朝日(デジタル版)の「都議選全候補者政策アンケート」の集計結果が興味深い。
http://www.asahi.com/senkyo/2013togisen/enquete.html?ref=com_rnavi
私は、政党の位置関係の座標軸の一極に保守の自民党を置き、他極に革新の共産党を置く。その上で、その他の諸党を、その2極の間の「中間政党」とみる。
民主党は自民と政権を争う「保守2大政党」の一員、公明党は自民べったりの同盟者、維新と「みんな」は自民の右側からの補完勢力、などというそれぞれの側面をもつが、所詮は社民・生活・みどり等々と同様の中間政党のひとつである。
憲法問題にしても、経済・財政問題にしても、暮らしと雇傭の問題にしても、あるいは原発問題にしても、政策選択は「自民対共産」の対抗関係における分布からのものとなる。財界の利益と国民の利益、秩序と自由、国家主義と個人の尊重、権威主義と個人の自律、新自由主義と福祉国家思想、国防と外交…。あらゆる対抗関係が「自民対共産」の座標の中に位置する。
だから、革新の共闘も、反自民の連携も、現体制批判の連帯も、共産党を抜いて語ることができない。
そのような目で、全候補者アンケートを見ると、自共対決の対抗軸が明瞭に浮かびあがってくる。そして、その他の政党候補者の意見のばらつきには意外性があって興味深い。
アンケートにおける質問は12問。憲法問題に直接関わる争点として2設問がある。まず、96条改正問題である。
問:「憲法を変えやすくする憲法96条改正に賛成ですか、反対ですか」
この問に対する賛成・反対・その他の回答は、各党で次のとおり。
共産党42人の候補者全員が「反対」である。これに対極の自民は、59人の候補者中53人が「賛成」で、反対はゼロ。6人が「その他」だが、「発議要件が緩やかになれば、『反日自虐的改悪』が容易に実行される事態も十分考えられるので要注意」(古賀俊昭)という意見などを含んでいる。維新は、総数34のうち賛成24・反対0・その他9(無回答1)である。「右からの補完勢力」というにふさわしい。ところが「みんな」は、やや傾向が異なる。賛成10・反対2・その他8と、賛成が半数に過ぎず、反対が2候補も。明らかに、みんなの党内部に憲法問題での動揺と逡巡が感じ取れる。世論の風向きを、改憲一辺倒では支持を得られないと読んでいるのだ。
民主党は、総候補者44名中、賛成1・反対40・その他3、と意外にも親憲法的である。これも、憲法運動がつくりだした世論の反映と見るべきであろう。そして、公明党が候補者23名のうち、賛成0・反対1・その他22。端的に賛成・反対を言わぬところが、いかにもこの党らしい。
ついで、憲法9条と国防軍問題である。
問:「安倍首相は憲法9条を改正し自衛隊を国防軍に、としていますが、賛成ですか、反対ですか」
これについても、共産党42人の候補者全員が「反対」である。これに対極の自民は、59人の候補者中56人が「賛成」で、反対はゼロ。3人が「その他」だが、「国防軍という名称が適切かどうか」というレベル。維新は、総数34のうち賛成12・反対3・その他6(無回答3)。「みんな」は、総数20のうち賛成5・反対5・その他10。両党とも、けっして賛成一色ではなく、意見が割れている。
また、民主党は、候補者44名中、賛成1・反対32・その他7、とこれも意外に親憲法的である。そして、公明党が候補者23名のうち、賛成0・反対22・その他1、とこちらはきちんと「反自民」である。
主軸の双極をなしている共産党と自民党は、世論の風向き如何にかかわらず、それぞれの政策を打ち出さねばならない。共産党は革新の、自民は保守の政策を語る立ち場にあるが、その余の諸政党は、世論の風向き次第で、自共の間のどこかに位置を決め、その位置での政策を語っている。そして今、選挙政策を見る限り、自民以外の各党は、自民と距離を置いた方が票を取れると踏んでいる。そのような世論の動向であり、そのような向きに風が吹いていることに自信を持ちたい。
中間政党の政策は、世論次第で自民党寄りにもなり、共産党に接近もする。共産党の政策に接近した中間政党は、反自民の有権者の投票を、共産党にまで行きつかせずに吸収する役割を演じる。反自民の世論が盛りあがるとき、共産の議席が減るという不思議なジンクスには根拠があるのだ。
いずれにせよ、政策の次元においては自共対決の構図が鮮明である。議会内の勢力において自共が拮抗する事態となれば、真に国民の前に進むべき方向をめぐって堂々たる論戦を展開する本物の「討議をする議場」が出現するだろう。国会でも、都議会でも。
(2013年6月20日)
朝日(デジタル版)が「都議選候補者に政見などを尋ねるアンケート調査」を行った。「全部で12問あります。選挙区や党派ごとに各問に対する答えを一覧できるほか、名前をクリックするとその候補者の全回答が見られます」というもの。
その第2問が、「オリンピック招致」への姿勢を「賛成」「反対」「その他」で問うもの。一抹の不安があったが、共産党の全候補者が「反対」を明確にしている。自民・民主・維新・公明・みんな・生活・みどり・社民の候補には、1人のオリンピック招致反対もない。さすがに、ネットの5人が反対、諸派無所属候補の中には反対が散見される。
オリンピック理念のウソっぽさはともかく、財政支出の優先順位からは、今「反対」と言わざるを得ないと思うのだが、これが都議会オール与党の実態。
ところ変わって、オリンピック誘致を日本と争う国トルコの反政府デモ。先月末に始まっていまだに終熄しない。政情安定の印象があったのだが今回はおおごとだ。
本日の東京新聞によれば、「トルコの反政府デモで18日、警察当局が多数の左派系活動家の拘束と一部メディアの家宅捜索に乗り出した。AFP通信が伝えた。エルドアン首相は力ずくで抑え込みを図り、イスラム系与党・公正発展党(AKP)の会合で『勝利を果たした』と宣言。反対派と支持者の相互不信は深まる一方だ。デモの震源イスタンブールは、東京と争う2020年夏季五輪招致をめぐっても見方が分かれている」という。
「五輪招致について聞くと、デモの参加者には否定的な意見が目立つ。土木技師イートさん(27)は『五輪を開く資格があるのは、民主的な国だけだ』。女性建築家(25)は『私たちにとって今、大事なのは民主主義の実現で、五輪はあまり重要ではない』と話す。」
経済とりわけ観光業にはオリンピック誘致は魅力だろうが、それどころではないことを長期化した反政府デモが示している。しかし、「それどころではない」点では、福島の原発事故を抱え、財政事情悪化の我が国も同様だと思うのだが。
さらに、ブラジルにも大規模なデモが発生している。しかも、こちらは、2014年ワールドカップ反対のスローガンまで出ている。2016年オリンピックにも反対の声となろう。
「サッカーのコンフェデレーションズ杯を開催中のブラジルで17日夜、2014年のワールドカップ(W杯)ブラジル大会開催反対などを訴えるデモがあった。サンパウロで州庁舎の扉を群衆が破壊するなど、各地で混乱が広がった。
サンパウロでは午後5時から市中心部で始まったデモに続々と市民が参加。「W杯よりも教育や福祉の充実を」「バスの運賃値上げ反対」など、口々にスローガンを叫びながら、約6万3千人が市内全域を行進、深夜まで交通がまひした。地元テレビ局「グロボ」によると、リオデジャネイロでは約10万人がデモに参加し、一部が議会に火炎瓶を投げつけ車を燃やすなど暴徒化。首都ブラジリアでは国会議事堂の屋根に大勢の若者が上って気勢を上げる様子が放映された」「15日のコンフェデ杯開幕後は、各開催地で、スタジアム建設への多額の出費などに反対するデモが開かれている」(朝日)
「首都ブラジリアのサッカー場では『我々はW杯はいらない。必要なのは病院と学校のための金だ』と抗議するデモ隊もおり、コンフェデ杯やW杯への政府支出もやり玉に挙げられている」(毎日)
トルコとブラジルのデモ参加者に共感する。どこの国でも、「サーカスの提供」で民衆を欺し続けることはできない。もっと切実な金の使い道が、いくらでもあるはずだ。しかも、石原慎太郎が国威発揚の意図を隠さずに言い出した東京五輪誘致ではないか。
みんなの党松田公太の言い回しを借りよう。「どこでオール与党を確認するのか。一番わかりやすいのは知事が唱導している東京五輪誘致。今、共産党の候補者は全員反対で、その他の政党はほぼ全員が賛成。もちろん、みんなの党もたった一人の『その他』を除いてその余は全員賛成なのだ」
(2013年6月19日)
現在の政党の勢力図を大雑把につかめばこんなところだろうか。
国民も都民も、自公政権が新自由主義推進勢力として格差と貧困を生み出す元凶であることに気付いてきた。そのため、自公与党勢力はじり貧の様相を呈し、「小泉改革」などでの一時的な勢力回復はあったもの、結局2009年の前回都議選と、それに続く総選挙で一挙に事態が覆った。自民大敗、民主の第1党化となって局面は変った。ところが、民主党は、政権を取って変節した。国民の期待を裏切ったのだ。では、国民の支持は自公に回帰したか。すんなりとそうはいかない。2012年の自民圧勝は、小選挙区制のマジックの賜物である。
2009年総選挙で民主党が獲得した票数(比例代表)は、約3000万票。これが、2012年選挙では実に2000万票を減らした。この2000万票はどこに行ったか。自民には回帰していない。自民の票は実数ではむしろ減っているのだ。半分の1000万票は政治に愛想をつかして棄権票となり、残りの1000万票は「第3極」に移行した。「維新」と「みんな」の2党である。どちらも、自民党の右側からの補完勢力。民主党に替わって、保守内政権交替の担い手たらんとしている。
国民は自公に騙され、民主にも裏切られた。「第3極」とは、第3の騙しの受皿にほかならない。両党それぞれに厳しい批判が必要である。維新は自滅の模様だから、今「みんな」の批判が重要となっている。
本日の赤旗4面の囲み記事。「みんなの党の松田氏が事実ゆがめて共産党攻撃」というタイトル。内容は、みんなの党の松田公太参院議員が15日、練馬・大泉でこんな内容の街頭演説をしたという。
「都議会はオール与党だ。改革マインドがない」「どこで改革政党を確認するのか。一番わかりやすいのは新銀行東京。新銀行ができたときに、共産党も賛成の手を挙げてしまっている」。小池晃さんのツィッターでは、「録音も入手しました。」とされている。「事実を180度歪めた街頭演説をしています。国会議員の資格が問われます。」との指摘が頷ける。
「みんなの党」の発足は2009年。2004年新銀行発足当時にはまだ影も形もない。だから、都議会オール与党としての責任もない、と考えての発言なのだろう。
しかし、都議会では、新銀行設立は自・公が推進し、民主・ネットも賛成したが、共産と無所属の一人は反対を貫いている。
さらに、「都議会オール与党批判」をしているみんなの党の渡辺喜美代表は、17日に北区王子駅前で記者団から「都議会でみんなの党は、与党の議案に賛成しているのでは」と問われて「みんなの党は一人しかいませんからね」とわけのわからない回答をしている。一人で反対できないようでは、何人いたって役に立ちません(小池晃)。
都議会「みんなの党」の現職は、民主党から鞍替えした「野上ゆきえ」ただ1人。この人も、オール与党の一員として知事提案に全て賛成している。オール与党の一員が、オール与党批判の資格はない。
「第3極」という装いに欺されてはならない。自民批判だけでなく、「みんな」の批判にも全力を尽くしたい。
(2013年6月18日)
連邦最高裁ホームズ判事の「思想の自由市場」論に倣えば、「選挙とは、公約という商品販売の市場競争」にほかならない。公正な経済市場というモデルを想定して、市場における消費者の自由な選択こそが豊かな経済社会をつくり出す、そのような比喩が選挙という政治的事象にもあてはまる。「自由で公正な市場」になぞらえられた、「自由で公正に徹した選挙制度」のもとでこそ、選挙民の利益に適合する議会が実現する。
各党、各政派、各候補者が、「公約という商品」を美しくラッピングして選挙民に提示する。政党や候補者だけなく、その支持者(つまりは選挙民自身)も売り子となって宣伝戦に主体的に参加する。購買者としての有権者は、それぞれの商品が自分のニーズに適合するものかどうか、似た商品においてはその品質の差異をじっくりと見極め、さらに各商品の対価(公約実現のための財政負担)を勘案して、賢い消費者としての選択をしなければならない。
このとき、消費者としての賢い目は、公約の字面を追うだけではたりない。売り手自身をもよく見つめ、その信用を吟味しなければならない。「この商品の売り手からは、以前にも商品を買ったことがある」「しかし、買わされたのは欠陥商品だったではないか」「今回の商品が一見見栄え良くても、この業者からは二度と買ってはならない」というのが、賢い消費者の当然の選択。いわば、商品の品質だけでなく、売り手業者の品質もが検討の対象となるのだ。
東京都の選挙民は、長らく「自民党」という老舗から提供される公約の購入者だった。最近では、のれん分けした支店を含めた「自公商店」の商品をほぼ無自覚で購入してきた。なにしろ、「いまでこそ国政は『自公政権』だが、都議会ではそのはるか前から『自公与党体制』が都政を支えてきたのだ」(「都政新聞」)という事情がある。
前回、2009年7月の前回都議戦での有権者の選択は、それまでと次元を異にするものとなった。老舗の商品の陳腐・欠陥に明確なノーを突きつけた。そして、マニフェストという魅力的なラッピングの新興商店民主党の商品に鞍替えした。本日のブログは、その新興商店の業者としての信用性、すなわち「品質」の吟味である。
前回選挙の結果を概観してみよう。
東京都の選挙人登録者はおおよそ1000万人。前回選挙の投票率は、総選挙の前哨戦との位置づけもあって55%と高く、前々回に比して10ポイントも急伸した。ざっと550万人の有権者が投票所に足を運んだが、その投票先は以下のとおりである。
自由民主党 146万票(26%) 獲得議席38(?10)
公明党 74万票(13%) 獲得議席23(+ 1)
民主党 230万票(41%) 獲得議席54(+20)
生活者ネット 11万票( 2%) 獲得議席 2(? 2)
日本共産党 71万票(13%) 獲得議席 8(? 5)
大雑把な総括は、「自民の大敗、民主の勝ち過ぎ」である。勝ちすぎた民主は、自民からだけではなく、共産からも議席を奪って第1党となった。市場における商戦での自民大敗の原因は、消費者の利益に奉仕する姿勢を忘れてしまった傲りの体質にある。旧態依然の自民店舗には魅力的な商品がなくなって、消費者がノーを突きつけたからである。
では、勝ちすぎ民主が売り出した、大当たりの目玉商品とはなんであったか。少なくとも、築地市場移転反対・新銀行東京撤退・都立小児病院の廃止反対・オリンピック招致慎重の4点を挙げることができる。
まず、築地市場を江東区豊洲地区に移転する都の計画についての公約についてである。
当時の東京新聞のアンケートに各党がどう回答したか。
『自民』
移転を進めるべきである。築地市場は、施設の老朽化とアスベストや耐震性の危険性が高く狭いため現在地での再整備は不可能。豊洲の土壌汚染問題は最先端技術・工法の活用により高い安全性を確保。都民の台所を支えるには、交通利便で広い豊洲新市場が必要。
『民主』
築地市場の移転については、移転予定地から高濃度の汚染物質が検出されるなど、安全性が確認されていません。また、関係者の合意も得られていないことから、強引な移転に反対します。現在地再整備について、あらためて検討すべきです。
『共産』
都民の台所である市場を、重大な土壌汚染の広がる場所に移転させることは絶対に許されません。都民の不安の声の広がりは当然です。食の安全を守るために、豊洲移転はきっぱり中止し、築地市場は現在地で再整備すべきです。
自民が豊洲移転推進、共産が反対を明確にし、民主は曖昧ながらも当時多くの都民に豊洲移転反対派と認識され、安全を求める都民の票を獲得した。繰り返すが、「きっぱり中止」の共産党票までも蚕食した。
ところが、翌10年の3月議会で、民主党は築地市場移転の経費を盛り込んだ知事の新年度予算に賛成してしまった。1年たたぬうちに公約を破って都民を裏切ったのだ。
新銀行東京問題はどうか。これも、東京新聞のアンケートへの回答を引用しよう。
「質問・都は新銀行東京の経営再建を支援しています。都が取るべき今後の対応についてどう考えますか」
『自民』
今後も中小零細企業に支援を行うべきである。現在でも約一万社に融資を行っており、この半数の約五千社は他の金融機関から融資を受けることが難しい企業であり、これらの企業の存続と従業員やその家族十五万人を支えるため必要。今後も新銀行再建を支援する。
『民主』
昨年の四百億円の追加出資も、この都議選を乗り切るまでの場当たり的な延命措置で、知事のメンツを守るために存続させているにすぎません。都民の税金がさらに毀損(きそん)することのないよう、事業譲渡や株式の売却などを含め、早期に撤退すべきです。
『共産』
新銀行東京は完全に破綻(はたん)状態です。自治体が銀行業に手を出すこと自体が大問題であり、設立に賛成した自民、公明、民主の責任は重大です。速やかに処理し、都は撤退すべきです。
自民の「再建支持」に対して、民主は「早期撤退」である。共産とちがわないほどに、毅然とした態度を示した。しかし、この姿勢は今や影も形もなくなっている。
「新銀行東京や築地市場移転は公約にしません−−。民主党都連は14日、都議選に向けたマニフェストを発表した。…4年前に『都政最大の問題』だとして反対した新銀行の存続や市場移転には触れておらず、第1党に躍進した前回とは内容が大きく様変わりした」(5月15日毎日)という体たらくである。
「都立小児病院統廃合問題」(3病院を廃止して新たな小児総合医療センターを整備する計画)については、自民・公明が賛成、民主・共産は、廃止後の地域医療体制に懸念があるなどとして反対した。ところが、都議選直後の09年の12月議会で民主党は三つの都立小児病院を廃止するという都の方針を容認し、存続を求める都民の請願を自民・公明とともに反対して不採択にしてしまった。これも公約違反の裏切り。
そして、「2016オリンピック招致である」
東京新聞アンケートでは、各党の公約は以下のとおり。
『自民』
支持します。オリンピックの開催は経済効果として全国で三兆円、都内で一兆八千億円と推計され、景気浮揚や雇用創出がなされる。緑あふれた元気で住みやすい東京を創(つく)り、世界一低炭素の環境都市を次の世代に残す。再び子供たちに夢と希望と感動を与えたい。
『民主』
オリンピック招致は支持します。多くの都民やアスリートたちの夢は否定すべきものではありません。しかし、それは決して無条件の支持ではなく、平和の祭典オリンピックの理念を体現するとともに、公共投資等のムダを省いたものでなければなりません。
『共産』
支持しません。石原都政は、五輪招致を口実に、一メートル一億円もの外環道路など大型開発に九兆円もの税金をつぎ込むからです。いま都政が最重点に取り組むべきは、巨大開発ではなく、都民の暮らし・福祉・雇用を守ることです。
自民推進・共産反対、その中間に民主が位置する。「無条件の支持はしない」「公共投資のムダを省け」が、当時の都民には反対の姿勢に映った。
いま、その公約の面影は影も形もなくなっている。
以下は赤旗の指摘である。
民主党が、東京都議選(23日投票)で「理不尽をただす」と大書した法定ビラ「東京民主党2013マニフェスト」を配布しています。日本共産党の小池晃副委員長は14日、この法定ビラの現物を掲げて「理不尽をただすというなら、まず自らの公約違反をただすべきだ」と厳しく批判しました。
小池氏は「民主党は、前回小児病院廃止反対、築地市場移転反対を言いながら、選挙が終わった途端に賛成に変わりました」と指摘。「選挙で言ったことと正反対のことをすることこそ、一番理不尽ではないか。まず自らを正すべきではないでしょうか」と訴えました。
自公という老舗は前回都議選で消費者から拒絶された。これにとって替わった新興店舗民主は、結局のところアフターなしの欠陥商品の販売で成績を伸ばしたに過ぎない。商品の品質の欠陥は、売り手の品質の欠陥でもある。失われた信用の回復は極めて困難となる。自分の販売した商品に責任の持てない事業者は市場から淘汰されざるを得ない。
民主党の公約違反は極めて深刻な問題である。このような羊頭狗肉商法が大目にみられるようでは、日本の選挙民は愚弄され続けるしかない。選挙における公約遵守の努力は、政党としての品格を保持する最低限のモラルである。日本の民主々義の成熟度を測るバロメータとして、公約実現についての選挙後の姿勢を吟味しよう。
こと都議会民主党に関する限り、今回選挙の公約を吟味する必要もない。商品の品質ではなく、売り手の事業者としての品質自体が失格だからである。政党としての品格を欠いていると指摘せざるを得ない。
******************************
『「維新の会」を支持する人に初めて出会った』
選挙が近づくといつもすることがある。知り合いを訪ねて、季節のご挨拶がてら、また新聞の購読をお願いがてら、候補者の人となりを紹介し選挙のことを話し込む。これを、戸別訪問ではく、個々面接という。
無理をして遠くまで出かけたりはしない。隣近所のお知り合いをお訪ねする。以前はこれがおっくうで仕方なかった。この頃はツラの皮が厚くなったのか年の功なのか、あまり抵抗がなくなった。私には「失うべき職」はなく、「失うべき人間関係」もいまさらない。今あるものですでに十分だと思いいたった時、「言いたいことは言える」「言わなきゃ残念」という気分がわき起こってきた。そこで、顔を合わせればご挨拶する方まで、訪問の範囲が拡がって、ポツポツと歩いている。
今日も多くの方とほぼ話がかみ合って、所期の目的を達成することができた。しかし、お一人だけ大変興味深い対話をすることができた。
ここ文京区は、革新・リベラル派の強い土地柄。地元の町会長さんも「九条の会」の会長さん。怪しげな意見と出会う機会はめったにない。本日は、そのめったにない機会に遭遇した。なんと、「維新の会」を支持すると明言する方に初めてお目にかかったのだ。いや、お珍しい。
会話をはじめた時には、何とかスムーズに話が進みそうな気配だった。しかし、どうにも奥歯にものが挟まったような感じである。持ち前の好奇心がうずき出して、精一杯話を引き出す努力をしてみた。
この方、『老人のシルバーパスは、いらないと思う』というあたりから、日頃思っていることを率直にお話ししはじめた。そして、『自衛隊を強くして国を守らないと外国からバカにされる』とおっしゃる。
「でもね、武力でものごと解決しようとすると、軍隊の衝突になりますよ。あなたの息子さんを軍隊にやれますか」『うちの子はやらないわよ。給料もらっている自衛隊員がいけばいいじゃない』「えっ?自分の子はやらない。他人の子ならいいんですか」
「そんな危険は自衛隊員の給料にはみあわない。いざとなれば、きっとみんなやめちゃう。そしたら、徴兵制になっちゃいますよ」『…』
『とにかく、石原さんや橋下さんはものをはっきり言うから好きだ』「従軍慰安婦発言はどう思いますか」『慰安婦の人たちはお金のために好きで行った人たちでしょう』「ほとんどは工場で働かせるとか言われて騙されて連れて行かれたんですよ。そんな境遇に陥った方を気の毒とは思いませんか」『今頃になって賠償金ほしさにあれこれ言ってけしからんと思う』
『共産党は、いつもは来ないで選挙の時だけ話をしに来る。不愉快だ』「維新の方とは日頃お付き合いがあるんですか」『付き合いなんかなにも無いわよ。ともかく、私はもちろん、家族中もみんな共産党の支持はしないよ』
わたしの好奇心はこの程度で満たされた。「やはり、お話ししてみないと人は分からないものですね。今日は、お話しできて良かった」と挨拶して引き上げた。
石原や橋下を支えているこういう人がいるのだ。保守というほどのまとまった考えがあるわけではない。自己中心的で、身勝手で、人に対する思いやりがなくて、不必要に攻撃的な人。少数ながらも、そして影響力は小さいながらも、新大久保で韓嫌デモをしている人だけでなく、ごく身近に。
昨年暮の都知事選で、革新・リベラル連合は石原後継陣営に大敗した。多少なりともその選挙に関わった私としては無念やるかたない。この敗北をどのように根本から総括すべきか、とりわけ革新共闘のあるべき形をどう描くのか、考え続けている。
その都知事選の苦い記憶冷めやらぬうちの都議戦である。434万票を獲得した「傲れる知事猪瀬」の暴走を許してはならない。これを牽制する真っ当な野党を議会に確保しなければならない。石原ー猪瀬路線の拠って立つ基盤が、新自由主義と開発型利益誘導政治と、そして国家主義・新保守主義のないまぜである以上、この知事への対決姿勢を堅持し、真っ当な野党としての役割を担い得るものは、日本共産党以外にはありえない。
議会制民主々義が健全に機能するためには、野党の存在は絶対不可欠である。謀略によって野党が議会から追放され、あるいは翼賛議会が成立するとき、民主々義は死滅する。大戦前のドイツと日本の歴史が、その苦い実例ではないか。
この立ち場から、赤旗が連日「都議会オール与党体制」を批判している。この批判は、民主々義を大切に思う多くの人々に受け容れられ、説得力のあるものとなっている。
そのことを意識してか、みんなの党の渡辺代表が、都議選の第一声で「自民党がぼろ勝ちし、自民、公明両党で過半数を制すると、民主党も日本維新の会も(加えた)オール与党状態の都議会に改革ができるのか」(読売)と発言し、民主党の海江田氏までもが、「都知事が暴走してしまったら、誰が止めるのか。都議会が止めなければいけない」「石原慎太郎前都知事が…皆さん方の税金を使って銀行(新銀行東京)をつくって失敗、オリンピック招致にずいぶんむだなお金をかけた」(赤旗)と議会で果たすべき野党のチェック機能の大切さを言い出している。
「都議会をオール与党体制としてはならない」「434万票の知事の傲りを放置してはならない」「健全な野党による知事への批判が必要だ」。その願いは、共産党に託するしかない。
赤旗日曜版6月16日号第5面の記事を抜粋する。
「『オール与党ではどうにもならぬ』(「東京」)、『猪瀬人気便乗 オール与党化』。マスメディアからも批判が上がるほど、東京都政での自民、公明、民主、維新、みんなの『オール与党化』がひどくなっています」
「猪瀬知事発足後初の3月都議会、自民、公明、民主、維新、みんなの各党は、知事提出の167議案すべてに賛成しました。生活者ネットも、2議案を除いて賛成です。まさに『オール与党』です」「これらの『オール与党』は、憲法96条の改定反対に関する意見書も、認可保育園増設などを求める請願も、反対してつぶしてしまいました」
知事の予算案に反対票を投じたのは、日本共産党だけ。また、都議選選挙ポスターでの候補者とのツーショット撮影について、知事は「一緒に撮りたいという方々については、共産党を除いて各党派、満遍なく撮影している」とのこと。けっこうなことだ。これだけでも、共産党だけが、知事の暴走をチェックする真っ当な野党としての資格がある。
現有8議席を一回りも二回りも大きくして、共産党に真正野党としての大活躍を期待したい。
(2013年6月16日)
イスラム諸国を侮蔑する猪瀬直樹暴言のお蔭で、東京五輪はなくなったものと安堵していた。功績は猪瀬だけにあるのではない。室伏広治問題もあり、橋下徹妄言の効果も大きい。全柔連のパワハラ、セクハラ問題まである。ところが、イスタンブールの治安とスペインの経済事情が悪化して、東京招致の芽が完全になくなったとは言えないらしい。あきらめきれない東京五輪誘致活動は、巨額の費用をかけながらまだ続けられている。そのため、2020年東京五輪招致の是非は、今回都議選の争点の一つとなっている。
6月14日毎日夕刊の「特集ワイド」は、「2020年五輪招致の舞台裏」という取材記事。担当記者の思惑を遙かに超えて、オリンピックの醜悪さをよく描いている。「2020年東京五輪招致に問題あり」の次元ではなく、オリンピックという途方もなく巨大化した怪物の醜さ汚さをアピールしている。こんな奇っ怪なもの、地上からなくした方が良いのではないか。
そう思わせる記事を未読の方は、ぜひ下記のURLをご覧いただきたい。読むに値する記事だ。アントニオ猪木・猪瀬直樹・橋下聖子らの写真を大きく掲載した記者の意図は忖度しかねるが、この記事の読後では、全ての人物が愚かしく、薄汚く見える。
http://mainichi.jp/sports/news/20130614dde012050016000c4.html
私は頑固な「2020年東京五輪招致反対」派の一人だ。が、これまでは「東京への五輪招致に反対」のレベルだった。開催場所が東京でさえなければ、オリンピック結構と思っていた。むしろ、オリンピック精神については賛意を表し、オリンピックの平和への貢献を積極評価する立ち場だった。発展途上国におけるオリンピック開催の経済効果も当然のこととして肯定していた。
なお、オリンピック精神とは、「オリンピック・ムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある」(1996年版オリンピック憲章「根本原則」6条)というものを指している。
もちろんこれまでも、ヒトラーや石原慎太郎などの極右政治家との結びつきを連想させる「国威発揚型オリンピック」には絶対反対の立場だったし、ナショナリズム過剰のオリンピックにも嫌悪を感じてはいた。また、「商業主義型オリンピック」の胡散臭さにも辟易してはいた。とはいうものの、それはオリンピック本来の理念からの「部分的な多少の逸脱」への批判でしかなく、オリンピックそのものを否定することはなかった。イスタンブールかマドリードで行われるのであれば、オリンピックの開催は、世界の平和を象徴するものとして歓迎すべきもの、そう考えていた。いや、あまり深く考えることなどなく、そう思い込んでいた。
しかし、そろそろ宗旨を変えなければならないのではないだろうか。オリンピックが平和の象徴であるとしても、あまりに腐った平和の象徴となってしまったのではないか。国威と過剰なナショナリズムを発揚するに格好の大舞台。資本にとっての一大ビジネスチャンス。そうであるが故の、これに群がる多くの人々の薄汚さ、胡散臭さ。そして、招致活動の不透明さ。汚い金の動き。これらの構造が、「部分的で多少の逸脱」の範囲を超えて、オリンピックそのものの腐敗が後戻りできなくなっているのではないだろうか。
毎日の記事から抜粋する。
「ある都職員が語る。『IOC委員には国際大会や会議の場で接触します。個別の招待は禁じられているため、あらゆる人脈を使って委員に影響力のある関係者を探し、食事などに誘います。…その接待には現地の大使公邸や高級和食レストランが使われ、日本から直送した神戸牛や高級マグロが人気です』」「他の都市も同じことをしているのだから、関係を深めるのは容易ではない。しかも『欧州の貴族サロン』と呼ばれるIOCは世界中の王族や財閥関係者、実業家、政治家が集い、人脈や信頼関係でものごとが決まる独特の世界だ」「そこで活躍するのが五輪コンサルタントだ。『サロンに顔が利く欧米のメダリストや国際競技団体の関係者が多く、招致を目指す都市と複数年契約をし、契約料は億円単位になることも。…東京招致委も外国人コンサルタントに頼らざるを得ないのが実態。IOC元幹部が代表を務めるコンサル会社など複数の法人、個人と契約しています』(招致委関係者)」「04年には英国BBC放送が、票の買収交渉に応じる委員とコンサルタントの癒着を『おとり取材』でスクープ。五輪の金権体質が浮き彫りになった」
金権金まみれがオリンピックの抜きがたい体質、「友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神」とはほど遠い現実。それぞれの思惑で人々が群がり、金が集まり、虚名と虚言が渦巻く世界。これを勝手にしろと放置しておくわけにはいかない。税金が動いているのだから。
「日本から直送した神戸牛や高級マグロ」だけでなく、裏ではいろんな名目での金が動いているだろう。政治家の沽券や名望のために、資本の利益のために。そして、一部の人の名誉心のために。スポーツは本来清新で美しいものではなかったか。こんなに薄汚れたスポーツの祭典に意義があるのだろうか。
東京オリンピック固有の問題は、一に国威発揚型であること、二に資本に迎合した再開発型都市計画を必然化すること、そして三に福祉切り捨ての予算の使い方の間違いにある。
「前回と合わせて2回の招致活動費は225億円(予算ベース)。五輪招致は『自治体に認められた唯一のギャンブル』といわれる。」という。既に、馬鹿げた都民の金が浪費されている。仮に、誘致に成功すれば、さらに巨額の負担を覚悟しなければならない。東京がこんなくだらぬことに血道をかけ、巨額の浪費をする余裕はない。そして、自然破壊や住環境の劣化がもたらされる。子どもや老人への福祉や、保育や教育や、授産事業や職業紹介や、労働者の働く環境を整備し雇用を直接に創出する予算の使い方を優先させるべきではないか。
よく、考えよう。東京五輪本当に都民のためになるものか。都民の生活を優先する立ち場からは、都議選においては、オリンピック誘致に積極的な政党政派・候補者には投票すべきではない。
*******************************
『世間と歴史と選挙』
阿部謹也さん著の「日本人の歴史意識ー「世間」という視覚からー」(岩波新書)に手を打って共感した。
私たち日本人は「歴史」にかなりの関心を持っている。歴史的名所は観光スポットとなってたくさんの人が訪れるし、遺跡の発掘現場が公開されれば、どんな交通不便なところでも行列ができる。歴史の専門書や歴史小説の出版も多い。ブログの話題としても歴史は大人気だ。
「これらの人々の歴史に対する関心は一体何なのか。これらの人々にとって歴史とは自分の近くを流れている大きな時の流れであって、それを眺めることは一つのドラマを眺めることに等しい。そこで演ぜられる忠誠や裏切り、愛や憎しみのドラマが人々を引きつけているのであって、人々は歴史をドラマとして楽しんでいるのである。・・しかしこれらの歴史好きの人々の場合も歴史を自分自身が参加しているドラマだとは思っていないのである。」
多くの人々にとって、日々の現実の生活は苦しくままならない。到底観客として楽しむことのできるドラマなどであろうはずもない。だから、自分の現実の生活は運命として甘受することで折り合いを付ける。自分が属する狭い「世間」の様々なしがらみに絡めとられ、そこに安住し、関心はその外に拡がらない。親は子どもに「世間」との折り合いを教える。子どもは「出る釘は打たれる」「長いものには巻かれろ」「素直になりなさい」「組織の論理には従いなさい」といわれ続ける。個性だの個人の尊厳など生意気なことは言わないで、「世間」のしきたりにあわせるよう強制される。しかし、そうした厳しい社会的な制約をかけても、時にはドロップアウトせざるを得なくなる。
そのドロップアウトの時に、傍観できるドラマとしての「歴史」と、自分自身が参加している現実の「歴史」の分岐と重なりとが意識される。ここで、否応なく自分が参加する現実としての歴史に直面せざるを得なくなる。
そのように現実としての歴史に直面する人は、「「世間」の中でうまく適応できずにいる人である。「世間」とうまく適応している人は「世間」を知ることができず、その本質を理解することができない。しかし「世間」とうまく折り合うことができない人は「世間」の本質を知り、歴史と直接向き合うことができる。」
今の日本には「世間」とうまく適応できない人が星の数ほどいる。大人も子どもも「世間と個人」の間の矛盾を鋭く自覚して、苦しんでいる。その苦悩の中から、歴史を観客として楽しむのではなく、主体的に参加し変革したいと真剣に考えている人が生まれてくる。
「しかし「世間」との闘いは単純な闘いではない。「世間」の中で自分の道を切り開いてゆくための闘いだから、「世間」と正面からぶつかる必要はない。笑顔で「世間」の人々と付き合いながら、自分の道に関しては徹底的に闘う姿勢を静かな態度で示さなければならない。この闘いは単独の闘いであるが、仲間ができればその仲間と手を組んでいくこともできる。」
碩学の含蓄に富む言葉だと思う。
いま、その機会がちょうど私たちの前に提示されている。選挙だ。笑顔で歴史の変革に参加できるチャンス到来だ。投票までの間だけでも、新聞の隅々まで読もう。選挙公報や駅前でもらったビラで、候補者の主張を較べてみよう。年金者は老後の生活を、働く親は子どもの保育園を、働く者は賃金や労働者の権利を、その他おのおの自分の要求を洗い出してみたい。平和な未来の生活には「憲法」も「原発」も考慮しなければならない。
選挙の時は、「世間」に「自分」をあわせるのではなく、「自分」は「自分」に合わせて自分自身の「歴史」を作ってみようと思う。
(2013年6月15日)
いよいよ、都議選が始まった。
日本共産党東京都委員会の都民に対する呼びかけでは、「この都議選は、今後の都政のあり方を問う選挙ですが、連続して7月におこなわれる参議院選挙とともに、国政の動向にも大きな影響をおよぼす、たいへん重要な選挙です。」として、「憲法改悪、消費税増税、TPP参加など、国政での安倍自公政権の暴走に、東京からストップを」と訴えている。選挙スローガンのトップが「憲法改悪という安倍政権の暴走にストップを」となっているのだ。
そして、本日夕刊に、「共産 志位委員長」の第一声が見出しになっている。「立憲主義を守りたい」というもの。「憲法96条改正の動きには、護憲・改憲の立場を超え、立憲主義を守りたい」(毎日)が本文。憲法問題がこれほど大きな争点となった地方議会選挙は、未曾有のことであろう。
その改憲問題の状況はどうなっているか。
第183通常国会の会期は6月26日まで。昨日(6月13日)今会期13回目の衆議院憲法審査会が開かれた。これが今国会最終回となって、次は参院選後の臨時国会に舞台は移ることになる。
昨日の審査会では、各会派の代表が総括的に意見を述べた。
権力機構の伝声管である産経が、「自民党は改憲案の具体化に向けた各党協議会の設置を提案し、日本維新の会も議論の加速化を主張した。民主党は憲法改正手続きを規定する96条改正への慎重論を唱え、7月予定の参院選に向け、自民、維新などとの違いをあえて明確にしようとした。」と伝えている。
さらに産経によれば、「審査会では、共産党を除く6党が目指す憲法改正の方向性を説明した。自民、維新、みんなの3党は96条改正で足並みをそろえた。」と、この3党が96条改憲派とまとめている。よくおぼえておこう。憲法擁護勢力から見て、改憲問題における当面の「敵」は、自民、維新、みんなの3党なのだ。ということは、この3党が都議選における当面の「敵」でもある。いささかなりとも憲法を大切に思う、心ある人にとってこの3党に投票することは、「利敵」行為となる。
但し、この3党にも色合いの違いがある。これも産経によれば、「維新の馬場伸幸氏は、国会発議要件を緩和するため96条を先行改正する必要性を強調」「馬場氏の主張には、安倍晋三首相が一時言及した『先行改正』を打ち出さなかったこととの違いを強調する狙いがある。」という。96条改憲3人組みのうち、自民を中心に、維新がより積極、みんながより消極と役割を分担している。
整理をすれば、「維新・自民・みんな」の改憲積極グループと、改憲阻止の「共産」との間に、「民主・公明・生活」の改憲慎重派という図式が浮かび上がってきている。憲法をこの上なく大切と思う人にとって、一票しかない選挙権の有効な行使方法は自ずから明らかではないか。
もっとも、今国会の審議では、「民主・公明・生活」の改憲への慎重さが印象的である。当初は「49対1」で孤立するかに見えた共産の笠井亮議員が、議事録を読む限り孤立の感はない。世論の動向の掩護があるからなのだろう。
本日の東京新聞朝刊が紹介する、「審査会終了後、保利耕輔会長(自民)は『どのように進めていくかということ自体が、われわれの問題点だ』と指摘。『(改憲発議に必要な衆参両院の総議員の)3分の2を集めることは容易ではなく、慎重にやらないといけない』と話した。」との保利発言の内容が現状の雰囲気をよく表している。
なお、今会期最後の審議会では、改憲派にとっての思惑外れを象徴するハプニングがあった。これも、最も詳しい東京新聞から引用する。
「自民党の河野太郎氏は13日の衆院憲法審査会で、同党が昨年まとめた改憲草案について『憲法の名を借りて、国民の権利を制限する方向に安易に行くことは断固反対を申し上げたい』と批判した。
河野氏は、憲法の在り方として『多くの国民が歴史を通じて、国家権力にたがをはめてきた』と説明。『権利を制限し、義務を課すのは、今の日本にはふさわしくない』と指摘した。
さらに、草案に『家族の助け合い義務』が盛り込まれたことも疑問視。元衆院議長の父・洋平氏への生体肝移植の経験を話し『いいことをしたと思うが、それができる人もいれば、できない人もいる。家族は助け合うべきだが、道徳を憲法で定義するのは少し違う。個人に任せるべきものだ』と述べた。
草案への身内からの手厳しい批判に、自民党の衛藤征士郎氏は『憲法が国民を抑えつけ、拘束するという観念で言っているが、ちょっと違う』と反論した。
憲法論議で自民党と対立する共産党だが、同党の笠井亮氏は『河野さんに共感する。自民党の中にもいろいろ議論があるとあらためて感じた』とエールを送った。」
自民党の中にも、「右翼」ではない人もいる。保守の中にも、真っ当な感覚を持った人がいる。本当は、このような人が最も手強い相手なのだが、今はこの真っ当な保守派が「エールを送りたい」ほどの味方に見える。安倍政権や維新などが大きな顔をする、今の状況が異常なのだ。
そのような憲法問題に徹した視点から、都議戦の論戦に加わりたい。
(2013年6月14日)
夜帰宅すると、1軒おいた路地に看板をマスキングした選挙カーが止めてある。いよいよ明日から都議選なのだ。私の理解では、今度の都議選は「日本共産党対靖国派」の対決を軸とした政治戦。憲法を擁護する勢力の健闘に期待したいし、私も微力を尽くしたい。
東京新聞が都議選の争点となるテーマを連載している。その「都議選2013」の一昨日のテーマが、東京都平和祈念館の建設問題だった。見出しが、「都平和祈念館『早く建設を』 東京空襲 体験者 進む高齢化」というもの。
リードは「東京空襲の資料を展示し、犠牲者を追悼する『東京都平和祈念館(仮称)』の建設を求める戦争体験者たちが、14日告示の東京都議選に注目している。展示内容をめぐる都議会の対立で計画が凍結されて14年。高齢化した体験者らは『いつまで生きていられるか分からない』『議論を始めて』と訴える。」
平和祈念館の「建設をすすめる会」代表の小森香子さんの大きな写真が掲載されている。小森さんのお話しとして、「都議選に候補を擁立する十の政党・政治団体にアンケートを出したが、回答が来たのは四団体だけ」だったという。「都は98年に建設予算案を都議会に提出。しかし、日本の加害の歴史などの展示内容をめぐり、都議会が紛糾。都財政が悪化していた時期でもあり、99年の『都議会の合意を得た上で実施する』という付帯決議で計画は凍結された。2001年に墨田区の都慰霊堂の敷地内に追悼碑は造られたが、都民が寄贈した資料約3500点や空襲体験者330人分の証言ビデオは都庭園美術館(港区)の倉庫に保管されたままだ。」との経緯があってのこと。
アンケートに答えたのは、共産、生活者ネット、社民、みどりの風の4者。もちろん、いずれも建設促進の立ち場だ。しかし都の方針は変わっていない。平和祈念館建設をすすめるには、都議会の構成を変えるしかない。東京空襲犠牲者遺族会は今年1月、祈念館の整備を都議会各会派と都に要望している。都議選の結果は、このことを通じて平和に関連している。
たまたま、私は、「東京都平和祈念館(仮称)建設をすすめる会」ニュースの最新号(第28号)に、祈念館建設促進を願う立ち場からの寄稿をした。願わくは、これをお読みいただき、都議会選挙には平和勢力へのご支援をお願いしたい。
***** ***** ***** *****
『戦争を美化することのない ありのままの戦争体験の承継を』
66回目の憲法記念日に、この稿を起こしている。
日本国憲法は、戦争の惨禍を舐めつくした日本国民の不再戦の誓いとして生まれた。前文の「政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、この憲法を確定する」との文言は、永久に戦争の被害者にも加害者にもなるまいとする国民の宣言であり誓約である。
その平和憲法に敵意をもってこれを変えようという動向はかねてから絶えない。そして、その言動は今年とりわけ喧しい。戦争放棄・戦力不保持・「平和のうちに生存する権利」の抹殺を狙いとしながらも、96条の改憲手続き条項の改正に的を絞ってここから穴をこじ開けようというのが近年の憲法攻撃の特徴。改憲陣営の究極の目的が、戦争のできる国作りにあることを見据えて、96条改憲に警戒の念を怠ってはならない。
憲法は国民が作る。作るだけでなく国民が守り育てる。立派にまもり育てつつ、役に立つ道具として使いこなさなければならない。ではあるものの、憲法を守り育てる国民の力は、自然には湧き出てこない。かつては平和を願う国民感情は普遍的なものだった。その国民感情が平和憲法の土台をしっかりと支えていた。さて、今はどうだろうか。
かつてはどこの家庭でもありふれたこととして、私の母も子どもたちに戦争を語った。戦地の父を心配して心細かったこと、敗戦の夏にハシカの私を背負って防空壕に息をひそめたこと、配給の食糧の乏しかったこと、相次いだ身内の戦死の知らせ‥。多くの日本人にとって、戦争は戦地にだけあったものではなく、銃後のごく身近にあった。勤労動員や、赤紙や、出征、慰問、空腹、恐怖、虚脱、そして肉親の死。その戦争の相手国であった近隣諸国の民衆の悲惨はさらに規模の大きいものだった。
二度とこの悲惨を繰り返すまいという国民共通の認識が確かにあって憲法に結実した。あれから70年に近い。直接に戦争を体験した私の父母の世代の多くは、既に世にない。その子の世代の私たちは戦争の悲惨の記憶と感情を次の世代に伝え得ているだろうか。かつて平和憲法を支えた、戦争を忌避し平和を願う国民の思いを、いま若い世代が自分のものとしているだろうか。
少し前まで、国会の議席には平和憲法を擁護する堅固な「三分の一の壁」が築かれていた。この壁を支えたものは国民の戦争体験に基づく平和への願いであった。その頼みの壁が今はない。憲法の危機、平和の危機が現実のものとなりつつある。失われようとしている国民的な戦争体験の継承が必要であり、そのための語りの場、学びの場が必要である。貴重な戦争体験の記憶を意識的に記録化し保存することは、後世への義務ですらある。
私は、ときどき靖国神社に足を運んで遊就館を見学する。ここにも戦争の遺品が並んで訴えるものがある。しかし、どうしても違和感を拭えない。同じものでも、その意味づけによって、あるいは展示の仕方によって異なるメッセージが伝わってくる。
平和を願う立ち場から、いささかも戦争を美化することのない、悲惨な戦争の実態を記録して承継する、そのような平和祈念館の建設実現を願う。庶民の目線での、ありのままの戦争体験を正確に次の世代に伝えるにふさわしい施設を。
(弁護士・公益財団法人第五福竜丸平和協会監事)
(2013年6月13日)
泉徳治さんという最高裁判事がいた。東京高裁長官から最高裁判事となって6年3か月の在職だった。4年前に退官して今は東京弁護士会所属の弁護士。キャリア裁判官として22年間を最高裁事務総局で過ごした人。私から見れば、典型的司法官僚のお一人。その人がごく最近、「私の最高裁裁判官論」という本を日本評論社から出した。副題が「憲法の求める司法の役割」というもの。これは、話題だ。
泉さんは、退官後に結構発言が多い。7月10日に大法廷口頭弁論が開かれることで今話題となっている婚外子相続差別問題で、在任中2度の少数意見を書いたとのことで、弁護士になってからもこの差別は違憲だと言い続けている。その立場は一貫していて、現在の最高裁が、違憲立法審査権に臆病であることを批判している。
以下は、著書の「はしがき」からの抜粋である。さすがに、私より品の良い文章だが、私の言いたいことをずばりと言ってくれている。
「司法の重要性を多くの人に理解してもらうためには、何よりも裁判官が憲法によって課せられた司法の役割を十分に認識して、国民の権利自由を擁護するため、立法・行政の裁量権の行使について適切に審査し、企業の行動規範の形成などにも積極的に関与していくことが大切だと考えるようになりました。」
「国民全般の公益と個々の国民の私益とは、しばしば衝突します。国民主権に基づく代表民主主義は、元来、国民が全て平等に人間として尊重されるという基本的人権の尊重の確立を目的とするものです。全体の利益増進を図るためといっても、個々の国民の人間の尊厳に関わるような権利自由をむやみに制約してよいものではなく、制約は必要最小限にとどめる必要があります。個人の権利自由を擁護するのは、裁判所の重要な役割であります。立法・行政の裁量に全てを委ねていては、国民の権利自由を庇護するために設計された司法の職務放棄になりかねません。」
「多数決原理の民主政の下では、社会的少数者の声が立法・行政に反映されるということは、あまり期待することができません。社会的少数者の憲法によって保障された基本的人権を擁護するのも、裁判所の役割であります。」
副題にあるとおり、「憲法の求める司法の役割」がメインテーマだ。裁判官は、憲法によって課せられた司法の役割を十分に認識しなければならない。その視点からは、違憲審査権行使に臆病な司法の現状は歯がゆい。国民からの距離が遠いことを理由とする司法消極主義は、結局のところ「国民の権利自由を庇護するために設計された司法の職務放棄にほかならない」というのだ。元最高裁判事が、自らの反省を込めての言である。ずっしりとした重みがある。
次の点にも共感する。
「私は、最高裁判事時代に三六件の個別意見を書きました。多数意見と結論を異にした「反対意見」が二五件、結論は多数意見と同じであるが結論に至る理由を異にした「意見」が四件、多数意見に加わりながら自分の意見を付け加えた「補足意見」が七件であります。」「少数意見の表明は、全体の議論の質を高めるものであります。」「少数意見は、時間を経て、多数意見へと成長することが少なくないのであり、法の発展につながると考えます。」「少数意見が存在してこそ議論が活発化し、一人でも多くの人が議論に加わることによって制度が前へ進むチャンスも生まれてくると信じております。」
この人の、少数意見の存在が大切だという感性を素晴らしいと思う。まさしく、少数意見が存在してこそ議論が活発化するのであり、「少数意見が多数意見へと成長することも少なくない」のだ。
本文では、日の丸・君が代強制事件最高裁判決にも言及している。宮川光治判事の反対意見を好意的に紹介して、「君が代斉唱事件は、違憲審査基準を重要な争点として浮かび上がらせるものであった。最高裁において、違憲審査基準自体についての議論がさらに深まっていくことを期待したい」と述べられている。
宮川光治判事の少数意見が、議論を深めるだけでなく、やがて多数意見に転化することを切望する。そうなってこそ、最高裁は「憲法の求める司法の役割」を果たしたと言えるのだから。
(2013年6月12日)
自民党日本国憲法改正草案の恐ろしさは、9条を改悪して外征可能な国防軍をつくろうということだけではない。国旗国歌・元号の強制によって「天皇を戴く国家となりかねない。また、「公益・公序」というマジックワードによって、あらゆる人権が制約可能となり国民の基本的人権を根こそぎ否定しかねない。このようなことは、既に多くの人に知られてきた。
私は、自民党憲法改正草案の恐ろしさの象徴として、草案21条2項を挙げたい。なかんずく、その条文の中の「目的」という言葉の恐ろしさを語りたい。まだあまり注目されていないことであるから。
表現の自由こそは、憲法条項のスーパースターだ。最も重要で、最も出番の多い、精神的自由権の中核条項。人権中の人権条項と言ってよい。日本国憲法21条第1項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と高らかに謳い上げる。そして、第2項で、「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と明確に定めている。これが、権力者には目障りでしょうがない。で、自民党改憲草案は、この条文の形を根底から変えてしまおうとする。
草案21条の第1項は現行日本国憲法第1項と同じ内容。検閲を禁止した現行の2項は同じ内容として、第3項に位置がずれる。そして、問題の「草案21条2項」が次のとおりに新設される。
「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」
これを意味の通る普通の文章に翻訳してみよう。
原則論としては一切の表現活動の自由が保障される。しかし、例外が二つある。まず、「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行うこと」これは認められない。さらに、「公益及び公の秩序を害することを目的として団体をつくること」これもダメ。同じ行為でも、公益・公序を害する目的があるかないかで雲泥の差となる。「目的アリ」と認定されたら禁圧できることになる。
この憲法が現実のものとなったら、活動規制・団体規制を具体化する法律が作られることになる。その法律の名称こそ、「新・治安維持法」と名付けるのにふさわしい。
1925(大正14)年に成立した元祖治安維持法の第1条は、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」というものである。
平仮名に訳せば、「国体を変革すること、または私有財産制度を否認することを目的として団体をつくれば処罰する。その団体に加入した者も同罪。最高刑は懲役10年」という。
「国体の変革」とは天皇制の打倒を意味する。「私有財産制度を否認」とは資本主義体制を変革しようということ。いずれも、共産党を念頭においた弾圧法規だった。
天皇制政府が制定した治安維持法の「国体ヲ変革」「私有財産制度ヲ否認」という目的規定が、自民党草案では、「公益及び公の秩序を害する」という目的規定に衣替えはされているものの、公益・公序の内容の理解次第で、治安維持法とまったく同じ弾圧法規となり得る。
その元祖・治安維持法は、1928(昭和3)年に緊急勅令で改悪され最高刑は死刑とされた。しかも、恐るべきことは、処罰の範囲がほぼ無制限に拡大されたことである。「目的遂行罪」といわれる犯罪類型の創設である。条文を抜き書きする。
第1条1項 「国体ヲ変革スル…結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」
同2項「私有財産制度ヲ否認スル…結社…ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」
これも、平仮名言葉に翻訳すれば、
「国体の変革という目的でつくられた団体の構成員であろうとなかろうと、その団体の目的遂行のためのための行為をした者は処罰する。法定刑は、懲役2年以上(15年以下)」
「私有財産制度を否認する目的でつくられた団体の場合も同様。こちらの法定刑は、やや軽く最高懲役10年(最低1か月)」
普通、犯罪構成要件中の「目的」は、犯罪類型を限定する機能をもつ。通貨にそっくりの物の製造行為があっても、行使の目的がなければ通貨偽造罪には当たらない。権限のない者が他人の名義を冒用した文書を作成しても行使の目的がなければ文書偽造罪は成立しない。ところが、「目的遂行ノ為ニスル行為」の無限定性・漠然性は、目的の2字になんの限定機能も発揮させなかった。むしろ、正反対に「目的」の認定次第で、弾圧可能とする事態を招いた。
治安維持法で起訴された被告人を弁護することは弁護士の正当な職務行為である。ところが、刑事被告人の弁護活動が、「国体を変革することを目的とする結社の目的遂行のためにする行為」と、「目的」認定次第で、弁護人が2年以上の有期懲役にあたる犯罪を犯したことになる。
現実に、刑事弁護活動が「違法な結社の目的遂行のためにする行為」とされて、多くの弁護士が治安維持法の目的遂行罪で逮捕、起訴され、有罪判決をうけている。「共産党員被告の弁護は、すなわち日本共産党の目的遂行のためにする行為」とされ、弁護活動の外形が同じでも、その目的の認定次第で起訴され有罪とされたのだ。恐るべき暗黒の時代であった。
さらに、である。次の一文をお読みいただきたい。
「岩田義道と小林多喜二の虐殺ののち、その労農葬の葬儀委員に加わり、またその葬儀に参加したことが、多くの弁護士にたいする有罪判決の理由にあげられている。判決の立場は、葬儀に出席して弔意を表するのはよいが、『死を利用し、党指導の下にいわゆる白色テロル反対闘争を通じ、党の影響を大衆の間に浸透する目的』で労農葬が挙行されることを知りながら、これに加わったのは『目的遂行行為』にあたる、というのである」(上田誠吉『昭和裁判史論ー治安維持法と法律家たち』)
自民党改憲草案21条2項は、この悪夢の時代を思い起こさせる。「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行うこと、公益及び公の秩序を害することを目的とした結社は、いずれも認められない」という。まさしく治安維持法の再来ではないか。外形においては同じことをしても、その目的が「公の秩序を害することにある」と認定されれば、アウトであり、逮捕・起訴が可能なのだ。
何度でも繰り返さねばならない。このような憲法改悪を許せば、「公の秩序を害することを目的とした活動」の処罰に道を開くことになる。まさしく「治安維持法」における目的遂行罪の悪夢の再来となる。日本共産党だけでない。野党として存在感を示すリベラルな政党も、労働組合も、市民団体も、宗教団体の活動にも弾圧が及ぶことになる。民衆に苛酷で、権力に便宜な世の再来を許してはならない。
********************************
『もし諸君が隣人を喜ばせようと思うなら』
以前うちの庭にニョッキリたけのこが生えてきたことがあった。隣家の孟宗竹がブロック塀の下を潜って侵入してきたのだ。早速引っ捕らえて、釜茹での刑にして、美味しくいただいてしまった。現在もその名残として、我が家の庭には細い竹が2本ほど生えている。「考えてみるがいい。隣の庭から、頑健そのもののようなキイチゴの地下茎の芽が、ロードデンドロンの真ん中にひょっこり姿を現したとしたら、そこに住む人はどうしたらいいのだ?キイチゴというものは、何メートルも地面の下をはうものだ。垣根であろうと、壁であろうと、塹壕であろうと、たとえ鉄条網をはったところで、立て札を立てたところで、これをさえぎることは不可能だ。
そのうちそいつが、諸君のナデシコやマツヨイグサの花壇の真ん中にニョキニョキ頭を出してくる。そうなると、手のほどこしようがない。・・・もし諸君が尊敬すべき、りっぱな園芸家であったら、庭の垣根のそばにキイチゴだとか、タデ類だとか、宿根性のヒマワリだとかいったような、いわば隣人の私有財産を足でふむような植物を、植えたりしないだろう。
もし諸君が隣人をよろこばせようと思うなら、垣根のそばにメロンを植えたまえ。むかし隣の庭から垣根のこっち側に、メロンが一つできたことがあった。ものすごく大きな、まるでエデンの園にできるような、記録破りのメロンだった。大勢ジャーナリストたちや作家たちが、いやそれどころか大学教授たちまで、これを見てびっくりしたものだ。こんな大きな果物が、どうして垣根の隙間を押しわけて、こっち側へはいってこられたのか、どう考えてもわからなかった。
そのうち、このメロンがすこし不作法に感じられはじめた。わたしたちは、罰に、そのメロンをもぎ取って、全部食べてしまった。」(「園芸家12ヶ月カレル・チャペック」)
(2013年6月11日)