大義なき解散の不当性ー憲法の理念に照らして
明日(11月21日)に予定されている解散とこれに続く総選挙には、「大義なき解散」「党利党略のジコチュウ選挙」という批判の声が高い。頷かせる材料が満載だ。呼応する見解のなかには、「大義なき解散」は総理の職権濫用」であり「憲法違反」でもある、という論調すら見られる。
もちろん、これに対して「解散は総理の専権」だとか、「解散については総理の嘘も許される」という御用評論家の提灯論調もある。
違憲と断じることができるかはともかく、選挙が民意の正確な反映を可能とするよう公平な仕組みでなければならないことには異論のないところ。とすれば、プレーヤーの片方だけに、試合開始の時期を一方的に選択できるというルールの不公平は誰の目にも明らかではないか。自チームの弱点が見えているときは開戦を先送りし、相手チームの弱点が見えているときに、相手チームの態勢がととのわないときを狙って、開戦の時期を決められる。これはアンフェア極まるルールではないか。
相撲においては、先に突っかける立ち会いは恥とされる。相手力士がいつ立ってもそれに合わせて、後の先をとるのが横綱相撲であり力士本来の品格とされる。解散権とは、相手不十分の内に突っかける、みっともない立ち会いの権利を一方だけに認めるものではないか。しかも、体格の優る横綱の側だけに認めるというのだ。これはあきらかに美学に反する。憲法が想定する公平な選挙のあり方ではない。
しかし、このみっともない解散の権利は先例として定着している。こんな有利な武器を使わない手はないのだから、当然といえば当然。現行憲法下での解散・総選挙はこれまで23回に及ぶ。今回の「大義なきアベノジコチュウ解散」は24回目となる。その24回のうちに内閣不信任決議に対抗しての解散が4回ある。解散せず任期満了による総選挙はわずかに1回のみ(毎日新聞の年表による)。
衆議院の解散に触れている憲法の条項は、次の2か条。
第69条「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。」
第7条「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。第3号 衆議院を解散すること。」
憲法には、内閣の専権としていつでも理由なく都合のよいときに解散できるという明文規定はない。しかしまた、これを禁じていると断定もなし難い。国民主権の理念や三権分立・選挙制度の趣旨から考察するしかない。
現行憲法下の最初の解散は、第2次吉田内閣の「なれあい解散」(1948年12月)であった。当時既に「解散は69条が定める場合(不信任決議または信任否決決議があったとき)に限る」とする野党側と、「7条によって、いつでも可能」とする政府側の解散権論争が激しかった。GHQは、「いつでも解散可能というのは旧憲法的な考え方」と、理論的には野党の肩をもったとされるが、結局はなれあい解散(野党が不信任案を提出し、その可決を経ての解散)となり、解散詔書の文言は「第7条及び第69条により衆議院を解散する」となった。
問題は第3次吉田内閣の「抜き打ち解散」(1952年8月)時に起きた。69条ではなく、7条のみによる初めての解散。このときに、解散の根拠と有効性をめぐって、苫米地事件という訴訟が起こされる。
苫米地義三という保守系の政治家がいた。青森県を地盤として新憲法下の第1回総選挙から立候補し、順調に当選を重ねた。1950年4月には、国民民主党を結成して、その最高委員長を務めている。1951年のサンフランシスコ講和会議では野党代表の一人として全権委員に名を連ねているそうだ。最後は、保守合同によって成立した自民党に籍を置いている。
その苫米地が、衆議院の「抜き打ち解散」に怒った(のだろう)。そして、憲法史に名高い「苫米地訴訟」を起こした。内閣の解散権など憲法のどこにも書いていない。この解散は憲法違反で無効であるという主張をもっての提訴である。
苫米地訴訟は二つある。まず彼は、直接最高裁に提訴する。解散の違憲・無効を確認せよとの訴えである。しかし、53年4月最高裁はこの訴えを斥けた。裁判所の違憲審査権は、具体的な法律上の争訟の解決に必要な範囲においてのみ行使しうるものとの判断で、憲法裁判所としての役割を否定したのだ。
そこで、苫米地は改めて、国を被告として任期満了までの議員歳費支払いを求める訴訟を東京地裁に提起し、その請求原因として「7条解散」の違憲無効を主張した。
苫米地は一審判決で勝訴して世間の注目を集める。判決が解散無効と判断したのだから、激震クラスのインパクトであったろう。もっとも、勝訴の理由は「7条解散の違憲無効」が認められたのではなく、7条解散の手続き要件である「内閣の助言と承認」が適法な閣議決定として行われていない、ということであった。
苫米地勝訴の一審判決は、東京高裁の控訴審において逆転され、舞台は最高裁に移る。ここで、著名な1960年6月8日大法廷判決の「統治行為論」の展開となる。
最高裁田中耕太郎コートは、「衆議院の解散は、極めて政治性の高い国家統治の基本に関する行為であって、かくのごとき行為についてその法律上の有効無効を判断することは司法裁判所の権限の外にありと解すべきことは明らか」と判示した。判断を避けた、というよりは逃げたのだ。結局、このテーマについては、権力に司法のチェックがおよばないこととなり、いまだにその事態が継続している。たとえば、1986年の衆参同時選挙における衆院の解散について、「解散権行使の限界を超えて違憲」と選挙無効を主張した訴訟において、名古屋高裁は統治行為論を採用して請求を棄却している(87年3月判決)。
結局、日本では統治行為ゆえに訴訟という手段では「大義なき解散」を違憲無効と断じることができない。そのため合憲の判断もないまま実務慣行がまかり通っている。憲法の理念や制度の趣旨からする解散権の有無や行使の条件についての議論も深まらない。
一方、日本の議院内閣制のモデルとされてきた「イギリス的議院内閣制」は近年大きく変貌を遂げているという。本日(11月20日)の毎日にも、「発信箱:解散権の封印」として次のように紹介されている。
「イギリスでは2011年に下院総選挙を原則として5年ごとに行うという法律が成立し、首相の解散権が事実上、封印されたのだという。与党に有利な時期を選んで解散するのは不公平だという考えが背景にあったそうだ。」
2011年9月に英国議会で成立したその法律は、「議会任期固定法」という興味深い名称。内閣不信任案決議等がない限り、下院総選挙は5年ごとの5月第一木曜日に行われるという。これまでも、クリスマス休暇や夏季休暇に解散が行われることはなかったという(駒澤大学・大山礼子教授による)。飽くまで、国民を主体に、国民の都合を最優先した総選挙が構想されており、政権の思惑優先の解散・選挙は想定されていない。
この機会に、もう一度国民的議論が必要ではないか。一方的に政府・与党の都合次第の解散・総選挙を認めてもよいのだろうか。憲法に明文はない以上は、国民主権原理やあるべき選挙制度の趣旨からよく考えてみよう。本当に実務慣行となっている今のままの解散の制度で良いのだろうか。もっとフェアな制度に改めるべきではないか。
裁判所は判断を逃げているが、国民は議論を逃げてはならない。実例として眼前に、大義なき安倍解散が、アンフェアでジコチュウで、党利党略の実態をさらけ出しているのだから。
(2014年11月20日)