国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の撤回に関する都教委への申し入れ
われわれは、教育長を筆頭とする都の教育委員に面会を申し入れているが実現しない。テーマによっては、教育庁の人事部長や指導部長との直接交渉もしたいのだが、教育情報課長段階でブロックされる。やむなく、情報課長の背後にある、教育委員や知事に意見を申し上げる。
「10・23通達」発出以来16回目の春、卒業式・入学式の季節である。国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制はもう止めて、学校現場を生き生きとした本来の教育現場を取り戻していただきたい。このことに関して、個別の課題はいくつもあり、「『日の丸・君が代』不当処分撤回を求める被処分者の会」や、「五者卒業式・入学式対策本部」から質問や要請は多岐に渡っているが、私からは総論的な意見を2点だけ申しあげたい。
われわれは日本国憲法のもとで、日本国憲法に守られて生活している。言うまでもなく権力機構には憲法遵守の義務がある。もちろん、都教委にも。まずは、このことを肝に銘じていただきたい。
日本国憲法は、文明が構築した近代憲法の典型として、「人権宣言」部分と人権を擁護すべく設計された「統治機構」の二部門から成り立っている。憲法は個人の尊厳の確立を究極的な目的価値として、いくつもの人権のカタログをならべるている。その中の精神的自由といわれるものが、思想・良心の自由であり、信仰の自由であり、表現の自由であり、学問の自由等々である。人が人であるための、そして自分が自分であるための自由であり権利が保障されている。
近代憲法は、人権を損なうことがないように統治機構を設計し、運用を命じている。国家に人権を損なうような行為は許されない。ここには、個人の人権と、国家が持つ公権力との緊張関係が想定されていて、その価値序列において、個人の人権が国家に優越する。
国家とは主権者である国民が創設したものである。まず個人があり、その集合体としての国民が形成され、国民が国家に権力を与える。慎重に、憲法が授権する範囲においてのことである。個人・国民の利益に奉仕するために国家が存在するのであって、その反対ではない。
この個人と国家との緊張関係において、国旗・国歌(日の丸・君が代)は、その関係を象徴する存在となる。国旗国歌は、国家と等値と考えられるシンボルなのだから、国旗国歌への敬意表明とは国家に対する敬意表明にほかなならない。公権力が国民に対して、国旗国歌への敬意表明を強制することは、国家が主権者である国民に対して「オレを尊敬しろ」と強制していることにほかならない。
主権者国民によって作られた国家が国民に向かって「オレを尊敬しろ」と強制することなどできるはずがない。それは、憲法の論理の理解において背理であり倒錯以外のなにものでもない。
本来、公権力が国民に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制はなしえないというほかはない。とりわけ、教育部門が国民の育成に国家主義を鼓吹するようなことかあってはならない。
二つ目。これまでの国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に関する最高裁判決の理解について、都教委の立場は牽強付会と言わざるを得ない。詳細は措くとしても、けっして最高裁は都教委のこの野蛮を褒めてはいない。我が国の裁判所は、三権分立の理解において、司法の行政府の行為に対する役割を極めて謙抑的に理解する、司法消極主義の立場をとっている。よくよくのことのない限り、司法が行政の行為を違憲として断罪することはない。
都教委の国旗・国歌(日の丸・君が代)強制は、その行政に甘い司法からも、批判を受けていることを自覚しなければならない。地裁レベルでは明確な違憲判決もある。高裁段階では戒告まで含んですべての処分を懲戒権の濫用とする判決もある。最高裁レベルでも、反対意見もあり、多数の補足意見もある。最高裁裁判官総体からは、不正常な教育現場となっていることについての批判を受けていることを自覚しなければならない。
一つでも、そのような都教委に対する全面批判の判決のあることを恥だと思わなければならない。違憲、あるいは違法と紙一重のぎりぎりのところでの無理な教育行政を行っていることは、苟も教育に携わるものとしての見識を疑われていることとして、反省あってしかるべきである。
2003年秋に「10・23通達」が発出されたとき、極右の知事石原慎太郎のトンデモ通達だととらえた。いずれトンデモ知事さえ交代すれば、こんなバカげた教育行政は元に戻る、そう思い込んでいた。
しかし、石原退任後も石原教育行政は続いて今日に至っている。この問題が、教育右傾化の象徴となっている。今年こそ、方向転換の年となるよう願ってやまない。
(2019年3月12日)