この3月の都立校卒業式において国歌斉唱時に不起立だったとして、6人の教員に懲戒処分が発令された。そのうちの5名が戒告、1名が減給(10分の1・1か月)である。
懲戒処分は、軽い方から戒告・減給・停職、そして極刑的な免職まで4段階ある。一昨年まで、都教委は処分量定を累積加重の取扱いとしていた。初回の不起立で直ちに戒告となる。2回目は減給(10分の1)1か月、3回目は減給6か月。4回目となると停職1か月、5回目停職3か月、6回目停職6か月。そして、おそらく7回目は免職を予定していた。
われわれは、都教委が発明したこの累積加重の処分方式を、「思想転向強要システム」と名付けた。不起立・不斉唱は思想・良心に基づく行為である。思想や良心を都教委の望む方向に変えない限り、処分は際限なく重くなり最後には教壇から追われることになる。
昨年1月16日の最高裁判決(第一小法廷)が、「10・23通達」と起立斉唱命令の違憲判断は避けつつも、さすがに「原則として減給以上は懲戒権の逸脱濫用に当たり違法」として処分を取り消した。結局処分量定の累積加重システムは崩壊し、戒告処分だけが残った。こうして、「10・23通達」による恫喝の脅威は半減したと言えよう。
この判決を承けて、2012年春の処分はすべて戒告だけとなった。当然今年も同様であろうと考えていたところ、不起立4回目の教員が減給となった。都教委は、敢えて、紛争拡大に踏み切ったのだ。この挑戦的な姿勢は、猪瀬選挙の大勝、安倍政権の成立、維新の会の得票増などの保守的空気を読んでのことであろう。最高裁も舐められている。
本日は、懲戒を受けた5名(1名は年度末で退職)について、服務事故再発防止研修が行われた。研修とは、懲戒を受けた者に非違行為の反省を促し、再発の防止に備えるためのもの。パワハラやセクハラ、あるいはイジメ・体罰を行った教員に対しては、反省を求めて研修を行うことには合理性があるだろう。しかし、自らの思想信条、あるいは教員としての良心に基づく行為については反省のしようがない。むしろ、反省をしなければならないのは都教委の方である。研修とは名ばかり。実は嫌がらせ以外の何ものでもない。嫌がらせの目的は、本人に対しては、「思想を曲げろ。次からは命令に従え。おとなしくしろ」とのアピールであり、他の教員に対しては、「言うことを聞かないとこんな目に遭うぞ」という見せしめである。
それでも、本日午前8時20分には、研修センターの入り口に80人を超す支援者が集結して都教委に申し入れと抗議をした。私は、責任者に口頭で申し入れをした。そして、抗議と激励のシュプレヒコールを背に、5人が研修センターの門を入った。
最高裁で累積加重システムを違法とされた都教委の巻き返し策の一つが、嫌がらせの程度をアップさせようという「研修強化」である。しかし、懲戒処分には「思想・良心に介入する再発防止研修が伴う」となれば、新たな処分の違憲理由が生じることになる。また、再発防止研修の態様によっては、懲戒処分とは切り離した法的手段の対象ともなりうる。そのことの強調が肝要であろう。
抗議集会参加者の発言が重い。猪瀬都知事の、「起立して口パクやっていればいいわけ。アホみたいな話だ」という発言の不真面目さに、怒りを込めた抗議の声があがった。
「知事には、教育の何たるかが分かっていない。教育に向き合う姿勢に真面目さがない。私たちは、真剣に生徒と向かいあっている」
思想・良心に対する攻撃に負けずに闘っている教員の真摯さに心を打たれるものがある。私は歴史の現場に立ち会っているのだ。
当ブログ新装開店サービス第5弾。「がんを詠む」
私は5年前に、肺がんの手術を受けた。そのときのことについて、東京弁護士会会報に既発表のものだが、エッセイのような歌のようなもの。
つゐにゆくみちとはかねてききしかと
きのふけふとはおもはさりしを
ご存じ,伊勢物語終章の一首。自分の死を「きのふけふ」と思うことはない。「患ひて心地死ぬべく覚えける」ことのない限りは‥。
昨年の春,「患ひ」の自覚はなかったが肺がんの宣告を受け,業平の如く「心地死ぬべく」の心境を味わった。
10年ほど前,吉川勇一さん(元・ベ平連事務局長)から「いい人はガンになる」という著書をいただいた。飄々たるご自身のガン体験の語り口が滅法面白い。
ガンになったいい人の列伝があって,「ガンにならない人は,ワルイやつ」との結論に至る。まったくの他人事として愉快に読んだ。その私が,唐突に「いい人」の仲間入りとなったのだ。タバコも酒もやらない私が,よりによって肺がんである。
なんの根拠もなく自分ががんになることなどあり得ないと信じ込み,がん検診を無視し続けてきた。のみならず,20 年近く健康診断というものを一切受けていなかった。
健康診断を拒否し続ける心の片隅に,「災難に逢ふ時には災難に逢ふがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候」との良寛の言葉があった。がんの宣告を受けることがあれば,それが我が身の「死ぬ時節」と思い切ればよい。潔さこそ美学ではないか。
ところがどうだ。がんであると分かってのこの私のうろたえようは。命が惜しい。少しでも生きながらえたい。生への執着心は,自分の想像をはるかに超えるものだった。美学なんぞは砕けて散った。
さいわい,私の肺がんは,右肺上葉切除・リンパ節郭清の標準治療で今のところはことなきを得ている。
病理検査で転移なしと聞かされたときの心からの安堵が忘れられない。以来,多少の心の余裕ができてきた。業平に倣って,歌のようなものをひねってみた。そのうちのいくつかを連ねてみることとする。
がんの宣告受けたるその日
大地は鳴動せず日月も欠けず
神在りせば神を怨まん
なんぞかくも気まぐれなるかくも酷薄なる
身じろぎもせずうずくまる人影あり
がん病棟の未明のロビーに
手術前夜腕時計突然止まりぬ
ただそれだけのことにてはあれども
鏡にてつくづくとわが身を眺めいる
傷なきこの背を見おさむるの日
下手人は世に聞こえし手練れなり
逆袈裟一文字に傷は7寸
敢えて毀傷せり身体髪膚
咎むる父母の既に亡ければ
命拾うたと思いし朝
富士は輝やき筑波嶺はやさし
五臓六腑に染みいるモーツァルト
五臓の一は欠けてあれども
病床で読む「病牀六尺」
われに子規を憐れむ多少の余裕あり
嗄声(させい)とは医療訴訟で覚えし語彙
我が身のこととは思わざりしを
長谷川伸といえば、股旅物のジャンルを確立し、義理と人情の世界を描いて一世を風靡した大衆作家。佐藤忠男の「長谷川伸論」(中公文庫)が面白い。
佐藤は、長谷川伸の描く「義理と人情」に関連して、「忠と孝」の考察に頁を割く。そして、天皇制について的確な論評をしている。
「日本近代史最大の思想的発明は、天皇は国民の親である、というテーゼであろう。ここから、ナショナリズムの日本独自のありかたが生れた」「親と子の関係は自然の関係である。ふつう、ごく自然に愛情が存在する。しかし、天皇と国民の関係は、自然の関係ではない。人為的につくられた関係である。近代の日本国家は、この人為的な関係を、親と子のような緊密な愛情で結ばれた関係とみなそうとし、そのために学校を通じて組織的な教育を行った。天皇は国民の親であり、国民はその赤子であるという考え方は強力に浸透した」
佐藤は、忠義とは「義理」の関係でしかないもの。これを、血肉化するためには、天皇を親と思え、という「人情」の関係として把握させる訓練が必要だという。しかし、義理と人情はなかなかに一致し得ない。天皇を親と思って戦場に赴いた兵士の戦後になっての葛藤が、長谷川伸のシナリオを通して語られる。
ところで佐藤は、その著で教育勅語の起案者である元田永孚の「幼学要綱」という書物(修身教科書)を紹介している。1882(明治15)年に天皇から全国の学校に下賜されたこの書の徳目筆頭に挙げられているのは「孝」であって、「忠」ではないそうだ。このことについて「私はこの順序を見たとき、一瞬、自分の目を疑った」という。おそらくは、士族層を除いては当時の国民全体の規範意識として、孝が忠に優先するものであったろう。それが、1890(明治23)年の教育勅語では、「我が臣民克(よ)く忠に、克(よ)く孝に」と、「忠孝の序列」となって確定する。以後は、忠と孝とが矛盾した場合には、忠が絶対優先するものとしてこの順序は狂わない。
浮き世の「義理」と、人間自然の「人情」とは、本来対立するものではあるが、大衆はその関係の一致を理想と考えてきた。そして、その一致がならないときの深刻な悲劇に涙した。佐藤はそう解説する。私は、その着眼点に敬意を表する。ここに陥穽があり、問題の本質があると思う。
誰も皆、人情を貫き通すだけでは生きていけないことを知っている。どこまで義理と折り合いをつけざるを得ないか、そのことを計りながら生きている。義理は強者の論理として押し付けられる。その押しつけは、「義理」と「人情」との円満な一致を求める大衆の心情に付け入ることによって成功する。
義理とは、典型的には「忠」である。封建的身分秩序における「君君たらざるとも、臣は臣たれ」という主君への無限定の忠義であり、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ皇運を扶翼すべし」とする天皇に対する絶対忠誠でもある。この「忠」を支えるモデルが「孝」とされた。孝は人情の世界における自然の感情。これに付け入って、「天皇を親と考え、国民を子と考える強力な義理の観念が教育を通じて叩き込まれた」のである。
さらに、「義理」を社会規範、「人情」を個人の尊厳と理解すれば、権力機構や企業社会における個人の自律という問題ともなり、集団と個人との関係についての普遍にして永遠のテーマともなる。
義理と人情、忠と孝、社会規範と個人の尊厳。極めて今日的なテーマではないか。
新ブログ新装開店記念サービス第4弾のエッセイ
春のうららの本日にふさわしく
『木の芽のこと』
早蕨(さわらび) 白緑(びゃくろく) 蕗の薹(ふきのとう) 萌葱(もえぎ) 水浅葱(みずあさぎ) 茎立(くくたち) 檸檬(レモン) 鶸(ひわ) 鶯(うぐいす) 枝垂柳(しだれやなぎ) 裏葉柳(うらはやなぎ) 若竹(わかたけ)
これらはみんな日本の色の名前。それも若芽から若葉になっていく葉っぱの若緑の名前。弱々しくて、初々しいけれど、立ちはだかるものを押し破っていく力強さを秘めた希望の色。人間は繰り返される自然の営みに魅了され、その細部に目を奪われて、それに順化したいと願いながら生きてきたのだろう。これらの若緑が、風雨にさらされて強さと深みを増し、秋になると目も奪う錦に変わる。そして、その錦繍に恋々とすることなくあっさりと色失って大地に帰って行く。こうした葉の移り変わりゆく時々の色にもそれぞれ美しい名前がつけられている。そんな名前のついた色とりどりの衣装を身にまとって、あこがれの自然に同化したいと人々は願ったのだろうか。
そこで若葉の話。桜が散ったからと言ってがっかりしている暇はない。ベランダでも公園でも、枯れ枝の先にいつの間にか小さな芽が出てきて、景色は遠目にも緑がかつてくる。早く見ないと、何回か冷たい雨が芽を潤しているうちに、芽はほどけて普通の葉っぱになってしまう。茶色の芽の先にぽっちり緑が見え、それがポップコーンのように膨らんで、やがて小さな葉っぱの形になる。冬の間しっかりと折りたたまれていたので、折り紙のようにヤマとタニの折り目がくっきりと残っている。たいてい裏と表の色が違う。裏は冬の寒さから身を守るために、ビロードのように滑らかな毛が生えていたり、小さな鱗片で覆われてメタリックな金属の作り物かと思うような若葉が多い。そこまで武装していないものも、不純なものはみな跳ね返してやるとばかりに、ガラス細工のようにピカピカまぶしく光っている。
ハナミズキ、グミ、カエデ、アジサイ、これらは気の早いことに小さな葉の中に大事そうに花の蕾を抱いている。枝垂れ柳なんかは葉が見えるか見えないあいだに、きなこまぶしになった毛虫のような花をプラプラぶら下げて風に揺られている。ツタはちっちゃな掌のような葉をつけて、その手で壁をはい上っているようにみえておかしい。
コナラやケヤキやイチョウの芽生えはちょっと遅い。だから今からでもまだまだ見るのに間に合う芽生えもある。
クスノキやキンモクセイなどの常緑樹も盛大に若芽を出している。その若葉は鮮やかな黄色やオレンジ色をしているので、遠目には木全体に花が咲いたように見える。ツバキもピカピカしたとんがった若緑の巻き葉を出して花の終わりを告げている。
食べられる若葉も忘れてはならない。サンショウはその代表。ベランダに鉢植えを一本置いておけば、佃煮にできるほどの量の葉っぱは採れなくても、若竹煮や冷や奴には大活躍をしてくれる。もしかしたら、アゲハチョウが卵を産んでくれる幸運があるかもしれない。この場合、大食らいの幼虫がサンショウの木を丸坊主にして人間様には葉っぱ一枚残してくれないという不幸も起こりうる。日当たりが悪くて使い道のない垣根にウコギを這わせておけば、クルミと味噌漬け大根のみじん切りを混ぜ合わせて熱々ご飯にのせたウコギ飯が2,3回は楽しめる。この頃はスーパーマーケットに行けば蕗の薹やコゴミやタラの芽も容易に入手できる。クマも冬眠から覚めると、まずこれら苦みのある春の芽を食べるという。このように若芽は生物史上お試し済みの健康食品なのだから、この春一食ぐらいは召し上がれ。
春はセンバツから。毎日新聞がつくったキャッチフレーズであろうが、しばらく前までは心地よい響きをもっていた。私の母校は、甲子園の強豪校で、春の甲子園での14連勝の記録をもっている。かつて、母校が首里高校と対戦して21奪三振の記録を作った。私は、その試合を観戦していたが、武士の情けを知らぬ母校ではなく、健気な首里高に声援を送った。ところが今、そのような余裕はなく、「春はセンバツから」というフレーズがむなしい。今日の日記は、わが母校、最近不振の愚痴であり、八つ当たりである。
今年のセンバツも本日でおしまい。特に関心をもたなかったが、準優勝校の校名が済美(サイビと読むようである)であるという。済美の原典は漢籍の古典にあるのだろうが、教育勅語の一節として知られる。該当箇所は「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」というところ。同校のホームページには、その前身である済美高等女学校の開校が1911年とされている。教育勅語の発布から20年ほど後のこと。
「世世、その美を済(な)せる」の内実は、「我が臣民が、よく忠に、よく孝に、心を一つにしている」ことだという。そして、臣民の忠孝の精神こそが、天皇をいただく我が国柄のすばらしさであり、教育の根源がここにある、という。
戦前、忠と孝とが、臣民としての道徳の中心だった。これを「美をなす」ものとし、国体の精華であり、教育の淵源とまで言った。儒家では、おなじみの「修身・斉家・治国・平天下」(「大学」)という。孝という家の秩序と、忠という国家の秩序との整合が求められた。孝の強調は忠のモデルとしてのものである。
勅語は、さらに臣民の徳目を語るが、最後を「常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と結ぶ。
「常に国憲を重んじ」とは、天皇が国民に与えた欽定憲法の遵守を命じているのだ。「憲法とは、人民が君主の横暴を縛るために生まれた」「近代憲法とは、主権者国民が国政を預かる者に対する命令である」という考えの片鱗もない。
当然のことながら、この勅語には人権も民主主義も出てこない。人が平等という観念もない。ひたすらに天皇制の秩序に順応して、いざというときには天皇に身を捧げよ、という「臣民根性」を叩き込もうとしている。
天皇制政府は、これを津々浦々の小学校で暗唱させた。「教育の内容・目的を国家が決めるのは当然」との考えに基づいている。しかし、そのような考え方は民主主義社会の非常識である。公権力は、国民に対して教育条件整備の義務を負うが、教育内容を定める権限はない。日本国憲法と教育基本法の採る立場でもある。最高裁判例(旭川学テ事件・大法廷判決)も基本的に同様の立場である。
当然のことながら、今の済美高校に勅語教育の影は見られない。私学経営の常道として、進学率の向上とスホーツの成績に熱心の様子である。
甲子園では、ときに思わぬことに出くわす。これもかなり昔のこと。盛岡一高が甲子園に出場し、勝者となってその校歌が全国に響いた。歌詞は何を言っているのか分からなかったが、そのメロディは明らかに軍艦マーチであった。さすがに米内光政の出身校、と感心した次第。いまでも、変わらないのだろうか。
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さて、新装開店記念のエッセイ第3弾。
『ツバキのこと』
春は桜ばかりがもてはやされるけれど、今の時期、どこの植物園や公園に行ってもツバキが盛大に咲いている。桜は日当たりのよい真ん中で華やかに目を引くが、ツバキは端っこの日陰に押し込められているので目立たない。常緑の葉っぱが黒々として花を隠してしまうのも不利にはたらく。
ツバキは素人園芸家にとっては様々な利点を持っている。切りつめに強いので場所をとらない形で栽培できるし、乾燥にも強く丈夫で、初心者でも簡単に花を咲かせられる。日陰のベランダでもコンパクトな鉢植えで育てられる。鉢に植えて根っこを窮屈な状態にしておいた方がかえって蕾を持ちやすいのだ。それに、桜の花期が寒桜から八重桜までせいぜい二、三ヶ月なのに対して、ツバキは上手に種類をとり混ぜれば、9月から4月まで八ヶ月もの長い間花を咲かせることができる。丈夫でながもちというところが日本人好みではないと言われてしまうと困るのだが。
色は、白、クリーム、黄、ピンク、赤、紅、紫、紺、黒と多彩。配色も単色、絞り、覆輪、斑入りなど無数の組み合わせがある。花形も花弁が5から6枚の一重咲きから100枚もの花弁を持った千重咲きまである。花の大きさも開花時の直径4?の極小輪から20?もある極大輪まで様々。雄しべについての分類も詳細である。葉の形状も面白くて、柳葉、柊葉、鋸葉などは想像しやすいが、盃葉や金魚葉などという変わりものもある。香りの追求もされている。室町時代から茶道、生け花とともに発展してきた花木なので、愛玩のされ方も生易しいものではないのだ。
容易に交配して種ができ、それを蒔いて5年もすれば花が咲く。だから、種類は際限もなく増えていく。日本では花が小ぶりの侘助ツバキが好まれているけれど、西洋では大きくて、花びら数も多いバラやボタンに見まごう豪華絢爛な花が競って作出された。デュマの「椿姫」のカメリアのイメージはどうしても「白侘助」というわけにはいかない。
一時、ツバキ狂いをして100種類近く集めたことがあった。寝ても覚めても、あれもこれも欲しくて、椿図鑑をめくってはため息をついていたことがあった。一説には日本で4000種、世界で10000種もあると言われているのだから、頭がクラクラした。でも幸い、私は熱しやすく冷めやすいたちなので、今は回復している、と思う。
好きなツバキをふたつ。
「酒中花は掌中の椿 ひそと愛ず」 石田波郷
酒飲みにはこたえられない図でしょう。
“しゅちゅうか”は白地に紅覆輪、牡丹咲きの中輪。江戸時代から伝わる。
「落ざまに水こぼしけり花椿」 芭蕉
この落ち椿はぜったいに真っ赤な五弁のヤブツバキでなくてはならない。普通ツバキといえば第一番にこの花姿がうかぶし、事実圧倒的な人気を誇っているけれど、園芸分類上はヤブツバキという名前は出てこない。これこそヤブツバキとおもわれる、よく似たツバキがたくさんあって立派な名前がついているけれど、素人にはほとんど見分けがつかない。出雲大社藪椿、富泉院赤ヤブ、専修庵、森部赤ヤブ、信浄寺紅、等々日本各地に保存されているとのことである。似ているはずである。みな親がヤブツバキなのだから。
以上はツバキについてほんのさわりで、話は奥が深くて、混沌として、ヤブノナカなので、またまた迷ってはいけないのでこのくらいで終わり。
「特定アジア粉砕新大久保排害カーニバル」とは、何のことだかお分かりだろうか。「在特会(在日特権を許さない市民の会)東京支部」を中心とする、新大久保での排外デモを、彼らはこう自称している。
今年に入ってすでに5回。極端なヘイトスピーチが特徴と報告されている。日の丸や旭日旗を打ち振って、憎悪をむき出しの100人?200人の集団が絶叫する。「韓国は敵、よって殺せ」「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」「朝鮮人、首吊れ毒飲め飛び降りろ」という凄まじさ。新大久保だけではなく、大阪の鶴橋でも行われているという。
石原慎太郎が火をつけた尖閣問題、安倍政権の慰安婦問題が背景にあることは想像に難くない。煽動されたナショナリズムの恐さを実証する右派のデモ。排外主義の危険な芽をここに見ざるを得ない。大事に至らぬうちに、手を打ちたいもの。
「法律家として何とかしなければならない。警視庁に申し入れをしないか」と同期の梓澤弁護士から声をかけられた。急遽の呼びかけで12人の弁護士の呼吸が合い、3月31日5回目デモ直前の3月29日(金)に公安委員会・警視総監宛の申し入れ、東京弁護士会への人権救済申し立て、そして「声明」を携えての記者会見となった。
「声明」は以下のとおりである。
1 本日私たちは、本年2月9日以来4回にわたって東京都新宿区新大久保地域で行われてきた外国人排撃デモの実態に鑑みて、今後周辺地域に居住、勤務、営業する外国人の生命身体、財産、営業等の重大な法益侵害に発展する現実的危険性を憂慮し、警察当局に適切な行政警察活動を行うよう申し入れた。
2 外国人排撃のための「ヘイトスピーチ」といえども、公権力がこれに介入することに道を開いてはならないとの表現の自由擁護の立場からする立論があることは私たちも承知している。しかしながら、現実に行われている言動は、これに拱手傍観を許さない段階に達していると判断せざるを得ない。
このまま事態を放置すれば、現実に外国人の生命身体への攻撃に至るであろうことは、1980年代以降のヨーロッパの歴史に照らして明らかなところである。
3 また、ユダヤ人への憎悪と攻撃によって過剰なナショナリズムを扇動し、そのことにより民主主義の壊滅を招いたヒトラーとナチズムの経験からの重要な教訓を、この日本の現在の全体状況の中でも改めて想起すべきと考える。
4 以上のことから、私たちは当面の危害の防止のため緊急に行動に立ち上がるとともに、マスメディアや、人権や自由と民主主義の行く末を憂慮する全ての人々に関心を寄せていただくよう呼びかける。
5 また、上記の集団行進や周辺への宣伝活動において一般刑罰法規に明白に違反する犯罪行為を現認確認したときは、当該実行行為者を特定したうえ、当該行為者と背後にある者に対して、その責任追及のためのあらゆる法的手段に及ぶことを言明する。
記者会見での梓澤君の迫力はさすがのものだった。私のコメントは大要以下のとおり。
私たち12名は弁護士として事態を座視することができずに立ち上がった。弁護士とは、基本的人権擁護を使命とする職能である。基本的人権とは一人ひとりの人間の尊厳を意味するもので、国籍や人種や民族の如何に関わりのない普遍性をもっている。人権擁護の立場からは、特定の人種や民族に対する偏見や憎悪の言動を看過できない。その言動が、具体的な侮辱・名誉毀損となり、あるいは脅迫・業務の妨害に至れば、被害者の人権擁護の立場から、徹底した法的手段をとることを申し合わせている。
行動に名を連ねた12人の中には、これまでこの問題に関わり続けてきた複数の若手弁護士がいる。その行動力には感服のほかはない。しかし、オウムのときの坂本堤弁護士の悲劇が脳裏をよぎる。彼らを第一線に突出させてはならない。多くの弁護士が立ち上がらねばならない。
幸い、31日の「新大久保排外デモ」は、参加者の数も減り、「殺せ」のコールもなかったという。さらに、心強いことに、ヘイトスピーチをたしなめる市民のカウンターデモが人数でも勢いでも、圧倒したという。排外主義を許さない市民意識の健在に大いに胸をなでおろした。
新装開店記念のエッセイ第2弾
『サクラのこと』
今年、東京ではサクラ(ソメイヨシノ)の開花がはやいと騒がれた。しかし、よくしたもので開花してから急に寒い日が続いたので、散るまでの時間が長くかかって、3月末までお花見ができた。普段は気もつかない公園や校庭の一本桜や街路の桜並木が、手品でも使ったかのように華やいで、見慣れた町が別世界のようになる。毎年のことながら、冬の間ふさいでいた気分がパッと明るくなる。心とは単純にして不思議なものだ。
急に強い風が吹いて、花びらが雪吹雪のように舞い狂う場面に逢ったときなど、目も身体も魔術にかかったようにピタリと動かなくなって、このまま花嵐にさらわれてしまいたいと思う。この気持ちは子供の時から変わらないけれど、一度もさらわれることなく、老齢の域に入ってしまった。残念。
平安 久かたのひかりのどけき春の日にしずこころなく花のちるらん(紀友則)
勧酒 コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ(于武陵「勘酒」井伏鱒二訳)
壮絶 後世は猶今生だにも願わざるわがふところにさくら来てちる
(山川登美子 鉄幹・晶子らと「明星」で活躍。29歳で早世)
奇跡 春ごとに花のさかりはありなめどあい見むことはいのちなりけり(古今和歌集よみびとしらず)
願望 ねがわくは はなのもとにて春しなむそのきさらぎの望月のころ(西行)
多分、これらに歌われたサクラはソメイヨシノではなくてヤマザクラだ。ソメイヨシノよりヤマザクラが好きだという人が多い。わたしも同じ。
ヤマザクラが100本ほど自生した山を持ちたいと思う。ヤマザクラは木によって若葉の色も花の色も少しづつ変異がある。若葉は赤みを帯びた黄緑色が基本だけれど様々で、それと一緒に咲く花の花色もほとんど真っ白から淡い紅色まで少しずつ変化があり、その組み合わせはいくら見ていても見飽きない。春の山を眺めると微妙に色の違った霞がかかったように見えるのはそのヤマザクラのせいなのだ。
そのわたしの持ち山は遠くからは人に見せてあげるけれど、ダレも山の中には入れない。歩かせない。触らせない。花好きは強欲。
春。新しい出発のとき。引越の季節でもある。
本「憲法日記」は、4月1日の本日、これまで長く間借りしていた日民協ホームページから引越をして、本サイトにての新装開店である。独立を宣言する心意気なのだが、これまでと何がどう違うことになるのかは、まだよく分からない。少なくとも、大家に気兼ねすることなく、独立自尊、のびのびと、言わねばならぬことを言いたいように言えることになる。もの言わぬは腹ふくるる業とか。恐いものなし。なんでも言うことにしよう。
一昨日、久しぶりの同級会を開催した。安保闘争の余韻収まらぬ1963年に大学に入学し、中国語をともに学んだクラス仲間。
ちょうど50年前のことである。西側で中国を承認していたのは、まだイギリス一国のみだった。法・経・文・教の文系学生全部の中から27人の少人数クラス。中国語を選択する者が圧倒的少数派であった時代のこと。
あれから半世紀。立身出世とも名望とも、もちろん富貴とも、無縁の仲間11人があつまった。
紅顔可憐の少年も 今や白髪三千丈
袖摺りあったあの頃の 昔語りの懐かしや
あの頃、学問とは何か、教養とは何かを考えた。今でも良くは分からない。
少なくとも、ひからびた古典を渉猟し、知識を積み重ねるものではないはず。権力に仕える技術を磨くことでもなく、資本に奉仕する業を習得することでもない。自分の生き方を導き、自分の生き方の揺るがぬ指針となるもの。そんなものなのではないか。
とすれば、憲法理念の把握、憲法過程の把握、憲法政治の分析、そして憲法運動の実践などは、学問や教養そのものといえないだろうか。人類史が共通の理想として確認したものが憲法の理念となり、その理念を阻む者と支持する者との対立の中で、自らの態度を決めなければならない。憲法を学び考えるとはそのようなことではないか。自らの生き方と社会や歴史との関係を能動的に認識し、切り結ぶことでもある。
同級会に集まったほぼ全員が積極消極の護憲派。懐旧談だけでなく、原発問題や小選挙区制なども話題になった。私の発言は、当時と何も変わっていない。ブレがないというべきか、進歩がないというべきか。
今後、改憲問題・改憲阻止運動をメインテーマに、ブログを書き続けるつもり。ご愛読をお願いしたい。
(2013年4月1日)
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新装開店のサービスに一編のエッセイを。
『スズメのこと』
クレア・キップス著の「ある小さなスズメの記録ー人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクレランスの生涯」(文藝春秋)という可愛らしい本がある。第二次大戦後にイギリスで出版されると、世界中で翻訳され大反響を呼んだ。日本では、鳥についての著書の多い児童文学者の梨木香歩さんによる翻訳が2010年に出た。
1940年7月、クレアは丸裸で目もあかないスズメの子を拾ってクレランスと名付けた。ドイツ軍による空爆が始まる少々前のロンドンである。翼と片足に障害のある、このスズメと共寝をして暖めて、ミルクやゆで卵の黄身を与えて見事に育て上げたのだ。市民防衛隊員のクレアにつれられて、この小スズメはその愛らしさで、空襲におびえる人々を慰め、励ますことになった。クレアと綱引きをしたり、両手を合わした「防空壕」へサイレンの合図で隠れるなどいろいろの芸をした。その仕草の愛らしさに、人々は悲しみや恐怖をしばし忘れることができた。子供たちだけでなく英国民全体のマスコットとして有名になった。
戦後二人はピアニストのクレアの伴奏でクレランスが歌うミニコンサートをしたりして、はたも羨む生活を楽しむ。11歳の時クレランスは卒中を起こして、生来障害のあった身体がもっと不自由になったが、クレアの懸命な治療と介護によって回復した。 「不屈の意思をもったこの相棒は決して降参しなかった。」「陽気で熱中しやすく、衝動的で、自分のやりたいことをよく心得ており、目的が容易にぶれることはなかった。周りの環境への適応力は一貫しており、勇気と陽気さは病気で衰弱しているときでさえ、決して失われることはなかった。私に対する誠実は終生疑いようもなかった。」とクレアは述べている。
そしてお別れ。1952年8月23日。クレランスの死因は極度の老衰、12歳7週と4日だった。
この話に深い愛着をおぼえてならない理由は、私も10年ほど前、道端でスズメの子を拾って育てた経験があるからだ。本当に本当に可愛らしかった。食事の時は家族のハシの上を渡り歩いて、黄色いクチバシで自分の好みの食べ物をつついて食べた。カボチャの甘煮や塩ジャケが大好物だった。髪の毛の中が大好きで、モゾモゾと動き回って、居心地よくしつらえて寝入ったものだった。羽が生えそろって飛べるようになると、電灯の笠に止まったり、本棚の隙間でかくれんぼをして遊んだ。
そしてお別れ。夏の暑い日少し開けた窓の隙間から外へ飛び出していって二度と戻らなかった。これでいいのだと思いながら、自分の力で生きていけるかと胸が痛んで、電線や木の上ばかり見て歩いていた。手のひらで動く毛玉の感触がしばらく残っていた。
また、夜中に門柱に止まって震えているヒヨドリのヒナを保護したこともあった。クチバシが長くて柄も大きくて、可愛さの点ではスズメの子に少々劣ったように思う。明くる朝になると大きな昆虫をくわえた勇敢な母鳥が家の中まで入ってきて連れ帰ってくれた。この時はこれ以上ない行き届いた結末に安堵したものだった。
「ぼくとりなんだ」という和歌山静子さんの絵本(日本野鳥の会出版)では、「助けてあげなければ」と拾うと、親鳥から引き離すことになる、といっている。むやみに「ヒナを拾わないで」ということである。
でも、ヒナに羽も生えていず、震えていて、天気が雨もよいの夕方で、上の電線にはカラスがいるというような場合は拾ってもいいのではないでしょうかね。何と言われようと、絶対に拾うと思う。そんな幸運がもう一度訪れてくれますように。
今春、都立校は、10・23通達発出以来10回目の卒業式を迎えた。もう一昔前となったあの頃を思い出す。
悪夢は石原慎太郎の再選から始まった。あの右翼に308万もの票を与えた都民の責任が大きい。この「都民の支持」を背景に、知事と右翼都議と、米長邦雄、鳥海厳らの石原取り巻きが都教委を私物化した。
あれから10年、事態は本質的には変わっていない。私たちは変わらないことに切歯扼腕しているが、都教委の側も同じ心情なのかも知れない。
本日、その卒業式で6名に懲戒処分(5名に戒告・1名に減給処分)が発令された。これで、「10・23通達」関連の処分者数累計は延べ447名を数えるに至った。
昨年の1月16日最高裁判決は、都教委の累積加重システムを違法とした。そして、多数の補足意見が、都教委に自制と問題解決への努力を期待することを表明した。
その結果、昨春の処分は、2回目以上の不起立等に対しても戒告処分としていたが、今回都教委は4回目の不起立者(1名)に対して減給処分の発令を強行した。都教委は、日の丸・君が代問題では、強気に出て良しと判断したのだ。
本日全水道会館で開催された処分発令に対する「抗議・支援総決起集会」では、怒りの渦が巻いた。日の丸・君が代を強制する10・23通達以後の学校現場が、命令と服従の場と化し、教職員がものも言えない状況に置かれており、この異常な事態を何とか変えていかねばならない、との切々たる訴えにも胸を打たれた。一方、自分の信念を貫く人々が、けっして現場で孤立してはいないことの報告に大きな拍手が湧いた。
訴訟と運動とが両輪とならねばならない。多くの人に、日の丸・君が代強制の不当と危険を訴え、支持を獲得しなければならない。精神的自由確立のために。教育を国民の手に取り戻すために。そして、過剰なナショナリズムの危険を防止するために。
10回目の卒業式で、あらためてそう思う。
山口香さん、東京都は元柔道選手のあなたを、東京都教育委員に起用する方針を固めたとのこと。瀬古利彦さんの後任で、議会が同意すれば4月1日付で就任する予定という。2020年東京オリンピック招致に向けての人事だとか。
山口さん、あなたには期待が大きい。オリンピック招致のことではない。あなたが管轄することになる都内公立校での「日の丸・君が代」強制という異常な事態を解決していただきたい。少なくとも、解決に向けての一石を投じていただきたい。
あなたは、暴力的体質にまみれた柔道界にあって、監督の暴力に抗議の声をあげた現役女子選手15人の側に立つことを躊躇しなかった。圧倒的な強者であるいじめる側にではなく、いじめられる弱者の側に寄り添うあなたの姿勢がすがすがしい。その意気や、おおいによし。そのすがすがしい心意気を、教育委員という職責においても貫いていただけないだろうか。
都内公立校の卒業式・入学式での「日の丸・君が代」の強制が始まってもうすぐ10年になろうとしている。これは、教育委員会による教員への、暴力・イジメにほかならない。教員の中には、「日の丸・君が代」大好き人間もいるだろう。しかし、自らの思想にかけて、あるいは教員としての良心を大切にする立場から、どうしても「日の丸・君が代」に敬意を表明することはできないという教員も少なくない。人間として、教員として、真面目にものを考える人ほど、こだわらざるを得ない問題となっていることを理解していただきたい。
あなたに質問したい。あなたは、スホーツ界で過ごしてきたその半生において、「日の丸・君が代」にまつわる問題を真剣に考えたことがあるだろうか。スポーツイベントや学校スホーツが、ナショナリズムの昂揚や国家主義に利用されていると考えたことはないだろうか。旧天皇制のもとで国家のシンボルとなった日の丸や君が代が、日本国憲法下の現在もなお、国旗国歌となっていることを奇妙と考えたことはないだろうか。少なくとも、「日の丸・君が代」の強制には服しがたいと考えている人の心情を理解しようとしたことがあるだろうか。
スポーツ会場は、理性ではなく激情が支配する空間だ。そこで日の丸を打ち振る人々の、他者に対する同調要求の圧力は凄まじい。同じことが学校現場に起きている。しかも学校現場では、社会的な同調要求圧力だけではなく、職務命令という公権力の発動までがなされている。
あなたは、日の丸を打ち振る観衆の声援を心地よいものと感じてきただろうと思う。しかし、教育委員として公権力の担い手となるからには、真剣にお考えいただきたい。社会的同調圧力の危険性について、また、公権力行使のあるべき限界について。「日の丸・君が代」への敬意の表明の強制、つまりは懲戒処分の恫喝のもとに起立・斉唱・伴奏を命じることの危うさについて。
柔道とは、柔道の修練とは、何を目指してなんのためにするものなのだろうか。柔道家が求める強さとはいったい何だろうか。一人ひとりが、全体に飲み込まれない個人としての強さを目指すものではないのだろうか。技も練習方法も個性を磨くためのものではないのだろうか。
自らの信念を貫いて、起立・斉唱・伴奏を拒否した教員は、この問題に真摯に向き合い、自らの怯懦と闘い、社会的圧力に抗し、最後は公権力の圧倒的な強制に立ち向かった、賞賛すべき勇者だと言えないだろうか。
少なくとも、必死で、自分と闘い、勇気をふるって社会と公権力に立ち向かっている人を辱め、嵩にかかっていじめる側にまわることは柔道家のよくするところではあるまい。いや、人としてそのような卑劣な振る舞いはできないとする感性を、あなたには期待したい。
残念ながら、この10年。そのような期待に応えていただける教育委員は1人もいなかった。もしこの期待に応えていただけるなら、日本の教育史の1ページにあなたの名が残ることになる。それに比べれば東京オリンピック招致の成否など、まことに小さな問題でしかない。
沖縄には、41市町村があるという。その全首長と議会議長の連名とで、安倍晋三首相宛に作成したのが、今話題の「建白書」である。沖縄県民の総意の結集であり、県民の怒りのほとばしりと言ってよいだろう。
その全文は以下のとおり。
内閣総理大臣 安倍晋三殿 2013年1月28日
われわれは、2012年9月9日、日米両政府による垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの強行配備に対し、怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるため、10万余の県民が結集して「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」を開催した。にもかかわらず、日米両政府は、沖縄県民の総意を踏みにじり、県民大会からわずかひと月もたたない10月1日、オスプレイを強行配備した。
沖縄は、米軍基地の存在ゆえに幾多の基地被害をこうむり、1972年の復帰後だけでも、米軍人等の刑法犯罪件数が6千件近くに上る。沖縄県民は、米軍による事件・事故、騒音被害が後を絶たない状況であることを機会あるごとに申し上げ、政府も熟知しているはずである。とくに米軍普天間飛行場は市街地の真ん中に居座り続け、県民の生命・財産を脅かしている世界一危険な飛行場であり、日米両政府もそのことを認識しているはずである。
このような危険な飛行場に、開発段階から事故を繰り返し、多数にのぼる死者をだしている危険なオスプレイを配備することは、沖縄県民に対する「差別」以外なにものでもない。現に米本国やハワイにおいては、騒音に対する住民への考慮などにより訓練が中止されている。
沖縄ではすでに、配備された10月から11月の2カ月間の県・市町村による監視において300件超の安全確保違反が目視されている。日米合意は早くも破綻していると言わざるを得ない。
その上、普天間基地に今年7月までに米軍計画による残り12機の配備を行い、さらには2014年から2016年にかけて米空軍嘉手納基地に特殊作戦用離着陸輸送機CV22オスプレイの配備が明らかになった。言語道断である。
オスプレイが沖縄に配備された昨年は、いみじくも祖国日本に復帰して40年目という節目の年であった。古来琉球から息づく歴史、文化を継承しつつも、また私たちは日本の一員としてこの国の発展を共に願ってもきた。
この復帰40年目の沖縄で、米軍はいまだ占領地でもあるかのごとく傍若無人に振る舞っている。国民主権国家日本のあり方が問われている。
安倍晋三内閣総理大臣殿。
沖縄の実情をいま一度見つめていただきたい。沖縄県民総意の米軍基地からの「負担軽減」を実行していただきたい。
以下、オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会実行委員会、沖縄県議会、沖縄県市町村関係4団体、市町村、市町村議会の連名において建白書を提出致します。
1.オスプレイの配備を直ちに撤回すること。および今年7月までに配備されるとしている12機の配備を中止すること。また嘉手納基地への特殊作戦用垂直離着陸輸送機CV22オスプレイの配備計画を直ちに撤回すること。
2.米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念すること。
この建白書をあざ笑うがごとく、安倍政権は、普天間飛行場の辺野古沖への移転のための、公有水面埋め立て承認申請書を県知事に提出した。公有水面埋立法という法律がある。河川・沿岸海域などの公共用水域を埋め立てて土地を造成する場合には、知事の免許が必要とされている。その手続きが始まったのだ。
本日の琉球新報社説では、「日米が民主主義の国であるのなら、『建白書』こそ最大限尊重すべきだ」と言っている。沖縄県民の総意を蹂躙して、アメリカに迎合するこの国のあり方を、国民は座視してよいのか。
本日は日本民主法律家協会の2012年度第8回執行部会。課題山積の3時間の論議。そのうち、教育問題にかなりの時間が割かれた。
4月12日(金)に「何をめざすか?安倍政権の教育政策」という緊急シンポジウムを主催する。時刻は18時30分から、場所は日比谷公園内の日比谷図書文化館内「日比谷コンベンションホール」。そして、「法と民主主義」6月号を教育問題特集とする。
イジメ問題の位置づけについて若干の意見交換があり、渡辺治理事長の発言もあった。私が理解した限りで、大要以下のとおりの内容である。
現在の学校におけるイジメは、「昔からあった」というレベルの問題ではない。そして、そのことは安倍政権の政策とも深く結びついている。
社会的背景として、90年代以後の新自由主義政策による貧困化や中間層の没落がある。子どもを取り巻く環境が劣悪化し、子どもの精神の安定性に影響している。
そのような子どもたちを抱える学校には競争至上主義が蔓延している。しかも、評価主義が徹底していて低評価につながるイジメは潜在化せざるを得ない。また、教員は子どもに向き合う余裕がなく、教員集団による教育力が低下している。
このような要因で噴出しているイジメ問題について、安倍政権は彼なりのやり方による対策を政策の目玉の一つにしようとしている。社会的背景にメスを入れ学校の体質を改善しようというのではない。道徳教育の徹底や教育委員会制度の破壊という対応によってである。自らの新自由主義政策がイジメをつくり出しているのに、これを改めるのではなくむしろこれを利用して新保守主義的政策推進の口実にしようとしている。
なるほど。指摘されてみればそのとおり。このことだけでなく、啓発を受けることが多々ある会議だった。
本日(2013年3月20日)は、イラク戦争開戦から10年にあたる。米ブッシュ政権は、9・11事件の報復措置としてアフガン侵攻にとどまらず、イラクにまで戦争を仕掛けた。オバマの選挙公約によって撤兵が実行されたのは、昨年末のこと。この間のイラク民間人の死者数は10万人説から65万人説まである。
この悲惨な戦争は、「イラクに大量破壊兵器が存在している」というブッシュ政権中枢の「確信」によってもたらされた。当初、米国民は熱狂的にこの戦争を支持したが、今、厭戦の果ての撤兵となった。
アメリカのイラク参戦を批判する国と、支持する国との対比の鮮やかさを思い出す。
「参戦を拒否したドイツの当時のシュレーダー前首相は「難しい決断だったが、我々のナイン(ドイツ語のノー)は正しかった」と述べ、改めて攻撃不参加は正しい判断だったとの認識を示した」「独メディアによると、拒否の理由を『イラクに大量破壊兵器は存在しないと確信していた』と説明。さらに、『当時の野党党首(メルケル現首相)の主張通り参戦したら、ドイツ軍は今もイラクにいただろう』と述べ、今秋のドイツ総選挙を念頭に、参戦を促したメルケル氏を批判した」という(毎日)。
翻って、当時の小泉政権が、アメリカが参戦した途端にこれを支持する立場をとったことが強烈な印象として残っている。しかも、「イラクに大量破壊兵器が存在していない」ことが確認されたあとも、反省の言葉が聞けない。
政府と、自民・公明の与党(当時)は、いまでも、アメリカのイラク参戦を支持したことを正しい判断であったと考えているのだろうか。その考えかた、その理由について、国民に説明する責任を果たすべきであろう。
イラク参戦についてのいくつかの教訓がある。
日本は、アメリカの従属国の姿勢を露わにして、アメリカの参戦を支持した。しかし、イギリスやイタリア、ポーランドのごとく、多国籍軍の一員とはならなかった。自衛隊の派遣は、破壊されたイラクの国家再建を支援するためとされ、戦闘には参加していない。イラク派兵の根拠法となった「イラク特措法」のフルネームは、「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」という。人道復興支援活動の名目でなくては海外派遣はできない。これは、憲法9条が生きている証しである。自衛隊を合憲であるとする理屈が、「自衛のための実力の保持は許される」としか言いようがない以上、他国で戦闘に参加するすることは許されない。
また、国民が熱狂するときは、理性の目が曇るということだ。戦争を支持する世論が多数だから、多数に従うべきだという短絡した結論は正しくない。現行憲法改正に法律制定以上のハードルが設定されていることは、理性を取り戻す期間を確保するために必要な智恵なのだ。
もう一つ。イラク派遣を違憲として、各地に「自衛隊のイラク派兵差し止め訴訟」が提起された。その中の一つ、名古屋訴訟において、名古屋高裁は2008年4月17日の判決で、「差し止め請求の根拠・国家賠償請求の根拠としての平和的生存権」の具体的な権利性を認めた。
同判決の平和的生存権に関する説示の骨子は以下のとおりである。
「憲法前文に「平和のうちに生存する権利」と表現される平和的生存権は,‥単に憲法の基本的精神や理念を表明したに留まるものではない。憲法上の法的な権利として認められるべきである。そして,この平和的生存権は,‥裁判所に対してその保護・救済を求め法的強制措置の発動を請求し得るという意味における具体的権利性が肯定される場合があるということができる。
例えば,憲法9条に違反する国の行為‥によって,個人の生命,自由が侵害され又は侵害の危機にさらされ,あるいは,現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされるような場合,また,憲法9条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には,平和的生存権の主として自由権的な態様の表れとして,裁判所に対し当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求めることができる場合があると解することができ,その限りでは平和的生存権に具体的権利性がある」
判決は、違憲確認請求、民事訴訟としての差し止め請求、行政事件訴訟としての差し止め請求をいずれも不適法として却下し、国家賠償請求を棄却した。主文においては敗訴である。しかし、平和的生存権の具体的権利性を認めたことの画期的的な意義は大きい。ここを出発点とする可能性を展望できる。
自衛隊の海外派兵が繰り返されるとき、あるいは時の政権が好戦的な政策を採用して憲法9条に違反するときには、平和的生存権は平和を実現するための有益な手段となりうるのだ。