(2021年7月14日)
NHK経営委員会議事録開示請求問題とはこういうことだ。報道の自由の旗を高く掲げて自主・自立であるべきNHKの報道番組制作現場に、明らかに違法な外部からの権力的介入が行われた。具体的には、2018年4月「クローズアップ現代+」の、かんぽ生命保険の不正販売報道の続編制作妨害である。
見える範囲での妨害のルートは、鈴木康雄郵政グループ上級副社長(元総務事務次官)→森下俊三NHK経営委員会委員長代行→NHK経営委員会→上田良一NHK会長→NHK番組制作現場
NHK経営委員会は、事実上「クローズアップ現代+」についての番組の作り方を注意され郵政に謝罪せざるを得ない立場に追い込まれた。消費者被害告発の有益な番組の制作が批判され、NHKトップが加害企業側に謝罪を余儀なくされたのだ。まさしく、石流れ木の葉が沈む景色である。
このNHK経営委員会によるNHK会長への「厳重注意」を行ったのが、2018年10月23日経営委員会の席においてのこと。ところが、その議事録が公表されてこなかった。放送法では議事録作成が法的義務とされ、直ちに公表しなければならないとされているにもかかわらず、誰が請求しても出てこなかった。
ところが、急転直下その議事録が公開となった。切っ掛けは、民事訴訟の提訴であったと思う。100名余のNHK問題に関する市民活動家らが、不開示の場合は提訴することを広言して、2018年10月23日経営委員会議事録を中心とする諸文書に関して、NHK独自に制定された情報開示請求(NHKの定めた制度では、「開示の求め」)に踏み切った。以後の経過は次のとおりである。
2021年
4月7日 NHKに対する文書開示の求め
5月6日 NHK文書開示判断期間延長の連絡
6月6日 NHK文書開示判断期間再延長の連絡
6月14日 原告104名文書開示請求の提訴
7月6日 NHK文書開示判断期間再々延長の連絡
7月7日 NHK「(一部)文書開示の連絡」書を発送
7月8日 NHK「(一部)文書開示の連絡」書を受領
7月9日 開示文書(合計47ページ)受領
7月10日 毎日新聞社説
7月13日 朝日新聞社説
7月13日 衆院総務委員会NHK経営委議事録について質疑
7月14日 東京新聞社説
7月10日毎日新聞社説は「NHKの議事録開示 経営委の番組介入は明白」と題するもの、7月13日朝日新聞社説は「NHK経営委 視聴者への背信明らか」、そして本日の東京新聞社説は「NHK議事録 番組介入は明らかだ」という表題。なお、東京新聞は、提訴時に6月16日の社説「NHK経営委 議事録公開に応じよ」を出してもいる。
なお、地方紙では7月11日に高知新聞の「【NHK経営委】番組介入は認められない」がある。その末尾で、公開された議事録の内容についてこう言っている。
当時の上田会長は、公になれば「非常に大きな問題になる」と抵抗している。厳重注意は現場を萎縮させ、それだけで番組介入に等しいとする見方もある。
厳重注意の問題は、情報開示を拒んだ経営委の姿勢も含め公共放送を担うNHKへの信頼を揺るがせた。経営委の在り方や委員の選任についても検証する必要がある。
経営委の選任がまことにひどい。これは、安倍晋三の恣意的人事の典型と言ってよいだろう。その恣意的人事が、公共放送を担うNHKへの信頼を揺るがせ、有意義なNHKの番組潰しに加担したのだ。今、誤った人事を象徴するものが、森下俊三の任命であり、再任であり、その委員長職就任である。
東京新聞の末尾を引用させていただく。
かんぽ生命の不正販売では実に多くの被害者が出た。経営委の姿勢は視聴者をも裏切ったことになる。放送の自主自律を脅かしたことは明らかだ。
経営委は「議論は非公開が前提だった」ことを理由に、速やかに開示すべき議事録を非開示としてきた。これも放送法の定めに反する。NHKの第三者機関が昨年五月と今年二月に出した「開示すべきだ」との答申も拒んできた。視聴者が提訴した後にようやく開示した。それまで約三年もかかったこと自体が異常である。
森下委員長は国会でも番組介入を否定していたが、どう言い逃れするつもりか。経営委員は国会の同意を得て首相が任命するが、もはや辞任は当然と考える。
まったく同感である。このような人物を、公共放送のあり方を左右する地位に留めておいてはならない。「もはや辞任は当然」ではないか。
(2021年7月13日)
権力と金力とに過剰に結びついた今日の五輪は本来なくすべきものである。少なくとも、五輪開催の積極的意義は認めがたい。にもかかわらず、コロナ禍を押しての東京五輪の開催強行。とうてい正気の沙汰ではない。開催中止では困ると横車を押す人々がいるのだ。「何がなんでも開催だ。その結果がどうなろうと知ったことではない」というとんでもない連中が実権を握っていて、コロナ禍に加えての五輪禍を拡大し続けている。
無観客で行われるという開会式の予定日まであと10日である。無観客でも、多数の関係者による人の流れと渦とが、動くことになる。コロナ感染や拡大の危険はつきまとう。まだ間に合う。あきらめず、「東京五輪中止」の声を上げ続けようと思う。本日発表の読売世論調査(東京)でも、中止派が50%で、無観客開催派28%を大きく上回っている。都民にとって、オリンピックは鬱陶しいものになっている。
ところで、無観客の開会式が強行された場合、そこに天皇は出席するのだろうか。開会宣言を読み上げるのだろうか。
いうまでもなく、象徴天皇とは政治的な利用を予定された道具としての存在である。天皇自身の判断や意見表明はあってはならず、神聖な天皇像を強調するか、マイホーム皇室像を演出するか、政権の判断と思惑次第なのだ。開会宣言問題についても、政権にとって、どう天皇を扱うのが最も有効な政治的利用になるかを今考えている。
巷間言われているところは、「世論二分の渦中において、オリンピック開催に祝意の表明は無理だろう」という憶測。端的に言えば、「世論の過半はオリンピックに反対なのだから、天皇に開会宣言をさせると天皇の評判はがた落ちになる。それでは、長い目で見た天皇の政治利用のあり方としてまずい」のだ。では、どうするか。これがちと面倒。
世間が東京五輪開催歓迎のムード一色のときは、天皇の出番だ。開催に祝意を表明させることで、天皇の民衆からの支持は高まり、政治的利用の道具としての有用性もさらに高まることになる。しかし、今、少なからぬ人がコロナに命を奪われ、病床に伏し、多くの人が職を失い、弱い立場にある者ほど生活苦にあえいでいる。土石流や大雨の被害の記憶も生々しい。こんなとき、天皇に国民の生活苦と遊離した祝意を述べさせるのは危険、そう考えざるを得ない。当たり前のことだ。
では、天皇(徳仁)に開会を宣言させるとして、政権は、国民をねぎらうべきどのような文言の工夫をして、天皇に読み上げさせるのだろうか。そのように一瞬思った私が愚かだった。そんな余地はないのだという。
不敏にして知らなかったが、オリンピック憲章の中には、開会宣言の文句は決まっているのだそうだ。天皇(徳仁)は、こう述べるほかはない。
「私は、第32回近代オリンピアードを祝し、オリンピック東京大会の開会を宣言します。」
たったこれだけの脳天気な祝意の表明。これが、オリンピック憲章第5章4プロトコールの3に明記されているという。コロナ禍も、コロナ禍が暴き出した社会の矛盾も、それによる国民多数の労苦も、土石流の被害者の涙も、復興にはほど遠い原発事故被害も、なにもかにもどこ吹く風の祝祭の別世界。本当にこのとおりやったとしたら、いい気なもんだと炎上ものだろう。
ならば、天皇(徳仁)の開会宣言はなしにしたらどうかという提案が出て来る。開会宣言なしにするか、あるいは別の誰かにやらせるか。先に引用したオリンピック憲章には、「オリンピック競技大会の開会宣言は開催国の国家元首によって行われる」とあるそうだ。
政府はこれまで、オリンピック憲章における「国家元首」を天皇と解釈して、前回東京五輪と札幌冬季五輪は昭和天皇(裕仁)、長野冬季五輪は当時の天皇明仁に開会宣言をさせた。これも、保守政権の思惑あっての政治利用である。しかし、政府もこの見解に自信をもっているわけではない。ここで、政府がその解釈を変更して、「日本の元首は、実は天皇ではない。内閣総理大臣なのだ」として、菅義偉得意のペーパー朗読をする手はあるのだ。
周知のとおり、大日本帝国憲法第4条は、「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」と天皇を元首と明記していた。「元首」とは、対内的には統治権を掌握し、対外的に国民を代表する地位にあるものを言うとされた。当時の天皇は、まさしく元首であったろう。
しかし、日本国憲法は、これをご破算にして天皇を「象徴」とした。つまりは、天皇の元首としての地位や権能を積極的に否定したものと理解する以外にない。現行憲法下においては、天皇は元首ではない。
だからこそ、自民党は結党以来、憲法改正のテーマとして、「天皇の元首化」を求め続けてきたのだ。2012年4月の自民党改憲草案も、その第1章・第1条は、「天皇は、日本国の元首であり…」から始まっている。これが守旧派のとんでもない夢なのだ。この「改正」のメドも立たぬ今、天皇を元首と言ってはならない。
従って、本来政権は「天皇は元首ではないから開会宣言はさせません」と言うべきだったのだが、開会式直前の今これを言い訳に使ってもよい。あるいは、オリンピックそのものを中止とすれば、そんなことを考えるまでもないのだが。
なお、オーソドックスな政府見解も天皇を元首と言いきることはできない。第113回国会1988.10.11参議院内閣委員会で、政府委員(大出峻郎・当時内閣法制局第一部長、後に最高裁裁判官)が、こう答弁している。
「天皇は元首であるかどうかということに関連しての御質問かと思いますが、現行憲法上におきましては元首とは何かを定めた規定はないわけであります。元首の概念につきましては、学問上法学上はいろいろな考え方があるようでございます。したがいまして、天皇が元首であるかどうかということは、要するに元首の定義いかんに帰する問題であるというふうに考えておるわけであります。
かつてのように元首とは内治、外交のすべてを通じて国を代表し行政権を掌握をしている、そういう存在であるという定義によりますならば、現行憲法のもとにおきましては天皇は元首ではないということになろうと思います。
しかし、今日では、実質的な国家統治の大権を持たれなくても国家におけるいわゆるヘッドの地位にある者を元首と見るなどのそういう見解もあるわけでありまして、このような定義によりますならば、天皇は国の象徴であり、さらにごく一部ではございますが外交関係において国を代表する面を持っておられるわけでありますから、現行憲法のもとにおきましてもそういうような考え方をもとにして元首であるというふうに言っても差し支えないというふうに考えておるわけであります。」
つまり、元首という言葉の定義を思いっきり緩くすれば、「天皇を元首と言えなくもない」という程度の頼りないものなのだ。もちろん、オリンピック憲章にも元首の定義規定はない。だから、厳密には天皇が元首として振る舞い、開会式の宣言をすることは越権なのだ。違憲と言ってもよい。だが、これを訴訟で争う手段は思いつかない。
(2021年7月11日)
私は、強権的な言葉狩りには反対の立場だ。しかし、差別用語の横行が差別を助長する効果をもたらすことは否定しようがない。人から発せられる言葉が、人々に働きかけ人々の意識を変える力をもっているのだ。差別用語を駆逐したい。ただし、強権的にではなく。
同じことは、逆差別にも当てはまる。差別用語と同じ発想で、「不敬」という言葉をこの社会から駆逐したいと思う。「陛下」も、「殿下」も、「今上」もやめよう。主権者として、余りに情けなくもあり、バカバカしくもある。
差別用語が社会に差別を蔓延させて被害者を作る如く、「不敬」や「陛下」は社会の権威化を助長し自由な発言の桎梏となる。民主主義や表現の自由を依拠すべき価値と標榜する人が、中国における共産党の神聖性は揶揄しながら、天皇の神聖性を傷付けてはならないと気苦労する図は滑稽でしかない。
ところが、ときに思いがけない人から、「不敬」や「陛下」の言葉が発せられて戸惑うことがある。最近刊の週刊朝日(7月16日号)に掲載された、室井佑月「不敬よな」(連載コラム「しがみつく女」)もその一つ。普段のあっけらかんとした室井の発言に好感をもっていただけに、驚かざるを得ない。
この記事のリードは、「宮内庁長官の『陛下が五輪で感染拡大を懸念と拝察』発言を、意に介さない菅首相や閣僚。作家・室井佑月氏は、『不敬』と憤る。」というもの。これだけで、察しはつく。室井の文章(抜粋)は、次のようなもの。
陛下はコロナ対策分科会の尾身会長から何度か説明を受けているようだし、真っ当にあたしたち国民の心配をしてくださっただけだ。そして、長官の口を借り、メッセージを出された。
しかし、この事実を認めたくない輩(やから)もいる。菅義偉首相は25日、
「長官ご本人の見解を述べたと、このように理解している」
加藤勝信官房長官も25日の記者会見で、
「宮内庁長官自身の考え方を述べられた」
といった。五輪開会式での陛下の宣言については、まだ関係者間で調整中だとも。
はぁ? 陛下のメッセージさえなかったことにしてしまえってか。
結局、この人たちの頭の中は、自分たちのことしかない。菅首相は東京五輪で国威発揚を狙い、その勢いで秋までに行われる衆議院選挙に臨みたい。あたしたち国民の命や健康を差し出した大博打(ばくち)をやりたい。
感染症の専門家の意見でさえ、聞くつもりはない。なので、陛下が見るに見かねて、メッセージを出したんでしょ。今の政府とは違って、国民のことを考えていると。メッセージを出さずとも、開会式の宣言がいまだ調整中ってことでも、わかれってものだ。
でも、このことをツイッターでちょっとつぶやいたら、「天皇の政治利用。不敬」といってくる輩がわらわら湧いてきて。
ちょっと待て。自民党政権が、平和の祭典を政治利用し、天皇陛下でさえ政治利用しようとし、それがうまくいかなかった、てのが今回の真相だろ。国民に寄り添ってくれた陛下のお気持ちを、そのまま受け取れない方が不敬だと思うけど。
結局室井の頭の中は、「国民を思いやる英邁な陛下」「その意を体することのない不敬な君側」という構造。「国民に寄り添ってくれた陛下のお気持ち」「そのまま受け取れない方が不敬」という締めくくり方は最悪ではないか。誰にも恐れ入らないリベラルな感性の持ち主というイメージのある室井にして、天皇の権威は別のようだ。あらためて、この社会の人々の意識の奥まで侵蝕している、天皇制の逆差別構造の根深さを見る思いである。だから、「不敬」や「陛下」という言葉を駆逐しよう。
(2021年7月10日)
昨日(7月9日)、4月7日付で開示を請求(NHK独自の手続では「開示の求め」という)していた下記3点の文書(写)の交付を受けた。別紙を含め全部で47ページである。
(1) 別紙 1枚
(2) 2018年10月09日経営委員会議事録 表紙+本文8ページ
(3) 2018年10月23日経営委員会議事録 本文35ページ
(4) 2018年11月13日経営委員会議事録 表紙+本文2ページ
相当な分量だが、この議事録、なかなかに読み応えがある。我々が想像していたストーリーがこの議事録で細部にわたって裏付けられている。それだけでない。これは巧まずして出来上がったドラマだ。悪役と善玉のコントラストがくっきりしていてまことに分かり易い。これに、場と場をつなぐ裏のやりとりを加えれば、興味深い劇にもなる。映画にもなる。
ところで、放送法41条は、(議事録の公表)について、「経営委員長は、経営委員会の終了後、遅滞なく、経営委員会の定めるところにより、その議事録を作成し、これを公表しなければならない。」と定める。経営委員会というNHKの最高機関で何が議論されたのか、視聴者・国民に「遅滞なく公表せよ」というのが、法の要求するところ。これが、遅滞に遅滞を重ねて2年半を経てようやく日の目を見た。
「ようやく」の意味は、期間だけではない。NHK(実質においては経営委員会)は、抵抗に抵抗を重ねて、遂に矢尽き刀折れて開示せざるを得ないところまで追い込まれたのだ。2年半は、悪あがきの積み重ねだった。
まず毎日新聞などメディアがこの議事録の開示を求めて拒否され、NHKの内規に従った不服申立手続きである「再検討の求め」を申し立てた。この手続において諮問を受けた「NHK情報公開・個人情報保護審議委員会」は、20年5月開示すべしと明確に答申した。しかし、NHK(実質においては経営委員会)はこれを拒否した。
その後メディアなどからする3件の開示の求めがあり、その「再検討の求め」において、「審議委員会」は、再度開示せよと答申した。21年2月のことである。だが、NHKはこれにも従おうとはしなかった。そこで、NHKに関連する市民運動が乗りだした。市民団体の100余名が、仮に開示を拒否されれば提訴することを広言して、開示の求めをした。これが、4月7日のことである。
この開示の求めに対して、NHKは2度にわたっての「回答延期」を通知した。この段階で、104名が提訴した。6月14日のこと。そして、3度目の「回答延期」のあと、開示の通知に至った。
問題の議事録には、経営委員会の上田良一NHK会長(当時)に対する「厳しい注意」の経過が詳細に記載されている。注意とされた理由はガバナンスの不備である。経営委員会がいう「NHK会長のガバナンス」とはなんぞや。
NHKの番組「クローアップ現代+」で放映された、「かんぽ生命保険不正販売問題」について、郵政側はNHK会長に番組制作の現場を押さえこむよう期待した。しかし、NHKの番組制作現場は郵政との交渉において、一貫して「NHKでは、番組制作と経営は分離している。番組作成に会長は関与しない」と説明している。
「番組制作と経営は分離している」ことは報道機関のあり方として当然ことではないか。だが、日本郵政側はこれに納得しなかった。「放送法上編集権は会長にある」(形式的にはその通り)との立場で、NHKのガバナンスのあり方を問題としたのだ。つまり、郵政側が言う「NHKのガバナンスのあり方についての不満」とは、「かんぽ生命不正販売報道」を黙認し、その続編放映を中止させないNHK執行部の姿勢についての不満にほかならない。
ガバナンスとは、経営陣がしっかりと番組制作現場を押さえ込んでかつてな報道をさせないこと、なのだ議事録の中で議事録の中で森下俊三(当時、経営委員長代行)は、こう発言している。
(森下代行・現経営委員長)
本当は彼ら(郵政側)の気持ちは納得していないのは取材の内容なんです。こちら(NHKの取材)に納得していないから、経営委員会に言ってくるためにはこのポイント(ガバナンス)しか(ない)、経営委員会は番組のことは扱わないのでこう言ってきている(ガバナンス不備と言ってきている)けども。本質的にはそこ(取材の内容)で、本当は彼らが(番組の制作に)不満感を持っているということなんですよね。
(村田委員・現経営委員長代行)
それは森下代行言われたように、やっぱり彼ら(郵政側)の本来の不満は(取材の)内容にあって、内容については突けないからら、その手続論の小さな瑕疵のことで攻めてきてるんだけども。でも、この経営委員会の現実としても、手紙が来た以上経営委員会が返事しないわけにはいかないですよね。
誰もがよく分かっている。本当は、郵政側も経営委員会も、「クローアップ現代+」がとんでもない番組を作って放映したことを問題としているのだ。どうして、とんでもないか。総務省の天下り幹部を擁している、郵政グループの悪徳商法摘発などという、言わば「お上に楯突く」番組だからだ。しかし、そうは言えないから、「ガバナンスに不備がある」「今後は視聴者目線に立って適切な対応をする」というのだ。「視聴者目線」とは、悪徳商法被害者の目線ではない。加害者である悪徳業者側の目線に立つというのである。正気か。
今回開示された議事録が明らかにした当時の経営委員の責任は極めて重い。とりわけ森下俊三である。その責任は徹底して追及されなければならない。森下本人も、これを任命した政権も、である。
(2021年7月9日)
中国のことはさて措き、私たちのこの国の民主主義的状況を語らねばならない。この日本には満足な表現の自由があるのだろうか。いや、そんな他人事のような言い方はやめよう。この日本社会の表現の自由の現実は、大きく抉られた穴だらけのものでしかない。今のうちに何とかしなければ、再びあの暗い時代の轍を踏むことになりかねない。
表現の自由とは、当たり障りのないことを発言する自由を意味するものではない。おべんちゃらを述べることは「自由」とも「権利」とも言うに値しない。誰かの人格を毀損し、誰かにとっては神聖なものを傷付け、誰かにとっては不愉快な表現が、権利として許されるということでなければならない。
端的に言えば、言いにくいことを、言いにくい相手に対して、発言する自由が基本的人権ひとつとして保障されているのだ。政治権力に反抗し、社会的な強者を批判し、社会的な権威を否定し、多数者の常識に挑戦する少数者の言論の自由が保障されなければならない。国家も、政治家も、政党も、企業も、企業主も、大学も、学者も、新聞もテレビも言論人も、法曹も、検察も最高裁も、宗教家も、芸術家も、アスリートも、そして天皇も皇室も皇祖皇宗も、批判の言論から免れることはできない。あらゆる権力や権威への批判の表現の自由の保障が、民主主義の基礎を形作っている。
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」は、その時点までの表現の不自由の実例の展示を敢えてする問題提起の企画だった。それが、はからずも多くの人の注視のに表現の不自由を再現する場となる衝撃を社会に与えた。
あの衝撃が意味するものをもう一度考え直そうとする展示会が、今年の6月から7月の予定で企画された。東京・大阪・名古屋の3会場で行われるはずであった。しかし、またまた、この3会場の企画がともに日本社会には満足な表現の自由がないことを立証する経過をたどっている。
この事態を、「表現の自由を守ろうという陣営と、これを攻撃しようという勢力がせめぎ合っている」などと表現することは不正確で誤解を招くものと思う。正確には、「いま、表現の自由が、暴力と恫喝によって逼塞を余儀なくされようとしている」のだ。社会がこのことを重く受けとめ、この暴力と恫喝を許さないとする民主主義的な力量を持たねばならないが、残念ながらそこまでに至っていない。
しかし、平穏な表現行為に対しての実力をもってする妨害は、明らかに犯罪である。せめて我が国が法治国家であるという証しを見せてもらわねばならない。
今夏に各地で開催される予定だった「表現の不自由展・その後」の内、民間展示施設で6月25日から開催の予定であった「東京展」が、右翼による周辺での妨害行為などの末、開会予定日の前日に延期に追い込まれた。実行委員会は、「あくまでも延期です。これから更なる会場選定を行い、東京都内で「表現の不自由展」を開催いたします。」と声明したが、今のところ新たな開催の通知はない。
大阪市中央区の府の施設「エル・おおさか」で、7月16〜18日に予定されていた「表現の不自由展かんさい」の開催も同様の右翼の妨害行為があり、施設の管理者が6月25日付で利用承認を取り消した。驚くべきは、吉村洋文府知事の発言である。翌26日に記者団に対して、「安全な施設の管理・運営を果たすのは(抗議活動によって)難しい」「取り消しには賛同している」と述べたという。大阪展の主催者は同30日に指定管理者を相手取り、大阪地裁に処分の取り消しと、執行停止を申し立てた。本日(7月9日)、大阪地裁は、実行委員会に会場の利用を認める執行停止決定を出した。
そして、最も順調に見えた「名古屋展」(7月6?11日の予定)が卑劣な妨害行為に見舞われた。昨日(7月8日)午前9時半ごろ、同展が行われていた「市民ギャラリー栄」で郵便物の開封時に破裂音がする事件があった。破裂音がしたのは施設7階市文化振興事業団の事務室。郵送された茶封筒(縦約23センチ、横約12センチ)を職員が開封したところ、破裂音が10回ほど続いた。捜査関係者によると、爆竹とみられ、周囲に黒い粉が散乱したという。封筒は同ギャラリー宛てで、不自由展中止を求める内容の文書が添えられていた。
明らかに威力業務妨害である。しかし、名古屋市はこれに断乎たる姿勢を見せず、「安全上の観点」から11日まで施設を臨時休館すると決めた。展覧会は事実上の展示中止となっている。主催団体側が主張しているとおり、この犯行は「暴力による表現の封殺」を狙ったもので、その目的を遂げている。
皇室批判に対する反批判はあってもよい。歴史の真実に対する歴史修正主義的な批判も自由である。しかし、平穏な展示を実力をもって妨害することは許されない。結果としてであれ、これを許してしまっては、法的秩序が崩壊する。法治主義の国家ではなくなる。
東京・大阪・名古屋とも、表現の自由の受難がそれぞれに多様である。大阪展は、前途多難ではあろうが司法的救済がかろうじて間に合った。名古屋展は、2日だけは開催できたものの、4日の日程が潰されることになりそう。東京の苦心は続いている。日本社会の「表現の不自由」は、今なお現実のものなのだ。
(2021年7月8日)
えー、ようやく手許に原稿が届きましたので、読み上げます。いや、会見を始めさせていただきます。
もう皆様ご承知のとおり、7月23日から始まる東京オリンピックは、緊急事態宣言下に行われることになります。これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、「しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、安全・安心の大会を実現する」ということでした。この方針にいささかの揺るぎもございません。その趣旨に鑑み、首都圏1都3県のオリ・パラ競技は、「無観客」での開催ということにいたしました。国民の命や健康を守るための措置ですので、皆様にはご了解いただきたくお願い申し上げます。
原稿はここまでですので、私からは以上です。ご質問はできるだけ、手短に。
幹事社からの質問です。これまで政府は、「人類がコロナに打ち勝った証しとしての東京五輪」を謳っていたと思います。しかし、現実には緊急事態宣言下のオリンピック開催になってしまいました。結局、人類も日本も、コロナに打ち勝つことはできなかったとの理解でよろしいでしょうか。
まず、これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催するということでした。今後も、その方針に変わるところはございません。次の方どうぞ。
「無観客」での開催ということがイメージしにくいのでおたずねします。おそらくチケットを購入した観客は会場に入れないということでしょうが、アスリートのほかには、いったい誰が競技場に入ることになるのでしょうか。
えー、これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催するということでした。完全無観客での開催は、これまで予定されていた「収容人数の50%までで上限1万人」に比較して、随分と安全で安心なオリンピック・パラリンピックになるということも事実ではないでしょうか。
はい、次の方どうぞ。
これまでは、IOC委員などの「五輪ファミリー」や、スポンサー企業は別枠として観戦を認める方向と言われてきました。これには世論の強い反発があります。「無観客」というと、別枠を否定してシャットアウトするようにも理解できますが、その理解でよいでしょうか。もし、別枠を認めるとすれば、どのくらいの数を想定していますか。
そのことですが、これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催するということでした。IOC関係者や招待のスポンサー企業関係者を入れるか否かについても、しっかりと感染対策を徹底させていただきます。
はい、次の方。
開会式も、「無観客」と伺いましたが、天皇も参加しないということでしょうか。それとも、「観客外」の別枠の一人として、開会式に参加するのでしょうか。
えー、これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催するということでした。天皇陛下の命や健康を守り、国民のために安全で安心な開会式といたします。
はい、次の方。
これまで総理は、「有観客」に強くこだわってきました。突然の方針転換の理由は、都知事選での自民の伸び悩みでしょうか。それとも、このところの新たなコロナ感染者の急増なのでしょうか。
えー、これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催するということでした。この方針を総合的俯瞰的に具体化するとなれば、「無観客」という結論しかない。こう考えることが当然ではないでしょうか。
次の予定がありますので、この辺で打ち切らせていただきます。
もう一点だけお伺いします。国民の安全安心を第一にお考えなら、当然にオリパラ中止とすべきではないでしょうか。多くの国民がそう思っています。総理には、この国民の声が聞こえませんか。
これまで繰り返し申し上げてきたとおり、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催いたします。そのための無観客開催じゃないですか。これ以上のことは、ペーパーに書いてありませんので、またいつか。
(2021年7月7日)
生来、褒められた経験はほとんどない。子どもの頃から表彰などとは無縁だった。先年、期成会から寄稿の一文を褒めていただいただき、賞状をいただいたことが唯一の例外だろう。
その私に日弁連から「表彰状」が贈られてきた。まったく唐突に、である。その全文を紹介しておきたい。
表彰状
会員 澤藤統一郎殿
あなたは50年の永きにわたり法曹として職責を果たされてきました
この間人権の擁護と社会正義の実現を使命としてたゆまぎる努力を重ねてこられまた司法制度の改善発展のために多大なる貢献をされました
あなたのこの貴い業績をたたえるため記念品をお贈りして表彰いたします
令和3年6月11日
日本弁護士連合会
会長 荒 中
事前に何の連絡も問い合わせもなかったが、「50年の永きにわたり法曹として職責を果たされてきました」「この間人権の擁護と社会正義の実現を使命としてたゆまぎる努力を重ね」「司法制度の改善発展のために多大なる貢献をされました」と言われれば、いささかの自負はある。だから、日弁連から、「あなたのこの貴い業績」と言われれば、嬉しくもなる。
とはいうものの、これは在職50年会員(232名)に対する同文の表彰文言なのだ。特に私の具体的な弁護士活動に着目しての表彰ではない。弁護士たる者かくあるべしという抽象的な理想の弁護士像を表彰理由として書き込んだだけのこと。
それにしても、「法曹としての職責」を「人権の擁護と社会正義の実現」と確認したうえ、「司法制度の改善発展」としている日弁連の姿勢は評価に値するものと思う。「政財界で活躍し」とか、「弁護士の社会的地位を高め」とかは言わないのだ。
ところで、「令和3年6月11日」という日付の無神経さに驚く。私が、元号大嫌いなことを知っての嫌がらせかとも思いたくなる。西暦表示を原則にして、どうしても元号表示にしてくれという変わり者がいたら直してやればよいではないか。いずれにしても、二通りの紀年法があることが、たいへんな混乱をもたらしているのだ。
表彰状と一緒に、事務総長名の添え書きも送られてきた。これも、「令和3年6月吉日」である。せっかくの表彰が興醒めで、不愉快でもある。
が、その文中に、「記念品は別便にて,7月上旬までにお届けする予定です」とあった。「記念品」とは何だろう。少し機嫌を直して楽しみにしていたら送ってきた。立派な卓上ケースである。印鑑と朱肉と名刺を入れるサイズ。七宝のキラキラがまぶしい。
問題は、この筺のデザインである。どうしても引っかかるものを感じる。真ん中に、金色の弁護士バッジがある。その下に左右一輪ずつのヒマワリがある。これはよい。しかし、弁護士マークを囲むように、2羽の鳳凰がヤケに目立つのだ。古代より「有徳の天子が位に就く時に現れる」というあの鳳凰である。
弁護士バッジは、ヒマワリの花を図案化したものというが、この筺の中央にある金ピカのマークは、菊の紋章に見えなくもない。邪推すれば、ことさらに似せて作ったとさえ思われる。
菊の紋章を囲む2羽の鳳凰。さすがに龍までは書き込まれていないが、皇室礼賛のデザインと見まがうばかり。在野精神を貫くべき弁護士への贈答品として、とうてい適切とは思えない。表彰され記念品をもらってのことで、口にはしにくいのだが、皇室の雰囲気に似せて目出度い雰囲気を演出しましたよ、と言われているようで、こちらも興醒めなのだ。
(2021年7月6日)
毎日新聞の仲畑万能川柳欄にはいつも感心させられる。採用句にはことさらに奇を衒ったものはない。良質な社会の感覚の反映と見てよいと思う。
その川柳欄にオリンピック礼賛の句はない。誰が見ても不合理なIOCもオリンピックも、その権威は地に既に落ちている。揶揄のネタでしかないのだ。ごく最近の掲載句から、IOCをテーマにしたもの、オリンピックそのものを詠み込んだもの、東京五輪に関するもの、そしてコロナとオリンピックに関するものと、分類して引用してみる。
IOCは徹底してバカにされている。国民の怒りの対象だが、ストレートに怒りをぶつけていては、佳作にならない。ひねりの利いた句に、溜飲が下がる思いがする。
IOCの正体見たり魑魅魍魎 熊本 坪井川
夏空や魔王降臨IOC つくば かっぱ
IOC銀銅なくて金金金 北九州 藤井真知子
バッハさん何の犠牲も払わない 福岡 朝川渡
犠牲やらアルマゲドンやら云う五輪 神奈川 荒川淳
僕たちはIOC(イヤなオッサンクラブ)です 札幌 紅帽子
ガースーさん煽(おだ)てて稼ぐハッバさん 東京 カズーリ
バッハ氏の言うわれわれは誰なのか? 福岡 朝川渡
開催し後は野となれ山となれ 水戸 AカップT
オリンピックそのものに対する評価は、極めて辛辣である。国民は、オリンピックをよく見つめ、忌まわしいもの、禍々しいものと断じている。この評価は、今後変わることはないだろう。
絶対に民主主義ではない五輪 相生 岡本雅人
五輪はな毎回ギリシャで質素にせえ 京都 語句
参加より開くが五輪の新理念 東京 城山光
責任の回避レースもある五輪 湯沢 馬鹿馬太物
考えたこともなかった五輪意義 千葉 ペンギン
「五輪て?」考えている日本人 千葉 ペンギン
避妊具もお酒もあるよ五輪です 箕面 のうめい
五輪よりあたしゃ観たいの小劇場 札幌 紅帽子
五輪より危ないらしい運動会 福岡 つとかぶら
オリ・パラの声高くして耳痛し 北九州 けめちゃん
やるやれぬチキンレースになる五輪 久喜 高橋春雄
ススメススメ五輪にススメ 調布 おんちや
今回の東京オリンピック開催に関しても、国民の冷めた目が厳しい。どの句にも、なるほどと肯かざるを得ない。
徒競走店閉めさせてまでやるか 入間 元々帳じり
復興も勝った証もない五輪 千葉 水差人
国民の命を懸けて五輪する 奈良 長野晃
8割が反対してもする五輪 北九州 とっちゃん
こどもダメおとなはやるぞ運動会 西宮 風仙
去年ならオリンピックが出来たかも 長野 欣雀
熱中症対策もあるのよ五輪 春日部 猫文庫
責任の所在解らん五輪して 下関 畠中英樹
後悔はコロナに勝つと言ったこと 岩手 認知性
こそこそとつなぐ聖火は今どこに 千葉 小川敏之
新聞の隅で静かに聖火(ひ)が走る 交野 大沼章
安倍がしたマリオ招致は徒花か 伊豆 シロくん
誘致した慎太郎氏は知らぬ顔 芦屋 みの吉
そして、コロナと五輪である。これは川柳子の恰好のネタ。
それみろとどちらが言うか菅か尾身 大阪 石頭
言われたくないな東京五輪型 大阪 食いしん坊
尾身さんを三原じゅん子が睨んでる 北九州 ささきとも
八月に五輪新株うまれそう 大阪 佐伯弘史
出馬すりゃトップ当選尾身会長 長崎 めがねばし
五輪では医療従事者確保でき 名古屋 まりりん
今回はノーと言えたね分科会 札幌 ヨーちゃん
通覧してつくづく思う。川柳子は、今回のコロナ禍での東京五輪が危ういと言っているだけではない。IOCやオリンピックそのものの欺瞞性を見てしまった。王様は、もともと裸だったのだ。これに気付かないフリをしている政権や組織委員会のあり方は、滑稽でもあり痛々しくさえある。
(2021年7月5日)
この記事は、7月6日に加筆して若干の修正をしている。東京都議選の結果については、概ね各紙の論調は「勝者なき選挙」という如くである。傍観者からはそう見えるのかも知れないが、勝敗のドラマは起伏に富み多様である。
個人的には、地元文京区で応援した共産党の福手裕子候補がトップ当選を果たしたことが無条件に嬉しい。最近、選挙結果に快哉を叫ぶことが少ないだけに、地元有権者の見識に感謝したい気持。前回同様、2人区に3人の立候補があって、ひとりはみ出して落選したのは、自民党の現職・中屋文孝候補、公明の支持を得ての落選である。選挙戦最終日には小泉進次郎が応援に入ったとのことだが、その効果はまったくなかった。前回自民だけでとった2万6997票(得票率28.13%)が、今回は公明票を含めて2万5097票(29.19%)と減らした。この票の減り方は、自・公グループに対する都民の厳しい審判があったと言ってよいだろう。
前回トップ当選の都ファ候補・増子博樹は、前回票4万2185票(43.96%)を今回は3万0077票(34.98%)まで1万2000余(率にしてほぼ10%)も減らした。これは、非自民保守勢力の退潮である。もっとも、公明票を除いてなお、これだけの票を獲得しているとも言える。
前回は2万6782票(27.91%)を獲得しながら、215票差で次点に泣いた共産福手は、今回は4000票を上積みして、3万0815票(35.84%)での堂々のトップ当選となった。共産支持者だけでなく、立憲・社民・ネット・れ新などの支持者をも糾合しての勝利というべきだろう。おそらくは、オリパラ開催中止の訴えが有権者の共感を得たのだと思われる。
文京の選挙区は、願ったとおりの開票結果となった。予想と大きくは違わない。都全体でも大方は、「自民・公明で過半数の議席に届かない」を主たる評価としているようだ。菅・自公政権に十分な痛手となっている。共産と立民の緩やかな「共闘」もそれなりの効果を上げたようだ。
とは言え、共産党の議席獲得数は19にとどまった。公明の23にも届かない。伸び悩んだにせよ自民が第一党である。また、合理的な存立理由をもたない都ファが、退潮著しいとは言え、それなりの票を得て、議席を維持している。何という民主主義であろうかとも思い、それでも強権政治よりはずっとマシなのだとも思う。
この都議選の結果への評価として納得できるのが、本日(7月5日)の東京新聞<社説>。「東京都議選 五輪強行への批判だ」というもの。以下、その抜粋である。
「4日投開票の東京都議選で、自民、公明両党は合わせて過半数に届かなかった。新型コロナウイルス感染症が拡大する中、感染対策が迷走し、観客を入れて五輪・パラリンピックを開催する方針を示してきた菅義偉政権への批判の表れだ。
大会を巡って、都民ファーストの会は「最低でも無観客」と訴えてきた。共産党は「中止」、立憲民主党は「中止か延期」を主張した。これに対し、自民は第一党復帰を目指し、公明と合わせて過半数を目標にしていた。菅政権は6月、大会会場の観客数の上限を1万人とし、「無観客が望ましい」とした専門家の提言に反する決定をした。
菅政権の見通しの悪さ、安全安心よりも大会を優先しようとする姿勢が、都民の批判につながったとみられる。今秋までに行われる次期衆院選でも、自公両党は厳しい戦いを避けられない情勢だ。」
東京オリパラ反対、コロナ対策を徹底せよ。コロナ補償を手厚くせよ。医療と介護を充実せよ。コロナを克服したあとも五輪はやめろ。そう、言い続けなければならないと思う。
(2021年7月3日)
明日が都議選投票日。地元文京区の福手ゆう子・共産党候補の街頭演説に出かけた。志位和夫党委員長が応援弁士を務めていた。
文京選挙区は定数2、自民、都ファと共産の3候補が争う分かりやすい構図。激戦・接戦・横一線というのは、誇張ではなかろう。自・都ファ・共の争いというのは、今の首都の政治状況を象徴する選挙戦。
4年前も同じ顔ぶれでの闘いだった。都ファの候補が当時吹いていた風に乗り、公明の支持まで取り付けて、トップ当選した。公明の支持のない自民候補が保守系組織を総動員して2位にすべり込み、共産福手候補はわずか215票差での次点となった。風が左右する首都の選挙の特徴がよく出た結果。
今回選挙では、自民は公明の支持を得ている。とはいうものの、前回は都ファにくっついた公明票、ホントに自民候補の得票に結びつくものだろうか。また、公明に自民支持の大義があるのだろうか。有権者に対する自民候補の魅力はさっぱり見えていない。それでも、政権との結びつきはそれだけで一定の票になる。
都ファの凋落は避けがたいところ。4年前の風は今はない。むしろ、逆風が吹いている。都ファは公明にも見離されている。この都ファ候補が、議員団の幹事長であり、連合の組織内候補なのだ。
福手ゆう子候補の訴えを聞くのは告示日以来だが、驚いた。わずか8日間で、候補者はこんなにも変わるものか。淀みのない、自信に満ちた話しぶり。メリハリの効いた話し方が分かり易い。聴衆に訴える言葉の力がある。余裕を表す身振り手振り。そして聴衆の共感と好感を誘う訴えの内容。気迫と熱意が伝わってくる。
党委員長の応援よりも立派な演説ではなかったか。この福手候補の演説のボルテージは、文京区内を駆け回っての手応えの反映なのだろう。まぎれもなく、ノッているのだ。
志位応援演説は、いつもながらのものだったが、菅義偉への評価が場を沸かせた。
「菅さんには答弁の能力がないんです。私が一問質問すると、さっとお付きの官僚から紙が出て来てこれを読む。次の質問をすると、また次の紙が出てきてこれを読む。国会での答弁くらいは、自助努力でお願いしたい。」
この党首の話に耳を傾けながら、つくづくと思う。志位和夫よ、習近平になる勿れ。日本共産党よ、中国共産党に似る勿れ。
さて、明日。賽の目は、吉と出るか凶と出るか。運次第ではなく、民意次第。
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五輪開催中止を求める新ネット署名
「危険性がますます明らかになっている東京五輪開催の中止を訴えます」
著名13氏が呼びかけ人になっての新しいネット署名が始まった。その署名サイトへのアクセスは、「危険性がますます明らかになっている東京五輪開催の中止を訴えます」をキーワードとする検索で。
署名の開始は、開催が目前に迫る中で、首都圏では新型コロナウイルスの感染が再拡大しつつあり、残された時間が少なくなっている切迫感に突き動かされてのことだという。インターネットサイト「Change.org」で昨日(2日)朝から開始。菅義偉首相、国際オリンピック委員会(IOC)、日本オリンピック委員会(JOC)、小池百合子都知事らに対し、五輪中止を求める内容。
要望書では、五輪の「安心安全」をどう実現するのかについて国民が納得いくような説明がされていないこと、首都圏でコロナの感染者数が再拡大する傾向にあること、ワクチン接種率が低いことなどを問題視。「日常生活の抑制を求めながら、コロナクラスターを無数に作る可能性を秘めた五輪開催を強行しようとする不条理」への怒りが深くなっている、と指摘する。
主催者が「開催ありきで、市民の間には今さら何を言っても無駄だと無力感が広がっている」なかで、「切迫した時期だからこそ、最後のチャンスと考え、あえて言うべきことを言っておきたい」として、「歴史的暴挙ともいうべき東京五輪が中止されること」を求めている。(朝日から)
署名の呼びかけ人と賛同者は以下の通り。(50音順)
◆呼びかけ人
浅倉むつ子さん(法学者)、飯村豊さん(元外交官)、上野千鶴子さん(社会学者)、内田樹さん(哲学者)、大沢真理さん(東京大学名誉教授)、落合恵子さん(作家)、三枝成彰さん(作曲家)、佐藤学(東京大学名誉教授)、澤地久枝さん(ノンフィクション作家)、田中優子さん(前法政大学総長)、春名幹男さん(ジャーナリスト)、樋口恵子さん(評論家)、深野紀之さん(著述家)
◆賛同者
高橋源一郎さん(作家)、三浦まりさん(政治学者)