澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「第2回 平和を願う 文京戦争展・漫画展」開催のお知らせ

(2020年8月4日)
期間:2020年8月10日(月)?12日(水)
時間:8月10日 13:00?18:00
   8月11日 10:00?18:00
   8月12日 10:00?16:00
場所:文京シビックセンター1階 アートサロン(展示室2)
最寄り駅 後楽園(丸の内線・南北線)、春日(三田線・大江戸線)
入場無料

文京・真砂生まれの村瀬守保写真展

村瀬守保さん(1909年?1988年)は1937年(昭和12年)7月に召集され、中国大陸を2年半にわたって転戦。カメラ2台を持ち、中隊全員の写真を撮ることで非公式の写真班として認められ、約3千枚の写真を撮影しました。天津、北京、上海、南京、徐州、漢口、山西省、ハルビンと、中国各地を第一線部隊の後を追って転戦した村瀬さんの写真は、日本兵の人間的な日常を克明に記録しており、戦争の実相をリアルに伝える他に例を見ない貴重な写真となっています。一方では、南京虐殺、「慰安所」など、けっして否定することのできない侵略の事実が映し出されています。

一人一人の兵士を見ると、
みんな普通の人間であり、
家庭では良きパパであり、
良き夫であるのです。
戦場の狂気が人間を野獣に
かえてしまうのです。
このような戦争を再び
許してはなりません。
村瀬守保 

漫画家たちの満州引き上げ証言

中国からの引揚げを体験した漫画家たちの記録
赤塚不二夫、ちばてつや、古谷三敏、北見けんいち、森田拳次、高井研一郎、山口太一など中国から引き揚げてきた漫画家たちが、少年時代の忘れようとして忘れられない過去をまとめてマンガに描いた作品を展示しています。

DVD上映

1 侵略戦争
2 中国人強制連行
3 20世紀からの遺言

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8月は、あの戦争を語り継ぐべきときである。75年前の8月、日本の国民は塗炭の苦しみを経て敗戦を迎えた。夥しい人命が失われ、生き残った人々も愛する多くの人を失った。8月は凝縮された悲しみのとき。忘れてはならないのは、その悲しさ切なさは、日本によって侵略を受けた隣国の人々には、さらに深刻で大規模なものだったことである。

この戦争の惨禍を再び繰り返してはならない。被害者にも加害者にもなるまい。そのような国民的合意から、平和憲法が制定され、我が国は平和国家として再出発した、…はずなのだ。

今あるこの国の再出発の原点である「戦争の惨禍」を、絶対に繰り返してはならないものとして、記憶し語り継がねばならない。平和を維持するための不可欠の営みとして。とりわけ、8月には意識して戦争を語ろう。戦争の記憶を継承しよう。

そのうえで、なぜ戦争が起きたのか。なぜ日本は朝鮮を侵略し、満蒙を日本の生命線だと言い募り、華北から華中、華南へと戦線を拡大したのか。あまつさえ、英・米・蘭にまで戦争を仕掛けたのか。敗戦必至となっても戦争を止めず、厖大な犠牲を敢えて積み重ねたのはどうしてなのか。

できれば、さらに考えたい。この戦争を主導した者の責任追及はなぜできなかったのか。最大の戦犯・天皇はなぜ戦後も天皇であり続けたのか。

8月の戦争を語る企画として、昨年文京では、日中友好協会を中心に「平和を願う文京・戦争展」が開催された。内容は、「日本兵が撮った日中戦争」として、文京・真砂生まれの村瀬守保の中国戦線での写真展を中心に、DVD上映(「侵略戦争」「中国人強制連行」)、そして文京空襲についての体験者の語りが好評だった。思いがけなくも、3日間で1500人もの来観者を得て、大盛況だった。

この盛況の原因は、実は文京区教育委員会のお蔭だった。実行委員会は、文京区教育委員会に後援申請をした。「区教育委員会の後援」とは名前を使ってもよいというだけのこと。「平和宣言」をもつ文京区である。平和を求める写真展を後援して当然なのだが、文京教育委員会はこれを不承認とした。事務局の承認原案を覆しての積極的不承認である。

これを東京新聞が取りあげて後掲の記事にした。この記事を読んで、後援申請を不承認とした文京区教育委員会に抗議の意味で参加という人が多数いて、大盛況だったのだ。

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昨年(2019年8月)の顛末を記しておきたい。
この企画の主催者は、日中友好協会文京支部(代表者は、小竹紘子・元都議)である。同支部は、2019年の5月31日付で、文京区教育委員会に後援を申請した。お役所用語では、「後援名義使用申請書」を提出した。

その申請書の「事業内容・目的」欄にはこう記載されている。

「保護者を含めて戦争を知らない世代が、区民の圧倒的多数を占めています。従って子どもたちに1931年から1945年まで続いた日中戦争、太平洋戦争について語り伝えることも困難になっています。文京区生まれの兵士、村瀬守保氏が撮った日中戦争の写真を展示し、合わせて文京空襲の写真を展示し、戦争について考えてもらう機会にしたい。」

なんと、この申請に対して、文京区教育委員会は「後援せず」と決定した。このことが、8月2日東京新聞朝刊<くらしデモクラシー>に大きく取りあげられた。

同記事の見出しは、「日中戦争写真展、後援せず」「文京区教委『いろいろ見解ある』」、そして「主催者側『行政、加害に年々後ろ向きに』」というもの。

 日中戦争で中国大陸を転戦した兵士が撮影した写真を展示する「平和を願う文京・戦争展」の後援申請を、東京都文京区教育委員会が「いろいろ見解があり、中立を保つため」として、承認しなかったことが分かった。日中友好協会文京支部主催で、展示には慰安婦や南京大虐殺の写真もある。同協会は「政治的意図はない」とし、戦争加害に向き合うことに消極的な行政の姿勢を憂慮している。

 同展は、文京区の施設「文京シビックセンター」(春日一)で八?十日に開かれる。文京区出身の故・村瀬守保(もりやす)さん(一九〇九?八八年)が中国大陸で撮影した写真五十枚を展示。南京攻略戦直後の死体の山やトラックで運ばれる移動中の慰安婦たちも写っている。

 同支部は五月三十一日に後援を区教委に申請。実施要項には「戦場の狂気が人間を野獣に変えてしまう」との村瀬さんの言葉を紹介。「日本兵たちの『人間的な日常』と南京虐殺、『慰安所』、日常的な加害行為などを克明に記録した写真」としている。

 区教委教育総務課によると、六月十四日、七月十一日の区教委の定例会で後援を審議。委員からは「公平中立な立場の教育委員会が承認するのはいかがか」「反対の立場の申請があれば、後援しないといけなくなる」などの声があり、教育長を除く委員四人が承認しないとの意見を表明した。

日中友好協会文京支部には七月十二日に区教委が口頭で伝えた。支部長で元都議の小竹紘子さん(77)は「慰安婦の問題などに関わりたくないのだろうが、歴史的事実が忘れられないか心配だ。納得できない」と話している。

 村瀬さんの写真が中心の企画もあり、二〇一五年開催の埼玉県川越市での写真展は、村瀬さんが生前暮らした川越市が後援。協会によると、不承認は文京区の他に確認できていないという。

 協会事務局長の矢崎光晴さん(60)は、今回の後援不承認について「承認されないおそれから、主催者側が後援申請を自粛する傾向もあり、文京区だけの問題ではない」と話す。「このままでは歴史の事実に背を向けてしまう。侵略戦争の事実を受け止めなければ、戦争の歯止めにならないと思うが、戦争加害を取り上げることに、行政は年々後ろ向きになっている」と懸念を示した。

なんと言うことだろう。戦争体験こそ、また戦争の加害・被害の実態こそ、国民が折に触れ、何度でも学び直さねばならない課題ではないか。「いろいろ見解があり、中立を保つため」不承認いうのは、あまりの不見識。「南京虐殺」も「慰安所」も厳然たる歴史的事実ではないか。教育委員が、歴史の偽造に加担してどうする。職員を説得して、後援実施してこその教育委員ではないか。

「戦争の被害実態はともかく、加害の実態や責任に触れると、右翼からの攻撃で面倒なことになるから、触らぬ神を決めこもう」という魂胆が透けて見える。このような「小さな怯懦」が積み重なって、ものが言えない社会が作りあげられてていくのだ。文京区教育委員諸君よ、そのような歴史の逆行に加担しているという自覚はないのか。

文京区教育委員会事案決定規則(別表)によれば、この決定は、教育委員会自らがしなければならない。教育長や部課長に代決させることはできない。その不名誉な教育委員5名の氏名を明示しておきたい。

すこしは、恥ずかしいと思っていただかねばならない。そして、ぜひとも、今年こそ汚名を挽回していただきたい。

教育長 加藤 裕一
委員 清水 俊明(順天堂大学医学部教授)
委員 田嶋 幸三(日本サッカー協会会長)
委員 坪井 節子(弁護士)
委員 小川 賀代(日本女子大学理学部教授)

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