澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「憲法の『うまれ』と『はたらき』」              ー樋口陽一論文を読む

本日配送された東京弁護士会の機関誌「りぶら」の巻頭に、樋口陽一さんの「憲法の『うまれ』と『はたらき』」という寄稿がある。憲法改正の論議が、「うまれ」と「はたらき」を問題にするものと捉えて、副題のとおり、「改憲論議の背景を改めて整理する」という内容。長い論文ではないが、さすがに読み応えがある。

憲法の「うまれ」と「はたらき」という用語法は、1957年の宮沢俊義「憲法の正当性ということ」によるものとして、まず宮沢の、「うまれ」と「はたらき」についての議論が紹介される。続いて、同じく敗戦から生まれた憲法をもつドイツ(再統一前は西ドイツ)における議論との比較に紙幅が割かれ、その考察から自民党改憲草案の批判で締めくくられている。

「うまれ」に関する論述にも興味深い点があるが割愛する。主たるテーマとしての「はたらき」についての論説だけを紹介したい。

『宮沢が憲法施行10年を経て憲法の「はたらき」を論ずるとき、彼は、「法の解釈」を主導する立場に立って明確な価値判断の物差しを提示する。「人間の社会の目的」として,「自由」と「人間に値いする生存」という二つの価値を挙げている…。これら二つの価値は…この地上で「人類普遍」にゆき渡っていることから離れて遠い。だが,「解釈学説」の立場に立ってこの物差しを前提にするならば,憲法の「はたらき」について,水掛け論でない議論が成り立つはずである。』

「自由」と「人間に値いする生存」。この二つが、「人間の社会の目的」であって「法の解釈」を主導する価値判断の物差しだという。なんとシンプルで、力強いメッセージではないか。

この物差しを基準にした評価において、ドイツと日本とでは、憲法の「はたらき」に大きな差が生じている。その視点から、つぎように語られている。

『基本法成立50周年の節目におこなわれたドイツ国法学者大会(1999年)で,演説した学会理事長(Ch.シュタルク)は,半世紀間の憲法と憲法学の実績を積極的に評価することができた。』『西ドイツという部分国家の暫定憲法だった基本法は,すでに長く確定的な憲法と目され,本物であることを実証し,法についての共通理解の根拠,統合要因となり,それどころか,他の諸国の多くの新憲法の手本としてすら役立ってきた。』

『「日本国憲法50年一回顧と展望」を主題とした1996年日本公法学会での二つの記念講演は,同じく自国の憲法50年をふり返ってのシュタルク講演との好対照を見せている。宮沢のあとをうけて憲法解釈学説の主流を担った芦部信喜は,「改憲論およびそれとセットで打ち出された軍事,公安・労働,教育,福祉あるいは選挙制度改革などの諸政策を前にして,自由主義的・立憲主義的憲法学は批判の学ないし抵抗の学としての性格を強めざるを得なかった」と指摘した。違憲審査の実務に最高裁判事として携った体験をふまえて伊藤正己は,「憲法学と憲法裁判の乖離の現象とその原因と考えるもの」の検討を主題としなければならなかった。』

ドイツでは「半世紀間の憲法と憲法学の実績が積極的に評価」されているのに、日本では「憲法のはたらきの欠損」を問いつづけなければならない現実があるのだ。

憲法学は現行憲法の「はたらきの欠損」を嘆いているが、現政権は現行憲法の「欠損したはたらき」さえも桎梏と感じている。その典型が、「政権に不要な足かせと感じられている9条」の改廃が必要とされていることだ。

そのような視点から、『いま一番有力な案として国民に示されている「自由民主党憲法改正草案」(2012・4・27)が,これまでの同党の草案・構想類と質的に違う』ことを見定めておく必要があるという。その具体的な指摘が次のとおりだ。やや長いが、引用する。

『自民党案の特徴は,何より,前文の全面書き換えにあらわれている。案に添えられたQ&Aは,全文差し替えの理由を説明して,「天賦人権振り」の規定だからよくないと言う。現行の前文は,「この憲法」が西洋近代の法の考え方を「人類普遍の原理」として受け入れるという立場で書かれている。それに対し改正案の文言は,「日本国」「わが国」の特性を強調する言葉で綴られている。「長い歴史と固有の文化」「天皇を戴く国家」「国と郷土」「誇りと気概」「美しい国土」「良き伝統」「国家を末永く子孫に継承」などの語句それ自体としては,人びとの共感を呼びおこすでもあろうし,逆に反感の対象となるかもしれない。だがここでの問題はそういう次元でのことではない。これらの文言が,「天賦人権振り」を嫌い「人類普遍の原理」への言及をあえて削除するという文脈の中で持ち出されていることが,問題なのである。「イスラームにはイスラームのやり方がある」「中国には中国流の人権がある」というのに倣うかのように「日本は日本」という対外発信を含意する改正案は,これまでの政権が「価値観を共有する」と揚言してきた米欧諸国との間でのどのような関係を想定しているのだろうか。』

つけ加えて、樋口さんは次のように言う。
『改正案を「明治憲法への逆戻り」と評するのは,全くの見当違いと言わなければならない。』

樋口さんによれば、大日本帝国憲法は、近代化による欧米世界への参入のための必然的要請に応えるものとしてつくられ、『その本文各条は概ね19世紀ヨーロッパ基準の原則に対応して書かれている」。つまり、グローバルスタンダードからの乖離という視点では、自民党改憲草案は大日本帝国憲法以上に問題性を抱えたものだというのだ。

さらに、現行憲法13条の,「すべて国民は,個人として尊重される」の「個人」を「人」に変えようとする改正案に関して、『「個人」の生き方の自律と利益主張に正当性の根拠を提供して戦後社会の安定を支えてきた憲法の「はたらき」に,正面から異議申立をあえてするそのような改正案を掲げる現在の自由民主党のありように対し,元総裁(河野洋平)や幹事長経験者(加藤紘一,野中広務,古賀誠)の諸氏が憂慮の思いを公にしていることは,重要な示唆を与える。』と指摘している。

戦後社会の安定を支えてきた「保守」政治に、日本国憲法の「はたらき」が大きく寄与してきたとの認識である。旧来の保守とは様相の異なる、現安倍政権は、この「憲法のはたらきに基づく安定」を投げ捨てて、危険な方向に走り出しつつあるということだ。

安倍政権の暴走を止めなくてはならない。「旧来の保守層」の良識を信頼し、大きな共同の力を結集して。手遅れにならなないうちに。
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               ウメの木のピンチ
「春されば まず咲くやどの梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ」
                                       山上憶良
「梅の花 折りてかざして遊べども 飽き足らぬ日は 今日にしありけり」
                                       礒氏法麻呂

「梅の便り」が聞かれる季節になった。しかし今年はそんな暢気なことをいっていられない。今日の毎日が「青梅の『公園』まつり後」「梅すべて伐採」と報じている。果実の葉や実に天然痘(ポックス)のような丸い模様が出て、実が商品価値のなくなる、プラム・ポックス・ウイルス(PPV)の流行が猖獗をきわめているとのこと。人体に悪影響はないが、ウメ本体の治療法はなく、根ごと抜いて焼却する以外に蔓延を防止する方法はない。吉野梅郷の「梅の公園」では、すでに500本以上を伐採したが残る700本も、「梅まつり」のあとに伐採することにしたという。

青梅市全体では、2009年の病気流行以来6万5千本あったウメの3分の1が消滅した。それでもPPVの流行が食い止められるかは予断を許さない。緊急防除地区は、青梅市、羽村市、日ノ出町、八王子市など広範な東京都西部地域にひろがっている。さらに、ここから苗木や接ぎ木が出荷された大阪府や兵庫県にも流行はおよんでいる。南高梅の最大産地・和歌山県はさだめし戦々恐々としていることだろう。

恐ろしいことに、このウイルスはアブラムシによって媒介され、ウメだけでなく、アンズ、モモ、セイヨウスモモなどのサクラ属が感染する。果樹園だけでなく、公園や一般家庭の庭木の感染にも目を配らなければならない。各自治体では「お宅の庭木に病気が出ていれば申し出てください」と呼び掛けている。このままおけば、PPVは全国にひろがってしまうおそれがあるのだから。「まず咲くやどの梅の花」などと暢気なことはいっておられない。

農作物としての梅の木の除却には、植物防疫法に基づいて損失補償がなされるというが、丹精込めて梅の木と実を育ててきた出荷農家の不安はいかばかりだろう。なお、青梅市の「梅まつり」観光収入は9億円にのぼるが、こちらは補償が難しいといわれている。「花を愛でる愛着の心」などは補償の対象に考慮してもらえそうにない。

日本の植物の代表格「松竹梅」のうちのふたつが深刻な受難の事態にある。アカマツもクロマツも数年前から、マツノザイセンチュウに侵されて、海岸からも庭からも消えつつあるのだ。庭の黒松の枝や葉がだんだんに赤くなり、枯死していくのをなすすべもなく見ているのは本当につらいことだ。そしていま、梅も同じ運命をたどりつつある。しかし、もうひとつの「竹」だけは、過疎化して手入れの行き届かない竹林から這い出して、山や野原や道路まで埋め尽くす勢いで繁茂している。

今に始まったことではないが、「滅び」も「栄え」も、人の手には負えない。せめては、人の手でできる範囲では徹底して自然を守ろう。戦争はやめよう。原発もやめよう。
(2014年2月7日)

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Published in 金曜日, 2月 7th, 2014, at 20:41, and filed under 未分類.

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