昨15日、堺市長が選告示となった。再選をめざす無所属現職の竹山修身と大阪維新の会新人西林克敏との対決。竹山は、民主推薦・自民支持・共社の支援だという。「極右・ポピュリスト」対「保守・中道・左翼連合」という構図。
たまたま、本日が日本維新の会の発足から1周年だそうだ。その日本維新が政治勢力として保つかどうかを占う選挙でもあるが、現代における「アンチ〔極右ポピュリズム〕統一戦線」の有効性について、80万都市を舞台にした実験でもあり、政治経験でもある。
維新側は、「自民・民主・共産による理念なき大談合、改革を拒否!」とし、反共を前面に立てた宣伝戦。橋下は連日堺にはいって、反共演説を続けているという。竹山陣営は、「いわゆる相乗り批判について」とする談話を発表。「首長選挙では各論より総論、『大義』が優先されます。「堺はひとつ、堺のことは堺で決める」というのは、まさに大義であり、この大義の下に集まることを安易に「相乗り」と決めつけることは、見当違いも甚だしいと言わざるを得ません」と切り返している。さて、今どき反共攻撃が効くだろうか。
かのマルティン・ニーメラーの言葉を思い出す。
「ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた」
最初に弾圧の対象となるのが共産主義・共産党なのは、弾圧をする側が市民の黙認を予想しているからだ。こうして、個別撃破攻撃が成立し、市民社会の全体を抑圧することが可能となる。ニーメラーの述懐のとおり、市民が反共を黙認すれば、結局は自分の首を絞めることになる。
反共主義こそは、民主的な連合や団結に打ち込まれる楔である。その楔が、鋭利な武器となるか、役に立たない錆びた折れ釘となるか。ヒトラーは反共主義を有効に使うことに成功した。橋下維新の会はどうなるだろうか。その答は今月の29日に出る。
(2013年9月16日)
本日届いた日弁連の機関誌「自由と正義」(9月号)に、浜矩子さんの「グローバル経済と日本国憲法」というインタビュー記事が掲載されている。これが滅法面白い。頷かせる。消費増税問題を例外として、浜さんの経済解説は傾聴に値するものとして接してきた。改めて、憲法問題についての姿勢にも敬意を表したい。
インタビューは、一見「愚問賢答」のごとくである。しかし、「賢答」を引き出しているのは、実は質問者の手腕なのかもしれない。たとえば次のごとくである。
問:国防軍を創設しアメリカと一緒に戦争のできる国に変わることは、外国と相互依存関係にある日本の取引にどのようなインパクトを与えるでしょうか。
答: 質問そのものに異論があります。日本の経済的取引にどのような影響かあろうがなかろうが、日本は戦争のできる国になってはいけない。他の国から、「アメリカと一緒に戦争できない国とは、取引できませんよ。」と言われたとしても、「じやあ結構です。」と言える明確なスタンスが必要です。あくまで、これが大原則です。…この種のテーマは、メリット・デメリットの枠から離れて議論されるべきです。経済的な効果効用に結び付けて議論されることを、注意深く避けていく必要があります。この問題については、損得勘定の次元では議論しないというスタンスを固持しなければなりません。
問:軍事産業が活発になっていくと雇用も生まれるからよいのではという意見に対しては、どのようにお考えでしょうか。
答:論評に値しません。兵器を作って幸せになれるか、なっていいのかという問題です。…よもや、そんな人はいないと思いますが、雇用が増えるから軍事産業の拡充を図ろう、などとプロモーションする政治家などがいるとすれば、論評どころか、まともな軽蔑にさえ値しないと思います。
問:財界では、海外における日本企業の権益を維持するため、軍事力で助けてほしいという要望があるようですが。
答:日本企業の権益を維持するために軍事力に頼る必要があるのであれば、そもそも、そのような経済活動をしなければいい。そもそも、軍事力に守ってもらう必要があるような地域に、企業が進出するということは、いかなる場合において正当化されるか。それを考える必要がありますよね。危険地域には、必ず何らかの対立の構図がある。そのただ中に飛び込んで行くことが、どのような理由で正当づけられるのか。
問:憲法改正の議論において、経済的な視点を踏まえた議論がなされていないように感じるのですが、いかがお考えでしょうか。
答:そもそも、経済的な視点など、出てくる必要がないし余地がありません。軍隊を持つことの経済的効用を研究テーマとした論文を執筆するのであれば、経済的な視点で考える必要があります。ですが、憲法改正論議と経済計算は関係がありません。「経済的な視点を用いた議論」を行うと、例えば国防軍の創設というテーマについて、損であればやめるべきだが、得であるならばやった方がいいということになってしまいますよね。そんなバカな話はないでしょう。平和に関わる問題を巡って損得勘定の次元で議論をしてはいけないと思うのです。
この質問者もそうだが、私にも、「経済学者は事象を社会科学的にとらえる。そこには、理念や倫理がはいる余地がない」という思い込みがある。「経済行動の単位をなす一人ひとりの平和への願いを超えて、資本主義経済は戦争体制への傾斜を深めざるを得ないのではないか」との危惧がある。浜さんの回答は、小気味よくこの先入観をはずしてくれる。
浜さんは、こうも言っている。「経済学者であろうと、法律学者であろうと、弁護士であろうと、平和の価値は同じように理解されるべきです。商売によって、平和の価値が変わるとは思えません。」そして、最後を次の名言で締めくくっている。
「…どんなに儲かっても、認められないものは認められないのです。」
(2013年9月15日)
防衛省に防衛研究所という組織がある。その2011年12月の紀要(第14巻第1号)に、「研究ノート軍機保護法等の制定過程と問題点」(林武1等陸佐外)という論文が掲載されている。23頁ほどのもの。ネットの検索で簡単に入手できる。イデオロギッシュな雰囲気を感じさせない内容。結構面白い。
戦前の秘密保護法制は、軍機保護法だけでなく、軍用資源秘密保護法、国防保安法、要塞地帯法、軍港要港規則、陸軍刑法、海軍刑法などから成っていた。同論文には各法の成立経過やその分担などが略記されている。今回の「特定秘密保護法」は、軍機保護法だけでなく、これらの法の総合立法をねらうもののように思われる。
興味深いのは、これら戦前の秘密保護法が成立する過程では、それなりに国会では問題点の指摘があり、今日に通じる議論がなされていること。
1937年の軍機保護法の改正に関して、「改正軍機保護法の問題点ー軍事上の秘密の定義と法の運用について」と小見出しを付けた章がある。
※「この改正法律案で、軍事上の秘密の種類範囲を規定した理由は、現行軍機保護法の第1条が、『軍事上秘密の事項又は図書物件』と規定するだけで、何が軍事上の秘密に該当するかについて明確に定義していなかったからである。したがって、国民は何が軍事上の秘密であるかを知らぬままこれを収集し、犯罪者としての嫌疑を受けることもあった。一方、取り締まる側も、検挙取締りの準拠が明確でないため、捜査を遅疑逡巡するという事態もあった。このような弊害に鑑み、本改正案ではその第1条第1項で、この法律が対象とする『軍事上の秘密』とは『作戦、用兵、動員、出師其の他軍事上秘密を要する事項又は図書物件を謂う』とし、その第2項で『前項の事項又は図書物件の種類範囲は陸軍大臣又は海軍大臣命令を以て之を定む』としたのである」
法改正の問題意識は、「国民において何が軍事上の秘密であるかを知らぬままこれを収集し、犯罪者としての嫌疑を受けること」があってはならない、とするところにあるという。法改正の目的がそれだけのものではありえないが、言わんとするところは真っ当なもの。しかし、この改正案が、その問題意識に応えるものであるとは到底思えない。
※「第70回帝国議会衆議院の第一読会に提出された上記改正法律案に対して、各議員からの質問が相次いだ。なかでも升田憲元議員の質問は、『此軍機保護法なるものは純然たる刑罰法規』であって、しかも『死刑まで科するような此重大法規を、其範囲を勝手に命令で而も勅令ならまだしも、単純なる大臣の命令で左右し得る』ことの危険性を指摘している」
大臣の命令で軍機を指定することの不当性や危険性が、当時から指摘されていたのだ。今なら、憲法41条の「国会の唯一の立法機関性」を、政令や省令への委任を認めることによって骨抜きにすることが認められるかという形で問題となる。しかし、当時、問題点の指摘はなされたが、結局は政府に押しきられている。
※「こうした懸念は、同議会の貴族院特別委員会でも指摘されたが、これに対する政府側の答弁は、軍事上の秘密の種類範囲を法律ですべて列挙することは困難であること、また何が軍事上の秘密であって、取締りの必要があるかということは、その時代、時代によって異なることから、これを委任命令という形にした、というものであった。なおこれを勅令としないで陸・海軍省の省令としたのは、陸・海軍の軍事秘密や機密に関する事項は、陸・海軍自らが定める必要があるので、省令の形をとったと説明している」
結局は、陸軍・海軍が望む情報や図書物件が軍機とされた。「軍事上の秘密の種類範囲を法律で画することは困難」「何が軍事上の秘密であって、取締りの必要があるかということは、その時代、時代によって異なる」は、秘密法制の根幹にかかわる問題点の指摘である。「国民において何が軍事上の秘密であるかを知らぬままこれを収集し、犯罪者としての嫌疑を受けること」の弊害は除去できなかったのだ。
さらに、国防保安法は凄まじい。同法は、「広範囲に亘る国家の重要機密を保護すべき法規、並びに外国の行う宣伝、謀略を防止すべき法規」として提案された。
ところが、「国防保安法では、どういうものが国家機密であるかということ自体が、外国に対し国家機密の一端を察知させることになるから、国家機密の内容範囲については法令中に明記されなかったのである。ここに国家機密の範囲が不明瞭となる要因があり、何れにおいてその範囲を確定するのかという点が、最大の議論となった」という。
当時の当局者は、「国家機密とは法律の規定に基づき官庁が指定して初めて国家機密となる『指定秘』ではなく、『自然秘』である」と述べている。結局は、同法が成立したあと、国防保安法施行令において、秘密の図書物件にには標記を付けることにはなった。しかし、標記はあくまで手続き的便宜のためもので、標記の有無にかかわらず「自然秘」の原則は貫徹されたという。
秘密保護法制の本質をよく表している。権力にとって、「何が秘密かは、絶対に秘密」にしておきたい。漏洩されたもののすべてを事後的に秘密として処罰できたら、便宜この上ない。これによって十分な威嚇効果を狙えることになるから。しかし、その権力の欲求は国民の権利保障と真っ向から対立する。「何が秘密なのかは秘密」では、国民は安心して暮らせない。国家権力と人権とが、真正面から切り結んでいる局面だ。もちろん、何が秘密と分かったから、問題がなくなるわけではないが、不意打ちは避けられる、そしてその不当を論じることは最低限可能となる。一切の秘密保護法制は、ないに越したことはない。少なくとも、秘密を拡大し、重罰化することには絶対に反対だ。
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『夏の逆襲』
いよいよ秋か、と安心させておいて、また暑さがぶりかえした。草刈りを少々したら、汗が噴き出て、全身水をかぶったよう。熱中症にならないように用心、用心。
アオカラムシが背丈より高く、猛々しく茂り、芥子粒まみれの小さなボールのような花をつけている。雑草は花が種になる前に刈らなければと思うが、毎年、絶対間に合わない。このアオカラムシは、古く、皮を剥いで繊維をとって布に織った。だからスパッと切れないで皮が繋がっているときは、皮がツーとむけてくる。根が縦横無尽に這い回って、いくら刈っても、丈夫で根絶ができない。いつの間にか野生化したというけれど、どだい畑に閉じ込めておくのは不可能なほど精力旺盛だ。布のない昔には大切な植物だったろうが、今はただの困りもの。
こぼれ種で毎年はえてくる青シソも花穂を出して、ポチポチと白い花をつけはじめた。柔らかいところを摘んで、キューリとキャベツと一緒に浅漬けにする。シソの香りがプンプンする特上の漬け物ができる。刺身のつまにしたいところだが、刺身がない。
イノコズチも花穂のまわりに下向きの小さなカギ針のような緑色の花をいっぱいつけている。これはすぐに固いカギ(種)になって、ズボンの裾にゾリゾリとくっついてくる。振るったぐらいでは落ちない。ひとつひとつ手で摘まんでとらないと、中へ中へと進入して、チクチクと痛い。これは繊維にもならないし、漬け物にもならないし、本当の役立たず。
クズの赤紫の花が濃厚な甘い匂いを振りまいている。ヤブカラシも平らな傘のような花を開いている。両方とも樹木のてっぺんをビッシリ覆って、太陽を独り占めしている。下になった木は弱虫なら枯れてしまう。カットしたいところだが、どちらもカラスアゲハの蜜源。自分のテリトリーを守って、フワフワと行ったり来たりしているので、しばらく刈るのはお預け。
ピンクと黄色のナツズイセンが花盛り。ヒガンバナのクリーム色の花穂はまだ雑草の陰で、10センチぐらい。草と一緒にザクリと刈ってしまって、ズキンと胸が痛む。一週間後の彼岸の頃にはあっという間に茎を伸ばして、花を咲かせるだろう。ナツズイセンもヒガンバナも花が咲くときは、地面から花茎がスーッと立つだけで、葉は全くない。花が終わってから、おもむろに葉っぱが地面から出てきて、冬中青々と繁っている。だから「葉見ず、花見ず」といわれる。ヒガンバナの球根は丈夫で、いくらでも殖えて、花の時期に真っ赤な絨毯のように花いっぱいにするのは簡単。あんまりたくさん咲いているとありがたみが薄れるけれど、1本の花を取り出してみれば、これほど豪華な花はない。スキッと伸びた緑色のストローのような茎のてっぺんに、細くクルリと巻き上がった6弁の真っ赤な花がグルリと6,7個つく。おのおのの花からは、赤い蘂が7本づつ長く突き出る。観音様の頭を飾る花かんざしのようだ。きれいな花なのに、田圃の畦や墓場のような場所で、放っておいても秋になるとたくさん咲くので、大切にされない損な花。
まだまだ夏草がむせかえるほど繁茂している。新聞に楢葉町の除染したあとの田圃の写真がのっている。見渡す限り一面の草原に変わってしまった田圃に、草刈り機を持って呆然と立つ男性が写っている。草を刈っても作物は作れないのだろう。隅々まで気配りをして、大切にしてきた田圃や畑で農業が営めなくなってしまった喪失感や無念さが伝わってくる。あぜ道に咲く花に心配りしながら、収穫の期待に汗を流す無上の喜びは何にも代えられない。誰が3・11の前にかえしてくれるのか。
それなのに、政治家はいとも簡単に、「私が解決します。責任をもちます」なんぞと言う。そんな口先の大見得を切るよりは、今、目の前にくり広げられているフクシマの惨状に少しでも切り込む努力を見せてくれ。福島第1原発の漏洩汚染水の放射線量は、遂に1リットル当たり13万ベクレルのトリチウム(3重水素)検出と発表されているではないか。
まずこれを何とかしてくれ。責任の取り方を見せてくれ。それが出来ないなら、将来も責任などとれっこないではないか。
(2013年9月14日)
日本ジャーナリスト会議(JCJ)が、昨日(9月12日)付で「特定秘密保護法案に反対する声明」を発表している。全文は、http://jcj-daily.seesaa.net/でお読みいただきたい。
さわりは、以下の2パラグラフである。
「当然報道関係の取材が処罰対象にされかねず、報道の自由に大きな影響を与え、国民の知る権利が制約されることになる。」
「私たちは、戦前の政府と軍部が『軍機保護法』などで国民の目と耳をふさぐことによって、侵略戦争の道に突き進んでいった苦い経験を忘れるわけにいかない。安倍内閣が明文改憲だけでなく、法律を変えたり作ったりする中で、実質的に改憲の道を進めようとしている状況の下で、この特定秘密保護法の策動を許すわけにはいかない。」
そして、「国民の皆さんがこぞって、この法案への反対に立ち上がってくださることを改めて呼びかける」と結んでいる。
改めて、「軍機保護法」に目を通してみる。
1899(明治32)年7月の公布で、1937(昭和12)年に全部改正され、軍国主義を支える法律となった。ということは、がんじがらめに国民生活を規制した。全文21か条。最高刑は死刑。終戦直後に廃止されている。
軍機保護法第1条は、「本法ニ於テ軍事上ノ秘密ト称スルハ作戦、用兵、動員、出師其ノ他軍事上秘密ヲ要スル事項又ハ図書物件ヲ謂フ」。要するに、軍隊のすべてが軍事上の秘密である。1条2項「前項ノ事項又ハ図書物件ノ種類範囲ハ陸軍大臣又ハ海軍大臣命令ヲ以テ之ヲ定ム」。陸海軍大臣は何でも機密に指定することができる。
第2条が、「軍事上ノ秘密ヲ探知シ又ハ収集シタル者ハ六月以上十年以下ノ懲役ニ処ス」。これで、ジャーナリストは、一網打尽となる。まさしく、「国民の目と耳をふさぐことによって、侵略戦争の道に突き進んでいった苦い経験を忘れるわけにいかない」。
秘密保護に関する法律の恐ろしさの本質は、「何が秘密かは秘密」であることにある。何が刑罰に触れる行為であるのか、事前には分からない。この点、今回の秘密保護法もまったく同じ。当然に、処罰を恐れてメディアは萎縮する。国民の知る権利が、侵害される。権力には好都合なのだ。
この法律が、天気予報をなくした。港湾の写真撮影を禁止した。地震の被害の発表も許さなかった。空襲の被害についてもだ。
作家山中恒に、「暮らしの中の太平洋戦争」(岩波新書)という著作がある。この中に、防衛総司令部参謀陸軍中佐・大坪義勢なる人物の、空襲被害の「おしゃべり禁止」訓辞が引用されている。権力を握る者の情報秘匿に関するホンネを語ったものとして貴重な資料である。
「日本の国民が直さなければならないのは、お喋りを止めることです。何でもかんでも、真相をつかまずしゃべることはやめてもらいたい。真相を発表することが、よい悪いとの問題を抜きにして、絶対にお喋りはやめて欲しい。これが第一です。
次に何故(空襲被害に関する)真相を発表しないかという問題は、日本国民に対して大いに発表したいのですが、…日本でいわれたことは筒抜けです。だから、日本国民に対してもいえないのです。向こうとしては、知りたくてたまらないでいるわけですが、日本が真相をいわないので、ホトホト弱り抜いています。何とかわかれば、今度はこの手で行こうと、いろいろ新手を考えるのですが、日本が何ともいわないので、閉口頓首しているのがアメリカの状態です。将来何とか、国内にだけ知らせて、外国へ知らせないという方法をとりたいのですが、それは百年くらいしないと出来ないと思う(笑声)。現在は、日本人に知らすことは、全部外国へもれてもよいという心得でやらねばならないのです。
外人にもれることを覚悟していなければいえない。空襲の真相は、更になお効果的な空襲をお願いしますと、相手に頼む場合にのみ、発表すべきです。だから、真相は発表すべからざるもの、従って国民は絶対に想像でものをいわないこと、黙って政府のやり方について行くことにしたい。」
古来、為政者の本音は、「民は由らしむべし。知らしむべからず」である。論語の原義は正しくは「可(べし)」を可能の意味に読むのだそうだが、それでは面白くも可笑しくもない。当為の意味に読んで初めて気の利いた警句になる。
今も昔も、東も西も、国家から小グループまで、情報を握る者が権力を握る。権力のあるところに情報が集中し、情報のコントロールによって権力は自らを維持し肥大化させる。
「空襲の被害を受けた国民が、被害の規模を知る必要はない。つべこべ被害状況などおしゃべりしてはならない。黙って政府のやり方について来い」。これが為政者の本音である。
9月3日に公表された、「特定秘密の保護に関する法案の概要」の中に、〔知得〕という耳慣れない用語が出てくる。「特定秘密の提供を受けて合法的に『特定秘密を〔知得〕した者』が秘密を漏らせば懲役5年の刑を科す」とされており、「国会議員や関与した国会職員も処罰されます」(12日付赤旗解説)、というもの。この〔知得〕という用語は、軍機保護法の21か条の条文の中で5回繰り返されている「頻出用語」なのだ。
安倍晋三にとっては垂涎の「軍機保護法」。さすがに、そのままの形では法案化できない。できるだけ、これに近づけて、「由らしむべし、知らしむべからず」の法律を作りたいのだ。
私は、徹底してこれに抵抗したい。民主々義社会においては、行政情報は全国民の共有財産である。為政者に独占させてはならない。
ところで、昨日のブログで秘密保護法反対のパブコメをお願いしたところ、「さっそく、パブコメ送信しました」と連絡してくれた方、本当にありがとうございます。励まされます。ぜひ、さらに広めてください。
(2013年9月13日)
本日のブログは、伏してのお願い。
9月3日、「特定秘密保護法案」の概要が公表され、同時に2週間の期間を区切って、パブコメの募集がなされている。締め切りが9月17日。ぜひとも、パブコメを提出していただくようお願いしたい。
「特定秘密保護法案」は、これまで「秘密保全法」と言われてきたもの。正式には、「特定秘密の保護に関する法律案」だが、長い、言いにくい。「秘密保護法」「秘密保護法案」でよいだろう。
パプコメは大事だ。選挙権の行使と並ぶ国民意思の表明手段だ。数がものを言う。長いものである必要はない。反対の意思がきちんと表明されていれば、1行でもよい。もちろん、自分の意見として理由が添えられていれば、それに越したことはない。理由は独自のものである必要はない。考えあぐねて時期を失するよりは、ぜひ簡明な意見を送信していただきたい。
例えば、次のような意見でよいと思う。もちろん、組み合わせても、自分流にアレンジしていただけばありがたい。
*私は特定秘密保護法案の国会上程に反対します。
*私は、秘密保護法の成立に絶対反対です。
*私は、もっと行政公開を進めて、国民に対する行政の透明性確保こそが重要と思っています。これ以上秘密を増やし、厳重に秘密を保護することは、これに逆行することで、絶対に反対です。
*第1に考えるべきは、国民の知る権利です。沢山の秘密を作ることで、国民の知る権利を侵害することには反対せざるを得ません。
*日本国憲法は、平和主義を掲げています。厳罰で国防秘密を守ろうとすることは、9条改正と自衛隊の国防軍化の布石としか考えられません。平和憲法を大切に思う立ち場から、特定秘密保護法の成立に反対します。
*憲法9条は、国家に軍隊の保有を認めていません。にもかかわらず、防衛に関する事項として、自衛隊の装備や編成のすべてが秘密にされ、刑罰によって秘密保持を強制することはどう考えても納得が出来ません。反対します。
*自衛隊の装備に関する見積もりが、秘密になるようです。自衛隊の装備納入についての不正が摘発されていますが、今後は汚職が秘密の壁に守られることになります。どうしても反対です。
*もし、こんな法律ができたら、原発も、TPPも、オスプレイの導入も、何もかにも国民の目の届かないところで、政府が勝手なことをやるに決まっています。そんなことを、私は認めません。
*秘密保護の法律は、結局何を秘密にするかも秘密になってしまいます。国民は、何が秘密か分からぬうちに、思いがけない処罰を受けることになりかねません。
*適性評価という新設される制度では、民間人も含め秘密を扱う人とその家族について、徹底的に身辺調査が行われます。思想信条や信仰までも調査対象となることが予想され、国民に対する国家管理の強化が進むことになります。到底認めることができません。
*2週間のパブコメ募集期間は短すぎます。もっと長くしてください。そして、「概要」ではなく法案の成案ができたところで、再度パブコメ募集をしてください。
パブコメの提出先は「内閣官房内閣情報調査室・意見募集係」
提出方法は、
*電子メール(送信先アドレスはtokuteihimitu@cas.go.jp)
*郵送(宛先は〒100-8968 東京都千代田区1?6?1)
*FAX(番号は03‐3592‐2307)
期限は、9月17日(火)必着(郵送の場合は同日消印有効)
もっとも簡便なのは、下記のURLを開くと、
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=060130903
意見提出フォームが出て来る。
これに、意見を書き込めばよい。住所氏名欄もあるが、必須ではない。
秘密保護法は、防衛・外交・スパイ・テロの4分野の秘密を「特定秘密」に指定して管理する。漏洩には厳罰(最高刑懲役10年)を科すことで、国民の目から秘密を守ろうとするもの。本格的な「戦争のできる国家」作りの一環である。国家安全保障基本法や日米ガイドライン改定などとセットになっている。
法案は、10月半ばから始まる臨時国会に提出必至と言われている。万事多端な秋の臨時国会最大の問題となりそう。重ねて、「秘密保護法反対」のパブコメを。
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『園芸家12カ月』(カレル・チャペック著 中公文庫)
「花の栽培家のところへ来る客は、カラーや金物を売る店に来る客とちがって、ほしい物を名指して、金をはらって帰っていくのではない。栽培家のところへ来る客は、雑談をしに来るのだ。この花の名は何というのか、あの花の名は何というのか、それを聞きに来るのだ。去年君のとこで買ったミヤマカラクサナズナがおおきくなったよ、と知らせに来るのだ。ハマベンケイソウが今年やられちゃったよ、と訴えに来るのだ。そして、何か新しい物があったら見せてくれろ、と頼みに来るのだ。ルードルフ・ゲーテとエンマ・ベダウと(つまり、この2種類のアスターのうちの)どっちがいいか議論をしにやって来るのだ。そして、ゲンティアーナ・クルシーは、粘土質の土とピートとどちらが育ちがいいか、議論をしにやってくるのだ。
いろいろとそんな話をしたあとで、客は新しいアリッサムを一鉢(しかし弱ったなあ、いったいどこに植えたもんだろう)とデルフィニウムを一株(うちにあるやつはウドンコ病ですっかりだめになってしまった)と、それから鉢を一つ選び出す。しかし、いったいその鉢に植わっているものが何であるかという問題で、客と栽培家は意見が一致しない。こうして2,3時間、有益な、大事な会話で時間をついやしたあげく、客は商売人でない男に1マーク(約86円)か2マークの金をはらう。それっきりだ。それでいてそういう栽培家は、ガソリンの匂いをプンプンさせて自動車をのりつけ、いちばん高級の、第一級品という花だけ60種類選んでくれたまえと注文する客より、まだしも君のようなうるさ型のほうを歓迎するのだ。」
今はこんな花屋さんは滅多にいない。しかし、あったんですよこんなお店。
この間、「お宅は日本橋三越のチェルシーガーデンよりバラ部門が充実していますね」と話が一致して、イングリッシュローズについてだいぶ込み入った話を1時間ばかりしてきた。同じピンクのカップ咲きでも、「ヘリテージ」は「クィーンズ・オブ・スウェーデン」の愛らしさには叶わない。「レディ・エマ・ハミルトン」のオレンジは「レディ・オブ・シャーロット」に較べて、深まりゆく秋にふさわしい。「クレア・オースチン」のミルラ香は「セプタード・アイスル」より深みがある。鉢植えかコンテナなら、花が小ぶりだけれど色と香りがすばらしい「サマー・ソング」か「スカイラーク」につきる。オベリスクかアーチに這わせるつるバラなら、右からピンクの「ガルトルート・ジェキル」を、左からクリーム色の「ティージング・ジョージア」が咲いたら夢のようだ。
だいたいこんな話をして、何も買わずに帰ってきました。お店の御主人は大変喜んでいたようでしたが、悪かったかしら。
(2013年9月12日)
本日の「毎日・仲畑流万能川柳」欄の秀逸句は、
女医さんとわざわざ言うのなんでだろ(北九州 森友紀夫)
というもの。
かつて、女性医師は珍しい存在だった。「医師」の中に、医師とは独立した「女性の医師」の存在感があった。「女医」「女医さん」には、人それぞれに、また場面々々で、いろんなニュアンスがあろうが、差別的な意味合いは感じられない。
日本最初の女性医師・荻野吟子の生涯が渡辺淳一の小説『花埋み』に詳しい。萩野は最初の夫からうつされた淋病の治療を受けた際に、男性医師からの診療を恥辱としたことを契機に医師を志したという。イスラム世界の一部では、いまだに女性患者が男性医師に肌を見せてはならないとして、女性医師が不可欠だとのこと。現在の日本でも、同性医師の診療を受けたいという患者の要請はあるのではなかろうか。その意味では、「男医」「女医」の属性の意味はあるだろう。
法曹の世界では、医療の世界に比較すれば、性別に特有の問題はずっと少なく、協働したり相手方となる弁護士の性別を意識することはほとんどない。しかし、女性の権利を救済する法的手続に「女性弁護士」の存在意義はいまだに大きい。
男女間に素質的な能力差のないことは当然なのに、作曲家に女性が少なく、まだ将棋連盟のプロのレベルに女性が届かないなど、生育期の環境による女性のハンデは否定しえない。そのような現状において、医師や弁護士以上に、裁判官は女性に向いている職業だと思う。
力ではなく権威でもなく、純粋に理念と論理をもって人を説得しなけれはならない司法の世界において、「女性裁判官」は所を得た存在だと思っている。性別にかかわらず、裁判官の力量や人柄は、法廷で対峙する弁護士からは公平な評価を受けている。私の思い込みかも知れないが、女性裁判官は、男性裁判官に比較して出世への意欲が希薄で、まともな判決を書いてくれる期待が高い。もっとも、今のところは、ということかも知れないが。
最高裁裁判官は長く男性ばかりの世界だったが、わずかながらも女性裁判官の選任が増えてきた。ようやく、今年になって三つの小法廷に一人ずつの女性裁判官が在籍することになった。第二小法廷5名の裁判官のうちの一人が、鬼丸かおる氏。東京日の丸訴訟(2次訴訟)の上告事件で裁判長を務め、9月6日の判決言い渡しの際に初めてお目にかかった。
鬼丸裁判官の憲法判断は、「日の丸・君が代強制は間接的な思想良心の侵害と認められるが、間接侵害に過ぎないから緩やかな違憲審査基準に基づいて合憲」とする従来の判断を踏襲するもので、この点は不満の残るところ。
だが、貴重な補足意見を書いてくれた。前任の須藤正彦裁判官の補足意見に比較すればもの足りなさは残るものの、「都教委に対して謙抑的な対応を求めるとする」立派な内容。不起立・不伴奏の教員の気持に寄り添う裁判官の心情あふれる補足意見に、辛うじて闇夜に遠くの燈火を見た思い。
このことを報告する集会の席上で、私は、「原告教員たちの真摯さや、悩みや、勇気が伝わって、裁判官の気持を揺さぶった」とした上、この原告の気持を受けとめ理解してくれた鬼丸裁判官を評して「普通のおばさんの感覚」と表現した。
永六輔が自分を「男のおばさん」と呼んでいるあの感覚の「普通のおばさん」。自分では肯定評価の感覚だった。むしろ褒め言葉。なによりも、最高裁裁判官の権威を否定して、彼ら彼女らにも、普通人の感覚が通じないはずはないことを強調したかった。「普通のおばさん」とは、そのような心情の通う女性。しかし、この発言は評判が悪い。事後に何人かの人から、「あの発言はまずい」と注意を受けた。
「仲間として忠告をする」というニュアンスのものもあり、叱責をするニュアンスのものもあった。発言も難しいが、注意はもっと難しい。注意を受けて、さてどう「反省」するかはさらに難しい。
まだ、考えて続けている。自分に女性を軽んじる意識があるのだろうか。私は弁護士出身の女性裁判官だから、「普通のおばさん」と言ったのだろうか。確かに、一次訴訟判決のときには、違憲判決を書いてくれた宮川光治裁判官には「普通のおじさん」と表現した報告はしなかった。しかし、あれはとても「普通」のレベルではなかったからだ。それ以外の裁判官は、「普通」のレベル以下だった。
普通のレベルで、原告らの心情に寄り添った意見を寄せてくれた男性裁判官に遭遇していれば、「普通のおじさん」と言っただろうか。「おばさん」発言もとっさのことで、「おじさん」発言があったかどうかは分からない。「おばさん」には気持が通い合うイメージがあるが、おじさんにはそれがないからかも知れない。
人の発言に厳しい私だ。自分の発言に、忌憚のない意見をもらうのはありがたい。もう少し、「普通のおばさん」と発言した自分の気持と向かい合い突きつめてみたい。
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『ムスリム世界の女性たち』
パキスタンのマララ・ユスフザイさんは女性の教育を受ける権利を主張して、タリバンから瀕死の重傷を負わせられた。しかし、「イスラームの日常世界」(片倉もとこ著 岩波新書)によると、ムスリム世界すべてが女性差別世界ではないという。1991年出版の著書であるし、サウジアラビアやエジプトなどの豊かに見えるムスリム社会について書いてあるのでパキスタンの状況とは異なるのだろうか。同著には以下のように書いてある。
イスラム教の開祖・ムハンマドは、大実業家で15歳年上の女性に見初められて結婚した。ある日、突然神の啓示を受けたムハンマドはびっくりして、うちに戻り姉さん女房の膝にしがみついて震えたという。しかし妻に励まされて、妻と共にイスラム布教のかずかずの迫害を戦った。妻以外にもイスラム史上の数々の闘いに名を残した女性たちの活躍が、イブン・サアドの「ムハンマド伝」に記されている。「イスラム勃興に女性の力あり」である。黒いベールの陰で抑圧されている女性という印象は全く間違っている。
ムスリム社会では、妻は固有の財産を持っている。夫婦は別々の財産を持つものとされ、家畜にいたるまで、「あの羊たちとこの山羊たちはわたしのもの」といった風に、所有権がはっきりしている。仕事を持ったり、政治に進出している女性もたくさんいる。生活費は、すべて夫の義務とされるので、仕事を持っているいないにかかわらず、妻の方が金持ちな夫婦が多い。「あれは誰の住まいか」ときくと、そこに住んでいる男性の名をあげて、「ハッサンの家だよ」という答えが返ってきても、実は、妻の所有だということが間々ある。夫所有の家に同居している妻が多い日本と全く逆である。このように所有の取り決めが明確ならば、先日、日本で最高裁判決が出た婚外子の相続の問題も解決が容易なのにと思う。
結婚もイスラム法にはひとりの男とひとりの女の間でなされる契約だとはっきり宣言されている。結婚契約に当たっては、男から女に支払うハルマ(結納金の額)、および離婚の時に支払うハルマの額が取り決められる。離婚の時のハルマは結婚時のハルマよりはるかに多額であって、離婚保険ともなっている。
ムスリム世界で許される一夫多妻も、イスラム法で妻を「公平に扱うなら」という条件がついているので、実際には、物質的、精神的、肉体的に不可能なことである。一般の男性の間では「2人の女を妻にするのは、両手に炭火をにぎるようなもの」といわれて、実際にははやらないらしい。
ムスリム社会では「男の社会」と「女の社会」が厳格に別れているが、両者の間には上下差はない(本当だろうか)。女性は「男の世界」へ乗り出していかなくても、「女の世界」があるので、社会的活動は十分できる。女性の学校には女性の教師が必要で、「女の先生は頼りない」などというそしりは全くない。女性は病気の時、女医に見てもらうほうがいい(親族以外の男性との接触は禁止されている)ので、医学部の半分は女子学生である。看護婦と看護夫も半々である。女性専用の銀行もあり、店長以下すべて女性で、お客も女性である。
想像もつかない社会だ。女子大学がそのまま社会になったようでもある。この著書の扱っている社会はサウジアラビア、エジプトなどの豊かな生活である。そこで満足している女性も確かにいるだろう。自動車の運転を禁じられているサウジの女性はどう考えているのだろう。
貧しい国のムスリム女性の生活はどうなのか。バングラディシュのグラミン銀行を中心になって運営しているのは女性だ。そもそもグラミンが女性の権利獲得の社会運動である。夫婦の間に分けるほどの財産がなければ、結婚契約など意味もない。医療が国中に普及していなければ男医だの女医だの分ける意味もないし、女子どもは医療に接することもできない。
90年代以降のイラン・イラク戦争、湾岸戦争、イスラム原理主義の勢力拡張、「アラブの春」などの激動は、女性たちの生活や意識に大きな変化をもたらしたに違いない。今やイスラム人口は世界人口の約4分の1で16億人にも上る。8億人は女性だ。マララさんが主張するように、女性が教育を安心して受けられる社会が良いに決まっている。男女平等は人類共通の人権だ。女性と子どもに「エデュケーション・ファースト」を切に願う。
(2013年9月11日)
私は、40年を超す弁護士生活の相当の時間と労力とを悪徳商法との対決に費やしてきた。その結果として学んだことは、どんな悪徳商法も一見悪徳とは見えないことだ。一見しての悪徳では人をだませない。外見において詐欺師面をした人に詐欺はできない。もちろん、強面ではなおさらできない。いかにも紳士的で、いかにも誠実そうで、いかにもあなたの利益のために尽くしますよという、人を信頼させる雰囲気がある人物において、初めて詐欺も悪徳商法も可能となる。
そのような目で見ると、安倍晋三という人物、その分野における資質には天性のものがある。たいしたものだ。その堂々たる嘘。みごとに、IOC委員を欺しおえた。その分野の人々が、大いに学ぶところが多かろう。
彼はこう述べた。(朝日デジタル版より)
【招致演説で】
状況はコントロールされている。決して東京にダメージを与えるようなことを許したりはしない。
【国際オリンピック委員会(IOC)委員の質問に対し】
結論から言うと、まったく問題ない。(ニュースの)ヘッドラインではなく事実をみてほしい。汚染水による影響は福島第一原発の港湾内の0・3平方キロメートル範囲内で完全にブロックされている。
福島の近海で、私たちはモニタリングを行っている。その結果、数値は最大でも世界保健機関(WHO)の飲料水の水質ガイドラインの500分の1だ。これが事実だ。そして、我が国の食品や水の安全基準は、世界で最も厳しい。食品や水からの被曝(ひばく)量は、日本のどの地域でも、この基準の100分の1だ。
健康問題については、今までも現在も将来も、まったく問題ない。完全に問題のないものにするために、抜本解決に向けたプログラムを私が責任をもって決定し、すでに着手している。
【演説後、記者団に】
一部には誤解があったと思うが、誤解は解けた。世界で最も安全な都市だと理解をいただいたと思う。
「状況はコントロールされている?」
えっ? ご冗談でしょう。廃炉の工程も目途立たず、汚染水漏れがたいへんな事態だというのに? 自信ありげにこんなことをいえるのは、分かってない故の強みか、天性のふてぶてしさか。
「決して東京にダメージを与えるようなことを許したりはしない」
これは、フクシマにダメージを閉じ込めて、東京だけは守ろうという、やや本音の表れか。
「汚染水による影響は福島第一原発の港湾内の0.3平方キロメートル範囲内で完全にブロックされている。」
ほんとにこんなこと言っていいの? 港湾内の0.3平方キロメートル範囲って、どこのこと? 東電は、外海と完全にブロックされた状態ではなく、水が行き来していると説明しているのに? 20キロ先で捕れたアイナメからも2万5800ベクレルが検出されているのに? 一国の首相の嘘として歴史に残るんだろうね。
本日(10日)の朝刊では、「湾内のフェンス内の海水からベータ線を出すストロンチウムなどの放射線物質が1リットル当たり1100ベクレル、トリチウムが同4700ベクレル検出された」と報じられている。
東電は、「フェンス外の濃度は内側にくらべて5分の1まで抑えられている」と言うけれど、それは海水が内と外で1日50%入れ替わって、外へ出た汚染水が海水で薄まっているというだけのこと。完全にコントロールされて、完全にブロックされて、「私」の責任で解決に着手したはずなのに…。
東電自身が、完全にブロックできているとは考えていない。「私どもとして(首相の)お考えが同じかどうか確認」の問い合わせをしたと述べている。「完全にブロックしたいのはやまやまだけど、できないんです。完全ブロックができない責任は、大見得を切った安倍さん、あなたの方で取ってくださいね」。そう、東電は言いたいのだ。
私が引っかかるのは、「完全に問題のないものにするために、抜本解決に向けたプログラムを私が責任をもって決定し、すでに着手している」という、 「私が責任をもつ」という言葉。これも悪徳商法の手口の一つ。そもそも、責任をとりようのないことについて、ケロリと「責任をもつ」「保証する」と言ってのける。客観的に嘘をついていることになる。
安倍さん、あなたには放射線漏れの防止策について責任をとりようがない。あなたができるのはせいぜいが「知恵を集め、金を注ぎこんで全力を尽くす」ことだけ。今の日本の叡智を集めても、福島第一原発の後始末をうまくできるかどうかは、誰にも分からないのだ。
「うまくいかなかったら潔く辞任する」という責任のとりかたは、「あとは野となれ、山となれ」と言っているに等しい。あなたには、6年前いとも簡単に政権を投げ出した実績がある。同じことを繰り返すおそれが多分にあるが、それで責任を取ったことにはならない。
嘘は人を不幸にする。一国の首相の嘘は、その国の国民の信用を落とすことになる。とりわけ、トルコとスペインの国民には、日本国民全体がオリンピック招致を掠めとった嘘つきの一味と映ることになるだろう。悪徳商法の被害者は、誠実そうなセールスマンを信用したことをあとになって後悔する。世界も日本の国民も、あとになって、「アベノダマシ」に臍を噛むことになる。
(2013年9月10日)
教育情報課長に申し上げる。あなたに怨みがあるわけではないが、あなたが窓口だ。あなたを通じて、あなたの背後にいる知事や教育委員長、教育委員、そして教育長に申し上げる。
ただ今、「被処分者の会」の代表者から9点の「請願事項」の説明があった。6日の最高裁判決を踏まえての「会」の要請は多岐にわたるが、大きくは二つのこととご理解いただきたい。
一つは、減給以上の処分の取り消しが最高裁で確定したということについてだ。
ご存じのとおり、最高裁は行政に甘い。めったなことでは行政のやることに批判がましいことをいわない。その最高裁が、さすがに都教委のやり方には目をつぶることができなかった。既に25人(30件)の処分を懲戒権の裁量を逸脱濫用しているとし、違法だから取り消すと判断した。「いくら何でもこれはひどい」「とんでもないやり過ぎだ」と言われたのだ。その重みを受けとめていただきたい。
最高裁の判決によって、減給・停職の処分が違法とされ取り消されたということは、都教委の基本方針が法体系に相容れないものと断罪されたということ。都教委の基本方針とは何だったか。我々が「思想転向強要システム」あるいは「改宗強要システム」と名付けたもの。思想的信条から、あるいは歴史観から、日の丸・君が代にたいする敬意の表明はできないという人に、その思想を変えるまで、処分を累積し加重する。信仰上の理由から、日の丸・君が代強制を拒否する人に対しても同様。
最高裁も驚いた。「都教委って、そこまでやるの?」「いくら何でもそれはやり過ぎ」。保守政権に任命された保守的裁判官が、そう言わざるをえなかったのだ。日本国憲法の精神に照らして、さすがにこれは暴走。違法なのだ。
最高裁から違法といわれた行政機関は、恥辱と思わねばならない。世に、ブラック企業というものがあって、違法を承知の経営を行って恥じない。教員の思想良心を蹂躙し、多数の早期退職者を排出している都教委は「ブラック官庁」だ。それでも最高裁に違法と言われることを、反省する気持ちはあるだろう。潔く自らの非を認め、衷心から謝罪し、反省し、責任を取らねばならない。それが、「間違ったことをした行政機関」の当然の対応。都教委の謝罪と反省とそして責任のとりかたを考えていただきたい。
繰り返すが、間違っているのはあなた方だ。反省すべきはあなた方だ。もう一度、憲法とは何か、教育法体系は何を理念としているか、地方公務員法はどうできているかをよく学び直し、再研修をしていただきたい。不起立者に対し服務事故再発防止研修を命じるなどは、天地が逆さまではないか。
もう一つは、日の丸・君が代強制は、戒告処分としてなら許されるのか、という問題。
確かに、最高裁は、戒告処分の違憲・違法までは認めなかった。だから、戒告処分をによる強制はやって良いといったのか。けっしてそうではない。このことをよく理解していただきたい。
裁判所は、よくよくのことがなければ行政に介入しない。司法消極主義とか、司法の謙抑的態度と言われる。それでも、戒告を違憲と判断した最高裁の裁判官が二人いる。違憲とした東京地裁の判決もある。戒告を受けた167名全員の処分を違法として取り消した東京高裁の判決もある。とても、「戒告程度なら処分も許される」というものではない。
最高裁の多数意見が戒告を違憲とまでは言わなかったことに、図に乗ってはならない。これまで、合憲判断に与した12人の裁判官のうち7人が、「違憲とまでは言えないが放置してはおけない」「現場の混乱を都教委側のイニシャチブで解決せよ」「現場で知恵を出し合い協議して解決すべきだ」と補足意見を書いている。声なき声ではない。明確に文字になっている。このことを重く受けとめていただきたい。
9月6日第二小法廷の判決で、新任の鬼丸かおる裁判官が新たに補足意見を書いた。場合によっては、「戒告処分も裁量権の濫用あるいは逸脱となることもあり得る」と意見を述べている。そして、この裁判官も、都教委に対し「謙抑的な対応が教育現場における状況の改善に資するものというべき」と言っているのだ。明らかに、都教委に対して反省と改善を求めたものである。
もっとも軽い戒告処分と言えども、思想・良心の制約になっていることは最高裁の多数意見も認めているところ。最高裁裁判官の中に都教委のやり方を褒める姿勢を持つものはなく、「違憲とは言えないが望ましくはない」とする者が圧倒的多数なのだ。
もちろん、我々は違憲判決を言い渡さないことで、最高裁が間違っていると思っている。明確な違憲判決獲得まで闘い続けるつもりだ。しかし、今の最高裁判決のレベルでも、最高裁は都教委に対して、日の丸・君が代強制については、やり過ぎることのないよう、たしなめていることを知るべきなのだ。
少なくとも、最高裁の多くの補足意見が、現場でよく話し合えと言っている。話し合いの機会をもとうではないか。そして、教育の営みに関わる者同士にふさわしい、協議の場を作って、子どもたちのために、真の意味での日本の教育の再生のために、日本の民主々義の将来のために、教育現場の改善に知恵を出し合おうではないか。
そのことを申し入れている。教育委員の各氏によく伝えていただきたい。くれぐれも、事務レベルで握りつぶすようなことがないように申し添える。万が一にもそんなことがあれば、私の請願権をおろそかに扱われたことに我慢しかねる。憲法上の権利を侵害されたとして国家賠償請求も考えざるを得ない。このことをきちんとメモをしておいていただきたい。
(2013年9月9日)
9月3日、ヒジャブ(イスラム女性が髪を隠すための被り物)と民族衣装に身を包んだマララ・ユスフザイさん(16歳)がイギリスのバーミンガムの公立図書館の開館式で訴えた。
「世界平和への唯一の道は読書と知識を得ること、そして教育だ。たくさんの本を読んで力をつけたい」「本とペンはテロを打ち負かす武器だ」と強調して、聴衆から大きな拍手を受けた。
マララさんは2009年11歳の時、パキスタンのタリバン支配地域スワートから、ペンネームでブログを書き続けた。タリバンがイスラム法によって、女子校を破壊(08年に150校爆破)し、それが自分の通う学校に及びそうなことを危惧している。「ヘリコプターの夢を見る。友人が移住してしまって11人しか残っていない」「タリバンがカラフルな服を禁止するので、地味な服を着なければならない」「アナウンサーが殺されたのではないかという噂」「明日から冬休みと校長から言われたが、再開日については話がない。タリバンが学校閉鎖を命じたからだ。もう二度と学校に来られないかと思って、いつもより友達と長く遊んで、学校を目に刻んだ」「大砲の音で夜3回も目を覚ました」などと戦時下の生活を綴っている。
その後パキスタン軍がタリバンをスワートから追い出した。マララさんは「勇気ある少女」とパキスタン政府から表彰され、本名も明かされた。CNNのインタビューに「私には教育を受ける権利がある。遊んだり、歌ったり、おしゃべりをし、市場に行き、発信する権利がある」と喜びを語っている。
しかし、その後が大変だった。マララさんは「本当の勇気ある少女」になるよう運命づけられた。2012年10月9日(15歳)、マララさんは帰宅途中のスクールバスに乗り込んできた数名の男に頭部と首を銃撃されたのだ。一緒にいた女子生徒とともに。タリバンが犯行声明を出した。重態のマララさんは治療と身の安全のためにイギリスのバーミンガムの病院に搬送された。世界中から救命を願う声が寄せられ、4カ月後マララさんは奇跡的な回復を遂げた。「私は生きています。話すこともできるし、みんなの姿を見ることもできます。私はこれからも人々のために、すべての少女、すべての子どもが教育を受けられるように尽くしていきます」と健気なお礼の言葉を述べた。
そして、今年7月13日16歳の誕生日を迎えたばかりのマララさんは、国連で演説をした。満場の拍手で迎えられたマララさんは小さな身体でちょっと恥ずかしそうに、しかし堂々と英語で感謝のスピーチを述べた。自分を撃ったタリバン兵士を許しますと述べたあと「『ペンは剣より強し』ということわざがあります。これは真実です。過激派は本とペンを恐れます。教育の力が彼らを恐れさせます。彼らは女性を恐れています。女性の声の力が彼らを恐れさせるのです」「すべての政府に全世界のすべての子どもたちへ無料の教育を確実に与えることを求めます。すべての政府にテロリズムと暴力に立ち向かうことを求めます。残虐行為や危害から子どもたちを守ることを求めます。先進諸国に発展途上国の女の子たちが教育を受ける機会を拡大するための支援を求めます」「1人の子ども、1人の教師、1冊の本、1本のペン、それで世界を変えられます。教育こそがただひとつの解決です。エデュケーション・ファースト(教育第一で)」と訴えた。
マララさんの国連演説の1カ月前には、パキスタンのクェッタで女子大生のバスにリモート式爆弾が仕掛けられ、帰宅途中の14名の女子学生が殺害されている。そうしたなかでも、マララさんと一緒に銃撃された少女たちもひるまず、自分が倒れても続く者があると、命がけで女子の教育の必要性を訴えている。マララさんは「そうしたみんなの声をここ国連で代弁して訴えている」と述べている。
9月7日にはオランダのハーグで、人権団体「キッズライツ」による「国際子ども平和賞」がマララさんに授与され、「私はあらゆるところで教育が当然のものと考えられている世界に住みたい」と述べた。ノーベル平和賞も彼女に与えられるのではないかとまで言われている。
女性の教育を受ける権利を否定する「野蛮なタリバン」だが、神の教えに忠実に従っての「野蛮」なのだ。マララさんの小さな肩にのしかかる難題はあまりにも重すぎるようにみえて痛々しい。マララさんは、「タリバンの子どもたちにも教育を」と訴えている。なるほど、「教育こそがただひとつの解決です。エデュケーション・ファースト(教育第一で)」には頷かざるを得ない。
日本では、教育を受ける権利が当然のものと考えられてはいるが、「いじめ」「体罰」「自死」など、マララさんの想像もつかない問題が山積している。その解決も、「エデュケーション・ファースト」以外にはない。単に制度としての教育ではなく、教育の内容が問われている。
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『オリンピック拒絶宣言』
目が覚めて、いつものようにラジオのスイッチを入れた。せっかくの日曜日の朝から不愉快なニュース。2020年オリンピック・パラリンピックは東京に決まったという。番組は、日本中が喜びに沸き立っているに違いないという、押しつけがましさ。世論調査でも、賛成は7割でしかなかったはず。あとの3割の意見は切り捨てなのか。
「これで一儲け」と、たくらんでいる連中が、誰よりも大喜びだ。土建屋・不動産屋・株屋に金貸し。そして、これで政権が安定すると鼻息荒い国政・都政の保守派の面々も。さらに、国策に躍らされることが大好きな人々も。
私の不愉快の源泉は、「国民こぞっての祝賀のムード」という、押し付けがましい雰囲気にある。慶事も弔事も、当事者だけのもの。無関係の人へ押しつけてはならない。感動の押しつけに至っては、迷惑千万。「君が代唱って、日の丸振って、みんなで万歳」なんて、虫酸が走る。好きな人だけ仲間内でやっていただきたい。
子どもたちを、祝賀行事やら、記念のイベントに動員することはやめてもらいたい。整列させて、日の丸もたせて、声を合わせて唱わせたり、歓呼の声を…、なんて悪夢の再来だ。
近代オリンピックの発足当初は、個人参加だった。その理念が素晴らしい。これを国別対抗ゲームにしたところから、各国のナショナリズムと結びついて大会は隆盛化した。スポーツとナショナリズム。本来は何の結びつきもないものを結合させたことが、このイベントの巨大化の原因となり、間違いにもなった。
古代オリンピックは、平和の祭典であったという。仮に戦争があっても、各ポリスは戦闘をやめてオリンピックに参加したという。この伝統を大切に思う立ち場からは、今回の招致レースでは当然にイスタンブールに花を持たせるべきだったろう。シリア・イスラエル・中東全域の平和に貢献するだろう。
現代オリンピックは、肥大化したコマーシャリズムとナショナリズムの祭典となった。そのうえに、各国の王族だの貴族だのが幅を利かせる奇妙なイベントに堕している。
私は、厳粛に宣誓する。
オリンピックを拒否する。東京オリンピックには何の協力もしない。
せめては、オリンピックを契機とした人と人との交流が、平和の礎とならんことを願うのみ。
(2013年9月8日)
しばらく国政選挙がない。「もしかしたら、次の国政レベルの選挙は、憲法改正の国民投票かも」などと言われてギョッとする。そうならないとは思うが、3年後の参院選とそのころの総選挙は、憲法をめぐる天王山。あるいは、天下分け目の関ヶ原。その帰趨は、決定的なものとなる。
国政選挙並みに注目される地方選挙が、堺市長選。今月15日告示で29日投票の日程。市長選の争点は、堺市の「大阪都」構想への参加の是非である。が、これとともに、大阪維新の会の存亡を懸けた選挙戦となっている。橋下徹自身がそう言い、私もそう思う。もっとも、橋下は「存」を望み、私は「亡」を願う。「自民党の右からの補完勢力」の消長が注目の所以である。
現職竹山修身市長と「大阪維新の会」公認の新人西林克敏前市議との一騎打ち。竹山を推すのが、自民府連・民主・共産。反橋下徹統一戦線である。自民の中央は改憲勢力の一翼として維新を温存しておきたいところ。だから態度を決めかねている。中央と地元とのネジレは、この党らしいところ。公明はどっち付かずで、どっちにも付けない。自主投票とのこと。これもこの党らしい。
昨年暮れの衆院選がピークだった維新の会は、東京都議選に大量の立候補をさせて惨敗した。これが終わりの始まり。惨敗は今夏の参院選でも続いて、党勢の衰退は誰の目にも明らかになった。そして、大阪府内政令指定都市・堺での、いわば地元での選挙戦敗北は、本格的な政党消滅へのレッドカード。もしかすると、「トドメの選挙」「終わりの終わり」となるのかも知れない。
私は、中学・高校は大阪。市内ではなく、大阪府下南河内の小さな町で金剛葛城の山なみを眺めて過ごした。大阪人の気風はよく分かる。なによりも、アンチ中央、アンチ東京である。私も、阪神タイガースのファンだった。ジャイアンツは大嫌い。
堺を隣町とは思っていなかったが、自治体の合併でいつの間にか隣接市となっていた。堺の気風も分からないではない。大阪への対抗心がある。アンチ大阪である。
現在、大阪市の人口が250万、堺市が84万。堺は、大阪市の3分1の規模。規模は小さくても、プライドは高い。呑み込まれてなるものぞ、との気概が伝わってくる。
大阪都構想自体が、アンチ東京の情念の産物とすれば、堺の大阪都構想反対もアンチ大阪の産物。幾層もの地域ナショナリズムが複雑に拮抗している。堺市長選での、竹山側のスローガンが、「堺は一つ」「堺をつぶすな」「堺の乗っ取りを許すな」。おそらく、これで維新の勝ち目はない。維新は、堺市民に、都構想による具体的なメリットを示すことができない。単なる「維新の敗北」で終わるか、「党消滅に繋がる惨敗」となるか、関心はそこに集中する。
維新橋下の戦術は、専ら、「竹山市長は、あろうことか共産党の応援まで受けている」「竹山市長は共産党公認候補」「共産党の市長を誕生させるのか」などの反共攻撃である。これも、いかにも橋下らしい「手口」。既に、末期症状である。
橋下維新の支援者の多くは、理念に共感してのものではない。「何かをやってくれそうだ」「これから大きくなりそうだから乗り遅れまい」の2点での期待に基づく先物買である。「何をやろうとしているのか」が見えてきて、「もう先が見えてきた」となったら、風船の破裂同様、急速にしぼむことが目に見えている。
なんといっても、町衆の自治都市を支えた誇り高き歴史をもつ堺の人々である。橋下維新に打ち勝たずばおられまい。そのことが、改憲勢力に打撃を与えることにもなり、財界がたくらむ道州制を阻んで、「団体自治、住民自治」確立への第一歩ともなる。
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『旧日本軍の化学兵器』
シリアでの化学兵器使用が大問題となっている。化学兵器といえばオウム真理教のサリン散布事件を思い出させる。もっと年齢が高い人なら、関東軍の731部隊を思い出すだろう。旧「満州」で石井四郎軍医(中将)以下3000人(終戦時3560人)もの部隊が、東京大学に匹敵する予算を使って生物化学兵器を研究していた。ペスト、コレラなどの細菌兵器やマスタード、イペリットなどの毒ガス化学兵器である。朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人を「マルタ(丸太)」と称して生体実験に使った。その数は3千人にものぼるといわれている。その戦慄すべき実態は、森村誠一の「悪魔の飽食」にくわしい。
化学兵器の使用を禁止した1925年ジュネーブ議定書を無視して、関東軍は大量破壊兵器(毒ガス弾)を生産し、使用した。「きい剤」(致死性びらん剤)「あか剤」(くしゃみ剤)「みどり剤」(催涙剤)などと名付けられて数百万発の化学兵器がつくられたといわれる。中国戦で使用されて残った兵器を、終戦時に、関東軍は中国に遺棄して逃げ帰った。終戦の混乱に紛れ、記録も隠滅廃棄され、生産数も遺棄数も廃棄場所も正確には把握しようもない。ソ連軍や中国国民党軍に引き渡したものもあったらしい。
それらが戦後しばらくして、中国各地で中国国民の死傷害事件を起こす原因になった。2003年には731部隊の本拠地のあったチチハルの建設現場で遺棄イペリットガスによって43人が被毒し、1人死亡という惨事が起こっている。中国側は遺棄化学兵器による事故は約1000件、2000人の死傷者が出ていると集計している。
日本は、1997年に発効した「化学兵器禁止条約」により、中国に遺棄された化学兵器を処分する義務を負った。遺棄した責任国の義務として資金、技術を提供し、2000年以来中国各地において処理作業を続けている。そして今年、2013年8月29日南京市での作業が終了したと発表された。専用装置内で化学兵器を爆破し、処理作業して、48000発の「あか筒」を無毒化したという。しかし、どうしてもヒ素だけは処分できないので、濃縮して密封容器に入れて保管してある。そのヒ素をどうするかという問題は未解決のまま残っていると報じられている。
さらに、南京市が終わっても、武漢市、広州市、石家荘市、ハルビン市での処理が続く。そのあとに、最大量(30?40万発)の埋設地である吉林省のハルバ嶺が手つかずで控えている。2022年が終了目標にされている。気が遠くなるような話。
日本国内でも、北海道屈斜路湖(96年)、広島県大久野島(99年)、さがみ縦貫道路工事現場(02年)、平塚市(07年)などで、旧日本軍由来の埋蔵遺棄化学兵器による事故が起こっている。
サリンなどの化学兵器は「貧者の核兵器」といわれるように、作るのが容易である。しかし、処分するのは難しい。旧日本軍のような道義心に欠ける集団が作り、悪魔の殺戮を行ったあとは、「我がなきあとに洪水は来たれ」となってしまう。
化学兵器だけではない。多くの遺棄兵器が洪水や怪物となっている。兵器ばかりではない。今や、「原発」が化学兵器の数百倍も手に負えない洪水や怪物となりつつある。福島の汚染水の現状を見れば、原発再稼働や輸出など愚かなことだ。
愚かな歴史を断ち切ろう。「我がなきあとにも、常に美しき緑の野を」。
(2013年9月7日)