オリンピックはうんざりだ
ソチでの冬季オリンピックが始まった。メディアは都知事選を駆逐してオリンピック一色。そればかりではない。開会式の派手な演出にマスメディアが踊らされて、プーチン・ロシアの国威発揚を幇助している。いや、ロシアばかりではない。この舞台に溢れる過剰なナショナリズムに辟易せざるを得ない。
2020年東京オリンピックの際の喧噪はいかばかりだろう。不愉快な行事への巻き込まれは、まっぴらごめんだ。その間は我が家に鍵をかけて東京を脱出しよう。オリンピック疎開だ。
なによりも、各国の国旗の洪水にうんざりである。旗ではなくバラの一輪、梅の一枝でもかざして歩く風流な参加者はいないものか。旗でもよい。手作りのデザインで、平和や自然の保護を訴えてみてはどうか。「国家」という、これ以上ない不粋なもののシンボルをかかげた何千人もの無邪気な行進を恐ろしいと思う。
幕藩体制の崩壊とは、各藩のナショナリズムが日本というインターナショナリズムに呑み込まれる過程だった。いま、日本というナショナリズムが、インターナショナリズムと拮抗している。インターナショナリズムは理念であるが、ナショナリズムは現実のパワーである。いずれ、ナショナリズムは克服されて消滅するだろう。国境という人為的境界は、情報と経済と往来の交流によって意味をなさなくなる。言語と宗教と生活様式も入り乱れ、人種の純粋も維持できるはずがない。国境という政治権力の支配領域が消滅することは、人が人らしく生きていくことのできるための大きな歴史の進歩である。
国際社会が、国家を単位として成立している現状では、国旗は各国家を識別する機能をもつものとして有用な存在である。本来それだけのことだ。しかし、国民のナショナリズムの感情と、ナショナリズムの機能を知悉する国家や政権においては、国旗は別のはたらきを期待され、あるいは意図的に利用される。国民一人一人の意識を国家に収斂させ、その方向で国民を統合させる機能の活用である。国旗が象徴する国家の統治における利便のために、国民の個人としての人権意識を眠り込ませ、国家に服属せしめる役割と言ってもよい。
権力は、無批判な統治しやすい国民がお望みだ。「個の確立」だの、「思想良心の自由」などと、生意気なことを言わない国民精神を叩き込みたい。権力や国家と一体化した国民の精神形成を好都合としているのだ。さらに、国家の政策に積極的に献身する国民の精神をつくり出すことができればこの上ない。
「国家を抑圧者だと思うな。国家を危険な存在と考えてはならない」「国を愛せ。国を敬え。国民一致して国を支えよ」と教えたいのだ。その意図を貫徹するために、国家を象徴する国旗への忠誠の態度の涵養が極めて重要な役割を演じる。まずは、なんの疑問もなく、無邪気に無批判に、そして自然に国旗に頭を下げ、日の丸の小旗を打ち振る習慣を作ってもらいたい。そうすればしめたもの。そのために、オリンピックは格好の学習の場だ。
かつて、出征兵士は日の丸の小旗の波で戦地に送られた。その戦地では、一つの街を落せば、そこに日の丸が掲げられた。日の丸は、侵略と植民地支配のシンボルというだけでなく、戦争を支えた忠君愛国、滅私奉公の臣民精神のシンボルでもあった。その忌まわしい過去を持つ旗が、今法制上国旗となっていることを嘆かざるを得ない。
ソチのオリンピック会場の開会式では、日本の選手団も観客も、無邪気に日の丸の小旗を振っていたようだ。その無邪気さ、無批判さが恐しい。その無邪気・無批判な多数者の行為が、集団の圧力となって日の丸に敬意を表することに疑問を呈する少数者を圧迫する。それだけではない。無邪気な多数者が支える権力が少数者への国旗強制を可能とする。
いま、ロシアは、同性愛に対する偏狭な姿勢で国際的な批判を受けている。同性愛宣伝禁止法や同性婚への非寛容が人権侵害であることは、多くの無邪気で無批判な日本の国民には理解しがたいのではないか。国旗や国歌の強制についても、よく似ている。無邪気で無批判な大多数には他人事だが、国旗や国歌、あるいは「日の丸・君が代」の押しつけには、精神の核心において受容しがたく、全人格をかけて抵抗せざるを得ない人もいるのだ。
オリンピック会場の国旗の波は、社会的同調圧力となり、さらに「民主主義的手続」で権力的な強制に至る。だから、オリンピックは憂鬱だ。オリンピックをダシにした日の丸・君が代強制許容の論調には我慢をしかねる。オリンピックを国威やナショナリズム昂揚の場とすべきではない。国家からの統制を受けない精神の自由に思いを馳せよう。
(2014年2月8日)