私自身が突然に提訴されて被告となったDHCスラップ訴訟。一審勝訴したが控訴されて被控訴人となり、さらに控訴審でも勝訴したが上告受理申立をされて、いまは「相手方」となっている。その上告受理申立事件は最高裁第三小法廷に係属し、事件番号は平成28年(受)第834号である。
さて、訴訟活動として何をすべきだろうか。実は、この事件なら、常識的には何もしないのが一番なのだ。何もせずに待っていれば、ある日第三小法廷から「上告受理申立の不受理通知」が届くことになる。これでDHC・吉田の敗訴が確定して、私は被告の座から解放される。上告受理申立理由に一々の反論をしていると、不受理決定の時期は遅滞することにならざるをえない。何もしないのが一番という常識に反しても、敢えて反論はきちんとすべきか否か。ここが思案のしどころである。
ところで、スラップ訴訟へのメディアの関心が高くなっている。最近、ある大手メディアの記者から取材を受けた。そのあと記者から、丁寧な質問をメールでいただいた。
要約すれば、関心は大きくは次の2点だという。
? 「憲法21条(言論の自由)と32条(裁判を受ける権利)の整合性をどう考えるべきだろうか」
? 「アメリカでは、スラップ訴訟を規制して、原告の権利侵害という議論が起こらないのだろうか」
通底するものは、特定の訴訟をスラップと刻印することで、侵害された権利救済のための提訴の権利が侵されることにはならないのだろうか、という疑問である。
以下は、私のメールでの回答の要約。
具体的な内容や背景事情を捨象すれば、DHCスラップ訴訟の構造は、次のようなことになります。
(1) 私が吉田を批判する言論を展開し、
(2) 吉田が私の言論によって名誉を毀損されたとして、損害賠償請求訴訟を提起した。
(3) その訴訟において、
原告・吉田は、憲法13条にもとづく自分の人格権(名誉)が違法に侵害されたと主張し、
被告・私は、憲法21条を根拠に自分の言論を違法ではないと正当性を主張した。
(4) 審理を尽くして、裁判所は被告に軍配をあげて請求を棄却した。
(5) 吉田は結果として敗訴したが、憲法32条で保障された裁判を受ける権利を行使した。
つまり、誰でも、主観的に自分の権利が侵害されたと考えれば、その権利侵害を回復するために訴訟を提起することができる。結果的に敗訴するような訴えについても、提訴の権利が保障されているということになります。
以上は、具体的な諸事情を捨象すれば…の話しで、普通はこれで話が終わります。しかし、次のような具体的諸事情を視野に入れると、景色は変わって見えてきます。この景色の変わり方をどう考えるべきかが問われています。
(1) 違法とされ提訴の対象となった私の言論が典型的な政治的批判の言論であること。
(2) 提訴者が経済的な強者で、訴訟費用や弁護士費用のハードルを感じないこと。
(3) 提訴されれば、私の応訴の負担は極めて大きいこと。
(4) 原告の勝訴の見通しは限りなく小さいこと。
(5) 原告の請求は明らかに過大であること。
(6) 原告は提訴によって、侵害された権利の回復よりは、提訴自体の持つ威嚇効果を狙っていると考えられること。
(7) 現実に提訴はDHC・吉田批判の言論に萎縮効果をもたらしていること。
もっとも、原告の勝訴確率が客観的にゼロに等しいと言える場合には、問題が単純になるでしょう。そのような提訴は嫌がらせ目的の訴訟であることが明白で、民事訴訟制度が想定している訴えではないとして、提訴自体が違法とならざるをえません。しかし、そのような厳密な意味での「違法訴訟」は現実にはきわめて稀少例でしかないでしょう。
このような「明らかな違法訴訟」とまでは言えないが、強者による言論への萎縮効果を狙った違法ないし不当な提訴は類型的に数多く存在します。これをスラップ訴訟と言ってよいと思います。
つまり、単に勝訴の見込みが薄い訴えというだけでなく、これに前記の(1)?(7)などの事情が加わることによって、提訴自体が濫訴として強い可非難性を帯びることになります。
アメリカのスラップ訴訟規制は各州で制度の差があるようですが、報告例を耳にする限りでは、原告の提訴の権利を侵害すると問題にされてはいないようです。
スラップ規制のあり方として、2段階審査の方式を学ぶべきだと思います。
審理の初期に、被告からスラップの抗弁があれば、裁判所はこれを取り上げ、スラップとして取り扱うか否かを審理して暫定の結論を出します。
原告が、裁判所を納得させられるだけの勝訴の蓋然性について疎明ができなければ、以後はスラップ訴訟として審理が進行することになります。その大きな効果としては、原告の側に挙証責任が課せられること、そして原告敗訴の場合には、被告側の弁護士費用をも負担させられることです。これでは、スラップの提起はやりにくくなるでしょう。でも、訴訟ができなくはなりません。
一般論ですが、複数の憲法価値が衝突する場合、正確にその価値を衡量して調整することが立法にも、司法にも求められます。
一方の側だけから見た法的正義は、けっして決定的なものではありません。別の側から見れば、別の景色が見えることになります。
スラップ訴訟もそんな問題のうちの一つです。私は、政治的言論の自由が攻撃されて、権力や社会的強者を批判する言論が萎縮することが憲法の根幹を揺るがす大問題と考える立場ですから、飽くまで憲法21条の価値をを主としてとらえ、DHC・吉田の憲法32条を根拠とする名誉毀損を理由として訴訟を提起する権利は従でしかないと考えます。
私が掲げる憲法21条に支えられた言論の自由の旗こそが最重要の優越する価値であって、DHC・吉田の名誉の価値はこの旗の輝きの前に光を失わざるをえないという考えです。のみならず、そのような価値の衡量が予想される事態において、DHC・吉田が敢えて高額の損害賠償請求訴訟を提起することをスラップとして、非難しなければならないとするのです。
さらに、言論の萎縮効果をもたらすスラップには法的な制裁が必要であり、スラップを提起されて被告となる者には救済の制度が必要だと、実体験から考え訴えているのです。DHC・吉田がしたごときスラップの横行を許すことは、メディアにとっては死活に関わる問題ではありませんか。
よろしくご理解をお願いいたします。
(2016年5月9日)
野田正彰医師は硬骨の精神科医として知られる。権力や権威に歯に衣着せぬ言動は、権力や権威に安住する側にはこの上なくけむたく、反権力・反権威の側にはまことに頼もしい。その野田医師が、大阪府知事当時の橋下徹を「診断」した。「新潮45」の誌上でのことである。誌上診断名は「自己顕示欲型精神病質者」「演技性人格障害」というもの。この誌上診断が名誉毀損に当たると主張されて、損害賠償請求訴訟となった。
一審大阪地裁は一部認容の判決となったが、昨日(4月20日)大阪高裁は逆転判決を言い渡し、橋下徹の請求を全部棄却した。欣快の至りである。
高裁判決は、野田医師の誌上診断は、橋下の社会的評価を低下せしめるものではあるが、その記述は公共的な事項にかかるもので、もっぱら公益目的に出たものであり、かつ野田医師において記事の基礎とした事実を真実と信じるについて相当な理由があった、と認め記事の違法性はないとした。橋下知事(当時)の名誉毀損はあっても、野田医師の表現の自由を優先して、橋下はこれを甘受しなければならないとしたのだ。
橋下が上告受理申立をしても、再逆転の目はない。判断の枠組みが判例違反だという言い分であれば、上告受理はあり得ないことではない。しかし、本件の争点は結局(野田医師が真実と信じることについての)相当性を基礎づける事実認定の問題に過ぎない。これは最高裁が上告事件として取り上げる理由とはならないのだ。
私は、訴状や準備書面、判決書きを目にしていない。このことをお断りした上で、報道された限りでの経過の説明と意見を述べておきたい。
「新潮45」2011年11月号が、「橋下徹特集」号として話題となった。この号については、当時新潮社が次のように広告を打っている。
「特集では、橋下氏の死亡した実父が暴力団員であったことに始まり、『人望はまったくなく、嘘を平気で言う。バレても恥じない。信用できない』(高校の恩師)、『とにかくカネへの執着心が強く、着手金を少しでも多く取ろうとして「取りすぎや」と弁護士会からクレームがつくこともあった』(最初に勤務した弁護士事務所の代表者)といった、橋下氏を知る人の発言や、『大きく出ておいてから譲歩する』『裏切る』『対立構図を作る』という政治戦術、そして知事就任から府債残高が増え続けている現実、またテレビ番組で懇意になった島田紳助氏との交友についても触れるなど、橋下氏の実像をわかりやすくまとめた構成になっています。是非ご一読を。」
この特集記事の1本として、「大阪府知事は『病気』である」(野田正彰・精神科医)が掲載された。病気の「診断」名が「自己顕示欲型精神病質者」「演技性人格障害」というもの。その診断根拠は、橋下に対する直接の問診ではなく、それに代わる高校時代の橋下の恩師の証言等である。
この記事によって、名誉を傷つけられたとして、橋下が新潮社と野田医師を提訴した。損害賠償請求額は1100万円。この請求に対して、昨年(15年)9月、一審大阪地裁(増森珠美裁判長)は、一部記載について「橋下氏の社会的評価を低下させ、名誉を毀損する内容だった」として、新潮社と野田医師に110万円の支払いを命じた。「精神分析の前提となった橋下氏の高校時代のエピソードを検討。当時を知る教諭とされる人物の『嘘を平気で言う』などの発言について『客観的証拠がなく真実と認められない』」との判断だった。
昨日の逆転判決については、朝日の報道が分かり易い。
「橋下徹・前大阪市長は『演技性人格障害』、などと書いた月刊誌『新潮45』の記事で名誉を傷つけられたとして、橋下氏が発行元の新潮社(東京)と筆者の精神科医・野田正彰氏に1100万円の賠償を求めた訴訟の控訴審判決が21日、大阪高裁であった。中村哲裁判長は、記事は意見や論評の範囲内と判断。110万円の賠償を命じた一審判決を取り消し、橋下氏の訴えを退けて逆転敗訴とした。
同誌は、橋下氏が大阪府知事時代の2011年11月号で「大阪府知事は『病気』である」とする野田氏の記事を掲載し、高校時代の橋下氏について「うそを平気で言う」などの逸話を紹介。「演技性人格障害と言ってもいい」と書いた。高裁判決は、記事は当時の橋下氏を知る教員への取材や資料に基づいて書かれ、新潮社側には内容を真実と信じる相当の理由があり、公益目的もあったとした。」
また、焦点の「記事の内容を真実と信じる相当の理由」の有無については、次のような報道がなされている。
「高裁判決は野田氏が橋下氏の生活指導に当時、携わった教諭から聞いた内容であることなどから、『真実と信じた相当の理由があった』と判断した(時事通信)」
「中村裁判長は、野田氏が橋下氏の生活指導に関わった高校時代の教諭に取材した経緯などを検討した。その結果、記事内容を裏付ける証明はないものの、『野田氏らが真実と信じる理由があり、名誉毀損は成立しない』と判断した(毎日)」
「野田氏の精神分析の前提となった橋下氏のエピソードについて、1審判決は『客観的証拠がなく真実と認められない』として名誉毀損を認定したが、高裁判決は別記事での取材内容も踏まえ『真実との証明はないが、真実と信じるに足る理由があった』とした(産経)」
「昨年9月の1審判決は、記事の前提になった橋下氏の高校時代のエピソードを『裏付けがない』としたが、高裁の中村哲裁判長は『複数の人物から取材しており、真実と信じる相当の理由があった』と指摘した(読売)」
以上のとおり、原審と控訴審ではこの点についての判断が逆転した。橋下はこれに不服ではあろうが、憲法判断の問題とも、判例違反とも主張できない。結局は事実認定に不服ということだが、それでは上告審に取り上げてはもらえないのだ。
「新潮45編集部は『自信を持って掲載した記事なので当然の判決と考える』とコメント。橋下氏側は『コメントを出す予定はない』とした。」と報道されている。
名誉毀損訴訟においては、表現者側の「表現の自由」という憲法価値と、当該表現によって傷つけられたとされる「『被害者』側の名誉」とが衡量される。この両利益の調整は、本来表現内容の有益性と「被害者」の属性とによって判断されなければならない。野田医師の橋下徹についての論述は、有権者国民にとって、公人としての知事である橋下に関する有益で重要な情報提供である。明らかに、「表現の自由」を「橋下個人の名誉」を凌駕するものとして重視すべき判断が必要である。
総理大臣や国会議員・知事・市長、あるいは天皇・皇族・大企業・経営者などに対する批判の言論は手厚く保護されなければならない。それが、言論・表現の自由を保障することの実質的意味である。権力や権威に対する批判の言論の権利性を高く認めることに躊躇があってはならない。この点についての名誉毀損訴訟の枠組みをしっかりと構築させなければならない。
現在の名誉毀損訴訟実務における両価値の調整の手法は、名誉毀損と特定された記事が、「事実の指摘」であるか、それとも「意見ないし論評であるか」で大きく異なる。野田医師の本件「誌上診断」は、典型的な論評である。基礎となる事実(高校時代の恩師らの取材によって得られた情報)の真実性が問題になる余地はあるものの、その事実にもとづく推論や意見が違法とされることはあり得ない。これは「公正な論評の法理」とされるもので、我が国の判例にその用語の使用はないが、事実上定着していると言ってよい。
そして、実は野田医師の論評が、知事たる政治家の資質に関するものであることから、真実性や相当性の認定も、ハードルの高いものとする必要はないのだ。真実性はともかく、真実相当性認定のハードルを下げるやり方で表現の自由に軍配を上げた高裁判決は、極めて妥当な判断をしたものといえよう。もう、政治家や政治に口を差し挟もうという企業や経営者が、名誉毀損訴訟を提起する時代ではないことを知るべきなのだ。
なお、同じ「新潮45」の特集記事に関して、以下の産経記事がある。
「橋下徹前大阪市長が、自身の出自などを取り上げた月刊誌『新潮45』の記事で名誉を傷つけられたとして、発行元の新潮社とノンフィクション作家の上原善広氏に1100万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が(2016年3月)30日、大阪地裁であり、西田隆裕裁判長は橋下氏の請求を棄却した。判決によると、同社は新潮45の平成23年11月号で、橋下氏の父親と反社会的勢力とのかかわりについて取り上げた。西田裁判長は判決理由で「記事は政治家としての適性を判断することに資する事実で、公益目的が認められる」とした。
私見であるが、「記事は政治家としての適性を判断することに資する事実で、公益目的が認められる」は、単なる違法性阻却の必要条件ではない。判決理由に明示していなくても、その公益目的の重要性は、真実性や真実相当性認定のハードルを低くすることにつながっているはずである。
野田医師の逆転勝訴は、私のDHCスラップ訴訟の結果にも響き合う。何よりも、憲法上「精神的自由権」の中心的位置を占める表現の自由擁護の立場から、まことに喜ばしい。
(2016年4月22日)
2013年4月1日から毎日連続更新を続けてきた当ブログは、本日で丸3年となった。この間、36か月。1096日(365日+365日+366日)である。1日1記事を書き続けて、本日が連続1096回目、明日のブログから4年目にはいる。
「三日坊主」という揶揄の言葉はあるが、「三年坊主」とは言わない。むしろ、「石の上にも三年」というではないか。その三年間の途切れない継続にいささかの達成感がある。とはいうものの、このブログを書き始めた動機からは甚だ不満足な現下の政治状況と言わざるを得ない。
今次のブログ連載は2013年1月1日から書き始めた。正確には、日民協ホームページの一隅を借りて以前にも連載していた「憲法日記」の再開であった。第2次安倍政権の発足に危機感を持ったことがきっかけ。安倍流の改憲策動に抵抗する一石を投じたいとのことが動機である。案の定、この政権は「壊憲」に余念なく、危険きわまりない。しかも、日本全体の右傾化によって発足したこの政権は、この3年余で、保守陣営全体を極右化しつつある。
当ブログ再開当時「当たり障りのあることを書く」と宣言しての気負いから、直ぐさま間借り生活の窮屈を感じることとなった。そのため、自前のブログを開設して引っ越し、連続記録のカウントを始めたのがその年の4月1日。以来、あちこちに問題を起こしつつの「憲法日記」の連続更新である。
安倍内閣がまだ続いていることに焦慮の思いは強いが、他方この間のブログの威力とさらなる可能性を実感してもいる。「保育園落ちた。日本死ね」の1本のブログが、政治を動かしている現実を目の当たりにしたばかりでもある。以前、当ブログでは「ブロガー団結宣言」を掲載したが、あらためて、その修正版として「リベラル・ブロガー団結宣言」を再掲載したい。
「すべてのリベラル・ブロガーは、事実に関する情報の発信ならびに各自の思想・信条・意見・論評・パロディの表明に関して、権力や社会的圧力によって制約されることのない、憲法に由来する表現の自由を有する。
リベラル・ブロガーは、市井の個人の名誉やプラバシーには最善の配慮を惜しまない。しかし、権力や経済的強者あるいは社会的権威に対する批判においていささかも躊躇することはない。政治的・経済的な強者、社会的な地位を有する者、文化的に権威あるとされている者は、リベラル・ブロガーからの批判を甘受しなければならない。
無数のリベラル・ブロガーの表現の自由が完全に実現するそのときにこそ、民主主義革命は成就する。万国のリベラル・ブロガー万歳。万国のリベラル・ブロガー団結せよ。」
現代的な言論の自由を語るとき、ブロガーの表現の自由を避けては通れない。憲法21条は、「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。日本国憲法に限らず、いかなる近代憲法も、その人権カタログの中心に「表現の自由」が位置を占めている。「表現の自由」の如何が、その社会の人権と民主主義の到達度を示している。文明度のバロメータと言っても過言でない。
しかし、人がその思想を表明するための表現手段は、けっして万人のものではない。この表現手段所有の偏在が、個人の表現の自由を空論としている現実がある。「言論、出版その他一切の表現の自由」における、新聞や出版あるいは放送を典型とする言論の自由の具体的な担い手はマスメディアである。企業であり法人なのだ。基本的人権の主体は本来個人であるはずだが、こと表現の自由に限っては、事実上国民は表現の受け手としての地位にとどめられている。メディアの自由の反射的利益というべき「知る権利」を持つとされるにすぎない。
そもそも、本来の表現の自由は個人のものであったはず。その個人には、せいぜいがメディアを選択する自由の保障がある程度。いや、NHKの受信にいたっては、受信料支払いを強制されてなお、政権御用のアベチャンネルを押しつけられるありさまではないか。
その事情を大きく変革する可能性がネットの世界に開けている。IT技術の革新により、ブログやSNSというツールの入手が万人に可能となって、ようやく主権者一人ひとりが、個人として実質的に表現の自由の主体となろうとしている。憲法21条を真に個人の人権と構想することが可能となってきた。まことにブログこそは貧者の武器というにふさわしい。個人の手で毎日数千通のビラを作ることは困難だ。これを発送すること、街頭でビラ撒きすることなどは不可能というべきだろう。ブログだから意見を言える。多数の人に情報を伝えることが可能となる。ブログこそは、経済力のない国民に表現の自由の主体性を獲得せしめる貴重なツールである。ブログあればこそ、個人が大組織と対等の言論戦が可能となる。弱者の泣き寝入りを防止し、事実と倫理と論理における正当性に、適切な社会的評価を獲得せしめる。ブログ万歳である。
この「個人が権利主体となった表現の自由」を、今はまだまだ小さな存在ではあるが大きな可能性を秘めたものとして大切にしたい。反憲法的ネトウヨ言論の氾濫や、匿名に隠れたヘイトスピーチの跋扈の舞台とせず、豊穣なリベラル言論の交換の場としたい。この新しいツールに支えられた表現の自由を手放してはならない。
ところが、この貴重な表現手段を不愉快として、芽のうちに摘もうという動きがある。その典型例がDHCスラップ訴訟である。経済的な強者が、自己への批判のブログに目を光らせて、批判のリベラル・ブロガーを狙って、高額損害賠償請求の濫訴を提起している現実がある。もちろん、被告として標的にされた者以外に対しても萎縮効果が計算されている。
だから、全国のリベラル・ブロガーに呼び掛けたい。他人事と見過ごさないで、リベラル・ブロガーの表現の自由を確立するために、あなたのブログでも、呼応して声を上げていただきたい。さらに、全ての表現者に訴えたい。表現の自由の敵対者であるDHCと吉田嘉明に手痛い反撃が必要であることを。スラップ訴訟は、明日には、あなたの身にも起こりうるのだから。
(2016年3月31日・「憲法日記」連続3年更新の日に)
昨日(3月7日)の朝日新聞社会面が、スラップ訴訟関連の記事を取り上げた。
見出しは、「言論封じ『スラップ訴訟』」「批判的な市民に恫喝・嫌がらせ」というもの。デジタル版では、「批判したら訴えられた…言論封じ『スラップ訴訟』相次ぐ」となっている。
http://digital.asahi.com/articles/ASJ3652LRJ36UTIL00H.html?rm=324
ようやくにしてではあるが、まずは目出度い大手メディアデビューである。
スラップの実態や弊害についての議論は、ネット上では旺盛に行われている。当ブログの「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズは本日が第77弾。おかげで、スラップに関する情報の提供を受けたり、相談に与ることも少なくない。しかし、大手メディアの沈黙が不気味であった。記者会見には来るメディアも、記事にはしない。萎縮効果はここまで…と疑わざるを得ない事態だった。が、この記事をきっかけに、他紙も安心してスラップの記事を書くことができるようになるのではないか。遠慮なく、DHC・吉田嘉明の名前を出して。そのような批判の記事なくしては、メディア自身の表現の自由も危うくなるではないか。
朝日の記事の冒頭に次のリードがある。
「会社などを批判した人が訴訟を起こされ、『スラップ訴訟だ』と主張する例が相次いでいる。元々は米国で生まれた考え方で、訴訟を利用して批判的な言論や住民運動を封じようとする手法を指す。法的規制の必要性を訴える専門家もいるが、線引きは難しい。」
具体的な事例として、最初に「伊那太陽光発電スラップ訴訟」を紹介し、この事件に大きくスペースを割いている。
次いで、DHCスラップ訴訟(対澤藤事件)が取り上げられている。その全文が次のとおり。
「憲法は『裁判を受ける権利』を定めており、『スラップ訴訟』かどうかの線引きは難しい。
1月、化粧品大手ディーエイチシー(DHC)と吉田嘉明会長が、ブログで自らを批判した沢藤統一郎弁護士に賠償を求めた訴訟の判決が東京高裁であった。
吉田会長がみんなの党(解党)の渡辺喜美元代表に8億円を貸していた問題を、沢藤弁護士はブログで『自分のもうけのために、政治家を金で買った』と批判。吉田会長は、同様の批判をした評論家や他の弁護士も訴えた。このため沢藤弁護士はブログで『スラップ訴訟だ』とさらに批判。すると2千万円だった請求が6千万円に増やされた。
東京地裁に続いてDHC側の請求を棄却した高裁の柴田寛之裁判長は『公益性があり、論評の範囲だ』と述べた。判決後、沢藤弁護士は『訴えられると、言論は萎縮せざるを得ないと実感した。判決にほっとした』と話した。DHC側は上告受理を申し立てた。」
これをいかにも朝日らしい、というのだろうか。臆病なまでに公正らしさに配慮して、「憲法は『裁判を受ける権利』を定めており、『スラップ訴訟』かどうかの線引きは難しい。」と書いたあとでの、DHCスラップ訴訟の紹介なのだ。
それでも、この記事の掲載には大きな意義がある。「スラップ訴訟」という用語の解説もあるし、これまでの「訴えられた側が『スラップ訴訟』だと主張した例」として、幸福の科学事件、武富士事件、オリコン事件などの経過概要も紹介されている(もっとも、固有名詞はすべて伏せられている)。スラップ訴訟という言葉を人口に膾炙せしめ、スラップのダーティーなイメージを世に広めるために、大きな役割を果たすことになるだろう。
この朝日記事の最大の評価ポイントは、コメンテーターとして、内藤光博教授を採用したことである。その全文を引用しておこう。
「スラップ訴訟の研究を進める専修大学の内藤光博教授(憲法学)は『特定の発言を封じるだけでなく、将来の他の人の発言にも萎縮効果をもたらす。言論の自由に対する大きな問題で、法的規制も検討するべきだ』と指摘する。
米国では1980年代、公害への抗議や消費者運動をした市民に、大企業が高額賠償を求める訴訟が多発。『表現の自由への弾圧』と批判され、90年代以降に防止法が作られた。カリフォルニア州など半数以上の州で制定。裁判所が初期段階でスラップと認定すると訴訟が打ち切られ、提訴側が訴訟費用を負担する仕組みが多いという。
ただ、日本ではまだ認識が薄く、基準もあいまいだ。内藤教授は『まずは事例を研究した上で、きちんと定義し、議論を深める必要がある』と話す。」
さて、公正にして中立な朝日の記事は、スラップ訴訟の仕掛け人である吉田嘉明のコメントを掲載している。
「朝日新聞の取材に、吉田会長は『名誉毀損訴訟を起こすのは驚くほど金銭を要し、泣き寝入りしている人がほとんどではないでしょうか。それをいいことに、うそ、悪口の言いたい放題が許されている現状をこそ問題にすべきです』とのコメントを寄せた。」
開いた口が塞がらない。この人はなんの反省もしていない。多くの敗訴判決から何も学んでいないのだ。これでは、今後も同じことを繰り返すことになる。
この人が『名誉毀損訴訟を起こすのは驚くほど金銭を要し』とは、聞かされる方が驚くほどのこと。吉田嘉明は、自ら「何度も長者番付に名を連ね、現在も多額の収入と資産がある」と表明している人物である。私は、「カネに飽かせてのスラップ訴訟常連提起者」と批判してきた。その当人が「敗訴必至の訴訟に驚くほど金銭を要した」というのだ。
通常の訴訟は経済合理性に支えられている。勝訴してもペイせず、費用倒れに終わることの明らかな提訴は、普通は行われない。敗訴のリスクが高ければなおさらのことである。真っ当な弁護士に相談すれば、「およしなさい」とたしなめられるところ。ところが、スラップ訴訟はまったく様相を異にする。経済合理性は度外視し、判決の帰趨についての見通しも問題としない。ただひたすらに自分に対する批判者に、可能な限り最大限のダメージを与えようという目的の提訴なのだ。だから、「金銭を要する」のはスラップ訴訟である以上、あまりに当然のことなのである。これを当の本人が「驚くほど」高額ということになのだから、いったいどれほど莫大な金額をかけたものやら、驚くほどのことというわけだ。
「週刊新潮・8億円裏金提供暴露手記」の批判者を被告として、DHC・吉田が原告となって提起したスラップ訴訟は、私に対するものを含めて同時期に10件ある。損害賠償請求額は最低2000万円、最高は2億円である。この請求金額が、貼用印紙額や弁護士費用の計算基準となる。敗訴覚悟の無茶苦茶な高額請求をしておいて、「驚くほど金銭を要し」たのは自業自得以外のなにものでもない。しかし、問題の本質は別のところにある。
DHCスラップ訴訟とは何か。吉田嘉明が8億円もの裏金を政治家渡辺喜美に提供して、規制緩和の方向に政治を動かそうとした。そのことに対する批判の意見が噴出したとき、その批判の政治的言論を高額損害賠償請求の訴訟を濫発して封殺しようとしたものなのだ。しかも、その提訴を通じて社会を威嚇し、政治的な言論に対する萎縮効果を狙ったところに、最大の問題がある。
吉田は、自らに対する政治的な批判の言論を「うそ、悪口の言いたい放題」という。自らが、事実を手記として週刊誌に発表しておいて、これを批判されると、批判に「うそ、悪口の言いたい放題」と悪罵を投げつける。果たして批判の言論が「うそ」であるか、「悪口」であるか、「言いたい放題」であるか、いくつもの判決が既に決着をつけている。
吉田は、自分への批判を封じ込めたいというのだが、それが許されるようでは、世も末だ。表現の自由は地に落ち、民主主義が崩壊する。
メディアは、これを他人事として傍観していてはならない。やがては自分に降りかかってくる問題ではないか。これまで、私が記者会見で何度も訴えてきたことを繰り返したい。
「私の判決が、DHC・吉田の完敗でよかった。もし、ほんの一部でもDHC・吉田が勝っていたら、政治的な言論の自由は瀕死の事態に陥いることになる。
DHCスラップ訴訟とは、優れて政治的な言論の自由をめぐるせめぎ合いの舞台なのだ。そのような目で、私の事件にも、その他のDHCスラップ訴訟にも、そしてその他のスラップ訴訟にも注目していただきたい。
ぜひ、記者諸君に、自分の問題としてとらえていただくようお願いしたい。自分が書いた記事について、記者個人に、あるいは社に、2000万あるいは6000万円という損害賠償の請求訴訟が起こされたとしたら…、その提訴が不当なものとの確信あったとしても、どのような重荷となるか。それでもなお、筆が鈍ることはないと言えるだろうか。
権力や富者を批判してこそのジャーナリズムではないか。ジャーナリストを志望した初心に立ち返って、金に飽かせての言論封殺訴訟の横行が、民主主義にとっていかに有害で危険であるか、想像力を働かせていただきたい。今、世に頻発しているスラップ訴訟の害悪を広く知らしめ、スラップ防止の世論形成に努めてもらいたい。
スラップ訴訟は、言論の萎縮をもたらす。今や政治的言論に対する、そして民主主義に対する恐るべき天敵なのだ。けっして、スラップに成功体験をさせてはならず、その跋扈を防止しなければならない。」
(2016年3月8日)
一昨日(2月29日)の毎日新聞夕刊。特集ワイドが、「『バナナの逆襲』フレドリック・ゲルテン監督に聞く」を掲載した。全面に近いスペースを割いた、文字どおりの「ワイドな特集」。
http://mainichi.jp/articles/20160229/dde/012/200/005000c
「農民VS米大企業、映画にしたら訴えられた」「衰える『表現の自由』」というストレートな大きな見出しが小気味よい。 記者の力量もあって、表現の自由への圧力とジャーナリズムのあり方についての問題提起として、読み応え十分である。ただ、残念ながら、「スラップ訴訟」という言葉が出て来ない。
この特集での映画の紹介は以下のとおり。
「ニカラグアのバナナ農園で働く労働者12人が、米国では使用禁止の農薬の影響で不妊症になった可能性があるとして、米国の食品大手ドール・フード・カンパニーを相手取り損害賠償を求める裁判を起こす。ゲルテンさん(スウェーデン人)は、その裁判を追ったドキュメンタリー映画を製作。これが第2話(2009年、87分)だ。」
「映画は09年、ロサンゼルス映画祭に出品される予定だったが、ドール社は主催者に上映中止を要求。ゲルテンさんを名誉毀損(きそん)で訴える。監督自身が上映に向け孤軍奮闘する姿を描いたのが第1話(11年、87分)だ。」
私が注目したのは、以下の点だ。
米メディアの多くはゲルテンさんに厳しく、非難の矢面に立たされる。「メディアの大半はドール社やそのPR会社に取材し、『貧しいキューバ人移民の悪徳弁護士がバナナ農民を原告に立て、米企業を脅迫している』『世間知らずのスウェーデン人が弁護士を英雄に仕立て上げた』といった物語として報じました。作品を見てもらえず、うそつき呼ばわりされ、かなりのストレスを感じました」
「米国の報道陣には、大多数とは違う視点で物事を報じるエネルギーや好奇心が薄いという印象を受けました」とも。
ゲルテンは、アフリカや中米で記者活動の経験をもつ。その経験から、ジャーナリストの一般的な習性を「事件でも問題でも一つの現象を描く場合、人と、特に大多数とは違う角度から描くことに熱意と努力を発揮する」と見ているという。それだけに、企業に配慮したかのような米メディアの報道姿勢を意外に感じたというのだ。この指摘は、示唆に富むものではないか。
その理由について、ゲルテンの語るところはこうだ。
「米国は一種の『恐怖社会』じゃないかなという印象を持ちました。例えばスウェーデン人の私は、失職しても子供の教育費も家族の医療費も無料ですから、すぐには困らない。でも民間頼りの米国では、そうはいかないんです」
さらに、こうも言う。
「米国企業の場合、自社の信用を落とすような報道に対しては、イメージ戦略として、とりあえず訴えを起こす傾向がありますが、記者たちはそれを恐れているように思います。大企業に訴えられた新聞社が、末端の記者を解雇して訴訟を免れる例が過去に何例もあるのです。少人数の調査で、ようやく貴重な事実を発掘しても、十分な訴訟費用のないメディアだと記者たちを最後まで守りきろうとしないこともあります」
彼は、「映画は裁判を描いただけなのに、それが上映されないのはおかしいと私は言い続けた。つまり当たり前のことをしたわけです」という。ところが、「私の知る少なからぬ米国人には、一人で抵抗することがよほどすごいことのように思えたようです。それだけ当局や大企業からの圧力が浸透しているということではないでしょうか」
ゲルテンは「ジャーナリストが年々弱くなってきている」と慨嘆し、こう締めくくっている。
「ネットの浸透、紙メディアの衰退で、ジャーナリストは常に失職を恐れています。でも不安や恐れにばかりとらわれていては、良い仕事はできません。独立した、自由に物を書けるジャーナリストのいない社会に本当の意味での民主主義は育ちません。政府にも政党にも企業にも批判されない無難な話だけが流されることになってしまいます。本当の話には必ず批判があります。後に賞を受けたような報道は必ず、その渦中では反論を浴び、圧力や批判を受ける。だからこそ、ひるんではならないのです」
すばらしい言ではないか。本当にそのとおりだ。「自由に物を書けるジャーナリストのいない社会に本当の意味での民主主義は育たない」のだ。だが、ジャーナリストといえども、衣食足りてこそ自由に物を書けるのだ。失職の恐れ、社会保障のない社会に放り出されることの恐れが、結局はジャーナリズムを「政府にも政党にも企業にも批判されない無難な話だけが流される」ことにしてしまう。ジャーリスト個人の資質だけの問題ではなく、社会のあり方がジャーナリズムの質を規定しているのだ。
ゲルテンは、スウェーデンと米国を比較して、明らかに米国のジャーナリズムはおかしくなっていることに警告を発している。では、日本はどうだ。「社会のあり方がジャーナリズムの質を規定している」とすれば、米日は大同小異。しかも、伝統浅い日本のジャーナリズムは、米国よりもはるかに権力や企業の圧力に弱い。
権力の意向を忖度し、萎縮して「無難な話だけが流される」状態は既に定着している。それであればこそ、停波処分をチラつかせた権力の威嚇効果はてきめんなのだ。さすれば、DHCや吉田嘉明相手程度でも、恐れることなく私が批判を続けることの意義はあろうというもの。けっして「ひるんではならない」し、「ひるむ必要」もないのだから。
『バナナの逆襲』は、東京・渋谷のユーロスペース(配給・きろくびと)で上映中。3月18日までの予定。問い合わせはユーロスペース(03・3461・0211)へ。
3/05(土)15:00回後に、小林和夫さん(オルター・トレード・ジャパン) 、石井正子さん(立教大学異文化コミュニケーション学部教授)らのトークを予定。
渋谷・ユーロスペースでの上映時間は下記URLで。
http://kiroku-bito.com/2bananas/index.html
3月19日(土)からは、横浜シネマリンで公開。
http://cinemarine.co.jp/counterattack-of-bananas/
さらに、続いて下記劇場でも公開決定とのこと。
名古屋シネマテーク/大阪・第七藝術劇場/神戸アートビレッジセンター/広島・横川シネマ
(2016年3月2日)
1月28日、DHCスラップ訴訟控訴審判決言い渡しの日の夕方、「バナナの逆襲」を作製したスウェーデン人の映画監督フレデリック・ゲルテンさんとお話しする機会があった。
その中で印象的だったのは、世界的大企業Dole社から仕掛けられた「スラップ訴訟」との闘いにおいて、「最も効果のあった闘い方は、スウェーデンでの不買運動方針の提起だった」ということ。映画の中でも描かれているが、まず消費者が声を上げる。「スーパーはDole社の商品を扱うな」と申し入れをする。理由を聞いたスーパーの経営者が、これに賛同してドール・バナナの入荷を拒否する。初めは小さかったその動きが、広がりそうな勢いとなったところで、ドールフード社が折れるのだ。なるほど、さもありなんと思う。
私は、長く消費者問題に取り組んできた。消費者運動では、単なる「消費者の権利」を超えた「消費者主権」が語られてきた。多義的に用いられる「消費者主権」だが、私は「市場での消費者の自覚的な選択を通じて消費者がよりよい社会を作っていく運動」(あるいはその力量)ととらえている。
具体的な消費者被害を通じて見えてくる現実の消費者像は市場の主権者という理想像とはほど遠い。広告に操られて怪しげなサプリメントを購入する思慮のない消費者であり、少しでも安価なものであれば安全に目をつぶっても飛びつく無自覚な消費者であり、必ず儲かるからという甘言に欺されて涙を流す金融商品購入者である。生産や流通を牛耳る事業者との対等な関係を築けていない。
それでも、消費者運動は着実に前進を見せている。理念としての消費者主権の確立を、運動の目標として高く掲げ続けている。消費者を営利の操作対象の地位から脱却させ、あるべき社会の能動的な形成者とする目標である。企業が社会を圧している現状において、市民が賢明な商品選択を通じて企業をどうコントロールするかという問題意識をもったときに、はじめて主権者としての消費者の力が現実化する。
その正反対の議論が、企業側から出て来る「対企業コントロール拒否論」である。「企業活動にもっと自由を」「労働市場も生産も流通も販売も、すべてを見えざる神の手に任せよ」「限りない規制緩和を」「規制をなくせ」という野放図なDHC・吉田嘉明流の規制緩和論である。その実現のために巨額の裏金の授受さえ行われている。
企業が提供する商品やサービスに関して、消費者が選択する基準が価格や外見だけであってはならない。広告・宣伝に踊らされてはならない。消費者には、「社会的な公正」や、「環境に配慮し自然と社会の健全な持続性」までを視野に入れた自覚的な消費行動が求められる。
ブラック企業や、アンフェアトレード企業の製品は安価かも知れない。しかし、そのような企業の跋扈は、社会的公正を害する。社会的不公正の放置は、消費者自身に手痛いしっぺ返しをもたらす。
市場における消費者の選択においては、よりよい社会を目指すための諸要素が重視されてしかるべきだ。軍需産業と結びついた企業の製品は買わない。差別や規制緩和推進を広言するような企業の商品はボイコットする。フェアトレードや原発反対を表明する企業の商品を積極的に選択する。そのなかに、スラップを提起して表現の自由を攻撃する企業を市場を通じて排除することも含まれて当然だ。
「バナナの逆襲」を観れば、産地に農薬禍をもたらしたDole社の商品はけっして買うまいと思う。アンフェアなトレードで知られるユニクロもそうだ。ブラックとして名高いワタミも同じ。せっかくの電力自由化だ。原発事故を起こした東電をボイコットして、他社に乗り換えよう。そして、スラップ訴訟の常連DHCにも同様の制裁を。
先日、姪の一人が「私、DHCはもうやめた。絶対に買わない」と言ってくれた。これは、正しい価値ある選択と言ってよい。「DHCの製品は買わない」ことの意味は、消費行動を通じての、表現の自由への攻撃を許さないという意思表示であり、規制緩和推進という消費者利益侵害への抗議でもあり、政治とカネの汚い癒着を徹底して糾弾するという宣言でもあるのだから。
この一人の選択は、第一歩として影響は小さいながらも正しい「一票」だ。選挙権の行使は投票日だけのものだが、消費者主権の行使は、日常の消費行動を通して、日々正義を実践することにほかならない。正しい「一票」は、積み上がった力となりうる。そのようにして、スラップ訴訟を仕掛けるようなダーティーな企業には、消費者主権が懲罰を与える。その経済的な打撃によって、表現の自由を擁護し、司法の健全化も実現する。
「バナナの逆襲」を観て、対DHC不買運動の提起も有効な選択肢たりうると思っている。現実の有効な手段とするためにどうすべきか。今後、大いに議論したい。
(2016年2月25日)
真正面からスラップ訴訟をテーマにしたドキュメント映画である。是非多くの人にご覧になっていただきたい。吉田嘉明だけでなくDHCの関係者にも広くお薦めしたい。自分のやっていることを見つめ直す機会になるだろうから。
スラップの標的とされた映画監督が、その顛末を自分を主人公として丸々1本の映画にしてしまった。これが、『バナナの逆襲』第1話『ゲルテン監督、訴えられる』。そして、スラップ訴訟で上映禁止を求められたドキュメンタリー映画が、『バナナの逆襲』第2話『敏腕?弁護士ドミンゲス、現る』である。
スラップを仕掛けたのは、世界最大の青果物メジャー・米国Dole社。DHCとはケタが違う大企業。同社が、スラップを仕掛けてまで知られたくなかったのが、中米ニカラグアにおける同社バナナ農園での農薬被害の実態なのだ。
しかし、Dole社のスラップは敗北した。結局のところ、却ってスラップのおかげで、Dole社のバナナ農園での農薬被害の実態が世界に注目されるところとなった。その一連の経過が『バナナの逆襲』なのだが、これは同時に『スラップに対する表現者の逆襲』でもある。そこが、私がお薦めする理由だ。このような映画を作った監督とこれを支えた人々、そして日本での上映に努力された人々に敬意を表するとともに、感謝も申し上げたい。
この映画配給者(「きろくびと」)による案内は次のとおり。
映画人の表現の自由は守られるのか?
弁護士は巨大企業の圧力に屈してしまうのか?
バナナ農園での農薬被害をめぐる世紀の裁判が、映画界も巻き込み大騒動に発展!
2009年、スウェーデン人映画監督フレドリック・ゲルテンがある多国籍企業に提訴された。中米ニカラグアのバナナ農園で農薬被害に苦しむ労働者が起こした裁判を追った、彼の新作ドキュメンタリー映画がロサンゼルス映画祭でプレミア上映されようとしていた時だった……。なぜ監督は訴えられたのか?超巨大企業は何を隠そうとしているのか?果たして映画は上映されるのか?
本作はスウェーデンのジャーナリストでもあるフレドリック・ゲルテンが2009年に制作した”Bananas!*”(第2話)と2011年制作の”Big Boys Gone Bananas!*”(第1話)の2作品で構成されている。日本においても、メディア界の自主規制やTPP問題が話題になっている今、あるバナナ農園の労働者を描いた映画とその上映をめぐるこの2作品は、多国籍企業のビジネス戦略や表現の自由、そして世界のいびつな構造について、さまざまな問題を投げかけている。
■第1話 ゲルテン監督、訴えられる Big Boys Gone Bananas!*
バナナ農園での農薬被害をめぐる裁判を描いた新作ドキュメンタリー映画が、ロサンゼルス国際映画祭でプレミア上映されることが決まり、意気揚々とアメリカに乗り込んだゲルテン監督。しかし上映直前、企業側はなんと映画祭に上映中止を要求し、監督を訴える。われわれの想像を超える過激な妨害工作と、そこから見えてくるアメリカのメディアの暗部。果たして映画は無事に上映されるのか?(2009年/87分)
2012年 ミラノ国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞
2012年 ワン・ワールド映画祭観客賞
2012年 サンダンス映画祭正式出品
2011年 アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭正式出品など
■第2話 敏腕?弁護士ドミンゲス、現る Bananas!*
中米ニカラグアの12人のバナナ労働者が、使用禁止農薬による被害を訴え、米国の超巨大企業に対する訴訟を起こした。あまりにも強大な企業の力を前に、勝ち目はないと思われたが、裁判を請け負ったヒスパニック系弁護士ホアン・ドミンゲスは画期的な闘いを挑む!多国籍化する食料生産システムの闇だけでなく、TPP問題やグローバリズムといった世界のいびつな構造を描き出す、サスペンス・ドキュメンタリー。(2009年/87分)
上映は、2月27日(土)から。渋谷・ユーロスペースで
下記回上映後のトークも用意されている。
2/27 (土) 11:00回 横田増生さん(ジャーナリスト)
2/28 (日) 11:00回 原一男さん(映画監督)
3/05( 土) 15:00回 小林和夫さん(オルター・トレード・ジャパン) 、石井正子さん(立教大学異文化コミュニケーション学部教授)
渋谷・ユーロスペースでの上映時間は下記URLで。
http://kiroku-bito.com/2bananas/index.html
3月19日(土)からは、横浜シネマリンで公開です。さらに下記劇場でも公開決定とのこと。
名古屋シネマテーク/大阪・第七藝術劇場/神戸アートビレッジセンター/広島・横川シネマ
1月28日、DHCスラップ訴訟控訴審判決言い渡しの日の夕方、この映画の主人公ともなったフレデリック・ゲルテン監督(スウェーデン人)と鼎談の機会があった。もうひとりの参加者は、『ユニクロ帝国の光と影』(2011年、文芸春秋)で、やはりスラップの標的とされた、フリージャーナリストの横田増生さん。最後を、監督がこう締めくくっている。
「私たち今日ここにそろった3人が発することのできる非常に重要なメッセージは、スウェーデンにしろ日本にしろアメリカにしろ、言論の自由、報道の自由というのは憲法で定められているのだから、訴訟を起こされることを恐れることはない、ということです。実際に裁判で勝つことができるんだと。もうひとつ重要なことは、ジャーナリストなど、他の誰かが攻撃されたときに、私たちは後ろで、援護射撃をしなくではいけない。支えなければならない。連帯ということが、非常に重要だと思います。
また、私の仕事の醍醐味というのは、世界中で同じように闘っている仲間と会えることです。私の作品を見て、本当にたくさんの人が私に会いに来て、自分の仕事や置かれている状況について話をしてくれます。韓国に行ったときには、どの上映会でも、自分の雇用主と闘っている組織ジャーナリストが声をかけてくれました。メキシコでは、たくさんのジャーナリストが殺害されている状況が続いていて、多くの観衆が涙を流していました。世界中のどこでもストーリーがあるのです。そして、今回お二人のお話を聞いて、日本にも兄弟がいると感じています。そういったことがとでもうれしいです。自分は一人じゃないのだと知ることはとても重要だと思います。闘い続けるためのエネルギーと勇気をくれますね。だから今日お二人にお会いできでとてもうれしく思います。またいつかお会いするまでそれぞれがんぱりましょう。そして、シンプルな話を語りつづけましょう。それこそがとても大きな力を持っているのです。」
席上、「Keep Fighting」と繰り返された。自由や権利を、紙の上の文字だけのものにせず、現実の社会に実現するには、闘い続けることが必要なのだ。この映画は、その教訓に満ちている。
(2016年2月24日)
DHCと吉田嘉明は、1月28日のDHCスラップ訴訟控訴審全面敗訴判決を不服として、本日上告受理の申立をした。事件番号は平成28年(ネ受)第115号。
これで私は、もうしばらくのあいだ被告の座に留め置かれることになった。正確には、一審では「被告」と呼ばれ、控訴審では「被控訴人」となり、本日以降は上告受理申立事件の「相手方」となった。言わば、フルコースの「お・も・て・な・し」である。
来週早々に、高裁第2民事部が上告受理申立通知書を当事者(申立人・DHC吉田、相手方・私)の双方に発送し、申立人がその通知を受領した日から50日以内に、上告受理申立理由書を提出することになる。この上告受理申立理由を徹底して吟味し完膚なきまでに反論しようと思う。スラップ訴訟の典型となった本件で、スラップ常習のDHC・吉田を叩いておくことが、スラップ蔓延を防止するために有効だからである。
ところで、民事訴訟での控訴審判決に不服があって最高裁に上訴するには「上告の提起」と、「上告受理の申立」の2方法がある。両者を併せて提起することが可能で、実務ではその例が多いが、DHC・吉田は上告はせず、上告受理の申立だけであった。
上告の提起が本則だが、厳格に限定された上告理由がないと「上告の提起」はできない。上告理由の原則は、「判決に憲法の解釈の誤りがあること、その他憲法の違反があること」である。つまり、最高裁での上告審は、憲法解釈の統一をはかることを主要な任務としている。
その他の上告理由としては、口頭弁論の公開の規定に違反したこと、判決に関与することができない裁判官が判決に関与したこと、判決に理由を付せず又は理由に食違いがあること、訴訟代理人が訴訟行為をするのに必要な授権を欠いたこと、等々の重要な手続違法が並ぶ。
控訴審判決に憲法違反があるとの指摘ができなければ上告できないことになるが、上告ができない場合にも、「上告受理の申立」をすることができる。上告受理申立事件のうち、判例違反やその他の法令の解釈に関する重要な事項を含むと認められる事件について、最高裁は上告審として事件を受理することができることになる。上告事件として受理するという決定があれば「上告があったものとみなされ」て、最高裁が上告審として受理した後は、基本的に通常の上告と同様に扱われるという構造になっている。
「上告受理の申立」がされた事件について、最高裁判所が受理するかどうかは、まったくの裁量に委ねられている。圧倒的に多くの事件は、ある日突然の「上告受理申立不受理決定通知」が舞い込んで事件は終了する。通知書に不受理の具体的な理由は書いていない。定型の三行半が書き込んであるだけ。
どのくらいの事件について、上告ないし上告受理申立がなされるか。最高裁の2010年の統計が公表されている。
上告事件の上訴率(控訴審判決に対する上訴件数の割合) 25.2%
上告受理申立事件申立率(同上上告受理申立件数の割合) 27.2%
なお、前述のとおり、以上の件数には相当数の重複がある。
では、上告受理申立事件にどれほどの成算が見込まれるか。
最高裁の公表しているところでは、2010年の全上告受理申立件数は、2247件。その内、不受理決定で終わるものが2166件。実に96.4%に及ぶ。
受理されて判決に至るものが55件だが、うち12件は棄却の判決。2247件のうち、原判決(控訴審判決)破棄の逆転に至るものは43件、率にして1.9%に過ぎない。
なお、2014年度の上告・上告受理申立両事件の合計事件数は5879件。その内、破棄判決は45件(上告10件、上告受理35件)と報告されているので、併せた破棄率は0.77%となる。DHC・吉田の上告受理申立が上告として受理され、破棄判決に至る可能性は絶無ではないが、きわめて狭き門と言わねばならない。
以上は統計からの推測だが、具体的な内容を見れば、破棄判決に至る可能性はさらに厳しい。DHC・吉田としては、最高裁判例違反を申立理由として掲記する以外にはないのだが、「ロス疑惑夕刊フジ事件」と「朝日新聞事件」の各判決を引用した主張をして一審で一顧だにされず、控訴審でも同じことを繰り返して同様に一蹴されている。東京地裁の判決も東京高裁の判決も、DHC・吉田が引用した判決を百も承知で、「事案が違う。本件に参考とするに適切ではない」としているのだ。最高裁で、この判断が変わるはずもない。私は、法廷で「控訴人(DHC・吉田)のこのような判決の引用のしかたは児戯に等しい」と言った。
DHC・吉田が、何らかの成算あって上告受理申立に及んだとはとうてい考えがたい。むしろ、DHC・吉田が2度の敗訴に懲りることなく敢えてした本日の上告受理申立は、3度目の恥の上塗りとなる公算が限りなく高い。それでもなお、3度目の恥を覚悟で、上告受理申立に踏み切ったのは、少しでも長くいやがらせを続けて、スラップの効果を大きくしようとの意図によるものと判断せざるを得ない。
スラップとは、民事訴訟を手段として、自分を批判する者を威嚇し恫喝し嫌がらせして、言論の萎縮を狙うものである。直接の標的とされた者だけでなく、社会全体に「DHCや吉田嘉明を批判すると面倒なことになるぞ」と威嚇し、批判の言論を封殺しようというものである。だから、標的とした相手に可能な限り大きな負担をかけることが目的となる。スラップ側は、「勝訴できればそれに越したことはないが、敗訴したところで、少しでも長く相手に財政的心理的負担をかけ続けることができれば、威嚇・恫喝・嫌がらせの効果としては十分」という基本戦略を持つことになる。
そんな卑劣な相手に負けてはおられない。もう少しの辛抱だ。もうしばらく、我慢をしよう。自分にそう言い聞かせている。今度こそ、確定的な勝訴が間近に見えているのだから。
(2016年2月12日)
先週の木曜日、1月28日にDHCスラップ訴訟控訴審の判決が言い渡されて本日でちょうど1週間が経過した。上告ないし上告受理申立期間は本来は来週の木曜日、2月11日までだが、この最終日が休日(「建国記念の日」)なので、2月12日(金)となる。DHC・吉田嘉明は、おそらく期限ぎりぎりまで考え続けるのだろう。
上告も上告受理申立も、これが受理され審理されるのはきわめて制限された狭い門である。本件の場合も、この高いハードルを乗り越えての逆転など万に一つの目もない。そのことは、一審・二審と完全な敗訴を続けたDHC・吉田側もよく分かっているはず。いや、最初から勝訴の見通しなど持っていなかったというべきなのだろう。勝訴の見通しなくても、提訴自体の言論封殺効果をねらっての典型的スラップ訴訟。だからこそ、威嚇として十分な非常識高額請求訴訟となったのだ。
DHC・吉田の当初の請求は2000万円だった。私が、この訴訟をスラップ訴訟として当ブログで反撃を開始した途端に、請求額は6000万円に跳ね上がった。当初は2000万円の請求金額で威嚇効果十分と考えたのが、予想外の反撃を受けてこの程度の金額では提訴の持つ威嚇効果不十分と認識したからこその請求の拡張、それもいきなりの3倍化ということなのだ。
DHCスラップ訴訟の被害者は、被告とされた私だけではない。社会の多くの人が、「DHCや吉田嘉明を批判すると、やたらと訴訟を提起されて面倒なことになる」ことを恐れてDHC・吉田に対する批判を自制している現実がある。言論の萎縮効果が蔓延しているのだ。
私は、当事者として、また弁護士という職業上の使命において、このような言論の萎縮をねらった社会悪に立ち向かわなければならない。いかに面倒であっても、逃げるわけにはいかない。飽くまで闘うのみである。
DHC・吉田の上告(受理申立)可否についての考慮の構図は、次のようなものだ。
積極方針の根拠。
「最初から覚悟していたことではあるが、こんなみっともない敗訴には腹が立つ。万に一つでも逆転の可能性があるのなら最高裁まで争ってみたい」「それだけではない。もともとが澤藤に負担をかけることを目的とした提訴だ。少しでも長く、被告の座に坐らせ、少しでも大きな財政的心理的な負担をかけようという初心にたちかえって最高裁に上訴すべきだろう」「幸い、我が方にはカネの力がある。弁護士費用なぞはいくらかかってもかまわない。上告の手数料(貼用印紙)は、わずか40万円余だという。貧乏人には高いハードルとして評判悪いが、私にはなんの負担感もない」
消極方針の根拠。
「最高裁でもほぼ確実に敗訴を重ねる公算が高い。3度めの恥の上塗りはみっともなさを天下に曝すことになる」「スラップだ、濫訴だ、不当提訴だと、また叩かれることになる」「渡辺喜美に8億円を提供したことをまた蒸し返され、結局は規制緩和を求めて裏金を渡したと世間に印象づけることになってしまう」「化粧品やサプリメントを販売している当社にとって、ダーティーな商品イメージにつながって商売に影響を及ぼすことが心配だ」「結局は、上告をやめてこのトラブルを早めに終息させた方が経営上は得策だろう」
どちらでも、よく考えてみるがよい。どちらにしても針のムシロ。自分で播いた種だ。自分で刈り取るしかない。
スラップ訴訟は、訴権を濫用して、表現の自由を萎縮させる深刻な社会悪である。スラップ訴訟の提起者には、相応の制裁があってしかるべきだ。控訴・上告に至ったスラップには、比例原則にしたがった制裁措置がなくてはならない。制裁の方法や制裁が及ぶべき範囲についてはいろいろと考えられるが、まずはその方法を考える大きなシンポジウムを開催したい。仮称「スラップ訴訟とDHC」である。
シンポジウムは2部構成とする。
第一部は、スラップ訴訟一般について。スラップの何たるか、その実態と弊害。憲法的な問題点、訴訟法的な問題点、米国のスラップ事情、どのように、スラップ防止の仕組みを構築すべきか。そしてスラップ提起者や代理人弁護士に、どのような実効性ある具体的制裁が可能か。
第二部は、もっぱらDHC問題。DHCが過去に起こしたスラップ訴訟の総ざらい。そして、DHCスラップ訴訟対澤藤事件における、上告(受理申立)理由の徹底検証を公開の場で行う。
メディアも招待して、自分の問題として考えもらうきっかけとしたい。記録を映像化し、また書籍化して、多くの人に広めたい。
先日、「バナナの逆襲」というドキュメント映画を製作したフレデリック・ゲルテン監督(スウェーデン人)と対談の機会があった。世界的な大企業であるドールフードからの「上映差止請求スラップ訴訟」との闘いを、そのままドキュメントにしたもの。このスラップ訴訟を取り下げさせた監督の述懐として、「最も効果のあった闘い方は、スウェーデンでの不買運動方針の提起だった」とのこと。
バナナとサプリメントでは商品の違いも、流通経路の違いもあるだろう。対DHC不買運動の提起が有効かどうか。どのようなやり方があり得るか。この点も大いに議論したいところ。
シンポジウムでは、上告(受理申立)から50日を期限として、上告(あるいは上告受理申立)理由書が出て来る。これを徹底して検討し叩く場にしたい。連休明け頃がこのシンポジウムの時期となるだろう。ぜひお楽しみにしたいただきたい。
(2016年2月4日)
多くの方から、一昨日(1月28日)の「DHCスラップ訴訟控訴審勝訴判決」に、祝意のご挨拶をいただいた。あらためて御礼を申し上げます。
ほとんどの方が、「当然の勝訴とは思いますが、よかったですね」「当たり前の判決ですが、おめでとう」というもの。そして、「DHCや吉田嘉明は、こんなスラップを提起した責任をどうとるつもりなのでしょうか」というご意見も。
なかに、「判決主文には訴訟費用はDHC・吉田の負担とされている。具体的には、どのくらいの金額を支払わせることが出来るのか」というありがたい問合せもあった。残念ながら、これはDHC・吉田が訴状と控訴状に貼った印紙の代金について、「澤藤からはとれません」というだけのもの。私(澤藤)には1円もはいってこないのだ。これが、スラップのスラップたる所以。スラップの標的とされたものが、その訴訟に勝訴しただけではなんの見返りもない。弁護士費用も、応訴の時間消費も、その間の減収の補償もない。そこが、スラップを起こす者の付け目でもある。
もっとも、「こんなことをする、DHCの製品は決して購入しません」という声もあった。これは嬉しいことだし、本質を衝いた問題提起でもあると思う。
弁護士は別として、DHC・吉田の私に対する訴訟によって、「スラップ」「スラップ訴訟」という言葉を初めて知ったという方が、ほとんどのようだ。「スラップ」の陰湿でダーティーなイメージと、こんな提訴をする企業や経営者への社会的評価の低下は避けがたい。大きな規模でDHCの化粧品やサプリメントの商品イメージの低下にまでつながれば、再度のスラップの抑止効果を期待出来るところ。
「スラップに成功体験をさせてはならない」だけではなく、スラップ提起者への法的、社会的な制裁が必要である。そのために、まずは「スラップ」「スラップ訴訟」の実態と、社会的被害を世に知らしめなければならない。
そのような試みは、着実に始まっている。たとえば、本日発売の『消費者法ニュース』が「スラップ訴訟(恫喝訴訟・いやがらせ訴訟)」の特集を組んでいる。
『消費者法ニュース』は季刊誌である。消費者問題に携わる研究者・弁護士・司法書士・消費生活相談員・消費生活コンサルタント・市民活動家・消費者被害者らが寄稿して支えている。
2015年10月発行の前号(105号)の概要をご覧いただけば、その充実振りがご理解いただけよう。
特集1:不招請勧誘規制(Do Not Call制度、Do Not Knock制度)
特集2:公益通報者保護法の改正
シリーズ1:消費者庁・消費者委員会・国民生活センター・地方消費者行政、以下15の各テーマについてのシリーズが連載されている。続いて、学者の目、相談員の目、Q&A、判例・和解速報、国民生活センター情報、政府・政党・国会議員の声、消費者運動の歴史、判決全文紹介…とならぶ。
さて、本日(1月30日)発売の106号は、スラップ訴訟について30頁を超す盛りだくさんの特集。下記9本の論稿が並んでいる。もちろん、私も執筆者のひとり。
1 「スラップ概論」 弁護士(福岡)青木歳男
2 「伊那太陽光発電スラップ訴訟」 弁護士(長野)木嶋日出夫
3 「スラップに成功体験をさせてはならない─DHCスラップ訴訟の当事者として─」 弁護士(東京)澤藤統一郎
4 「ホームオブハート事件─ 消費者被害者に対する加害者側によるSLAPP事例─」MASAYA・MARTHこと倉渕グループ問題を考える会代表・山本ゆかり
5 「第一商品株式会社からの不当訴訟について」 弁護士(東京)荒井哲朗
6 「スラップ訴訟と名誉毀損の法理について」 弁護士(東京)飯田正剛
7 「カルト問題とスラップ」 やや日刊カルト新聞主筆・鈴木エイト
8 「スラップとメディア」 フリージャーナリスト・藤倉善郎
9 「アメリカにおける『戦略に基づく公的参加封じ込め訴訟』(SLAPP)」 創価大学法科大学院教授・藤田尚則
スラップに深く関心を持っている、当事者・弁護士・ジャーナリスト、そして研究者の深刻な問題提起と貴重な提言が持ち寄られている。消費者問題の切り口を主とする特集で、必ずしもスラップ全体をカバーするものではないが、これからスラップを語る出発点としての貴重な基本文献となっている。ようやくにして、スラップは人々の口の端に上るようになり、スラップの提起は唾棄すべき愚行であるとの社会通念が着実に形成されつつあると実感する。
スラップはさまざまに定義されているが、私は、「強者の側からの民事訴訟の濫訴を手段とした、表現の自由や市民活動の自由に対する侵害の試み」と考えている。弁護士費用・訴訟費用の負担を厭わない公権力や経済的強者の側の武器として、極めて有効なのだ。表現の自由・市民活動の自由に、重大な脅威をもたらし、我が国の民主主義を変容させかねない。
司法本来の主たる役割は、法がなければ守られない社会的弱者の権利救済にある。しかし、スラップは、その正反対の望ましからぬ役割に利用された提訴である。しかも、強者が弱者を提訴するそのことだけで、大半の目的を達する。被告とされた本人だけではなく、被告以外の多くの者、つまりは社会に対する表現や行動の萎縮効果をもたらすからである。スラップを默過し放置することは、司法の悪用を認めることにほかならない。
巻頭論文となった、青木歳男「スラップ概論」の中に「便利でお得なスラップ」という一節がある。これが、「スラップの社会学」であり、「スラップの費用対効果」である。だから、スラップがはびこり、スラップが根絶されないのだ。
(1)組織力と財力に優れた大規模な組織から訴訟を提起されるという事態は、一個人からすれば経済的・心理的に大きな負担であり、確実に被告への過大な負担を与えることが可能となる。
(2)被告の周囲の者に対しても、提訴の可能性を示唆することができ、被告への協力を躊躇させることができ、反対運動のような場合であれば反対運動自体を抑制することが出来る。
(3)加えて、他の言論機関に対しても名誉毀損訴訟の可能性を示唆することができ、メディア全般への牽制にもなる。
(4)スラップを防ぐ手立てがなく、一度被告とされると、原告が納得するまで訴訟に付き合わなければならない(米国の反スラップ法では予備審にて却下という救済制度があることと対照的である)。
(5)提訴は合法な行為であり、表面上それ自体非難されるものでない。反訴により違法性を認定されなければ不当性を指摘されることは少ない。
(6)特に名誉毀損訴訟での提訴の場合、日本の判断基準は曖昧であるから、不当であるかどうか名誉毀損が成立するかどうか(考え方としては名誉毀損が成立してもスラップと考える場合もあるが)ハッキリしないので、不当だと批判されにくい。
(7)多くの被告は訴訟の長期化を避けるため(負担が増えるため)反訴提起は起こりにくいし、反訴において不当訴訟として認定されるための要件は大変厳格である。
(8)スラップを提起したことが広く社会に知られた場合、原告が社会的非難を受ける危険性はあるが、スラップが報道される例は多くない。
(9)原告は、社会的評価を低下させる表現を見つけて訴訟を弁護士に委任すればよく、その費用は大規模組織のメディア対策費とすれば極めて低廉である。不当訴訟と認容を受けても賠償額は弁護士1名分程度の費用が上積みされたに過ぎない(幸福の科学事件判決の認容額は100万円、武富士事件の認容額は120万円、伊那太陽光発電スラップ訴訟は50万円)。
(10)現実に言論の萎縮が生じており、大変効果的な手段であると考えられる。
オウム真理教は江川昭子さんを訴え、幸福の科学は山口廣さんを訴え、DHC・吉田は係争中の労組員や私を含む批判者多数を訴えた。提訴側は、スラップに敗訴したところで何の失うものもない。負けてもともと、やり得なのだ。負けても得るものがある。スラップ常連者は、自らを厄介な存在と社会に認識させることで、自らに対する社会からの批判の言論をブロックできるのだ。
スラップ提起によるイメージの悪化が、客離れや自然発生的なボイコットあるいは不買運動などによって、スラップ提起者に経済的な打撃が生じる状況が生じれば、抑止的な効果を期待することが出来る。しかし、そのことは常に期待できることではないし、スラップの主体が、顧客を抱えているとも限らない。何らかの法的あるいは制度的な制裁の仕組みが必要である。
この点については、カリフォルニア州の「反スラップ法」が典型として参考になる。「消費者法ニュース」の藤田尚則論文は、大要次のように紹介している。
「同法は、SLAPPの標的(被告)を訴訟から早期に解放するための手続を定め、『裁判所が、原告は請求において勝訴する蓋然性があることを立証したものと決定しない限り、特別の削除申立てに服さなければならない。』と規定し、特別の削除申立ては『原告の訴状の送達から60日以内に提起することができるものとし、又は裁判所の裁量で当該裁判所が適切と決定するその後の適切な時期に提起することができるものとする。申立ては、裁判所書記官によって申立ての送達後30日以内に裁判所の未決訴訟事件表の状況が後の審尋を要求しない限り審尋に付されるよう訴訟日程表に登載されなければならない。』と規定している。更に同法は、ディスカバリー(日本法にはない証拠開示手続)による負担から被告を保護するため、訴訟における全てのディスカバリー手続は…申立ての通知の提出まで停止される。…そのうえ被告の経済的負担軽減のために『特別の削除申立てに勝訴した被告は、彼又は彼女の弁護士費用及び訴訟費用を回収する権利を付与される。』と規定している。」
さらに、「ワシントン州反SLAPP法」がスラップ被害者の救済を強化したものとして、次のように紹介されている。
「原告が明白且つ確信を抱かせるに足る証拠に基づいて申立てに成功し得る蓋然性を立証できなかった場合、裁判所は『訴訟費用及び相当の弁護士費用を含まない10,000ドル』の支払いを原告に命じ、『裁判所が応答当事者〔原告〕の行為及び同様の立場に置かれた他者によるそれに匹敵した行為の反復を抑止するに必要と決定した、応答当事者及び当該当事者の弁護士又は法律事務所に対する制裁を含む付加的救済』を命ずると規定している」
このような立法例を参考にして、我が国の「反スラップ法」「民事訴訟におけるスラップ抑制制度」を創設したいものと思う。
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(2016年1月30日)