東京・神戸・高知・信濃毎日各社説のまっとうさー大学の国旗国歌問題
本日もしつこく、安倍政権の大学に対する国旗国歌押しつけ問題を取り上げる。私は、この10年、教育の場への国旗国歌強制を不当とする訴訟に取り組んできた。この訴訟に携わった者の責務として、この問題では発言しなければならないと肚を決めている。しつこさには、目をつぶっていただきたい。
昨日のブログに、東京新聞の社説がこの問題に触れないことを嘆いた。明けて今日(4月17日)、期待に応えて同紙の社説が政権批判を論じた。これで中央紙の政権批判派が4紙となり、政権への無批判ベッタリ追随派が2紙となった。4対2の色分けは、まだ言論界が全体として健全な批判精神をもっていることを示している。
数だけではない。内容においても、政権批判派は政権ベッタリ派を圧倒している。主張の説得力も格調も段違いだ。社説を比較する限りでのことだが、なぜ、読売や産経のような新聞が淘汰されずに生き延びているのか、不思議でならない。もしかしたら、両紙の読者は、他紙を読んだことがないのかしら、などと思わせる。
東京の社説は、「大学と国旗国歌 自主自律の気概こそ」という、まことに正攻法。真っ向勝負の東京新聞らしい。
冒頭の一節が引き締まっている。
「国立大学の卒業式や入学式で日の丸掲揚、君が代斉唱を求める安倍政権の動きは、大学の自治を脅かす圧力になりかねない。統制を強めるほど、教育研究は色あせ、学問の発展は望めなくなる。」
その理由や根拠は次のように簡潔に述べられている。
「大学の自治は、憲法が定める学問の自由を守る砦である。教育研究はもちろん、人事や予算、施設管理といった学内の運営に対する外野からの干渉は許されない。だからこそ、九年前の教育基本法の改正では、大学の自主性、自律性の尊重を義務付ける条文が盛り込まれたのではなかったか。」
「大学は世界の平和と人類の福祉に貢献するという原点を忘れないでもらいたい。真理を探究し、新しい価値を創造する。日本の未来のためにも、自治の精神を貫く気概を持つべきだ。」
東京新聞は、露骨に大学の自治への介入を試みている政権を批判するとともに、大学に政権の強要に屈するな、と呼びかけている。私たちも、その両者に目を向ける必要がありそうだ。
昨日は、地方紙の旗手として道新の社説を取り上げたが、新たに神戸新聞、高知新聞、信濃毎日の各社説が目に留まった(そのほかに、東京の親会社である中日新聞は、東京新聞と同じ社説を掲げているがこれは除く)。それぞれに多様な特色があって実に面白い。
まずは、神戸新聞。「国旗国歌の要請/強要でないと言うのだが」というタイトル。飄々としたしたたかさを感じさせる文体。どちらかといえば硬派ではない軟派。直球派ではない軟投派だ。
社説の冒頭で「『お願い』と言いながら威圧的なのが気がかりだ。」という。言われて見ればそのとおり。確かに下村文科省の態度は、「威圧的」だ。到底、人に「お願い」しようという姿勢ではない。
決めつけずに、したたかに次のように言っている。
「国旗国歌法の成立時、当時の小渕恵三首相が『強制するものではない』と述べたことも想起したい。下村氏も『お願いであり、するかしないかは各大学の判断。強要ではない』」とは話している。しかし、単なる『お願い』と受け止めにくい状況がある。国立大の運営費交付金は削減傾向が続いており、大学側からは『教育や研究の質の低下を招きかねない』との悲鳴が上がっている。一方で改革に積極的な大学には交付金を重点配分することも検討されている。そんな中、首相の『税金によって賄われていることを鑑みれば』の発言だ。『要請』は受ける側にとって圧力のように響く。」
次いで、「【国旗国歌要請】大学の自主性に委ねよ」という高知新聞。こちらは硬派だ。直球のストレート勝負。要点を抜き出せば以下のとおり。
「政治が、大学の式典の中身にまで口を挟むのは問題があると言わざるを得ない。」
「政治権力などの干渉を受けず、全構成員の意思に基づいて教育研究や管理に当たる『大学の自治』は、憲法が保障する『学問の自由』に不可欠な制度とされている。2006年改正の教育基本法でも、それまでなかった大学の条文が設けられ、『自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」としている。
「国が『お願い』だと主張しても、いまの国立大学は『圧力』と受け止めかねない状況にある。」「兵糧攻めへの恐怖は大きい。」
そして、硬派の硬派たる所以が末尾の一節。
「下村文科相は会見で圧力を否定し、『強要ではない』と強調した。しかし、集団的自衛権行使容認をはじめ、安倍政権に見られる強引な政策展開からは不安は募る。注視し続ける必要がある。」
ごもっとも。よく言っていただいた。腹に据えかねるとして、吐き出された一文ではないか。
そして、信濃毎日新聞である。「大学に国旗国歌 『法にのっとる』のなら」という標題。これは他にない法的ロジックの社説。
「大学の自治を軽んじる動きが続いている。」
「戦前には、大学の研究内容に国家が介入した。例えば滝川事件では京都帝大教授が自由主義的との理由で文相に辞職に追い込まれた。学問の自由が妨げられた反省に立って大学自治の仕組みがつくられたことを忘れてはならない。」
「大学は深く真理を探究する場である。教育基本法もそううたう。続けて『大学については、自主性、自律性が尊重されなければならない』と定めている。法にのっとって、と言うなら、政権の介入こそ慎まなければならない。」
これまで、8紙の政権批判派社説と、2紙の政権ベッタリ派社説を見てきた。7紙が2紙を圧倒していると言ってよい。論点は出尽くした感がある。東京社説の言うとおり、政権を批判する世論を作るとともに、大学人を励ますことも実践の課題となる。
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ここからは、付録。
東京新聞社説の中に、次の一文がある。前後とのつながりは明瞭でない。
「2004年の園遊会での一幕があらためて思い出される。
東京都教育委員だった棋士の故米長邦雄氏が『日本中の学校で国旗を揚げ、国歌を斉唱させるのが、私の仕事です』と語ると、天皇陛下は『やはり強制になるということでないことが望ましいと思います』と返されたのだった。」
なぜ、唐突に天皇が持ち出されたのか。天皇がこう言ったからどうなんだ、とは書いていない。だから、論評は難しい。が、この「米長対天皇問答事件」は、私に印象が強い。米長と天皇の両者に問題ありとして、当時のブログに2度書いた。今、それを読み返してみると、私は少しも変わっていない。少しも進歩していない。十年一日のごとく同じことを繰り返しているのだ。但し、ペンの切れ味は落ちていると嘆かざるを得ない。
当時は日民協のホームページに連載していた「事務局長日記」、そのアーカイブ2件を再録して披露しておきたい。
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2004年10月29日(金)米長邦雄を糾弾する
以下は、朝日の報道。
「天皇陛下は28日の園遊会の席上、東京都教育委員を務める棋士の米長邦雄さん(61)から『日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます』と話しかけられた際、『やはり、強制になるということではないことが望ましい』と述べた。」
共同通信は、以下のとおり。
「東京・元赤坂の赤坂御苑で28日に開催された秋の園遊会で、天皇陛下が招待者との会話の中で、学校現場での日の丸掲揚と君が代斉唱について『強制になるということでないことが望ましいですね』と発言された。
棋士で東京都教育委員会委員の米長邦雄さん(61)が『日本中の学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます』と述べたことに対し、陛下が答えた。」
問題の第1は、米長が天皇の政治的利用をたくらんだこと。これは、現行憲法下の禁じ手である。天皇制は人畜無害を前提にかろうじて存続が許されているからだ。もともと、天皇は政治的利用の道具であった。そのことが天皇制批判の最大の根拠である。天皇の政治的利用をたくらんだ者の責任は徹底的に糾弾されなければならない。二歩を打った棋士米長はその瞬間に負けなのだ。天皇制存続派にとっても米長の行為は愚かで苦々しいものであろう。
問題の第2は、米長の意図とは違ったものにせよ、天皇が政治的な発言をしたことにある。国旗国歌問題について、天皇がものを言う資格など全くない。自ら望んだ会話ではないにせよ、出過ぎた発言である。天皇には口を慎むよう、厳重注意が必要だ。
問題の第3は、宮内庁の発言である。
羽毛田信吾次長は「国旗や国歌は自発的に掲げ、歌うのが望ましいありようという一般的な常識を述べたもの」と話した(共同通信)という。冗談ではない。少なくとも私は、そのような「一般的な常識」の存在を認めない。毎日に拠れば、羽毛田は、天皇の真意を確認しての会見という。「一般常識として歌うのが望ましい」との認識を天皇が有していたという発言自体が大きな問題だ。羽毛田見解が天皇の発言を「国民が自発的に国旗国歌を掲揚・斉唱するのが望ましい」との内容と釈明したとすれば、天皇の責任をさらに重大化するものである。
天皇は黙っておればよい。誰とも口を利かぬがよい。それが、人畜無害を貫く唯一のあり方なのだ。彼の場合、何を言っても「物言えばくちびる寒し秋の風」なのだから。
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2004年10月31日(日)米長君、君に教育委員は務まらない
米長邦雄君、君は教育委員にふさわしくない。潔く辞任したまえ。
君は、棋士として名をなしたそうだ。産経新聞社主催の棋聖戦では不思議と強くて「永世棋聖」を名乗っていると聞く。僕も将棋は好きだがまったくのヘボ。永世棋聖がどのくらいのものだか、君がどのくらい強いのか理解はできない。
しかし、これだけは僕にも分かる。君は盤外のことはよく分からないのだ。そして盤外では、自分の指し手に相手がどう対応するのか、まったく読めない。将棋ができることがエライわけではなく、将棋しかできないことが愚かでもない。問題は、盤外での君が、愚かを通り越してルール違反をしたこと。禁じ手を指したのだ。即負けなのだよ。教育委員が務まるわけがない。
本来、教育委員というのは、重い任務なのだよ。日本の将来の少なくとも一部に責任を持たねばならない。将棋を指すこととは、根本的に異なる。それなりの見識がなければならない。床屋談義のレベルで務まるものではないのだ。不見識を露呈した君は、その任務に堪え得ない。だから、一日も早く辞めたまえ。それが、若者の将来のためでもあり、君自身のためでもある。
君は園遊会で、天皇に次のように話しかけた。
「日本中の学校に国旗を上げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」
このことは、複数のマスコミ報道が一致している。ところが君のホームページを見ると、国旗国歌問題については何の会話もなかった如くだ。この姿勢はフェアではなかろう。君のやり方は姑息だ。ちっともさわやかではない。
君が天皇へ話しかけた言葉に不見識が露呈されている。君の頭の中がよくみえる。君は、子どもたちの無限の可能性を引き出す教育という崇高な営みについて何も考えてはいない。教育について何も分かってはいない。国旗・国歌問題だけが「私の仕事」と信じこんでいるのだ。しかも、天皇からさえ批判された「強制」が君のこれまでの仕事なのだ。
君は棋聖なのだから、自分が一手を指すまえに相手の二手目の応手を読むだろう。それなくしては一手を指せない。きみは、天皇に話しかけるに際して、相手の反応をどう読んだのか。いったい天皇のどんな返答を期待したのだろうか。願わくは「しっかりやってくださいね」という激励、少なくとも「そうですか。ご苦労様」という消極的同意を期待したものと判断せざるを得ない。でなくては、棋士米長にあるまじき無意味な発語。君がどんなに否定してもそのような状況でのそのような意味を持つ発言なのだ。
これは、天皇の政治的利用以外の何ものでもない。君も知ってのとおり、日本には最高規範として日本国憲法というものがある。憲法では天皇の存在は認められているが、厳格に政治的な権能は制約されている。そもそも、天皇の存在自体が憲法の本筋として定められている国民主権原理に矛盾しかねない。政治的にまったく無権限・無色ということでかろうじて憲法に位置を占めているのが、天皇という存在なのだ。だから、天皇の政治的利用は、誰の立場からもタブーなのだ。君は、そのタブーをおかしたのだよ。不見識を通り越して、ルール違反・禁じ手だという所以だ。
天皇が、君の問いかけに対して、こう答えたと報じられている。
「やはり強制になるということでないことが望ましいですね」
君と一心同体の産経だけが、、「望ましい」でなく、「好ましい」としているそうだが、どちらでも大差はない。
これは、天皇としてあるまじき政治的発言ではないか。誰が考えても、学校教育の現場での国旗国歌のあり方が政治的テーマでないはずがない。しかも今、強制の波は現実の課題として押し寄せ、大量処分と訴訟にまで発展している。政治的に大きく割れた意見のその一方の肩をもつ発言を天皇がしたのだ。由々しき事態である。この問題発言を引き出したのは、米長君、君だ。君自身が責任をとらねばならない。
もっとも、君もさぞかし驚いただろう。天皇は、君がやっている「日の丸・君が代」強制の事実を知っていたのだ。しかも、それに批判的な見解をもっていた。都教委が現場の教師に起立・斉唱を強制し、これを拒否した教員を大量処分した事実に関心を持ちよく新聞も読んでいたのだろう。即座に、強制反対を口にしたのは、予てからこの事態を苦々しく見ていたからに違いない。皮肉なことだが、君とその仲間がやっていたことは、天皇の「お気に召す」ことではなかったのだ。
この天皇の発言に対する、君の三手目の指し手が次のとおりだ。
「ああ、もう、もちろんそうです」「ほんとにもう、すばらしいお言葉をいただきましてありがとうございました」
これをどう理解すればよいのだろう。君は多分天皇崇拝主義者なのだろうね。だから、天皇に反論したりはせず、滑稽なほど迎合した発言になってしまったのだろう。それはともかく、君は、「強制でないことが望ましい」に対して、「もちろんそう。すばらしいお言葉ありがとう」と言ったのだよ。天皇の前でのこの言葉を、まさか、撤回ということはあるまいね。今後は「すばらしいお言葉」を無視して、「日の丸・君が代」の強制を続けることなどできはすまい。
実は、君の一手目がルール違反で敗着。指し継いでも、相手の二手目が絶妙手で君の負け。三手目は詰んだあとの無駄な指し手。
もう君には、教育委員の重責は務まらない。やることがあるとすれば、君の言のとおり強制を望ましくないとして、処分を撤回すること。それができないのなら、すぐに辞めたまえ。君の流儀は「さわやか流」というそうではないか。この際さわやかに潔く辞めることが、君の名誉をいささかなりとも救うせめてもの「形作り」なのだから。