おぞましや大学卒業式での君が代斉唱ー産経社説への反論
昨日(4月14日)の産経社説が、国立大学における国旗国歌押しつけ問題を取り上げた。「国旗国歌 背向ける方が恥ずかしい」という標題。もちろん、産経本領発揮の提灯持ち社説。こんな記事を読まされる方が恥ずかしい。
同社説は冒頭にこう言っている。
「国立大学の卒業式や入学式で国旗掲揚と国歌斉唱を適切に行うよう求めることに反発がある。国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜいけないのか。それを妨げる方が問題である。」
産経は、誰にどのような理由で「反発」があるかについて思いをいたすところがない。「実施できないのは、国旗国歌に背を向ける一部教職員らの反発が根強いからだろう」とだけ言って、この教職員の言い分に耳を傾けようとはしない。いったい、どこにどのような問題があるかを考えようともせず、噛み合った議論をしようという姿勢を持ち合わせていない。一方的に、自分の主張の結論を情緒的に述べているだけ。これでは幼児の口喧嘩のレベルに等しい。それが右翼メディアの本領と言えばそれまでだが、これでは、大学人の反発や懸念をますます深めるだけのものと知らねばならない。
まずは、産経の議論の立て方がおかしい。「国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜいけないのか」ではなく、「国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜ必要なのか」と問わねばならない。さらに、「なぜかくまでに国旗国歌にこだわるのか」、「なにゆえに国旗国歌に敬意の表明を強制する必要があるのか」と問を展開する必要がある。
議論の出発点は飽くまでも個人の自由でなくてはならない。個人の思想も行動も、公権力に制約されることなく自由であることが大原則なのだ。どんな旗や歌を好きになろうと嫌いになろうと、その選択は個人に任されている。にもかかわらず、なにゆえ、国旗国歌に敬意を払わねばならないというのか。これは「国際常識」や「多数の意思」などで簡単にスルーすることはできない大きな問題である。さらに、歴史的に刻印された負の烙印をいまだに消せない「日の丸」と「君が代」への敬意を払うべきとする教育が、なにゆえに是認されるのか、政権も産経も納得のいく説明をしなくてはならない。
国家の象徴である歌や旗への態度は、個人が国家に対してどのようなスタンスをとるかを表す。これは、完全に自由でなくてはならない。日本大好きで、日の丸・君が代へ敬礼を欠かさない人がいてもよい。しかし、虫酸が走るほど嫌いで、日の丸・君が代は見るのもイヤだという国民がいてもよいのだ。国民の資格は国家への好悪が条件ではない。国民が主人公の民主主義国家においては、国家には国民に対する無限の寛容が要求される。
かつて大日本帝国大好きな臣民がいた。ナチスドイツの愛国者もいた。今、北朝鮮にもISにも熱烈な愛国者がいるだろう。しかし、国民すべてがその国を大好きなはずはない。問題は、いろんな理由で自分の国を好きではないと思う人たちが、非国民との非難を受けることなく安心して生きていけるかにある。そのことについての寛容の有無が、民主主義国家であるか全体主義国家であるかの分水嶺である。そして、国旗国歌への態度についての国の干渉のあり方は、民主主義か全体主義かのリトマス試験紙である。
憲法とは、突きつめれば個人と国家との関係の規律である。我が日本国憲法は、安倍政権や下村教育行政や産経にはお気に召さないところだが、18世紀以来の近代憲法の伝統にのっとった個人主義・自由主義に立脚している。自由な個人が国家に先行して存在し、その尊厳を価値の根源とする。国家は価値的に個人に劣後するものでしかない。いや、むしろ個人の自由を制約する危険物として取扱注意の烙印を押されているのだ。
その個人に対して、国家の象徴である国旗・国歌に敬意を払うべしとする立論には、納得しうる厳格な法的根拠が不可欠なのだ。自発的意思で国旗国歌を尊重する態度の人格形成を教育の目標とすることは、本来我が憲法下では困難というべきだろう。第1次安倍内閣が強行した改正教基法の「国を愛する」との部分は、「国」の内実の理解や、「愛する」が強制の要素を含むとすれば、違憲の疑いが濃厚である。
参院予算委員会で、安倍首相は「改正教育基本法の方針にのっとり、正しく実施されるべきではないか」と答弁した。産経はこれを「当然である。改正教育基本法では国と郷土を愛し、他国を尊重する態度を育むことを重視している」というが、浅薄きわまりない。
憲法23条は、「学問の自由は、これを保障する」と定める。誰からの学問の自由侵害を想定してこのような規定を置いたか。いうまでもなく、仮想敵は国家である。戦前、国家による数々の学問の自由への侵害事件が重ねられた。その悪夢を繰り返してはならないとする主権者の決意がこの条文である。誰にこの自由は保障されているのか。まずは個人だが、その自由を担保するための制度的保障として大学の自治が認められている。その大学に、国旗国歌の押しつけとは、おぞましい限りというほかはない。
さらに、教育基本法には産経が引用する条文だけではなく、次のようなものもある。
第2条(教育の目標)教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一号 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二号 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
第7条(大学)
1項 大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。
2項 大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない。
「学問の自由を尊重」「幅広い教養」「真理を求める態度」「豊かな情操」「個人の価値を尊重」創造性を培い」「自主及び自律の精神」「学術の中心」「高い教養」「深く真理を探究」「新たな知見を創造」「大学の自主性、自律性」「大学における教育・研究の特性の尊重」等々のすべてが、権力作用と背馳する。国旗国歌を排斥する。少なくとも馴染まない。教育基本法の隻句を国旗国歌押しつけの根拠とすることはできない。
産経は、「文科相は『お願いであり、するかしないかは各大学の判断』とも述べている。大学の自主性にも配慮した要請を批判するのは疑問だ」ともいう。しかし、産経の論難にかかわらず、下村文科行政の要請が「大学の自治を損なうもの」であることは明らかだ。カネを握るものは強い。カネの配分の権限を握っているものには、迎合せざるを得ないのがこの世の現実。大旦那が大旦那であるのは、知性は欠如していてもカネが支配の力をもっているからだ。それでなくとも乏しい文教予算。その配分を削られるかも知れないという恫喝がセットになっているところに大きな問題がある。だから、教育行政は教育条件整備に徹すべきであって、恣意的な予算配分で教育を歪めてはならない。
また、産経はこうも言う。「大学人にあえて言うまでもないことだが、国旗と国歌はいずれの国でもその国の象徴として大切にされ、互いに尊重し合うことが常識だ。」
これもお粗末な意見だ。大学人なら、「国旗国歌は、いずれの国でもその国の象徴としてふさわしいものであるが故に大切にされる。建国の理念や国民の団結を示す歌や旗としてふさわしくない国旗国歌は捨て去られる」と一蹴するだろう。
第2次大戦の敗戦国であるドイツもイタリアも国旗を変えた。その旗を象徴とした過去ファシズム国家のあり方を反省し、国の理念を変えたからである。同じ枢軸国の一員として、侵略戦争や植民地支配を反省し清算したはずの日本が、「日の丸・君が代」をいまだに国旗国歌としていることに違和感をもつ国民は少なくない。日の丸・君が代は、大日本帝国の侵略戦争や植民地主義とも、主権者天皇への盲目的崇拝ともあまりに深く結びついた存在であったからである。
国旗国歌法は、国家において「日の丸・君が代」を国旗国歌として用いることを定めただけもので、国民に何らの義務を課するものではない。敬意表明を強制をするものでないことは、国旗国歌法の審議過程で確認されたが、法ができあがってから政府はこれを少しずつ国民に強制しつつある。このやり口は詐欺に等しい。
また、産経は「人生の節目の行事で国旗を掲揚し、国歌を斉唱することは自然であり、法的根拠を求めるまでもない」という。恐るべき法感覚、人権感覚、社会感覚といわざるを得ない。私の常識では、人生の節目で国家が出てくるなんぞトンデモナイ。ましてや権力や権威を恐れず真理を探究すべき大学でのこと。口を揃えて「君が代」を唱う大学生とは、主体性を喪失し、知性や批判精神の欠如したロボットに過ぎない。知性の府である大学に、日の丸・君が代は夾雑物でしかない。
産経社説は、最後をこう結んでいる。
「祝日に国旗を掲げる家庭も少なくなっている。普段から国旗と国歌を敬う教育を大切にしたい」
「祝日に国旗を掲げる家庭が少ない」ことはごく自然で望ましいこと。政権は、家庭に直接の国旗国歌の強制は難しいから、学校教育での強制に躍起になっているのだ。
教育に最も必要なものは、個人の主体性の確立である。主権者にふさわしく、自分の足でしっかりと立って、自分の頭でものを考え、自分の意見をきっぱりと発言のできる明日の主権者を育成することである。無批判に、日の丸を仰ぎ君が代を唱わせる教育からはこのような主体は育たない。教育現場の国旗国歌こそは、国家や社会に従順な、主体性と個性に欠けた国民教育の象徴と言うべきであろう。
私見と、政権や産経の立論の差異の根底にあるものは、個人と国家の価値的優劣の理解である。私は、純粋な個人主義者であり、自由主義者である。政権や産経の立場は、国家主義であり全体主義である。
私の考え方は、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言、そして日本国憲法、国連の諸規約に支えられた常識的なものだ。政権や産経の立場は、旧天皇制や現在も残存する全体主義諸国家を支える思想に親和的なもの。安倍政権や産経の社説に表れた、国家主義・全体主義の鼓吹には重々の警戒をしなければならない。
(2015年4月15日)