(2021年7月8日)
えー、ようやく手許に原稿が届きましたので、読み上げます。いや、会見を始めさせていただきます。
もう皆様ご承知のとおり、7月23日から始まる東京オリンピックは、緊急事態宣言下に行われることになります。これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、「しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、安全・安心の大会を実現する」ということでした。この方針にいささかの揺るぎもございません。その趣旨に鑑み、首都圏1都3県のオリ・パラ競技は、「無観客」での開催ということにいたしました。国民の命や健康を守るための措置ですので、皆様にはご了解いただきたくお願い申し上げます。
原稿はここまでですので、私からは以上です。ご質問はできるだけ、手短に。
幹事社からの質問です。これまで政府は、「人類がコロナに打ち勝った証しとしての東京五輪」を謳っていたと思います。しかし、現実には緊急事態宣言下のオリンピック開催になってしまいました。結局、人類も日本も、コロナに打ち勝つことはできなかったとの理解でよろしいでしょうか。
まず、これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催するということでした。今後も、その方針に変わるところはございません。次の方どうぞ。
「無観客」での開催ということがイメージしにくいのでおたずねします。おそらくチケットを購入した観客は会場に入れないということでしょうが、アスリートのほかには、いったい誰が競技場に入ることになるのでしょうか。
えー、これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催するということでした。完全無観客での開催は、これまで予定されていた「収容人数の50%までで上限1万人」に比較して、随分と安全で安心なオリンピック・パラリンピックになるということも事実ではないでしょうか。
はい、次の方どうぞ。
これまでは、IOC委員などの「五輪ファミリー」や、スポンサー企業は別枠として観戦を認める方向と言われてきました。これには世論の強い反発があります。「無観客」というと、別枠を否定してシャットアウトするようにも理解できますが、その理解でよいでしょうか。もし、別枠を認めるとすれば、どのくらいの数を想定していますか。
そのことですが、これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催するということでした。IOC関係者や招待のスポンサー企業関係者を入れるか否かについても、しっかりと感染対策を徹底させていただきます。
はい、次の方。
開会式も、「無観客」と伺いましたが、天皇も参加しないということでしょうか。それとも、「観客外」の別枠の一人として、開会式に参加するのでしょうか。
えー、これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催するということでした。天皇陛下の命や健康を守り、国民のために安全で安心な開会式といたします。
はい、次の方。
これまで総理は、「有観客」に強くこだわってきました。突然の方針転換の理由は、都知事選での自民の伸び悩みでしょうか。それとも、このところの新たなコロナ感染者の急増なのでしょうか。
えー、これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催するということでした。この方針を総合的俯瞰的に具体化するとなれば、「無観客」という結論しかない。こう考えることが当然ではないでしょうか。
次の予定がありますので、この辺で打ち切らせていただきます。
もう一点だけお伺いします。国民の安全安心を第一にお考えなら、当然にオリパラ中止とすべきではないでしょうか。多くの国民がそう思っています。総理には、この国民の声が聞こえませんか。
これまで繰り返し申し上げてきたとおり、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催いたします。そのための無観客開催じゃないですか。これ以上のことは、ペーパーに書いてありませんので、またいつか。
(2021年7月7日)
生来、褒められた経験はほとんどない。子どもの頃から表彰などとは無縁だった。先年、期成会から寄稿の一文を褒めていただいただき、賞状をいただいたことが唯一の例外だろう。
その私に日弁連から「表彰状」が贈られてきた。まったく唐突に、である。その全文を紹介しておきたい。
表彰状
会員 澤藤統一郎殿
あなたは50年の永きにわたり法曹として職責を果たされてきました
この間人権の擁護と社会正義の実現を使命としてたゆまぎる努力を重ねてこられまた司法制度の改善発展のために多大なる貢献をされました
あなたのこの貴い業績をたたえるため記念品をお贈りして表彰いたします
令和3年6月11日
日本弁護士連合会
会長 荒 中
事前に何の連絡も問い合わせもなかったが、「50年の永きにわたり法曹として職責を果たされてきました」「この間人権の擁護と社会正義の実現を使命としてたゆまぎる努力を重ね」「司法制度の改善発展のために多大なる貢献をされました」と言われれば、いささかの自負はある。だから、日弁連から、「あなたのこの貴い業績」と言われれば、嬉しくもなる。
とはいうものの、これは在職50年会員(232名)に対する同文の表彰文言なのだ。特に私の具体的な弁護士活動に着目しての表彰ではない。弁護士たる者かくあるべしという抽象的な理想の弁護士像を表彰理由として書き込んだだけのこと。
それにしても、「法曹としての職責」を「人権の擁護と社会正義の実現」と確認したうえ、「司法制度の改善発展」としている日弁連の姿勢は評価に値するものと思う。「政財界で活躍し」とか、「弁護士の社会的地位を高め」とかは言わないのだ。
ところで、「令和3年6月11日」という日付の無神経さに驚く。私が、元号大嫌いなことを知っての嫌がらせかとも思いたくなる。西暦表示を原則にして、どうしても元号表示にしてくれという変わり者がいたら直してやればよいではないか。いずれにしても、二通りの紀年法があることが、たいへんな混乱をもたらしているのだ。
表彰状と一緒に、事務総長名の添え書きも送られてきた。これも、「令和3年6月吉日」である。せっかくの表彰が興醒めで、不愉快でもある。
が、その文中に、「記念品は別便にて,7月上旬までにお届けする予定です」とあった。「記念品」とは何だろう。少し機嫌を直して楽しみにしていたら送ってきた。立派な卓上ケースである。印鑑と朱肉と名刺を入れるサイズ。七宝のキラキラがまぶしい。
問題は、この筺のデザインである。どうしても引っかかるものを感じる。真ん中に、金色の弁護士バッジがある。その下に左右一輪ずつのヒマワリがある。これはよい。しかし、弁護士マークを囲むように、2羽の鳳凰がヤケに目立つのだ。古代より「有徳の天子が位に就く時に現れる」というあの鳳凰である。
弁護士バッジは、ヒマワリの花を図案化したものというが、この筺の中央にある金ピカのマークは、菊の紋章に見えなくもない。邪推すれば、ことさらに似せて作ったとさえ思われる。
菊の紋章を囲む2羽の鳳凰。さすがに龍までは書き込まれていないが、皇室礼賛のデザインと見まがうばかり。在野精神を貫くべき弁護士への贈答品として、とうてい適切とは思えない。表彰され記念品をもらってのことで、口にはしにくいのだが、皇室の雰囲気に似せて目出度い雰囲気を演出しましたよ、と言われているようで、こちらも興醒めなのだ。
(2021年7月6日)
毎日新聞の仲畑万能川柳欄にはいつも感心させられる。採用句にはことさらに奇を衒ったものはない。良質な社会の感覚の反映と見てよいと思う。
その川柳欄にオリンピック礼賛の句はない。誰が見ても不合理なIOCもオリンピックも、その権威は地に既に落ちている。揶揄のネタでしかないのだ。ごく最近の掲載句から、IOCをテーマにしたもの、オリンピックそのものを詠み込んだもの、東京五輪に関するもの、そしてコロナとオリンピックに関するものと、分類して引用してみる。
IOCは徹底してバカにされている。国民の怒りの対象だが、ストレートに怒りをぶつけていては、佳作にならない。ひねりの利いた句に、溜飲が下がる思いがする。
IOCの正体見たり魑魅魍魎 熊本 坪井川
夏空や魔王降臨IOC つくば かっぱ
IOC銀銅なくて金金金 北九州 藤井真知子
バッハさん何の犠牲も払わない 福岡 朝川渡
犠牲やらアルマゲドンやら云う五輪 神奈川 荒川淳
僕たちはIOC(イヤなオッサンクラブ)です 札幌 紅帽子
ガースーさん煽(おだ)てて稼ぐハッバさん 東京 カズーリ
バッハ氏の言うわれわれは誰なのか? 福岡 朝川渡
開催し後は野となれ山となれ 水戸 AカップT
オリンピックそのものに対する評価は、極めて辛辣である。国民は、オリンピックをよく見つめ、忌まわしいもの、禍々しいものと断じている。この評価は、今後変わることはないだろう。
絶対に民主主義ではない五輪 相生 岡本雅人
五輪はな毎回ギリシャで質素にせえ 京都 語句
参加より開くが五輪の新理念 東京 城山光
責任の回避レースもある五輪 湯沢 馬鹿馬太物
考えたこともなかった五輪意義 千葉 ペンギン
「五輪て?」考えている日本人 千葉 ペンギン
避妊具もお酒もあるよ五輪です 箕面 のうめい
五輪よりあたしゃ観たいの小劇場 札幌 紅帽子
五輪より危ないらしい運動会 福岡 つとかぶら
オリ・パラの声高くして耳痛し 北九州 けめちゃん
やるやれぬチキンレースになる五輪 久喜 高橋春雄
ススメススメ五輪にススメ 調布 おんちや
今回の東京オリンピック開催に関しても、国民の冷めた目が厳しい。どの句にも、なるほどと肯かざるを得ない。
徒競走店閉めさせてまでやるか 入間 元々帳じり
復興も勝った証もない五輪 千葉 水差人
国民の命を懸けて五輪する 奈良 長野晃
8割が反対してもする五輪 北九州 とっちゃん
こどもダメおとなはやるぞ運動会 西宮 風仙
去年ならオリンピックが出来たかも 長野 欣雀
熱中症対策もあるのよ五輪 春日部 猫文庫
責任の所在解らん五輪して 下関 畠中英樹
後悔はコロナに勝つと言ったこと 岩手 認知性
こそこそとつなぐ聖火は今どこに 千葉 小川敏之
新聞の隅で静かに聖火(ひ)が走る 交野 大沼章
安倍がしたマリオ招致は徒花か 伊豆 シロくん
誘致した慎太郎氏は知らぬ顔 芦屋 みの吉
そして、コロナと五輪である。これは川柳子の恰好のネタ。
それみろとどちらが言うか菅か尾身 大阪 石頭
言われたくないな東京五輪型 大阪 食いしん坊
尾身さんを三原じゅん子が睨んでる 北九州 ささきとも
八月に五輪新株うまれそう 大阪 佐伯弘史
出馬すりゃトップ当選尾身会長 長崎 めがねばし
五輪では医療従事者確保でき 名古屋 まりりん
今回はノーと言えたね分科会 札幌 ヨーちゃん
通覧してつくづく思う。川柳子は、今回のコロナ禍での東京五輪が危ういと言っているだけではない。IOCやオリンピックそのものの欺瞞性を見てしまった。王様は、もともと裸だったのだ。これに気付かないフリをしている政権や組織委員会のあり方は、滑稽でもあり痛々しくさえある。
(2021年7月5日)
この記事は、7月6日に加筆して若干の修正をしている。東京都議選の結果については、概ね各紙の論調は「勝者なき選挙」という如くである。傍観者からはそう見えるのかも知れないが、勝敗のドラマは起伏に富み多様である。
個人的には、地元文京区で応援した共産党の福手裕子候補がトップ当選を果たしたことが無条件に嬉しい。最近、選挙結果に快哉を叫ぶことが少ないだけに、地元有権者の見識に感謝したい気持。前回同様、2人区に3人の立候補があって、ひとりはみ出して落選したのは、自民党の現職・中屋文孝候補、公明の支持を得ての落選である。選挙戦最終日には小泉進次郎が応援に入ったとのことだが、その効果はまったくなかった。前回自民だけでとった2万6997票(得票率28.13%)が、今回は公明票を含めて2万5097票(29.19%)と減らした。この票の減り方は、自・公グループに対する都民の厳しい審判があったと言ってよいだろう。
前回トップ当選の都ファ候補・増子博樹は、前回票4万2185票(43.96%)を今回は3万0077票(34.98%)まで1万2000余(率にしてほぼ10%)も減らした。これは、非自民保守勢力の退潮である。もっとも、公明票を除いてなお、これだけの票を獲得しているとも言える。
前回は2万6782票(27.91%)を獲得しながら、215票差で次点に泣いた共産福手は、今回は4000票を上積みして、3万0815票(35.84%)での堂々のトップ当選となった。共産支持者だけでなく、立憲・社民・ネット・れ新などの支持者をも糾合しての勝利というべきだろう。おそらくは、オリパラ開催中止の訴えが有権者の共感を得たのだと思われる。
文京の選挙区は、願ったとおりの開票結果となった。予想と大きくは違わない。都全体でも大方は、「自民・公明で過半数の議席に届かない」を主たる評価としているようだ。菅・自公政権に十分な痛手となっている。共産と立民の緩やかな「共闘」もそれなりの効果を上げたようだ。
とは言え、共産党の議席獲得数は19にとどまった。公明の23にも届かない。伸び悩んだにせよ自民が第一党である。また、合理的な存立理由をもたない都ファが、退潮著しいとは言え、それなりの票を得て、議席を維持している。何という民主主義であろうかとも思い、それでも強権政治よりはずっとマシなのだとも思う。
この都議選の結果への評価として納得できるのが、本日(7月5日)の東京新聞<社説>。「東京都議選 五輪強行への批判だ」というもの。以下、その抜粋である。
「4日投開票の東京都議選で、自民、公明両党は合わせて過半数に届かなかった。新型コロナウイルス感染症が拡大する中、感染対策が迷走し、観客を入れて五輪・パラリンピックを開催する方針を示してきた菅義偉政権への批判の表れだ。
大会を巡って、都民ファーストの会は「最低でも無観客」と訴えてきた。共産党は「中止」、立憲民主党は「中止か延期」を主張した。これに対し、自民は第一党復帰を目指し、公明と合わせて過半数を目標にしていた。菅政権は6月、大会会場の観客数の上限を1万人とし、「無観客が望ましい」とした専門家の提言に反する決定をした。
菅政権の見通しの悪さ、安全安心よりも大会を優先しようとする姿勢が、都民の批判につながったとみられる。今秋までに行われる次期衆院選でも、自公両党は厳しい戦いを避けられない情勢だ。」
東京オリパラ反対、コロナ対策を徹底せよ。コロナ補償を手厚くせよ。医療と介護を充実せよ。コロナを克服したあとも五輪はやめろ。そう、言い続けなければならないと思う。
(2021年7月3日)
明日が都議選投票日。地元文京区の福手ゆう子・共産党候補の街頭演説に出かけた。志位和夫党委員長が応援弁士を務めていた。
文京選挙区は定数2、自民、都ファと共産の3候補が争う分かりやすい構図。激戦・接戦・横一線というのは、誇張ではなかろう。自・都ファ・共の争いというのは、今の首都の政治状況を象徴する選挙戦。
4年前も同じ顔ぶれでの闘いだった。都ファの候補が当時吹いていた風に乗り、公明の支持まで取り付けて、トップ当選した。公明の支持のない自民候補が保守系組織を総動員して2位にすべり込み、共産福手候補はわずか215票差での次点となった。風が左右する首都の選挙の特徴がよく出た結果。
今回選挙では、自民は公明の支持を得ている。とはいうものの、前回は都ファにくっついた公明票、ホントに自民候補の得票に結びつくものだろうか。また、公明に自民支持の大義があるのだろうか。有権者に対する自民候補の魅力はさっぱり見えていない。それでも、政権との結びつきはそれだけで一定の票になる。
都ファの凋落は避けがたいところ。4年前の風は今はない。むしろ、逆風が吹いている。都ファは公明にも見離されている。この都ファ候補が、議員団の幹事長であり、連合の組織内候補なのだ。
福手ゆう子候補の訴えを聞くのは告示日以来だが、驚いた。わずか8日間で、候補者はこんなにも変わるものか。淀みのない、自信に満ちた話しぶり。メリハリの効いた話し方が分かり易い。聴衆に訴える言葉の力がある。余裕を表す身振り手振り。そして聴衆の共感と好感を誘う訴えの内容。気迫と熱意が伝わってくる。
党委員長の応援よりも立派な演説ではなかったか。この福手候補の演説のボルテージは、文京区内を駆け回っての手応えの反映なのだろう。まぎれもなく、ノッているのだ。
志位応援演説は、いつもながらのものだったが、菅義偉への評価が場を沸かせた。
「菅さんには答弁の能力がないんです。私が一問質問すると、さっとお付きの官僚から紙が出て来てこれを読む。次の質問をすると、また次の紙が出てきてこれを読む。国会での答弁くらいは、自助努力でお願いしたい。」
この党首の話に耳を傾けながら、つくづくと思う。志位和夫よ、習近平になる勿れ。日本共産党よ、中国共産党に似る勿れ。
さて、明日。賽の目は、吉と出るか凶と出るか。運次第ではなく、民意次第。
**************************************************************************
五輪開催中止を求める新ネット署名
「危険性がますます明らかになっている東京五輪開催の中止を訴えます」
著名13氏が呼びかけ人になっての新しいネット署名が始まった。その署名サイトへのアクセスは、「危険性がますます明らかになっている東京五輪開催の中止を訴えます」をキーワードとする検索で。
署名の開始は、開催が目前に迫る中で、首都圏では新型コロナウイルスの感染が再拡大しつつあり、残された時間が少なくなっている切迫感に突き動かされてのことだという。インターネットサイト「Change.org」で昨日(2日)朝から開始。菅義偉首相、国際オリンピック委員会(IOC)、日本オリンピック委員会(JOC)、小池百合子都知事らに対し、五輪中止を求める内容。
要望書では、五輪の「安心安全」をどう実現するのかについて国民が納得いくような説明がされていないこと、首都圏でコロナの感染者数が再拡大する傾向にあること、ワクチン接種率が低いことなどを問題視。「日常生活の抑制を求めながら、コロナクラスターを無数に作る可能性を秘めた五輪開催を強行しようとする不条理」への怒りが深くなっている、と指摘する。
主催者が「開催ありきで、市民の間には今さら何を言っても無駄だと無力感が広がっている」なかで、「切迫した時期だからこそ、最後のチャンスと考え、あえて言うべきことを言っておきたい」として、「歴史的暴挙ともいうべき東京五輪が中止されること」を求めている。(朝日から)
署名の呼びかけ人と賛同者は以下の通り。(50音順)
◆呼びかけ人
浅倉むつ子さん(法学者)、飯村豊さん(元外交官)、上野千鶴子さん(社会学者)、内田樹さん(哲学者)、大沢真理さん(東京大学名誉教授)、落合恵子さん(作家)、三枝成彰さん(作曲家)、佐藤学(東京大学名誉教授)、澤地久枝さん(ノンフィクション作家)、田中優子さん(前法政大学総長)、春名幹男さん(ジャーナリスト)、樋口恵子さん(評論家)、深野紀之さん(著述家)
◆賛同者
高橋源一郎さん(作家)、三浦まりさん(政治学者)
(2021年7月2日)
7月4日都議選が目前である。前回選挙時には予想もできなかった、コロナ絡み、オリパラ絡みの、何とも形容しようのない絶妙な首都の議会選挙となっている。
コロナの蔓延はいったん収まるかにみえて、今、疑うべくもなくリバウンドの途上にある。この最悪の時期、しかも酷暑の東京でのオリパラ開催のデメリットは誰の目にも明らかである。一方、オリパラ開催のメリットや意義は霞の彼方、主催者の説明すら二転三転して定かではない。それでも、オリパラは強行されようとしている。そのオリパラ強行の是非についての民意を問う、はからずも絶好のタイミングでの都議選である。
国威発揚と商業主義と売名と、そして民衆を愚民化する意識操作と。オリンピックの本質が、これほどに深く鋭く問われ論議され断罪されたことはかつてなかった。権威を剥奪されたオリンピック開催とコロナの蔓延とが重なって、以前から日程が予定されていた選挙がはからずも命の重みを問う選択になっている。偶然とは言え、何という興味深い展開であろうか。
このような非常事態には、平時に用意された手垢のついた常套句は用をなさない。それぞれの政治グループや候補者がもっている、イデオロギーや基本姿勢が露骨にあぶり出されることになる。
こんにちは、kanrisha さん
「コロナとオリパラ」という組み合わせられた論点への解は、基本的には二つ。一つは「コロナ対策徹底のために、オリパラを中止せよ」であり、もう一つは、「オリパラ開催を前提に、必要なコロナ対策を」というものである。前者は、都民の命と健康を最優先する考え方であり、後者は国威発揚と商業主義と売名を優先させる考えである。
今、都議選は、「コロナとオリパラ」を巡って、基本的に3グループの争いになっている。一方に「オリパラを中止して、コロナ対策に専念せよ」という共産、その対極に「オリパラ開催を当然として、安全・安心な大会に」という自民。そしてその中間に、「無観客での開催」という都ファ。あとは、そのバリエーションである。
自民のいう「安全・安心」は、まったくの無内容である。具体性がない、科学的根拠がない。言わば、空念仏。それでも、オリパラ開催の方針だけが明瞭なのだ。最近になって、菅が、「(一部)無観客もあり得る」と言い始めた。
水際対策のダダ漏れ、穴だらけのバブル方式、ワクチン調達の挫折、変異株蔓延の恐怖、医療態勢の逼迫、世界各地での再拡大…。勝負に出たはずの菅が、明らかに躊躇し始めている。が、けっして中止とは言わない。
都ファが、「無観客開催」を言っているのが興味深い。前回選挙では吹いた追い風が、今回は期待できない。彼らは、生き残りのために、ひたすら都民の意向を探っている。その都ファが、小池百合子の方針に従っていたのでは全滅しかねない、という判断なのだ。オリパラ中止とは言えないが、「無観客開催」と言わねば生き残れないという結論。
共産の立場はシンプルで分かり易いだけでなく、一貫していてブレがない。これは、人権思想徹底の賜物と言うべきだろう。
都議選では、各党の各候補者が、「コロナとオリパラ」をテーマに政策を競い合っている。しかし、実のところ、「コロナとオリパラ」問題で問われているのは首都の選挙民の意識である。何よりも都民の命を大切にする政治を選択するのか、「安全・安心」の空念仏で「国威発揚と商業主義と売名」の場としてのオリパラ開催を優先させるのか。その中間で良しとするのか。その最悪の選択は、第5波の感染拡大をもたらし、多くの人命を奪うことにもなる。選択の間違いは恐ろしい。
重大な都議選である。選択の間違いは悔やみきれないことになる。
(2021年7月1日)
本日が、中国共産党創建100周年だという。残念ながら、とうてい祝意を表する気持ちにはなれない。
私が若かった頃、中国共産党こそは希望の星であった。社会主義は当然あるべき人類の未来図であり、そこに最初に到達する国が中国となるに違いない。当然の如く、そう考えていた。その社会主義中国を牽引する実績と能力と、人民からの信頼をも備えた中国共産党に尊敬の念を惜しまなかった。今は昔の話である。おそらくは、私が変わったのではない。中国共産党が、尊敬すべからざる存在に様変わりをしたのだ。
本日の創建100周年の記念式典で、習近平は灰色の人民服をまとい1時間強にわたって演説し、「経済発展を実現して中国から貧困をなくしたとする功績」を誇示したという。貧困をなくす…、それは確かに重要なことだ。
高校生の頃、漢文の授業で「鼓腹撃壌」という言葉を教えられた。聖帝・尭の時代には、こんなにも世の中がうまく治まっていたというエピソード。
老人有り、哺を含み腹を鼓し、壌を撃ちて歌ひて曰はく、
「日出でて作し、日入りて息ふ。
井を鑿ちて飲み、田を耕して食らふ。
帝力何ぞ我に有らんや。」と。
農夫が腹鼓を打ち地を踏んで踊り、「帝の力なんてなくたって満足さ」と歌っている。「帝力何ぞ我に有らんや」は、「帝の力なぞ私にとってまったく関わりない」という意味だという。漢文の先生は、「これが、政治の理想だよ」「ところが、現実の政治はこうなっていないから、国民が苦労するわけだ」と言った…ように覚えている。
同じ頃、英語の演習で、リンカーンのゲティズバーグの演説を学んだ。その最終部分の、次の文章を初めて読んだ。
government of the people, by the people, for the people
尊敬する英語の先生は、このフレーズを「人民の人民による人民のための政治」と訳して、「これが、民主主義の神髄ですよね」と言った…ように記憶している。
私は、「by the people と for the people は分かります。でも、of the people というのがよく理解できません」と頼りない質問をした。これに対して、先生は至極真面目に、こう言われた…ように思う。今はもう、確かめようもないけれど。
「同格の of という使い方ですね。government と the people が同格ということですよ。でも、所有格の of と理解したってかまわないし、リンカーンもあんまり深くは考えずに、調子がよいからこう言ったのかも知れません。ともかく、政治は人民が自分たち自身で作るものっていうことですよね」
今日の習近平演説が、余りに「鼓腹撃壌」的で、「民主主義の神髄」的ではないことに驚かざるを得ない。中国共産党は、いまだに「民は由らしむべし、知らしむべからず」と考えているのではないか。
「鼓腹撃壌」は人民を被治者としか見ない政治観である。老農夫の腹をどう満たしてやろうかという発想は、古代の堯舜も、赤子を慈しむという天皇も、習近平も変わらない。ここには、上から目線の for the people だけがあり、by the people は欠けている。of the people に至っては、カケラほどもない。
そもそも、(仮に)共産党がどんなに立派であったとしても、飽くまで私的な組織であって、全人民を代表する正当性を持たない。憲法に書き込んだところで、事情は変わらない。
習は、本日の演説で、「中華民族の偉大な復興を実現させるため、中国共産党は人民を団結させて導いてきた」と何度も繰り返し、「中国の特色ある社会主義があってこそ中国は発展できる」と主張した。香港についても「国家安全を維持するための法律や組織を導入し、香港社会を安定させた」と自賛したという。
天安門事件以来、中国共産党の強権的体質は誰の目にも顕著ではないか。「人民を団結させて導いてきた」は、こじつけも甚だしい無理な主張というほかはない。「中国の特色ある社会主義」とはいったい何だろうか。あの安倍晋三のいう「積極的平和主義」を思い出させる。「積極的」という言葉をかぶせるだけで、「平和主義」の内容を反転させるマジック。習も、「中国の特色ある」という修飾語で「社会主義」を、格差容認社会に反転させてしまうのだ。
さらに問わねばならない。「香港社会は安定」しただろうか。香港も、ウイグルも、チベットも、内蒙古も、とうてい「安定」しているようには見えない。不満と不安定のマグマの噴出が、力で押さえつけられているだけではないか。
古代中国の皇帝も野蛮な天皇制もそして中国共産党も、鼓腹撃壌する人民には穏やかに接する。慈しみさえする。しかし、皇帝や天皇や党の権威に逆らう人民には徹底して非寛容なのだ。党を批判し、党とは異なる立場からの政治参加を求める人民には容赦のない弾圧を厭わない。これが、中国共産党100周年の姿である。人権と民主主義という、人類が獲得した普遍的な叡智を顧みず、野蛮な一党支配を続けるいびつな大国を作りあげた中国共産党。その100周年は祝福に値しない。
今日は、香港で、ウイグルで、チベットで、内蒙古で、そして中国本土で、中国共産党の弾圧と闘っている側の人々の困苦を思いやるべき日である。
(2021年6月29日)
今からちょうど50年前、私は2年間の司法修習の過程を終えて弁護士となった。その1971年の春4月は、「司法の嵐」が吹き荒れた季節であった。「司法の危機」の時代とも呼ばれた。「司法反動と闘う」ことが、民主主義や人権を大切に思う人々の共通の課題として意識され、当時民主的な運動に携わる人々は、それぞれの立場で「司法はこれでよいのか」と問いを発した。もちろん、「司法がこれでよいはずはない」との強い思いからである。
「司法の嵐」の震源は、おぞましいまでの天皇主義者でもあり、反共主義者でもあった司法官僚の首魁・石田和外が主導した青年法律家協会攻撃であった。彼は、公安と一体となった極右出版や自民党に与して、青法協を過激思想団体と決めつけ、裁判官会員には脱退を強要し、青法協会員裁判官の中心的存在とみなされた札幌地裁福島重雄裁判官を非難し、13期宮本康昭裁判官の再任を拒否した。そして、23期司法修習生の中の裁判官志望者にも、青法協を脱退するよう肩たたきが行われた。
青法協攻撃という外形の内実は、人権や民主主義や平和という憲法理念への排撃であり、憲法擁護運動への牽制であり、裁判官に対する思想統制であった。憲法の砦たるべき最高裁自らが思想差別を行い、裁判官の独立をないがしろにしているのだ。これから、法律家になろうとする司法修習生たちは、身近に起こっているこの異常な事態を看過してよいはずはないと考えた。
同期の裁判官志望者を思想信条や団体加入で差別してはならない。そのような運動が澎湃として盛り上がったが、結果は7人の裁判官志望者が任官を拒否された。
せめて、終了式の場で任官を拒否された彼らに、その思いの一端を発言する機会を与えてもらおうではないか。これが同期の総意となった。誰かが式の冒頭で、研修所長に同期の総意を伝えなければならない。その役割を担ったのが、クラス連絡会の阪口徳雄委員長だった。
阪口君は、修習修了式の冒頭、式辞を述べようとした研修所長に対して発言の許可を求めた。所長は明らかに黙認し制止をしなかった。所長からの許しを得たと思った阪口君が、マイクを取って「任官不採用者の話を聞いていただきたい」と話し始めた途端に、「終了式は終了いたしまーす」と宣告されて式は打ち切られた。開会から式の終了まで、わずか1分15秒の出来事。この行為をとらえて、最高裁はその日の内に阪口君を罷免処分とした。
この出来事は、権力機構としての司法府の本質を露わにするものとして強く世論を刺激し、前例のない司法の民主化を求める運動に火を付けることになった。その運動の高揚の中で阪口君の法曹資格は2年後の1973年4月に回復となる。
そして、半世紀が経過した今、あらためて、同じ問を発しなければならない。「司法はこれでよいのか」「本来、司法はどうあるべきなのか」「どうすれば、司法本来のあるべき姿を実現できるだろうか」と。
「司法の嵐」吹き荒れる中で実務法律家となった23期の集団は、その後の法律家としての職業人生において、それぞれに司法の在り方を問い続けてきた。そして、50年を記念して、同期の有志が一冊の書籍を刊行した。「司法はこれでいいのか―裁判官任官拒否・修習生罷免から50年」(23期・弁護士ネットワーク著・現代書館)である。当時の司法状況についての資料というだけでなく、原体験を共有した23期群像のその後の生き方をも活写して読み応えのある労作となっている。
そして、この書籍の出版を記念した集会を開催した。「法と民主主義」6月号【559号】の特集は、4月24日「アルカディア市ヶ谷」において開催された出版記念集会の各発言をそれぞれの発言者が加筆し編集したものである。50年前の司法に、いったい何があったか。そのとき、司法は本来あるべき姿とどう変わってしまったのか。そして、50年後の今、どうしたら司法に希望を見出すことができるのか。その問題意識が凝縮した集会発言集になっている。内容は、下記のとおりである。
司法のあり方に関心をお持ちの方には、是非、ご購読いただきたい。
「法と民主主義」6月号内容紹介
https://www.jdla.jp/houmin/index.html
リード
https://www.jdla.jp/houmin/backnumber/pdf/202106_01.pdf
「法と民主主義」申込みフォーム(今号単独購入であれば、ナンバー欄に「559」と、定期購読ご希望であれば同欄に「0」と御記入を)
https://www.jdla.jp/houmin/form.html
**************************************************************************
法と民主主義2021年6月号【559号】(目次と記事)
特集●司法はこれでいいのか ── 「危機の時代」から50年
◆特集にあたって … 編集委員会・澤藤統一郎
◆出版と集会、その目的と思い … 村山 晃
◆50年前に何があったか、当事者としての感想と挨拶 … 阪口徳雄
◆23期の50周年を祝う ── 連帯のメッセージ … 宮本康昭
●パネルディスカッション冒頭発言●
◆司法の現状:制度と運用の実態をどう把握するか
──司法官僚制的人事慣行と石田和外裁判官 … 西川伸一
◆司法への絶望と希望
── 行政事件「鑑定意見書」執筆の経験から … 岡田正則
◆私たちの責任 ── 司法の希望への道筋をどう見い出すか … 伊藤 真
●具体的事件を通じて司法の希望を語る●
◆勝たなければならない裁判で勝てた理由
── 東海第二原発差止訴訟 … 丸山幸司
◆生活保護基準引下げ違憲大阪訴訟について … 小久保哲郎
◆「結婚の自由をすべての人に」北海道訴訟
── 違憲判決からみる司法の展望 … 皆川洋美
◆建設アスベスト訴訟を通して感じる司法 … 谷 文彰
◆東京大空襲訴訟を通じての問題提起 … 杉浦ひとみ
◆司法は厳しい、されど気概ある裁判官になお期待したい
──パネラーの各発言と弁護団報告に触発されて … 森野俊彦
◆司法の希望を切り拓くために── 報告のまとめとして … 豊川義明
◆青法協弁学合同部会議長 挨拶 … 上野 格
◆希望への道筋 ── 良心の力を信じて進む … 梓澤和幸
(2021年6月28日)
奸悪な指導者の政権は腐敗する。奸悪ならざる指導者の長期政権も腐敗する。ならば、安倍政権の腐敗は余りに当然のこと。そして今、後継の菅内閣が、安倍内閣の腐臭を承継している。
安倍政権腐敗の根源は、権力の過度の集中にあった。各省幹部官僚の人事権を掌握しただけでなく、警察、検察、司法、メディア、学術の支配をもたくらんだ。それぞれの対象領域のめぼしい人物に目を付けて、これを手なずけ子飼いにして、官邸の意思を貫徹しようとした。
どこの世界にも、権力に尻尾を振ることを潔しとしない気骨の人物はいるものである。しかしまた、どこの世界にも、自尊心に欠け、時の政権におもねることを躊躇しない人物もいる。官邸が「番犬」ないしは「守護神」を探すのに、手間はかからなかった。
このような人物としてよく知られているのが、杉田和博(警察)、北村滋(警察)、黒川弘務(検察)など。佐川宣壽(財務省)もその一人といってよいだろう。そして、メディアの部門では「ジャーナリストとしての良心を悪魔に売り渡した」とされる少なからぬ人物を数えることができるが、別格の存在なのがNHKの板野裕爾(専務理事)である。はやくから、安倍政権寄りのNHK幹部と目されてきたが、ここに至って菅政権が積極的にこれを使おうとして動いたとの報道である。
本日の毎日新聞朝刊2面に、「NHK異様な人事」「専務理事退任案 会長が土壇場撤回」「『政権寄り』 内部から疑問の声」という目立つ記事。さらに、社会面には、「板野氏再任『理由分からぬ』」「自民議員『官邸意向の可能性』」「『自主自律』に疑念」の大見出し。
渦中の人が、NHKの板野裕爾専務理事。安倍政権寄りとして知られ批判されてきた人物。本日の記事でも、「15年には…安全保障関連法案に関する複数の放送を見送るよう指示し、16年3月には政権の方針に疑問を投げかける『クローズアップ現代』の国谷裕子キャスターの降板も主導したとされる。NHK内では、いずれも当時の安倍政権の意向が背景にあったとみられている。」と紹介されている。
この禍々しい人物が、今年の4月に3期目の任期切れとともに当然退任のはずだったのが、直前に方針転換となって再任された。その不自然さは4月当時も報道されたが、今回はこの異様な人事の裏に、『官邸意向の可能性』というのが目玉の記事。それ故に、NHKに求められている「自主自律」に疑念が呈されている、という調査報道である。
長文の記事だが、ハイライトは以下のとおり。
NHKの前田晃伸会長(76)が4月、板野裕爾専務理事(67)を退任させる役員人事案を経営委員へいったん郵送させながら、同意を得る経営委員会の直前に撤回し、再任する案に差し替えていたことが毎日新聞の取材で判明した。経営委は賛成多数で再任案に同意したが、委員2人が反対した。送付された人事案の撤回は極めて異例で、人事案に反対が出るのも異例だ。NHK内部から、政権寄りとされる板野氏の再任の過程に疑問の声が上がっている。
複数のNHK関係者によると、当初は4月6日の経営委会合で板野氏の退任を含む理事らの役員人事が決められることになっており、前田会長は事務方を通じて4月2日に最初の人事案を各経営委員へ郵送させていた。しかし、6日の直前になって各委員に「なかったことにしてほしい」と事務方から連絡があり、6日の会合では理由の説明なしに人事案の文書は回収された。
放送行政に詳しい複数の自民党国会議員は「板野氏退任の人事案を知った首相官邸の幹部が、再任させるよう前田会長に強く迫ったと聞いている」と証言する。また、複数のNHK関係者は「前田会長は抵抗したが、断り切れずに翻意したと聞く」と話す。それは板野氏退任の人事案が経営委員に郵送された4月2日以降で、6日の経営委で回収されるまでの数日の間だったという。
放送行政に詳しい政府関係者は「安倍、菅の両政権が板野氏にこだわってきたのは、国民への影響力の大きいNHKの動向を監視し、政権批判をけん制したいからではないか」と指摘。ある自民党国会議員は「安倍政権の頃から、官邸は会長だけでなく専務理事などの役員人事にも目を光らせていた」と話す。
いうまでもなく、NHKは国営放送ではない。政権の広報担当ではないのだ。大本営発表を垂れ流した反省から公権力からの独立を謳って再出発した公共放送である。「自主自律」を標榜するNHKの人事に、官邸が干渉していたとなれば、大問題である。安倍政権の体質とその腐敗は、しっかりと菅政権に受け継がれている。
(2021年6月27日)
三題噺は即興で行われた寄席芸である。名人と言われた噺家は、客から三つのお題を頂戴して、即座に一席の噺をまとめオチまで作ったという。『鰍沢』や『芝浜』は、こうして作られた噺だと伝えられている。その名手として初代の可楽や圓朝の名が残るが、今、こんなことのできる芸人がいるのだろうか。
三題噺は、一見無関係なお題をどうつなげるかが腕の見せどころ、聴きどころである。「コロナと五輪とバブルと、そして都議選」は自分で選んだ四題、一見も二見も関係性十分で底が割れている。常識的なことしか語れない凡俗な話者の仕業。その四題の関連は、常識的にはこう語るしかなかろう。
「コロナ」感染の蔓延は人の生命と健康に関わり、社会に壊滅的な打撃を与えかねない。感染拡大防止は喫緊の重大事であって、そのために社会の総力を傾注しなければならない。これに比して、「五輪」の開催は明らかに些事である。金儲けやナショナリズム鼓吹の機会ではあっても、社会全体の要請ではない。コロナ拡大阻止にいささかなりとも支障をきたすのであれば、五輪開催を中止すべきが正常な判断である。
この判断を狂わせるために持ち出されたのが、「バブル」方式である。シャボン玉の泡の如くに、選手や関係者を包み込んで外部との接触を遮断する。だから、コロナ禍のさなかでも、安全・安心に五輪開催が可能だという。権力者と金の亡者の安全安心論を打破して、「五輪は中止、コロナ対策に集中を」という世論を示すことが、この「都議選」の主要な課題だ。
誰が名付けたか「バブル」方式。この命名がコロナ対策としての自信のなさを表している。バブルは脆弱さの象徴。実体なく膨らんで、容易にはじけるもの。薄く弱い頼りのないものである。外界との遮断の壁が、壊れて消えるシャボン玉では、「安全」でも、「安心」でも、「しっかり」でもあり得ない。
オリンピック選手や役員に籠城の真似はできない。兵糧米を蓄え、井戸を堀り、野菜も植えて、外部からの侵入を防御したその真剣さはない。従って、バブルはけっして完結し得ない。多くの人が、バブルの中の集団を生存させるために、壁の内外を行き来しなければならない。コロナは容易にバブルの中へ侵入もし、またバブルの中に発生したコロナの感染は外へも拡大する。形だけ、やってるフリだけの感染対策でしかない。
「無観客開催」にしても、選手を包んだバブルが抜け穴だらけなのだから事情は基本的に変わらない。海外からの選手と関係者の入国を一切拒絶した「無選手・無関係者開催」であって初めて、コロナ蔓延防止対策となるだろう。コロナ対策とオリンピック、本質的に相性が悪いということなのだ。
さて、四題噺の続きである。都議選の結果で、ストーリー展開は極端に分かれることになる。望むべくは、都議選で東京オリパラ反対の圧倒的民意が示され、オリンピックは中止、政府も都政もコロナ対策に専念しました、となって欲しいもの。しかし、その反展開展開も、ないではない。
政権と、IOC・JOC・組織委と都政は、「バブル」方式の有効性を徹底して宣伝した。オリンピックで金儲けをたくらんでいる連中がこれに呼応して、大宣伝がおこなわれた。シャボン玉の泡は強固でけっしてこわれるはずはないと言うのである。その結果、しっかりと安全・安心に「五輪」開催が可能だという気分が都民に横溢し、なんと、「都議選」では、五輪反対派が惨敗した。その結果、意気揚々と、東京五輪は開催となった。その結果として、オリンピック競技のさなかに、デルタ変異株を中心に東京を第5波のコロナ感染蔓延が襲うこととなった。
各国選手団に相次いでクラスターが発生したが、医療態勢はたちまち崩壊した。病床は不足し収容先の施設は溢れ患者は放置された。あらためて、「コロナ」感染の猛威を世界は知ることになった。日本社会の壊滅的な打撃を心配せざるを得ない事態に、人々はあらためて、「オリンピック開催は明らかに些事であった。金儲けやナショナリズム鼓吹のための東京オリパラを開催してコロナ拡大対策を疎かにしたことは愚策だった」と深く反省した。
このことが菅政権の大失態と意識され、目前の総選挙で自公政権崩壊に至ることを疑う者はいない。