澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

表現の自由を侵害する、権力と右翼との暗黙のチームプレイの構造。

(2021年7月16日)
 本日から、「表現の不自由展かんさい」が始まった。なるほど、この社会の「表現の不自由」をよく示す企画展になった。この国の「法治」が危ういことも教えている。そして、何よりも、この企画を通して表現の自由を守るには覚悟と努力が必要なことを学ばねばならない。

 いつの世にも、表現の自由を巡ってのせめぎ合いが絶えることはない。一方に自由な表現を希求する表現者が必ずあり、他方にその表現を不都合とする権力が必ずある。表現の自由を嫌うのは、権力というものの宿命と思うべきであろう。

 いま、この表現者対権力という古典的な構造は必ずしも、露骨に目に見える形にはなっていない。権力は、表現の自由尊重の体裁をとらざるを得ないからだ。権力者は表現の自由尊重のポーズをとりつつも、理由あってやむなく表現の自由を制約せざるを得ない、と言い訳しながら表現の自由を圧殺する。

 表現の自由に対する敵対者はいくつかに役割を分担し分業しているのだ。脅迫文を郵送したり街宣車で恫喝したりの直接的な妨害行為に出る役割の者、世論を装って電話やファックスでのクレームを繰り返す者、そしての妨害行為やクレームを口実に表現の自由を圧殺する権力本体。この三者の暗黙のチームプレイ。今や常套手段となった権力のこの手口にごまかされてはならない。

 「表現の不自由展かんさい」の会場は、大阪府所有の施設「エル・おおさか」。なんの問題もなく、会場を借りることができた。ところが、展覧会に対する抗議の電話や右翼の街宣活動が相次いだことを受けて、指定管理者(公的施設の管理を受託している民間業者)が6月25日、「安全確保が困難だ」として会場利用承認を取り消した。この問題で指定管理者が独自の判断をできるはずはない。大阪府の判断と受けとめるべきが当然である。この段階から、大阪府知事吉村洋文の姿勢が問われ続けている。

 吉村には二つの選択肢があった。一つは、職員を配置し、警察を動員してでも、断乎たる姿勢で『表現の自由の妨害を許さない』とすること。おそらく、そうすれば、彼の評価は変わっていただろう。しかし、彼はそうしなかった。吉村が選択したのはもう一つの選択肢、つまり、「表現の自由尊重のポーズをとりつつも、抗議の電話や右翼の街宣を口実に、やむなく表現の自由を制約せざるを得ないと言い訳しながら表現の自由を圧殺する」ことであった。

 不自由展の実行委員会は、6月30日やむなく大阪地裁に、「会場利用承認取り消し処分」の取消を求めて提訴し、同時に執行停止(民事訴訟の仮処分に相当する)を申し立てた。結果は目に見えていた。7月9日、大阪地裁は執行停止を申立を認める決定をした。「警察の適切な警備などによっても混乱を防止することができない特別な事情があるとは言えない」との理由で、「不自由展」の会場利用を認めたのだ。この日吉村は記者団に「最終判断は(施設の)指定管理者になるが、内容に不服があるので抗告することになる」と自らの意思を語っている。

 この決定を不服として、7月12日事実上大阪府が、大阪高裁への即時抗告を申し立てた。名古屋市で開催された展覧会で会場の施設に届いた郵便物が破裂し、臨時休館となったことを挙げて「警備を強化して対応できるレベルを超えた実力行使により負傷者が出る具体的な危険がある」などと主張したという。名古屋の右翼の妨害行為も吉村の主張を援護することになるのだ。

 また、吉村は、「施設所有者として管理権があり、裁量がある。施設には保育所もあり、労働相談も受けている。施設利用者を守っていく役割がある。管理権として利用停止を判断する権限はある」と主張。「地裁では認められなかったので、高裁に判断を求めていきたい」とも言っている。「卑劣な表現の自由への妨害者をけっして許さない」「あらゆる手立てを尽くして表現の自由を守る」とは言わないのだ。
それでも、昨日(7月15日)大阪高裁が即時抗告を棄却した。吉村はこれに従わざるをえないとしながらも、なお、最高裁に特別抗告をするという。

 なお吉村は、2019年開催の「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の際に、同様の展示を「反日プロパガンダ」と酷評していた。そして今なお、「僕自身の評価は変わりません」と言っている。

 その彼の見解は、下記の彼の発言によく表れている。

「僕自身は愛知で行われている時に否定的な意見も言っている。だからといって、施設利用は認めないのはあってはならないし、表現の中身に踏み込むつもりはない。でも、かなり不快に思う人はたくさんいる。その人たちにも理由があって、そこでぶつかることもありえる。表現の不自由展をやってる方が自分たちが正義だと思っているのは分かるが、そうじゃない人の正義もある」

 彼は、この問題を、「表現の不自由展をやってる方の正義」と「表現の不自由展を不快に思うたくさんの人の正義」との衝突という図式でとらえているようである。が、問題は「誰の正義が真の正義か」ではない。誰にも表現の自由は保障されている。一方には、妨害を受けることなく表現の不自由展企画し実行するする自由が、そして他方にはこの展覧会を批判する表現の自由が保障されなければならない。そして言うまでもなく、互いに実力で相手の表現を妨害することは決して許されない。表現の不自由展を企画し実行する自由が制約される理屈は成り立たない。

 吉村のコメントは、「表現の自由を不快に思う」人々の気持を肯定しこれに肩入れする立場から、展覧会の開催の自由を何とか制約したいとする心情に溢れている。「かなり不快に思う人はたくさんいる。その人たちにも理由があって、そこでぶつかることもありえる」という表現で、展覧会の開催の妨害にも首肯すべき理由があり、会場使用承認取消にも十分な理由があるとの判断の伏線となつている。そのような心情と論理で、実行委が提起した取消訴訟の提起にも、執行停止の申し立てにも対応している。

 結局は、公権力が右翼の実力による展覧会妨害行為に理解を示しつつ、右翼の妨害行為の及ぼす危険を根拠に、会場使用承認の取消を合理化しようとしているのだ。この点、右翼との連携による暗黙のチームプレイの構造を見抜かねばならない。

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