澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

排外主義の危険な芽を摘み取ろう

「特定アジア粉砕新大久保排害カーニバル」とは、何のことだかお分かりだろうか。「在特会(在日特権を許さない市民の会)東京支部」を中心とする、新大久保での排外デモを、彼らはこう自称している。
今年に入ってすでに5回。極端なヘイトスピーチが特徴と報告されている。日の丸や旭日旗を打ち振って、憎悪をむき出しの100人?200人の集団が絶叫する。「韓国は敵、よって殺せ」「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」「朝鮮人、首吊れ毒飲め飛び降りろ」という凄まじさ。新大久保だけではなく、大阪の鶴橋でも行われているという。

石原慎太郎が火をつけた尖閣問題、安倍政権の慰安婦問題が背景にあることは想像に難くない。煽動されたナショナリズムの恐さを実証する右派のデモ。排外主義の危険な芽をここに見ざるを得ない。大事に至らぬうちに、手を打ちたいもの。

「法律家として何とかしなければならない。警視庁に申し入れをしないか」と同期の梓澤弁護士から声をかけられた。急遽の呼びかけで12人の弁護士の呼吸が合い、3月31日5回目デモ直前の3月29日(金)に公安委員会・警視総監宛の申し入れ、東京弁護士会への人権救済申し立て、そして「声明」を携えての記者会見となった。

「声明」は以下のとおりである。
1 本日私たちは、本年2月9日以来4回にわたって東京都新宿区新大久保地域で行われてきた外国人排撃デモの実態に鑑みて、今後周辺地域に居住、勤務、営業する外国人の生命身体、財産、営業等の重大な法益侵害に発展する現実的危険性を憂慮し、警察当局に適切な行政警察活動を行うよう申し入れた。
2 外国人排撃のための「ヘイトスピーチ」といえども、公権力がこれに介入することに道を開いてはならないとの表現の自由擁護の立場からする立論があることは私たちも承知している。しかしながら、現実に行われている言動は、これに拱手傍観を許さない段階に達していると判断せざるを得ない。
このまま事態を放置すれば、現実に外国人の生命身体への攻撃に至るであろうことは、1980年代以降のヨーロッパの歴史に照らして明らかなところである。
3 また、ユダヤ人への憎悪と攻撃によって過剰なナショナリズムを扇動し、そのことにより民主主義の壊滅を招いたヒトラーとナチズムの経験からの重要な教訓を、この日本の現在の全体状況の中でも改めて想起すべきと考える。
4 以上のことから、私たちは当面の危害の防止のため緊急に行動に立ち上がるとともに、マスメディアや、人権や自由と民主主義の行く末を憂慮する全ての人々に関心を寄せていただくよう呼びかける。
5 また、上記の集団行進や周辺への宣伝活動において一般刑罰法規に明白に違反する犯罪行為を現認確認したときは、当該実行行為者を特定したうえ、当該行為者と背後にある者に対して、その責任追及のためのあらゆる法的手段に及ぶことを言明する。

記者会見での梓澤君の迫力はさすがのものだった。私のコメントは大要以下のとおり。

私たち12名は弁護士として事態を座視することができずに立ち上がった。弁護士とは、基本的人権擁護を使命とする職能である。基本的人権とは一人ひとりの人間の尊厳を意味するもので、国籍や人種や民族の如何に関わりのない普遍性をもっている。人権擁護の立場からは、特定の人種や民族に対する偏見や憎悪の言動を看過できない。その言動が、具体的な侮辱・名誉毀損となり、あるいは脅迫・業務の妨害に至れば、被害者の人権擁護の立場から、徹底した法的手段をとることを申し合わせている。

行動に名を連ねた12人の中には、これまでこの問題に関わり続けてきた複数の若手弁護士がいる。その行動力には感服のほかはない。しかし、オウムのときの坂本堤弁護士の悲劇が脳裏をよぎる。彼らを第一線に突出させてはならない。多くの弁護士が立ち上がらねばならない。

幸い、31日の「新大久保排外デモ」は、参加者の数も減り、「殺せ」のコールもなかったという。さらに、心強いことに、ヘイトスピーチをたしなめる市民のカウンターデモが人数でも勢いでも、圧倒したという。排外主義を許さない市民意識の健在に大いに胸をなでおろした。

新装開店記念のエッセイ第2弾
『サクラのこと』
今年、東京ではサクラ(ソメイヨシノ)の開花がはやいと騒がれた。しかし、よくしたもので開花してから急に寒い日が続いたので、散るまでの時間が長くかかって、3月末までお花見ができた。普段は気もつかない公園や校庭の一本桜や街路の桜並木が、手品でも使ったかのように華やいで、見慣れた町が別世界のようになる。毎年のことながら、冬の間ふさいでいた気分がパッと明るくなる。心とは単純にして不思議なものだ。

急に強い風が吹いて、花びらが雪吹雪のように舞い狂う場面に逢ったときなど、目も身体も魔術にかかったようにピタリと動かなくなって、このまま花嵐にさらわれてしまいたいと思う。この気持ちは子供の時から変わらないけれど、一度もさらわれることなく、老齢の域に入ってしまった。残念。

平安   久かたのひかりのどけき春の日にしずこころなく花のちるらん(紀友則)
勧酒   コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ(于武陵「勘酒」井伏鱒二訳)
壮絶   後世は猶今生だにも願わざるわがふところにさくら来てちる
(山川登美子 鉄幹・晶子らと「明星」で活躍。29歳で早世)
奇跡   春ごとに花のさかりはありなめどあい見むことはいのちなりけり(古今和歌集よみびとしらず)
願望   ねがわくは はなのもとにて春しなむそのきさらぎの望月のころ(西行)

多分、これらに歌われたサクラはソメイヨシノではなくてヤマザクラだ。ソメイヨシノよりヤマザクラが好きだという人が多い。わたしも同じ。
ヤマザクラが100本ほど自生した山を持ちたいと思う。ヤマザクラは木によって若葉の色も花の色も少しづつ変異がある。若葉は赤みを帯びた黄緑色が基本だけれど様々で、それと一緒に咲く花の花色もほとんど真っ白から淡い紅色まで少しずつ変化があり、その組み合わせはいくら見ていても見飽きない。春の山を眺めると微妙に色の違った霞がかかったように見えるのはそのヤマザクラのせいなのだ。
そのわたしの持ち山は遠くからは人に見せてあげるけれど、ダレも山の中には入れない。歩かせない。触らせない。花好きは強欲。

「憲法日記」の新装開店

春。新しい出発のとき。引越の季節でもある。
本「憲法日記」は、4月1日の本日、これまで長く間借りしていた日民協ホームページから引越をして、本サイトにての新装開店である。独立を宣言する心意気なのだが、これまでと何がどう違うことになるのかは、まだよく分からない。少なくとも、大家に気兼ねすることなく、独立自尊、のびのびと、言わねばならぬことを言いたいように言えることになる。もの言わぬは腹ふくるる業とか。恐いものなし。なんでも言うことにしよう。

一昨日、久しぶりの同級会を開催した。安保闘争の余韻収まらぬ1963年に大学に入学し、中国語をともに学んだクラス仲間。
ちょうど50年前のことである。西側で中国を承認していたのは、まだイギリス一国のみだった。法・経・文・教の文系学生全部の中から27人の少人数クラス。中国語を選択する者が圧倒的少数派であった時代のこと。

あれから半世紀。立身出世とも名望とも、もちろん富貴とも、無縁の仲間11人があつまった。
紅顔可憐の少年も 今や白髪三千丈
袖摺りあったあの頃の 昔語りの懐かしや

あの頃、学問とは何か、教養とは何かを考えた。今でも良くは分からない。
少なくとも、ひからびた古典を渉猟し、知識を積み重ねるものではないはず。権力に仕える技術を磨くことでもなく、資本に奉仕する業を習得することでもない。自分の生き方を導き、自分の生き方の揺るがぬ指針となるもの。そんなものなのではないか。
とすれば、憲法理念の把握、憲法過程の把握、憲法政治の分析、そして憲法運動の実践などは、学問や教養そのものといえないだろうか。人類史が共通の理想として確認したものが憲法の理念となり、その理念を阻む者と支持する者との対立の中で、自らの態度を決めなければならない。憲法を学び考えるとはそのようなことではないか。自らの生き方と社会や歴史との関係を能動的に認識し、切り結ぶことでもある。

同級会に集まったほぼ全員が積極消極の護憲派。懐旧談だけでなく、原発問題や小選挙区制なども話題になった。私の発言は、当時と何も変わっていない。ブレがないというべきか、進歩がないというべきか。

今後、改憲問題・改憲阻止運動をメインテーマに、ブログを書き続けるつもり。ご愛読をお願いしたい。

(2013年4月1日)

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新装開店のサービスに一編のエッセイを。
    『スズメのこと』
クレア・キップス著の「ある小さなスズメの記録ー人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクレランスの生涯」(文藝春秋)という可愛らしい本がある。第二次大戦後にイギリスで出版されると、世界中で翻訳され大反響を呼んだ。日本では、鳥についての著書の多い児童文学者の梨木香歩さんによる翻訳が2010年に出た。

1940年7月、クレアは丸裸で目もあかないスズメの子を拾ってクレランスと名付けた。ドイツ軍による空爆が始まる少々前のロンドンである。翼と片足に障害のある、このスズメと共寝をして暖めて、ミルクやゆで卵の黄身を与えて見事に育て上げたのだ。市民防衛隊員のクレアにつれられて、この小スズメはその愛らしさで、空襲におびえる人々を慰め、励ますことになった。クレアと綱引きをしたり、両手を合わした「防空壕」へサイレンの合図で隠れるなどいろいろの芸をした。その仕草の愛らしさに、人々は悲しみや恐怖をしばし忘れることができた。子供たちだけでなく英国民全体のマスコットとして有名になった。

戦後二人はピアニストのクレアの伴奏でクレランスが歌うミニコンサートをしたりして、はたも羨む生活を楽しむ。11歳の時クレランスは卒中を起こして、生来障害のあった身体がもっと不自由になったが、クレアの懸命な治療と介護によって回復した。 「不屈の意思をもったこの相棒は決して降参しなかった。」「陽気で熱中しやすく、衝動的で、自分のやりたいことをよく心得ており、目的が容易にぶれることはなかった。周りの環境への適応力は一貫しており、勇気と陽気さは病気で衰弱しているときでさえ、決して失われることはなかった。私に対する誠実は終生疑いようもなかった。」とクレアは述べている。

そしてお別れ。1952年8月23日。クレランスの死因は極度の老衰、12歳7週と4日だった。

この話に深い愛着をおぼえてならない理由は、私も10年ほど前、道端でスズメの子を拾って育てた経験があるからだ。本当に本当に可愛らしかった。食事の時は家族のハシの上を渡り歩いて、黄色いクチバシで自分の好みの食べ物をつついて食べた。カボチャの甘煮や塩ジャケが大好物だった。髪の毛の中が大好きで、モゾモゾと動き回って、居心地よくしつらえて寝入ったものだった。羽が生えそろって飛べるようになると、電灯の笠に止まったり、本棚の隙間でかくれんぼをして遊んだ。
そしてお別れ。夏の暑い日少し開けた窓の隙間から外へ飛び出していって二度と戻らなかった。これでいいのだと思いながら、自分の力で生きていけるかと胸が痛んで、電線や木の上ばかり見て歩いていた。手のひらで動く毛玉の感触がしばらく残っていた。
また、夜中に門柱に止まって震えているヒヨドリのヒナを保護したこともあった。クチバシが長くて柄も大きくて、可愛さの点ではスズメの子に少々劣ったように思う。明くる朝になると大きな昆虫をくわえた勇敢な母鳥が家の中まで入ってきて連れ帰ってくれた。この時はこれ以上ない行き届いた結末に安堵したものだった。

「ぼくとりなんだ」という和歌山静子さんの絵本(日本野鳥の会出版)では、「助けてあげなければ」と拾うと、親鳥から引き離すことになる、といっている。むやみに「ヒナを拾わないで」ということである。

でも、ヒナに羽も生えていず、震えていて、天気が雨もよいの夕方で、上の電線にはカラスがいるというような場合は拾ってもいいのではないでしょうかね。何と言われようと、絶対に拾うと思う。そんな幸運がもう一度訪れてくれますように。

10・23通達以来、10回目の卒業式

今春、都立校は、10・23通達発出以来10回目の卒業式を迎えた。もう一昔前となったあの頃を思い出す。

悪夢は石原慎太郎の再選から始まった。あの右翼に308万もの票を与えた都民の責任が大きい。この「都民の支持」を背景に、知事と右翼都議と、米長邦雄、鳥海厳らの石原取り巻きが都教委を私物化した。

あれから10年、事態は本質的には変わっていない。私たちは変わらないことに切歯扼腕しているが、都教委の側も同じ心情なのかも知れない。

本日、その卒業式で6名に懲戒処分(5名に戒告・1名に減給処分)が発令された。これで、「10・23通達」関連の処分者数累計は延べ447名を数えるに至った。

昨年の1月16日最高裁判決は、都教委の累積加重システムを違法とした。そして、多数の補足意見が、都教委に自制と問題解決への努力を期待することを表明した。
その結果、昨春の処分は、2回目以上の不起立等に対しても戒告処分としていたが、今回都教委は4回目の不起立者(1名)に対して減給処分の発令を強行した。都教委は、日の丸・君が代問題では、強気に出て良しと判断したのだ。

本日全水道会館で開催された処分発令に対する「抗議・支援総決起集会」では、怒りの渦が巻いた。日の丸・君が代を強制する10・23通達以後の学校現場が、命令と服従の場と化し、教職員がものも言えない状況に置かれており、この異常な事態を何とか変えていかねばならない、との切々たる訴えにも胸を打たれた。一方、自分の信念を貫く人々が、けっして現場で孤立してはいないことの報告に大きな拍手が湧いた。

訴訟と運動とが両輪とならねばならない。多くの人に、日の丸・君が代強制の不当と危険を訴え、支持を獲得しなければならない。精神的自由確立のために。教育を国民の手に取り戻すために。そして、過剰なナショナリズムの危険を防止するために。

10回目の卒業式で、あらためてそう思う。

拝啓 山口香様

山口香さん、東京都は元柔道選手のあなたを、東京都教育委員に起用する方針を固めたとのこと。瀬古利彦さんの後任で、議会が同意すれば4月1日付で就任する予定という。2020年東京オリンピック招致に向けての人事だとか。

山口さん、あなたには期待が大きい。オリンピック招致のことではない。あなたが管轄することになる都内公立校での「日の丸・君が代」強制という異常な事態を解決していただきたい。少なくとも、解決に向けての一石を投じていただきたい。

あなたは、暴力的体質にまみれた柔道界にあって、監督の暴力に抗議の声をあげた現役女子選手15人の側に立つことを躊躇しなかった。圧倒的な強者であるいじめる側にではなく、いじめられる弱者の側に寄り添うあなたの姿勢がすがすがしい。その意気や、おおいによし。そのすがすがしい心意気を、教育委員という職責においても貫いていただけないだろうか。

都内公立校の卒業式・入学式での「日の丸・君が代」の強制が始まってもうすぐ10年になろうとしている。これは、教育委員会による教員への、暴力・イジメにほかならない。教員の中には、「日の丸・君が代」大好き人間もいるだろう。しかし、自らの思想にかけて、あるいは教員としての良心を大切にする立場から、どうしても「日の丸・君が代」に敬意を表明することはできないという教員も少なくない。人間として、教員として、真面目にものを考える人ほど、こだわらざるを得ない問題となっていることを理解していただきたい。

あなたに質問したい。あなたは、スホーツ界で過ごしてきたその半生において、「日の丸・君が代」にまつわる問題を真剣に考えたことがあるだろうか。スポーツイベントや学校スホーツが、ナショナリズムの昂揚や国家主義に利用されていると考えたことはないだろうか。旧天皇制のもとで国家のシンボルとなった日の丸や君が代が、日本国憲法下の現在もなお、国旗国歌となっていることを奇妙と考えたことはないだろうか。少なくとも、「日の丸・君が代」の強制には服しがたいと考えている人の心情を理解しようとしたことがあるだろうか。

スポーツ会場は、理性ではなく激情が支配する空間だ。そこで日の丸を打ち振る人々の、他者に対する同調要求の圧力は凄まじい。同じことが学校現場に起きている。しかも学校現場では、社会的な同調要求圧力だけではなく、職務命令という公権力の発動までがなされている。

あなたは、日の丸を打ち振る観衆の声援を心地よいものと感じてきただろうと思う。しかし、教育委員として公権力の担い手となるからには、真剣にお考えいただきたい。社会的同調圧力の危険性について、また、公権力行使のあるべき限界について。「日の丸・君が代」への敬意の表明の強制、つまりは懲戒処分の恫喝のもとに起立・斉唱・伴奏を命じることの危うさについて。

柔道とは、柔道の修練とは、何を目指してなんのためにするものなのだろうか。柔道家が求める強さとはいったい何だろうか。一人ひとりが、全体に飲み込まれない個人としての強さを目指すものではないのだろうか。技も練習方法も個性を磨くためのものではないのだろうか。

自らの信念を貫いて、起立・斉唱・伴奏を拒否した教員は、この問題に真摯に向き合い、自らの怯懦と闘い、社会的圧力に抗し、最後は公権力の圧倒的な強制に立ち向かった、賞賛すべき勇者だと言えないだろうか。

少なくとも、必死で、自分と闘い、勇気をふるって社会と公権力に立ち向かっている人を辱め、嵩にかかっていじめる側にまわることは柔道家のよくするところではあるまい。いや、人としてそのような卑劣な振る舞いはできないとする感性を、あなたには期待したい。

残念ながら、この10年。そのような期待に応えていただける教育委員は1人もいなかった。もしこの期待に応えていただけるなら、日本の教育史の1ページにあなたの名が残ることになる。それに比べれば東京オリンピック招致の成否など、まことに小さな問題でしかない。

沖縄の怒りに心を寄せよう

沖縄には、41市町村があるという。その全首長と議会議長の連名とで、安倍晋三首相宛に作成したのが、今話題の「建白書」である。沖縄県民の総意の結集であり、県民の怒りのほとばしりと言ってよいだろう。
その全文は以下のとおり。

内閣総理大臣 安倍晋三殿 2013年1月28日
われわれは、2012年9月9日、日米両政府による垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの強行配備に対し、怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるため、10万余の県民が結集して「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」を開催した。にもかかわらず、日米両政府は、沖縄県民の総意を踏みにじり、県民大会からわずかひと月もたたない10月1日、オスプレイを強行配備した。
沖縄は、米軍基地の存在ゆえに幾多の基地被害をこうむり、1972年の復帰後だけでも、米軍人等の刑法犯罪件数が6千件近くに上る。沖縄県民は、米軍による事件・事故、騒音被害が後を絶たない状況であることを機会あるごとに申し上げ、政府も熟知しているはずである。とくに米軍普天間飛行場は市街地の真ん中に居座り続け、県民の生命・財産を脅かしている世界一危険な飛行場であり、日米両政府もそのことを認識しているはずである。
このような危険な飛行場に、開発段階から事故を繰り返し、多数にのぼる死者をだしている危険なオスプレイを配備することは、沖縄県民に対する「差別」以外なにものでもない。現に米本国やハワイにおいては、騒音に対する住民への考慮などにより訓練が中止されている。
沖縄ではすでに、配備された10月から11月の2カ月間の県・市町村による監視において300件超の安全確保違反が目視されている。日米合意は早くも破綻していると言わざるを得ない。
その上、普天間基地に今年7月までに米軍計画による残り12機の配備を行い、さらには2014年から2016年にかけて米空軍嘉手納基地に特殊作戦用離着陸輸送機CV22オスプレイの配備が明らかになった。言語道断である。

オスプレイが沖縄に配備された昨年は、いみじくも祖国日本に復帰して40年目という節目の年であった。古来琉球から息づく歴史、文化を継承しつつも、また私たちは日本の一員としてこの国の発展を共に願ってもきた。
この復帰40年目の沖縄で、米軍はいまだ占領地でもあるかのごとく傍若無人に振る舞っている。国民主権国家日本のあり方が問われている。

安倍晋三内閣総理大臣殿。
沖縄の実情をいま一度見つめていただきたい。沖縄県民総意の米軍基地からの「負担軽減」を実行していただきたい。

 以下、オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会実行委員会、沖縄県議会、沖縄県市町村関係4団体、市町村、市町村議会の連名において建白書を提出致します。

1.オスプレイの配備を直ちに撤回すること。および今年7月までに配備されるとしている12機の配備を中止すること。また嘉手納基地への特殊作戦用垂直離着陸輸送機CV22オスプレイの配備計画を直ちに撤回すること。
2.米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念すること。

この建白書をあざ笑うがごとく、安倍政権は、普天間飛行場の辺野古沖への移転のための、公有水面埋め立て承認申請書を県知事に提出した。公有水面埋立法という法律がある。河川・沿岸海域などの公共用水域を埋め立てて土地を造成する場合には、知事の免許が必要とされている。その手続きが始まったのだ。

本日の琉球新報社説では、「日米が民主主義の国であるのなら、『建白書』こそ最大限尊重すべきだ」と言っている。沖縄県民の総意を蹂躙して、アメリカに迎合するこの国のあり方を、国民は座視してよいのか。

学校におけるイジメと安倍政権

本日は日本民主法律家協会の2012年度第8回執行部会。課題山積の3時間の論議。そのうち、教育問題にかなりの時間が割かれた。

4月12日(金)に「何をめざすか?安倍政権の教育政策」という緊急シンポジウムを主催する。時刻は18時30分から、場所は日比谷公園内の日比谷図書文化館内「日比谷コンベンションホール」。そして、「法と民主主義」6月号を教育問題特集とする。

イジメ問題の位置づけについて若干の意見交換があり、渡辺治理事長の発言もあった。私が理解した限りで、大要以下のとおりの内容である。

現在の学校におけるイジメは、「昔からあった」というレベルの問題ではない。そして、そのことは安倍政権の政策とも深く結びついている。

社会的背景として、90年代以後の新自由主義政策による貧困化や中間層の没落がある。子どもを取り巻く環境が劣悪化し、子どもの精神の安定性に影響している。

そのような子どもたちを抱える学校には競争至上主義が蔓延している。しかも、評価主義が徹底していて低評価につながるイジメは潜在化せざるを得ない。また、教員は子どもに向き合う余裕がなく、教員集団による教育力が低下している。

このような要因で噴出しているイジメ問題について、安倍政権は彼なりのやり方による対策を政策の目玉の一つにしようとしている。社会的背景にメスを入れ学校の体質を改善しようというのではない。道徳教育の徹底や教育委員会制度の破壊という対応によってである。自らの新自由主義政策がイジメをつくり出しているのに、これを改めるのではなくむしろこれを利用して新保守主義的政策推進の口実にしようとしている。

なるほど。指摘されてみればそのとおり。このことだけでなく、啓発を受けることが多々ある会議だった。

イラク戦争開戦から10年

本日(2013年3月20日)は、イラク戦争開戦から10年にあたる。米ブッシュ政権は、9・11事件の報復措置としてアフガン侵攻にとどまらず、イラクにまで戦争を仕掛けた。オバマの選挙公約によって撤兵が実行されたのは、昨年末のこと。この間のイラク民間人の死者数は10万人説から65万人説まである。
この悲惨な戦争は、「イラクに大量破壊兵器が存在している」というブッシュ政権中枢の「確信」によってもたらされた。当初、米国民は熱狂的にこの戦争を支持したが、今、厭戦の果ての撤兵となった。

アメリカのイラク参戦を批判する国と、支持する国との対比の鮮やかさを思い出す。
「参戦を拒否したドイツの当時のシュレーダー前首相は「難しい決断だったが、我々のナイン(ドイツ語のノー)は正しかった」と述べ、改めて攻撃不参加は正しい判断だったとの認識を示した」「独メディアによると、拒否の理由を『イラクに大量破壊兵器は存在しないと確信していた』と説明。さらに、『当時の野党党首(メルケル現首相)の主張通り参戦したら、ドイツ軍は今もイラクにいただろう』と述べ、今秋のドイツ総選挙を念頭に、参戦を促したメルケル氏を批判した」という(毎日)。

翻って、当時の小泉政権が、アメリカが参戦した途端にこれを支持する立場をとったことが強烈な印象として残っている。しかも、「イラクに大量破壊兵器が存在していない」ことが確認されたあとも、反省の言葉が聞けない。
政府と、自民・公明の与党(当時)は、いまでも、アメリカのイラク参戦を支持したことを正しい判断であったと考えているのだろうか。その考えかた、その理由について、国民に説明する責任を果たすべきであろう。

イラク参戦についてのいくつかの教訓がある。

日本は、アメリカの従属国の姿勢を露わにして、アメリカの参戦を支持した。しかし、イギリスやイタリア、ポーランドのごとく、多国籍軍の一員とはならなかった。自衛隊の派遣は、破壊されたイラクの国家再建を支援するためとされ、戦闘には参加していない。イラク派兵の根拠法となった「イラク特措法」のフルネームは、「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」という。人道復興支援活動の名目でなくては海外派遣はできない。これは、憲法9条が生きている証しである。自衛隊を合憲であるとする理屈が、「自衛のための実力の保持は許される」としか言いようがない以上、他国で戦闘に参加するすることは許されない。

また、国民が熱狂するときは、理性の目が曇るということだ。戦争を支持する世論が多数だから、多数に従うべきだという短絡した結論は正しくない。現行憲法改正に法律制定以上のハードルが設定されていることは、理性を取り戻す期間を確保するために必要な智恵なのだ。

もう一つ。イラク派遣を違憲として、各地に「自衛隊のイラク派兵差し止め訴訟」が提起された。その中の一つ、名古屋訴訟において、名古屋高裁は2008年4月17日の判決で、「差し止め請求の根拠・国家賠償請求の根拠としての平和的生存権」の具体的な権利性を認めた。

同判決の平和的生存権に関する説示の骨子は以下のとおりである。
「憲法前文に「平和のうちに生存する権利」と表現される平和的生存権は,‥単に憲法の基本的精神や理念を表明したに留まるものではない。憲法上の法的な権利として認められるべきである。そして,この平和的生存権は,‥裁判所に対してその保護・救済を求め法的強制措置の発動を請求し得るという意味における具体的権利性が肯定される場合があるということができる。
例えば,憲法9条に違反する国の行為‥によって,個人の生命,自由が侵害され又は侵害の危機にさらされ,あるいは,現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされるような場合,また,憲法9条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には,平和的生存権の主として自由権的な態様の表れとして,裁判所に対し当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求めることができる場合があると解することができ,その限りでは平和的生存権に具体的権利性がある」

判決は、違憲確認請求、民事訴訟としての差し止め請求、行政事件訴訟としての差し止め請求をいずれも不適法として却下し、国家賠償請求を棄却した。主文においては敗訴である。しかし、平和的生存権の具体的権利性を認めたことの画期的的な意義は大きい。ここを出発点とする可能性を展望できる。

自衛隊の海外派兵が繰り返されるとき、あるいは時の政権が好戦的な政策を採用して憲法9条に違反するときには、平和的生存権は平和を実現するための有益な手段となりうるのだ。

石原宏高議員選挙違反続報

16日「毎日」の夕刊は、「事務員がビラ配り」と見出しをつけて、以下の記事を報道している。
「石原宏高衆院議員(東京3区)が昨年12月の衆院選で、大手遊技機メーカー「ユニバーサルエンターテインメント」(UE社)から社員3人の派遣を受けた問題で、石原氏側が3人を有権者に直接働きかけのできない「事務員等」として東京都選挙管理委員会に届け、報酬を支払っていたことが分かった」「石原氏側が東京都選管に提出した選挙運動費用収支報告書によると、石原氏側は3人を「事務員等」として届け、それぞれに1日1万円(1人当たり選挙期間中計12万円)の報酬を支払った」「石原氏はこれまで『3人はボランティアで、選挙運動員としてビラ配りをしてもらった』と説明していた」

この記事は極めて具体的で、信憑性が高い。石原宏高選挙事務所の総括主宰者・出納責任者は公選法221条1項1号(運動買収)・3項(加重要件)に該当して、最高刑は懲役4年の犯罪に当たる。石原宏高議員自身が関与していれば同罪である。また、UE社から派遣された3人は、221条1項1号の被買収罪に該当して最高刑は懲役3年の犯罪となる。

選対陣営が選挙運動員に金をやって選挙運動をさせることは典型的な買収罪(運動買収)に当たり、選挙運動員が選対陣営から金をもらうことも対抗犯として犯罪に当たる。予め届け出た事務員に日当を払うことは認められているが、証紙貼りや、宛名書きなどの純粋の事務作業に限る。事務員としての届出をしておいて日当を払った者に電話の応対やビラ配りをさせたり、作戦会議に出席させるなどの選挙運動をさせれば、犯罪になる。石原陣営も、金をもらったUE社の3人も完全にアウトだ。

17日「朝日」の朝刊は、「選挙応援『勤務扱い』」という見出し。こちらの記事では、さらに悪質な石原陣営とUE社の癒着が報道されている。

「朝日新聞は、UE社内で作成された『3人は通常勤務扱いとし、残業代を支給する』などの記載がある内部文書を入手した。石原議員は疑惑発覚後、『有給休暇中のボランティアだった』として公職選挙法違反(運動員買収)の疑いを否定しているが、説明と矛盾する内容だ」という。

朝日が入手したという「選挙応援の件(ガイドライン)」と題する文書は、UE社の人事部門が作成したもので、「衆院選当日までの約1カ月間、社員3人を選挙応援として動員する」として、「対応策(ガイドライン)」7項目が列挙されている。犯罪構成要件との関係で重要なのは、選挙運動中の賃金はUE社が支払うことが明記されていること。「選挙事務所にて残業(超過勤務)等が発生した場合には、残業代を支給する」とまでされている。交通費など経費の精算の際には「現地市場調査等」という名目にするとの指示もある。

石原陣営もUE社も、口裏を合わせて「有給休暇中のボランティア」としての選挙運動であったという。カムフラージュの常套手段だ。「選挙応援の件(ガイドライン)」には、「あくまでもボランティアを募集して行わせる体裁をとる」ことが明記されている。実態が違法であることを認識していた証左といえよう。

UE社の人事担当者について運動買収罪が成立し、賃金保障で選挙運動をした3人も被買収罪が成立する。いずれも最高刑は懲役3年である。

石原候補の選挙運動をしたUE社の3人。朝日の報道ではUE社から賃金保障を受け、毎日の報道では、選対から日当を受けていたという。どうやら、二重取りだった様子。とはいえ、所詮は宮仕えの身。同情の余地はある。選挙に絡んで金をもらうことの恐ろしさが身に沁みることであろう。この3人に金をばらまいた石原選挙事務所、賃金保障をしたUE社、いずれも罪が深い。
(2013年3月19日)

第五福竜丸平和協会理事会。

本日は公益財団法人第五福竜丸平和協会の理事会。私は、監事として出席。
新年度の事業計画と、2012年度の決算案・13年度の予算案について、川崎昭一郎理事長からのまことに丁寧なご説明を受ける。いつものことながら、透明性が確保されていること、出席者全員に良く分かるようにとの行き届いた配慮が心地よい。多くの善意が集まって、少額の予算ながらも、反核平和の運動に大きく寄与する活動がなされていることを実感する。

石原知事が去って猪瀬知事に交替したこと、オリンピックの誘致が実現した場合の「夢の島」の変貌と展示館のあり方に話題が集まる。第五福竜丸展示館が東京都からの委託事業である以上、都政のあり方に関心を寄せざるを得ない。

ところで来年は、ビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸が被災してから60周年に当たる。来年の春に記念シンポジウムの提案があって了承された。
コンセプトは、「ビキニ水爆実験と第五福竜丸被災の今日的な意味を明らかにし、核と人類の関係についての問題提起とする」というもの。次のようなテーマの研究発表集会になるはず。
・アメリカの太平洋核実験による世界規模のフォールアウトの実態。
・放射能の雨による被曝と漁業被害の実態。
・放射線被曝による人体への影響の解明。
・ビキニ事件と市民の平和意識の覚醒、その今日的意味。
・核兵器と原子力エネルギー利用問題。
・核と人類の未来
これから、専門家との共同作業が始まる。

また、60周年を期して、ブックレットのシリーズを刊行していくことに。
?第五福竜丸ものがたり。
?久保山愛吉さんの死と乗組員の被曝を解明する。
?木造漁船第五福竜丸に見る船大工の技
?私とビキニ事件
?第五福竜丸保存史 など。
絵本もつくろう。各地での巡回企画展を呼び掛けよう。その事業のための募金活動を成功させよう。

すがすがしい、理事会であった。

近隣諸国から日本はどう見えるのか

本日は、東京弁護士会「憲法問題対策センター」の学習会。名古屋大学の愛敬浩二さんのレクチャーを拝聴した。憲法9条についての「非武装主義的解釈の意義」というテーマ。講演後の率直な意見交換における、大要以下のような発言が印象に残った。

中国や韓国の姿勢が挑発的というご意見がありましたが、立場を代えて向こうから見れば、日本こそ挑発的ということになるのかも知れません。
同じ敗戦国で、同じく経済発展を遂げたドイツは、自国の戦争責任を徹底して償った。たとえば、西ドイツのブラント首相がポーランドを訪問し、雨の中ワルシャワ・ゲットーの前でひざまずいてナチスの犯罪に対して深い謝罪の姿勢を示すわけです。こうして、ヨーロッパの中で再びドイツが近隣と紛争を起こす国となることはあり得ないという信頼を勝ち得ているのです。しかし、日本は近隣諸国への謝罪をしてこなかった。再びアジアの脅威となることはあり得ないという信頼を勝ち得てはいないのです。
近隣諸国からそのような日本を見れば、この重苦しい時期に、先祖返りのように旧体制を象徴する人の孫を首相に据えたということになる。従軍慰安婦などはなかったと言って河野談話を破棄しようという人物を首相にすることだけで、十分に挑発的ととられることを理解すべきではないでしょうか。

まったく同感。立場を代えてものを見てみよう。きっと、ちがった景色が見えてくるだろう。北朝鮮にも、イランにも言い分はある。それに耳を傾けることからしか、相互理解も平和も築けない。

澤藤統一郎の憲法日記 © 2013. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.