澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

戦争における死を、「尊い犠牲」と美化してはならない。

(2020年8月15日)
8月15日。75年前の今日、「戦前」が終わって「戦後」が始まった。時代が劇的に変わった、その節目の日。天皇の時代から国民の時代に。国家の時代から個人の時代に。戦争と軍国主義の時代から平和と国際協調の時代に。そして、専制の時代から民主主義の時代に…。

その時代の変化は、「敗戦」によって購われた。「敗戦」とは、失われた310万の国民の生命であり、幾千万の人々の恐怖や餓えであり、その家族や友の悲嘆である。人類にとって、戦争ほど理不尽で無惨で堪えがたいものはない。敗戦の実体験をへて、国民は戦争の悲惨と愚かさを心に刻んで、平和を希求した。

再びの戦争の惨禍を繰り返してはならない。その国民の共通意識が、平和憲法に結実した。日本国憲法は、単に9条だけではなく、前文から103条までの全ての条文が不再戦の決意と理念にもとづいて構成されている。文字どおりの平和憲法なのだ。

以下のとおり、憲法前文は国際協調と平和主義に貫かれている。8月15日にこそ、あらためて読み直すべきある。

「日本国民は、…われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果…を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、この憲法を確定する。」(第1文)

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」(第2文)

「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」(第3文)

とはいえ、日本国憲法を理想の平和憲法というつもりはない。この前文には、日本の加害責任についての反省が語られていない。そして、この戦争の被害・加害を作り出した国家の構造と責任に対する弾劾への言及がない。

「戦争の惨禍」という言葉は、戦争による日本国民の被害を意味する。政府と国民が近隣諸国に及ぼした、遙かに巨大な被侵略国の被害を含むものと読み込むことはできない。日清戦争以来日本が関わった戦争の戦場は、常に「外地」であった。敗戦の直前まで、「本土」は戦場ではなかったのだ。日本本土の国民にとって、戦争とは、外征した日本の軍隊が、遠い外国で行うものだった。その遠い外国に侵略した皇軍に蹂躙された近隣諸国の民衆の悲嘆に対する認識と責任の意識が欠けている。

また、日本の植民地支配・侵略戦争をもたらし支えた日本の国家機構が天皇制であり、その最大の戦争責任が天皇裕仁にあることは自明というべきである。にもかかわらず、日本国憲法は、その責任追及に言及することなく、象徴天皇として天皇制を延命してさえいる。敗戦の前後を通じ、大日本帝国憲法と日本国憲法の両憲法にまたがって、裕仁は天皇でありつづけたのだ。

国民を戦争に動員するために、聖なる天皇とはまことに便利な道具であった。神なる天皇の戦争が万が一にも不正義であるはずはなく、敗北に至るはずもない。日本男児として、天皇の命じる招集を拒否するなど非国民の振る舞いはできない、上官の命令を陛下の命令と心得て死をも恐れず勇敢に闘う。ひとえに陛下のために。天皇制政府はこのように国民をマインドコントロールすることに成功していたのだ。

3代目の象徴天皇(徳仁)が、本日全国戦没者追悼式に臨んだ。主権者国民を起立させての発言の中に、「過去を顧み、深い反省の上に立って」との一節がある。「過去天皇制が自由や民主主義を弾圧したことに顧み、その罪科の深い反省の上に立って」との意であれば立派な発言なのだが…。

また、同式典では、アベ晋三がいつものとおり、こう式辞を述べた。

 今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、終戦から75年を迎えた今も、私たちは決して忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。

 この言い回しに、いつも引っかかる。「私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたもの」とはいったいどういうことなんだ。

天皇のための死も、国家のための死も、死はまことに嘆かわしく虚しいものだ。これを「尊い犠牲」などと美化してはならない。天皇と政府は、戦没者とその遺族にひたすら謝罪するしかないのだ。特攻の兵士の死が、レイテで餓死した将兵の死が、東京大空襲や沖縄地上戦での住民の死が、何故「尊い犠牲」であろうか。全ては強いられた無意味な死ではないか。その死を強いた者の責任をこそ追及しなければならない。

「昭和の日」に戦争と戦争責任を考える。

コロナ禍のさなか、世の人の憂いをよそに季節はめぐる。里桜も終わってツツジが咲き、蓮の浮き葉が水面を覆い始めた。少し歩くと汗ばむ陽気。天気も申し分ない本日、「昭和の日」だという。いったい、それは何だ。

1948年制定の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)は、その第1条で、「国民の祝日」の趣旨を述べる。

第1条 自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。

なかなか意味深長ではないか。日本国民は、「自由と平和を求めてやまない」というのだ。自由も平和も、富国強兵の戦前にはなかった。挙国一致・滅私奉公は、臣民の自由を抹殺した。天皇の神聖性を否定する思想も信仰も言論も結社も弾圧された。そして、戦前の日本は軍国であった。侵略戦争も植民地主義も国是であった。

天皇は国民皆兵の臣民に向かって、「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」などと、超上から目線でエラそうに言って、臣民には死ねと命じて、自らは生き延びた。こんな不条理に怒らずにはおられない。

「自由と平和を求めてやまない」という、この国民の祝日の趣旨は、明らかに戦前の不合理を否定した新憲法の価値を謳っている。

その祝日法は数次の改正を経て、現行法では「昭和の日」をこう定めている。

第2条 「国民の祝日」を次のように定める。
昭和の日 四月二十九日 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。

これも意味深である。「激動の日々」とは、あの戦争のこと以外に考えようがない。敢えて「戦争」と言わないのは、「戦争の日々」だけではなく、「戦争を準備し、戦争に突き進んだ戦前の日々」を含むとの含意であろう。日本国憲法の言葉を借りれば、「政府の行為によって戦争の惨禍を起した」反省の対象たる日々である。

昭和の日の定めの文言は、昭和という時代を「戦前」と「戦後」に二分して対比し、戦前を否定し戦後を肯定している。しかし、戦前を「激動」としか言わず、戦後を「復興を遂げた」としか言わない。国民主権も、民主主義も、人権尊重も、天皇制も、自由も、平和も出てこない。なんとも、いいかげんで不満の募るところではある。

何よりも、どうして昭和の日が4月29日なのか。それが語られていない。戦前と戦後を対比するにふさわしい日は、8月15日であろう。あるいは、ポツダム宣言受諾の8月14日。この日を境に、日本という国の拠って立つ基本原理が大転換したのだ。

昭和を戦争の時代と顧みるならば、8月6日の広島市民の被害の日、あるいは12月13日の南京市民に対する加害の日がふさわしかろう。

昭和を戦争開始の責任反省の観点から顧みるならば、9月18日か、7月7日か、あるいは12月8日となるだろう。

なぜ、4月29日なのか。なぜ、国民を不幸に突き落とした最高戦争責任者の誕生日なのか。なぜ、戦前天長節として臣民に祝意表明を強要された日が昭和の日なのか。

コロナ禍で、外出自粛を要請されている今日の「昭和の日」である。昭和という時代をよく考えてみたい。自ずから、戦争を考え、戦争の責任を考え、とりわけ天皇の戦争責任を考え、戦後国民が手にした貴重な自由や平和の価値を考えなければならない。
(2020年4月29日)

靖国神社での「南京大虐殺を忘れるな!」抗議に懲役10月の有罪判決。

昨日(10月10日)の午後、東京地裁で建造物侵入の罪に問われた香港人2人の被告に有罪判決が言い渡された。
被告の1人は郭紹傑(グオ・シウギ55才)、言い渡しの量刑は懲役8月・執行猶予3年(求刑1年)。もう一人は厳敏華(イン・マンワ27才)、懲役6月・執行猶予3年(求刑10月)。2人は即日控訴したという。

2人は何をしたのか。昨年(2018年)12月12日、南京大虐殺への抗議活動のために靖国神社(東京都千代田区)の敷地に入って、郭氏が横断幕を広げて抗議のパフォーマンスをし、厳氏がこれを撮影した。「サンデー毎日」記事に拠れば、「靖国神社の神門と第二鳥居の間の石畳で『南京大虐殺を忘れるな! 日本の虐殺の責任を追及する』と中国語で書かれた横断幕を広げ、東條英機元首相の位牌を模した紙を燃やし、もう一人はそれを撮影していた」という。南京大虐殺は、1937年12月13日皇軍の南京占領に始まる。12月12日の靖国での行動は、翌13日に「南京大虐殺を忘れるな!」という放映のためであったろう。彼らにとっては、その撮影場所は靖国神社でなければならなかった。

靖国神社の開門時刻は午前6時という。この撮影時刻は早朝7時のこと。混乱はまったく起きていない。実害のない行為だった。2人に気づいた守衛に制止されて、2人は撮影を止め境内から退去の寸前に、現行犯逮捕され、起訴された。以後10か月間,保釈申請と却下が繰り返され、長期勾留が続いた。支援団体は、この事態を「見せしめ勾留」と抗議し続けてきた。実に、300日間の長期勾留となった。

問題はいくつもある。まず、犯罪構成要件の解釈。本来厳格であるべき解釈が、こんな緩い解釈でよいのだろうか。

 刑法第130条(住居侵入等)「正当な理由がないのに、人の住居若しくは人の看守する邸宅、建造物若しくは艦船に侵入し、又は要求を受けたにもかかわらずこれらの場所から退去しなかった者は、3年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処する。」

 公訴事実は、「被告人両名は、共謀の上、正当な理由がないのに、…(靖国神社の)「外苑」と称される敷地内に、同神社神門前、参道入り口から侵入した」というもの。2人は、施錠を壊しあるいはドアを破って建造物に侵入したわけではない。だれもが平穏にはいることのできる「靖国神社の神門と第二鳥居の間の石畳」まで足を運んだことが、「建造物」に「侵入」したとされた。朝日は、「靖国神社境内は「建造物」 侵入し抗議の中国人2人有罪」と見出しを打った。「敷地」が「建造物」であり、だれもが平穏に入れるところに「侵入」とされたわけだ。

判決理由で野沢晃一裁判長は「抗議活動は宗教施設の平穏な環境を害する」と指摘し、「管理権者は参拝以外の目的による立ち入りを禁止しており、管理権を侵害している」と述べたという。はたして、本当にそうなのか、これでよいのだろうか。

この事件では、靖国神社になんの実害もない。2人の靖国神社境内立ち入りの意図が、靖国神社に何らかの実害をもたらすことにあったわけでもなく、表現の自由行使という側面は否定しえない。この微罪に対して、逮捕し、起訴し、さらに10か月に及ぶ勾留を敢えてしたのだ。まさしく「見せしめ弾圧」というにふさわしい。カルロス・ゴーンのケースよりも、はるかに深刻な「人質司法」弊害の典型例というべきだろう。

郭被告は、昨年(2018年)12月『長期勾留』に抗議して、約100時間絶食し、その結果同27日体調不良で検査のため病院に運ばれた」という。また、第1回公判の罪状認否では、「戦争責任を認めないことへの抗議行動で、表現の自由の範囲内だ」と主張したと報道されている。

この事件の被告2人の立場は極めて弱い。天皇代替わりで日本のナショナリズムが沸騰しているこの時期、政権と靖国と日本社会の圧倒的多数派世論を直接の敵にまわしているからだ。しかも、外交的に困難な事情として、中国は味方になってくれないということもある。しかし、最も弱い立場の人権こそが擁護されなければならない。ゴーンのように注目されないこの事件に、世論の関心を期待したい。

むしろこの機会に、2人が訴えたいとした香港の人びとの、靖国に象徴される日本の加害責任追及の声に耳を傾けたい。

以下、9月24日東京新聞朝刊「こちら特報部」「市民運動弾圧のにおい」から抜粋して引用する。

 まず、香港事情に詳しいジャーナリスト和仁廉夫氏の説明。
 米国と開戦した日本が最初に占領したのが、イギリス領だった香港だ。1941年12月25日から3年8ヵ月、軍政下に置いた。殺りくや略奪も多発したという。厳被告も、香港で暮らしていた祖母が日本兵にレイプされないよう、泥墨を顔に塗って男の子のように装い、難を逃れたという経験を聞いて育った。

 「72年に日中の国交は正常化した。その後、日本社会は加害の歴史に目を背けてきた。最近はその傾向か強まっている。謝罪も償いも受けられなかった人々に不満が高まっている」と和仁さんは語る。

 「靖国神社はアジアの人々にとって先の戦争の象徴だから、日本社会が戦争責任に向き合わない限り、同様の抗議は繰り返されるだろう」

 そして、これも「特報部」からの抜粋。

 立命館大学法科大学院の松宮孝明教授(刑法)は検察側の解釈に疑問を持つ。
  「建造物内部に侵入したのと同じ程度に建物内の平穏が乱されたのでなければ、建造物侵入罪を適用すべきではない」。そして「建造物侵入を唯一の罪として、検察官の裁量で適用が拡大されるなら、市民運動の弾圧にも使える」と問題点を指摘する。

 すでに弾圧のにおいがする事件も起きている。
 一つは「立川テント村事件」。東京・立川の自衛隊官舎の集合ポストに反戦ビラを投函した市民グループの3人が住居侵入罪に問われた。もう一つが「政党ビラ事件」。こちらは、葛飾区のマンションのドアポストに日本共産党の議会報告ビラなどを入れていた男性が同罪に問われた。いずれも2004年に起きた。

 松宮氏は「立川の事件では日中に平穏のうちに行われたビラまきが住居侵入だとして逮捕され、長期間、拘束された。住居でも建物でも、付随した土地での管理者の意に反する行動はすべて侵入罪に問われかねない。特に政治色を帯びた活動が狙われ、思想弾圧の道具にも使われるようになる」と批判する。

 さらに松宮氏は香港の2人の勾留が長期に及んだことに疑問の目を向ける。「建造物侵入しか罪状がなくても、ここまで取り締まれるという先例をつくるための裁判ではないか」「日本の市民社会を萎縮させる可能性を持つ、大変危険な裁判だ」。

昨日の判決は、この疑念を払拭することなく、むしろ疑念を確認するものとなってしまった。控訴審の帰趨にも、注目しなければならない。
(2019年10月11日)

《東電の天皇》の責任と、《本家の天皇》の責任と。

《東電の天皇》と異名をとって業界に君臨し、原発を推進してきたのが勝俣恒久元会長。福島第1原発事故の未曽有の規模の被害について、業務上過失致死傷罪で強制起訴されたが一審無罪の判決を得た(9月19日)。

 「被害者らが提起した民事訴訟では、東電の過失を認める判決が相次ぐ。一方、個人に刑罰を科す刑事裁判では、具体的な予見可能性や結果の回避可能性など、より厳格な立証が求められる。判決は、個人の過失を問う刑事裁判のハードルの高さを改めて印象づけたとも言える(河北新報社説)」ことはそのとおりだが、何とも納得しがたい。

「政府の事故調査委員会は、事故の背景について政府や東電に『複合的な問題点があった』と指摘した。国会事故調などは『人災』と判断した。今回の判決でそれがくつがえるわけではない(東京新聞社説)」こともそのとおりだが、何ともおさまりが悪い。

これだけの規模の大災害である。原発とは管理をあやまれば壊滅的被害あるべき危険物であるとは、誰もが知っていること。あの規模の津波の発生も、設備の浸水にともなう事故の発生も警告はされていた。そして、その結果回避も可能ではあった。しかし、判決は、さらに具体的なレベルでの予見可能性を要求しているようだがその判断に疑問なしとしない。

検察官役の指定代理人の下記コメントに賛同する。
「国の原子力行政をそんたくした判決だといわざるをえない。原子力発電所というもし事故が起きれば取り返しがつかない施設を管理・運営している会社の最高経営者層の義務とはこの程度でいいのか。原発には絶対的な安全性までは求められていないという今回の裁判所の判断はありえないと思う」

案の定、この判決はすこぶる評判が悪い。巷の声は、次のようなものだ。

 「ふざけるな」「不当判決だ」「市民常識とかけ離れている」「被災として怒りと失望を感じる」「ふるさとに帰りたいと思って亡くなった方がたくさんいることを考えれば、こんな判決は受け入れることができない」「裁判官の常識と一般市民の常識が違う」「裁判所は福島の被害者に真摯に向き合ったのか」「司法が死んでいることが証明された。世界中に恥ずかしい」「あれくらいの事故を起こして無罪ということはない」「それだけの責任ある立場の方々です」「それが知らなかったでは済まされないと思う」「とうてい理解できない判決だ。被災者の思いを東京電力も裁判所も受け止めてくれない結果」「誰も責任を取らないなんて納得いかねえよ」「事故を繰り返さないため、トップの責任をはっきりして欲しかった」「本当に残念でなりません」…。

「これだけのことをしでかして、トップが責任を取らなくていいのか」という声が日本中に渦巻いている。その市民感情は健全で、当然のことと思う。私が注目したのは、誰も責任を取らない日本社会の文化が続いてしまう」という、市民のコメント。当然に天皇(裕仁)の戦争責任を念頭に置いての一言。

《東電の天皇》ならぬ《本家本元の天皇(裕仁)》の戦争責任も、同様のトップの責任。「あれだけのことをしでかして、トップが責任を取らなくていいのか」という声が日本中に渦巻いてよいのに、そうはならなかった。これが不思議。戦後最大のミステリー。おそらく、天皇本人も戸惑っていたに違いない。次のような声が飛びかってもよかったのだ。

 「天皇無責とは到底考えられない」「戦争被災者として怒りと失望を感じる」「望郷の念にかられながら果たせず、外地で亡くなった方がたくさんいることを考えれば、天皇無責は受け入れることができない」「天皇は、国内外の戦没者に真摯に向き合ったのか」「天皇無責は、日本社会の秩序が崩壊していることの証明だ。世界中に恥ずかしい」「あれだけの戦禍を引き起こして無責ということはない」「それだけの責任ある立場の方です」「それが知らなかったでは済まされないと思う」「天皇の免責は、とうてい理解できない。戦没者の思いを受け止めてくれない結果」「天皇が責任を取らないなんて納得いかねえよ」「戦争の惨禍を繰り返させないために、天皇の責任をはっきりして欲しかった」「本当に残念でなりません」…。

原発の責任と戦争の責任。企業トップの責任と天皇の責任は、実によく似ている《東電の天皇》を免責したのは裁判所。《本家の天皇》を免責したのはマッカーサーだ。せめて、《東電の天皇》の責任については、健全な世論の追及が続けられることを期待したい。

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ところで、日課にしている早朝の散歩。この3か月、不忍池の蓮の華を愛でてきた。昨日最後の一華を見つけたが、今日はなくなっている。9月19日をもって、岸辺から目視の限りだが、今年の華との別れの日としよう。

実は、不忍池には、折々に薀蓄オジさんが出没する。桜の時期には「桜の薀蓄オジさん」、水鳥の時期には「水鳥の薀蓄オジさん」、そして当然のことながら「蓮華の薀蓄オジさん」も。

このオジさんによると、今年の蓮の開花は6月11日だった。昨年の最後の華は、9月17日だったという。このあたりを諳んじているのが、薀蓄オジさんたる所以。

今年の華の命は去年よりも2日長かったということになるが、華のない不忍池はまことに寂しい。サルスベリも、カンナも、キョウチクトウも終わった。季節は、確実に遷っている。政権も遷ればよいのだが。

(2019年9月20日)

「平和を願う文京戦争展」総括会議ご報告

日中友好協会・文京支部が、8月8日~10日の3日間、文京シビック内のアートサロン(展示室2)で開催した、「平和を願う文京戦争展―日本兵が撮った日中戦争」の総括会議が8月28日夕刻に開かれた。ノモンハンから帰日したばかりの私も参加した。

この企画、3日間で1500人の熱心な入場者を得てたいへんな盛況だった。開会時間は延べ24時間で、1時間当たり55人の入場者が途切れず続いた計算になるという。その盛況の原因の第一は、文京区教育委員会が後援を拒否したことが話題となったから。とりわけ、東京新聞がそのことを大きく記事に取りあげたことから知られるところとなった。この企画を「新聞」で知った方が36%にも達していた。アンケートにそのことに触れた人が多かったことが報告された。

だから良かったかというとそうではない。入場者のほぼ4割が70代以上の高齢者、10代・20代は極めて少ない。教育委員会後援があれば、学校の生徒に呼びかけることができるという。戦争の実態を若者に知ってもらうために、次回は粘り強く各教育委員に要請し説得する活動をしようという意見が交わされた。

任意のアンケート回答要請に、427人の方が回答してくれた。これは、たいへんな高率である。その中に、
☆毎年やってほしい
☆もっと若い人に見てもらえるように
☆全国色々な所で開催して欲しい
☆3日では短い、展示期間をもっと長く
☆もっと広い会場で
などの提案が書き込まれていた。

また、アンケートの中で、次の中学生の感想文が目を惹いた。
「なんでも武力で解決しようとした日本はもう少し他の解決策があったのではないかと思った。」
「日中戦争のことについては、あまりくわしく知りませんでしたが、罪のない人、子どもや老人が沢山殺されてしまったという事実を知り、このようなことは二度と起こしてはいけないと思いました。」
「罪のない人が大勢まきこまれる戦争がもう二度と起こらないようになってほしいと思う。村瀬が残してくれた写真で当時の状況が知ることが出来ました。」
「日本の戦争の仕方や武力で解決しようとする姿勢に納得がいかなかった。」

なお、韓国のテレビ局2社が取材に訪れたという。中国のメディアは来なかった。

意見交換の中で、印象に残ったのは、戦争を語る上での被害面と加害面のどちらを語るかの姿勢の問題についてである。

今回の「文京戦争展」は、文京区(当時は本郷区)出身の兵士が撮った中国戦線での写真展示と、文京の空襲被害の展示と語り部の2本立て。前者には、南京虐殺の現場写真や生々しい従軍慰安婦の写真もある。加害者としての皇軍が映し出されている。後者は、戦争被害による区民の辛苦。おそらく、後者だけなら、文京の教育委員会が後援を拒否することはなかっただろうという。

実は、文京区自身が戦争展をしたことがあるという。その内容は、空襲被害、原爆被害に限られた、徹底した戦争の被害実態についてのものだったとのこと。しかし、侵略戦争による近隣諸国への加害責任を語らずして、あの戦争を全面的に語ることはできない。

我々は、加害責任を避けることなく、戦勝・敗戦に関わりなくすべての国の民衆の戦争被害の悲惨さを、あるがままに訴えよう。官製戦争展が自国の被害だけの展示にこだわるのなら、我々は加害責任をこそ戦争を知らない世代に見てもらわねばならない。そのような合意がほぼできたように思う。
(2019年8月31日)

権力や権威を批判する「言論の自由」を死守しよう ― 74年目の敗戦記念日に

8月15日である。74年前のこの日に戦争が終わった。

日中戦争・太平洋戦争が手痛い敗北によって終わったというだけでなく、明治維新以来幾たびも繰り返された、飽くなき侵略戦争もこの日以後はない。あの日以来74年、曲がりなりにも、日本は平和を享受してきた。

戦争こそ、最大の人権侵害であり、最大の環境破壊である。そして、最大最悪の凶悪犯罪でもある。明治維新以来今日まで、およそ150年の前半は、我が国が戦争に明け暮れた歴史だった。野蛮な天皇制が支配する軍国主義国家として侵略戦争を繰り返してきたのだ。富国強兵のスローガンのもと、国民には滅私奉公が強いられた。故なく、近隣諸国民を憎悪し侮蔑する差別感情が煽動される国家でもあった。

74年前の8月、敗戦とともに国家の原理は転換した。ポツダム宣言第6項は、「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。」という。この「勢力」の頂点に天皇が位置することに争いの余地はない。8月14日ポツダム宣言受諾をもって、主権は天皇から国民に転換したものと考えられる。

74年前の敗戦の日は、日本の近代を分かつ日であった。戦争と平和と。天皇主権と国民主権と。国家主義と人権尊重と。戦争終結の記念日は、天皇支配終焉の記念日でもあり、国民主権・民主主義・人権尊重の国家が再出発した記念日とも重なる。

本日。戦争責任を自覚することも表明することもないままに亡くなった当時の天皇(裕仁)の孫が、天皇(徳仁)として全国戦没者追悼式で式辞を述べた。そのなかに前天皇(明仁)の式辞とほぼ同文の次の一節がある。

「ここに過去を顧み、深い反省の上に立って再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り、戦禍に倒れた人々に対し、全国民とともに、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」。

この文言が、内閣の助言と承認を経てのものであるかについて疑義なしとしないが、「深い反省」の言葉があることは、注目に値する。同じ場での首相・安倍晋三の式辞には、反省も責任の一言もないのだから、印象際だつものがある。憲法前文のフレーズを引用して、「今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことをせつに願い」と言っていることも、同様である。

ただし、天皇の「深い反省」は曖昧模糊としたものである。天皇は、「ここに過去を顧み、深い反省の上に立って再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」と述べたが、過去を顧み」とは、どのような過去の歴史をどのように顧みたのだろうか。戦争の惨禍をもたらした天皇の責任についての自覚はあるだろうか。過去の侵略戦争が、天皇が唱導した聖戦とされていた歴史的事実を十分に顧みているだろうか。「上官の命令は天皇の命令」として軍規を律した過去についてはどうか。天皇制否定の思想を死刑に値する犯罪とした治安維持法をもって平和運動を弾圧した過去などは、天皇の脳裏にあるだろうか。

「深い反省」とは、いったい何をどう反省しているのだろうか。まさか、負けるような戦争をしたことではあるまい。戦争をしたこと自体であろうし、戦争するような国を作ったことの反省でなくてはらない。「反省」には責任がともなうことは自覚されているだろうか。どのように責任をとるべきだと考えているのだろうか。

今、私たちは、再び戦前の過ちを繰り返してはならないことを自覚しなければならない。言論の自由を錆びつかせてはならない。好戦的な政府の姿勢や、歴史修正主義の批判に躊躇があってはならない。附和雷同して、国益追求などのスローガンに踊らされてはならない。近隣諸国への差別的言動を許してはならない。平和憲法「改正」必要の煽動に乗じられてはならない。

かつての臣民に戻ることを拒否しよう。主権者としての矜持をもって、権力を持つ者からも、権威あるとされる者からも、操られることを厳格に拒否しよう。

権力や権威を批判する「言論の自由」を死守しよう。そして、一切の差別につながる言論を拒否しよう。平和を擁護するために。次代に、平和な社会を手渡すために。
(2019年8月15日)

えっ? 「沖縄全戦没者追悼式」での平和の詩に「令和時代」?

昨日(6月23日)は、「沖縄・慰霊の日」。本土決戦の時間稼ぎのためとされる旧日本軍の組織的戦闘が終結した日である。これで戦争が終わったわけではない。多くの悲劇がこのあとに起こる。沖縄県民にとっは、新たな形の悲劇の始まりの日でもあった。

あれから74年。糸満市摩文仁の平和祈念公園で、恒例の「沖縄全戦没者追悼式」(主催は沖縄県)が挙行された。敵味方なく、軍民の隔てなく、すべての戦争犠牲者を追悼するという次元の高いコンセプト。未来の平和を指向するものでもあり、国民感情にピッタリでもあろう。この点、「皇軍の戦没者だけを、天皇への貢献故に神として祀る」という、偏狭な軍国神社靖国の思想と対極にある。

全戦没者名を刻する「平和の礎」には、新たに韓国籍2人を含む42人の名前が刻銘された。二重刻銘による削除者も1人いて、総刻銘数は24万1566人となったという。24万1566人の一人ひとりに、それぞれの悲劇があり、その家族や友人の悲劇があったのだ。

玉城デニー知事の「平和宣言」は、うちなーぐちと英語を交えてのスピーチ。辺野古新基地建設を強行する政府を強く批判し、「県民投票の結果を無視して工事を強行する政府の対応は民意を尊重せず、地方自治をもないがしろにするものだ」とまで言っている。

そして、今年も「平和の詩」の朗読があった。糸満市兼城小6年山内玲奈さんの「本当の幸せ」と題するもの。次いで、これまた恒例の安倍晋三の首相としての官僚作文の朗読である。

安倍晋三の参列と式辞は、明らかにこの式典のトーンと異なるもので、違和感に包まれていた。案の定、首相挨拶の途中、会場から野次というレベルではない怒声が飛んだ。
「安倍は帰れ!」
「安倍はやめろ!」
「(近年の沖縄の発展は)あんたがやったわけじゃないよ」
「(基地負担軽減は〕辺野古を止めてから言え」
「戦争屋!」

式辞の朗読が進むとともに、ヤジは大きくなり、安倍首相が「私が先頭に立って、沖縄の進行をしっかり前へ進めたいと思います」と述べた途端に、やめてくれー」と大声が上がり、会場がどよめいたという。チヤホヤされるのが大好きで、忖度文化の頂点に立つ居心地を満喫している彼には、不愉快な体験だったろう。

日本は民主主義国家だという。民主的な手続で選任された日本のトップが首相であって、今その地位に安倍晋三がいる。しかし、日本の首相とは不思議な存在だ。国民を代表する立場で重要な式典に臨んで、来るな」「帰れ」と猛然と野次られ罵られる。警察が式場を取り巻いて威圧し監視する中でのことだ。ウソとごまかしにまみれ、国政私物化の疑念を払拭できない人物が、長期政権を継続している。この「来るな」「帰れ」と野次られるトップを国民自身が選んでいることになっている。日本の民主主義が正常に作動していないのだ。

6月23日、8月6日、8月9日は、いずれも国民が記憶すべき日として、式典が行われる。晴れやかな日でも、勇ましい想い出の日でもない。民族や国家が、独立した日でも戦勝の日でもない。自ら起こした侵略戦争に破れて、多くの国民が犠牲になったことを改めて肝に銘記すべき日である。

安倍晋三個人としては、そんなところに出たくはない。しかし、いやいやながらも出席せざるを得ない。その席で、辺野古新基地建設強行を語ることもできず、悪役ぶりを披露し、じっと野次に耐えるしかない。「安倍は帰れ!」と野次られても、帰るわけにはいかないのは、あたかも安倍とその取り巻きが日本国憲法大嫌いでありながらもこれに従わざるを得ないごとくである。安倍は6・23、8・6、8・9の各式典に、「帰れ!」と野次られつつも、出席を続けなくてはならない。そう、「悔い改めて、方針を転換します。新基地建設強行は撤回しました」と報告できるその日まで。

さて、いつも話題の平和の詩の朗読。今年も素晴らしいものではあった。引用しておきたい。

本当の幸せ (沖縄県糸満市立兼城小学校6年 山内玲奈)

青くきれいな海
この海は
どんな景色を見たのだろうか
爆弾が何発も打ちこまれ
ほのおで包まれた町
そんな沖縄を見たのではないだろうか

緑あふれる大地
この大地は
どんな声を聞いたのだろうか
けたたましい爆音
泣き叫ぶ幼子
兵士の声や銃声が入り乱れた戦場
そんな沖縄を聞いたのだろうか

青く澄みわたる空
この空は
どんなことを思ったのだろうか
緑が消え町が消え希望の光を失った島
体が震え心も震えた
いくつもの尊い命が奪われたことを知り
そんな沖縄に涙したのだろうか

平成時代
私はこの世に生まれた
青くきれいな海
緑あふれる大地
青く澄みわたる空しか知らない私

海や大地や空が七十四年前
何を見て
何を聞き
何を思ったのか
知らない世代が増えている
体験したことはなくとも
戦争の悲さんさを
決して繰り返してはいけないことを
伝え継いでいくことは
今に生きる私たちの使命だ
二度と悲しい涙を流さないために
この島がこの国がこの世界が
幸せであるように

お金持ちになることや
有名になることが
幸せではない
家族と友達と笑い合える毎日こそが
本当の幸せだ
未来に夢を持つことこそが
最高の幸せだ
「命どぅ宝」
生きているから笑い合える
生きているから未来がある

令和時代
明日への希望を願う新しい時代が始まった
この幸せをいつまでも

 素晴らしい詩だとは思う。しかし、引っかかるところがある。平成時代」「令和時代」というフレーズである。沖縄の小学生が、こんなにもあたりまえのように、無抵抗に元号を使わされているのだ。

昨年(2018年)12月13日の毎日新聞に、沖縄と元号」という興味深い記事が掲載されていた。「代替わりへ」という連載の第1回。1960……昭和35年!4月1日!」 という表題。米占領下、センバツ出場 宣誓、西暦で言いかけ」という副見出しがついている。

 兵庫県の甲子園球場で1960年4月1日にあった第32回選抜高校野球大会の開会式。戦後初めてセンバツに沖縄勢として出た那覇高主将の牧志清順(まきしせいじゅん)さんは、選手宣誓で日付を西暦で言いかけ、すぐに元号で言い直した。当時、米国統治下の沖縄の住民の多くは西暦で年代を考えていた。

 本土復帰(72年)後の80年に膵臓(すいぞう)がんのため37歳で亡くなった牧志さん。大会直後の手記に、本田親男・大会会長(毎日新聞社会長)の「いまだ占領下にある沖縄から参加した諸君たちに絶大な拍手を送ろうではないか」とのあいさつを聞き、「感激の涙がとめどもなく流れた」と記していた。その日の毎日新聞夕刊は「七万の観衆の万雷の拍手。那覇ナインはひとしお深い感激にひたっているようだった」と描写している。

 牧志さんの妻愛子さん(70)は「このあいさつの後の宣誓でしょ。いろんな感情がこみ上げて、緊張と感動で素に戻っていつもの西暦がスッと出てきたんじゃないの?」と推測する。愛子さんが大切に保存するアルバムには牧志さんの自筆コメントが残る。出場校の整列写真には「チョット恐ろしかった」との感想も。数カ所ある開会式の日付は「1960……!!昭和35年」と記され、言い直しを意識していたようだ。

 当時、アルプススタンドで応援した同級生の伊藤須美子さん(76)は「友達と『そもそも、なんで昭和と言わなきゃいけないの』と話していた。言い直しを聞き、沖縄と本土は違うと実感した」と語る。法政大の上里隆史・沖縄文化研究所研究員(42)は「元号は、その土地が元号を定めた主体に支配されているという目印」と指摘する。西暦か元号か。米国か日本か。牧志さんの宣誓は、当時の沖縄の状況を浮き彫りにしていた。

なるほど、復帰前の沖縄にとっては、「西暦か元号か」は、「米国か日本か」であったろう。しかし、復帰を実現してから47年の今、事情は異なる。「西暦か元号か」は、象徴天皇制の本土体制を容認するか否かではないか。

「『戦争終わったよ』投降を呼び掛けた命の恩人は日本兵に殺された 沖縄・久米島での住民虐殺」という記事が、6月22日の琉球新報(デジタル)に掲載されている。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190622-00000006-ryu-oki

 沖縄戦で本島における日本軍の組織的戦闘の終了後、久米島に配備されていた日本軍にスパイ容疑で虐殺された仲村渠明勇さんに命を救われた少年がいた。現在、東京都練馬区で暮らす渡嘉敷一郎さん(80)だ。渡嘉敷さんは久米島に上陸した米軍に捕らわれるのを恐れて池に飛び込んで命を絶とうとしたところ、仲村渠さんの呼び掛けで思いとどまった。
  当時、島では日本軍の隊長からは「山に上がって来ない者は殺す」との命令が下されていた。上陸してきた米軍からは、日本兵が軍服を捨てて住民にまぎれこんでいることから「家に戻りなさい。戻らなければ殺す」と投降の呼び掛けが出ていたという。どちらを選択しても死を迫られるという苦しい状況に住民は置かれていた。
 渡嘉敷さんは「明勇さんは案内人として米軍に連れてこられていた。村人が隠れているところを回って、投降を説得するのが役割だった。明勇さんに命を助けられた。島の人にとっては恩人。それを、逃げるところを後ろから日本刀で切って殺されたと聞いた」と悔しそうな表情を浮かべた。

「一番怖かったのは日本兵だった」という述懐が、印象に残る。沖縄を本土防衛の捨て石とし、県民の4人に一人を殺した戦争を唱導したのが皇国日本だった。独立後も沖縄の占領を続けるようアメリカに提案したのが、天皇(裕仁)だった。そして今、本土復帰後も続く保守政治の中で、沖縄の人権も平和も蹂躙され続けている。その本土の保守政権は、象徴天皇制と積極的に結び付き、これを積極的に利用しようとしている。客観的に見て、天皇制は沖縄民衆の敵というべきであろう。しかも沖縄は、一度は元号離れの経験をしているのだ。

国民生活のレベルへの象徴天皇制の浸透が元号である。元号の使用は象徴天皇制の日常化と言ってよい。「平成の時代」「令和の時代」という言葉が、小学生の詩の中に出てきて、これが平和の式典に採用されるこの状況を深刻なものと受けとめなければならない。
(2019年6月24日)

東京「日の丸・君が代」強制拒否訴訟報告

どこの国にも国旗がある。日本には「日章旗」、韓国は「太極旗」、北朝鮮は「共和国旗」である。台湾は「青天白日旗」を国旗として、「五星紅旗」に対抗している。
国家は、その象徴として国旗を制定する。国家という抽象物は目に見えないが、国家を象徴する国旗は、国民の目の前で翻ってみせる。国民の目の前で翻る国旗は、国民のナショナリズムを刺激する。おなじ旗に集う者として国民を束ね、束ねた国民を国家に結びつけるよう作用する。
国家(より正確には国家を掌握している権力者)は、より強い国民の国家統合を求めて、国民に対して「国旗を尊重せよ」「国旗に敬意を表明せよ」と要求する。国家への忠誠を国旗に対する態度で示せということなのだ。場合によっては、国旗への敬意表明が国民の法的義務となる。わざわざ法的義務としなくても、国民多数派の社会的同調圧力が、全国民に国旗尊重を事実上強いることになる。
全国民が、無理なく受け入れられる国旗をどうデザインするかは難しい。東京朝鮮中高級学校のホームページを開くと、まず目に飛び込んでくるのは、「統一旗」である。在日の皆さんが求める国家的アイデンテティをよく表している。かつての枢軸3国の内、ドイツもイタリアも敗戦後の再出発にあたっては、国旗を変えた。国家が生まれ変わったのだから、国旗も国歌も変えるのが当然なのだ。しかし、日本だけが旧態依然である。あの神権天皇制の日本。侵略戦争と植民地支配に狂奔した軍国主義日本と、あまりにも深く一体化した旗と歌とが今なおそのまま国旗となり国歌となっている。
天皇代替わりの今、あらためて、敗戦と日本国憲法制定にもかかわらず、この国の変わり方が不徹底であったことを噛みしめざるを得ない。多くの国民が、天皇の戦争責任追及をしなかった。自らの侵略戦争や植民地支配への加害責任の自覚が足りない。旧体制を支えた天皇の権威への盲従に、反省がまことに不十分なのだ。そのことが、歴史修正主義者を跋扈させ、今日に至るも近隣諸国に対する戦後補償問題が未解決な根本原因となっている。
学校での「日の丸・君が代」強制も、主には歴史認識問題である。旧体制批判に自覚的な教員の多くが、「日の丸・君が代」強制に抵抗してきた。
「日の丸・君が代」は、あまりに深く旧体制と結びついた歴史をもつ。天皇主権・天皇の神格化・富国強兵・滅私奉公・軍国主義、そして侵略戦争と植民地支配である。「日の丸に向かって起立し、君が代を唱え」と強制することは、新憲法で否定されたはずの旧価値観を押し付けることではないか。一人ひとりの思想・良心の自由を蹂躙して、国家が良しとする秩序を優先することは受容しがたい。それが、圧倒的な教員の思いであった。
しかし、国は徐々に「日の丸・君が代」強制強化に布石を打っていった。文部省は1989年に「学習指導要領」を改訂し、従前は「指導することが望ましい」とされていた表記を、「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」とあらためた。さらに1999年8月には、国旗国歌法を制定して「日の丸・君が代」を国旗・国歌とした。
こうして、制度が整うと、強制の徹底を買って出る自治体が現れる。まずは、石原慎太郎都制下の東京都教育委員会が、2003年10月に、悪名高い「10・23通達」を発出した。以来、都内の公立学校では、式のたびに全教職員への起立斉唱の職務命令が発せられ、不起立の職員には懲戒処分が強行されることになった。今日まで、戒告・減給・停職の処分が延べ480名余に強行されてきた。これに関連するいくつもの訴訟が提起され、最高裁判決も積み重ねられている。
残念ながら、教員側は、最高裁で「いかなる処分も違憲」という判決を獲得し得ていない。しかし、最高裁は、戒告を超えて減給以上の実質的な不利益を伴う重い処分量定は苛酷に過ぎ、懲戒権の逸脱濫用にあたるとして、都教委の暴走に歯止めを掛けてきた。
今回、3月28日に最高裁は、都教委の上告受理申立を不受理として、現役教員の4回目・5回目の不起立に対する各減給処分(いずれも減給10分の1・1月)を違法とする原判決を容認した。不起立回数に関わりなく、君が代・不起立の処分は戒告にとどまることになった。
「日の丸・君が代」強制反対訴訟は、まだまだ続く。この訴訟と支援の運動は、児童・生徒のために自由闊達で自主的な教育を取り戻すための闘いとともにある。本来が、教育とは、国家の強制や政権の思惑からは独立した自由なものでなくてはならない。教育への公権力の介入を象徴するこの訴訟への関心と、ご支援を心からお願いしたい。

(日朝協会機関誌「日本と朝鮮」東京版・2019年6月号掲載)

(2019年5月29日)

 

「法と民主主義」4月号特集『日韓関係をめぐる諸問題を検証する』ご案内

日本民主法律家協会の機関誌・「法と民主主義」4月号【通算537号】は、来週中に発刊となる。特集の総合タイトルが、「日韓関係をめぐる諸問題を検証する」というもの。発刊に先だって、そのリードをご紹介する。

 時あたかも「3・1独立運動」から100周年といういま、日韓関係が過去最悪の事態と言われる。保守層の一部では、あろうことか、「日韓断交」の言葉さえ飛びかっているという。
 2018年10月30日、韓国大法院は新日鉄住金の上告を棄却して、元徴用工の賠償請求を認容した原判決を確定させた。この大法院判決は、韓国における三権分立が正常に作用していることを示すものである。しかし、それ以来の急激な日韓関係の軋みである。
 同年11月21日には、日韓「慰安婦」合意(2015年12月28日)によって設立された「和解・癒し財団」の解散が発表されて、同合意は事実上崩壊した。同月29日には、三菱重工に対しても、新日鉄住金と同内容の徴用工事件判決の言い渡しがあった。さらに、同年12月20日には、韓国海軍の広開土国王艦から自衛隊機に対する「レーダー照射」問題が生じ、これが外交問題となって日韓関係の悪化に拍車がかかった。
 その上、今年の2月7日には、韓国議会(一審制)の文喜相議長が、天皇に対する元慰安婦への謝罪要求発言があったとして物議を醸すに至っている。
 保守の朴槿恵大統領時代には、比較的「円満・良好」だった安倍政権との関係が、市民の「キャンドル革命」によって樹立された文在寅政権とは基本的に反りが合わないというべきか、軋轢が噴出している。
 その軋轢が、日本国民のナショナリズムの古層を刺激し、韓国に対する排外・差別感情を醸成している点で、看過しがたい。冷静に、問題を歴史の根本から見つめなければならない。
 問題の根源は、旧天皇制日本による朝鮮植民地化の歴史にある。そして、韓国の軍事独裁政権と日本の保守政権とで合意された、日韓の戦後処理の杜撰さにも大きな問題がある。また、現在進行しつつある、南北関係や米朝関係の大きな変化の反映という側面も見なければならない。
 現在の日本国内の事態は、政府に煽られた形で、メディアや世論が韓国批判の論調一色に染められていると言って過言でない。対韓世論悪化の元凶は、明らかに日本政府である。
 本特集は、法律家の任務として、かつて日本の植民地支配時代に侵害され蹂躙された朝鮮・韓国の人権回復の法理を再確認するとともに、これまでの日中・日韓の各戦後補償訴訟の到達点を踏まえて、政権のデマゴギーを許さない運動に役立てようとするものである。
 本特集の構成は以下のとおりである。

◆巻頭論文として、和田春樹氏の「日・韓・朝 関係の戦後史」(仮題)を掲載する。植民地支配を脱した韓国朝鮮が、東西対立の最前線として、朝鮮戦争を余儀なくされたところからの現代史を通覧して、軋んだ現状の原因となった日韓、日朝の戦後補償問題の経過と、米国を含む現状の国際関係までを把握するためである。
◆次に、植民支配の残滓を清算すべきでありながら不十分に終わった、「日韓の戦後処理の全体像と問題点」を、この点に精通している山本晴太弁護士の寄稿が明らかにする。
◆日韓の請求権問題は、中国の戦後補償訴訟との共通点をもつ。その訴訟実務を担当した森田大三弁護士が、「中国人強制連行・強制労働事件の解決事例」を踏まえて、韓国徴用工問題解決への展望を語っている。
◆また、「韓国徴用工裁判の経緯、判決の概要と今後の取り組みについて」は、専門実務家の立場から、川上詩朗弁護士が全体像を明確にしている。
梓澤和幸弁護士の「徴用工判決と金景錫事件」は、訴訟において和解による被害救済を実現した、貴重な実例の報告である。                 
大森典子弁護士「日韓合意の破綻──『慰安婦』問題と日韓関係」は、日本の朝鮮植民地支配時代の人権侵害を象徴する「慰安婦」問題における、2015年合意の脆弱な弱点を指摘するものである。
◆最後に、韓国側の事情を中心に、「文政権と南北宥和 ― その対日政策への影響」について、東京都市大学・李洪千准教授に解説をお願いした。

 以上のとおり、求めるところは人権尊重の原理が国境を越えた普遍性を有していることの再確認であり、日韓市民間の友誼と連帯を通じての北東アジアの平和の構築である。本特集が、その理解と運動に寄与することを強く願う。
                  (担当編集委員 弁護士 澤藤統一郎)

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「法と民主主義」は、毎月編集委員会を開き、全て会員の手で作っています。憲法、原発、司法、天皇制など、情勢に即応したテーマで、法理論と法律家運動の実践を結合した内容を発信し、法律家だけでなく、広くジャーナリストや市民の方々からもご好評をいただいています。定期購読も、1冊からのご購入も可能です(1冊1000円)。

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(2019年4月21日)

本日、東京大空襲の日。10万の犠牲者の無念に合掌。

3月10日。胸が痛む日。74年前の今日、東京大空襲で一夜のうちに10万人の命が失われた。その一人ひとりに、個人史があり、思い出があり、夢があり、親しい人愛する人がいた。自然災害による被災ではない。B-29の大編隊が、東京下町の人口密集遅滞に焼夷弾の雨を降らせてのことだ。東京は火の海となって焼失し、都市住民が焼き殺された。

広島・長崎に投下された原爆も、沖縄地上戦も、この世の地獄に喩えられる惨状であったが、日本各地での都市空襲被害も同様であった。その中の最大規模の被害が東京大空襲である。

1945年3月10日早暁、325機のB-29爆撃機が超低空を飛行して東京を襲った。各機が6トンのM69ナパーム焼夷弾を積んでいたという。米軍が計算したとおり、折からの春の強風が火を煽って、人と町とを焼きつくした。逃げれば助かった多くの人が、防空法と隣組制度で消火を強制されたために逃げ遅れて、命を失った。

この空襲被害は避けることができなかったものだろうか。1941年に始まった対米戦争の終戦が早ければ貴重な人命を失うことはなかったのだ。当時既に、情報を把握している当局者には、日本の敗戦は必至の事態であった。

前年(44年)7月9日にはサイパンが陥ちている。続いて、8月1日にはテニアン、8月10日にグアム。こうして、B-29爆撃機の攻撃圏内に日本本土のほぼ全域が入ることになった。これらの諸島を基地としたB-29の本土襲来があることは当然に予想されており、東条内閣はサイパン陥落の責任をとる形で7月18日に総辞職している。

東条内閣の成立は、太平洋戦争に突入の直前。その前に首相の座にあったのが近衞文麿である。この人が、45年2月14日、東京大空襲の1か月ほど以前に、天皇(裕仁)に面会して、近衛上奏文と言われる文書を提出している。「敗戦は必至だ。早急に戦争終結の手を打つ必要がある」という内容。

やや長文のうえ候文の文体が読みにくいが、要所を摘記してみる。

敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候。
敗戦は我が国体の瑕瑾(かきん-傷)たるべきも、英米の與論は今日までの所国体の変革(天皇制の廃絶のこと)とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来如何に変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体の護持の建前より最も憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座候。

つらつら思うに我が国内外の情勢は今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術即ち二段階革命戦術の採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存候。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座候。

戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持の立場よりすれば一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし、軍部内の彼の一味の存在なりと存候。彼等はすでに戦争遂行の自信を失い居るも、今までの面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。

此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存奉候。以上

「勝利の見込みなき戦争をこれ以上継続することは、全く共産党の手に乗るものと考えます。従って国体護持(天皇制維持)の立場よりすれば、一日も早く戦争終結の方法を実行するべきものと確信しています」というのが、近衛の情勢観。

開戦も終戦も、権限のすべてを握るものが天皇であった。「元首相」の立場では、精一杯のことだったろう。終戦のためには軍の実権を握る勢力(近衛は「此の一味」と言っている)を一掃しなければならず、それはなかなかに困難ではあったろうが、それができるのは天皇だけなのだ。

この日、天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」と言い、近衛は「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」と述べたとされている。

その後の経過において、天皇が言った「もう一度、戦果を挙げてから」のという機会は一度もなかった。すべては、近衛が「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか」と危惧したとおりとなった。

このあと1か月ほどで、3月10日を迎える。首都が壊滅状態となり、10万の人命が失われても本土決戦の絶望的作戦は変更にならない。4月1日には、本土への捨て石としての沖縄地上戦が始まり6月23日に惨憺たる結果で沖縄守備隊の抵抗はやむ。ここで日本側だけで19万人の死者が出ているが、まだ戦争は終わらない。全国の主要都市は、軒並み空襲を受け続ける。そして、ポツダム宣言の受諾が勧告されてなお、天皇は国体の護持にこだわり、広島・長崎の悲劇を迎え、ソ連の対日参戦という事態を迎えてようやく降伏に至る。

すべての戦争犠牲者が、天皇制の犠牲者ではあろうが、敗戦必至になってからの絶望的な戦闘での犠牲者の無念は計り知れない。とりわけ、空襲の犠牲者は、同胞から英霊と呼ばれることもなく、顕彰をされることもない。その被害が賠償されることも補償されることすらもない。

広島・長崎の原爆、沖縄の地上戦、そして東京大空襲‥。このような戦争の惨禍を繰り返してはならないという、国民の悲しみと怒りと、鎮魂の祈りと反省とが、平和国家日本を再生する原点となった。もちろん、近隣諸国への加害の責任の自覚もである。2度と戦争の被害者にも加害者にもなるまい。その思いが憲法9条と平和的生存権の思想に結実して今日に至っている。

3月10日、今日は10万の死者に代わって、平和の尊さを再確認し、平和憲法擁護の決意を新たにすべき日にしなければならない。
(2019年3月10日)

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