澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「けんぽうってすてきだね」

けんぽうってなにかな。
ぼくは、かんがえたよ。

いばるひとがいない。
えらい人もいない。
みんながのびのび、
そしてげんき。

たんぼはみどりで、
みなとには、フェリーがとまっていて、
たのしくはたらいて
おなかがいっぱい。
たすけあって、
こどももえがお。
おとなもえがお。

ねこもわらう。
やぎがのんびりあるいてる。
はんげしょうがあめにひかって、
うみには、かめやかじきがおよいでる。
やさしいこころがにじになる。

けんぽうっていいね。
けんぽうってうれしいね。
どこのくにともなかよし。
せんそうはしない。

せんそうは、おそろしい。
「ドドーン、ドカーン。」
ばくだんがおちてくるこわいおと。
おなかがすいて、くるしむこども。
かぞくがしんでしまってなくひとたち。

ああ、ぼくは、
このけんぽうがあって、
けっしてせんそうをしない、
このくににうまれてほんとうによかったよ。
このけんぽうが、ずっとつづいてほしい。
みんなのえがおがずっと、つづいてほしい。

けんぽうがかがやくぼくのまち、
けんぽうがかがやくこのくに。
けんぽうってすてきだね。
これからもずっと、
いまのけんぽうがつづくように。
ぼくも、ぼくのできることからがんばるよ。

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   『ハンゲショウ(半夏生)』
半夏生は72候の一つ、夏至から11日目。ちょうど今頃にあたる。

同じ名前をつけられた、ドクダミ科の植物がある。細いひものような蕾が茎のてっぺんのほうにつく。そうすると不思議なことに、その花茎の下から出る葉っぱの基部から半分くらいが真っ白に変わる。暗い梅雨のせいで、この時期に一段と目を引く。これが「半化粧(ハンゲショウ)」の名の由来であろう。「片白草(カタシログサ)」の別名もある。

細いひもの回りにこびりついた芥子粒のように、薄黄色に咲く花は目立たないけれど、大きな白い花弁のような葉っぱが受粉を助けてくれる昆虫を引きつける。ドクダミの仲間だけあって、繁殖力は旺盛で、ほかの植物を押しのけて、湿った日陰を占拠する。春先出てくる、親指ほどの太さの新芽は、おひたしにでもしたら美味しそうな感じがするが、独特の強い臭気にひるんでまだ食べたことはない。

花が咲く頃、葉っぱが白くなるのは「マタタビ」も同じ。夏に近くの山はだを見ていると、白い花が咲いているように見えるのが、白変したマタタビの葉っぱ。その場所を良く覚えておけば、晩秋に実を収穫できる。果実酒に作ったり、猫に喜ばれたりする。

ハンゲショウもマタタビも実が結ぶと、葉っぱはもとの緑色に戻って、魅力的な白さは影も形もなくなる。こんな変わり身の、人とか政党とか、思いあたりませんか? 気をつけましょうね。

東京都教育委員諸氏よ、恥を知りたまえ

またまた、都教委の暴挙。私は怒りが治まらない。

昨日(6月27日)の都教委定例会は、下記の議決を採択した。少し長いが、全文をお読みいただきたい。これが、「委員の総意の下の議決」と発表されている。傍聴者の報告では、司会者の木村孟委員長を除いて、誰の発言もないままの議決だったとのこと。

標題「平成26年度使用都立高等学校(都立中等教育学校の後期課程及び都立特別支援学校の高等部を含む。)用教科書についての見解」

本文「都教育委員会は、各学校において、最も有益かつ適切な教科書が使用されるようにしなければならない責任を有しており、教科書の採択に当たっては、採択権者である都教育委員会がその責任と権限において適正かつ公正に行う必要がある。
平成26年度使用高等学校用教科書のうち、実教出版株式会社の「高校日本史A(日A302)」及び「高校日本史B(日B304)」に、「国旗・国歌法をめぐっては、日の丸・君が代がアジアに対する侵略戦争ではたした役割とともに、思想・良心の自由、とりわけ内心の自由をどう保障するかが議論となった。政府は、この法律によって国民に国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし一部の自治体で公務員への強制の動きがある。」という記述がある。
平成24年1月16日の最高裁判決で、国歌斉唱時の起立斉唱等を教員に求めた校長の職務命令が合憲であると認められたことを踏まえ、都教育委員会は、平成24年1月24日の教育委員会臨時会において、都教育委員会の考え方を、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」(別添資料)にまとめ、委員総意の下、議決したところである。
上記教科書の記述のうち、「一部の自治体で公務員への強制の動きがある。」は、「入学式、卒業式等においては、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導することが、学習指導要領に示されており、このことを適正に実施することは、児童・生徒の模範となるべき教員の責務である。」とする都教育委員会の考え方と異なるものである。
都教育委員会は、今後とも、学習指導要領に基づき、各学校の入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱が適正に実施されるよう、万全を期していくこととしており、こうした中にあって、実教出版株式会社の教科書「高校日本史A(日A302)」及び「高校日本史B(日B304)」を都立高等学校(都立中等教育学校の後期課程及び都立特別支援学校の高等部を含む。以下「都立高等学校等」とする。)において使用することは適切ではないと考える。
都教育委員会は、この見解を都立高等学校等に十分周知していく。
都教育委員会は、委員総意の下、以上のことを確認した。
平成25年6月27日 東京都教育委員会」

要するに、実教出版教科書の「日の丸・君が代強制」に関する記述が気に食わないから、都立校では使用させないというのだ。なんという、「日の丸・君が代強制」問題へのこだわりようだろうか。なんという、思い上がった非民主的な権力体質。これでは日本国憲法下での教育を語る資格はない。国定教科書時代の教育への逆戻りではないか。「人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有する」という教育委員の要件が泣いている。

いうまでもなく、実教出版の教科書は検定を合格している。しかも教科書調査官の修正意見に応じてのこと。
「実教出版の日本史Aには11年度の検定で『政府は国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし現実はそうなっていない』との記述に文部科学省の意見がつき、後半を『公務員への強制の動き』などと書き換えて合格。文科省によると、日本史Aの全国シェアは約14%という。」(毎日)

もう一度、都教委が不適切とした記述をお読みいただこう。
「国旗・国歌法をめぐっては、日の丸・君が代がアジアに対する侵略戦争ではたした役割とともに、思想・良心の自由、とりわけ内心の自由をどう保障するかが議論となった。政府は、この法律によって国民に国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし一部の自治体で公務員への強制の動きがある。」
まずは、この記述の正確さを確認しよう。資料にあたるまでもなく、誰が読んでもその正確性は明白だ。国会の審議経過がこのとおりであることも、「一部の自治体」が東京都や大阪府を指していることも自明のこと。

ところが、「都教委幹部は、『公務員への強制』という表現は明らかに間違っており採用するわけにはいかない、と話している」というのが毎日の報道。いったい、この教科書のどこに間違いがあるというのか。どんな不正確があるというのか。言えるものなら、具体的に言ってみろ。さすがの文科省検定調査官さえ、これ以上は一字一句文句の付けようもないとして、検定合格とした記述だ。

都教委の10・23通達と、それに基づく各校長の起立・斉唱・伴奏の職務命令、そしてこれに従わないとしての苛酷な懲戒処分、これを『公務員への強制』と言わずして何というのだ。東京都だけで、懲戒処分件数は450件に達している。「強制は間違い」という都教委幹部の言は、嘘も甚だしい。恥を知れ。

もっとも、この教科書の記載が正確なことは、実は都教委もよく知っている。正確な記述であればこそ、骨身に沁みて痛い。痛いからこそ、教科書として使われることを拒絶したのだ。

先に見たとおり、都教委の決議は教科書を排斥する理由を「都教育委員会の考え方と異なるものである。」と明言している。つまりは、都教委には、特定の考え方がある。この考えとは異なる教科書の使用は不適切である。たとえ検定に合格した教科書でも都教委の考え方と異なるものは認めない、というのである。これでは、子どもたちの真実を知る道を閉ざすことになる。

公権力が特定のイデオロギーをもってはならない。特定の考え方を押しつけてはならない。だから、国定教科書がなくなった。にもかかわらず、都教育委員会の考え方と異なるものであることを理由に特定の教科書排除を広言していることに驚かざるを得ない。これを国定教科書時代への逆戻りというのだ。こんな代物が「委員の総意の下の議決」とされている。民主々義のイロハも弁えぬ教育委員諸氏よ、恥を知れ。

なお、前掲議決中に引用されている「平成24年1月24日の教育委員会臨時会議決」とは、同月16日の最高裁判決に動転した都教委が急遽臨時会を開いて校長らの動揺を鎮めようとしたもの。
「国歌斉唱時の起立斉唱等を教員に求めた校長の職務命令が合憲であることは、平成24年1月16日の最高裁判決でも改めて認められたところである。都教育委員会は、この最高裁判決の趣旨を踏まえつつ、一人一人の教員が、教育における国旗掲揚及び国歌斉唱の意義と教育者としての責務を認識し、学習指導要領に基づき、各学校の入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱が適正に実施されるよう、万全を期していく」という内容。

この1・16最高裁判決は二面性を持っている。その一面は、10・23通達とこれに基づく起立・斉唱等の職務命令を違憲とまでは判断しなかった。この点は、教員側に不満の残るところである。しかし、同判決は都教委を厳しく指弾するもう一面を有している。すなわち、「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する行為や君が代の伴奏をする行為」が、客観的に国家に対して敬意を表明する行為であることを認め、その行為の強制が命じられた教員の思想・良心を侵害する側面をもつことを明瞭に認めた。そのうえで、懲戒処分のうちもっとも軽い戒告は、実害のないものとして処分有効であるが、減給・停職など実害を伴うものについては、これを処分違法として取り消したのである。

以前にもこのブログに書いたが、懲戒処分は、軽い方から戒告・減給・停職そして極刑としての免職まで4段階ある。1・16判決以前には、都教委は処分量定を累積加重の取扱いとしていた。初回の不起立で直ちに戒告、2回目は減給(10分の1)1か月、3回目は減給6か月、4回目となると停職1か月、5回目停職3か月、6回目停職6か月。そして、おそらく7回目は免職を予定していた。
われわれは、都教委が発明したこの累積加重の処分方式を、「思想転向強要システム」と名付けた。信仰者には「背教強要システム」でもある。不起立・不斉唱は思想・良心に基づく行為である以上、思想や良心を都教委の望む方向に変えない限り、処分は際限なく重くなり最後には教壇から追われることになるのだ。

行政に大甘の最高裁も、さすがにこれはひどいと思ってくれた。1・16最高裁判決は、都教委の「思想転向強要システム」「背教強要システム」を断罪した点で、都教委には痛恨の判決であったのだ。しかも、補足意見に見るべきものがある。都教委をたしなめ、強制を排して現場を正常化せよとの裁判官の肉声が聞こえる。

このような自らに不都合な判決内容はことさらに無視して、あたかも都教委の暴走を最高裁が容認したかのごとく描き出す、その破廉恥な態度も不愉快極まる。もう一度、申し上げよう。東京都教育委員の諸氏よ、恥を知りたまえ。
(2013年6月28日)

連邦最高裁の「同性婚禁止は違憲」判決に思う

アメリカには1996年成立の「婚姻防衛法」(Defense of Marriage Act)という連邦法がある。同性婚を認めがたいとする保守派の運動で成立した法律。

「連邦政府は、婚姻を専らひとりの男性とひとりの女性の間に結ばれた法的結合と定義する。」という内容。仮に、ある州が同性婚を認めたとしても、婚姻防衛法によって連邦レベルでは婚姻の効果を認められない。他の州も、「同性間の関係を婚姻として扱う必要はない」という。そのため、「州法に基づいて適法に結婚した同性カップルも、国の様々な法律では婚姻関係にあると認められず、配偶者としてビザの発給や税金の控除などを受けることができなかった。」(朝日)という。

昨26日、米連邦最高裁は、この「婚姻防衛法」を違憲とする判決を言い渡した。9人の裁判官の意見の分布は5対4。違憲判決により、米の各州法で認められた同性婚は異性間の婚姻と同じ扱いになる。

この判決のニュースに接して、いくつかのことを考えさせられる。
まずは、文明諸国での同性婚合法化の趨勢への感慨である。ヨーロッパに比較して、やや遅れたとの印象のあるアメリカだが、既に12州とワシントン首都区で、同性婚が認められている、という。今回の判決はこれに弾みを付けることになろう。

この判決は同性愛者から歓呼をもって歓迎されたと報じられているが、歓迎すべきは、同性愛者に限らない。マイノリティの権利擁護に関心を持つ全ての人にとっての朗報である。問題の本質は、価値多元主義にある。すべての人が、他の人の生き方の多様性を相互に認めあうことこそが尊重すべき根源的価値なのだ。そのことは、必然的に少数者の生き方に寛容であることと同義となる。世の圧倒的多数は、異性との結婚を望み異性間で婚姻して、子を生み育てることを幸福とする価値観をもっている。しかし、少数とはいえ、同性をパートナーとして共に人生を過ごそうとする人が存在するならば、そのような人の価値観を尊重して、そのような生き方を容認する制度を整えるのが成熟した社会のあり方なのだ。少数者が生き易い寛容な社会は、すべての人にとって生き易い社会なのだから。アメリカは、そのような原理を持つ社会であることを、今回の判決で宣言したといえよう。

二つめは、米連邦最高裁の積極主義である。
司法の役割について、消極主義を良しとする考え方もある。裁判官は民意を反映してその職にある者ではない。選挙の洗礼を受けて成立した議会や、大統領府あるいは内閣こそが、尊重すべき民意にもとづいて成立した機関である。民主々義の原則からは、司法は議会や行政府の判断を可能な限り尊重すべきで、軽々に違憲判断をすべきではないというのである。

その視点から見れば、今回の婚姻防衛法違憲判決は「わずか5人の判事が、下院435人、上院100人の決議を覆した」、「しかも、上下両院の議員は2億を超える有権者によって信任を受けた選良ではないか」と批判されよう。

しかし、議会や行政府は、時の多数派によって形成される。民主々義制度においては、多数派が権力となる。その立法や行政行為は、往々にして多数派の非寛容がもたらす少数者への抑圧となりかねない。権力による人権侵害が、民主々義の名において行われる。選挙による多数派形成の傲りこそが、もっとも危険な人権侵害を招くものと自戒されなければならない。

したがって、司法消極主義とは違憲審査権の行使に臆病なだけのことで、実は司法の職責の放棄であり、少数者の人権が侵害されていることの見殺しでしかない。米連邦最高裁は果敢に、よくぞその職責を果たしたというべきなのだ。

そして、三つめ。さて、この判決、日本でも通用するだろうか。連邦制の問題や日本の最高裁の司法消極主義の問題は措くとして、日本国憲法は同性婚を認めるだろうか。

判決書(訳文)を読んでいるわけではないので、報じられている限りだが、「婚姻防衛法」違憲の根拠は、連邦憲法修正14条の平等条項だという。かつて公民権運動を支えた法の下の平等である。同性婚を異性間婚姻と平等に遇しないことを憲法上の平等原則に反すると断定したのだ。人の異性間の愛情を婚姻という制度として認めるのであれば、同性間の愛情も平等に認めるべきが憲法の要請ということなのだ。

それなら、日本国憲法でも同様の結論を出せるのではないか。異性婚のみを認め、同性婚を認めないことを、14条の平等原則条項における「性別による不合理な差別」としてよいのではないか。同性愛者差別にもとづく制度を違憲とする立ち場である。憲法13条の自己決定権も有力な根拠となりえよう。

問題は、憲法24条が「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し」としていることとの整合性である。最も信頼に足りる、最近の教科書をひもといてみると、次のような記載がある。

「家族を形成する権利
憲法24条の規定は従来,旧来の家制度の解体と男女の家庭生活における平等に関する側面が注目されていた。しかし,家族のあり方が急激に多様化しつつある現在において,改めてこの規定を家族を形成する権利の一般法的規定と読み直す必要がある。例えば,生殖(reproduction)の自由は,自分の子孫をどのように考え,家族をどのように形成するかの問題と捉えることができる。この自由は,従来13条で規定された幸福追求権の一端を構成する自己決定権の一内容として考えられてきた。しかし,むしろ家族を形成する権利として24条の中の『家族に関するその他の事項』の問題として考えるべきである。」(「憲法(第2版)」渋谷秀樹・2013年3月30日発行)

なるほど、憲法24条は「急激に多様化しつつある家族について、自己の価値観に基づく形態の家族を形成する権利」の根拠条文と読め、という示唆である。これなら、改憲を待つことなく、同性婚を異性婚と同等に認める制度設計が可能といえよう。

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 「擬宝珠(ギボウシ)」と「ホスタ」
同じ植物の呼び名である。地下茎で殖える多年生植物。東アジアに自生。長い葉柄をもった根生葉(長い柄のおしゃもじを立てたように地際からでる葉)がでる。地味な植物だけれども、植物好きには人気がある。梅雨の時期に長い花茎を立てて、その回りに下向きの花(総状花序)をたくさんつける。ふっくりとした花は筒状で、先が6裂している。白や薄青や濃い紫の花は短命で、一日花。けれども下から上にだんだんに咲き上がっていくので、長い間楽しめる。タマノカンザシの白い花は上品な芳香までもっている。
この植物の魅力は花というより、長い茎の上についたハート型の葉っぱだ。径3センチメートルの小さなものから30センチメートルの大きなものまである。明るい黄色から緑、青、いぶし銀と色とりどりだ。そこに白や黄色で、覆輪、縞、斑入りなどの紋様が入るものもある。雑種ができやすいので、ありとあらゆる変種が作出されている。
春の芽出しが美しく、とんがった芽がだんだんにほぐれて、巻いた葉が開いていくのは神秘的だ。オオバギボウシの若葉は「ウルイ」と名付けられて、山菜として流通する。おひたし、和え物、煮物、てんぷら、くせがなくてとてもおいしい。春からのプレゼントだ。

「擬宝珠」とよべば、江戸時代のご隠居さんが、鉢植え、苔造りなどに作って、棚に飾って楽しんだイメージが浮かぶ。
「ホスタ」とよべば、欧米の広い庭の木陰に植えられたたっぷりとした大型株が浮かんでくる。ホスタはシェードガーデンのカラーリーフとして最適だ、などと言ってみたくなる。
同じものでも、呼び名を変えると違うもののように思える。

『クチナシとガーデニア』
「クチナシ」は花が一重のプロペラのように小さく控えめで、「和」のテイストだ。おちょぼ口のようなオレンジ色の実ができたら、お正月の栗きんとんの色づけに使おうと思う。
「ガーデニア」と呼べば、西洋の歌姫の髪飾りか、たっぷりした胸元の花飾りにしたい。むせるような香りは、深い甘い夢の中をさまようようだ。

『アジサイとハイドランジア』
「アジサイ」ならシトシトと降る雨に濡れて、小暗い木陰にひっそりと咲く青い花だ。
「ハイドランジア」は豪華で色鮮やかにパーティを飾る大型の花。どんなに着飾ったご婦人方にも見劣りはしない。

『ツツジとアザレア』
「ツツジ」は小さいけれどきりりと咲く。これがなくては築山の庭とはいえない。
「アザレア」はフリルいっぱいの衣装を着けた踊り子のようだ。冬の暖かくした室内でしか元気が出ない。

『椿とカメリア』
「椿」は絣の着物を裾短に着た田舎娘だ。赤い5弁の花は陰日向なく、わき出るように次々咲いて、うるさいおしゃべりに余念がない。
「カメリア」は隙間なく全身飾り立てた西洋の貴婦人だ。数え切れない大きくて重い花びらは果てしない倦怠の渦。
(2013年6月27日)

東京都の教育委員諸君、君たちはいつまで「裸のピエロ」に甘んじるのか

昨日(6月25日)の東京新聞トップ記事が、「都教委事務局、市民の声選別」「請願6割報告せず」「教育委員会に 君が代斉唱など」というもの。社会面に関連記事があって、「教育委員は裸の王様」と大きな見出が躍っている。

要するに、都の教育委員に耳を傾けていもらいたいという都民からの請願を、請願の内容によって事務局が選別しているというのだ。事務局にとって都合のよいものは教育委員に伝える。しかし、事務局が不都合と判断したものはシャットアウト。日の丸・君が代強制が教育現場をいかに萎縮させ混乱させているかを訴え、その是正を求める、「10・23通達」関連の請願などは全てシャットアウト。「憲法で保障された請願権を、公務員が侵害している」という都民の声を肯定的に伝えている。

東京新聞の解説は、教育委員会について、「事務局の追認機関になっているとの批判があり、国の教育再生実行会議は見直しを提言している。しかし肝心の委員に都民の声が十分届かない実態に『それが形骸化を生む』との声も出る。」と正論を述べている。

私も、都教委には何度も足を運んだ。卒業式・入学式を目前にした時期には、日の丸・君が代強制をせぬよう事前の申し入れをし、関連事件での主要な判決が言い渡される度に判決内容を説明して都教委の暴走を抑制するよう要請を続けてきた。その申し入れのすべてが、事務局で握りつぶされ、教育委員に届くことはなかったのだ。

古今を通じて、情報を握ることが権力を操ることである。東京新聞の報道は、教育委員は、事務局の情報操作によって「裸の王様」になっている、という。「王様」はおこがましかろう。今のままでは、「裸のピエロ」程度であろうか。

裸のピエロ諸君、新聞くらいは読んでいいるだろう。自分の職務に関連したトップ記事が目にとまらぬはずはあるまい。君たちは、この記事を目にして、いったいどうするのだ。君たちにプライドはあるか。君たちは怒らないのか。いつまでも「裸のピエロ」、せいぜいが「裸の王様」と呼ばれることに甘んじるつもりなのか。記者会見をひらいて、事務局に操られていた怒りを明らかにするくらいのことはしてはどうか。共同で、操られ拒否宣言を公にすることはいかがか。日の丸・君が代強制問題について請願を握りつぶされてきた私たちと直接に話し合う機会を設ける気持はないのか。

少し、経過を説明しよう。
1999年4月、「日の丸・君が代」大好きな石原慎太郎というトンデモ男が東京都の知事になった。自分の部屋を満艦飾に日の丸で飾り、毎日大好きな君が代を一人で歌うだけなら罪がない。彼は、それだけでは満足せず、せっかくつかんだ知事の権力を振るって東京中の子どもたちに「日の丸・君が代」大好き趣味を押し付けようと考えた。さらに、東京から始めて日本中の子どもたちに日の丸・君が代を刷り込もうと考えた。そのためには、東京中の学校の先生に職務命令書を交付して、懲戒処分で脅して「日の丸に向かって起立し、国歌を斉唱する」ことを強制しよう、と思いついた。

彼がこのアイデアを思いついても、すぐには日の丸・君が代強制を実行することはできなかった。それは、教育委員会制度が邪魔をしたから。教育行政の権限は、知事から独立した教育委員会にある。民主的手続によって選任された知事や市長が、真に民主的であるとは限らない。石原慎太郎や橋下徹が好例である。トンデモ知事の思いつきから教育を擁護するために、クッションとしての教育委員会があるのだ。東京新聞の解説が、「戦前の軍国教育の反省から、今の教育委員会制度は、外部の教育委員が、中立的な立場から事務局を指揮監督する仕組みとなっている。」というとおりである。

日の丸・君が代強制の実行には、教育委員人事を握らなければならない。そこで彼は、自分と趣味を同じくする、気心の知れた極右の人物を東京都の教育委員に選任した。本来教育委員とは、「人格が高潔で、教育、学術及び文化(以下単に「教育」という。)に関し識見を有するもの」のうちから「地方公共団体の長が、議会の同意を得て、任命する。」(地教行法4条)ことになっている。

しかし、人格高潔や教育への識見などはどうでもよい。日の丸・君が代強制に蛮勇をふるう気心知れた人物を委員としたい。まず、一橋大学商学部の同期生で、日の丸・君が代の強制に従わない教員を癌細胞に例えて有名になった鳥海厳である。また、日の丸・君が代強制のために天皇を利用しようとして、天皇からたしなめられたことで有名になった棋士・米長邦雄である。さらに、教育にも憲法にも無知ながら蛮勇だけを見込まれて抜擢された教育長の横山洋吉である。

こんな取り巻きで教育委員会を固めて、2003年10月23日の「10・23通達」以来、石原教育行政の暴走が続き、教育現場は萎縮し混乱が続いている。あの、行政に大甘の最高裁でさえも、判決において都教委の暴走を掣肘し戒めている。

10・23通達から間もなく10年、知事も代わった。都教委のメンバーも代わった。いつまでも、トンデモ男のアナクロニズムを墨守することが能ではあるまい。教育委員諸君、まずは、操り人形であることを拒否せよ。情報の全てを要求したまえ。少なくとも、請願や要請の類には目を通すようにしていただきたい。そして、自分の頭でよく考えてものごとを判断していただきたい。

以前にも私のブログに書いたが、できれば日の丸・君が代関連の最高裁判決の代表的なものには目を通していただきたい。けっして長文のものではない。法律論はともかく、最高裁が都教委の強引な手法を教育の場にふさわしいものではないと憂慮していることを読み取っていただきたい。

判決文を読んでいただきたいという要求が無理なら、日の丸・君が代強制事件の原告団・弁護団の要請書には、簡潔で正確な要約が記載されている。それには目を通していただきたい。都税から報酬を得ている諸君に、そのくらいの要求をしても良かろう。けっして、諸君に「高潔な人格」や「教育に関する識見」などは要求しない。しかし、諸君が裸のピエロに甘んじるのでは困る。都民一般の水準で、日の丸・君が代の強制ということの意味を真剣にお考えいただきたい。常識的な市民感覚で、今行われているような日の丸・君が代の強制が、はたして教育の場にふさわしいものであるかどうか、よくよくお考えいただきたい。

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 『政治家「大串博志」の言い訳ブログ』昨日の続き
大串氏は25日のブログで、毎日新聞に対して「『記事の見出し』は大変ミスリーディングなものだと強く抗議した」と述べている。そして、昨年9月のアメリカ出張では、米国政府へ「安全性の確認された原子炉は再稼働する」「核燃料サイクル政策については見直すとかやめるとかいう決定をするのではなく継続する」「その上で2030年代に原発ゼロとできるよう」にするという説明をしたのだと釈明している。しかし、この釈明ブログをどう読んでも、「プルサーマル、米に約束」という毎日新聞の記事のタイトルが「ミスリーディング」ということには無理がある。「原発再稼働反対、核燃料サイクル政策見直せ」という国内の、地元の多くの声を無視して、プルサーマル実施をアメリカに約束してきたのは明らかではないか。

毎日新聞の「大串・ポネマン会談」要約によると、ポネマン副長官に「六ヶ所は稼働し続けて、プルトニウムが分離される一方、原発がゼロになるのであれば、プルトニウムが蓄積されて、軍事転用が可能な状況になる」と詰められて、大串氏は「プルトニウムを軽水炉で燃やす計画(プルサーマル)は今後も維持する」と答えざるをえなかった様子がよく解る。

今までにMOX燃料を燃すプルサーマルを実施した原発は、福島第一3号機(現在メルトダウンして、中のプルトニウムがどんな恐ろしい状態になっているかは皆目わかっていない)、高浜3号機(関西電力、6月27日フランスからMOX燃料が到着することになっている)、伊方3号機(四国電力) 、玄海3号機(九州電力)の4機である。
新しい原子力規制基準が7月に施行されるのを待って、再稼働申請が予定されている原発のうち、泊3号機、高浜3,4号機、伊方3号機、玄海3号機など大部分の原発はプルサーマル発電をする計画がある。

MOX燃料は格段に危険なものだ。それを燃した使用済みMOX燃料の受け入れ先はない。だからプルトニウムまみれの使用済みMOX燃料は敷地内にいつまでも置いたままになる。再稼働をはじめるには地元の同意が必要だといわれているが、これらの事実を知れば、「プルサーマル発電」を受け入れる地元など有るはずがない。
大串氏の選挙区は、休止する前までプルサーマル発電をしていた玄海原発3号機から30キロメートル圏にある。自分の選挙区民にこの事実を詳細に説明する義務がある。

「特に毎日佐賀版にあるように、プルサーマル原子炉として特定される、ある特定の原子炉の再開を約束したということはありません。繰り返しになりますが、再稼働については、厳格な安全性の確認された原子炉については再稼働するという原則であって、それ以上でもそれ以下でもありません。ましていわんや『プルサーマル』として特定される原子炉の再稼働を約束するなどということはありませんでした」とくどくど言い訳をしているのも見苦しい。まったく反論になっていない。

プルサーマル再開の密約は、停止中の原子炉再稼動の約束でもあり、核燃サイクル継続の約束でもある。そのことを考え併せると、新しい原子力規制基準とは、結局は再稼動容認基準といわざるを得ず、あるいは新炉建設許可基準であるとも言えよう。この5月、経済産業省は「新規制基準は厳しく、古い原発の再稼働は難しい」「原発の新増設は法的に可能。新しい原発は既存の原発と較べ安全性が高い。事業者も既に相当額の投資を行っている」という内部文書を政府に提出済みだという。

安倍自民党政権のために、民主党野田政権の大串政務官が敷いたレールはりっぱに役に立っている。レールは前へ前へ継ぎ足され、破滅の崖へ向かって突き進んでいる。

後先も考えず有頂天になって取り返しのつかないことをして、無責任にあとで言い訳するような政治家にはうんざりだ。
(2013年6月26日)

東京都議選の結果から参院選を展望する

東京都議選は4年に一度のビッグイベント。そのたびごとに、「総選挙の前哨戦」「国政を占う首都の選挙」として注目されてきた。今回は、「参院選の前哨戦」「改憲の行方を占う選挙」との位置づけである。

16年前、1997年の東京都議選をご記憶だろうか。石原慎太郎が知事に初当選したのが99年4月だから、その2年前。青島知事の時代。その97年都議選から、01年、05年、09年、そして今回の13年都議選まで、5回の都議選における改憲・護憲勢力の消長を俯瞰してみたい。そのうえで、目前に迫った参院選の展望に一言する。

その16年前の都議選の結果は、以下のとおり。
第1党 自民党 116万票(得票率31%) 議席54
第2党 共産党  80万票(得票率21%) 議席26
第3党 公明党  71万票(得票率19%) 議席24
第4党 民主党  39万票(得票率10%) 議席12
ネット   10万票(得票率 3%) 議席 2
社民党   7万票(得票率 2%) 議席 1
共産が、第2党として存在感を示していた。その得票数は、第1党の自民のほぼ70%である。

改憲勢力の主柱としての自民党のその後の消長を見てみよう。
116万票(得票率31%)⇒172万票(得票率36%)⇒134万票(得票率31%)⇒146万票(得票率26%)⇒163万票(得票率36%)
最近5回の都議選での得票数は、116万~172万票。得票率は26~36%で推移している。

自民党の強固な同盟者である公明党については以下のとおりである。
71万票(得票率19%)⇒72万票(得票率15%)⇒78万票(得票率18%) ⇒74万票(得票率13%)⇒64万票(得票率14%)

自公の得票率合計の推移は、
50%⇒51%⇒49%⇒39%⇒50%と安定している。民主躍進の09年選挙を除けば、49~51%であり、今回選挙はその例に戻った。

改憲阻止勢力の主柱である共産党の獲得票の推移は以下のとおり。
80万票(得票率21%)⇒75万票(得票率16%)⇒68万票(得票率16%)⇒71万票(得票率13%)⇒62万票(得票率14%)
今回の都議選で共産党は議席を倍増させて「大きな勝利」を獲得した。しかし、往年の得票の回復には至ってない。今回の「勝利」は、維新や生活・みどり・みんななどの分立や民主の候補者乱立の失敗に助けられてのものという側面を否めない。

しかし、今回の選挙における「勝利」によって、共産党は反自民、改憲勢力批判の票の受け皿としての地位を獲得した。改憲反対票を取り込む唯一の政党としての地位を確立したと言い切ってよい。このことの意義は極めて大きい。

中間政党の第1党である民主党の得票推移は以下のとおりである。
39万票(得票率10%)⇒64万票(得票率14%)⇒107万票(得票率25%)⇒230万票(得票率41%)⇒69万票(得票率15%)
一見して明らかなとおり、獲得票の振幅が極端である。風の吹き次第で、消長激しい政党の典型といえよう。

今回得票数は前回票数のちょうど30%である。09年都議選で民主党に投票した有権者の実に70%が、今回は棄権にまわったか、あるいは他党に投票したのである。ちなみに、昨年12月総選挙における民主党の比例代表区獲得票数は963万票、09年8月の総選挙の票数2984万票に比較して32%であった。有権者の民主党離れは、6か月を経てさらに進行している。おそらくは、参院選では20%台に落ち込むこととなるだろう。

その余の中間政党は存在感を失っている。社民も生活もみどりも、その他諸々の党派もである。唯一ネットだけに存在感がある。5回の選挙の消長は以下のとおり。
10万票(得票率3%)⇒ 14万票(得票率3%)⇒18万票(得票率4%)⇒11万票(得票率2%)⇒9万票(得票率2%)

維新は、今回初めての都議選に挑戦して失敗した。鞍替え組の現有3議席すら守ることのできない惨敗・完敗・大敗。新聞の見出しにもそう書かれ、自らも認めている。醜悪な2人の指導者が、どう取り繕うとも、党内亀裂を覆い隠すことはできない。雨降って地固まることもあろうが、都議選の結果は洪水並みの大雨。大雨は地盤も土台も押し流してしまう。この政党も、勢いや「風」頼みである。候補者も支持者も理念ではなく、勢いや「風」で集まってきた連中。風向きが変わった今、雲散霧消して跡形もなくなる運命が見えてきた。参院選が厳しいというレベルではなく、早晩消滅するということだ。「もう終わったね…、この党」という以外にない。

維新に比して「みんな」は手堅い。自滅・自壊という可能性が小さい。極端な新自由主義政党であり、改憲志向政党として徹底して具体的に政策の批判をしなければならない。

さて、目前の参議院議員選挙である。7月4日(木)公示で、7月21日(日)が投票日。今度は前哨戦ではなく、正規戦である。日本国憲法の命運ががかかっているという意味で、かつてない重い選挙でもある。前哨戦で見たとおり、自公の保守勢力は侮りがたい。中間政党は見る影もない。どうしても主力である共産党に期待するほかはない。票の集中を他党支持の有権者にも呼び掛けたい。

戦後民主々義を懸けての選挙戦といっても過言ではない。憲法や平和・人権・民主々義を大切に思う人々に、共産党への大きな支援を訴えたい。

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『政治家「大串博志」の空っぽブログ』

政治家「大串博志」とは、衆議院議員佐賀2区選出の民主党議員。野田内閣の内閣府大臣政務官だった。その大串が、本日の毎日新聞一面トップに登場した。「プルサーマル米に約束ー昨秋 民主政権 国民に説明せぬまま」という見出。記事の内容は、「昨年9月野田佳彦首相の代理として訪米した大串博志内閣政務官(当時)が米エネルギー省のポネマン副長官に『プルサーマル発電』の再開をひそかに約束していた」というもの。

当時、「使用済み燃料の再処理工場」、「高速増殖炉もんじゅ」はトラブル続きで、稼働のメドなどまったくたっていなかった。それは現在も同じ状態でかわりはない。だから使用済み燃料の再処理は、イギリスやフランスにずつと依頼している。再処理で出来上がったMOX燃料(燃えかすからプルトニウムを取り出して含有量を増やして作る)は、もとのウラン燃料の4倍と高価だが、もともとは高速増殖炉「もんじゅ」の燃料として発電に使う予定だった。ところが、これが失敗続きで稼働の見通しはない。そこでやむなく普通の原発のウラン燃料に、3分の1ほどのMOX燃料を混ぜ込んで、おそるおそる燃やす。この過程を「プルサーマル」という。

大串政務官は、アメリカから「増え続ける核爆弾の原料のプルトニウムをどうするつもりか」とせめられて、「プルサーマルで使いますからご安心を」と約束してきたというわけだ。原発をやめさせたくないアメリカ原発産業の強い要請もあったのだろうし、原発再稼動をやりたくて仕方がない野田政権のホンネもあったろう。エライことを約束してきたものだ。しかも、まったく秘密裡に。

その日(2012年9月14日)の「大串ひろしブログ」は、政府がエネルギー・環境会議で「2030年代に原発稼働ゼロを可能とするよう」決定したことを紹介し、「今回の出張で米国の関係者に対しては、これまでの日本の議論の経過などについて意見交換を行い、今後も十分意見交換を行っていこうということになっています」と述べている。

次の日のブログは「世界を股にかける、というとカッコよくきこえますが、トンボがえりの海外出張は、役所勤務時代もよくやりましたし、慣れっこです」とごきげんだ。プルサーマル密約など窺うべくもない。これが「空っぽブログ」。

本日の毎日新聞では、大串氏は取材に対して「誰に面会したのかは外交上言えない。(プルサーマルに関しては)覚えていない」と答えたと伝えている。

大串氏が密約してきたアメリカとの路線を渡りに舟として、安倍政権はプルサーマル再開をめざす方針だ。民主党と大串氏は、大はしゃぎでアメリカに出かけていって、「覚えていない」密約を結んできた責任をどうとるつもりなのか。

プルサーマル発電のあとには、「使用済みMOX燃料」を処理するための「第2再処理工場」の建設が必要になる。これが、格段に危険なものといわれている。大串氏は自分の選挙区の佐賀県に、その危険な施設をつくる覚悟があるのか、無責任な政治家に腹が立つ。
(2013年6月25日)

新大久保ヘイトスピーチ・デモ参加者による傷害・暴行告訴の記者会見で

弁護士の澤藤です。
新大久保のヘイトスピーチ・デモ参加者が暴走して、ヘイトスピーチを止めるよう説得・抗議活動を行っていた方に対して起こした傷害・暴行事件の告訴に関して、梓澤和幸弁護士から詳細な背景事情や意義の説明がありました。私から、若干の補充をいたします。

この事件について、2人の告訴人代理人として名乗りを上げた弁護士は150人を超えます。いずれもヘイトスピーチの被害者の側に立つべく旗幟を鮮明にしています。

その皆が、表現の自由をこの上なく大切に思う立場の者ばかりです。けっして公権力による言論規制を望むものではない。しかし、表現の自由とは、本来公権力や社会的強者を批判する言論の自由を保障するもの。表現の自由の美名に隠れて、弱者の基本権を侵害する自由が認められてよいわけがない。とりわけ人種差別発言や民族差別発言で、マイノリティを貶めることは到底許し難い。

さりとて、人種差別や民族差別が純粋に言論にとどまる限りは、これを処罰する刑事法規は現在ありません。刑罰権の発動によってこれを処罰せよ、あるいは押さえ込めというわけにはまいりません。

では、どうすべきか。一般論としては、言論には言論をもって対抗すべきだということになります。差別される側にも十分に反論する権利が保障されているのだから、その権利を行使して反論すればよいでないかという議論です。

しかし、この議論は画に描いた餅でしかない。対等者間モデルの一般論を当て嵌めることの不当性について多くを語る必要はないと思います。強者が弱者を貶めているとき、弱者に自力で権利の救済をせよというのは、権利侵害を放置し容認することにほかなりません。いじめられている人に、「反撃の権利があるのだから、いじめっ子に反撃すればよい」といって傍観しているに等しいのです。

このような場面で、被害者に代わって対抗言論を買って出る市民が現れるということは、まことに貴重な、素晴らしいことと言わねばなりません。被害者の立場にたち、被害者に代わって、ヘイトスピーチの恥ずべきことを説得し、愚かな行為を止めるよう働きかける行動は、民主々義社会の良心と良識に基づくものと賞賛に値するものです。

ところが、ヘイトスピーチデモへの参加者の中には、この説得に耳を貸さないばかりか、このような説得活動を不愉快として、実力行使に及ぶ者さえ現れました。本日告訴に及んだ2件の事件は、ヘイトスピーチデモの参加者が説得者に体当たりし、転倒させ、あるいは蹴飛ばすなどして、暴行・傷害に及んだというものです。明らかに犯罪ですし、警察官が現認している行為です。到底許すことができません。

もし、この暴行や傷害を座して見過ごすとすれば、ヘイトスピーカー側に間違ったサインを送ることになります。この程度のことは許されるのだと。そして、せっかく立ち上がった良識ある人々の勇気を挫くようなことにもなりかねません。実は、これまでの間違ったサインの積み重ねが、今日までの事態のエスカレートをもたらしたといわざるを得ません。断固とした刑事制裁によってヘイトスピーチデモの異常さ、間違いを糺し、彼らに自覚を促さねばなりません。

警察は、「デモ隊もデモへの抗議の人々も、どっちもどっち。警察がどちらに肩入れすることはしない」と言っていますが、大局を見失ってはなりません。人種差別・民族差別の発言で弱者の人権を侵害している側と、その被害者に代わって説得を試みている人々と。それを一緒くたにして、どっちもどっちと言ってはならない。ことさらに、ごく小さな局面だけに焦点を当てれば、そのように見えることもあるかも知れません。しかし、大局をみれば、一方は余りにもひどい差別発言の加害者であり、もう一方はヘイトスピーチの醜さを克服しようと立ち上がった、良識ある人々。その区別を見失うようなことがあってはならない。

私たちは、この良識と勇気とを発揮して説得の行動に立ち上がった人々の側に徹底して立ちたいと思っています。それこそが民主々義社会における主権者としてあるべき姿であり、とりわけ、社会正義と基本的人権を擁護する使命を負っている弁護士の責務だと思ってのことです。

そのような趣旨での本件告訴であることにご理解をいただきたいと思います。
(2013年6月24日)

選挙こそ主権者の願いを実現する機会  ー都議選の争点その11

本日の東京新聞は、さすがにローカル紙としての面目躍如。富士山世界遺産ではなく、「暮らしと人生 つながる一票」「都議戦きょう投開票」が一面トップ。社会面も、「この思い 一票に託す」とした有権者へのインタビュー記事。「この思い」として取りあげられた3テーマは、「待機高齢者への具体策創造を」「子どもの側から保育所考えて」「住民参加 重視する人に」というもの。高齢者福祉、子育て支援、そして原発問題を機とした住民の政治参加問題。

その中で、「保育所つくってネットワーク」の斉藤真里子さんの以下の発言が具体的な要求からのものとして印象的。
「都内でこの春、認可保育所に入れなかった待機児童は約2万人。アンケートを送付した候補242人中、回答をくれた113人の大半が認可保育所の増設に賛成なのに、各党の政策は『都独自の認証保育所の普及』『多様なサービス』『保育料格差の是正』…」「多くの母親が求めるのは、子どもを安心して預けられる施設を増やし、働きたい人が働ける環境。経済目線の規制緩和や競争は保育所になじまないと考えます」「子どもの側から考える人に投票します」

このような主権者としての要求の自覚が、政治を変えることにつながる。

もう一つ紹介したい。赤旗日曜版での俳優米倉斉加年さんの次の発言である。この人の発言はいつも敬意をもって読む。なんとものの分かった人だろうか。なんと行き届いたものの言い方だろうか。そして、なんのためらいもなく筋を通すさわやかな人なのだろうか。

「憲法は国家と権力のためにあるのではなく、私たちの人権と古里を守るためにある。いま多数〈権力〉を持つ安倍政権は、私たちを守る憲法の改定、9条破棄、そして原発再稼働ヘー直線です。
私は国民の大多数が戦争を容認し、軍国主義政権を支持した時代に育ちました。あの時代を忘れてはならない。真の民主主義は、弱者の声なき声に耳をかたむけるものです。少数をどう喝する多数は民主主義ではない。ファシズムです。
今回の都議選でも参院選でも、一番大切なのは、弱きもの、声なき声を大切にし、政治に生かす政党を選ぶことではないでしょうか。
私は、弱きものたちの立場に立ち、私たちの人権を守る日本共産党に期待します。」
(2013年6月23日)

「原発即時ゼロ」は心ある都民の声   ー都議選の争点その10

今、原発問題の焦点は、原子力規制委員会が策定した再稼動の「新規制基準」。この問題に、日本共産党の笠井亮議員が切り込んだ。

本日の赤旗が報道する、昨21日(金)の衆院原子力問題調査特別委員会での論戦でハイライトである。笠井亮委員が、原子力規制委員会の田中俊一委員長を問い糾した。これでは、同紙が見だしにしているとおり、「原発再稼働ありき」で、「国民安全は置き去り」新基準ではないか。

笠井 国民から寄せられた意見を受けて原案から最も変更した点は何か。
田中 基準の技術的内容を根本から変更したものはない。電源車やポンプ車の予備の台数を電力会社が設定できるようにした。
笠井 福島原発事故の原因究明はすすんでいるのか。
田中 現場は(放射)線量が高いので少し時間はかかる。

笠井 原子炉等規制法では放射性物質の「異常な水準」での放出による災害を防ぐよう定めている。田中委員長は最悪でも(ベントによる排出線量を)100テラベクレルに抑えるというが「異常な水準」の放出ではないのか。
田中 そういったことをせざるをえないこと自体が異常な状況だ。

笠井 工事の着工・完了はしなくても再稼働の申請を受け付けるのか。原発の運転延長を求めるなら、対策工事が完了してから許可を申請し、審査を受けるのが当たり前だ。
田中 実際の対策には時間がかかるので、(計画だけでよいと)そういう判断をしている。

笠井 原発立地自治体や住民への説明は不十分だ。
田中 (防災計画は)稼働判断と(法的には)直接リンクするものではない。

赤旗の報道は、以上の質疑を次のようにまとめている。
新基準は、炉心溶融を伴う重大事故の際、原子炉の格納容器の破損を防ぐため放射性物質を放出する「ベント(排気)」を行うことが柱の一つとなっています。新基準では、その際に放出するセシウム137を「最悪でも100テラベクレルに抑える」ことを目標にしています。笠井氏が「原子炉等規制法は放射性物質の『異常な水準』での放出による災害防止を定めているが、100テラベクレルの放出は『異常な水準』ではないのか」とただしました。原子力規制委員会の田中俊一委員長は「そういったことをせざるをえないこと自体が異常な状況」と認めざるをえませんでした。

笠井氏は、新基準で設置が求められる格納容器の「フィルター付きベント」は、加圧水型は「5年の猶予」が与えられ、猶予のない沸騰水型でも設置は「検討中」が多いと指摘。原則40年とする原発の運転期間も対策工事の計画だけで最長20年の延長を認めようとしているとして「結局、電力会社の意向をくんだだけだ」と批判しました。

田中委員長は「フィルターベントの設置は炉型によって違う」「対策を取る間に40年を超す原子炉もある」などと規制基準の骨抜きを正当化しました。
笠井氏は「そんな対応で、実際に重大事故が起こったら、どう責任をとるのか」と批判。「田中委員長は『世界でも一番厳しい規制基準』などというが、まったく実態を伴わない『安全神話』の復活だ」として原発再稼働をやめるよう主張しました。

こんなに成功した質問は珍しい。規制委員会の新規制基準が、財界や電力業界の意を受けて再稼働にお墨付きを与えるための杜撰なものであることが、余すところなく暴かれたと言ってよい。委員会の議事録全文をパンフレットにして頒布してはどうか。

ところで明日は都議戦の投票日。争点のひとつに、原発問題がある。原発問題の捉え方は多様だが、最大の電力消費地であり、福島第1原発から送電を受けていた都民の関心時でないわけはない。

再度、朝日(デジタル版)の、候補者アンケートを瞥見してみよう。
問:今後の原発依存度はどうすべきだと思いますか
回答の選択肢は、次の1~4である。
1 すぐゼロにする
2 少しずつ減らしてゼロにする
3 ゼロではないが事故前より減らす
4 事故前の水準にする

当然のことだが、共産党42人の候補者全員の回答が「1 すぐゼロにする」である。これに対極の自民は、59人の候補者中「1 すぐゼロにする」の回答は1人もいない。「2 少しずつ減らしてゼロにする」が9人、「3 ゼロではないが事故前より減らす」が26人、そして正直に「4 事故前の水準にする」が2人である。興味深いことに、選択肢の選択を拒否する無回答者が22名に上っていることである。ホンネは、原発賛成だが、不人気を覚悟でホンネを言いにくい空気があるということだろう。民主党は、圧倒的に「2 少しずつ減らしてゼロにする」だが、「1 すぐゼロにする」も、「3 ゼロではないが事故前より減らす」の回答も各3人ずつ。

注目すべきは、「1 すぐゼロにする」の回答は、共産党の専売特許ではないこと。民主党に3、社民党に1、ネットに5、諸派に4、無所属に2と分布している。3・11以後、原発即時ゼロの方針を打ち出し、もっとも真摯にその運動を進めてきた共産党と政策を同じくする候補者が少なくないことに心強さを覚える。この立場こそ、多くの心ある都民の共感を得ているのではないか。

「即時ゼロ」ではなく、「少し余裕をおいてゼロにする」というのが、いくつかの政党が提案している「脱原発基本法」のスタンス。そのスタンスで、脱原発派を糾合しようという発想には無理がある。脱原発を標榜する「緑茶会」なる市民グループが、脱原発基本法に賛同か否かを選挙での推薦基準にしている。結局は、反原発運動の特定勢力だけを支援するあり方として、運動に分裂を持ち込むものとならざるを得ないことになっている。

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  『世界遺産・富士山は、自衛隊と米軍演習場に囲まれている』
美しい富士山が世界文化遺産に登録決定となった。三保松原も含まれたとのことで、まずは目出度い。しかし、次の指摘を受けて、ただ目出度いという気分ではいられない。
「裾野へのゴミ投棄や、無秩序な開発なども大きな問題ですが、なによりも考えなくてはならないのが演習場(基地)の存在です。トイレなどよりも質的にも量的にも重大な問題なのですが、マスコミなどもほとんど触れていません。憲法第9条や安保条約と正面から向き合わなければならなくなるからでしょう」(「今日は何の日、富士山の日」田代博著 新日本出版社)
観光で訪れてもなかなか気がつかないが、富士山の東にも北にも、おどろくほど広大な自衛隊とアメリカ海兵隊の射爆演習場がある。東富士演習場(8809㏊)と北富士演習場(4597㏊)だ。
東富士演習場は夏の一日、「富士総合火力演習」と称する陸上自衛隊による、戦車、ヘリコプター、色々な火砲による実弾演習が公開されることで有名である。
北富士演習場は戦後アメリカ軍に接収されていたが、朝鮮戦争の開始とともに、米海兵隊の訓練が激化した。霊峰富士へ向かっての砲撃中止を要求して、地元住民による着弾地座り込みなどの抗議が行われた。米軍演習によって奪われた、入会権の回復を計ってのことである。
「富士北麓に祖先が住み着き、荒蕪地を開拓し、苦難に耐えながら、農耕を生業とする傍ら、林野雑産物の採取などの入会行為などによってかろうじて生計を立ててきたという苦労のほどはとうてい筆舌に尽くせるものではない。そのような歴史を背負いながら、北麓山野に祖先が残してくれた入会収益を後世に伝承するため」と山中湖村旧三村入会組合連合会会長高村不二義氏は証言している。
全国からの支援をうけて激しい闘争が行われたが、結局、米軍演習場ではなく、自衛隊の演習場として使用することを認めての決着とせざるを得なかった。1988年、永年にわたる闘争の末に、「北富士演習場内国有入会地の使用に関する協定」が結ばれた。「地元住民が旧来から有する入会慣習を確認し、これを将来にわたって尊重する」という内容であった。
高村氏は「北富士演習場がある富士北麓一帯は我が国の代表的観光地であり、近年、中央、東名高速道路の開通に伴い開発は急速に進み、富士箱根伊豆国立公園の中枢的な拠点として発展しつつあり、北富士演習場は全面返還して平和的に活用することが理想であり、村民等しく希求するところである」と篤い望みを述べていた。しかし、残念なことにその希望は現在まで実現していない。
この住民の苦渋の歴史を見つめてきた「富士山」が、世界遺産登録を手放しで喜んでいるはずはない。美しい富士に戦争や武器や演習は全く似合わない。
ちなみに、「富士山」と一緒に認定申請した「鎌倉」も実は頭の上を軍事ヘリコプターが不気味に飛び回る場所である。「横須賀」と「厚木」「横田」を結ぶアメリカ軍の軍事航空路の下にあるからだ。由比ヶ浜に米軍ヘリコプターが不時着したことさえある。
ユネスコの世界遺産委員会は審議の基準として「軍事基地」の存在を考慮しないのだろうか。それともその存在に気がつかないのだろうか。世界遺産登録を機に、軍事基地撤去運動が盛りあがることはないのだろうか。美しい自然景観や文化と全く対極にあるのが醜悪な軍事施設だと思うのだが。
(2013年6月22日)

民主党はやっぱり改憲政党である    ー都議選の争点その9

本日は、近所で小池晃日本共産党副委員長が、地元文京区から都議選に立候補の小竹紘子さんの街頭応援演説をした。つい先日は市田忠義書記局長の応援演説もあった。両人ともさすがに聞かせる。紋切りの話しでなく内容が極めて具体的で中身が濃い。

小竹候補は、「憲法守れの願いを、平和と命を守る願いを、暮らしと福祉を守る願いを、私に託していただきたい」と、まず憲法問題から切り出している。本日の街頭演説の中で、「文京からは、共産党のほかには、自民・維新・民主の3党から候補者が立っています。定数2を改憲派で占めさせてはなりません。貴重な憲法擁護の1議席が必要です。憲法改悪に反対する唯一の候補者・小竹紘子へのご支援を」という訴えがあった。

自民と維新を改憲派というのは当然として、民主党を改憲派といってよいのかに疑問の向きもあるのではないだろうか。党内に雑多な諸潮流を抱えてまとまりを欠く民主党が、改憲反対に徹していないことは世の常識としても、はたして「改憲派」とまでいえるのだろうか、と。

本日の街頭演説では、民主党を改憲派という理由については、都議会内での次の事情の説明だった。
6月7日に閉会した東京都議会で日本共産党都議団は、「憲法改定の発議要件を現行の3分の2から過半数に緩和しようという96条改定の動きを立憲主義に反するものとして批判する意見書案」を総務委員会に提案した。しかし、自民党と公明党に加え民主党までもが反対したため、採択に至らなかった。

また、共産党は日本維新の会の橋下徹共同代表(大阪市長)の「従軍慰安婦」発言に抗議する決議案も総務委員会に提案したが、これもオール与党である他党の賛成を得られず採択には至らなかった。

しかし、もしかして、民主党の反対理由は、「意見書や決議は全会一致を原則としている。全会一致の見通しがなかったから」ということだったかも知れない。これだけのことで、民主党を改憲派と断定するのはやや説明が不足ではないだろうか。

よく知られているとおり、自民党は2012年4月に「日本国憲法改正草案」というたいへんな代物を、党の正式提案として発表している。その以前には、2005年10月の立党五十周年記念大会で「新憲法草案」を発表している。

そのころ、民主党も対案を出すかと思われたが、条文化を見送り同じ2005年10月に「憲法提言」を発表している。これが現在も民主党の憲法問題での綱領的な文書となっている。なお、04年6月には、「憲法提言・中間報告」が出されている。併せて読む必要がある。

民主党の憲法問題のかつての党是は、「論憲」だった。それが、04年「中間報告」の標題が「創憲に向けて、憲法提言」とされて変わった。「論憲」から「創憲」へのスローガンの変更は、「憲法改正は議論の段階から、現実化への一歩を踏み出すのだ」という、民主党の強い意気込みのあらわれなのだ。

この「中間報告」には、「法の支配を確立し、国民の手に憲法を取り戻すために」という副題が付いている。つまり、こういうことだ。いま、国民の手に憲法はない。これを取り戻さなければならない。どのような手段で? 国民投票による憲法改正を実現することによって。憲法改正を経て、初めて国民は憲法を手にすることとなる、という。究極の改憲論ではないか。

「中間報告」は次のように言う。
「未来志向の憲法を打ち立てるに際しては、国民の強い意志がそこに反映されることが重要である。しかし、日本ではこれまで、憲法制定や改正において、日本国民の意思がそのまま反映される国民投票を一度も経験したことがない。私たちは、憲法を国民の手に取り戻すためにも、やはり国民による直接的な意思の表明と選択が大事であることを強く受け止めている。」

要するに、「これまで憲法改正のための国民投票の機会が一度もなかったから、憲法に国民の意思が反映していない。」「だから、改正のための国民投票をやろうではないか」という「提言」なのだ。

中間報告では、そのような「提言」にふさわしく、96条改憲が具体的に明言されている。

「硬性憲法の実質を維持しつつ、より柔軟な改正を可能とするために、現憲法の改正手続きそのものを改正する必要がある。例えば、①憲法改正の発議権は国会議員にあると明記する、②その上で、各議院の総議員数の過半数によって改正の発議を可能にする、③改正事項によっては、各議院の3分の2以上の賛成があれば、国民投票を経ずとも憲法改正を可能とする、④ただし、主権の移譲など重要な改正案件に限定して国民投票を義務付け、その場合、有効投票の過半数の賛成を条件とする、など改正手続きを見直す。」

96条改憲案の過激さでは、自民党「日本国憲法改正草案」も顔負けである。発議要件を「過半数」にまでハードルを下げようというだけでなく、場合によっては「国民投票を経ずとも憲法改正を可能とする」と堂々と書き込んでいるのだから。

当時、創憲とは改憲の別名と理解され、民主党も改憲派とみなされた。さすがに評判が悪かったたため、翌年の「民主党・憲法提言」では、96条改憲案は引っ込められた。

しかし、先に引用した中間報告の文章は次のように残された。
「憲法を国民の手に取り戻すために
私たちは、当面する課題として、憲法改正手続法制・国民投票法制の整備にとりかからなくてはならない。しかも、国民に開かれた形で、これらの議論を進めていかなければならない。
未来志向の憲法を打ち立てるに際しては、国民の強い意志がそこに反映されなくてはならない。しかし、日本ではこれまで、憲法制定や改正において、日本国民の意思がそのまま反映される国民投票を一度も経験したことがない。私たちは、憲法を国民の手に取り戻すために、国民による直接的な意思の表明と選択が何よりも大事であることを強く受け止めている。」
改憲が積極的な意義あるものであること、民主党が改憲志向であることは明瞭にされている。

また、「提言」では、96条改憲問題について、中間報告の具体的提案はなくなり、代わって次のような文章になった。

「多様な憲法論議を踏まえて何らかの改革を行おうとするならば、衆参各院において国会議員の3分2以上の合意を達成し、かつ国民多数の賛同を得るのでなければならない。政党や国会議員は、みずからの意見表明にとどまることなく、国会としてのコンセンサスと国民多数の賛同をどう取りつけていくのかに向けて真摯に努力していくことが求められている。」
この文章は、読みようによっては、「民主党は議会内の3分2と国民の過半数の賛同を取り付けて改憲を実行する」という宣言ではないか。

最大問題の憲法9条についてはどうか。
「国連の集団安全保障活動を明確に位置づける
憲法に何らかの形で、国連が主導する集団安全保障活動への参加を位置づけ、曖昧で恣意的な解釈を排除し、明確な規定を設ける。これにより、国際連合における正統な意志決定に基づく安全保障活動とその他の活動を明確に区分し、後者に対しては日本国民の意志としてこれに参加しないことを明確にする。こうした姿勢に基づき、現状において国連集団安全保障活動の一環として展開されている国連多国籍軍の活動や国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にする。それらは、その活動の範囲内においては集団安全保障活動としての武力の行使をも含むものであるが、その関与の程度については日本国が自主的に選択する。」

要するに、国連の決定さえあれば、PKOだけではなく、多国籍軍の一員として、海外で武力行使ができように9条を改正しようというのだ。

これが、現在も民主党の憲法改正問題における公式見解である。やはり、民主党は改憲派というしかない。

なお、民主党が政権を取った2009年総選挙の「マニフェスト」は、「国民の自由闊達な憲法論議を」と標題して、次のとおり述べている。

「民主党は2005年秋にまとめた『憲法提言』をもとに、今後も国民の皆さんとの自由闊達な憲法論議を各地で行ない、国民の多くの皆さんが改正を求め、かつ、国会内の広範かつ円満な合意形成ができる事項があるかどうか、慎重かつ積極的に検討していきます。」

憲法改正について「積極的に検討していきます」というのだから、改憲阻止という姿勢でないことは疑う余地がない。「中間報告」「提言」と併せて読むことによって、民主党が改憲派であることが明瞭である。改憲の方向が、自民党とは異なるにしても、である。
(2013年6月21日)

自・共の対抗軸の中に各党がある   ー都議選の争点その8

朝日(デジタル版)の「都議選全候補者政策アンケート」の集計結果が興味深い。
http://www.asahi.com/senkyo/2013togisen/enquete.html?ref=com_rnavi

私は、政党の位置関係の座標軸の一極に保守の自民党を置き、他極に革新の共産党を置く。その上で、その他の諸党を、その2極の間の「中間政党」とみる。
民主党は自民と政権を争う「保守2大政党」の一員、公明党は自民べったりの同盟者、維新と「みんな」は自民の右側からの補完勢力、などというそれぞれの側面をもつが、所詮は社民・生活・みどり等々と同様の中間政党のひとつである。

憲法問題にしても、経済・財政問題にしても、暮らしと雇傭の問題にしても、あるいは原発問題にしても、政策選択は「自民対共産」の対抗関係における分布からのものとなる。財界の利益と国民の利益、秩序と自由、国家主義と個人の尊重、権威主義と個人の自律、新自由主義と福祉国家思想、国防と外交…。あらゆる対抗関係が「自民対共産」の座標の中に位置する。

だから、革新の共闘も、反自民の連携も、現体制批判の連帯も、共産党を抜いて語ることができない。

そのような目で、全候補者アンケートを見ると、自共対決の対抗軸が明瞭に浮かびあがってくる。そして、その他の政党候補者の意見のばらつきには意外性があって興味深い。

アンケートにおける質問は12問。憲法問題に直接関わる争点として2設問がある。まず、96条改正問題である。

問:「憲法を変えやすくする憲法96条改正に賛成ですか、反対ですか」
この問に対する賛成・反対・その他の回答は、各党で次のとおり。
共産党42人の候補者全員が「反対」である。これに対極の自民は、59人の候補者中53人が「賛成」で、反対はゼロ。6人が「その他」だが、「発議要件が緩やかになれば、『反日自虐的改悪』が容易に実行される事態も十分考えられるので要注意」(古賀俊昭)という意見などを含んでいる。維新は、総数34のうち賛成24・反対0・その他9(無回答1)である。「右からの補完勢力」というにふさわしい。ところが「みんな」は、やや傾向が異なる。賛成10・反対2・その他8と、賛成が半数に過ぎず、反対が2候補も。明らかに、みんなの党内部に憲法問題での動揺と逡巡が感じ取れる。世論の風向きを、改憲一辺倒では支持を得られないと読んでいるのだ。

民主党は、総候補者44名中、賛成1・反対40・その他3、と意外にも親憲法的である。これも、憲法運動がつくりだした世論の反映と見るべきであろう。そして、公明党が候補者23名のうち、賛成0・反対1・その他22。端的に賛成・反対を言わぬところが、いかにもこの党らしい。

ついで、憲法9条と国防軍問題である。
問:「安倍首相は憲法9条を改正し自衛隊を国防軍に、としていますが、賛成ですか、反対ですか」

これについても、共産党42人の候補者全員が「反対」である。これに対極の自民は、59人の候補者中56人が「賛成」で、反対はゼロ。3人が「その他」だが、「国防軍という名称が適切かどうか」というレベル。維新は、総数34のうち賛成12・反対3・その他6(無回答3)。「みんな」は、総数20のうち賛成5・反対5・その他10。両党とも、けっして賛成一色ではなく、意見が割れている。
また、民主党は、候補者44名中、賛成1・反対32・その他7、とこれも意外に親憲法的である。そして、公明党が候補者23名のうち、賛成0・反対22・その他1、とこちらはきちんと「反自民」である。

主軸の双極をなしている共産党と自民党は、世論の風向き如何にかかわらず、それぞれの政策を打ち出さねばならない。共産党は革新の、自民は保守の政策を語る立ち場にあるが、その余の諸政党は、世論の風向き次第で、自共の間のどこかに位置を決め、その位置での政策を語っている。そして今、選挙政策を見る限り、自民以外の各党は、自民と距離を置いた方が票を取れると踏んでいる。そのような世論の動向であり、そのような向きに風が吹いていることに自信を持ちたい。

中間政党の政策は、世論次第で自民党寄りにもなり、共産党に接近もする。共産党の政策に接近した中間政党は、反自民の有権者の投票を、共産党にまで行きつかせずに吸収する役割を演じる。反自民の世論が盛りあがるとき、共産の議席が減るという不思議なジンクスには根拠があるのだ。

いずれにせよ、政策の次元においては自共対決の構図が鮮明である。議会内の勢力において自共が拮抗する事態となれば、真に国民の前に進むべき方向をめぐって堂々たる論戦を展開する本物の「討議をする議場」が出現するだろう。国会でも、都議会でも。
(2013年6月20日)

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