それぞれのオリンピック事情?ブラジルと日本と
2016年にはリオで、2020年には東京で、オリンピック・パラリンピックが開催される。それぞれの事情を抱えながら。
「アマゾン河の博物学者」(H.W.ベイツ著 平凡社)は155年前のブラジルの自然と社会を興味深く伝えている。著者はイギリス人の探検家であり博物学者でもあった人。「種の起源の問題を解き明かす」ために、1848年から1859年まで、ブラジルのアマゾン川流域に11年間も滞在し、動植物の採集研究を行った。この著書にはチャールズ・ダーウィンが献辞を書いている。
アマゾン流域の豊富な昆虫や鳥や樹木の織りなす華麗さを描写が見事である。目の前を飛び回るたくさんの種類のチョウチョの美しさを画像で見るかのごとく語ってくれる。「美」だけで無く「死闘」についても、冷酷に記述する。
「シボ・マタドール、すなわち絞め殺しのつるとよばれている無花果(いちじく)の仲間で、・・・私はこの植物をたくさん観察した。・・・マタドールの取りつき方は特異で、たしかに嫌な印象を与える。取りつこうと思う木のすぐ近くに芽をだし、幹の木質部は支持木の幹の片側の表面に、可塑性の鋳型のように、広がりながら成長していく。それからこんどは両側から一本ずつ腕のような枝を伸ばす。それはすみやかに生長するが、まるであふれ出た樹液が流れながら固まっていくかのようである。これは被害木の幹にしっかりとへばりつく。そして二本の腕は反対側で出会うと絡み合って折れ曲がる。こうした腕が上方に登りながらほぼ一定の間隔で出てくる。するとその絞め殺しの木がじゅうぶんに成長したとき、被害木は多数の硬直した環にしっかりと抱きしめられた形となる。これらの環は殺し屋が繁茂するにつれてしだいにより大きく成長し、その葉冠は隣人のそれといっしょになって空中にかかげられるようになる。そして時がたつうちに、彼らは宿主の樹液の流れを止め、それを殺してしまう。その結果そこに残るのは、ほかでもないおのれの成長の援助者であった犠牲者の生命のない腐食しつつある体を腕に抱きしめた、利己的な寄生者の奇妙な姿である。その目的は達せられたーーそれは花を開き、実を結び、繁殖し、種子をまき散らした。そして今や死んだ幹が崩壊するときそれ自身の終わりも近づきつつある。支持木は消え去り、自分もまた倒壊する。」
これを読むと、一瞬、原発利権に群がる企業とそれに絞め殺されそうになっている日本の姿について述べているのかと思ってしまう。たしかにマタドールは悪魔のような木だ。
こんな記述もある。あるポルトガル紳士がアフリカとの奴隷売買禁止のために高騰した奴隷の値段について「以前は1人120ドルで買えたものが、今では400ドルでも手に入れることが困難だ」とこぼしていると書いている。ベイツが滞在していた頃のブラジルは、フランス軍に追い出されたポルトガル宮廷がリスボンからリオデジャネイロに遷都していた時期にあたる。この地は完全にポルトガルの植民地であった。サトウキビ、ゴム、コーヒーのプランテーション経営のため、インディオの奴隷化だけでは足りなくて、アフリカから黒人奴隷を盛んに連行していた奴隷国家でもあった。奴隷制が廃止されたのは1888年、その翌年帝政は廃止され共和制となった。その後やむなく、労働力確保のためヨーロッパや日本移民(1908年笠戸丸がはじめ)が奨励された経緯がある。
さて、その100年後、インディオ、ポルトガル人、アフリカ系黒人、日本人その他諸々の人たちが活気溢れる民主主義国家をつくりあげた。そして今年はワールドカップ世界大会、2年後にはオリンピックを開催しようとしている。そのこと自体は驚くべきことではないけれど、民衆が果敢にオリンピックやワールドカップ開催反対のデモをくり広げていることにおおいに感動する。
ブラジルでの平均月収は都市部でも日本円にして10万円にはるかに届かない。W杯競技場などのインフラ建設など一部の利権者だけが潤う金の使い方や公共料金、税金の値上げに批判が集まっている。学校や病院の整備を先にせよというもっともな要求である。昨年6月にはブラジル中にデモが拡大し、参加者は100万人ともいわれた。今年1月25日にもサンパウロ、リオなど13都市でW杯反対デモがくり広げられ、100人以上が拘束されている。スローガンは、「W杯いらない、ほしいのは医療と教育」
東京ではオリンピック推進派の都知事が選出された。ブラジルとちがって、「オリンピックいらない、原発もいらない」という声はほとんど聞こえない。オリンピック凱旋パレードに50万人もの人が集まっても、オリンピック反対デモには人が寄りつかない。
ブラジルが帝政を廃止して共和制を選んだその同じ頃、日本では万世一系の天皇の帝政を選んだのだから、果たしてどちらが民主主義的民度が高いのだろうか。
(2014年2月12日)