澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

 明日(2月7日)日弁連会長選挙

明日2月7日(金)が日弁連会長選挙の投開票日である。次期の日弁連新会長(任期2年)が決まる。私は期日前投票を済ませた。

今回選挙で会長に当選すると目されている候補者は、日弁連の憲法委員会委員長、人権擁護委員会委員長の経歴をもつ。同候補の選挙スローガンが「憲法と人権を守り 築こう明日の日弁連」というもの。政策パンフレットを見る限り、これまでの日弁連の路線を踏みはずすことはない。

人権擁護、憲法「改正」阻止、憲法の理念の尊重、司法の独立、日弁連の在野性の確立等の、日弁連に定着した路線は、全国の多くの弁護士が長年積み上げてきた努力の結晶である。けっして一人のスーパースターの功績などではあり得ない。

そのような実績を積み上げてきた会内「主流派」の存在がある。名付けるなら、「護憲派」「人権派」あるいは「理念派」である。その人的構成において、革新派弁護士層と良心的保守層との緩やかな連合、と言ってよいだろう。近年その優位が揺らぐことはない。たった一度の例外を除いては。

2010年の日弁連会長選挙では、異例の再選挙になって、このときばかりは「主流派」が敗れた。勝利したのは、宇都宮健児君だった。宇都宮候補のスローガンは、「弁護士人口の増員反対」「司法修習の給費制維持」、そして「会内派閥体制の打破」であった。憲法や司法の理念をめぐって、日弁連の方針が争われたわけではない。

政府は、既に司法試験合格者を年間3000人に増員する計画を確立し日弁連も賛意を表明していた。宇都宮君は、「合格者数を年間1500人に削減する」と主張した。これに対して、主流派候補は削減数の明言を避けた。「司法改革」に関わってきたこれまでのしがらみがあったというだけでない。法曹人口増員は司法利用者である国民に有益で、「これに反対することは一般庶民に弁護士のエゴと映るのではないか」「多くの国民の賛意を得られないのではないか」という躊躇があったからである。

主流派と宇都宮君の主たる対立争点はこの点に収斂し、弁護士増員で経済的な苦境に曝されている地方会の多くが宇都宮君を支持した。こうして宇都宮会長が実現した。このとき、主流派の活動家の言葉が印象に残っている。「誰が会長になっても、憲法や司法の理念に関する日弁連の基本路線が揺らぐことはない」。確かにその通りとなった。

組織運営がスムーズに行われる組織においてはどこも同様であろうが、会長のパーソナリティで、日弁連の方針や姿勢が大きく変わることはない。言うまでもないが、人格識見優れた人物が会長選に立候補しているわけではないし、日弁連会長経験者が仲間内で尊敬されている弁護士ということでもない。

1970年代からの会長経験者のうち、個人的に尊敬に値すると思えるのは土屋公献さんくらい。また鬼追明夫さんの硬骨漢ぶりには敬意を惜しまない。その外には、格別敬意を表すべき人を知らない。会長経験者をことさらに持ち上げたり、何もかも一人がやり遂げたような都知事選での宣伝は、聞かされる方が恥ずかしくなるだけでなく、多くの弁護士を白けさせることになるだろう。

ところで、日弁連会長選挙と同時に、私の所属する東京弁護士会の常議員選挙も行われる。こちらも期日前投票を済ませた。私が投票した候補者の公約の一部を抜き書きしておきたい。

「弁護士会は、いま重要な課題を抱えています。国民世論を無視して特定秘密保護法が成立し、事実上の解釈改憲を意図する国家安全保障基本法が国会に上程されようとしています。基本的人権の尊重と恒久平和主義を基本原理とする憲法が危機に晒されています。東日本大震災の被災者と原発事故被害者の早期救済、法曹人口問題、若手会員への支援など課題は山積みです…」

日弁連会長が誰であるかにかかわりなく、弁護士会なかなか真っ当ではないか。
(2014年2月6日)

公職選挙法違反を自認した       選挙運動費用収支報告書訂正

予てから指摘しているとおり、前回都知事選(2012年12月16日施行)における宇都宮健児候補の選挙運動費用収支報告書(同年12月28日付分)の記載によって、同陣営の運動員買収の疑惑が濃厚である。けっして規模が小さい故に無視できるものではない。宇都宮君に、猪瀬を初めとする他の政治家の違法を正す資格があるのかが問われなければならない。

上原公子選対本部長(元国立市長)と服部泉出納責任者に対する運動員買収を明示したが、被買収運動員はこの2名に限らない。「労務者」「事務員」として届けられた者、最大29名に及ぶ可能性がある。買収者は、収支報告書に名前は出てこないが選対事務局長であった蓋然性が高い。公職選挙法221条1項に違反するもので法定刑の最高量刑は懲役3年である。

私は、選挙告示の前日(1月22日)のブログhttps://article9.jp/wordpress/?p=1970に次のとおり記載した。
「東京都知事選は、とうとう明日が告示日。明日から選挙運動期間である。
念のために、今日また東京都選挙管理委員会に足を延ばした。2012年12月16日施行の東京都知事選挙における宇都宮健児候補の選挙運動資金収支報告書を閲覧してきたが、本日(1月22日)午後の時点で、何の訂正も変更もなされていないことを確認した。宇都宮陣営は、前回選挙における選挙運動収支報告書の重大な届出ミスを認めながら、これを放置して次の選挙に突入しようとしている。
上原公子選対本部長(元国立市長)の労務者報酬10万円受領の届出も、添付の選挙運動報酬受領証も何の変更もなくそのままであった。服部泉出納責任者についても同じこと。合計29名に及ぶ疑惑の「労務者」「事務員」についての届出訂正もない。宇都宮陣営の1月5日付文書「法的見解」では、随分と簡単に「記載ミスを訂正すれば済む問題である」と言っておきながら、何の訂正もせずに次の選挙に突っ込もうというのだ。誰の目にも、「コンプライアンス意識に問題あり」が明白ではないか。あるいは、「記載ミスを訂正すれば済む問題」と言ってはみたが、実は「労務者報酬受領」と届出を脱法しての運動員買収の事実は訂正のしようがないということなのであろうか」

ところが、宇都宮選対は、同じ1月22日付で収支報告書の訂正届出をしていた。私が報告書を閲覧して確認をしたあとのことになるのか、あるいは同日の訂正届出が報告書に反映されたのが私の閲覧のあとになったのかも知れない。いずれにせよ、私がその訂正を確認したのは昨日(2月3日)のこと。都庁に用事があって、ついでに選挙管理委員会によって閲覧の結果である。

訂正の態様は、上原公子選対本部長と服部泉出納責任者両名に対する、各労務者報酬として明記された10万円の支出の届出を抹消するというもの。

1月5日付の宇都宮陣営の「法的見解」は、次のように言っていた。
「公職選挙法は『選挙運動に従事する者』の実費弁償を認めている(197条の2)。上原氏はこの『選挙運動に従事する者』であり、交通費や宿泊費など法的に認められる支出の一部にすぎない10万円の実費弁償に何の違法性もないことは明らかである。」「もっとも上原さんらの上記10万円の実費弁償が選挙運動費用収支報告書に誤って「労務費」と記載されていることは事実であるが、この記載ミスを訂正すれば済む問題である。」

「法的見解」では、「上原さんら」への選挙運動費用としての10万円の支払いと、同人らの同額の受領を否定していない。2012年12月14日の日付がはいった「上原さんら」の署名捺印のある領収証に、「選挙報酬として」受領したと明記されているのだから、受領の事実は否定し得ないと判断したのだろう。だから、「選挙報酬として」という受領証の記載も、収支報告書の支出目的欄に届け出た「労務者報酬」という記載も間違いで、実は「交通費や宿泊費の一部」だったと取り繕うほかはなかったのだろう。

以上の「法的見解」の記載から、私は当然のこととして「労務者報酬」としての支出の届出を「交通費や宿泊費」に訂正するのだろうと思っていた。そのために、これを証する領収証を調達する努力がなされるだろうし、もしそれができなければ、領収証に代わるものとして公職選挙法189条1項に定められた「領収証…を徴し難い事情があったときは、その旨並びに当該支出の金額、年月日目的を記載した書面」を作成して提出することになるだろう、そう思っていた。

ところが宇都宮選対はそうしなかった。選挙運動費用収支報告書の記載は、「上原さんら」への支出はまったく無かったものと「訂正」されたのだ。「労務者報酬」としても、「交通費や宿泊費の一部」としても、支出と受領の事実そのものが抹消された。「法的見解」とはまったく異なるストーリーとなったのだ。

この訂正の結果、選挙運動費用の支出総金額は20万円の減額となった。すると、選挙カンパの残額は20万円増えてなくては辻褄が合わないことになるが、さて上原さんらは現金を払い戻したのだろうか。

なお、宇都宮候補の出納責任者として選管に届出されたのは服部泉さん一人だけである。ところが、選挙運動費用収支報告書の「第2回分」(2013年2月12日付)の届出は別人の「出納責任者・服部勇」が行っている。「真実に相違ありません」という公選法に基づく宣誓をしてのことである。今回、この点も併せて1ページ全部が差し替えられて訂正された。前代未聞のお粗末な訂正ではないか。

選挙管理委員会は、届出も訂正も内容の真偽にかかわらず受理はする。選挙管理委員会の届出受理が適法性のお墨付きとはならない。もちろん、訂正の経過はしっかりと残すようになっている。これから検証されなければならない。

この度の訂正は、選挙運動に関する費用の収支報告を適正になすべき公職選挙法上の義務に反した違法を自認したものである。届出の違法を指摘されて、違法を認めたから訂正した。いうまでもなく、訂正したから罪にならないということにはならない。報告書提出時点で犯罪は成立しているのだから。

公職選挙法の該当条文は以下のとおり。
「246条 次の各号に掲げる行為をした者は、3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処する
 5号の2 第189条第1項の規定に違反して報告書若しくはこれに添付すべき書面の提出をせず又はこれらに虚偽の記入をしたとき」

これは、いわゆる形式犯である。「うっかりミス」も処罰の対象となる。先の選挙運動員買収は実質犯として懲役3年、こちらは形式犯であるが故の禁錮3年。もっとも、形式犯としては法定刑が重い。このことについて、「逐条解説 公職選挙法」は、「選挙の自由公正は適正な選挙運動費用の収支の確保によって担保されるものであり、これが適正に行われないときは選挙の自由が著しく阻害され、選挙の信用をも失墜せしめる原因ともなるのであるから、けだし当然のことというべきである」と述べている。

上原、服部両人の各10万円受領の事実は、報告書の「訂正」によっても動かしがたい。「法的見解」によって補強されているところでもある。しかも、今回の「訂正」によって、受領費目が「旅費・宿泊費」ではないとされているのだから、10万円の授受は運動員買収と考えざるを得ない。

上原・服部の受領費目を「旅費・宿泊費」としたのは「法的見解」だが、今回の訂正はこれを否定した。同じ報告書には宿泊者の特定はないものの、31泊分の宿泊費の支出を計上している。上原・服部らが真実宿泊しているのなら、支出費目を宿泊費と特定して支払いを請求し受領して、その旨を届け出たはずである。また、タクシー代を主とする交通費の支払いも188件の支払いが届け出られている。上原、服部両人が、領収証なしに各10万円の交通費の支給を受けたとは到底考えられない。誰が見ても、真実は、届出の虚偽ではく、選挙運動の対価としての報酬の受領であったろう。つまりは、禁錮刑の範疇ではなく、懲役刑の範疇の行為なのだ。

昨年10月の川崎市長選での福田紀彦市長陣営の提出した選挙運動費用収支報告書にミスがあったとして訂正になった。事情をよく調べてみると、なるほど陣営の言い分には納得しうるものがあるというべきである。それでも、「神奈川新聞」と、「朝日」「毎日」(いずれも地方版)はこれを取材し記事にした。まさしく、「選挙の自由公正は適正な選挙運動費用の収支の確保によって担保されるものであり、これが適正に行われないときは選挙の自由が著しく阻害され、選挙の信用をも失墜せしめる原因ともなるのであるから」という観点からである。しかし、なぜか宇都宮陣営の選挙運動費用収支報告書の訂正は、メディアの報道するところとなっていない。
(2014年2月4日)

都知事選の供託金は高額か

先日、東京都選挙管理委員会の事務局で、まったく偶然に、とある都知事選立候補予定者と言葉を交わす機会があった。前回都知事選にも立候補されたとのことだったが、失礼ながら当方はまったくそのお名前を存じ上げない。供託金は確実に没収されるだろうにまたなぜと、興味津々で余計なことを口ばしった。
「供託金300万円はご負担ではありませんか」

その方は、やや訝しげな表情で、「いいえ。少しも高いとは思いません」「私には訴えたい政策がありますから。むしろそのチャンス」ときっぱりした態度。続けて、「私は、どうしても三つのことを都民に訴えたいのです」と短く政策を語った。何度となく繰り返しているのだろうと思われる滑らかな口調。物腰も柔らかだった。「私は一介の労働者ですが」という言はあったが、300万円の供託金が高額に過ぎるとも負担とも本心思ってもないという態度だった。いま、我が家に配布された選挙公報に、細かい字でびっしりとその方の政策が掲載されている。おそらくは、懸命に、その方なりの選挙運動に邁進しておられるのだろう。

また、私の知人の弁護士が立候補しており、いかにも彼らしい断固たる政策を掲げている。「1000万人の怒りで安倍を倒そう」「改憲・戦争・人権侵害を許さない」「戦争させない」「被曝させない」「貧困・過労死許さない」そして、「だからオリンピックはやらない」など。口当たりのよい当選のためのスローガンではなく、自らの固い信念の披瀝。その彼から選挙葉書が届いた。彼も、都知事選を自分の信念や政策を広く世に問う場として、精いっぱい活用している。彼にも、供託金が高額という思いはないだろう。

ところで、私が「立候補をおやめなさい」といさめた、別の知人の弁護士も立候補している。この人は、「日本の選挙における供託金は高額に過ぎる」「財産による差別ではないか」と繰り返している。この種の議論はよく聞くところだが、私は当たらないと思う。とりわけ、都知事選の供託金300万円は廉い。現実にバラエテイに富む候補者が多数立候補している。この程度の額の供託金が立候補のハードルになっているとは思えない。

私のブログを読んだ旧友が、わざわざ手紙をくれた。
「供託金は、自分の家を抵当に入れてでも自分で作らなければならない。金が作れないなら、立候補はあきらめるべきだ。なんとなく人に勧められたから、人がお膳立てをしてくれたから立候補するという感じがする。そんな根性では当選しても良い仕事ができるわけがない」
なるほど、そういう見方もある。

確かに、諸外国の制度と比較して日本の供託金は高額である。しかし、日本の選挙公営の制度は極めて充実している。選挙公営は、経済的に恵まれない候補者にも最低限の言論による選挙運動手段を保障する「民主主義のコスト」である。選挙公営による負担額は、供託金額をはるかに上回っている。このことを抜きにして、日本の供託金は高額と言うべきではなかろう。選挙制度をどう作るかについて、著しく不合理で国会の裁量の範囲を逸脱しているとは到底考えがたい。

前々回(2011年4月)都知事選は立候補者11人で経費は42億円かかった。前回(2012年12月)は9人で38億円。今回都知事選実施の総費用は50億円と報じられている。単純に16人の候補者数で割れば一人当たり3億円。300万円はその100分の1に過ぎない。微々たるものであるといって差し支えなかろう。

東京都選挙管理委員会による選挙公営の趣旨と内容の解説は、以下のとおりである。
「選挙公営制度は、選挙運動の公正を確保するため、候補者間の機会均等を保障するとともに、選挙人の政治参加を保障する趣旨で設けられている。現在、都選挙管理委員会が管理執行している選挙公営は、概ね次のとおりである。
(1) 通常葉書の交付
(2) ポスター掲示場の設置
(3) 新聞広告の掲載
(4) 政見放送
(5) 経歴放送
(6) 個人演説会の施設公営
(7) 選挙公報の発行
(8) 投票所内の氏名等掲示
(9) 特殊乗車券の交付
(10) 選挙運動費用の公費負担」

上記の(1)?(9)までは、全候補者に平等に提供される。(10)のみが、供託金没収されない法定得票(有効投票の10%)を得た者だけが受益者となる。

その具体的な内容は、以下のとおりなかなかのものである。
(1) 通常葉書の交付
  1候補者当たり95,000枚(50円×95000枚=475万円相当)
(2) ポスター掲示場の設置
  あのポスター掲示板は、全都で1万4132台ある。候補者は、ここにポスター掲示による宣伝の権利を得る。
(3) 新聞広告の掲載
  新聞広告は、各候補者が選挙期間中4回の無料掲載をしてもらえる。
(4) 政見放送
  テレビはNHK2回、民放3回。無料で放送できる。
  ラジオはNHK2回、民放1回。無料で放送できる。
(5) 経歴放送
  テレビはNHK1回。ラジオはNHKと民放と併せて5回。無料。
(6) 個人演説会の施設公営
  公営施設を利用して個人演説会を開催する場合、候補者一人につき、同一施設ごとに1回に限り無料。
(7) 選挙公報の発行
  発行部数は700万部。立候補者の政見を全所帯に配達してくれる。
(8) 投票所内の氏名等掲示
  各選管の義務となっている。
(9) 特殊乗車券の交付
  関係区域内でJR等の無料特殊乗車券15枚支給
(10) 選挙運動費用の公費負担(一定額まで)
 *選挙運動用自動車の使用
 *選挙運動用ビラの作成
 *ポスターの作成

至れり尽せりではないか。これで300万円は高かろうはずがない。選挙葉書の発送費用を負担してもらうだけで、おつりが来る。訴えるべき政策のある人なら、都知事選に出馬して、堂々と都民に自説を披瀝しようという気持ちになろうというもの。少なくとも、300万円が高額に過ぎて立候補を妨げるハードルとなっているということには無理があろう。

なお、公職選挙法には選挙に関する争訟についての定めがある。「供託金が高額に過ぎて立候補の権利の障害となっているのは憲法違反」、「財産による差別」という選挙無効訴訟は、選管を被告としてくり返し起こされている。

東京都選挙管理委員会でも近時の例として次のものが報告されている。
2010年7月11日執行の参議院議員選挙(東京都選出)についての「選挙無効訴訟」。
「公職選挙法の定めによって、立候補に際し供託金を納めさせ、その金銭を得票数や当選人数に応じて没収する規定は財産と収入による差別にあたり、憲法に違反しているので無効である。この規定に基づいて行われた参議院議員東京都選挙区の選挙は無効である」との訴えが2010年7月21日東京高裁に提訴され、同年10月28日東京高裁判決(原告の請求棄却)、2011年11月8日最高裁上告棄却(判決確定)。

2011年4月24日執行の豊島区長選挙・豊島区議会議員選挙の「選挙無効訴訟」。
「選挙供託制度は財産により、選挙権や被選挙権を差別するもので憲法に違反しているので無効である」との訴えについて、同年9月5日東京高裁に提訴。同年12月14日請求棄却判決。2012年4月27日上告受理申立て不受理決定により確定。

国権の最高機関であり唯一の立法機関である国会は、最も民意に近い機関としての権威に基づいて立法裁量の権利をもっている。その裁量の範囲を逸脱して初めて、司法の出番となって違憲審査の対象となる。選挙の制度設計についても、この事情は変わらない。
供託金制度の存在理由は、かつては無産政党の進出防止にあったであろうが、今はそのようには言えまい。「売名目的の立候補乱立防止」についても、それだけでは供託金額の妥当性ははかりようがない。制度設計としては、「公営選挙のない供託金額の減額」か「公営選挙を伴う供託金額の維持」かの選択にあるのだろうと思う。少なくとも、都知事選における300万円の供託金の金額は、立候補者に与えられる公営選挙のメリットに鑑みるとき、これが国会の裁量の範囲を逸脱して、不当に被選挙権の行使を妨げているものとは言えない。すくなくとも、国会の立法裁量を逸脱するということには大きな無理があると言わざるをえない。
(2014年2月3日)

特定秘密の「外形立証」とは何か

  
1月27日のブログに、特定秘密保護法と国民の公開裁判を受ける権利との矛盾について書いた。同時に、同法違反で起訴された被告人の弁護を受ける権利侵害の虞について触れた。

この点について、国会審議では、森雅子担当大臣は、くり返し「外形立証」で足りることを口にしている。「刑事訴訟法上の秘密の立証というのは外形立証で足りるとされております。例えば、秘密文書の、立案、作成過程、秘密指定を相当とする具体的理由等々を明らかにすることにより、実質秘性を立証する方法が取られております」という具合にである。この点について、もう少し考えて見たい。

特定秘密保護法違反被告事件の刑事訴訟では、被告人の行為が「特定秘密を漏えいした」等の立証が必要である。秘密とは、「非公知の事実であって、実質的にもそれを秘密として保護に値すると認められるもの」という「実質秘」概念として定着している。被告人に「実質秘」を侵害する行為があったことの立証責任は、当然に検察官が負担する。

侵害された特定秘密そのものの公判廷における顕出が「最良の証拠」である。しかし、公開の法廷において秘密をそのまま証拠調べすれば、秘密の内容が公開される結果となり、法廷において不特定多数の者に秘密が漏えいされることになる。だからといって、特定秘密の保護を優先して、「秘密漏えいに関する被告事件については司法の判断が及ばない」などという考え方は、絶対に憲法が許容するところではない。

この「矛盾」をどう解決すべきか。論理の上では、次の3通りが考えられる。
(1) 裁判所が公開手続において秘密とされた内容を直接審査しない限り、検察官の立証が不成功として無罪判決を言い渡す。
(2) 裁判官だけが、非公開の手続でその秘密を審査する。
(3) 直接に秘密の内容を取り調べるのではなく、周辺の間接事実を積み重ねることによる立証で、裁判所は有罪か無罪かの心証を形成する。

このうち、分かりやすいのは(1)である。このような考え方で無罪を言い渡した下級審判決もある。刑事訴訟の原則において、訴因の特定が要求され、有罪には合理的な疑いを容れない程度の立証が必要とされる上は、当然というべきだろう。立証は、単に秘密の漏えいがあったというだけでなく、その秘密の「非公知」性と、「実質的に秘密として保護に値する」という、「実質秘性」の立証が必要となるのだから。

但し、このことが特定秘密保護法違反事件は常に無罪になるということを意味するものではない。当該被告事件の行為時の報道により、あるいは起訴の報道によって非公知性が失われれば、秘密の秘匿は無意味になる。その結果、公判廷において「最良の証拠」として当該秘密の内容が顕出され、証拠調べの対象となって、実質秘性について裁判所の判断を仰ぐことになる。毎日新聞西山記者事件における「密約」は、そのようなものとして公判廷に顕出された。

(2)は、憲法上の公開裁判を受ける権利(37条、82条1項、同条2項但書)の保障をないがしろにするものとしてあり得ない。民事訴訟や人事訴訟、あるいは情報公開請求訴訟などで限定的に制度化されている「インカメラ」方式は、刑事手続においては採り得ない。

(3)が、森雅子氏のいう「外形立証」なるもの。刑事訴訟の立証といえども、直接証拠によらねばならない原則はない。間接事実や経験則を積み重ねて、立証の程度が、合理的な疑いを容れざる程度に至ればよいのだから、秘密漏えいに関する事件に特有の立証の方式が認められたというものではない。「外形立証」というネーミングが適切であるかも検討の必要があろう。

一般論としては、裁判公開の原則を遵守しつつ、当該被告事件において漏えいされた特定秘密を直接公判廷に顕出することのないままに、裁判所に有罪の心証形成を求めることは不可能ではない。周辺の間接事実と経験則の積み重ねによって、立証が可能。それはその通りだ。

しかし、「国家の重大事に関わる秘密保護を優先して、例外的に被告人の利益を劣後したものとして取り扱う」「刑事訴訟の原則を枉げて、有罪の心証として要求される立証の程度を緩和してよい」などということは、絶対にあり得ない。強引に(3)で押し通して有罪判決に至るとすれば、何が秘密かが分からぬままに処罰されてしまうことになってしまう。とすれば、結局のところ、(2)なく、(3)なく、残る(1)の原則に戻らざるを得ないのではないか。

特定秘密保護法は、公開の法廷で裁判を受ける国民の権利については、何の言及もしていない。この法律違反の刑事被告事件には、なんの例外措置もなく、刑事訴訟の原則のとおりの、被告人の弁護権、防御権が保障されなければならない。

しかし、「有識者会議 報告書」の末尾にある下記の一文に、立法者の意図を懸念せざるを得ない。

「特別秘密の漏えいにより国や国民が受ける被害の重大さに鑑みれば、その保全体制の整備は喫緊の課題である。知る権利など国民の権利利益との適切なバランスを確保しつつ守るべき秘密を確実に保全する制度を構築することは、国民の利益の一層の実現に資するものである。」

ここには、もし公開の刑事訴訟手続において特定秘密の内容を明示することなく有罪判決をとれないようなら、それは「国家の安全保障政策上由々しき事態だ」という考え方が露呈している。そのような権力の意向が、裁判所を屈服させることになるかも知れない。あるいは、政権は新たな刑事手続法の制定に着手するかも知れない。要は、「刑事訴訟の原則があるから安泰」などとは言っておられないということである。
(2014年2月2日)

橋下徹の政界からの撤退を歓迎する

橋下徹の大阪都構想が頓挫した。市長の補完勢力となっていた公明党が維新大阪を見限ったことによって、大阪市議会で橋下が完全に孤立したからだ。これまでも、維新の落ち目は明らかだったが、これで決定的な挫折が明らかとなった。橋下は、事態の打開を目指して辞職し、新たな市長戦に打って出る意向とのこと。この出直し市長選で敗れた場合には、「橋下徹・松井一郎の2人とも政界を去る」と明言をした。是非とも、潔く完全に政界を去っていただきたい。それが、日本の民主主義のためなのだから。

この間、私は民主主義とは何かを考え続けてきた。民主主義に代わる政治形態はあり得ないが、民主主義が万能であるわけはない。国民の政治意識の成熟なくして、民主主義は容易にポピュリズムに転化する。民主主義が独裁をすら生みだしかねない。その危うさを橋下維新に見てきた。橋下の台頭は民主主義への警鐘であり、橋下の挫折は民主主義の辛勝を意味する。

民主主義とは権力形成の手続である。集団の成員が特定者に対して、権限・権能・権威を委託する手続と言ってもよい。その手続において、集団全体の意思をできるだけ正確に反映する権力を形成することが想定されている。それが、成員全体の利益になるはずという予定調和が想定されている。

しかし、そうして形成された権力が成員全体の利益を実現するとは限らない。むしろ、権力が成立した瞬間から個々の成員との対立矛盾が生じることになる。予定調和は幻想に過ぎないのだ。多くの現実例によって、多数派形成の権力が少数者の人権を侵害するものであることを明らかにしている。

とりわけ橋下である。彼は、ことあるごとに「民意は我にあり」と強調してきた。民意は選挙に表れている、選挙に勝つことこそ万能の権力の源泉、と振る舞ってきた。しかも、彼の民意獲得の手法は、意識的に選挙民を煽って「民意の敵」をつくり出すというもの。「敵」とされるものは、大企業でも高額所得者でもない。公務員であり、教員であり、労働組合なのである。鬱屈している民衆の身近にいる羨望の対象。これを「敵」と規定し、容赦ない攻撃によるカタルシスを選挙民にもたらす。こうした非理性的な集票手段によって成立する権力が、教育委員会制度を破壊し、極端な「日の丸・君が代」強制を実行し、職員の思想調査や、不当労働行為を頻発している。

大阪都構想は、本質的には、財界が新自由主義的な社会保障切り捨て策として待望している道州制へのステップである。しかし、選挙民の感性レベルでは、東京に対抗意識の強い大阪人のプライドをくすぐる策でもある。民主主義的理性に訴えるのではなく、民衆の感性と憎悪の感情に訴えることによって保たれる権力は、暴走の危険を孕むものである。橋下維新の危うさは、今や革新と保守とを問わず、大阪市議会で維新以外の全政党政派の共通認識になった。そのことが維新の決定的な孤立をもたらしている。

願わくは、来るべき大阪市長選挙おける反橋下統一候補の擁立である。都知事選の轍を踏むことなく、候補者選定の過程をオープンにし、各会派の共闘に知恵を集めていただきたい。民主主義の大義のために。
(2014年2月1日)

平和への破局としての「アベゲドン」

亡父の誕生日が1914(大正3)年1月1日。五黄の寅の元日の生まれは、易では運気が強いとされるようだ。が、父は特に名をなすこともなく、市井に生き市井に埋もれた。2度招集され、極寒のソ満国境で関東軍の下士官として越冬している。その間母は心細くも銃後を守った。父母ともに、まともに戦争と向かいあった「割を食った世代」だった。それでも、父が一度の戦闘に参加することもなく敗戦を内地で迎えることができたのは、もって生まれた運気のお蔭だったのかも知れない。加えて、戦後は3男1女を一人も欠けることなく育てる平穏に恵まれている。これ以上望むべきことがあろうか。人生の後半は平和の恩恵を噛みしめた世代でもあった。

その父が生きていれば、今年の正月で満100歳。その生年の100年前とは、はるかに遠い昔のような、案外にそれほどでもないような。その100年前の世界の国際情勢が、今話題となっている。波紋を呼んだ、安倍晋三のダボスでの記者会見によってである。

巧みに書かれているので、本日の「毎日」の福本容子論説委員の記事の一節を引用する。
「世界経済フォーラムのためスイスのダボスに集まった各国の有力な経済人や政治家やメディアは、安倍さんの発言に安心の材料を見つけたかったのだと思う。だから怖くなった。『あるわけないでしょ』が当然返ってくると思いイギリスの記者が聞いた『日中の武力衝突は考えられますか』に、即全面否定がなく、世界大戦に発展した100年前のイギリスとドイツの関係を自分で話題にしたのだから。いくら同じ失敗はしない、が真意だったとしても、米ウォールストリート・ジャーナル紙は、『世界経済を動かす人たちが、全面戦争を本物のリスクとして語りだしたこと自体、心配な動き』と書いた。」

亡父が極東の島国で生を受けた100年前。ヨーロッパでは、国際経済交流の活発化と相互依存の経済関係が意識されるようになり、もう戦争は起こらないのではとさえ囁かれていたのだという。にもかかわらず、偶発的な事件の連鎖がヨーロッパを二分する大戦争になり、やがてはアメリカをも巻き込んだ。日英同盟を締結していた日本も参戦して、「日独戦争」を戦っている。

ダボスで安倍晋三の口から語られたことは、その二の舞はあり得ないという否定としてではなく、第1次大戦と同様、日中の戦争はあり得るというメッセージと受けとめられた、というのだ。

おなじ福本容子論説委員の記事に次の一節がある。
「『ものの1時間で、経済と政治の方程式は、アベノミクスからアベゲドンのリスクに変わった』。安倍晋三首相の靖国神社参拝後、香港の英字紙、サウスチャイナ・モーニング・ポストに載った論評だ。」

「アベゲドン」(あるいはアベマゲドン)という造語は、アベノミクスの行きつく先に予想される経済の破局を意味するものだった。名付け親は、世界的な投資銀行として知られるUBS銀行の最高投資責任者アレックス・フリードマンという人物だと聞く。投資家ならずとも、アベノミクスの破局的終焉は多くの人が危惧するところ。ところが、同じ言葉が、経済のみならず、政治的な破局、あるいは平和の終焉をも意味する用語として使われ始めている。

福本が引用する香港紙に語られているのは、経済ではなく「政治の方程式」、あるいは「戦争と平和の方程式」である。安倍の靖国神社参拝は、政治的な破局としてのアベゲドンにつながるリスクをもった行動として論評されている。

第二次大戦後の国際秩序の基本構造は、ファシズムの枢軸側と反ファシズムの連合国との争いに、反ファシズム勢力の勝利をもって決着したところから出発している。ナチスはニュールンベルグで、天皇制日本は東京裁判で、その平和に対する罪を裁かれた。その結論を承認することが、敗戦国の国際社会への復帰の通過儀礼となった。そのようにして、日本は国際社会に復帰し国連にも加盟した。

靖国史観は、この戦後世界の国際秩序を認めない。アジア太平洋戦争が侵略戦争であったことを否定し、植民地支配への反省もない。東京裁判を勝者の裁きとして、その正当性を認めようとしない。安倍が参拝したのは、そのような軍国神社なのである。これまでの安倍の言動と相俟って、この靖国参拝は、戦後の国際秩序の基本構造への挑戦であり、新たな戦争準備であると各国に映っているのだ。それが、政治的意味でのアベゲドンのリスクと認識されている。

父の生きている間に、世界は2度の大戦と無数の小戦争を経験した。人類の進歩を信じたい。100年前に戻って、再びの戦争の歴史を繰り返したくはない。アベゲドンはまっぴらだ。安倍のような危険人物にこの国の運命を委ねていてはならない。人がこの世に生を受けて、その貴重な人生を戦争に蹂躙されることがないよう、揺るがぬ平和を築くために微力を積み重ねたい。
(2014年1月31日)

改めて問う 「秘密のまま裁判、困難」

特定秘密保護法の問題点は無数にある。そのひとつとして、同法違反の刑事被告事件において被告人の防御権を保障できるのかという難問がある。185臨時国会では、政府はこの問題にフタして強引に押し切ったが、本日の「毎日」が、「秘密のまま裁判、困難」「法案検討時 警察庁など懸念」と、同紙が情報公開請求で入手した資料をもとに、改めてこの問題を提示している。今通常国会では、同法の廃止法案が論戦の舞台に上る。毎日の姿勢を大いに評価したい。

周知のとおり、特定秘密保護法の原型を形つくったのは、「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議」である。同会議のメンバーは以下のとおり。ことあるごとに記して記憶を新たにしておかねばならない。
  縣公一郎(早稲田大学)
  櫻井敬子(学習院大学)
  長谷部恭男(東京大学)
  藤原静雄(中央大学)
  安富潔(慶應大学)

同会議は、2011年1月から6月にかけて、6回の会合を開き、同年8月8日に「秘密保全のための法制の在り方について」と題する報告書をまとめた。秘密保全法制検討の会議にふさわしく、会議の経過はヒ・ミ・ツ。議事録の作成はなかったという。

その報告書の23?24ページに、「第7 立法府及び司法府」という節がある。国会議員や裁判官に、「特別秘密」(これが法制定時には「特定秘密」となる)の守秘義務をどう課するべきか、罰則の適用をどうするかが、以下のとおり検討されている。

「立法府及び司法府がそれぞれの業務上の必要性から特別秘密の伝達を受け、国会議員や裁判官等がそれを知得することが想定し得るため、然るべき保全措置が取られることが本来適当である」

この業界語を日本語に翻訳すれば、以下の如くである。
「国会議員や裁判官には、特定秘密を触らせたくはない。だから、できるだけ議員や裁判官には特定秘密を明かすことなく仕事をしてもらう。しかし、国会や裁判所の業務の必要から、やむなく特別秘密を明かさねばならないこともあるだろう。そのときのために、国会議員や裁判官にも罰則を設けてそれ以上は秘密が漏れないようにしなければならない」

これを前提として、
「司法府については、裁判官には罰則を伴う守秘義務が設けられていない一方、弾劾裁判及び分限裁判の手続が設けられている。特別秘密に係る裁判官の守秘義務の在り方を検討するためには、上記のことも踏まえ、司法府における秘密保全の在り方全般と特別秘密の保全の在り方との関係を整理する必要があると考えられる。しかし、このような検討は、行政府とは独立の地位を有する司法府の在り方に多大な影響を及ぼし得るため、司法制度全体への影響を踏まえて別途検討されることが適当と考えられる。」

ここには、秘密の保護に性急なあまり、司法本来の役割への配慮を見ることができない。裁判官は、うっかり特定秘密に触れると、その漏えいが厳罰の対象となってしまう。それなら、公判で特定秘密を明らかにするような訴訟指揮は、できるだけしたくはないということになるだろう。その結果、国民は、特定秘密保護法違反に関しては、被疑事実をヒ・ミ・ツとされたまま、逮捕され、捜索差押えされ、勾留され、そして刑事公判においてもヒミツを明らかにされないまま有罪判決を受ける虞を払拭できないこととなる。

極論すれば、「被告人を懲役10年に処する。その理由はヒミツ」という判決が危惧されるのだ。このようなことがあってはならないとして、憲法37条は「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する」とされ、さらに82条1項は「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」、同条2項は「裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない」としている。公開とは、当然のこととして実質的な意味での公開であるのだから、傍聴者やメディアを含めた誰にも、被告人がどのような罪で訴追されているかが分からなければならない。公訴事実秘密のままで国民の基本権に関わる裁判をすることは許されないのだ。

このことは、特定秘密保護法の法案提出以前から問題点として意識されていた。
日本弁護士連合会2013年(平成25年)9月12日「『特定秘密の保護に関する法律案の概要』に対する意見書」では、次のように指摘されている(22ページ)。
「国家秘密を秘匿したままの裁判では,被告人がどのような事実で処罰されるのか分からない状態で裁判を受けることとなり,実質的な防御権・弁護権を奪われるおそれがある。弁護人は,弁護活動のため秘匿された国家秘密にできるだけ接近しようとするであろうが,関係者への事情聴取等の調査活動,資料の収集活動も教唆,共謀等に問われるのだとすれば,弁護活動も著しく制約されることになる。これは弁護人選任権,公正な裁判の否定である。
基本的人権侵害の最後の救済が裁判を受ける権利であるが,これはあくまで事後的救済であり,犯罪として捜査,起訴されただけでも回復不可能な重大な人権侵害となる。その上さらに,特定秘密の保護に関する法律に違反した犯罪では,裁判を受ける権利が否定されかねず,事後的救済すら不十分なものとなる」

この点について、国会審議では、森雅子担当大臣は、くり返し「外形立証」で足りることを口にした。たとえば、次のように。

「森雅子国務大臣 先ほどから申し上げている通りですね、刑事訴訟法上のですね、秘密の立証というのは外形立証で足りるとされております。例えばですね、その秘密文書のですね、立案、作成過程、秘密指定を相当とする具体的理由等々を明らかにすることにより、実質秘性を立証する方法が取られております。」

こんな答弁で納得できようはずもない。被告人の権利はどうなる。弁護権はどうなる。裁判の公開の原則はどうなってしまうのか。この人にかかると、すべてのことがあまりに軽くなってしまう。憲法上の重大な原則を、こんなに軽んじられてはたまらない。

今日の「毎日」の調査報道は、警察庁が開示した文書によるもの。「法案検討時に、警察庁や法務省が、特定秘密保護法違反の刑事裁判について、『秘密の内容を明らかにせずに有罪を立証をすることは困難』と指摘していたことが分かった」という趣旨。「憲法が定める裁判公開原則との整合性についても結論が先送りされており、同法が司法制度との間に矛盾を抱えたまま成立した実態が浮かび上がった」としている。

興味深いのは、「法務省刑事局が『弁護人の争い方や裁判所の考え方次第では、外形立証では対応しきれず、特別秘密(現特定秘密)の内容が法廷で明らかになる可能性がある』などとする意見書を、法案を作成した内閣情報調査室(内調)に提出していた」というのだ。

「内調の橋場健参事官は取材に「従来も外形立証は行われており、特定秘密の漏えいも外形立証で証明可能と考えている」と説明。また、法務省刑事局は外形立証への見解に関し「警察庁の文書について回答する立場にない」、警察庁警備企画課は「公判手続きに関わる事柄なので答える立場にない」と回答した」とのこと。

まだ特定秘密保護法施行前の今だから、情報公開請求でこれだけの事実が浮かびあがってくる。記者の取材も可能だ。特定秘密保護法施行後には、こんなことも「特定秘密」に指定されることにならないだろうか。

いずれにしても、この日下部聡記者の署名記事。よく切り込んでいるではないか。記者冥利に尽きる記事と言えよう。
(2014年1月27日)

 「安倍靖国参拝違憲訴訟」の原告団結成準備

2013年12月26日の安倍靖国参拝については、12月26日と27日のブログで意見を述べておいた。
https://article9.jp/wordpress/?p=1776(26日)
https://article9.jp/wordpress/?p=1783(27日)

この安倍参拝の違憲性を、集団訴訟で明確にしようという動きが各地であるようだ。その一つの動きとして、私の許にも下記の文書が回ってきている。「転送歓迎」となっているので、発信者の役に立ちたいと思う気持ちから、全文を転載する。
 ***********************************************************************
   安倍内閣の危険な体質を危惧されているすべての皆様へ
      安倍靖国参拝違憲訴訟の原告になりませんか
(仮称)安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京
 2013年12月26日、安倍晋三首相は靖国神社を参拝しました。
 礼装し、公用車で靖国神社に向かい、「内閣総理大臣安倍晋三」と記帳し、正式に昇殿参拝しました。これは公式参拝であり、日本国憲法20条(政教分離)に明らかに違反をしております。私たちは具体的な形で安倍首相に批判の声を届けなければなりません。安倍靖国参拝違憲訴訟を起こしたいと思います。
 この訴訟は違憲確認、将来にわたる公式参拝差し止めを求める裁判ですが、「政教分離」だけでなく、平和的生存権はもちろん、「秘密保護法」成立の強行、「集団的自衛権」「武器輸出」推進、その他社会全般に及ぼうとしている安倍内閣の危険な政治を総合的に問う訴訟にしたいという考えも出ております。
私たちは、この訴訟提起が、市民が法的な面から直接に安倍内閣に異議申し立てができる数少ない道の一つではないかと考えております。
 この訴訟に多くの方が加わってくださること(原告、支援の会)が訴訟を強力にする道と思い、呼びかけを送ります。訴訟は4月21日(靖国神社春季例大祭の日)に提訴することを予定しています。
訴訟の内容(会の代表、原告代表、事務局、費用など)は、現在協議中ですが、この訴訟に加わりたい方、関心のある方、下のmailアドレス・FAXにて連絡ください。今までの資料や原告募集等の書類などお送りいたします。もちろん訴訟関係の事務局会議に参加くださることも歓迎します。

安倍首相は「平和を祈って参拝した」などと述べています。今回、安倍首相は、靖国神社の中にある「鎮霊社」にも参拝しました。鎮霊社は、1853年(ペリー来航)以降の全世界の戦争の死者のうち、靖国神社に合祀されていない人々を「慰霊するための施設」としてつくられたものです。そこは、ヒトラーもアウシュビッツの死者も、靖国神社に合祀されていない空襲や原爆の死者も、等しく「慰霊」する場所なのです。もし靖国神社に合祀されていない故人があなたの親族にいれば、ヒトラーと等しく勝手に「慰霊」されています。

この会は東京で立ち上げましたが、東京や首都圏だけの方でなく、全国どこからでも原告になれます。外国籍の方も原告になれます。

<呼びかけ人>(アイウエオ順)
蒲信一(僧侶)・辻子実(平和の灯を!ヤスクニの闇へ キャンドル行動)・関千枝子(ノンフィクションライター)・坂内宗男(日本キリスト教協議会靖国神社問題委員会委員長)・山本直好(ノー!ハプサ・合祀絶止訴訟事務局長)・吉田哲四郎(神奈川平和遺族会共同代表)
 連絡先         「安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京」
               FAX  03・3207・1273
               mailアドレス;noyasukuni2013@gmail.com

   *********************************************************************

このような運動を立ち上げている方々には、敬意を惜しまない。が、私自身が参加するするかどうかは判断しかねている。もう少し考えてみたい。

首相の靖国神社参拝は、外圧への対応や国益擁護の観点から論じられるべき問題ではなく、なによりも憲法原則に関わる問題である。歴史認識の所産として主権者が確定した日本国憲法を、権力者が遵守するか否かが問われている。靖国を語ることは歴史認識を語ることであり、この国が侵略戦争や植民地支配の歴史を反省しているのか否かを問うことでもある。

安倍首相の靖国神社参拝が、日本国憲法が定める政教分離原則(憲法20条3項)に違反することは疑いの余地がない。にもかかわらず、裁判所に提訴して違憲判断の判決を獲得することは、けっして容易ではない。そのような訴訟の類型が予定されていないからだ。そのことで私は提訴を躊躇している。「自分自身が勝訴の確信を得ることができないままでの提訴では、十分な運動とすることはできないのではないか」。訴訟を立ち上げようとされている人々は違う。「そんなことは承知の上で、できる手段を追及するしかない」と覚悟を決めておられる。

憲法の政教分離原則が最も関心を寄せる対象として、かつての別格官弊社靖国神社があった。靖国神社こそが、「天皇制」と「軍国主義」の両者を結節する存在であった。現在の宗教法人靖国神社は、いまだに戦前の靖国史観をそのままに、歴史修正主義の拠点となっている。また、露骨に国家との象徴的な結びつきを求める姿勢を変えてはいない。東京裁判で刑死した東条英樹以下14人のA級戦犯を合祀する場でもある。首相も天皇も、けっしてこのような宗教施設と関わりを持ってはならない。公的資格における参拝は明らかに違憲違法。しかし、だからどんな裁判ができるかというと、簡単に答は出てこない。

これまで、政教分離違反を争う訴訟の類型としては、「住民訴訟」と「違憲国賠訴訟」が試みられている。前者の典型が、津地鎮祭訴訟、岩手靖国訴訟、愛媛玉串料訴訟である。いわゆる客観訴訟として、原告の権利・利益侵害が提訴の要件とならない。この中で、岩手靖国参拝違憲訴訟が、唯一公式参拝の違憲性を住民訴訟で主張した事案で、高裁判決で主文では請求棄却ではあったが、理由中で明確な「公式参拝違憲」の判断を得た。

岩手靖国が住民訴訟として成立したのは、特殊な事情があったからで、国家機関である首相や天皇の靖国神社参拝を地方自治法上の住民訴訟で争うことはできない。結局、靖国参拝違憲訴訟は違憲国賠訴訟とならざるを得ないが、これまで「中曽根参拝違憲訴訟」(3件)と「小泉参拝違憲訴訟」(7件)の実績がある。国家賠償訴訟を提起するには、首相の参拝行為の公務性、違法と過失だけでなく、原告となる者の権利または法律上保護される利益侵害の存在が必要とされるというのが、最高裁の立ち場である。違憲確認請求、公式参拝差し止め請求とするのはなおのこと難しい。

国家賠償請求においては、宗教的人格権の侵害という構成が工夫されてきた。「静謐な環境の下で、特別の関係のある故人の霊を追悼する法的利益が侵害された」と表現されるものである。最高裁は、小泉参拝に関して、「上告人らが侵害されたと主張する権利ないし利益が法律上の保護になじむものであるか否かについて考える」とした上で、「本件参拝によって上告人らに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない。したがって、上告人らの損害賠償請求は、その余の点について判断するでもなく理由がないものとして棄却すべきである」(第二小法廷・2006年6月23日判決)としている。これが克服の対象である。「最高裁判決は間違っている」と言っているだけでは済まされない。最高裁を正面から説得し、あるいは側面から迂回して、このハードルを乗り越えねばならない。

現在進行中の各地での提訴準備が活発化するなかで、このハードルを乗り越える工夫が積み重ねられるだろう。その工夫の成果をもって、反憲法的姿勢を隠そうともしない安倍政権への反撃を試みたいものだ。
(2014年1月26日)

「選挙運動費用収支報告書」記載ミス訂正の実例

本日の赤旗「潮流」欄は、次の一文から始まっている。
「人権の侵害は、相手が誰であれ、怒りの対象となるべきだ。この権利にかんする限り、妥協の余地はないー。」

今の私の気持ちにぴったりだ。一瞬、赤旗が私のブログを引用したのかと思ったが、そうではない。「元レジスタンス闘士のステファン・エセルさんが、93歳のときに記した『怒れ! 憤れ!』の一節」だという。「フランスで出版され、30カ国で翻訳された著書は、多くの若者の心を動かし、世界中の大衆運動に火をつけました。ナチの強制収容所を生き延びたエセルさんは戦後、外交官になって、国連の世界人権宣言の起草に加わりました」と続く。

浅学にして、ステファン・エセル氏(1917?2013)が、どのような文脈で「相手が誰であれ」と言ったのかは知らない。潮流でも説明がなく冒頭の引用の一節は、その後の本文とうまくつながっていない。もしかしたら、潮流子は、私のブログを読んで、密かにエールを送ってくれたのかも知れない…、なんてことはあり得ないか。

『怒れ! 憤れ!』は、貴重な提言だ。『怒りと憤り』に満ち満ちた人権侵害の訴えを、「私憤、私怨に過ぎないから耳を傾けるに値しない」と言い放つ人には、ステファン・エセル氏と同氏の言を引用した赤旗の「権威」をもって反論することにしようか。少しは効き目があるかも知れない。

「相手が誰であれ、怒りの対象となるべきだ」は、当然に、その先に怒りの対象を糾弾する行動に立ち上がるべきことが想定されている。実は、これが、場合によっては相当の覚悟を要する難事なのだ。

安倍自民に怒って、赤旗と口をそろえて政権批判をしている分には安楽だ。しかし、「味方」陣営に人権侵害の事実があった場合には、やはりこれを「怒りの対象」として、楽ではなくても、批判の声を上げなければならない。民主勢力の誤りに対する批判や告発なくして、その発展はない。民主主義とは、自浄作用の繰り返しによる永久革命ではないか。民主勢力内部には、幹部批判の言論を保障しこれを貴重なものとして耳を傾ける作風がなければならない。組織や幹部に耳の痛い批判に、「私憤」「私怨」とレッテルを貼って無視することは、民主勢力無謬論の誤りに加担することではないか。

私の『怒りと憤り』の対象の一つが、前回都知事選における宇都宮候補の選挙運動費用収支報告書の記載で明らかになった、上原公子選対本部長や服部泉出納責任者らに対する運動員買収事案。買収された者は、この2名に限らず「労務者」「事務員」届けられた者、最大29名に及ぶ可能性がある。買収した者は、収支報告書に名前は出てこないが選対事務局長であった蓋然性が高い。公職選挙法221条1項に違反し、法定刑の最高量刑は懲役3年である。

宇都宮陣営は、この私の指摘に対して、「記載ミスを訂正すれば済む問題である」と言った。ネットテレビの発言としては暮れの12月31日に、文書では1月5日付のもので。ところが、訂正すれば済むはずの選挙運動費用収支報告書のミスの訂正を行わないまま、今回選挙に突入している。私の指摘に対する、宇都宮陣営の真摯な対応を欠く態度にも、私は『怒り憤って』いる。

宇都宮陣営のいう「単なるミス訂正」の実例が問題視されて報道されている。まずは、昨日(1月24日)の神奈川新聞の次の記事。

「昨年10月の川崎市長選で、福田紀彦市長陣営の提出した選挙運動費用収支報告書に、選挙運動に携わったスタッフ11人に「労務者報酬」を支出したとの記載があることが23日、分かった。公選法ではビラ配りなどを行う選挙運動員への報酬を禁じている。後援会事務所の担当者は「実際には金銭の支払いはなく記載ミス」と説明、早急に同報告書を訂正するとした。

 同報告書によると、投開票日前日の10月26日に学生、アルバイト、無職の男女11人にそれぞれ7万?14万円(おおむね1日当たり1万円)を支給した。一方で、収入欄には同日、同じ11人から同額の寄付をそれぞれ受けたとも記載、相殺した形を取っている。

 事務所担当者は「報告書作成者の認識の誤り。11人が(単純な事務作業を行う)労務者に該当すると思い込み計上してしまった」と違法性を否定。記載する必要がない内容だったとして、収入、支出欄からそれぞれ削除する方針を示した。

 公選法では、労務者やいわゆるウグイス嬢、手話通訳者などには法定額の報酬を支給できると規定。しかし、特定の候補者への投票を呼び掛ける選挙運動員には、交通費などの実費弁償を除き無報酬としなければならない。神奈川新聞の取材に対し、福田市長は「認識不足だった」と述べた。」

福田紀彦市長陣営は、「認識不足だった」として、翌1月24日に市選管に訂正届け出をしたようだ。そのことが、本日(1月25日)の朝日と毎日(いずれも地方版)の記事となっている。宇都宮陣営とは違った、「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」という誠実な対応ではある。しかし、訂正自体が問題であり、訂正はまた新たな問題を生むことになる。

まずは、福田陣営は、訂正前の収支報告の届出が虚偽であったことを認めたことになる。収入の部で、11人からの寄付がなかったのに、あったように記載したこと。支出の部で、11人の「労務者」への支出がなかったのに、あったように記載したこと。その両記載が、福田陣営の出納責任者における「選挙運動に関する収入及び支出の規制違反」(公選法246条5号の2)にあたる。その法定刑の最高量刑は禁錮3年である。

毎日新聞は、「市選管によると、事務作業などをする単純労務者が無報酬で作業を行う場合は、収支報告書に本来支払われるべき労務費と、その相当額を寄付したと記載する必要」と報道している。とすれば、福田紀彦市長陣営は「無報酬で労務を提供した単純労務者」の有無を再点検しなければならない。宇都宮陣営でも同じこととなるはず。

さらに、もう一つの問題がある。収支報告書に記載された者が労務者ではなく選挙運動者とすれば、未成年者の選挙運動規制の問題が出てくる。未成年者を単純労務者として使用することには問題がないが、公選法137条の2は未成年者の選挙運動を禁止している。違反した未成年者も使用した者も処罰の対象となる。最高刑は禁錮1年である(公選法239条1項1号)。

朝日新聞の報道では、報告書に労務者と記載された選挙運動員を「学生ら11人」と表現している。11人の大半が学生なのだろう。大学の1年生・2年生は未成年であろう。3年生・4年生は就活に忙しいのではないか。いずれにせよ、その確認の必要が出てくる。

宇都宮陣営も、早急に「ミスの訂正」を届けるべきだ。私は、形式的な届け出ミスがあったのではなく、届出のとおり実質的な運動員買収の公選法違反行為があったものと考えている。「ミスの訂正」の届け出が真実と異なれば、新たな虚偽記載罪が成立する。しかも、川崎市長選事案とは違って、宇都宮事案では、「記載ミス」の訂正届出には、新たな届出内容を証する領収証の添付を必要とする。その領収証は、公選法(189条1項、191条1項)で徴収と3年間の保存を義務づけられている。「領収証はありません」は通用しないのだ。

いずれにせよ、宇都宮陣営が「記載ミスを訂正すれば済む問題である」というからには、速やかに届出をすべきだろう。私は、その届け出内容を精査して運動員買収の有無を追及するつもりだ。

本日の赤旗の「潮流」欄は、冒頭のエセル氏の名言の引用のあと次のように続けている。
「生涯を人権のためにたたかったエセルさんは呼びかけます。『歴史の脈々たる流れは、一人ひとりの力で続いていくものである。この流れが向かう先は、より多くの正義、より多くの自由だ。正義と自由を求める権利は誰にでもある』」

赤旗に励まされる。私の追求も「より多くの正義、より多くの自由」につながっているはずだ。正義と自由を求める権利は私にもある。
(2014年1月25日)

「憲法を暮らしに生かす」ことの意味

憲法会議(正式名称は「憲法改悪阻止各会連絡会議」)のホームページには、冒頭に、「憲法をまもり暮らしに生かしましょう」というスローガンが掲げられている。
「憲法をまもり」とは、保守勢力による改憲策動に反対して日本国憲法を改悪させないことを意味するものと理解される。また、「憲法を暮らしに生かしましょう」とは、憲法を画に描いた餅にせず、その理念を現実化することに力を併せようという呼びかけであろう。

「憲法をまもり」は、比較的意味明瞭である。まずは「日本国憲法」と名称を持つ成文憲法典の改正を許さないこと。つまり、明文改憲に反対の立場である。さらに、形式的に改憲を阻止しても、憲法解釈が変更されて違憲の立法や行政がまかり通る事態を招いてはならない。そこで立法改憲や、解釈改憲を許してはならないことになる。今喫緊の課題は、集団的自衛権行使容認への憲法解釈変更阻止であり、国家安全保障基本法の制定への反対である。

これに比して、「憲法を暮らしに生かしましょう」という呼びかけは、必ずしも意味明瞭ではない。憲法の理念が最終的には暮らしに生かされなければならないことに異論はないが、それでは気の利いたスローガンとはならない。憲法会議がいう「憲法を暮らしに生かしましょう」とは、暮らしの隅々にまで、憲法の理念を生かそうという呼びかけと理解したいものだ。

近代的な意味における憲法は、自由主義を基調とするものである。国家権力を必要ではあるが危険なものと見なして、国家権力の恣意的発動から国民個人の自由を守ることを憲法の第一任務としている。換言すれば、憲法の名宛て人は国家なのだ。主権者国民が国家に宛てて、その権力発動を規制する命令の体系が憲法だという理解である。

しかし、現代の現実社会においては、このような考え方だけでは「憲法を暮らしの隅々に生かす」には不十分だ。「会社の敷地には憲法はない」「校門をくぐれば、憲法などと言っておられない」「家庭に憲法は無縁」「市民運動内部に憲法なんて持ち出すな」…。憲法会議は、「憲法を暮らしに生かしましょう」というスローガンで、暮らしの隅々にまで、人権や民主主義や平和の理念を生かそうと呼びかけているものと解される。企業も、私的な団体も、もちろん民主運動も、憲法の理念を護らねばならない、というメッセージである。さすがは憲法会議である…と思っていた。昨年の暮れまでは。

ほかならぬその憲法会議が私の言論を封じたのである。「憲法を暮らしに生かしましょう」とモットーを掲げる団体にあるまじきことではないか。

その経過は繰り返さない。下記2件のブログを参照していただきたい。

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその26


宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその26(2014年1月15日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその28


宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその28(2014年1月17日)

本日は、その事後処理である。先ほど、下記の書面とともに、8000円の為替を書留便で憲法会議に返送した。意のあるところを酌んでいただきたい。

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                          2014年1月24日
憲法会議御中(平井正事務局長殿)
                             澤藤統一郎

本年1月22日付貴信を翌23日夕刻に拝受いたしました。
拝受した貴信の全文は次のとおりです。
「前略
 澤藤統一郎先生には、『月刊憲法運動』誌へのご執筆をお願いいたしましたが、残念なことにその後の事情で掲載断念のやむなきに至りました。
 同封した為替(額面8,000円)はご執筆謝礼相当分です。ご査収ください。
 領収書を添付しましたので、お手数ですがご返送いただければ幸いです。
 それでは失礼いたします。
                                           早々」

 貴信の文面では、「掲載断念のやむなきに至りました」となっていますが、これは貴会の責任を糊塗した不正確な表現で納得いたしかねます。「やむなきに至りました」とは、あたかも貴会自身は一貫して拙稿の掲載を希望したにもかかわらず、その希望実現に支障となる外部的な客観的事情が生じたとでも言いたげな物言いです。しかし事実は、私の抗議と説得を敢えて無視して、貴会ご自身の意思において、一方的に貴誌への拙稿掲載の合意を破棄したものであることをご確認いただきたいと存じます。

 貴会の否定にもかかわらず、実は、貴会が特定の団体や個人の意向を忖度して拙稿掲載の拒否に至ったのではないかということが、私の推察するところです。そのことが「やむなきに至りました」という表現に表れているのではないかとも感じられます。しかし、この点については、貴会事務局長は1月8日面談の際には、強く否定され、自主的な判断だと言われています。そのとおりであれば、「やむなきに至りました」ではなく、「当会の意思を変えました」と言わねばならないのではありませんか。

 同じ理由から、「掲載断念」も不正確です。正しくは、貴会の意思によるものであることを明確にして、「掲載拒否」あるいは「掲載拒絶」「掲載謝絶」「掲載峻拒」と言うべきでしょう。

 従って、「いったん、『月刊憲法運動』誌へのご執筆をお願いしご了承を得ましたが、その後に当会の意思を変更して、一方的に掲載を拒否いたしました」というべきところです。

 また、「その後の事情で」掲載断念とされていますが、私がブログ「憲法日記」で、「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」のシリーズの掲載を始めたのは12月21日です。貴会からの執筆依頼は12月27日。そして、一方的な違約の申し出は1月8日でした。「その後の事情」とは私の宇都宮君への批判それ自体ではなく、私の宇都宮君批判が貴会内であるいは貴会の周囲で、話題となり問題として受けとめられるようになったこととしか理解できません。ことは、表現の自由、批判の言論の自由に関わる問題です。もっと率直に、どのような議論があってのことか明らかにしていただかない限りは到底納得できません。

 なお、当該合意の履行における私の利益は、靖国問題に関する拙稿を掲載していただくことによって、私の考えや情報を憲法問題に高い関心を寄せている貴誌の読者に知っていただくことにあります。貴会の執筆依頼も私の執筆承諾も、けっして経済的取引の次元における契約ではありません。

私の執筆承諾の動機が執筆謝礼8000円の受領にあるものではないことを明確にし、併せて貴会の一方的な違約によって失われた私の利益が拙稿の貴誌掲載自体にあることを強調するために、さらにはこの問題は重大な教訓を含むものでありながら未解決であることを確認する意味も込めて、「執筆謝礼相当分として送られてきた損害金8000円」は受領を拒絶いたします。そのままご返送いたします。

 貴信には、貴会が憲法の理念を擁護することを使命とする運動体でありながら、自らが憲法理念を蹂躙したことへの心の痛みや反省を感じ取ることができません。
 また、私の憲法上の権利を侵害したことへの謝罪の言葉もありません。むしろ、「8000円の送付で問題解決」と言いたげな文面を残念に思います。私は、国家権力だけではなく、私的な企業や団体における憲法理念の遵守が大切だと思ってまいりました。本件は、その問題の象徴的な事例だと捉えています。

 繰り返しますが、貴誌への掲載論稿は岩手靖国訴訟に関わるものであって、宇都宮君批判の論稿ではなかったのです。貴会は周囲を説得して、私の表現の自由を擁護すべきだったのです。私は、貴会に反省していただきたいという気持を持ち続けます。この問題はけっして終わっていないことをご確認ください。

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         早春の妖精スノードロツプ(まつゆきそう)
「庭が雪の下に沈んでしまった今頃になって、急に園芸家は思い出す。たった一つ、忘れたことがあったのを。それは庭をながめることだ。
それというのもーまあ、聞きたまえー園芸家にはそんなひまがなかったからだ。夏、花の咲いているリンドウをとっくりながめようと思うと、芝生の雑草をぬくために、途中で立ち止まることになる。花の咲いたデルフィニウムの美しさを楽しもうとすると、支柱をあたえることになる。アスターが咲くと、根もとにはえたカモジグサをぬく。バラが咲くと、台芽をとるか、ウドンコ病のしまつをする。キクが咲くと鍬をもって駆け付け、踏み固めた土をほぐして柔らかにする。どうしたらいいのだ?いつもなにかしら、しなければならぬことがある。両手をポケットに突っ込んで庭をながめてなどどうしていられよう?」(カレル・チャペック著「園芸家12カ月」 12月の園芸家より)

「『園芸家にとっては、1月という月も けっしてひまではない』と、園芸の本には書いてある。たしかにそうだ。1月は、天候の手入れをする月だから。天候ってやつは妙なものだ。ぜったいに順調ということがない。・・・園芸家がいちばんおそれるのはブラック・フロストの襲来だ。(黒い霜といっても霜ではない。乾燥した猛烈な寒さがおそってくると、植物の葉や芽が黒くなるからだ。)大地はこわばって、骨まで干上がる。日ごと夜ごとに寒さが激しくなる。園芸家は、石のようにかちかちになった、死んだような土の中で寒さにふるえている根を思い、からからに乾いた氷のような風が、骨の髄までしみ込んでくる枝を思い、秋のうちに持ち物全部をふところにしまいこんだまま、こごえるように寒がっている球根を思う。」(同著 1月の園芸家より)

日本の冬は、カレル・チャペックの生きたチェコの冬と較べると、まるで天国のようだ。特に南関東では、真冬でも、アオキやセンリョウ、マンリョウはつやつやとした赤い実をつけ、青々とした葉を茂らせている。ヤブツバキは赤い花をこぼれるように咲かせている。ロウバイは蝋細工のような黄色い花から、清々しいかおりを大気に放っている。秋に植えた球根も、寒さなんかどこ吹く風とばかり、日本水仙はもう花を咲かせている。日当たりでは、もうチューリップもクロッカスもむっくりと芽をだしている。

それらの中で小さいがゆえに、特に可愛らしいのが、スノードロツプ(まつゆきそう)だ。秋に植えた球根は大豆を二回りほど大きくしたぐらいのサイズで、こんな小さなもののなかに花を咲かせる力がつまっているのかと疑わしくなる。暮れから小さな芽はだしていたが、今日よく見れば、長細い葉がはじけて、花の蕾をつけた茎がこぼれ出ている。高さは10センチに満たない。うっかりしていれば、見過ごす。一球に一茎、その先に一花がプランとぶら下がって咲く。春を告げる高貴で尊い花だ。外向きに開いた細長い3枚の白い花弁の内側に3枚の花弁が小さなカップを作っている。カップの下端に渋いグリーンのハート模様が浮き出る。乳白色の陶器で作られた、さわるとこわれそうな小さな花。固まった雪の雫が落ちてきて、乙女の耳飾りになったかのようだ。早春の妖精のようではあるが、人への贈り物にすると「あなたの死を望みます」というメッセージになるので注意とは、恐ろしいではないか。

昨秋、チューリップを150球植えてあるので、春の来るのが例年にもまして待ちどおしく楽しみである。準備無ければ花も咲かずである。
(2014年1月24日)
 

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