「3・1独立運動」とは何だったのか。今に、どうつながっているのだろうか。
「3・1独立運動」から間もなく100年。今月下旬、そのゆかりの地を訪れる旅に、私も参加する。現在の日韓関係の軋みの来歴としても、韓国の民主運動の源流としても、100年前のこの事件を把握しておきたい。
本日(2月10日)、日朝協会東京都連が主催する「新春の集い」。その記念講演が、「3・1独立運動は私たちに何を語りかけるか」という表題で、講師は趙景達氏(朝鮮民衆史・千葉大教授)。この講演を聞きいて少なからぬ衝撃を受けた。自分の中の常識が覆された。
今日の企画のポスターに、「朝鮮半島で100年前に起きたこと」「それは、東京・神田で始まった」「苛酷な植民地支配に抗して朝鮮民族は平和な万歳デモで立ち上がった。現代のキャンドルデモのように」とある。これが常識的な理解。
韓国では3月1日は、三一節として祝日に指定されている。本日の集会の主催者挨拶でも触れられたが、現在の大韓民国憲法の前文にも、「3・1運動」が明記されている。その冒頭を引用すれば、以下のとおり。
悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して、正義・人道と同胞愛で民族の団結を強固にし、全ての社会的弊習と不義を打破し、自律と調和を土台に自由民主的基本秩序をより確固にし…、
「3・1運動で建立された大韓民国臨時政府」とは、3・1運動後、中華民国の上海市で結成された朝鮮の独立運動組織である。その中心の活動家として、李承晩・呂運亨・金九らの名が知られている。なお、「不義に抗拒した4・19民主理念」とは、李承晩政権を打倒した1960年の「4・19学生革命」をいう。
その歴史的な「3・1独立宣言書」への署名者は33名。宗教別に選定された代表者として、天道教15名、キリスト教16名、そして仏教から2名。この33名を指して「民族代表」という。
1919年3月1日午後。ソウル市内のタプコル公園(旧名・パゴダ公園)に集まった群衆の前で、「3・1独立宣言書」が読み上げられ、群衆は歓呼をもってこれに応じた。宣言文は、かなりの長文だが、冒頭は以下のとおり。
吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする。
タプコル公園に集まった群衆は、「独立万歳」を称えて、市内をデモ行進し、この熱狂はたちまち全国に伝播する。知識人の唱導する理念に民衆が賛同して運動をともにする美しい構図。そのように見える。そして、非暴力を理念とした「独立万歳」の運動は日本の軍と警察による苛酷な弾圧を招くことになる。
かつて、タプコル公園を訪れたときに、この民族代表33名を代表する人物の像を見た。名前は覚えられなかったが、これが孫秉熙(ソン・ビョンヒ) である。東学を「天道教」と改称した、教団の教主であった人物。即日、警察に逮捕され、懲役3年の刑を宣告されている。
本日の趙景達教授の講演では、この孫秉熙を独立運動のヒーローと見てはならない、と言う。のみならず、民族代表33名は、3・1運動を指導していないともいう。
本日配布のレジメには、思いがけない文章が並ぶ。
・3月1日における民族代表の背信
→独立宣言を行うはずのパゴダ公園に現れずに料理店で祝杯を挙げて自首する。 →学生と民衆を排除
・民族代表をめぐる評価の問題
→野心を秘めた民族代表の僭称
→愚民観と民衆不信に立つ民族代表
・孫秉熙の民衆・国家観
→本来総督府に協力的で韓国併合も仕方ないとしていた
→独立運動を当初から否定し、天道教徒に天皇の臣民になることを説いていた
3・1運動についてのイメージが崩れるが、問題はもっと大きい。
同教授は、「3・1運動の論理」に関して、知識人と民衆とは違うことを強調する。民族代表は知識人の論理の典型だったが、その限界は明らかで、統治者である日本の官憲には恐い物ではなかった。
「知識人に指導される民衆」ではなく、「民衆の運動を自律的なものとしてとらえる視点」が必要。これが本日講演のメインテーマであったと思う。
講演では、3・1運動では、「おずおずした臆病な民衆ナショナリズム」が解放されて、知識人の思惑を越えて猛威を振るった、という。その「民衆ナショナリズム」は1945年8月15日の日本の敗戦で再び燃え上がり、日帝に禁止されていた白服の民衆が万歳を叫んで街頭で乱舞したという。このときには、「おずおずした臆病なナショナリズム」ではなかった。
講演の骨格は、この集会の主催者が期待した、「苛酷な植民地支配に抗して朝鮮民族は平和な万歳デモで立ち上がった。現代のキャンドルデモのように」というものではなかった。さて、100年前の民衆の運動が、今にどう生きているのだろうか。知識人の運動の論理と民衆の論理を分ける考え方は有効なのだろうか。
問題の未整理、未消化のまま、現地を旅することになりそうだ。何か、答が見つかるだろうか。
(2019年2月10日)