澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

嗚呼、『屈辱の日』に「テンノーヘイカ・バンザイ」とは。

68年前の今日1952年4月28日は、敗戦によって占領下にあった日本が「独立」したとされる日。右翼勢力の策動に乗る形で、第2次安倍政権は閣議決定でこの日を「主権回復の日」とした。右翼ナショナリズムにとって、対外的国家主権は至上の価値である。

2013年4月28日、安倍内閣は、右翼政権の本領を発揮して政府主催の「主権回復の日」祝賀式典を挙行した。当然のこととして、当時の天皇(明仁)と皇后が出席した。天皇に発言の機会はなかったが、その退席時に「テンノーヘイカ・バンザイ」の声が上がって多くの参加者がこれに呼応した。政権が、見事に天皇を利用した、あるいは活用したという図である。もっとも、その後は国家行事としての式典はない。

多くの国民国家が、国民こぞって祝うべき「建国」の日を定めている。その多くが「独立記念日」である。イギリス支配から独立したアメリカ合衆国(7月4日)がその典型。大韓民国は、日本からの独立記念の日を「光復節」(8月15日)とし、独立運動の記念日まで「三一節」としていずれも政府が国家の祝日としている。

ならば、4月28日を「主権回復の日」あるいは「独立記念日」として、祝うことがあっても良さそうだが、これには強い反発がある。とりわけ沖縄には、反発するだけの理由も資格もある。

言うまでもなく、1952年4月28日はサンフランシスコ講和条約発効の日である。しかし、その日は、サ条約と抱き合わせの日米安全保障条約が発効した日でもあった。日本は、全面講和の道を捨てて、アメリカとの単独講和を選択した。こうして、その日は「ホツダム条約による占領」から脱して、「日米安保にもとづく対米従属」を開始した日となった。これは、国民こぞって祝うべき日ではありえない。

もう一つ理由がある。1952年4月28日の「独立」には、沖縄・奄美・小笠原は除外された。本土から切り離され、アメリカ高等弁務官の施政下におかれた。それ故この日は、沖縄の人々には「屈辱の日」と記憶されることとなった。

本日の琉球新報 <社説>「4・28『屈辱の日』 自己決定権の確立急務だ」と論陣をはっている。怒りがほとばしっている。

「1952年4月28日発効のサンフランシスコ講和条約第3条が(沖縄)分離の根拠となった。これにより米国は日本の同意の下で、他国に介入されることなく軍事基地を自由に使うようになった。米軍は『銃剣とブルドーザー』で農地を奪うなど、沖縄住民の基本的人権を無視した統治を敷いた。沖縄の地位は植民地よりひどかった。」 

「72年の日本復帰後も沖縄の人々は基地の自由使用に抵抗し、抜本的な整理縮小や日米地位協定の改定を求めてきた。その意思を尊重せず「国益」や国策の名の下で沖縄を国防の道具にする日米政府の手法は植民地主義だ。県内の主要選挙や県民投票で反対の意思を示しても建設工事が強行される辺野古新基地は、沖縄の人々の自己決定権を侵害する植民地主義の象徴である。」

「基地があるため有事の際には標的になり命が脅かされ、平時は事件事故などで人権が侵害されている沖縄の今を方向付けた4・28を忘れてはならない。この状態を脱するには自己決定権の確立が急務だ。」

この社説のとおり、4・28は沖縄の「屈辱の日」であり、今に続く「受難の日」の始まりでもある。この日をもたらした重要人物として昭和天皇(裕仁)がいる。彼は、新憲法施行後の1947年9月、内閣の助言と承認のないまま、側近を通じてGHQ外交局長に、「アメリカ軍による沖縄の軍事占領継続を希望する」と伝えている。いわゆる「天皇の沖縄メッセージ」である。沖縄「屈辱」と「受難」は、天皇(裕仁)にも大きな責任がある。

この屈辱の日に祝賀式典を強行し、さらには「テンノーヘイカ・バンザイ」とまで声を上げるのは、右翼諸君か好んで口にする文字どおりの「売国奴」の行為と言うしかない。
(2020年4月28日)

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