澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその7

 昨日に引き続いて、本日も2部構成。第1部が、宇都宮選対に参加して不当な「任務外し」を経験した、澤藤大河(澤藤統一郎の息子)の執筆による報告。
そして、第2部が安倍首相の靖国神社参拝への、昨日とは別の切り口。興味をもってお読みいただけるように、工夫をしたつもり。是非お読みいただきたい。

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            宇都宮選対の体質と無能力について
・スケジュール管理の問題
昨日述べたとおり、宇都宮選挙での私の任務は候補者のスケジュール管理だった。
 候補者の予定は多岐にわたる。主なものとして、各種支援団体への挨拶、マスコミへの取材協力、テレビ局での収録、運動を行っている団体と共に現地の視察、各種集会での幕間挨拶、そして街頭宣伝などがある。

 この候補者スケジュールの設定に大きな問題があった。まず、「貴重な」宇都宮候補の身柄の時間的分配をどうするのかその基本的な原則がない。それだけでなく、意思決定の手続のあり方が全くわからない。
 多くの団体・個人が集会を企画し、宇都宮さんに参加してほしいという要望を選対に寄せてきた。確かに、この全てに参加することはとてもできない。しかし、少なくともどういうルールで宇都宮さんが参加するのか原則の公開と、個別的にどのような理由で参加できないのかを誠実に説明することは最低限のマナーとして絶対に必要であった。しかし、現実には、選対は参加要請にきちんと返答することもなく、「メールしたのに返事がない」「返事を約束しておきながら、すっぽかしだ」という苦情が絶えず、宇都宮さんに同伴している私にも多くの方が不満が訴えられ、選対へ伝えるように依頼があった。私はその都度常に、熊谷伸一郎事務局長(岩波書店編集部従業員)に伝えたが、苦情は終盤まで絶えなかった。

 多くの政党や政治勢力が対等な立場で支援をしていたのだから、支援してくれる各政党や政治勢力に、実質的に等距離で接し、なによりも外形的に公平に扱う必要があることは明らかだった。このことは、総選挙と同時選挙になって、宇都宮さんが各党の衆院議員候補者と相互に応援し合う関係が生じてからは、とりわけ重大な問題となった。しかし、宇都宮選対の作成した実際のスケジュールが、公平なものでなかったことは誰の目にも明らかだった。どうして、選対内部や事務局から、あるいは支持政党の側からこのような非原則的な運営に批判が出なかったのだろうか。
 候補者との個人的知り合いだったからか、選対本部構成員の誰かとの関係が深かったからか、例えば初鹿衆院議員候補への応援には2回行っているし、山本太郎衆院議員候補への応援も2回計画されていた(私を解任した後の無能な随行員の不手際により2回目は参加できていない)。各党の全候補者を平等にひと回りする時間的余裕はないのだから、特定候補者の応援に2度駆けつけるのは明らかに不公平。これに対して、例えば日本共産党やみらいの党(生活)などの衆院選候補者の多くは1回の応援も得ていない。

 また、候補者スケジュールの決定は信じがたいほど不手際で、遅すぎた。これは、単なる事務的な能力不足という問題ではない。むしろ、この選挙の意義を自覚して勝とうという本気さが足りなかった。いや、足りないというのは不正確、皆無だったというべきだろう。アルバイト気分の選挙事務局スタッフには、選挙に勝ちたい、勝つために工夫をし、そのための努力をしよう、この選挙を勝ち抜くために人の意見も聞こう、苦い批判にも耳を傾けようというまじめさがなかったからではないか。「仲間内のなかよしを重視した楽しい選挙戦」に終始し、重要な選挙戦にふさわしい、選対事務が行われていたと胸を張れる者はいないはずだ。

 驚くべきことだが、選挙序盤では、熊谷伸一郎事務局長(岩波)の「安全上の問題から、宇都宮候補の予定は公開されるべきでない」という馬鹿げた方針によって、選対に宇都宮候補はどこにいるのか問い合わせても、教えないし答えられないという状況だった。

 一回一回の街頭宣伝に多くの人に集まってもらい、勢いのある様子を都民に見てもらうことが街頭宣伝チームの任務だと考えていた私は、選対事務局の秘密主義には困惑した。この選対事務局長の秘密主義により、街頭宣伝に全く人が集まらないことが続いた。あまりの事態に、私だけでなくチームのみんなが不満を述べた。その結果、この秘密主義は修正され、街頭宣伝の予定が公開されるようになる。熊谷さんはどうして、このような馬鹿げた指示を出したのだろうか。彼限りの判断だったのだろうか。誰が「秘密主義方針」の決定に賛成し、また方針変更することになったのか。こんな「大失敗」がきちんと内部的な総括の対象になっているとは今まで聞いていない。

 しかし、秘密主義の方針撤回以後がたいへんだった。スケジュールの決定は極めて遅く、前日の夜になっても翌日の予定がよくわからないことがたびたびであった。これには、宇都宮さんも閉口し、私に対して、選対本部にスケジュールの早期決定を要求するように何度も指示している。この指示を受けての私と選対事務局との交渉が、先鋭的な対立の具体的な理由となった。

 とにかくスケジュールの決定が遅いのだから、明日の街宣の予定が立たない。予定地付近の支援団体や勝手連に事前の告知ができない。その結果として行く先々の街頭宣伝に人が集まらない。候補者の行く先々が大変寂しい状況が続いた。これで宇都宮支持の熱気が盛りあがるはずもない。この状況を打開するためには、とにかくスケジュールを早く決めて、そこにたくさんの人が参加するように時間の余裕をもって呼びかける必要があることは自明だった。私だけでなく、街宣車の車長(杉原氏)も、その他の街頭宣伝メンバーも皆一致した認識だった。街宣車の主要なメンバーでの話し合いは頻繁にもたれ、選対本部に対してもっと早期のスケジュール設定と開示を求めることになった。

 選対本部との交渉の役割を誰が担うべきか、特に任務分担があるわけではない。候補者はやらない。車長もやろうとはしない。候補者を予定通りに現場に連れて行くことが私の任務であり、その予定を得るためでもあるので、私がその役割を引き受けることになった。もちろん、選対には最初から厳しく要求したわけではない。電話でメールでFAXで、予定を求め続けた。しかし、選対の対応は、信じがたいほど緩慢だった。通常の企業であれば到底許容できない水準の怠慢といってよい。

 私が、選対本部にスケジュールを求めると、「未だ決まっていない」と言う。じゃあ、いつ決まるのか、と問うと「分からない」と言う。誰がどのようにして決めるのか、聞いてもさっぱり要領を得ない。最終的には熊谷事務局長が決めるという。熊谷事務局長はどこかと聞けば病院に行ってしまい、いつ戻るかわからないという有り様。挙げ句の果てには、「街頭宣伝などでは大きな票を動かすことはできない。事務局はマスコミ対策で手一杯であり、街宣はその後に位置づけられている、スケジュールが出なくてもそのまま待っていればよい」と言われる始末。
 ようやく熊谷事務局長をつかまえて、決定権者が不在で決定できないなら、別人が決定できるような仕組みを作るべきではないかと言えば、「おまえの仕事はそんなことではない。僭越だ。言われたとおりの仕事をやっていろ」というのが熊谷伸一郎事務局長(岩波)の言だった。言われたとおりの仕事をしようにも、どう仕事をすべきか事務局長が決めるべきスケジュールが決まらないから、仕事が出来ず困っているのだ。この人の言うことは非論理的でよく分からない。ともかく、これでは選挙戦の体をなさない。このときは、街宣車が大東京の中の「迷える仔羊」になったようで心細い限りであった。

・熊谷事務局長「居留守」問題
 熊谷伸一郎事務局長(岩波)のその任に適さない事実をもう一つ挙げておこう。
 四谷三丁目の選挙事務所を借りる前、東京市民法律事務所を間借りして選挙運動の立ち上げ準備をしていたころ。私が選対に参加して2日目だから、11月20日の出来事である。
 「明るい革新都政を作る会」の中山伸事務局長が、熊谷伸一郎事務局長(岩波)と連絡を取ろうと、何度も何度も電話をかけてきた。
 私はその度の電話を受け、帰ってきた熊谷事務局長に伝言し、返電するよう伝えた。
 それに対する熊谷さんの言に驚いた。「ああその人には電話しない」「その人には(熊谷は)いないっていって」「ぼくはその人が嫌いなんだ」「その人が、出馬会見前に支持表明しようとして、生活の党からの支持が吹っ飛ぶところだった。大変な迷惑を被ったんだ」というのだ。

 中山伸さんは、さらに熊谷事務局長が在室している時にも熊谷さん宛に電話をかけてきた。熊谷さんは、電話を受けた者に対して、声を出さないまま両手の人差し指をあごのひげの前で交差させ、居留守を使うように指示した。

 勤務2日目の私も、さすがに批判を口にした。「居留守なんか使わずに、電話に出てお話しすべきでしょう。選挙戦は短いんですよ」と言ったところ、「そのうち電話するからさ」との返事だった。ああ、この人は、不誠実きわまりない人物なのだ。

 この「明るい革新都政を作る会居留守事件」が、熊谷事務局長と宇都宮選対全体の体質についての、私の第一印象として深く刻みこまれた。その後の事態の推移は、この第一印象を訂正するものではなく、正しさを確認するものだった。

 この選対は、共闘の結節点としての重責を担う資格がない。共闘を成功させるための選対は、高い道義性によって信頼を勝ち得なければならない。その観点からは、共闘の重要な構成団体の事務局長への「嫌いだから、居留守」は、不適格を明らかにしたものではないか。意見の相違があれば、政治的に指摘すべき問題点があれば、会ったうえでそれを批判するのが当然の道義だろう。また、ひとりの社会人のあり方としても、居留守を使うのが恥ずかしいこととは思わない感性の持ち主は信頼し得ない。周囲の選対スタッフに、自らが裏表のある信頼できない人物であると公言しているに等しい、という認識がない。熊谷伸一郎事務局長の能力の不足は後に知ることになるが、道義の欠如はここで明らかだった。

 また、生活の党からの支持を得ることが重要だという、選対(あるいは熊谷)の政治判断もまた批判的に検討されねばならない。生活の党の支持を得ることが「明るい革新都政を作る会」との友誼の形成を二の次としてた優先課題であったか、それがどれだけの効果を生じさせたのだろうか。この検証はされていない。

・随行員としての任務外し
 私は、選挙戦を4日残した12月11日午後9時30分に、突如上原本部長から、選対事務所に呼び出され、そこで、随行員としての任務外しを言い渡された。青天の霹靂のことである。これは事後にわかったことだが、後任の人選まで事前に済ませており、周到に準備された「だまし討ち」だった。
 熊谷伸一郎事務局長(岩波)は、「翌日休むように命令しただけで、任務を外す命令ではない」と言っているようだが、詭弁も甚だしい。選挙戦はあと3日しかないこの時期に、候補者のスケジュール管理に責任をもっている私を、慰労のために休まようとしたとでも言うのだろうか。一刻も選挙活動のための時間が惜しいこの時期に、私を休ませる理由があるはずはない。実際、私を外したことによる後任の不慣れによる不手際は現実のものとなっている。上原本部長や熊谷伸一郎事務局長(岩波)は、選挙運動の円滑な運営よりも、私への「小さな権力の誇示」と「嫌がらせ」を優先したのだ。
 企業が、邪魔な労働者に嫌がらせをする際には、まやかしの理由でカムフラージュするものだが、「疲れているようだから休養の指示」というのは、もっともらしい理由にもなっていない。
 私が、任務外しの理由を問い質したところ、まずは「疲れているから」というものだった。それに加えて、「女性は厳禁とされた随行員に、選対本部の許可なくTさんを採用したこと」も、理由とされた。なんと馬鹿馬鹿しい理由。
 私は反論した。ここで一歩も退いてはならないと思った。直感的に、これは私だけの問題ではない。選挙共闘のあり方や、「民主陣営」の運動のあり方の根幹に関わる問題性をもっていると考えたからだ。
 まず、「命令」なのか確認をしたところ、上原公子選対本部長は「命令」だと明言した。私はこれは極めて重要なことと考え、上原選対本部長には「命令」する権限などないことを指摘した。お互いにボランティア。運動の前進のために、合理的な提案と説得と納得の関係のはず。上命下服の関係を前提とした「命令」には従えない、ことを明確にした。このときの上原公子本部長の表情をよく覚えている。彼女は、熊谷事務局長と目を合わせて、にやにやしながら、「この人、私の命令を聞けないんだって」と笑ったのだ。私はこの彼らの態度に心底怒った。
 それでも、論理的に説得しようと務めた。逃げ腰の上原公子選対本部長を制して、この不当な措置に対する私の言い分を聞くよう要求した。その結果、私は上原公子本部長にようやく2分間だけ弁明の時間を認めさせた。上原公子選対本部長は、夜の9時半にわざわざ私を呼び出しておいて、「忙しいから2分間だけ」ということだった。
 私は、その2分間で、「ボランティアのTさんに随行員となってもらったのは、車長も含む街宣チーム全員の話し合いの結論だったこと。選対事務局に人員増強の要請をしても応じてもらえず現場の必要に迫られての判断だったこと。そして、市民選対の誰にも、命令の権限も服従の義務もないこと」を喋るつもりだった。
 しかし、このわずか2分間の約束も守られなかった。私の弁明は途中で打ち切られた。上原公子選対本部長は、「会議に呼ばれているから、そっちに行かなくちゃ」と、結局は1分半で席を立って姿を消した。

 得難い経験だった。不当解雇された労働者の無念の気持がよく分かった。理不尽な「小さな権力」の横暴の恐ろしさが身に沁みた。「この人、私の命令を聞けないんだって」という上原と熊谷の薄ら笑いを忘れることはないだろう。

 こうして、私とTさんとは、随行員としての任務から外された。翌日のスケジュールにしたがって、いつものとおり街宣車に乗ろうとしたが、気の毒そうに車長から拒否された。

 私は、その後は本郷の自宅付近で、近所の勝手連の人々と一緒に街宣活動やビラ撒きに参加した。Tさんは、心配して遠巻きに候補者を気遣い、ある局面では後任者の手際の悪さから、うろうろしていた宇都宮さんを誘導して昼食がとれるように案内したことがあったという。このとき、内田聖子運動員(選挙運動報告書によれば選挙運動報酬5万円受領)から、「あなたは任務を外されたのだから余計なことをしないで」と面罵されたそうだ。これは、宇都宮さんの面前のことだったが、宇都宮さんは見て見ぬ振りだった。そう、涙ながらに聞かされた。

 この任務外しの真の目的が何であったのか、今冷静に考えても私にはわからない。残り3日という最終盤になって、人事をいじって混乱を持ち込む必要は全くないはずだった。私が選対に過度に批判的だったとしたところで(もちろん、私は正当な要求だと考えているが)、この選挙最終盤には私は候補者と共に移動し続け、選対事務所に戻る機会さえなかったのだから、選対事務に実害が及ぶはずがない。結局は、「小さな権力を誇示したい」「澤藤に嫌がらせをしておきたい」という動機しか考えようがない。その機会は、選挙が終わってからでは間に合わない、最終盤を迎えた選挙運動への影響はどうでもよい、今のうちにやってしまえ、と考えたのであろう。ボランティアのTさんは、あきらかに私の巻き添えで、申し訳ないと思う。しかし、私にとっての救いは、全ての経緯をよく知っているTさんが、私と一緒に、選対と候補者に怒りを燃やしていることである。選対にはそのやり口の汚さ、宇都宮さんには弱者の側に立たない優柔不断さに憤っておられる。

・市民選対内部の「権力関係」について
 そもそも、市民選対において、選対本部長だろうが事務局長だろうが、ボランティア参加者に命令ができる権限があろうはずがない。この点で、あたかも「業務命令権限」をもっているかのごとき感覚の両名に反省を促したい。そんな感覚だから、人が集まらない。参加した人が生き生きと活動できないのだ。このような、市民運動を担うにふさわしくない人物が運動の中心に坐ったことが、選挙の失敗の大きな原因であったろう。

 まずは、対等・平等な立場で市民が参加し結集していることを確認しよう。すべての参加者が自発性に支えられて活動をしている。そこには、命令服従の関係はなく、誰の誰に対する命令権限も服従義務もない。あるのは、合理的な提案と、自発的な賛意に基づく行動の原則である。提案には丁寧な説明・説得がともない、それに対する納得があって、個人が行動に立ち上がる。意見の齟齬があれば、批判の権利が保障されたうえで、説得と納得によって人を動かすしかない。問答無用で人を動かすことはできない。うっかり、そんな権力的な人に権限をもたせたらたいへんなことになる。

 選挙運動参加者はあくまで平等である。もちろん、寄付の金額の大きな人が、大きな影響力を持ってはならない。誠実な運動参加者こそが、自ずから影響力をもつことになるだろう。
 敢えて、選挙運動参加者の立場の上下に触れるとすれば、一円ももらっていないボランティアの運動員が本来的な選挙運動の主体である。金をもらった労務者(上原公子10万円・服部泉10万円・石崎大望17万円など)、あるいは派遣元から金をもらっている者は、実質的な意味での選挙運動、すなわち選挙政策の決定・宣伝・人事等に関わってはならない。「会」と、「労務者」「事務員」「車上運動者」との間には、単純な労務の提供、純粋な事務作業を目的とする雇用契約が成立し、そこでは職務命令が可能になる。つまり、会の運動を支えているボランティアと、金をもらった労務者との間には、明らかに法的な立場の区別がある。金をもらっている労務者に、ボランティアが命令されるという、本末転倒な状況が生じていたのだ。

 私は随行員としての任務を誠実に遂行してきた。常に陣営の利益のために、4つの柱の政策のもと、時には候補者本人よりも原則的に対応してきた。現場に候補者を連れて行けなかったことは一度もない。これは、そう当たり前の簡単なことではない。交通事情・事故情報を勘案しながら、目的地に最も早く到着する方法を常に考え続けなければならない。宇都宮さんがタクシーで移動する時間を調整し、携帯電話で会話できる状況を作り上げ、三鷹公団団地弾圧事件の被害者と電話で会話できるように舞台設定もした。選対本部と相手先に到着予定時刻を刻々と報告し続ける。街宣車での自動車移動では間に合わないと判断し、途中で電車に乗り換え、集会に遅刻せず到着したこともたびたびある。
 私が解任された後の後任の随行員は、漫然と街宣車での移動を続け事故渋滞に巻き込まれ、選挙戦最終日の前日、街頭宣伝集会に宇都宮候補を大幅に遅刻させ、集会参加を断念するという不手際を演じている。私は十分にその任を果たしたと自負している。

 一方、スケジュール一つ決めることのできない選対本部長・事務局長・選対本部は、選挙戦全体を統括する能力に欠けていたというほかない。
 その選対が、私を切ったのだから、何とも奇妙な本末転倒の出来事というしかない。

 思い出すと、止めどがない。今日はこれまでとしたい。私も、受験生の身でこの作業に多くの時間を割く余裕はない。明日で一応完結としたい。明日は、私とTさんの、権利侵害回復の要請に、宇都宮さんと「人にやさしい東京をつくる会」がどのような対応をしたかについて、お知らせをしたい。

 私は、このことは、重大なことと考える。明日の私の報告をお読みになった上で、宇都宮さんを本当に推せるのか、「人にやさしい東京をつくる会」の再度の活動が認められるのか、よくお考えいただきたい。

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             安倍晋三のホンネ

八百屋に行って魚は買えない。永田町では倫理を手にできない。靖国では平和を語れない。

富士には月見草がよく似合う。鳩にはオリーブだ。靖国は軍国神社、軍服を着たおじさんの進軍ラッパがよく似合う。とうてい「不戦の誓い」が似合うところではない。

安倍晋三個人が、こっそりと、まったく誰にも知られず(秘書にも神社側にも隠れて)の参拝であれば、どんな神社に行ったところで、「私的参拝」と言える余地はある。しかし、今回の参拝を私的な行為として言い逃れはできない。政教分離の憲法原則に違反することは明白だ。

昨日のブログで詳述したとおり、憲法は歴史認識の所産なのだ。つまりは、侵略戦争と植民地主義への反省に立脚して形づくられた。首相が、憲法の政教分離原則に違反して靖国神社参拝をしたということは、とりもなおさず侵略戦争への反省をしていない。植民地支配への反省もしていないということなのだ。だから、中国も怒る。韓国も叫ぶ。今度は「価値観を共有している」はずのアメリカまでが、「失望した」と言い出している。先の大戦の敵国であったことを思い出しているのだろう。

安倍が、参拝後の談話の中で、次のとおり言っているのは、噴飯ものである。
「日本は二度と戦争を起こしてはならない。私は過去への痛切な反省の上に立って、そう考えている。戦争犠牲者の方々のみ霊を前に、今後とも不戦の誓いを堅持していく決意を新たにしてきた。」

「アンダーコントロール」と「完全にブロック」の例を持ち出すまでもなく、安倍は嘘つきである。世界中の誰もが、安倍の言葉を信じていない。本気で不戦の誓いをするのなら、こんなに似つかわしからざる舞台は他にない。

「中国、韓国の人々の気持ちを傷つけるつもりは全くない。…中国、韓国に対して敬意を持って友好関係を築いていきたいと願っている。」のであれば、靖国神社に参拝すべきではなかった。

安倍は、思い切り人をぶん殴っておいて、「あなたを傷つけるつもりなど毛頭ありません。今後とも、敬意を持ってあなたとの友好関係を築いていきたいと願っています」と言っているのだ。

安倍談話の中で私が注目したのは、「また戦争で亡くなられ、靖国神社に合祀(ごうし)されない国内、及び諸外国の人々を慰霊する鎮霊社にも参拝した。」と、鎮霊社を持ち出したこと。かねて用意の小細工が、こんな形で利用されたか、という思い。

私は、ときに人を靖国神社に案内する。そのときは、必ず、鎮霊社をよく見ていただく。その壮大さや華麗さを、ではない。その規模の小ささ、みすぼらしさを、手入れの悪さを、である。壮麗な本殿のすぐ近くで、鎮霊社のみすぼらしさと粗末な扱われ方は際立っている。私は、これを「靖国の差別」の一例と紹介している。ここから、靖国における「魂の差別」「死者の差別」を語り始めることができるのだ。

鎮霊社とは、靖国神社にもともとあったものではない。靖国神社自身のパンフレットには、「戦争や事変で亡くなられ、靖国神社に合祀されない国内、及び諸外国の人々を慰霊するために、昭和40年(1965)に建てられました。」とある。

1964年、自由民主党は「靖国神社国家護持に関する小委員会」を設置し、ここを拠点に靖国神社国家護持を内容とする法案提出を狙った。1969年から1972年にかけて議員立法案として自民党から毎年提出されたが、廃案に終わった。なお、この企図が潰えて後に、靖国神社公式参拝要請運動に転じることになった経緯がある。

靖国神社が国民的な支持基盤を持っていることは否定し得ず、この民衆の支持を侮ってはならない。また、遺族を中心とする靖国信仰の心情を理解するに吝かではない。戦死者の遺族に接するときには背筋を伸ばさなければならないとは思っている。

しかし、反靖国感情も根強い。それは、靖国神社が軍人軍属の戦死者だけを祀っているからだ。いわば、差別構造に支えられているから。靖国法案を成立させるにも、この点の反靖国感情がネックと考えられた。それならば、靖国神社の構内に、全戦没者の霊を祀る施設をつくればよいということになった。それが、鎮霊社創建の動機である。こうして、安直な動機で、鎮霊社が創建された。靖国神社の合祀対象者を除く国内外の全戦没者を祀っているという意味付けである。朝敵側の戦没者も、民間人戦没者も、外国人戦没者も、「その他」一切が祀られている。だが、明らかに、「英霊」と「その他」との取り扱いは天と地ほどの差なのだ。鎮霊社のみすぼらしさが、そのことを視覚的に表現している。

靖国神社(国家護持)法案は、その後、憲法問題をクリアーするには鳥居から賽銭箱から、神社という社号までなくさねばならないとなって、靖国神社自身も反対に回った。こうして、法案は断念されたが、靖国神社のご都合主義から創建された鎮霊社は残った。残ったもののこれは継子である。当然のごとく、継子としての粗末な扱われ方しかされない。靖国神社自身が、「鎮霊社の御祭神は奉慰の対象だが、御本殿の御祭神は奉慰顕彰の対象」としており、本殿祭神とは明確な差別を設けている。要するに、鎮霊社創建のあとといえども、「顕彰の対象」とされているのは、皇軍の軍人・軍属だけなのだ。賊軍にあって朝敵とされた者が、祭神として顕彰の対象となることは絶対にない。

靖国神社は、天皇制と軍国主義の結節点にある。天皇への忠誠の有無如何で、死者においても敵味方を差別するのが、靖国の特異な思想なのだ。賊軍の戦没者は未来永劫に敵、けっして靖国神社に祀られることはない。敵国人も同じ。そして、民間人も同様である。

もともとが血なまぐさい幕末の抗争の中での、「勤皇」方の復讐の儀式。この儀式を行う場所として1869(明治2)年東京招魂社が創建され、1879(明治12)年に靖国神社と改称された。招魂祭と名付けられたその儀式は、味方の死者の怨みの霊魂を祀って、その霊魂の前で復讐を誓った。その原型の思想は、今も靖国神社の教説に脈々と受け継がれている。

靖国神社とは、天皇のための忠死者を顕彰する施設。天皇への忠誠故の戦死を褒め称えるための施設。戦死は浄化され、その戦死をもたらした戦争も聖化される。侵略戦争という本質は覆い隠され、戦争批判は影をひそめることになる。幕末当時と同じメンタリティで、戦死者の前では復讐が誓われる。

鎮霊社の創建と、その後の継子いじめは、むしろ「皇軍戦死者」と「その他の戦争犠牲者」との差別を際立たせることになった。安倍の小細工利用の思いつきも、却って逆効果でなかったか。

安倍が隠したホンネは以下のとおりなのだ。
「英霊の皆様、とりわけA級戦犯として無念の死を遂げられた皆様。ようやく、臣安倍晋三が、皆様のご無念をお晴らし申し上げるときがやってきました。国家が、富国強兵の目的のもと、版図を拡大するための戦争を行うのは、正当なことです。しかも、皆様がご苦労された戦争は我が国の自存・自衛のためのもの。反省すべきは、果敢に闘ったにもかかわらず、武運拙く戦争に敗れたこと。兵力の不足と、鍛錬の不足、そして武装のための経済力の不足でした。これからは、一意専念、アベノミクス効果で国力を増強し、武器産業を拡充し、国民には愛国心を叩き込み、軍事費拡大による軍備の増強と軍事法制の充実をはかります。幸いに、特定秘密保護法は国会を通過し、新たな大本営であるNSCもできました。集団的自衛権行使容認ももうすぐ。憲法改正だって夢ではありません。大っぴらに戦争を語ることのできない異常な時代はもうすぐ終わります。着々と、天皇をいただいた大日本帝国時代の日本を取り戻す計画が進行しております。ですから英霊の皆様、なかんずくA級戦犯の皆様、安らかに我が国の軍国化の将来をお見守りください。」
(2013年12月27日)

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