのが政府の考えである。
 しかし、「反対」が多数を占めた場合、玉城知事は辺野古反対を推し進める強力な根拠を得ることになる。
 県民投票によって、疑う余地のない形で沖縄の民意が示されれば国内世論に変化が生じるのは確実だ。政府が辺野古での工事を強行しているのは、県民投票を意識している現れでもある。

さて、埋立についての法的問題の経過を確認しておきたい。
公有水面埋立法によれば、海面を埋め立てるには知事の許可または承認を要する。沖縄防衛局の大浦湾埋立を仲井真知事(当時)が承認し、翁長前知事が承認を撤回した。これが、昨年(2018年)8月31日。但し、同知事は8月8日に死去して、知事代行の副知事が撤回の意思表示をしている。
その状態で、沖縄県知事選が行われ、9月30日に「オール沖縄」の玉城デニー候補が圧勝した。
知事選後、アベ政権は沖縄に寄り添う姿勢を捨てた。10月17日には沖縄防衛局が国交大臣に対して承認撤回を理由のないものとして、行政不服審査法に基づく審査請求をし、併せて「(撤回の効力についての)執行停止」を申立てた。同月30日、国交相の執行停止決定がなされ、工事が再開されることになる。12月14日、辺野古沿岸部に土砂が投入され埋め立てが始められた。いま、美ら海が土砂で埋められつつある。

そのような時期における県民投票であるが、沖縄タイムス社説が言うとおりの、事情変更が明らかになっている。軟弱地盤の改良工事のため、当初の予定を大幅に上回る工期と建設経費がかかる」ことが明らかになってきたのだ。

以前から軟弱地盤問題は知られていたが、予想を遙かに上回るものであることが確認されつつある。「辺野古軟弱地盤 最深90メートル」「杭は7.7万本必要」「砂650万立方メートル」「新基地は不可能」と各紙の見出しが躍っている。

この軟弱地盤、最大の水深90メートル(海面から海底まで30メートル、地中60メートル)に達する、という。土木工学の専門家が、これだけの深さの地盤改良工事は前例がなく、技術的にも極めて困難、これを可能とする地盤改良船は日本にはないという。

この軟弱地盤の改良工事は、護岸部分はサンドコンパクションパイル(SCP)工法(強固に締固めた砂杭を地中に造成して地盤を改良する工法だという)で3万8945本、埋め立て部分はサンドドレーン工法で3万7754本、合わせて7万6699本になるのだという。

地盤改良区域の面積は約65ヘクタール(新基地建設埋立て区域160ヘクタールの約4割)。砂杭に使用する砂の量は東京ドーム5・25杯分にあたる約650万立方メートルに達するという。

当然に、沖縄県の地盤改良工事のための設計変更許可が必要になろう。安倍首相は1月31日の衆院本会議で、軟弱地盤の改良工事のため計画変更の承認を沖縄県に申請すると、政府として初めて言及したという。が、県が許可できるはずはない。

こうして、辺野古新基地建設は法的にも技術的にも不可能であることが鮮明になりました(しんぶん赤旗)というのが常識的なものの見方。計画は白紙にするほかなかろう。

このような事態での県民投票である。政権の思惑は、早期に既成事実を積み重ねて県民を諦めさせることだった。しかし、そうはなりそうにもない。投票の結果次第では、辺野古新基地建設を断念させることができそうではないか。運動の成果を期待したい。
(2019年2月14日)

この頃巷に流行るもの

 隠蔽 改竄 ニセ統計
 忖度 追従 無責任
 粗製濫造閣僚に
 パワハラ セクハラ 嫌がらせ
 デマに ヘイトに 不寛容
 百鬼夜行の忌まわしさ

 トランプ様にはペコペコで
 虎の威借りたる我が首相
 近隣諸国に居丈高
 いつまで続くハッタリぞ

 ウソとゴマカシやり放題
 嘘つき首相が一強で
 政治の私物化お家芸
 それでも続くぞ政権は

 メディアのプライド投げ捨てて
 首相と飯喰う言論人
 首相の広報引き受けて
 楽に稼げりゃそれでよし

 原発輸出は行き詰まり
 アベノミクスも行き止まり
 急ぐは原発再稼働
 環境汚染もなんのその
 
 辺野古の美ら海埋め立てて
 作るぞ米軍新基地を
 壊すぞ珊瑚の群落を
 移植は得意のウソなのさ
  
 東京五輪はもうすぐだ
 ばれなきゃいいが、あのウソが
 コントロールもブロックも
 口から出まかせ 嘘っぱち
 どんどん増えるぞ貯水槽 

? 森羅万象司る
 もしや私は神様か
 私になんでも任せなさい
 忖度する者は救われる

 庶民に負担の消費税
 それで財源こしらえて
 企業に減税振る舞って
 これが安倍流景気策

 消費増税その負担
 還元しますと胸を張る
 ならば増税しなけゃよい
 なるほど、言われりゃそのとおり

 いよいよ憲法改正だ
 なんと言おうとやり遂げる
 一人になってもがんばって
 目指すは、一人で過半数

 私に協力しない者
 災害時には救援なしと覚悟せよ

京童の口ずさみ ほんの少しを漏らすなり
天下一統珍しや 今に生れてアベ流の
政治を見聞くぞ不思議なる
(2019年2月13日)

「浜の一揆」訴訟、仙台の法廷で。

2019年2月12日

平成30年(行コ)第12号 サケ刺網漁不許可取消請求等控訴事件

?意 見 陳 述 要 旨

仙台高等裁判所第1民事部 御中

控訴人ら訴訟代理人弁護士  澤  藤  大  河

 本日陳述の準備書面(3) (4) 及び(5)の3通は、いずれも本件の主たる争点であるサケ刺網漁不許可要件としての「漁業調整の必要」の有無に関して、被控訴人への反論を行うものです。この間の、被控訴人との論争を通じて、本件の法的主張の枠組みと主要な争点が明確になってきたものと考えます。
以下に、4点の主要な争点に限って、要約して口頭で意見を陳述いたします。

☆ まず、漁業法の目的規定である第1条「漁業の民主化」をめぐる論点です。
控訴人らは、漁業法第1条を、あるべき漁業秩序の理念の表現と主張してきました。
これに対して、被控訴人は「漁業の民主化」とは手続的原則に過ぎない、と反論しています。しかし、「民主化」の理念が、形式的手続に留まるものであるはずはありません。「漁業の民主化」を形式的手続的理念のみに押し込めてしまえば、「民主化」は目的理念を喪失した無内容なものとなってしまいます。
漁業法の制定は、戦後の経済民主化の一環として、農地改革とならぶものです。農業における「経済民主化」は、小作人に一定の土地を与えることで、独立農業経営主体を作り出すことを主眼としたものでした。「漁業における民主化」とは、漁民に海面の一区画を付与することに代えて、適切な漁業調整を通じて、独立漁業経営主体の形成を可能とすることにあります。ですから、漁業調整とは、単なる手続的概念ではありません。被控訴人は、「民主化とは、構成員が一人一票など対等な立場で漁業調整機構の運営に参加することの手続的保障」だと言いますが、それでは不十分なのです。実体的に零細漁民の生計の維持が可能となるよう調整の目的をもたねばなりません。本件では、漁業法が定める「民主化」という目的に照らして漁業調整が行われたか、そのことが鋭く問われているのです。

☆ 次いで水協法4条の問題です。最初に、この論争の局面を確認しておきます。
本件における漁業調整は、いったい誰と誰との漁業利害を調整しているのでしようか。「控訴人ら漁民と漁協」の調整ではありません。飽くまで、「控訴人ら漁民と定置網漁業者」との間の調整なのです。乙15によれば、岩手沿岸の定置網は82ケ統を数えます。そのうち漁協経営のものが漁協と個人との共同経営を含めて56ケ統、およそ3分の2に過ぎません。残りの26ケ統、3分の1は漁協の関わりのない定置網事業者なのです。
控訴人ら漁民が、漁協との関わりのない定置網事業者、しかもサケの孵化放流事業とも無縁なこれらの定置網事業者との関係で、その事業者の利益を擁護するために、サケ刺し網漁を禁止とされる正当性はおよそ考えられないところです。
そのことを前提とした上で、控訴人ら全員が所属している漁協の定置網事業との競合の関係をどう考えるべきか。それが問題の局面です。控訴人らは、漁協に自営定置を止めろなどとは言っていません。漁協の定置網漁の漁獲に差し支えるから、組合員である原告ら漁民にはサケ刺し網漁は一切禁止という漁業調整のあり方は、本末転倒で違法だと言っているのです。
水協法4条は、「漁協とは組合員のために直接の奉仕をすることを目的とする存在」と定めています。本来、漁民と競合する事業を行うことは想定されていないのです。二平氏の意見書が指摘するとおり、「漁協が組合員構成員の漁業を直接侵害する場合には、自営事業を行うことは、法的な目的に反する」というほかありません。いかなる法人も、法の目的に反した行為はできません。仮に漁協が漁業を営むための法17条の手続要件が具備されたとしても、4条違反を治癒することはできないのです。結局、サケ固定式刺し網漁許可申請を不許可とにする理由として、漁協の定置網漁に支障を生じるという事情を挙げて、「漁業調整の必要有り」として不許可にすることは違法と言わざるを得ません。
なお、被控訴人は、関連して「県内の定置漁業者は公的資金投入を受けた孵化放流事業の担い手でもあり、投下資本回収の必要がある」と言っています。「県内の定置漁業者が公的資金投入を受けた孵化放流事業の担い手」というのは明らかな間違いですが、孵化放流事業者がサケを優先的に漁獲する権利はありません。公的資金と賦課金とで経営されているのであれば、なおさらのことです。

☆ サケ延縄漁業が、刺し網漁の代替性を有するについては、詳細に述べたところです。被控訴人には、誠実に追加の資料を提出していただくよう求めます。
この論争で浮かびあがってきた論点があります。どうして、行政は漁民に対して、非効率的な漁法は許可して、効率的な漁法は許可しないのか。漁獲上限がない延縄漁は許可して、10トンを上限とするサケ刺し網漁は許可できないのか、という疑問です。控訴人らは、いずれも年間最大漁獲高10トンを上限とする許可を申請していますから、効率がよいから、取り過ぎて資源枯渇をきたすという不許可の理由は成り立ちえません。
何よりも、行政が漁民に対して、あえて非効率な漁法を強制して、効率的な漁法を禁止することは、合理的な理由を欠くものとして、漁民の憲法上の職業選択の自由を侵害するものと言わざるを得ません。

☆ 最後に、漁協による自営定置の利益還元について述べます。
現在、被控訴人は直接的な還元があるとの主張ではなく、定置網事業の利潤が漁協の運営コストに充当されることで、組合員の負担を減らす間接的な還元がなされていると主張しています。しかし、この「間接的還元」論は倒錯した論理と言わざるを得ません。
漁業者の漁業経営を成り立たせることが最優先事項です。漁協は漁民の生活を成り立たせるためにのみ存在するのです。漁業者の収入から、漁協の会計を支えることがあるべき姿です。ところが、サケ漁を漁民から取りあげ、漁協がサケを獲って、漁協のコストを差し引いたものが、間接的に還元されている、という「論理」は、法の予定していないところで、倒錯と言わざるを得ないのです。
更に根本の問題は、漁協から組合員への「還元」の有無や内容ではなく、「還元」の前提となっている、組合員のサケ漁の権利を剥奪して、漁協が独占している構造の正当性の問題です。なぜ、小型漁船漁業者の自らサケを採る権利を奪うことができるのかということなのです。控訴人らの主張は、これを正常に復して、サケ漁の利益を組合員の手に取り戻そうというものです。しかも、全部の収益を組合から取り戻そうというのではなく、年間10トンの漁獲に限ってのささやかな要求であることを、ご理解ください。

☆ なお、本件許可申請を不許可とする事由として、漁業調整の必要」と並んで、「サケ資源の維持培養の必要」があります。この点については、控訴人としては基本的には原審での井田齊氏の意見書と証言で立証は十分と考えていることを申し添えます。

(2019年2月12日)

「建国記念の日」に、天皇制との対峙をあらためて確認する。

以下は産経の記事。

安倍晋三首相は8日、平成最後の「建国記念の日」を11日に迎えるにあたり「平成のその先の時代に向かって、私たちの子や孫の世代のために、今後も努力を重ね、よりよい未来を切り拓(ひら)いていく」とのメッセージを発表した。

産経よ。「平成最後の」は、無意味・無内容、余りに陳腐。能がないし、聞き飽きた。聞き苦しくもある。いい加減にやめていただきたい。

「平成のその先の時代」もそろそろ陳腐。「これから先の時代」ではない、「平成のその先の時代」。過去のことなら、遡って元号表記ができるのだが、「平成のその先」は元号で言えない辛さが滲み出ている。

「私たちの子や孫の世代のために、今後も努力を重ね、よりよい未来を切り拓いていく」というメッセージは、具体性に欠けるとは言え意味のないものではない。しかし、わざわざ、2月11日という「右翼の聖なる日」を選んで、この男が言うと、格別の意味を感じざるを得ない。言葉とはそういうものだ。

首相は「伝統を守りながら、同時に変化をおそれず、困難な課題に対しても果敢に挑み、乗り越えていく。平成の時代においても私たちはそうした努力を積み重ねてきた」と振り返った。「先人の努力に感謝し、さらなる日本の繁栄を希求する機会となることを切に希望する」とも述べた。

ここで言う「私たち」って誰のこと? アベさん、あなたは「戦前以来一貫した保守の利益誘導政治の伝統を守りながら、同時に新自由主義への変化をおそれず、専守防衛の国是を打ち破る困難な課題に対しても果敢に挑み、辺野古の美ら海を埋め立てて乗り越えようとしている。平成の時代において、私は、そうした国政私物化の努力を積み重ねてきた」というべきでしょう。

ついでに、本日(2月11日)の産経社説に目を通して見よう。何という右翼論調丸出しの、大新聞にあるまじきアナクロニズム。あたかも、新興宗教「平成天皇教」の趣き。いや「天皇宗産経派」であろうか。

《【主張】建国記念の日 国家の存続喜び祝う日に》という表題。
 御代(みよ)替わりという特別な年の、建国記念の日を迎えた。
 間もなく皇太子殿下が第126代の天皇に即位される。初代神武天皇が即位したとされる日を新暦に直して明治の初めに定められた祝日が、2月11日だった。もとは紀元節といった。
 なんという悠久の歴史を持った国に私たちは生きていることか。驚くべき、また感謝すべきことと、改めて感嘆せずにはいられない。
 歴代天皇とともに国家として続いてきたわが国の歴史をこそ、この日に思いたい。世界にもまれな国柄を誇りとしたい。建国を記念するとは、わが国の成り立ちをしのび、国家として存続していることを国民がこぞって喜び祝うことであろう。
 この日は戦後の長い間、不当に扱われた。…2月11日はGHQに認められなかった。日本が独立を回復してからも、この日はしばらく祝日として復活しなかった。建国神話を皇国史観や戦争と結びつけ、それを祝うことは軍国主義の復活である、などとして反対する勢力が、国内で強くなってしまった。
 昭和41年にようやく祝日法が改正され建国記念の日ができたが、怒号ともみ合いの国会だった。建国神話を忌避するような風潮はその後も残った。この祝日に反対する声は残念ながら今でもある。
 しかし、このような風潮は大きな間違いである。神話であれ史実であれ、建国の物語はどの国にもあってしかるべきものだ。それは国民を結びつける太い軸となるはずのものである。
 その物語を自ら否定することは、自分の国を否定することに等しい。それこそ戦後の自虐史観にほかならない。このような歴史観はいい加減に断ち切りたい。日本の安全保障への脅威が増す中、自分の国を愛せなければ国を守るという意識が高まるはずもない。
 祝日法で建国記念の日は「建国をしのび、国を愛する心を養う」とされている。連綿と続く歴史を思い、この素晴らしい国を心の底からいとおしみたい。

何と、愚かな「主張」だろうか。よくぞ素面で、臆面もなく、こんなことが言えたものだ。産経教信者には、日本とは天皇の国ということなのだ。というよりは、そう理解したいのだ。これはまさしく信仰の世界。その信仰においては、建国とは天皇制の成立と同義になる。「建国をしのび」とは、「天皇制の成立に思いを馳せ」ということであり、「国を愛する」とは、天皇に恭順することにほかならない。

「建国をしのび、国を愛する心を養う」べき日に、産経が「国家の存続喜び祝う日に」という社説を掲載するのは、「天皇制の成立に思いを馳せ、天皇に恭順する心を養うべき今日の良き日を、天皇制の存続を喜び祝う日としよう。天皇あればこそのこの素晴らしい国なのだから」という呼びかけである。

日本も日本国も、天皇のものではない。歴史的に日本に住む多くの人々は、天皇を意識せずに暮らしてきた。産経流の天皇崇拝は維新政府が国民統治のために作り出したものではないか。昔から、神武東征という話をおかしいと思っていた。神武(カムヤマトイワレビコ)は、苦労して賊を平らげつつ橿原神宮にまで至る。ナガスネヒコ以下、どうして賊なのか、どうして討たれなければならないのかが分からない。神武こそ、暴虐な侵略者ではないか。

先日の赤旗文化欄に、久保田貢さん(愛知県立大学・教育学)が、「建国記念の日を考える」の論説を寄稿していた。タイトルが、天皇崇拝と軍国主義動員」「赤紙うんだ元祖フェイク」というもの。建国記念の日を、「元祖フェイク」と言っている。なるほど、そのとおりだ。建国神話をフェイクというのではない。どこの民族ももっている建国神話を19世紀に引っ張り出して20世紀半ばまで、史実として教えたことが、「元祖フェイク」なのだ。もちろん、元祖に続いて「天皇制関連フェイク」が目白押しなのだ。敗戦に至るまで、学校教育は「天皇制関連フェイク」の洪水であった。そのフェイク後遺症から抜けきることのできない、愚かな人もまだいる。たとえば、アベ晋三とか。産経とか。

こんな、産経流の愚かな新興天皇教を再び流行らせてはならない。国をどうとらえ、どう評価するかは、自分で決める。国家に押しつられてたまるものか。ましてや、アベや産経ごときに。
(2019年2月11日)

「3・1独立運動」とは何だったのか。今に、どうつながっているのだろうか。

「3・1独立運動」から間もなく100年。今月下旬、そのゆかりの地を訪れる旅に、私も参加する。現在の日韓関係の軋みの来歴としても、韓国の民主運動の源流としても、100年前のこの事件を把握しておきたい。

本日(2月10日)、日朝協会東京都連が主催する「新春の集い」。その記念講演が、「3・1独立運動は私たちに何を語りかけるか」という表題で、講師は趙景達氏(朝鮮民衆史・千葉大教授)。この講演を聞きいて少なからぬ衝撃を受けた。自分の中の常識が覆された。

今日の企画のポスターに、「朝鮮半島で100年前に起きたこと」「それは、東京・神田で始まった」「苛酷な植民地支配に抗して朝鮮民族は平和な万歳デモで立ち上がった。現代のキャンドルデモのように」とある。これが常識的な理解。

韓国では3月1日は、三一節として祝日に指定されている。本日の集会の主催者挨拶でも触れられたが、現在の大韓民国憲法の前文にも、「3・1運動」が明記されている。その冒頭を引用すれば、以下のとおり。

悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して、正義・人道と同胞愛で民族の団結を強固にし、全ての社会的弊習と不義を打破し、自律と調和を土台に自由民主的基本秩序をより確固にし…、

「3・1運動で建立された大韓民国臨時政府」とは、3・1運動後、中華民国の上海市で結成された朝鮮の独立運動組織である。その中心の活動家として、李承晩・呂運亨・金九らの名が知られている。なお、「不義に抗拒した4・19民主理念」とは、李承晩政権を打倒した1960年の「4・19学生革命」をいう。

その歴史的な「3・1独立宣言書」への署名者は33名。宗教別に選定された代表者として、天道教15名、キリスト教16名、そして仏教から2名。この33名を指して「民族代表」という。

1919年3月1日午後。ソウル市内のタプコル公園(旧名・パゴダ公園)に集まった群衆の前で、「3・1独立宣言書」が読み上げられ、群衆は歓呼をもってこれに応じた。宣言文は、かなりの長文だが、冒頭は以下のとおり。

吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする。

タプコル公園に集まった群衆は、「独立万歳」を称えて、市内をデモ行進し、この熱狂はたちまち全国に伝播する。知識人の唱導する理念に民衆が賛同して運動をともにする美しい構図。そのように見える。そして、非暴力を理念とした「独立万歳」の運動は日本の軍と警察による苛酷な弾圧を招くことになる。

かつて、タプコル公園を訪れたときに、この民族代表33名を代表する人物の像を見た。名前は覚えられなかったが、これが孫秉熙(ソン・ビョンヒ) である。東学を「天道教」と改称した、教団の教主であった人物。即日、警察に逮捕され、懲役3年の刑を宣告されている。

本日の趙景達教授の講演では、この孫秉熙を独立運動のヒーローと見てはならない、と言う。のみならず、民族代表33名は、3・1運動を指導していないともいう。

本日配布のレジメには、思いがけない文章が並ぶ。
・3月1日における民族代表の背信
 →独立宣言を行うはずのパゴダ公園に現れずに料理店で祝杯を挙げて自首する。 →学生と民衆を排除 
・民族代表をめぐる評価の問題
 →野心を秘めた民族代表の僭称
 →愚民観と民衆不信に立つ民族代表
・孫秉熙の民衆・国家観
 →本来総督府に協力的で韓国併合も仕方ないとしていた
 →独立運動を当初から否定し、天道教徒に天皇の臣民になることを説いていた

3・1運動についてのイメージが崩れるが、問題はもっと大きい。
同教授は、「3・1運動の論理」に関して、知識人と民衆とは違うことを強調する。民族代表は知識人の論理の典型だったが、その限界は明らかで、統治者である日本の官憲には恐い物ではなかった。

「知識人に指導される民衆」ではなく、「民衆の運動を自律的なものとしてとらえる視点」が必要。これが本日講演のメインテーマであったと思う。

講演では、3・1運動では、「おずおずした臆病な民衆ナショナリズム」が解放されて、知識人の思惑を越えて猛威を振るった、という。その「民衆ナショナリズム」は1945年8月15日の日本の敗戦で再び燃え上がり、日帝に禁止されていた白服の民衆が万歳を叫んで街頭で乱舞したという。このときには、「おずおずした臆病なナショナリズム」ではなかった。

講演の骨格は、この集会の主催者が期待した、「苛酷な植民地支配に抗して朝鮮民族は平和な万歳デモで立ち上がった。現代のキャンドルデモのように」というものではなかった。さて、100年前の民衆の運動が、今にどう生きているのだろうか。知識人の運動の論理と民衆の論理を分ける考え方は有効なのだろうか。

問題の未整理、未消化のまま、現地を旅することになりそうだ。何か、答が見つかるだろうか。
(2019年2月10日)

春は曙、首相はシンゾー?

春って曙よ! 春とあけぼの、ピッタリじゃん!
そして、首相ってばシンゾーね! ちょっときもいけど、今の日本にピッタリじゃん。

アメリカにはヘイコラしちゃって、韓国にはむやみにイバってさ。いかにも日本人じゃない。みんなの気持ちがよく分かってんのね。

あんまり歴史は知らないくせに、ヘイトに自信を持っちゃって。あれが魅力ね。

それに、沖縄よね。沖縄にヤなもん押しつけておけば、ワタシらラクチンさ。そんな気持、シンゾー、よく分かってんのよ。選挙区沖縄じゃないもん。

それからオリンピックもね! 放射線は完全にブロックしてコントロールしてるナンチャッテさ。ああいう風に、堂々とウソをつけるって、やっぱりただ者じゃないのよね。

国会では、これから丁寧に説明しますって繰り返してさ。イツ説明するのかなと聞き耳立てていると、それについてはこれまで丁寧に説明したところですって。さすがに毛の生えた「シンゾー」。そして分厚い面の皮よね。たいしたもんじゃない。

何よりも、すっごく素敵なのは、国政の私物化ね。仲の良い人には、国有地を只同然でくれてやったり、獣医学部の新設を押し通したり、義理堅いんだもん。みんな、この人と仲良くなりたいと思っちゃうよね。

それに教養をみせないところが、カッコいいもんね。ニッキョーソ、ニッキョーソって騒いでみたり、漢字も良く読めないところでウケをねらったり。結構苦労してるみたい。

すんごいパワーも感じさせてね。アベノミクスって、外れても折れても、次々と何本でも矢が出てくるんだもん。そして、次々と矢が外れて行く内に、格差と貧困が拡がっていく。もう、たまんないわねッ!

でもなんてったって、一番は憲法改正よね。だあれも望んでいないのに、一人でがんばって9条変えようっていうのよね。公明党もついていけないって態度みたいじゃん。これって、素敵なのかな、ダッサイのかな。

森羅万象すべてを担当なんて神ってきてるけど、シンゾーの周りは魑魅魍魎が百鬼夜行。五里霧中で、実のところは四面楚歌じゃん。

秋って夕暮れよ! そろそろシンゾーも夕暮れね。
秋の夕暮れの風情は、何もかもすっごく素敵! だけど、たくさんの人をたぶらかしてきたシンゾーの夕暮れは…。きっとみじめでダサイのッ!。
(2019年2月9日)

東京「君が代」裁判・最高裁要請行動

弁護士の澤藤と申します。1審原告らの代理人の一人です。「10・23通達」発出以来の15年、この問題に携わってまいりました。本件の当事者や支援者と一緒に、要請を申し上げます。

東京「君が代」裁判4次訴訟は、今、3件に分かれて最高裁に係属しています。原告教員側からの上告事件・上告受理申立事件、そして一審被告都教委の側からの上告受理申立事件です。

懲戒処分を受けた教員が上告理由としているのは、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の憲法違反です。何ゆえ憲法違反か。上告理由書は260ページに及ぶ詳細なものですが、煎じ詰めれば、思想・良心・信仰の自由という憲法に明記されている基本的人権というもの価値が、他の価値に優越していると言うことです。

教員の一人ひとりに、それぞれの思想・良心・信仰の自由が保障されています。各々の思想や良心やあるいは信仰が、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を許さないのです。公権力が、敢えてその強制を行うことで、一人ひとりの精神的自由の基底にある、個人の尊厳を傷つけているのです。傷ついた個人の尊厳という憲法価値を救うために、裁判所は国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制は違憲だと宣言し、懲戒処分を取り消さなければなりません。

原告教員の側は、個人の尊厳という憲法価値を前面に立て、これを侵害する懲戒処分を取り消せと主張を重ねてきました。一方、都教委側が主張する憲法的価値はと言えば、それは国家です。国旗・国歌(日の丸・君が代)は国家象徴ですから、すべての人に「国旗国歌に敬意を表明せよ」と命じるのは、国家に、個人の尊厳を凌駕する憲法価値を認めなければできないこと。個人の尊厳と、国家と。この両者を比較検討してどちらを優越する価値とすべきでしょうか。

多くを語る必要はありません。個人の尊厳こそが根源的価値です。国家は便宜国民が作ったものに過ぎません。個人の尊厳が傷つけられる場合、公権力が個人に国家への敬意を強制することはできないはずです。

いま、最高裁判例は、「国旗・国歌への敬意表明の強制は、間接的に強制された人の思想・良心の自由を制約する」ことまでは認めています。しかし、その制約は「間接的」でしかないことから、緩やかな必要性・合理性さえあれば、制約を認めうる、と言うのです。私たちは到底納得できません。判例か変更されるまで、私たちは何度でも違憲判断を求める訴訟を繰り返します。

一審原告の上告受理申立理由の中心は、本件不起立行為を対象とする戒告処分も処分権者の裁量権を逸脱濫用した違法のものであって取り消されねばならない、という点です。仮に、本件各懲戒処分が違憲で無効とまでは言えなくても、わずか40秒間静かに坐っていただけのこと懲戒処分とするほどのことではない。実際、式の進行になんの支障も生じてはいないのです。懲戒処分はやり過ぎで、懲戒権の逸脱濫用に当たる、と言うものです。

現に、2011年3月10日東京高裁判決は、処分は違憲との主張こそ退けましたが、懲戒権の逸脱濫用として全戒告処分を取り消しています。是非、この判決を重く受けとめていただきたいのです。

この高裁判決を受けての最高裁判決が2012年1月16日第一小法廷判決です。戒告処分違法の判断を逆転させて、「戒告は裁量権の逸脱濫用には当たらない」としたのです。しかし、さすがの最高裁も、戒告を超えた減給以上の懲戒処分は苛酷に過ぎて裁量権の逸脱濫用に当たり違法、としたのです。

つまり、不起立に対する処分は違憲とは言えない。しかし、懲戒処分が許されるのは戒告処分止まりで、それ以上の重い減給や停職などの懲戒処分は裁量権の逸脱濫用として違法。これが現時点での判例の立場です。

私たちは、多様性尊重のこの時代に、全校生徒と全教職員に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意表明を強制することはあってはならないことだと考えます。思想や良心、あるいは信仰を曲げても、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明せよという強制は違憲。少なくとも、起立できなかった教員に対する懲戒処分はすべて処分権の逸脱濫用として取消しとなるべきことを主張しています。最高裁には、是非とも再考願いたいのです。

そして、都教委が教員の一人を相手にして上告受理申立をした事件。その理由が、相手方となった教員が過去3回の不起立・戒告処分があるから、4回目は減給でよいだろう。そして5回目も減給、というのです。

しかし、この教員の思想も良心も一つです。何度起立を命じられようとも、思想・良心が変わらぬ限り、結果は同じこと。処分回数で思想や良心に対する制裁強化が許されるはずはないのです。これを思想を変えるまで処分を重くする、などという企みは転向を強要するものとして、明らかな違法と言わざるを得ません。

実は憲法論と同じように法的価値の衡量が行われています。衡量されている一方の価値は、思想・良心・信仰の自由。その基底に、個人の尊厳があります。衡量されているもう一方の価値は、「学校の規律や秩序の保持等の必要性」であり、違憲論の局面で論じられた価値衡量の問題が、本質を同じくしながら公権力の行使の限界を画する懲戒処分の裁量権逸脱濫用の有無という局面で論じられているのです。

結論は自ずから、明らかです。都教委の上告受理申立はすみやかに不受理とすべきです。いま、都教委の識見が問われています。しかし、問われているのは都教委だけではありません。実は、最高裁もその識見を、ありかたを問われています。憲法が想定する、憲法の番人、人権の砦の役割を果たされるよう、切に要望いたします。
(2019年2月8日)

吉田嘉明よ、リングから逃げるな。次回期日には出廷して証言をせよ。― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第147弾

敢えて、何度でも繰り返そう。吉田嘉明よ、キミには今闘っているという自覚はないのか。ファイティングポーズをくずしてはならない。リングから逃げてはならない。逃げれば、永久に、卑怯・未練・怯懦と言われるばかりだ。それでよいのか。

吉田嘉明よ。逃げずに法廷に出て来たまえ。同じ日、同じ法廷で、私も語る。キミも、思うところを存分に述べたらどうだ。

そもそも、闘いを仕掛けたのは君の方だ。突然に私を訴えた。2000万円を支払えという損害賠償請求訴訟。私は逃げずにキミからの仕掛けを受けて闘った。もちろん、キミの提訴は言論の萎縮をねらった露骨なスラップだと反撃を開始した。私が「DHCスラップ訴訟を許さない」、という当ブログのシリーズを書き始めたら、何と2000万円の請求が6000万円に跳ね上がった。キミの言論抑圧の意図はそれだけで明瞭ではないか。

こんなメチャクチャなスラップ訴訟を、キミは同時期に10件も提訴している。とうてい勝算などあり得ない訴訟を、それでも提訴した思惑を語れ。一体幾らのカネをかけてこんな訴訟をやったのか。もしや、顧問弁護士から、勝訴の見込みがあるとでも吹き込まれたというのか。その経緯を、宣誓して法廷で語れ。

吉田嘉明よ、キミの私に対する6000万円請求訴訟は、当然のことながら私が勝訴した。キミは、明らかに勝ち目のない訴訟を提起して、地裁、高裁、最高裁まで争って敗訴確定となった。しかし、世の中に、「DHC・吉田嘉明を批判すると、高額請求訴訟の被告とされて面倒なことになる」という抜きがたい記憶だけは残したのだ。これこそ、スラップの効果だ。キミのねらいはそこにあったとしか考えられない。そして私は、降りかかる火の粉を払っただけ。火の粉を払うために要した労力も時間も費用も相当なものだ。だから、今はキミのやり得、私のやられ損だ。

吉田嘉明よ。第2ラウンドも、キミからの仕掛けだった。キミが原告となって私を被告とした債務不存在確認請求訴訟を提起した。私は、受けて立たざるを得ない。再びリングにのぼった。そして、今私は反訴原告となって、DHCと吉田嘉明を反訴被告とする660万円の損害賠償請求訴訟を提起している。

裁判所は、私とキミの両方の尋問を決定した。1月12日のことだ。尋問の期日は、4月19日(金)午後1時30分?、415号法廷だ。もちろん、私は法廷で尋問を受ける。DHCと吉田嘉明の違法を腹の底から訴える。当然にキミもそうするだろうと思っていた。

ところがどうだ。本日の進行協議、尋問の順番や時間配分をどうするかの協議の席で、キミの代理人今村憲弁護士は、「反訴被告本人は、今のところ出頭しない方向です。」と言った。本当だうか。自分の方からイクサを仕掛けておいて、いざとなったら逃げようというのか。

裁判所は本日中に呼出状を発送すると明言した。「もし、呼出に応じないというのなら、理由を付してその旨の返事を2月末までに」というのが、裁判所の指示だ。

私は、キミにお願いしたい。逃げずに、誰かの後ろに隠れずに、堂々と裁判所に出てきてしゃべってほしい。私もキミに直接の質問をしたい。キミから私に、質問もしてもらいたい。

キミも私も、文明社会に生きている。紛争の解決は、司法手続ですることになる。その文明がキミに言い分を語るチャンスを提供しているのだ。しかも、キミは弁明しなければなない立場にある。その弁明の機会を放棄しようというのか。

もとはと言えば、キミが週刊新潮に書いた手記の内容が私の批判を招いたのだ。その手記の内容や発表の意図について、他人が代わって説明できることではない。2000万円の提訴、6000万円への増額請求、普通にはあり得ないことをキミ自身の判断で行ったのだ。キミの内心や動機は、キミ以外には語れない。

もう一度言おう。私は、キミを批判の対象としている。しかし、けっしてキミを軽蔑してはいない。しかし、キミが、リングから逃げて、卑怯未練・怯懦の振る舞いをすることとなれば、軽蔑せざるを得ない。

キミは、「本物、偽物、似非もの」と並べる記事を書いたではないか。キミ自身が、「偽物」でも「似非もの」でなく、「本物」だと言うのであれば、堂々とリングに上がれ。せめてファイティング・ポーズをとれ。そうすれば、私がキミを軽蔑の対象として見ることはない。

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本日・2月7日(木)11時30分?
501号(ラウンドテーブル法廷)での進行協議の結果の報告。

☆冒頭、裁判長から以下の発言。
前回の法廷で、Uさん(DHC総務部長)と、澤藤さん、吉田さんの尋問を決定しましたが、本日の進行協議は、反訴被告側に、吉田さん本人尋問の申請をするか否かをお考えいただき、それ次第で、尋問の順序や時間配分をどうするかを決めたいという趣旨としてのものです。
反訴被告代理人。吉田さん本人尋問の申請はされますか。

☆反訴被告代理人弁護士 今村憲
当方から吉田の尋問を申請はしません。
今のところ、出頭しない方向です。

☆反訴原告代理人
当人が出頭するかしないかはともかく、裁判所から呼出状を出していただくことが重要で、至急お願いします。

☆裁判長
呼出状は本日発送します。
出廷できるかできないか、理由を付して今月末までに返事をおねがいします。

☆その後の協議の結果次回法廷スケジュール
最初に反訴原告(澤藤)の尋問
主尋問30分 反対尋問30分。
次に、証人のUさん。
主尋問20分 反対尋問30分。
その次に、反訴被告(吉田)
主尋問30分 反対尋問30分。

次回の法廷は、4月19日(金)午後1時30分?
東京地裁415号法廷です。
(2019年2月7日)

森友事件は終わっていない。 ― 検察審査会は「起訴相当」の議決を。

通常国会は、統計不正問題がアベノミクス偽装問題に発展しての荒れ模様。だが、元祖偽装の森友事件はまだ終わっていない。終わらせてはならない。忘れてもならない。これは、安倍晋三とその妻の国家主義教育観を遺憾なく露呈した事件であり、安倍への忖度で行政が歪められいることの象徴であり、行政文書の無惨な隠蔽・改竄事件であり、議会での官僚の虚偽答弁事件でもある。

のみならず、最も国民的関心を呼んだのは、国有地を《只同然に》8億円値引いて払い下げたこと。これは、アベやアキエが介在して行われた犯罪である可能性がきわめて高い。その犯罪を隠蔽しようという姑息な策動が、関係者の諸々の隠蔽・捏造・改竄・虚偽の言動となった。

政治の頂点にいる者に関わる犯罪だから、疑惑解明は容易ではない。自浄作用は期待しがたい。メディアも野党もよく追求はしたが最後の決め手に欠けた。世論も憤ったが内閣の存続を許してしまった。結局のところ、司法に期待が寄せられるのは当然の成り行きで告発が相次いだ。

大阪地検特捜部に集約された告発は、被告発者数38名、6罪の告発罪名についてのものだった。被告発者38名の内訳は、財務省本庁・関係者23名、近畿財務局関係者10名、国土交通省・大阪航空局関係者4名、森友学園関係者1名。告発罪名は、背任、公用文書毀棄、虚偽有印公文書作成・同行使、有印公文書変造・同行使、証拠隠滅、公務員職権濫用である。

2018年5月1日大阪地検特捜部は、その全告発を不起訴処分とした。国民の信頼を裏切ったものと言うほかはない。その結果、舞台は大阪検察審査会に移った。

週刊金曜日・片岡伸行記者の取材によると、いま検審には6団体・個人が、9件の申立をしているという。そのすべてが、大阪第1検審に係属している。主な団体は以下のとおり。
「森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」
「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」
「森友・加計告発プロジェクト」
「森友学園問題を考える会」

私が代理人として関わっているのは、醍醐さんや湯山さんらの「幕引きを許さない市民の会」の会員が告発し審査申立をした下記の2事件。いずれも、2018年6月5日受理となったもの。なお、いずれも「嫌疑なし」ではなく、「嫌疑不十分」での不起訴処分となっている。

平成30年第13号(被疑者・池田靖に対する背任、及び被疑者・佐川宣壽に対する証拠隠滅)
平成30年第14号(被疑者・美並義人に対する背任)

実は、このところ議決の通知があるのではないかと、毎日気を揉んでいた。というのは、第一検察審査会の委員11名は、
2018年8月1日?19年1月31日の第1グループ(5名)と
2018年11月1日?19年4月30日の第2グループ(6名)とで
構成されているとのこと。

第1グループの任期終了となる、19年1月末までに決議がある可能性が高いと思っていたのだが、本日(2月6日)まで何の連絡もない。次は、4月の末だろうか。

なお、下記に、関係条文を引用しておくが、検察審査会の議決は3通りある。
(1) 「起訴相当」 (11人中8人以上の賛成)
(2) 「不起訴不当」(過半数=6人以上の賛成)
(3) 「不起訴相当」(過半数=6人以上の賛成)
もちろん、「起訴相当」の議決でなくてはならない。

[検察審査会法]
第39条の5 第1項 検察審査会は、検察官の公訴を提起しない処分の当否に関し、次の各号に掲げる場合には、当該各号に定める議決をするものとする。
? 一  起訴を相当と認めるとき 《起訴を相当とする議決》
? 二  前号に掲げる場合を除き、公訴を提起しない処分を不当と認めるとき
     《公訴を提起しない処分を不当とする議決》
  三  公訴を提起しない処分を相当と認めるとき 
     《公訴を提起しない処分を相当とする議決》
  2  前項第一号の議決をするには、
     検察審査員8人以上の多数によらなければならない。

?第41条1項  検察審査会が第39条の5第1項第一号の(起訴相当の)議決をした場合において、議決書の謄本の送付があつたときは、検察官は、速やかに、当該議決を参考にして、公訴を提起すべきか否かを検討した上、当該議決に係る事件について公訴を提起し、又はこれを提起しない処分をしなければならない。
2項  検察審査会が第39条の5第1項第二号の(不起訴不当の)議決をした場合において、議決書の謄本の送付があつたときは、検察官は、速やかに、当該議決を参考にして、当該公訴を提起しない処分の当否を検討した上、当該議決に係る事件について公訴を提起し、又はこれを提起しない処分をしなければならない。
(2019年2月6日)

晋三さん。あんたの言うこと、そりゃおかしい。危なっかしい。

幾つかのことを確認しておきたい。
自衛隊は、憲法違反の軍事組織である。
自衛隊に限らず、軍隊とは大量殺人を本務とする。
どの軍隊も、「自国の防衛」のために存在するとされている。
どの戦争も、「自国の防衛」の名目で行われる。
そして、自衛隊こそは、隊員の人権を顧みるところのないブラック職場である。

だから、自衛隊を憲法に明記すれば、
自衛隊を違憲の存在から解放して、
大量殺人を本務とする組織として公認することになり、
「自国の防衛」のためとして国民を軍事動員することを容認し、
「自国の防衛」の名目での戦争を可能とすることにもなる。
だからこそ、大事な人をブラック職場にやることはできない。

1月30日の衆院本会議。自民党二階俊博幹事長代表質問に対する安倍晋三首相答弁を以下に抜粋する。私の突っ込みもいれておきたい。

平成の時代を通じた自衛隊に対する国民の評価と憲法改正の考え方についてお尋ねがありました。憲法改正の内容について、私が内閣総理大臣としてこの場でお答えすることは本来差し控えるべきものとは思いますが、私の気持ちを述べよとのことですので、丁寧にお答えをさせていただきたいと思います。

本来、口にしてはならないことだ。憲法は、主権者国民から内閣総理大臣を筆頭とする公務員に対する命令の文書。内閣総理大臣は、ひたすらこれを守るべき立場にある。それを気に食わないから変えようなどとはもってのほか。都合の悪いときは、「私の気持ちを述べることは適切ではありませんので、差し控えさせていただきます」としか言わないくせに、こんなときだけ「丁寧にお答え」の必要はない。

私が自民党総裁として一石を投じた考え方は、現行の憲法第9条の第1項及び第2項を残した上で、自衛隊の存在を憲法に明記することです。

いま、内閣総理大臣として答弁しているのに、「私が自民党総裁として一石を投じた考え方」を述べるのは、職権濫用も甚だしい。主権者が求めているのは、議場で立場を変える「カメレオン首相」ではない。

大きな自然災害が相次いだ平成の時代。困難な災害の現場には、常に自衛隊員の姿がありました。夜を徹し、泥にまみれ、雨に打たれながらも、危険を顧みず、黙々と任務に当たる隊員諸君は、被災された皆さんの心に寄り添い、被災地の力となりました。

消防も警察も市役所職員も青年団も、そしてボランティア諸君も「被災された皆さんの心に寄り添い、被災地の力となった」ではないか。ことさら、自衛隊だけを、褒めあげる必然性はない。また、「だから、自衛隊を憲法に明記せよ」ではなく、「だから、高度に専門化した恒久的な災害救助隊をつくるべきだ」となるべきだろう。

また、PKO法の制定以降、延べ約六万人の自衛隊員が、世界各地で平和と安定のため、汗を流してきました。現地の目線に立った支援、高い規律と丁寧な仕事ぶりで、国際社会から高い評価を得てまいりました。

これは、憲法9条あればこその効果というべきだろう。9条を背負った自衛隊だからこそ、絶対に実力行使をしてはならない、自衛隊なればこその平和的な振る舞い。それゆえにこそ、戦闘に巻き込まれることがなく、国際社会からの信頼を得ていることを肝に銘じなければならない。

自衛隊は、かつては厳しい目で見られた時代もありました。それでも、歯を食いしばり、ただひたすらに職務を全うしてきた。今や、国民の約9割は、敬意を持って自衛隊を認めています。

国民の多くは、国内での災害救助や世界各地での難民支援をする自衛隊員を好ましいと見ているのだ。武力装置としての自衛隊ではなく、飽くまで人道的支援の自衛隊員。自衛隊を憲法に明記すれば、衣の下の鎧を疑われることになる。

しかし、近年の調査でも、自衛隊は合憲と言い切る憲法学者は2割にとどまります

えっ? 自衛隊は合憲と言い切る御用学者が2割も。それは学問の堕落だ。信じがたい。

「君たちは憲法違反かもしれないが、何かあれば命を張ってくれ」というのは、余りにも無責任ではないでしょうか。

誰がそんなことを言ったというのかね。「命を張ってくれ」って? そんな言い方は、それこそ「余りにも無責任」。

多くの教科書に、自衛隊の合憲性には議論がある旨の記述があります。その教科書で自衛隊員のお子さんたちも学んでいるのです。

自衛隊の合憲性に議論があるのは当然のこと。子どもたち誰もが学ぶべき議論ですよ。軍事に頼って我が国の安全が守れるはずがないというのも根拠のある立派な見解。何ですか、晋三さん。「自衛隊員のお子さんたち」をダシに、教科書を書き換えろとでもいうのですか。そりゃオカシイ。

さらには、今なお、自衛隊に関するいわれなき批判や反対運動、自治体による非協力な対応といった状況があるのも事実です。例えば、自衛隊の、自衛官の募集は市町村の事務ですが、一部の自治体はその実施を拒否し、受験票の受理さえも行っていません。また、防衛大臣からの要請にもかかわらず、全体の6割以上の自治体から、自衛隊員募集に必要となる所要の協力が得られていません。

何ですか、晋三さん。「自衛隊に関するいわれなき批判や反対運動」はけしからんと。そりゃ、首相としての発言? 総裁として? 個人的意見? いずれにせよ、自治体行政に対する干渉でしょう。自衛隊内での、イジメや体罰の凄まじさは、旧軍以来の伝統として、みんながよく知っていること。隊の慢性的欠員は、隊自身の体質の問題。

優秀な人材確保のためには、地域に密着した採用活動が重要ですが、自衛隊の採用説明会等の取りやめを求める要請がさまざまな団体により行われており、このため、昨年、採用説明会が取りやめとなった事例もあります。

自衛隊の採用説明会等の取りやめを求める要請運動があってこその民主主義国家、平和国家ではありませんか。でもヘンですね。「今や、国民の約9割は、敬意を持って自衛隊を認めています」というのなら、そんなことにはならないのでは。本当に国民に支持されているのなら、隊員募集に苦労することはないでしょうに。

自衛隊は、これまで4万回を超える災害派遣を行い、助けを求める自治体に直ちに駆けつけ、献身的な働きを行っています。このような現状はまことに残念と言わざるを得ません。このような状況に終止符を打つためにも、自衛隊の存在を憲法上明確に位置づけることが必要ではないでしょうか。

今、自衛隊募集かうまく行かないから、憲法に自衛隊明記が必要だというんですね。そりゃダメだ。自衛隊は、もっと自助努力をしなくちゃね。

同時に、国民のため命を賭して任務を遂行する隊員諸君の正統性を明文化し、明確化することは、国防の根幹にかかわることだと考えています。

おっと、語るに落ちちゃった。アベ改憲は、「国防の根幹にかかわる憲法改正」。そんなことはしちゃいけない。世界の各国が身構えますよ。日本は憲法を変えて、本格的な軍隊をもって、再び「富国強兵の日本を取り戻そうとしているのだ」と。これって、あなたが普段言っていることだけど、危険と思いませんか。

自衛隊に対する国民の信頼は政治の力で得たものではありません。自衛隊員の諸君はみずからの手で国民の信頼をかち得たのであります。次は、政治がその役割をしっかりと果たしていかなければなりません。全ての自衛隊員が強い誇りを持って任務を全うできる環境を整える、これは今を生きる政治家の責任であります。

晋三さん。あんたが言うと、こう聞こえるね。

強く豊かな国をつくるには、戦争を辞さない精強な軍隊が必要です。精強な軍隊は、国民の信頼あってのもの。被災者救援によって、自衛隊はようやく、市民権を得るに至りました。次は、憲法を改正して、自衛隊を憲法に位置づけなければなりません。そこまで行けば、その次は自衛隊を国防軍とし、一人前の戦争のできる組織に変えていく。今が、その大事な一歩のところ。この大事な一歩を踏み出すのが、私という政治家の使命なのであります。

(2019年2月5日)

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