国旗国歌押しつけ問題社説に見るー日経と道新の見識、読売の不見識
「国立大学の卒業式に国旗国歌を」という安倍晋三の押しつけに、まず朝日と毎日が批判の社説を書いた。朝日「国旗国歌―大学への不当な介入だ」、毎日「国旗国歌の要請 大学の判断に任せては」というもの。両紙とも4月11日の朝刊に掲載。安倍発言は9日で、予定されたことではなかったようだから、両紙の迅速な対応には敬意を表したい。
対して、政権ベッタリの本領を発揮したのが、14日付の産経社説。「国旗国歌 背向ける方が恥ずかしい」というもの。「読むだに恥ずかしい社説」と、私が昨日のブログで叩いたものだ。実は、昨日日経も社説に取り上げていた。「自主・自律あっての大学だ」という標題。これが、実にリベラルな立場からの明確な政権批判の内容なのだ。おそらくは、経済合理性を重んじる財界主流の意向は、安倍の非合理な復古主義にはついていけないということなのだろう。ともかく、昨日の時点で、この問題についての中央各紙の社説の姿勢は3対1で、批判派が圧倒した。
ところが今日(16日)、読売がこの問題で社説を書いた。産経の後追いである。内容はお粗末極まる。日経並みの見識を示すチャンスを逃して、産経並みでしかないことを天下に示した。ともあれ、これで批判派とベッタリ派とは、3対2の色分けとなった。東京新聞はこの件を社説に取り上げていない。4対2となるよう期待したいところ。
ネットで地方紙を探してみたが、面倒で調べきれない。北海道新聞の社説だけが目にとまった。「国立大に日の丸 押しつけはやめるべき」という、なんともストレートなそのものズバリの標題。以下に、日経、読売、そして道新3紙の社説を要約してご紹介したい。
日経社説の論旨は、「自主・自律あっての大学だ」という標題のとおり。大学の自治の重要性を中心に、大学の国際化の問題にも触れて、大学を萎縮させてはならない、とするもの。
「大学はその運営も教育・研究の中身も自主性、自律性が尊重されるべき存在だ。世界中から人を受け入れる空間でもある。大学のグローバル化が急務となるなかで、国公立、私立にかかわらず画一的な統制はなじまない。」
「大学に対する政府の役割は、入学式をどう営むかといったお節介でなく、教育・研究の水準向上や多様性確保である。政府はこの問題で、これ以上の口出しは控えるべきだ。国立大学協会など大学サイドでも、きちんと対応を議論すべきではないだろうか。」
以上に見られる日経社説子の筆の運びは、「なんと愚かな」「非常識な」「馬鹿馬鹿しい」「どうしてそこまでやろうというのか」という、政権に対するあきれ果てたという気分にあふれている。
さらに、こう言っていることが注目される。
「下村文科相は、各大学への要請は『強制ではなく、お願い』だという。しかしまさに首相が『税金によって賄われている』と述べたように、国立大への交付金のさじ加減は文科省が握っている。そこからきた『お願い』は大学を萎縮させる効果が十分にあろう。」
きわめて常識的なそして明解な指摘ではないか。
本日の読売社説は「大学の国旗国歌 要請で自治が脅かされるのか」というもの。タイトルのとおりの内容である。面白くもおかしくもない。
「国旗・国歌が国民の間で広く定着している状況を考えれば、式典で掲揚や斉唱を促すのは妥当と言えよう。」というのが、基本スタンス。
一応、「憲法が保障している『学問の自由』と、それを支える『大学の自治』の原則は、尊重されなければならない。」とは言う。とは言うものの、一応のものとしての理解でしかない。かたちばかりの憲法原則の尊重は、その蹂躙を許容している。
要は、「『強制』ではない。『要請』に過ぎないのだから、問題はない」ということに尽きる。「強制力のない『お願い』によって簡単に揺らぐほど、大学の自治はもろいのだろうか。」とまで言っている。権力の側に立ち続けると、こういう感覚になるのかも知れない。日経の方がまことにまっとうではないか。
戦前、治安維持法や国防保安法、軍機保護法、新聞紙法、出版法などの思想弾圧法制が猛威を振るった当時、「思想統制はそんなにたいしたことはなかった。私は自分の書きたいことを書いた」という記者がいた。そりゃそうだ。権力に擦り寄っていれば書けるのだ。権力を批判する記事さえ書かなければ、「権力はたいしたことはない」のだ。読売は、長年そのようなスタンスだから、自分は安全なのだ。「『強制』ではない。『要請』に過ぎないのだから、問題はない」と言っていられるのだ。そう、権力ベッタリ派は、権力の恐ろしさに向かい合うことはない。権力を警戒せよと言っても、理解不能なのだ。
北海道新聞の社説「国立大に日の丸 押しつけはやめるべき」は格調が高い。まずは大学の国際化から説き起こしている。
「大学の役割はますます国際的に開かれたものになりつつある。…キャンパスで伝統的に培われてきた自治や自立、自主性を尊重することが大学の個性を生む。それが世界からの評価につながる。」
「大学をナショナリズム色の強い安倍カラーに染めあげては、国際化も世界に通じる人材の育成も危うい。押しつけはやめるべきだ。」
「国がカネを出しているのだから、国立大学は政府の考えに従うのが筋―。そう言いたいのだとしたら、あまりに了見が狭い。研究や学問はそもそも国という枠にとらわれるものではない。言うまでもないが、その目的は広く世界の科学や技術、社会の発展に寄与するところに置かれている。…「国家」ばかり強調すると、研究自体がゆがんでしまわないか。」
「下村文科相は『強要するものではない』と自主性を重んじる物言いだ。しかし、本当か。国が運営費交付金の重点配分を通じて大学を選別する方針を打ち出している。だからこそ、額面通りには受け取れないのだ。」
「教育の要諦は懐の深さにある。幅広い人材を生むには鷹揚さが欠かせない。なのに政府はいま、最高学府に対しても、たがをはめつつ、国内外の大学同士を徹底的に競わせようとしているようにみえる。競争至上主義の導入といい、今回の『国旗国歌』といい、大学が持ってきた自由闊達な空気を失わせないか。それを危惧する。」
読売や産経には疾うに失われた見識や知性というものが、地方紙の論説には脈々と生きていることに清々しい思いを禁じ得ない。
なお、読売が、「自国や他国の国旗・国歌に敬意を表すのは、国際社会における常識であり、当然のマナーだ。政府がそうした教育を求めるたびに、あたかも統制強化のごとくとらえる議論が起きるのは、世界でも日本だけだろう。」と言っている。
そうだろうか。国旗国歌を国家ないし権力の象徴として、国旗国歌に抵抗の意思を示す行動は世界に共通のものだ。愛国心の強制は国旗国歌の強制とともにあり、権力批判は国旗国歌への象徴的な抗議の行動となる。これも普遍的な現象だ。
アメリカの例を引きたい。国家への抗議の意味を込めて公然と国旗を焼却する行為を、象徴的表現として表現の自由に含まれるとするのが連邦最高裁の判例なのだ。
アメリカ合衆国は、さまざまな人種・民族の集合体である。強固なナショナリズムの作用なくして国民の統合は困難という事情がある。当然に、国旗や国歌についての国民の思い入れが強い。が、それだけに、国家に対する抵抗の思想の表現として、国旗(星条旗)を焼却する事件が絶えない。合衆国は1968年に国旗を「切断、毀棄、汚損、踏みにじる行為」を処罰対象とする国旗冒涜処罰法を制定した。だからといって、国旗焼却事件がなくなるはずはない。とりわけ、ベトナム戦争への反戦運動において国旗焼却が続発し、2州を除く各州において国旗焼却を禁止しこれを犯罪とする州法が制定された。その憲法適合性について、いくつかの連邦最高裁判決が国論を二分する論争を引きおこした。
著名な事件としてあげられるものは、ストリート事件(1969年)、ジョンソン事件(1989年)、そしてアイクマン事件(同年)である。いずれも被告人の名をとった刑事事件であって、どれもが無罪になっている。なお、いずれも国旗焼却が起訴事実であるが、ストリート事件はニューヨーク州法違反、ジョンソン事件はテキサス州法違反、そしてアイクマン事件だけが連邦法(「国旗保護法」)違反である。
68年成立の連邦の「国旗冒涜処罰」法は、89年に改正されて「国旗保護」法となって処罰範囲が拡げられた。アメリカ国旗を「毀損し、汚損し、冒涜し、焼却し、床や地面におき、踏みつける」行為までが構成要件に取り入れられた。しかし、アイクマンはこの立法を知りつつ、敢えて、国会議事堂前の階段で星条旗に火を付けた。そして、無罪の判決を得た。
アイクマン事件判決の一節である。
「国旗冒涜が多くの者をひどく不愉快にさせるものであることを、われわれは知っている。しかし、政府は、社会が不愉快だとかまたは賛同できないとか思うだけで、ある考えの表現を禁止することはできない」「国旗冒涜を処罰することは、国旗を尊重させている、および尊重に値するようにさせているまさにその自由それ自体を弱めることになる」(土屋英雄教授作成の東京君が代訴訟における「意見書」から)
なんと含蓄に富む言葉だろう。
安倍や産経、読売に聞かせてやりたい。
「大学に国旗を押しつけることは、国旗を尊重するに値するようにさせている、まさにそのわが国の自由を冒涜し、わが国の価値を貶めることになる」のだと。
(2015年4月16日)