参院選公示日の前夜である。この参院選が、もしや、憲法の命運を決める選挙となるかも知れない。明日も雨天の予報。重苦しさは拭えない。
前哨戦としての都議戦では、悲観の一面が大きかった。自公は確かに強さを見せた。アベノミクスの馬脚が露顕するまでは、この基本情勢に変化はないかと思われる。
他面、自公の政策に対決する受け皿として、共産党の存在が俄然注目されるようになった。これは貴重なことだと思う。いくつもの調査結果において、これまでなく無党派層の投票先が共産党になったと報告されいる。
大局的に国民の投票行動を見れば、次のようなことと言えるだろう。
2009年の総選挙が時代を画するものであった。それまで、自公政権の新自由主義的政策は格差を拡げ貧困を蔓延させた。安倍一次内閣の保守的姿勢にも国民の不安は募った。こうして、自公政権はジリ貧となり、自公政治にアンチテーゼを掲げた民主党が09年に政権を獲得した。ところが、その民主党は、経済・外交・雇傭・福祉・原発問題等々で国民への公約を裏切り、急速に信頼を失った。こうして、2012年12月総選挙で、民主は大敗し再び自公に政権を明け渡した。しかし、自公の勝利は、民主の大敗の裏返しでしかなく、09年の得票を上回る得票獲得はは成らなかった。09年の民主の大量票の多くが、棄権と「第3極」に流れた。
自民に欺され、民主に裏切られた、そう考える人々の多くは、「自民回帰」「第3極」「棄権」の3選択肢が意識された。総選挙までは。
その様子が変わって、都議選では共産党という新たな受け皿が、現実的な選択肢として意識されるようになった。理由はいろいろあろうが、政策が一貫し、明快で、しかもぶれないことが評価されてきたのだろう。
「共産党の理論や政策はもっとも筋が通っていてるが、投票しても当選しそうにない。死票にするのはもったいないから、アンチ自民で当選しそうな政党に投票する」という一群の投票行動があったと思う。
しかし、事態は変化してきた。そもそも、自公に対決する政治勢力の本流が共産党となったではないか。まともなアンチ自民勢力は共産党を措いてないに等しい状況ではないか。憲法・原発・福祉・雇傭・教育・格差貧困・経済・財政・外交・安全保障…、いかなる分野でも、自公対共産の対抗軸で政策が争われている。
共産党の政策はよいけど、投票はそれに近い中間政党に、という途中下車の必要はない。途中下車こそがもったいない。大切な一票を生かしきるためには、「第3極」や中間政党に途中下車することなく、目的地までのご乗車をお薦めする。そうでなくては、せっかくの乗車の甲斐もなくなる。
この1年、自民党の「日本国憲法改正草案」をサンドバッグのごとくに叩き続けてきた。保守政党から右翼政党に変身した自民党のホンネをさらけ出したものとして、突っ込みどころ満載。自民党とは何物であるのか、これ以上に雄弁に語るものはない。ようやくにして、その内容は多くの人々に知られるようになって、参院選の争点として恰好のターゲットとなるはずだった。
ところがどうだ。本日の「毎日」一面に、「自民、改憲草案見直しへ」「発議要件・表現の自由焦点」の見出し。記事の内容は「党内の不満が96条の改正にとどまらず、草案全般へ波及している」「参院選後に本格的な作業に着手する見通し」という。おいおい、サンドバッグを引っ込めようというのか。では、今回選挙では、改憲問題をどう訴えようというのか。
同紙2面の「憲法改正考/上」というコラムには「『野党・自民』草案右傾化」「党内に異論・不満も」という見出し。いったいなにゆえに、かような右寄り草案となったかの事情が書かれている。どうやら、下野した自民党が「政権奪還を目指し、選挙で保守層に呼びかける意図」からのものということのようだ。いずれにせよ、自民党のコアな支持層にフィットしようとすれば、このような古色蒼然たる右翼的改正草案の形とならざるを得ないのだ。
政権に復帰して、事情は変わったということらしい。「自民党中堅議員は『地元の支持者には自民党の改正草案を、最近、初めて知った、という人が多い。あまりに保守色が強すぎて評判はよくない』とこぼす」とのことで、そのような中堅層の意見を容れて保守色を薄めようというものらしい。とはいえ、具体的にどのような案になるのかは、今のところ見当もつかない。
さて、一面、批判は通じるものだという感慨を禁じ得ない。多くの人の声は、確実に政権政党にも届くものとなるのだ。政権政党とて、正論には耳を傾けざるを得ない。そのような小さな勝利感はもってもよかろうと思う。
他面、自民党の変わり身の早さに驚かざるを得ない。選挙に勝つためであれば、何でもやる。何でもありなのだ。選挙を目前に、上手に本心を隠そうという票遁の術。これに欺されてはならないと思う。
私は心から思う。この改憲草案は、記念碑的存在である。消し去るにはまことに惜しい。無形文化遺産として永遠に残しておくべきである。21世紀に入っての我が国の政権政党のホンネを語る資料として。また、その知的水準を示すものとして。
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『元防衛官僚の反省』
今話題になっている「検証 官邸のイラク戦争 元防衛官僚による批判と自省」(柳澤協二著 岩波書店)を読んだ。
著者は防衛審議官、防衛庁長官官房長を経て、02年に防衛研究所所長となり、04年から09年まで内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)を歴任した。「小泉、阿部、福田、麻生4代の総理に仕え、官邸の安全保障戦略を実施する立場で政権を支えてきた」人である。
「国際法的に乱暴とも見えるイラク戦争を支持し」たのはルール無視のイラク以外の国の思惑を放棄させるためであったという。ところが、その後イランも北朝鮮も、核戦争の野望を捨てないどころか、着々とその能力を高めている。「自分のやってきたことは意味があったのだろうか、との疑問がこの本を書いた動機」だと述べている。
以下要旨。
「そもそもイラク戦争は、『国際紛争を解決するための武力行使』として、日本国憲法によって禁止され、政府が一貫して否定してきた類いの戦争であった。それなのに同盟維持や防衛力強化を任務としていた自分たちは、『アメリカの真の同盟国』となりたいがために、不安を無視してイラク戦争への積極加担を選択してしまった。
しかしその後、日本を取り巻く東アジア情勢は劇的な変化を遂げている。世界はグローバル化し、軍事的な抑止より、技術、貿易、資源、金融、文化交流が紛争解決の有効な手段となっている。国家間の対立要因もイデオロギーではなく、歴史と伝統に根ざした多様なアイデンティティーに変わった。これを軍事的に解決するのは不可能で、相互の認識の違いを理解し、受け入れるしかない。アメリカはイラク戦争、アフガン侵攻をとおして、これを深く理解した。
アメリカは、今回の日中、日韓の領土問題に不介入のメッセージを送っている。アメリカは今後とも「日本を守る」抑止力を提供するだろうが、それは、アメリカの国益にかなう場合に、国益にかなうやり方で守るのであって、日本が守ってほしい場合に、日本が望むような方法で「守ってくれる」わけではない。
日米同盟は自由と民主主義という共通の価値観での結びつきとして、常にアメリカにすがりつこうとしても、とうてい通用しない。アメリカお任せではない、日本独自の国際秩序、安全保障の考え方をもたなければアメリカのお荷物になってしまう。」
全くもってその通り。国家の中枢からほど遠く、格別の情報に接する機会のない、私のような一市民だってずつと一貫してそう思ってきた。憲法違反の無駄なイラク戦争に莫大な税金を使うのは間違っている。日本を守ってくれるはずもないアメリカと、日本国憲法にそぐわない「日米安保条約」にいつまで引きずられていなければならないのか。そもそも自衛隊の存在自体が憲法違反ではないか。日本は軍事にお金を割く余裕はない。
著者はこの本の出版について「ともに政策を立案し、実行した上司、同僚は不愉快に感じられるかもしれない」と述べている。しかし、心配は無用。こうした考えに到達できて良かったねと祝福してくれる人の方が多いはずだ。だからこの本が話題になっているのだ。
惜しむらくは、著者が自衛隊と日米安保条約の存在自体の合理性や合憲性についてどう考えているのか、曖昧なままであることだ。この点については、先輩の教えであるという「自分なりの論理をつきつめること」に躊躇しているようにすら見える。
印象に残るのは、イラク戦争中に人質となった日本人に対して、「自らの良心に従ってイラク人救済の活動をしようとしていたことは否定できない。そういう国民をどう評価するかは、民主主義を標榜する国家の真価を問われる問題であった。『善意の日本国民に対するテロは許せない』というのが、政府の出すべき最初のメッセージでなければならなかったのだと思う」と自省していること。
あのときの「人質を救え官邸デモ」の緊張感を思い出しつつ、私たちのあのときの思いは、時を経て政府の中枢に位置する人にも伝わったのかと、感慨を新たにした。
(2013年7月2日)
7月になった。今年の元日にブログを再開して以来半年。間借りしていた日民協のホームページから独立して3か月。毎日更新を続けてきた。現実化しつつある「改憲の危機感」に駆られてのこと。自力で可能な抵抗の試みである。
このブログの設定も維持もまったく費用はかからない。だれにでもできる、社会への発信手段としてこれで十分だ。飾りもなく、衒いもない、シンプルなこのブログのスタイルは、だんだんと気に入っている。
「憲法日記」として、読むに値するものとなっているのでないだろうか。自分なりに快調に飛ばしているという思いがある。
まず、テーマに困ることはない。むしろ、ありすぎて困るほどだ。
「石川や浜の真砂は尽きるとも、世に憲法問題のタネは尽きまじ」なのだ。
そして、何でも書ける。だれにも、何の遠慮も要らない。精神衛生的には絶好調である。
一次情報に接する機会あれば、できるだけ提供するように心掛けている。二次情報をネタにしたものでも、その取扱いの切り口には自分らしさを出すようにしている。素人の感想文では読むに値しない。さりとて、研究者の論文では読ませるものとならない。読むに値し、読ませる内容で、継続したいと思っている。
しかし、問題はいくつかある。まず、長文に過ぎるという苦情がある。「文章の長さだけで、辟易する」「読んでもらいたければ短く収めること」そう言われるのが悩みのタネ。さて、どうするか。ここが思案のしどころである。
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ときどき、まったく知らないことを教えられて、「さすが記者」と感心することがある。その一例。6月28日の毎日・「金言」(金曜日の言)というコラムに西川恵編集委員が次のように指摘している。
「この半年、安倍晋三首相は精力的な首脳外交を展開しているが、目を引くのは外国訪問で「慰霊」を意識的に日程に組み込んでいると思われる点である。首相の日々を新聞で拾うと、13カ国のうち5力国で、無名戦士の墓や追悼記念碑に献花し、黙とうする儀式に臨んでいる」「米ワシントンのアーリントン墓地(2月)を皮切りに、露モスクワ(4月)、トルコ・アンカラ(5月)、ミャンマー・ヤンゴン(同)、ポーランド・ワルシャワ(6月16日)。これほど「慰霊」を行っている首相は過去いないのではないか」
この指摘は、同首相の靖国神社参拝の布石との疑念を生じさせる。「外国では当たり前のこと。我が国でも」と言う口実にもなるし、相互主義の名のもと、外国の首脳をともなっての靖国参拝を目論んでいるのではないかという「邪推」もせざるを得ない。
しかし、西川記者は次のエピソードを紹介している。
「西独(当時)を訪問したレーガン米大統領が、同国のコール首相の求めでルクセンブルクに近い国境の独軍将兵らの墓に詣でたことがある(85年)。ところが直前にナチス親衛隊員が合まれていることが分かり、米世論が反対し、米上下両院も墓参反対を決議した。同大統領はユダヤ人の強制収容所も訪問し、墓参も短縮してバランスをとった。こうしたリスクをとった外国首脳を私は他に知らない。」
つまりは、A級戦犯を合祀したままでは、外国首脳の靖国参拝は困難なのだ。「A級戦犯が合祀されている靖国神社への参拝は、過去の戦争の正当化だ」との批判に曝されることになり、「1978年、靖国神社がA級戦犯を合祀して以降、来日する外国首脳は議論の多い同神社に足を踏み入れるのを避けている」ことにならざるを得ない。
しかし、「安倍のリスク」は、経済ばかりではない。中・韓・米・英・蘭などとは異なる、我が国による戦争犯罪被害とは無縁の国の首脳をともなっての参拝の強行はありうるのではないか。また、安倍自身が外国での慰霊を積み重ねて、自国では戦没者慰霊をせぬことの不自然さを演出しようとしているのではないか。油断をすると、危険極まりないことになる。
西川記者は、ドイツの例などに倣って、日本でも、外国首脳が戦没者を慰霊する仮の場所を設けるべきと提案して、「慰霊の非対称解消を」唱道する。たとえば千鳥ヶ淵墓苑を、そのような「外国首脳が戦没者を慰霊する仮の場所」とする具体的な提案である。この提案が「靖国派」から大きな反発を受けることは必定だが、それだけではない。おそらくは「反靖国派」からも、疑問符を突きつけられることになろう。
靖国問題の本質は、A級戦犯合祀にあるのではない。靖国神社という宗教性にあるのですらない。国家が戦没者の魂の管理を独占するところにある、という考え方が広範にある。A級戦犯分祀によっても、靖国神社という宗教性の払拭によっても、国家の名による戦没者の魂の管理の独占がある限り、「靖国問題」の真の解決はない。
(2013年7月1日)
私は日本国憲法。日本国民を親として66年前に誕生し、国民に育まれて今日に至った。幸いにして、これまで身体髪膚の毀傷なく、親への不幸はない。
しかし、私は、必ずしも国民全てから等しく愛され慈しまれてきたわけではない。一部の人からは、蛇蝎のごとく嫌われ、公然と悪口を言われてもきた。そのことは私の宿命であり、私にとっては覚悟のこと。私のもっとも重要な役割は、一部の人の権力や富や権勢を抑制することにあるのだから、この世で権力や富や権勢に近い人ほど、私を疎ましいと思うことは当然なのだ。だから、私を嫌う人がいればこその私の存在価値である。だれからも等しく歓迎される私であっては、私が私でなくなってしまう。
私は、恒久の平和を宣言している。多くの国民は、これを歓迎している。だが、戦争を歓迎する国民もけっして少なくない。古来戦争は、一部の人に莫大な富をもたらした。過剰な権力欲や名誉欲をもつ者にとってはこの上ないチャンスである。激情に駆られた民衆が敵国への憎悪をたぎらせて戦争を支持したのはつい先頃のことだったではないか。いま、あからさまには戦争を欲すると言えない。「武力なくしては近隣諸国になめられる」「いざというときのために武力の備えをしておかねば外交もうまく行かない」という口実で、私は攻撃されている。
私は、なによりも個人の尊厳を重んじ、国民の人権を保障することを宣言している。これも多くの国民が歓迎しているところだが、「個人よりは国家」「自由よりも秩序」を重んじるべきだ、と叫ぶ人もけっして少なくはない。「権利を主張するばかりで義務を重んじないことが怪しからん」、と私は攻撃を受けている。
天皇を軽んじすぎる。日本の歴史・文化・伝統に配慮が足りない。家族の価値を軽視している。自助努力を重視せよ。憲法改正の要件が厳格に過ぎる。‥いくつもの批判や非難がなされている。批判や非難を自由に言えることは、私が認めていること。存分に、私が保障する表現の自由を享受していただきたい。
とはいうものの、その私も選挙の度に考えこむ。長く、この国で政権を取ってきた自民党という政党は、私を嫌う勢力の中心に位置する。結党以来一貫して「自主憲法制定」を党是としてきた。私自身が定める憲法改正手続によってではなく、私とは無関係のまったく別の新たな憲法を作ろうというのだ。2010年の新綱領でも、憲法改正ではなく「新憲法の制定」が目標として謳われている。そして昨年、この政党は到底私が容認し得ない、「憲法改正草案」を公表している。この政権政党が両議院において3分の2を超えることになったら、私の運命はどうなるのだろうか。
私は、多元的な価値を容認する立ち場で一貫している。その立ち場こそが、人類の叡智が到達した普遍性をもつ公理であると宣言している。しかし、この普遍性を攻撃する立ち場から私にレッドカードを突きつけられるようになったら、これは大事件だ。取り返しのつかないことになる。
かつて、私を大切に思う国民の意思は、国会内に、日本社会党を中心とした「3分の1の壁」を築いた。そのためもあって、自民党も本格的な改憲の動きに出ることは長くあきらめていた。ところが、今、その壁はあとかたもない。そして、自民党も変わった。なによりも、私を邪魔にし、私を追い落とそうと執念を燃やす人物を総裁とし、首相としたのだ。その名を安倍晋三という。
いつの選挙も重要である。重要でない国政選挙などあろうはずもない。しかし、7月4日公示21日投票の今回参院選は、私の運命を占う意味で、格別の重要性をもつものとなっている。昨年12月16日総選挙の結果、衆議院は既に自民党が294議席を獲得し、連立政権を組む友党公明と併せて325議席となった。この2党で、3分の2(320議席)を超えている。それだけではない。維新という極右政党が54議席をもっている。公明を上回る勢力だ。みんなの党という積極改憲派も、18議席。このような、衆院の改憲派優勢下での参院選なのだ。私の心配も杞憂でないことがお分かりいただけよう。
価値中立であるはずの私が選挙を語ることはおかしい。そう、自分ながら思わないわけではない。しかし、既に緊急事態である。私にも「自衛権」「正当防衛権」を認めていただきたい。人権や、民主々義や、平和を大切にする人々に訴えたい。私の退場を求める自民党とその同盟者には投票を差し控えていただきたい。維新や、「みんな」という明確な改憲諸党にもである。
投票前には、是非とも各党の憲法政策をよくお読みいただきたい。改憲阻止・憲法擁護を明確にしている政党への投票をお願いしたい。民主党は明確な改憲政党ではないが、しっかりした改憲阻止政党でもない。かつては論憲を言い、創憲とも言った。今は「未来志向の憲法を構想する」と言っており、その中身は不明確である。
自民党の改憲主張と対極をなすのが日本共産党である。憲法論争も、自共対決となっている。現行憲法のあらゆる条項を厳格に守るとの姿勢において、共産党の態度は揺るぎなく一貫している。私を守るのか、換えてしまうのか。政党レベルでは、共産党と自民党が、太い対決軸をつくっている。自民の改憲策動が本格化すれば、対抗関係にある共産党の議席が伸びる、得票数が伸びる、選挙結果がこのようになれば、改憲の策動に大きなブレーキがかかることになる。はからずも、現時点では、私の命運は共産党の消長とともにある。
日本共産党が、唯物弁証法の哲学を持つとか、コミュニズムの未来社会を構想しているとか、そのようなことへの賛否はさて措いてよい。私は、私の命運を懸けて、改憲阻止の一点で、信頼に値する共産党の健闘に期待したい。
(2013年6月30日)
けんぽうってなにかな。
ぼくは、かんがえたよ。
いばるひとがいない。
えらい人もいない。
みんながのびのび、
そしてげんき。
たんぼはみどりで、
みなとには、フェリーがとまっていて、
たのしくはたらいて
おなかがいっぱい。
たすけあって、
こどももえがお。
おとなもえがお。
ねこもわらう。
やぎがのんびりあるいてる。
はんげしょうがあめにひかって、
うみには、かめやかじきがおよいでる。
やさしいこころがにじになる。
けんぽうっていいね。
けんぽうってうれしいね。
どこのくにともなかよし。
せんそうはしない。
せんそうは、おそろしい。
「ドドーン、ドカーン。」
ばくだんがおちてくるこわいおと。
おなかがすいて、くるしむこども。
かぞくがしんでしまってなくひとたち。
ああ、ぼくは、
このけんぽうがあって、
けっしてせんそうをしない、
このくににうまれてほんとうによかったよ。
このけんぽうが、ずっとつづいてほしい。
みんなのえがおがずっと、つづいてほしい。
けんぽうがかがやくぼくのまち、
けんぽうがかがやくこのくに。
けんぽうってすてきだね。
これからもずっと、
いまのけんぽうがつづくように。
ぼくも、ぼくのできることからがんばるよ。
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『ハンゲショウ(半夏生)』
半夏生は72候の一つ、夏至から11日目。ちょうど今頃にあたる。
同じ名前をつけられた、ドクダミ科の植物がある。細いひものような蕾が茎のてっぺんのほうにつく。そうすると不思議なことに、その花茎の下から出る葉っぱの基部から半分くらいが真っ白に変わる。暗い梅雨のせいで、この時期に一段と目を引く。これが「半化粧(ハンゲショウ)」の名の由来であろう。「片白草(カタシログサ)」の別名もある。
細いひもの回りにこびりついた芥子粒のように、薄黄色に咲く花は目立たないけれど、大きな白い花弁のような葉っぱが受粉を助けてくれる昆虫を引きつける。ドクダミの仲間だけあって、繁殖力は旺盛で、ほかの植物を押しのけて、湿った日陰を占拠する。春先出てくる、親指ほどの太さの新芽は、おひたしにでもしたら美味しそうな感じがするが、独特の強い臭気にひるんでまだ食べたことはない。
花が咲く頃、葉っぱが白くなるのは「マタタビ」も同じ。夏に近くの山はだを見ていると、白い花が咲いているように見えるのが、白変したマタタビの葉っぱ。その場所を良く覚えておけば、晩秋に実を収穫できる。果実酒に作ったり、猫に喜ばれたりする。
ハンゲショウもマタタビも実が結ぶと、葉っぱはもとの緑色に戻って、魅力的な白さは影も形もなくなる。こんな変わり身の、人とか政党とか、思いあたりませんか? 気をつけましょうね。
またまた、都教委の暴挙。私は怒りが治まらない。
昨日(6月27日)の都教委定例会は、下記の議決を採択した。少し長いが、全文をお読みいただきたい。これが、「委員の総意の下の議決」と発表されている。傍聴者の報告では、司会者の木村孟委員長を除いて、誰の発言もないままの議決だったとのこと。
標題「平成26年度使用都立高等学校(都立中等教育学校の後期課程及び都立特別支援学校の高等部を含む。)用教科書についての見解」
本文「都教育委員会は、各学校において、最も有益かつ適切な教科書が使用されるようにしなければならない責任を有しており、教科書の採択に当たっては、採択権者である都教育委員会がその責任と権限において適正かつ公正に行う必要がある。
平成26年度使用高等学校用教科書のうち、実教出版株式会社の「高校日本史A(日A302)」及び「高校日本史B(日B304)」に、「国旗・国歌法をめぐっては、日の丸・君が代がアジアに対する侵略戦争ではたした役割とともに、思想・良心の自由、とりわけ内心の自由をどう保障するかが議論となった。政府は、この法律によって国民に国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし一部の自治体で公務員への強制の動きがある。」という記述がある。
平成24年1月16日の最高裁判決で、国歌斉唱時の起立斉唱等を教員に求めた校長の職務命令が合憲であると認められたことを踏まえ、都教育委員会は、平成24年1月24日の教育委員会臨時会において、都教育委員会の考え方を、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」(別添資料)にまとめ、委員総意の下、議決したところである。
上記教科書の記述のうち、「一部の自治体で公務員への強制の動きがある。」は、「入学式、卒業式等においては、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導することが、学習指導要領に示されており、このことを適正に実施することは、児童・生徒の模範となるべき教員の責務である。」とする都教育委員会の考え方と異なるものである。
都教育委員会は、今後とも、学習指導要領に基づき、各学校の入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱が適正に実施されるよう、万全を期していくこととしており、こうした中にあって、実教出版株式会社の教科書「高校日本史A(日A302)」及び「高校日本史B(日B304)」を都立高等学校(都立中等教育学校の後期課程及び都立特別支援学校の高等部を含む。以下「都立高等学校等」とする。)において使用することは適切ではないと考える。
都教育委員会は、この見解を都立高等学校等に十分周知していく。
都教育委員会は、委員総意の下、以上のことを確認した。
平成25年6月27日 東京都教育委員会」
要するに、実教出版教科書の「日の丸・君が代強制」に関する記述が気に食わないから、都立校では使用させないというのだ。なんという、「日の丸・君が代強制」問題へのこだわりようだろうか。なんという、思い上がった非民主的な権力体質。これでは日本国憲法下での教育を語る資格はない。国定教科書時代の教育への逆戻りではないか。「人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有する」という教育委員の要件が泣いている。
いうまでもなく、実教出版の教科書は検定を合格している。しかも教科書調査官の修正意見に応じてのこと。
「実教出版の日本史Aには11年度の検定で『政府は国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし現実はそうなっていない』との記述に文部科学省の意見がつき、後半を『公務員への強制の動き』などと書き換えて合格。文科省によると、日本史Aの全国シェアは約14%という。」(毎日)
もう一度、都教委が不適切とした記述をお読みいただこう。
「国旗・国歌法をめぐっては、日の丸・君が代がアジアに対する侵略戦争ではたした役割とともに、思想・良心の自由、とりわけ内心の自由をどう保障するかが議論となった。政府は、この法律によって国民に国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし一部の自治体で公務員への強制の動きがある。」
まずは、この記述の正確さを確認しよう。資料にあたるまでもなく、誰が読んでもその正確性は明白だ。国会の審議経過がこのとおりであることも、「一部の自治体」が東京都や大阪府を指していることも自明のこと。
ところが、「都教委幹部は、『公務員への強制』という表現は明らかに間違っており採用するわけにはいかない、と話している」というのが毎日の報道。いったい、この教科書のどこに間違いがあるというのか。どんな不正確があるというのか。言えるものなら、具体的に言ってみろ。さすがの文科省検定調査官さえ、これ以上は一字一句文句の付けようもないとして、検定合格とした記述だ。
都教委の10・23通達と、それに基づく各校長の起立・斉唱・伴奏の職務命令、そしてこれに従わないとしての苛酷な懲戒処分、これを『公務員への強制』と言わずして何というのだ。東京都だけで、懲戒処分件数は450件に達している。「強制は間違い」という都教委幹部の言は、嘘も甚だしい。恥を知れ。
もっとも、この教科書の記載が正確なことは、実は都教委もよく知っている。正確な記述であればこそ、骨身に沁みて痛い。痛いからこそ、教科書として使われることを拒絶したのだ。
先に見たとおり、都教委の決議は教科書を排斥する理由を「都教育委員会の考え方と異なるものである。」と明言している。つまりは、都教委には、特定の考え方がある。この考えとは異なる教科書の使用は不適切である。たとえ検定に合格した教科書でも都教委の考え方と異なるものは認めない、というのである。これでは、子どもたちの真実を知る道を閉ざすことになる。
公権力が特定のイデオロギーをもってはならない。特定の考え方を押しつけてはならない。だから、国定教科書がなくなった。にもかかわらず、都教育委員会の考え方と異なるものであることを理由に特定の教科書排除を広言していることに驚かざるを得ない。これを国定教科書時代への逆戻りというのだ。こんな代物が「委員の総意の下の議決」とされている。民主々義のイロハも弁えぬ教育委員諸氏よ、恥を知れ。
なお、前掲議決中に引用されている「平成24年1月24日の教育委員会臨時会議決」とは、同月16日の最高裁判決に動転した都教委が急遽臨時会を開いて校長らの動揺を鎮めようとしたもの。
「国歌斉唱時の起立斉唱等を教員に求めた校長の職務命令が合憲であることは、平成24年1月16日の最高裁判決でも改めて認められたところである。都教育委員会は、この最高裁判決の趣旨を踏まえつつ、一人一人の教員が、教育における国旗掲揚及び国歌斉唱の意義と教育者としての責務を認識し、学習指導要領に基づき、各学校の入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱が適正に実施されるよう、万全を期していく」という内容。
この1・16最高裁判決は二面性を持っている。その一面は、10・23通達とこれに基づく起立・斉唱等の職務命令を違憲とまでは判断しなかった。この点は、教員側に不満の残るところである。しかし、同判決は都教委を厳しく指弾するもう一面を有している。すなわち、「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する行為や君が代の伴奏をする行為」が、客観的に国家に対して敬意を表明する行為であることを認め、その行為の強制が命じられた教員の思想・良心を侵害する側面をもつことを明瞭に認めた。そのうえで、懲戒処分のうちもっとも軽い戒告は、実害のないものとして処分有効であるが、減給・停職など実害を伴うものについては、これを処分違法として取り消したのである。
以前にもこのブログに書いたが、懲戒処分は、軽い方から戒告・減給・停職そして極刑としての免職まで4段階ある。1・16判決以前には、都教委は処分量定を累積加重の取扱いとしていた。初回の不起立で直ちに戒告、2回目は減給(10分の1)1か月、3回目は減給6か月、4回目となると停職1か月、5回目停職3か月、6回目停職6か月。そして、おそらく7回目は免職を予定していた。
われわれは、都教委が発明したこの累積加重の処分方式を、「思想転向強要システム」と名付けた。信仰者には「背教強要システム」でもある。不起立・不斉唱は思想・良心に基づく行為である以上、思想や良心を都教委の望む方向に変えない限り、処分は際限なく重くなり最後には教壇から追われることになるのだ。
行政に大甘の最高裁も、さすがにこれはひどいと思ってくれた。1・16最高裁判決は、都教委の「思想転向強要システム」「背教強要システム」を断罪した点で、都教委には痛恨の判決であったのだ。しかも、補足意見に見るべきものがある。都教委をたしなめ、強制を排して現場を正常化せよとの裁判官の肉声が聞こえる。
このような自らに不都合な判決内容はことさらに無視して、あたかも都教委の暴走を最高裁が容認したかのごとく描き出す、その破廉恥な態度も不愉快極まる。もう一度、申し上げよう。東京都教育委員の諸氏よ、恥を知りたまえ。
(2013年6月28日)
アメリカには1996年成立の「婚姻防衛法」(Defense of Marriage Act)という連邦法がある。同性婚を認めがたいとする保守派の運動で成立した法律。
「連邦政府は、婚姻を専らひとりの男性とひとりの女性の間に結ばれた法的結合と定義する。」という内容。仮に、ある州が同性婚を認めたとしても、婚姻防衛法によって連邦レベルでは婚姻の効果を認められない。他の州も、「同性間の関係を婚姻として扱う必要はない」という。そのため、「州法に基づいて適法に結婚した同性カップルも、国の様々な法律では婚姻関係にあると認められず、配偶者としてビザの発給や税金の控除などを受けることができなかった。」(朝日)という。
昨26日、米連邦最高裁は、この「婚姻防衛法」を違憲とする判決を言い渡した。9人の裁判官の意見の分布は5対4。違憲判決により、米の各州法で認められた同性婚は異性間の婚姻と同じ扱いになる。
この判決のニュースに接して、いくつかのことを考えさせられる。
まずは、文明諸国での同性婚合法化の趨勢への感慨である。ヨーロッパに比較して、やや遅れたとの印象のあるアメリカだが、既に12州とワシントン首都区で、同性婚が認められている、という。今回の判決はこれに弾みを付けることになろう。
この判決は同性愛者から歓呼をもって歓迎されたと報じられているが、歓迎すべきは、同性愛者に限らない。マイノリティの権利擁護に関心を持つ全ての人にとっての朗報である。問題の本質は、価値多元主義にある。すべての人が、他の人の生き方の多様性を相互に認めあうことこそが尊重すべき根源的価値なのだ。そのことは、必然的に少数者の生き方に寛容であることと同義となる。世の圧倒的多数は、異性との結婚を望み異性間で婚姻して、子を生み育てることを幸福とする価値観をもっている。しかし、少数とはいえ、同性をパートナーとして共に人生を過ごそうとする人が存在するならば、そのような人の価値観を尊重して、そのような生き方を容認する制度を整えるのが成熟した社会のあり方なのだ。少数者が生き易い寛容な社会は、すべての人にとって生き易い社会なのだから。アメリカは、そのような原理を持つ社会であることを、今回の判決で宣言したといえよう。
二つめは、米連邦最高裁の積極主義である。
司法の役割について、消極主義を良しとする考え方もある。裁判官は民意を反映してその職にある者ではない。選挙の洗礼を受けて成立した議会や、大統領府あるいは内閣こそが、尊重すべき民意にもとづいて成立した機関である。民主々義の原則からは、司法は議会や行政府の判断を可能な限り尊重すべきで、軽々に違憲判断をすべきではないというのである。
その視点から見れば、今回の婚姻防衛法違憲判決は「わずか5人の判事が、下院435人、上院100人の決議を覆した」、「しかも、上下両院の議員は2億を超える有権者によって信任を受けた選良ではないか」と批判されよう。
しかし、議会や行政府は、時の多数派によって形成される。民主々義制度においては、多数派が権力となる。その立法や行政行為は、往々にして多数派の非寛容がもたらす少数者への抑圧となりかねない。権力による人権侵害が、民主々義の名において行われる。選挙による多数派形成の傲りこそが、もっとも危険な人権侵害を招くものと自戒されなければならない。
したがって、司法消極主義とは違憲審査権の行使に臆病なだけのことで、実は司法の職責の放棄であり、少数者の人権が侵害されていることの見殺しでしかない。米連邦最高裁は果敢に、よくぞその職責を果たしたというべきなのだ。
そして、三つめ。さて、この判決、日本でも通用するだろうか。連邦制の問題や日本の最高裁の司法消極主義の問題は措くとして、日本国憲法は同性婚を認めるだろうか。
判決書(訳文)を読んでいるわけではないので、報じられている限りだが、「婚姻防衛法」違憲の根拠は、連邦憲法修正14条の平等条項だという。かつて公民権運動を支えた法の下の平等である。同性婚を異性間婚姻と平等に遇しないことを憲法上の平等原則に反すると断定したのだ。人の異性間の愛情を婚姻という制度として認めるのであれば、同性間の愛情も平等に認めるべきが憲法の要請ということなのだ。
それなら、日本国憲法でも同様の結論を出せるのではないか。異性婚のみを認め、同性婚を認めないことを、14条の平等原則条項における「性別による不合理な差別」としてよいのではないか。同性愛者差別にもとづく制度を違憲とする立ち場である。憲法13条の自己決定権も有力な根拠となりえよう。
問題は、憲法24条が「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し」としていることとの整合性である。最も信頼に足りる、最近の教科書をひもといてみると、次のような記載がある。
「家族を形成する権利
憲法24条の規定は従来,旧来の家制度の解体と男女の家庭生活における平等に関する側面が注目されていた。しかし,家族のあり方が急激に多様化しつつある現在において,改めてこの規定を家族を形成する権利の一般法的規定と読み直す必要がある。例えば,生殖(reproduction)の自由は,自分の子孫をどのように考え,家族をどのように形成するかの問題と捉えることができる。この自由は,従来13条で規定された幸福追求権の一端を構成する自己決定権の一内容として考えられてきた。しかし,むしろ家族を形成する権利として24条の中の『家族に関するその他の事項』の問題として考えるべきである。」(「憲法(第2版)」渋谷秀樹・2013年3月30日発行)
なるほど、憲法24条は「急激に多様化しつつある家族について、自己の価値観に基づく形態の家族を形成する権利」の根拠条文と読め、という示唆である。これなら、改憲を待つことなく、同性婚を異性婚と同等に認める制度設計が可能といえよう。
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「擬宝珠(ギボウシ)」と「ホスタ」
同じ植物の呼び名である。地下茎で殖える多年生植物。東アジアに自生。長い葉柄をもった根生葉(長い柄のおしゃもじを立てたように地際からでる葉)がでる。地味な植物だけれども、植物好きには人気がある。梅雨の時期に長い花茎を立てて、その回りに下向きの花(総状花序)をたくさんつける。ふっくりとした花は筒状で、先が6裂している。白や薄青や濃い紫の花は短命で、一日花。けれども下から上にだんだんに咲き上がっていくので、長い間楽しめる。タマノカンザシの白い花は上品な芳香までもっている。
この植物の魅力は花というより、長い茎の上についたハート型の葉っぱだ。径3センチメートルの小さなものから30センチメートルの大きなものまである。明るい黄色から緑、青、いぶし銀と色とりどりだ。そこに白や黄色で、覆輪、縞、斑入りなどの紋様が入るものもある。雑種ができやすいので、ありとあらゆる変種が作出されている。
春の芽出しが美しく、とんがった芽がだんだんにほぐれて、巻いた葉が開いていくのは神秘的だ。オオバギボウシの若葉は「ウルイ」と名付けられて、山菜として流通する。おひたし、和え物、煮物、てんぷら、くせがなくてとてもおいしい。春からのプレゼントだ。
「擬宝珠」とよべば、江戸時代のご隠居さんが、鉢植え、苔造りなどに作って、棚に飾って楽しんだイメージが浮かぶ。
「ホスタ」とよべば、欧米の広い庭の木陰に植えられたたっぷりとした大型株が浮かんでくる。ホスタはシェードガーデンのカラーリーフとして最適だ、などと言ってみたくなる。
同じものでも、呼び名を変えると違うもののように思える。
『クチナシとガーデニア』
「クチナシ」は花が一重のプロペラのように小さく控えめで、「和」のテイストだ。おちょぼ口のようなオレンジ色の実ができたら、お正月の栗きんとんの色づけに使おうと思う。
「ガーデニア」と呼べば、西洋の歌姫の髪飾りか、たっぷりした胸元の花飾りにしたい。むせるような香りは、深い甘い夢の中をさまようようだ。
『アジサイとハイドランジア』
「アジサイ」ならシトシトと降る雨に濡れて、小暗い木陰にひっそりと咲く青い花だ。
「ハイドランジア」は豪華で色鮮やかにパーティを飾る大型の花。どんなに着飾ったご婦人方にも見劣りはしない。
『ツツジとアザレア』
「ツツジ」は小さいけれどきりりと咲く。これがなくては築山の庭とはいえない。
「アザレア」はフリルいっぱいの衣装を着けた踊り子のようだ。冬の暖かくした室内でしか元気が出ない。
『椿とカメリア』
「椿」は絣の着物を裾短に着た田舎娘だ。赤い5弁の花は陰日向なく、わき出るように次々咲いて、うるさいおしゃべりに余念がない。
「カメリア」は隙間なく全身飾り立てた西洋の貴婦人だ。数え切れない大きくて重い花びらは果てしない倦怠の渦。
(2013年6月27日)
昨日(6月25日)の東京新聞トップ記事が、「都教委事務局、市民の声選別」「請願6割報告せず」「教育委員会に 君が代斉唱など」というもの。社会面に関連記事があって、「教育委員は裸の王様」と大きな見出が躍っている。
要するに、都の教育委員に耳を傾けていもらいたいという都民からの請願を、請願の内容によって事務局が選別しているというのだ。事務局にとって都合のよいものは教育委員に伝える。しかし、事務局が不都合と判断したものはシャットアウト。日の丸・君が代強制が教育現場をいかに萎縮させ混乱させているかを訴え、その是正を求める、「10・23通達」関連の請願などは全てシャットアウト。「憲法で保障された請願権を、公務員が侵害している」という都民の声を肯定的に伝えている。
東京新聞の解説は、教育委員会について、「事務局の追認機関になっているとの批判があり、国の教育再生実行会議は見直しを提言している。しかし肝心の委員に都民の声が十分届かない実態に『それが形骸化を生む』との声も出る。」と正論を述べている。
私も、都教委には何度も足を運んだ。卒業式・入学式を目前にした時期には、日の丸・君が代強制をせぬよう事前の申し入れをし、関連事件での主要な判決が言い渡される度に判決内容を説明して都教委の暴走を抑制するよう要請を続けてきた。その申し入れのすべてが、事務局で握りつぶされ、教育委員に届くことはなかったのだ。
古今を通じて、情報を握ることが権力を操ることである。東京新聞の報道は、教育委員は、事務局の情報操作によって「裸の王様」になっている、という。「王様」はおこがましかろう。今のままでは、「裸のピエロ」程度であろうか。
裸のピエロ諸君、新聞くらいは読んでいいるだろう。自分の職務に関連したトップ記事が目にとまらぬはずはあるまい。君たちは、この記事を目にして、いったいどうするのだ。君たちにプライドはあるか。君たちは怒らないのか。いつまでも「裸のピエロ」、せいぜいが「裸の王様」と呼ばれることに甘んじるつもりなのか。記者会見をひらいて、事務局に操られていた怒りを明らかにするくらいのことはしてはどうか。共同で、操られ拒否宣言を公にすることはいかがか。日の丸・君が代強制問題について請願を握りつぶされてきた私たちと直接に話し合う機会を設ける気持はないのか。
少し、経過を説明しよう。
1999年4月、「日の丸・君が代」大好きな石原慎太郎というトンデモ男が東京都の知事になった。自分の部屋を満艦飾に日の丸で飾り、毎日大好きな君が代を一人で歌うだけなら罪がない。彼は、それだけでは満足せず、せっかくつかんだ知事の権力を振るって東京中の子どもたちに「日の丸・君が代」大好き趣味を押し付けようと考えた。さらに、東京から始めて日本中の子どもたちに日の丸・君が代を刷り込もうと考えた。そのためには、東京中の学校の先生に職務命令書を交付して、懲戒処分で脅して「日の丸に向かって起立し、国歌を斉唱する」ことを強制しよう、と思いついた。
彼がこのアイデアを思いついても、すぐには日の丸・君が代強制を実行することはできなかった。それは、教育委員会制度が邪魔をしたから。教育行政の権限は、知事から独立した教育委員会にある。民主的手続によって選任された知事や市長が、真に民主的であるとは限らない。石原慎太郎や橋下徹が好例である。トンデモ知事の思いつきから教育を擁護するために、クッションとしての教育委員会があるのだ。東京新聞の解説が、「戦前の軍国教育の反省から、今の教育委員会制度は、外部の教育委員が、中立的な立場から事務局を指揮監督する仕組みとなっている。」というとおりである。
日の丸・君が代強制の実行には、教育委員人事を握らなければならない。そこで彼は、自分と趣味を同じくする、気心の知れた極右の人物を東京都の教育委員に選任した。本来教育委員とは、「人格が高潔で、教育、学術及び文化(以下単に「教育」という。)に関し識見を有するもの」のうちから「地方公共団体の長が、議会の同意を得て、任命する。」(地教行法4条)ことになっている。
しかし、人格高潔や教育への識見などはどうでもよい。日の丸・君が代強制に蛮勇をふるう気心知れた人物を委員としたい。まず、一橋大学商学部の同期生で、日の丸・君が代の強制に従わない教員を癌細胞に例えて有名になった鳥海厳である。また、日の丸・君が代強制のために天皇を利用しようとして、天皇からたしなめられたことで有名になった棋士・米長邦雄である。さらに、教育にも憲法にも無知ながら蛮勇だけを見込まれて抜擢された教育長の横山洋吉である。
こんな取り巻きで教育委員会を固めて、2003年10月23日の「10・23通達」以来、石原教育行政の暴走が続き、教育現場は萎縮し混乱が続いている。あの、行政に大甘の最高裁でさえも、判決において都教委の暴走を掣肘し戒めている。
10・23通達から間もなく10年、知事も代わった。都教委のメンバーも代わった。いつまでも、トンデモ男のアナクロニズムを墨守することが能ではあるまい。教育委員諸君、まずは、操り人形であることを拒否せよ。情報の全てを要求したまえ。少なくとも、請願や要請の類には目を通すようにしていただきたい。そして、自分の頭でよく考えてものごとを判断していただきたい。
以前にも私のブログに書いたが、できれば日の丸・君が代関連の最高裁判決の代表的なものには目を通していただきたい。けっして長文のものではない。法律論はともかく、最高裁が都教委の強引な手法を教育の場にふさわしいものではないと憂慮していることを読み取っていただきたい。
判決文を読んでいただきたいという要求が無理なら、日の丸・君が代強制事件の原告団・弁護団の要請書には、簡潔で正確な要約が記載されている。それには目を通していただきたい。都税から報酬を得ている諸君に、そのくらいの要求をしても良かろう。けっして、諸君に「高潔な人格」や「教育に関する識見」などは要求しない。しかし、諸君が裸のピエロに甘んじるのでは困る。都民一般の水準で、日の丸・君が代の強制ということの意味を真剣にお考えいただきたい。常識的な市民感覚で、今行われているような日の丸・君が代の強制が、はたして教育の場にふさわしいものであるかどうか、よくよくお考えいただきたい。
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『政治家「大串博志」の言い訳ブログ』昨日の続き
大串氏は25日のブログで、毎日新聞に対して「『記事の見出し』は大変ミスリーディングなものだと強く抗議した」と述べている。そして、昨年9月のアメリカ出張では、米国政府へ「安全性の確認された原子炉は再稼働する」「核燃料サイクル政策については見直すとかやめるとかいう決定をするのではなく継続する」「その上で2030年代に原発ゼロとできるよう」にするという説明をしたのだと釈明している。しかし、この釈明ブログをどう読んでも、「プルサーマル、米に約束」という毎日新聞の記事のタイトルが「ミスリーディング」ということには無理がある。「原発再稼働反対、核燃料サイクル政策見直せ」という国内の、地元の多くの声を無視して、プルサーマル実施をアメリカに約束してきたのは明らかではないか。
毎日新聞の「大串・ポネマン会談」要約によると、ポネマン副長官に「六ヶ所は稼働し続けて、プルトニウムが分離される一方、原発がゼロになるのであれば、プルトニウムが蓄積されて、軍事転用が可能な状況になる」と詰められて、大串氏は「プルトニウムを軽水炉で燃やす計画(プルサーマル)は今後も維持する」と答えざるをえなかった様子がよく解る。
今までにMOX燃料を燃すプルサーマルを実施した原発は、福島第一3号機(現在メルトダウンして、中のプルトニウムがどんな恐ろしい状態になっているかは皆目わかっていない)、高浜3号機(関西電力、6月27日フランスからMOX燃料が到着することになっている)、伊方3号機(四国電力) 、玄海3号機(九州電力)の4機である。
新しい原子力規制基準が7月に施行されるのを待って、再稼働申請が予定されている原発のうち、泊3号機、高浜3,4号機、伊方3号機、玄海3号機など大部分の原発はプルサーマル発電をする計画がある。
MOX燃料は格段に危険なものだ。それを燃した使用済みMOX燃料の受け入れ先はない。だからプルトニウムまみれの使用済みMOX燃料は敷地内にいつまでも置いたままになる。再稼働をはじめるには地元の同意が必要だといわれているが、これらの事実を知れば、「プルサーマル発電」を受け入れる地元など有るはずがない。
大串氏の選挙区は、休止する前までプルサーマル発電をしていた玄海原発3号機から30キロメートル圏にある。自分の選挙区民にこの事実を詳細に説明する義務がある。
「特に毎日佐賀版にあるように、プルサーマル原子炉として特定される、ある特定の原子炉の再開を約束したということはありません。繰り返しになりますが、再稼働については、厳格な安全性の確認された原子炉については再稼働するという原則であって、それ以上でもそれ以下でもありません。ましていわんや『プルサーマル』として特定される原子炉の再稼働を約束するなどということはありませんでした」とくどくど言い訳をしているのも見苦しい。まったく反論になっていない。
プルサーマル再開の密約は、停止中の原子炉再稼動の約束でもあり、核燃サイクル継続の約束でもある。そのことを考え併せると、新しい原子力規制基準とは、結局は再稼動容認基準といわざるを得ず、あるいは新炉建設許可基準であるとも言えよう。この5月、経済産業省は「新規制基準は厳しく、古い原発の再稼働は難しい」「原発の新増設は法的に可能。新しい原発は既存の原発と較べ安全性が高い。事業者も既に相当額の投資を行っている」という内部文書を政府に提出済みだという。
安倍自民党政権のために、民主党野田政権の大串政務官が敷いたレールはりっぱに役に立っている。レールは前へ前へ継ぎ足され、破滅の崖へ向かって突き進んでいる。
後先も考えず有頂天になって取り返しのつかないことをして、無責任にあとで言い訳するような政治家にはうんざりだ。
(2013年6月26日)
弁護士の澤藤です。
新大久保のヘイトスピーチ・デモ参加者が暴走して、ヘイトスピーチを止めるよう説得・抗議活動を行っていた方に対して起こした傷害・暴行事件の告訴に関して、梓澤和幸弁護士から詳細な背景事情や意義の説明がありました。私から、若干の補充をいたします。
この事件について、2人の告訴人代理人として名乗りを上げた弁護士は150人を超えます。いずれもヘイトスピーチの被害者の側に立つべく旗幟を鮮明にしています。
その皆が、表現の自由をこの上なく大切に思う立場の者ばかりです。けっして公権力による言論規制を望むものではない。しかし、表現の自由とは、本来公権力や社会的強者を批判する言論の自由を保障するもの。表現の自由の美名に隠れて、弱者の基本権を侵害する自由が認められてよいわけがない。とりわけ人種差別発言や民族差別発言で、マイノリティを貶めることは到底許し難い。
さりとて、人種差別や民族差別が純粋に言論にとどまる限りは、これを処罰する刑事法規は現在ありません。刑罰権の発動によってこれを処罰せよ、あるいは押さえ込めというわけにはまいりません。
では、どうすべきか。一般論としては、言論には言論をもって対抗すべきだということになります。差別される側にも十分に反論する権利が保障されているのだから、その権利を行使して反論すればよいでないかという議論です。
しかし、この議論は画に描いた餅でしかない。対等者間モデルの一般論を当て嵌めることの不当性について多くを語る必要はないと思います。強者が弱者を貶めているとき、弱者に自力で権利の救済をせよというのは、権利侵害を放置し容認することにほかなりません。いじめられている人に、「反撃の権利があるのだから、いじめっ子に反撃すればよい」といって傍観しているに等しいのです。
このような場面で、被害者に代わって対抗言論を買って出る市民が現れるということは、まことに貴重な、素晴らしいことと言わねばなりません。被害者の立場にたち、被害者に代わって、ヘイトスピーチの恥ずべきことを説得し、愚かな行為を止めるよう働きかける行動は、民主々義社会の良心と良識に基づくものと賞賛に値するものです。
ところが、ヘイトスピーチデモへの参加者の中には、この説得に耳を貸さないばかりか、このような説得活動を不愉快として、実力行使に及ぶ者さえ現れました。本日告訴に及んだ2件の事件は、ヘイトスピーチデモの参加者が説得者に体当たりし、転倒させ、あるいは蹴飛ばすなどして、暴行・傷害に及んだというものです。明らかに犯罪ですし、警察官が現認している行為です。到底許すことができません。
もし、この暴行や傷害を座して見過ごすとすれば、ヘイトスピーカー側に間違ったサインを送ることになります。この程度のことは許されるのだと。そして、せっかく立ち上がった良識ある人々の勇気を挫くようなことにもなりかねません。実は、これまでの間違ったサインの積み重ねが、今日までの事態のエスカレートをもたらしたといわざるを得ません。断固とした刑事制裁によってヘイトスピーチデモの異常さ、間違いを糺し、彼らに自覚を促さねばなりません。
警察は、「デモ隊もデモへの抗議の人々も、どっちもどっち。警察がどちらに肩入れすることはしない」と言っていますが、大局を見失ってはなりません。人種差別・民族差別の発言で弱者の人権を侵害している側と、その被害者に代わって説得を試みている人々と。それを一緒くたにして、どっちもどっちと言ってはならない。ことさらに、ごく小さな局面だけに焦点を当てれば、そのように見えることもあるかも知れません。しかし、大局をみれば、一方は余りにもひどい差別発言の加害者であり、もう一方はヘイトスピーチの醜さを克服しようと立ち上がった、良識ある人々。その区別を見失うようなことがあってはならない。
私たちは、この良識と勇気とを発揮して説得の行動に立ち上がった人々の側に徹底して立ちたいと思っています。それこそが民主々義社会における主権者としてあるべき姿であり、とりわけ、社会正義と基本的人権を擁護する使命を負っている弁護士の責務だと思ってのことです。
そのような趣旨での本件告訴であることにご理解をいただきたいと思います。
(2013年6月24日)
本日の東京新聞は、さすがにローカル紙としての面目躍如。富士山世界遺産ではなく、「暮らしと人生 つながる一票」「都議戦きょう投開票」が一面トップ。社会面も、「この思い 一票に託す」とした有権者へのインタビュー記事。「この思い」として取りあげられた3テーマは、「待機高齢者への具体策創造を」「子どもの側から保育所考えて」「住民参加 重視する人に」というもの。高齢者福祉、子育て支援、そして原発問題を機とした住民の政治参加問題。
その中で、「保育所つくってネットワーク」の斉藤真里子さんの以下の発言が具体的な要求からのものとして印象的。
「都内でこの春、認可保育所に入れなかった待機児童は約2万人。アンケートを送付した候補242人中、回答をくれた113人の大半が認可保育所の増設に賛成なのに、各党の政策は『都独自の認証保育所の普及』『多様なサービス』『保育料格差の是正』…」「多くの母親が求めるのは、子どもを安心して預けられる施設を増やし、働きたい人が働ける環境。経済目線の規制緩和や競争は保育所になじまないと考えます」「子どもの側から考える人に投票します」
このような主権者としての要求の自覚が、政治を変えることにつながる。
もう一つ紹介したい。赤旗日曜版での俳優米倉斉加年さんの次の発言である。この人の発言はいつも敬意をもって読む。なんとものの分かった人だろうか。なんと行き届いたものの言い方だろうか。そして、なんのためらいもなく筋を通すさわやかな人なのだろうか。
「憲法は国家と権力のためにあるのではなく、私たちの人権と古里を守るためにある。いま多数〈権力〉を持つ安倍政権は、私たちを守る憲法の改定、9条破棄、そして原発再稼働ヘー直線です。
私は国民の大多数が戦争を容認し、軍国主義政権を支持した時代に育ちました。あの時代を忘れてはならない。真の民主主義は、弱者の声なき声に耳をかたむけるものです。少数をどう喝する多数は民主主義ではない。ファシズムです。
今回の都議選でも参院選でも、一番大切なのは、弱きもの、声なき声を大切にし、政治に生かす政党を選ぶことではないでしょうか。
私は、弱きものたちの立場に立ち、私たちの人権を守る日本共産党に期待します。」
(2013年6月23日)