大江志乃夫著「靖国神社」の成り立ち
本日は書籍の紹介である。私はこの岩波新書の一冊に、思い入れが強い。教えられることが多くて読み返しているというだけではない。30代後半から40歳になった当時の思い出と結びついたものとして大切にしている。私は、この書が私のために書かれたものと信じているのだ。
私が盛岡に在住して岩手靖国訴訟に取り組んだときに最初に繙いた靖国関係書籍は、村上重良の新書3部作「国家神道」「慰霊と招魂」「天皇の祭祀」であった。著述の論旨は明快で、説得力に富む。法廷ではこの著者の証言を得たい、そう願って「政教分離を監視する会」の西川重則さんの紹介で実現した。
同時に箕面忠魂碑訴訟での大江志乃夫さんの証言の評判を伝え聞いて、どなたか依頼の伝手がないかと思っていたら、これも西川重則さんが了解を取ってくれた。西川さんというのは、不思議な力をもった方。
1983年の夏、一審盛岡地裁で集中的な証人尋問。両証人とも尋問は私が担当した。打ち合わせのために、私は東京の村上宅にも、茨城県勝田市の大江宅にも何度かお邪魔した。村上証言は、「慰霊と招魂」の内容を基礎に証言のストーリーを組み立てたが、大江証言には、拠るべき適切な「台本」が当時なかった。
大江さんとの打ち合わせの冒頭に、「限られた時間での証言だけでは不十分だと思うので、実は、陳述書をつくっている」とのお話しがあった。「途中までできている」とのことで拝見した。当時出回り始めたばかりの「ワープロ」で作成されたものだが、その浩瀚さに驚いた。
分厚い陳述書の完成稿が法廷に提出されて、証言とその後の主張の種本となり、その陳述書が体裁を整えて岩波新書「靖国神社」となった。その間の経緯は、同書のあとがきに書き込まれている。この書が、「私のために書かれたもの」と思い込んでいる理由である。
その後も大江さんご夫妻には、度々盛岡に足を運んでいただき、岩手靖国訴訟と地元の政教分離運動へのご支援をいただいた。陸軍軍人(大江一二三大佐)の家庭に生まれ、自らも陸士にはいった大江さんの、旧軍に関するお話しは貴重であるだけでなく、実におもしろかった。
大江「靖国神社」を通じて、歴史家大江志乃夫から学んだことをいくつか書き留めておかねばならないが、その最大のものは、近代天皇制の権威の由来である。
同書に次の記載がある。
「世界史的な一般論としていえば、絶対君主による封建国家の統一事業は、おおむね最大最強の封建領主が他の封建領主を打倒することによって達成される。日本の場合、明治維新の変革による新しい統一国家樹立のための権力の中心が、なぜ、たとえば徳川将軍家ではなく、天皇でなければならなかったのか、あるいは天皇でありえたのか。
所領700万石の徳川将軍家にくらべれば、天皇家はせいぜい10万石の小大名程度にすぎなかった。しかも、徳川将軍家自身が絶対君主の地位につくことをめざしていたのに対抗して、その天皇家が、なぜ新統一国家の権力の中心の地位につくことができたのか。天皇を絶対君主制的特質を特った権力の座に押しだしたものは何か。
天皇家は権力を掌握するに必要な固有の物理的な力をいっさい特っていなかった。徳川時代の天皇は、軍事力はもちろん、儀礼的で形式的な叙位・叙任権などを除いては、政治的権限もいっさい特っていなかった。民衆の大部分は、将軍や殿様の存在については知っていても、天皇の存在については知らなかった。天皇は、新統一国家の権力者になるために必要な経済的・軍事的・政治的・社会的基盤のすべてを特っていなかった。
日本をめぐる内外の情勢は切迫し、国家統一は緊急の課題となっていた。当時の日本における最大の政治的・軍事的権力者であった徳川将軍家を単独で打倒して国家の統一者となることができる力を持った大名はいなかった。幕藩体制を廃止して新統一国家を建設する事業は、徳川幕府自身が武力を行使して諸藩を廃止するか、有力諸藩が連合して幕府を打倒するか、いずれかの道によるしかなかった。この対抗関係が成立するための有力諸藩の連合には、連合の象徴が必要であった。その象徴とされたのが、天皇であった。このことは、幕末のいわゆる勤王の志士たちが、天皇を「玉」と呼んでいたことからも知られる。
天皇はなぜ「玉」=倒幕諸藩の連合の象徴となることができたのか。最大の権力者であった幕府が持っていないもの、すなわちイデオロギー的および宗数的権威を持っていたからである。とくに、天皇は、幕府の政治的支配をささえてきた儒教イデオロギーの名分論において論理的に優越した地位を持つとともに、幕府の民衆支配の思想的手段とされてきた仏教に対抗することができる宗数的地位を保持していた。儒数的名分論は幕藩体制の支配身分である武士階級にたいして有効なイデオロギー的手段であったし、仏教に対抗することができる宗数的地位は民衆にたいして有効であった。」
非常に分かりやすい。「勤王の志士」たちが、天皇を崇敬していたわけではない。もっと冷徹に「玉」としての天皇について徹底的な利用を企図し、現実に利用し尽くしたのだ。そのためのイデオロギーとして、武士に対しては儒教的名分論が、民衆に対しては神道が有効だった。
こうして、天子としての宗教的権威を基底に、政治的には統治権の総覧者である天皇は、軍事的には大元帥ともなった。この三層構造としての天皇理解は、あの夏以来揺らぐことはない。
再び、同書から引用する。
「政治的権力者を表現する意味での天皇は、宗数的権威としての「天子」であることによってのみ天皇でありうる。しかし「天子」が天皇となるためには、権力をささえる物理的手段の独占的所有者つまり軍事力の独占者でなければならなかった。こうして夫皇の軍事的側面をしめすもうひとつの名称、大元帥が必要となる。天子は、大元帥であることによって天皇でありうる。」
こうして、三位一体としての「天子」と「大元帥」と「天皇」が成立する。この構造を理解することが、戦後の日本国憲法体制を理解することに不可欠なのだ。天皇という構造のどの部分が廃棄され、どの部分が残ったのか。不徹底な「革命」は、天皇を象徴として残存した。しかし、その象徴を再び宗教的権威をもった「天子」にしてはならない。その歯止めが、政教分離である。
今はなき、大江志乃夫さんを偲びつつ、遺された書物を精いっぱい生かしたいと思う。とりわけ、私のために書いていただいた「靖国神社」を。
(2014年6月5日)