澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

60年安保闘争、あれから60周年。

(2020年6月23日)
1960年6月23日が、現行日米安全保障条約発効の日である。旧安保に代わる改定新安保は、文字どおりの国民的な大反対運動を押し切って成立した。全国津々浦々に満ちた「安保反対」「岸を倒せ」の声は、政権を担う者の心胆を寒からしめたが、参院での条約承認の議決できないまま、6月19日自然成立となった。そして条約発効6月23日、岸信介首相は混乱の責任をとって退陣を表明した。あれから60年である。

当時私は片田舎の高校2年生。周囲に安保反対を熱く語る人はなく、安保闘争高揚の意味はよく分からなかった。6月15日における樺美智子の死を報じる新聞紙面の興奮は覚えている。安保反対の運動が反戦平和を求めていることくらいの認識はあったが、安保条約のもつ対米従属性やその平和への危険性、あるいは条約と憲法との矛盾などへの理解はほとんどなかった。

その後、上京して進学すると、学内には安保闘争を直接に体験した上級生の、安保を知らない下級生に対する優越感らしきものを意識した。戦後ならぬ「安(保)後世代」という言葉もあった。安保闘争は偉大な大衆運動だった。続く若者たちに、政治的スローガンを掲げて街頭に出ることには何の抵抗もなく、政治文化として定着していた。

当時の学生や労働者にとって、好戦的な帝国主義アメリカと、これと結ぶ従属国日本支配層の不正義は自明のことであった。世界は、東西両陣営と両者に与しない第三世界とからなっていた。帝国主義陣営とその対抗勢力の拮抗を中心に地球は回っていた。日本は、平和国家としての国是をもっている以上、帝国主義陣営に組み入れられることを拒絶しなければならない。

国民を不幸のどん底に陥れたあの戦争を繰り返そうという輩が日本の再軍備を企てて違憲の自衛隊を育て、さらにはアメリカの手先となって自衛隊を極東の防衛に使おうとしている。これが当時の若者の常識であった。日米新安保はそのような日米の戦略の法的な根拠である。安保条約は、日本全土を米軍基地として提供する根拠となり、米軍とその指揮下にある自衛隊とが危険な軍事挑発をしょうとして、東側勢力を挑発している。

のみならず、日米新安保は、経済協力の名で、日本が経済的にアメリカに従属する体制を作り出した。政治的にも日本がアメリカの目下の同盟者になることの誓約でもあった。

多くの同世代の学生と同様、私もすんなりと、以上のように思った。1970年になれば、安保は通告することで平和裡に廃棄できる。安保を廃棄して日本を独立させることで、自主的な全方位平和外交展開の途が開けることになる。そのとき、自主防衛などという名目で日本の軍国主義を復活させてはならない。安保廃棄と並んで、自衛隊の解消ないし削減も、大きな政治課題となる。安保と自衛隊をなくして初めて日本国憲法が花開く。これが当時の常識だった。多くの学生や労働者が、シンプルにそう考えていた。だからこそ、あの国民的大闘争が展開されたのだ。

ところが、その後の事態は、予想したようには進展してこなかった。あの頃、政府がどう弁明しようとも、裁判所が何と言おうとも、安保も自衛隊も違憲が常識だった。ところが今はどうだ。安保も自衛隊もあって当然、安保と自衛隊のどこが問題なのか、いったい何が問題かという世の風潮。

60年安保闘争は戦後15年目のこと、戦争の惨禍への国民的な体験生々しい時代を背景としていた。あの時代、人々は何よりも平和を求め、再びの戦争の恐れに極めて敏感だった。そのことが、学生運動にも労働運動にも反映していた。

その後、憲法を学ぶようになって、二つの法体系論を心に刻んだ。日本国憲法体系と安保法体系の二重構造。両者は矛盾し、現実には安保法体系が日本国憲法の最高法規性を侵奪している。60年間、この構造が変わらない。

60年安保闘争時、学生運動も労働運動も力量を持っていた。運動に携わる人々だけでなく、多くの若者たちが自ずから反権力であった。その後の10年ないしは20年ほど、個人史的には私の青年時代には、そのような風潮であったと思う。未来は若者の手にあり、労働運動の発展が、世の中を変えるだろうと楽観していた。今、そうなっていないことを残念に思う。しかし、だからといって失望もしていない。社会の質が変わるには、長い時間が必要なのだ。

そして今日はもう一つ。敬愛する吉田博徳さんの99歳の誕生日である。吉田さんは、目出度く白寿を迎えた。昨日の赤旗に、60年安保当時の運動の経験を語っておられた。その年齢が(99)としてあったが、これは間違い。「年齢計算ニ関スル法律」によれば、1921年6月23日生まれの吉田さんは、昨日までは98歳。晴れて本日が99歳である。

お祝いの電話をして、すこしお話しした。すこぶるお元気である。最後に言われたのが「私はこの頃、一番大切なものは人権だと思うようになりました」という言葉。続けて「憲法がいう『個人の尊厳』ですね。国内もそうだけど、中国や北朝鮮を見ていると何とかしなければという気持ちになります」とのこと。背筋を伸ばして、肝に銘じた。

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