「別姓訴訟」に素敵な判決を
私が、盛岡で若さに任せて活動していたころ、たいへんお世話になった先輩弁護士が菅原一郎さん。菅原さんは、労働事件をやるために弁護士になったという人で、岩手弁護士会の中心に位置して、危なっかしい私を支えてくれた恩人。惜しいことに、昨年鬼籍に入られた。
その一郎さんは、ご夫婦ともに弁護士。旧姓坂根一郎さんと菅原瞳さんとが結婚して、婚氏を菅原にしたのだ。しかも、一郎さんは母の手一つで育てられた長男。姓を変えることに抵抗がなかったはずはない。それでも、自分の姓を捨てて妻の姓をとられたことが語りぐさだった。愛着ある旧姓に固執せず、妻の姓を名乗られたことは、口先ばかりの男女同権を語る男性が多い中で異彩を放つものとして、たいへんな尊敬を受けていた。
後輩には伝説となっていた。真偽のほどは定かでないが、どちらの姓を名乗るかで、夫婦は世紀のじゃんけんを5回戦して瞳さんが勝ったのだ、などとまことしやかに伝承されていた。私はといえば、じゃんけんもせず籤も引かず、私の姓を名乗ってしまった。ずっと、そのことの負い目を感じ続けている。
民法750条が、夫婦は同一の姓を名乗らなければならないとしている。法文上は、「夫または妻の姓を称する」としているが、96%が夫の姓という現実がある。
これについて法制審議会は、1996年2月採択の婚姻法改正要綱の中で、選択的夫婦別姓を導入するとの提案を行った。これに対するパプコメは、圧倒的に賛成が多かったという。しかし、家族制度の崩壊につながるとして、保守派の抵抗は強く、いまだに法改正に手は付けられていない。
世に事実上の夫婦でありながら、別姓にこだわって法律婚を回避している人もいれば、法律婚によって姓を変えられたことにこだわりを持ち続けている人も少なくない。そのような人たち5人が民法750条を違憲だとする裁判を起こしている。「別姓訴訟」という。その判決が29日に東京地裁民事第3部で言い渡される。注目に値する。
立法不作為を違法として、国家賠償を請求する訴訟である。憲法論としては、13条違反(姓の保持の喪失が個人の尊厳を侵害する)、24条違反(両性の本質的平等に違反。婚姻は両性の合意のみで成立しなければならない)。そして、女性差別撤廃条約違反でもあって、国会で750条改正をしなければならない具体的な作為義務があるのに、これを違法に怠っている、という構成である。
現在の裁判所のあり方から見て、困難な訴訟であることは否めない。しかし、当事者の願いの「寛容な社会」の実現に寄与する判決を期待したい。夫婦同姓が愛情に不可欠だと思っている人は、そちらを選択すればよい。しかし、結婚によって夫か妻のどちらかが姓を変えなければならないことに抵抗ある人にまで同姓を強要することはない。それぞれのライフスタイルを尊重する、柔らかい社会が望ましいと思う。
29日、ステキな判決を期待したい。
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『山縣有朋と椿山荘』
この季節、晴れて気温が高くなると、庭の椿からパラポリパラポリと不思議な音が降ってくる。大食らいのチャドクガの毛虫が、美味しそうな若葉に取り付いての食事の音なのだ。可哀想だが、見逃すわけにはいかない。高枝切りバサミのお出ましだ。ビニール袋に重たいほどの収穫。気の弱い人、アレルギー気味の人には出来ない作業。
午前中、我が庭でチャドクガ退治をして、午後、「椿山荘」庭園見学。さすが椿山荘のツバキには毛虫一匹いない。すごい。毛虫がいないだけではない。その広大さ、贅をこらした作庭と、広島から移築したという3重の塔…。
椿山荘は文京区の西部、神田川を見おろす目白台地に位置し、1万8千坪の敷地は起伏に富んだ緑深い大庭園である。現在は大きなホテルが建ち、結婚式場として有名であるが、鷹揚なことに、広大な庭は一般に公開されている。
江戸時代には、上総久留里藩の下屋敷があったところで、ツバキがたくさんはえていたので「つばきやま」と言われていた。1878(明治11)年、山縣有朋が購入して、立派な庭を造らせた。
山縣は長州藩の軽輩の出であったが、身分を超えて才能を重んじた「奇兵隊」と「松下村塾」閥を足がかりに、明治、大正の時代を頂点まで登りつめた「軍人政治家」である。
尊皇攘夷、英米仏蘭4国連合艦隊との下関戦争、長州征伐、戊辰戦争、徴兵令制定、竹橋事件、佐賀の乱、西南戦争、自由民権運動弾圧、保安条例、日清戦争、陸軍元帥、政党敵視、義和団制圧、日露戦争参謀総長。まさに、「あなたの手は血塗られている」人生を生きた。軍人勅諭を作ったことでも知られる。最初の下関戦争で負けて負傷したことに懲りてか、あとの方は勝ち馬に乗る選択をした。血は血でも相手の血だ。
元帥、陸軍大将、従一位、大勲位、公爵、内閣総理大臣、枢密院議長、陸軍司令官、陸軍参謀総長。「もっとあるよ」と墓場のなかの肩書き収集屋から声がかかりそうだ。
そして、大庭園の持ち主としても知られる。椿山荘だけではない、山縣の名に結びつけて知られる「無鄰庵」は三つもある。取得の順に並べると、無鄰庵(取得時期不明・長州)、山縣農場(1877年・栃木県矢板市)、椿山荘(1878年・東京都文京区)、小淘庵(1887年・大磯)、無鄰庵(1891年・京都)、無鄰庵(1896年・京都)、新々亭(1907年・東京都文京区)、古希庵(1907年・小田原)、新椿山荘(1917年・麹町)
これらは全て、山縣が購入したか、払い下げを受けたか、贈賄を受けたかした大庭園。普請道楽・造園好きといわれた山縣は、次々に広大な敷地に贅をこらした建物を建て、「椿山荘」のような庭を造った。いくら地価も人件費も安く、権力者の贈収賄に甘い時代だったと考えてもすごいこと。あきれかえる。
1922(大正11)年83歳で没。「国葬」が営まれたが、参列者は軍人と官僚が少しで寂しいものだった。いくら権力と金に執着しても「過去の人」になっていたのだ。その少し前に亡くなった大隈重信の「国民葬」では、人柄を慕った「民」が続々と集まり、生前の人気の差が歴然だったという。
山縣が最晩年に政党嫌いを曲げて首班として認めた、「平民宰相」原敬の日記は、山縣の権力や金銭、邸宅への執着、勲章好きには嫌悪を示し、「あれは足軽だったからだ」とにべもない。
山縣は「維新の元勲」の一典型。国民の財産を横領同然に我が物にして恥じるところがない。血税の吸血鬼、これが「維新」の正体ではないか。山縣とは異なるやり方で、年間100万円や200万円の低賃金で人を使って、自分は天文学的な数字の金を貯めて恥じない経営者も、山縣と同じく、庶民の血を吸う吸血鬼だと思う。やっぱり「おまえの手は血塗られている」。
(2013年5月26日)